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The Pop Group『CITIZEN ZOMBIE』.jpg

 ポスト・パンクを代表するバンド、ザ・ポップ・グループが35年ぶりのオリジナル・アルバム『Citizen Zombie』をリリースする。このニュースだけでも多くの人に驚きをあたえたのは言うまでもないが、そのアルバムをプロデュースしたのがポール・エプワースというニュースにも驚かされた。


 ポールといえば、アデル、U2、 コールドプレイとも仕事をしている大物プロデューサー。そんなポールを語るうえで欠かせないのが、2000年代に起こったポスト・パンク再評価のブームだろう。このブームはザ・ラプチャー、ブロック・パーティー、マキシモ・パーク、ザ・レイクス、フューチャー・ヘッズなど多くの良質なバンドを輩出したが、これらのすべてをポールはプロデュースしている。さらに自らもフォンズ名義で興味深いリミックスを発表することで、ポスト・パンク再評価の盛りあがりに一役買っていた。いわば、ポールのプロデュースでザ・ポップ・グループがニュー・アルバムを完成させたということは、オリジナル・ポスト・パンク世代によるポスト・パンク再評価以降の更新がおこなわれているということ。こうした邂逅も、『Citizen Zombie』の面白さだ。


 さて、その邂逅によって生まれた音は、端的に言うと洗練されている。もちろん、マーク・スチュアートの叫びに近いヴォーカル・スタイルや、メッセージ性が強い歌詞は健在だ。ダブ、ファンク、パンク、カリプソなどをドロドロになるまで撹拌させたアクの強いサウンドスケープも、ザ・ポップ・グループのファンにとってはお馴染みだろう。しかし、ひとつひとつの音を丁寧に聴いてみると、そのすべてが絶妙なバランス感覚のうえで成り立っているのがわかるはず。『Y』や『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』の頃みたいに、ただ全力で音を鳴らすだけでなく、バンド全体のアンサンブルに対する意識が強い。そういった意味で、現在のザ・ポップ・グループは、かつての破壊的なサウンドを鳴らしていないとも言える。この点をどう評価するかによって、『Citizen Zombie』に対する態度が変わってくると思う。


 とはいえ、筆者からひとつ言わせてもらえれば、メンバー全員がキャリアを積み重ねてきたなかで、それなりに熟成していくのは避けられないことだ。若いフリをする年寄りたちを見てカッコいいと思うだろうか? 筆者はそう思わない。しかし、だからこそ筆者にとって『Citizen Zombie』は、とても正直なアルバムに聞こえる。このアルバムでザ・ポップ・グループは、〝今のザ・ポップ・グループ〟を披露しているからだ。


 大人にならなければ生みだせない音は、確かに存在する。そういった味わい深さを示してくれるのが『Citizen Zombie』という作品だ。



(近藤真弥)

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左右『スカムレフト スカムライト』.jpg

 聴き手に最短距離で届く言葉を持つポップ・ミュージックは、言葉だけが突出してるわけではない。どれだけ鋭い言葉があっても、それを聴き手に届けるためのリズムや音像が疎かでは、言葉は宝の持ち腐れとなってしまう。言ってみれば、F1カーのエンジンを軽自動車に積んでもチグハグして機能しないのと同じ。言葉、リズム、音像がそれぞれガッチリ噛みあわなければ、聴き手の心に残る音楽は生まれない。もちろん、噛みあわせ方は人それぞれだ。そして、このそれぞれによって生じるのが〝音楽性〟という名の個性である。なんてことは、偉そうに書くほどのことではないのかもしれないが...。


 しかし、あらためてそう強く思わせてくれるのが、『スカムライト スカムレフト』というアルバムなのだ。本作を作りあげた左右(さゆう)は、花池洋輝(ヴォーカル/ベース/ドラム)と桑原美穂(ヴォーカル/ギター)による2ピースバンド。2010年に結成され、横浜を拠点に活動している。2012年に「左右-EP」をリリースしており、本作がファースト・アルバムとなる。


 そんな左右の音楽は、ヒリヒリとした緊張感を漂わせるミニマルなサウンドが持ち味。花池がドラムとベースを同時に演奏するなど、形態は変わってるかもしれないが、サウンドにはそこらのバンドなんかでは生みだせない凄みが宿っている。左右を初めて聴いたときに想起したのは、70年代後半から80年代前半にかけてのポスト・パンクとノー・ウェイヴ。バンドでいうと、ギャング・オブ・フォー、オー・ペアーズ、ザ・ポップ・グループ、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズなどなど。ただ、ギャング・オブ・フォーやオー・ペアーズなどが得意とする、性急な4つ打ちを前面に出しているわけではない。グルーヴも直線的ではなく、間を活かした変則的なものだ。それでも、桑原の鋭利で金属的なギター・サウンドは、ギャング・オブ・フォーの中心人物、アンディー・ギルのギター・サウンドを連想させる。


 そうした要素は本作でも健在だが、アルバムとして左右の音楽を聴いてみると、新たな発見もいくつかあった。まず、ギター、ベース、ドラムといった音のリズムと歌詞のリズムが密接に関係しているということ。それは「簡単なことだろ」「なくならない」などで顕著に表れているが、左右は音のリズムと歌詞のリズムをシンクロさせることに意識的なのかもしれない。言うなれば、すべてがリズム・パートと解釈できる曲で本作はほぼ占められている。こうした聴体験は、『Whatever People Say I Am, That's What I'm Not』期のアークティック・モンキーズや、ザ・ラプチャーを聴いたときのものに近い。


 もうひとつは、歌詞にさまざまな解釈を受け入れる懐の深さがあるということ。たとえば「平和なのか」は、他愛のない日常的風景に隠された闇を浮き彫りにするような歌詞である。この歌は、ユーモアという名のフィルターを通した焦燥が目立つ他の曲群とは違い、淡々と言葉を紡ぐ独白的なものに仕上がっている。もしくは、現実に疑問を抱いた者の自問自答と言っていいかもしれない。だが、この自問自答はその実、聴き手のあなたにも当てはまるものだ。なぜかといえば、「平和なのか」の冒頭で歌われる日常的風景は、歌に出てくる〝俺〟だけではなく、あなたも普段よく見ている風景だからだ。それこそ、〈普通の街の風景〉(「平和なのか」)。


 左右というバンド名、それからアルバム・タイトルの『スカムレフト スカムライト』から、一種の〝政治的〟な匂いを嗅ぎとることも可能だろう。〝どちらでもない〟という選択肢を許さない風潮が広まっている現在の日本をふまえれば尚更。とはいえ、こうした推測に対するハッキリとした〝答え〟を本作は示していない。〈壊れたフリしてうたった歌の味はすぐになくなった〉(「なくならない」)、〈俺はそういうことをされるのが嫌だからいますぐやめてくれ〉(「やめてくれ」)など、断定的な言いまわしが多く見られるものの、あくまで裁量権は聴き手に委ねられている。いわば本作の言葉は、言い切ってるが言い切ってないというアンビヴァレントな言語感覚を獲得している。この言語感覚と類似する作品を強いて挙げれば、坂本慎太郎『ナマで踊ろう』と、オウガ・ユー・アスホール『ペーパークラフト』になるだろうか。


 ただひとつ、本作について確実に言えるのは、本作に込められた音や言葉が〝今〟と〝その先〟を見せてくれるということだけだ。



(近藤真弥)

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WILCO_Whats_Your_20_J.jpg

 さてウィルコ。いつのまにか「『このバンドを聴いてる』と言えば誰にもディスられないどころか、語りかける対象が同時代ポップ・ミュージックについて詳しければ詳しいほど『おっ、わかってるじゃん(笑)?』と言われるような存在」になってしまった。まあ「そういうバンドに対して、いいね!と言う」なんて行為はむしろ嫌いなんだけど(汗&笑)、バンドの音楽性やらメンバーたちにはなんの罪もないわけで......。


 正直言って、90年代なかばにデビューしたころから「最高に好き!」というわけじゃないにしても、常に二番手三番手的に愛聴してきたバンドだった。


 最初のころは、サン・ヴォルトらとともに、グランジ・ブーム全盛のアメリカで素敵なカントリー・オルタナティヴ・ロックをやってるいいバンドのひとつと目されていた。なかでも、ポップでキャッチーなメロディー作りの才能がずばぬけている...ようで、ジェイホークスあたりには負けてる......みたいな(笑)。


 90年代後半、ジム・オルークの力をかりて音楽的によりオルタナティヴな方向に傾くとともに、大昔はいわゆるクラシック/電子音楽のレーベルだったノンサッチに移籍、さらに00年代後半、ニュー・ジーランドの元スプリット・エンズ/クラウデッド・ハウス/セブン・ワールズ・コライドらとも深くからみつつ「ごつごつしたポップ性」を強調したこともあった。


 そのどれもが「さすが!」としか言いようのない動きだっただけに、最初に言ったような印象を強めた、ってことかな。


 これは、そんな彼らの20年以上におよぶキャリアを総括した(日本盤通常盤は2枚組という大ヴォリュームの)ベスト・アルバム。あらためて聴いた。そしたら、やっぱ、いいわ! こうやってまとめると、さらに聴きごたえが増す。超満腹!


 ビリー・ブラッグと組んで古いアメリカン・フォーク系音楽をカヴァーした企画盤2枚も含み、きれいに発表順に並んでる。こういう構成のベスト盤って、大昔は普通だったけど、(最初は新鮮だった)リリース時期を無視した並びのベストがむしろ最近は増えただけに、逆に新鮮であり「リッピングして発表年などを自分で入れこむ」作業も、やりやすくて、実にありがたい(笑)。


 こういうふうに「音楽マニアにとって、かゆいところに手が届く感じ」だから(以下略)。


 それはそれとして、あらためて聴いて感じたのは、先述した彼らの「音楽性の動き」が、当時感じた以上に自然な流れだってこと。彼らの音楽性は、常に幅広いものだった。ある一方向に強く傾いていないから、「押し」は強くない。


 ねじれてるけど、上品?


 いや、そうでもない。「わかりづらい」けど、ちゃんと「極めて素直に言いたいことは言ってる」感じ。ウィルコの音楽って、やっぱ理想的な汎米的同時代ポップ・ミュージックだよ、と思いつつ、その分「Impossible Germany」なんて曲もあることが、あらためて気になったり...。


《Impossible Germany / Unlikely Japan / Wherever you go / Wherever you land / I'll say what this means to me / I'll do what I can》

《ドイツ人ってのは無理...違うし / 日本って感じでもない / どこへ行っても / どこに着地しても / こんなふうに自分にとって意味のある / 自分にわかることを言う......できることをするだけ》


 ね、アメリカ人っぽくない? いい意味でさ!


 そういえば...。もうすぐ? フィリップ・K・ディックの『高い城の男』が映画化されるらしい。もちろんアメリカ人であるディックが60年代初頭に描いた、いわゆる枢軸国側が勝利を収めたパラレル・ワールドのお話。でも、原作は意外と「政治的」ニュアンスは薄かった。むしろ「情けないアメリカ人の(狂った世界での)日常生活」に、おおいに共感できた。



(伊藤英嗣)

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Viet Cong『Viet Cong』.jpg

 元ウィメンのマット・フレーゲルを中心とした4人組バンド、ベト・コン。このバンド名、ピンときた方も多いと思うが、1960年に組織された南ベトナム解放民族戦線の通称を引用したものだ。となれば、ポリティカルな姿勢を打ちだしているのかと思う方もいるだろう。しかし今のところ、そうした姿勢は見られない。


 それでも、デビュー・アルバムとなる本作『Viet Cong』は、バンド名が聴き手にあたえるであろうイメージとシンクロする内容となっている。まず、オープニングを飾る「Newspaper Spoons」のイントロ。このイントロを聴くたびに、どうしても軍隊の行進をイメージしてしまうのだが、どうだろう? さらには、その名もズバリ「Death」という曲があったりと、死の匂いも振りまいている。ただ、「Death」についてはさまざまな想像ができると思う。たとえば、〝戦争〟を想起させるベト・コンというバンド名と繋げて聴いてみたりとか。あるいは、ウィメンのギタリスト、クリス・ライマーが2012年にこの世を去ったことと関連づけるとか。また、ステージ上で喧嘩したのをキッカケに解散へ至ったというウィメンの背景をふまえると、「March Of Progress」の歌詞も意味深に聞こえる。この曲は、次のようなフレーズで締められるからだ。


〈What is the difference between love and hate?(愛と憎しみの違いは何だ?)〉


 本作の歌詞は、聴き手の想像を促す言葉選びが目立つが、ベト・コンにまつわる物語を頭に入れてから触れてみると、その想像をより深いものにすることができるはずだ。


 サウンドは、70年代後半から80年代前半にかけてのポスト・パンクを連想させる。シャープなギターが印象的な「Pointless Experience」は、『Heaven Up Here』期のエコー・アンド・ザ・バニーメンを思わせるし、そもそもアルバム全体を包む雰囲気がもろバウハウスなのだ。そこに、クラウトロックの要素とサイケデリックなサウンドスケープをスパイスとして振りかけることで、本作をより魅力的な作品に仕上げている。


 そんな本作は、お世辞にも〝斬新〟な音楽性を披露しているわけではない。だが、これまでたくさんのアーティストたちが残してきた素晴らしい音楽的遺産を現在に通用する形で表現しようと試み、それを見事に成功させたという点だけでも、本作は称賛に値する。



(近藤真弥)

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RSS B0YS『HDDN』.jpg

 RSSは、ウェブサイトの更新情報をまとめ、配信するための文書フォーマットのこと。その配信された情報を受けとるためのアプリがフィードリーダー(RSSリーダー)と呼ばれるものだ...という説明は、ネットが当たりまえとなった今ではありがた迷惑かもしれない。だが、RSSボーイズと名乗るポーランドのふたり組について書くためには、必要な説明でもある。筆者からするとふたりの表現は、フィードリーダーで集めた情報を自分たちなりの文脈に変換したようなものだから。


 ユニット名が示唆しているように、ふたりの表現がネット以降を意識したものであるのは確かだ。しかし一方で、莫大な情報量に晒されるネット以降の現在においては、過激さや奇抜さだけで他人との差別化を図るのは難しいということも理解している。 だからこそふたりは、これまで発表してきた曲のほとんどに読み方が不明なタイトルをつけ、無闇な主張を避けてきた。ボイラールームに出演した際は覆面を着用し、詳しい素性も明かしていない。言うなれば、女子高生などがニコ生でヴューワー数を稼ぐために服を脱いでいく過激さと、そうした過激さとは反対に〝普通〟を標榜することで、他との差別化を試みたノームコアの中間に位置する感覚。こうしたものが、ふたりには備わってるように見える。理性と感情を上手く両立させる優れたバランス感覚と言えるものが。そう考えるとふたりは、新しいとされる情報を狂信的に追いかけるよりも、一歩引いて情報で弄ぼうとする意識が強いとも言える。


 その優れたバランス感覚は、本作『HDDN』のサウンドにも反映されている。音の抜き差しで起伏を作り上げる手法は見事なもので、実に渋い。人の歯やペニスをジャケットにフィーチャーしてきたショッキングなヴィジュアル面とは裏腹に、音の組み立て方は職人的。音楽性も、LFOなどが有名なプリープ・テクノを思わせるベースの使い方や、D.A.F.やリエゾン・ダンジェルーズを想起させるEBM的ビートなど、さまざまな要素を掛けあわせる手際の良さが目立つ。このことからも、RSSボーイズが新奇さだけを狙った凡庸なユニットではないことがわかるはずだ。


 また、ハイハットがあまり使われていないのも興味深い。それでも本作がグルーヴを生みだすことに成功しているのは、音の置き方が巧みだから。無駄を徹底的に省き、必要な音だけを鳴らしている。それゆえ本作の音像はミニマルかつドライであるが、そこがまたクセになる。以前紹介したザミルスカも含め、ポーランドのテクノ・シーンは本当に面白い。



(近藤真弥)

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NEU BALANCE『Rubber Sole』.jpg

 最近、オーストラリアのエア・マックス97(Air Max'97)というトラックメイカーにハマっている。彼の音に触れたキッカケは、ビョーク「Pluto」のエディット。その強烈なベースと破壊的なキックに筆者は一瞬でノックアウトされてしまった。そのあと、彼がロンドンのLiminal Sounds(リミナル・サウンズ)からリリースした「Progress And Memory」と「Fruit Crush」という2枚のEPも手に入れた。特にお気に入りなのは前者で、Fead To Mind(フェイド・トゥ・マインド)やNight Slugs(ナイト・スラッグス)に通じる無機質でメタリックなサウンドとジュークの性急なビートが交わる表題曲は、いまでもよく聴いている。


 そんなエア・マックス97を発見したある日、偶然にしては出来すぎなユニットも見つけてしまった。その名もズバリ、ノイ・バランス。スペルは〝新しい〟を意味するドイツ語の〝Neu〟に、英語の〝Balance〟。なんだか靴のニュー・バランス(New Balance)みたいで面白いと感じながら、彼らのツイッターアカウントを見てみると、アイコンがニュー・バランスのアウトソールで思わずクスッとしてしまった。エア・マックス97にノイ・バランス、どうやら現在のダンス・ミュージック・シーンは靴であふれているようだ。


 カナダのヴァンクーヴァーを拠点に活動するノイ・バランスは、サム・ビーチとセバスチャン・デヴィッドソンによるふたり組。1080pからリリースされた本作『Rubber Sole』がファースト・アルバムで、これまで主なリリースもなかったらしい。ゆえに本作でノイ・バランスを知ったという方も少なくないだろう。ちなみに彼らのルックスは、1080p主催のライヴ・イヴェントに出演した際の映像でチェックできるが、いわゆるオタクそのもの。ふたりとも眼鏡をかけており、たくさんのクラバーに囲まれたなかで演奏するその姿は、クラブよりベッドルームが似合う気もする。


 そのベッドルームというキーワードは、本作にも当てはまる。100%Silkに通じるラフなビートと夢見心地な音粒が光るハウス・ミュージックを基調としており、いわゆるDJがプレイしやすいフロア・トラックはほとんどない(もちろん、優れたDJはプレイできるセットリストを組みたてるのだが)。全体的にBPMも遅く、往年のダンス・ミュージック・ファンはアンビエント・ハウスなんて言葉が頭に浮かぶかもしれない。また、100%Silkに通じるという点をふまえれば、このレーベルを旗頭に巻きおこった数年前のインディー・ダンス・ブーム以降の音とも言える。ほんの少しサイケデリックで、どこか郷愁を抱かせる音。それでいて心を飛ばしてくれるグルーヴがあり、ひとりヘッドフォンをしながらニンマリしてしまう人懐っこさ。音数が少なく、それゆえひとつひとつの音がまっすぐ耳に飛び込んでくるサウンドスケープ。しかもその音がどこか煌めきを宿しているのだから、何度も聴いてしまう。そう考えると本作は、ひとつひとつの音を楽しむためのアルバムと言えるかもしれない。


 そして、多彩な音楽性もノイ・バランスの特徴だ。「Sheffie」のベース・ラインはジャズの要素を匂わせ、耳触りがよいホワイト・ノイズが印象的な「trsx moon」は、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスなどが有名なミニマル・ミュージックを想起させる。さらに桃源的なアンビエント・トラック「May B. So」は、Rainbow Pyramid周辺の新世代ニュー・エイジ・サウンドを思わせる仕上がり。このように本作は、どの文脈でも解釈できる大きな余白を備えている。あなたから見て本作はどう映るだろうか?




(近藤真弥)




【編集部注】本作はカセット・リリースです。デジタル版は1080pのバンドキャンプでダウンロードできます。

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James Murphy『Remixes Made With Tennis Data』.jpeg

 ジェームス・マーフィーは、00年代のポップ・ミュージックを語るうえで欠かせない人物のひとりである。このことに異論はないと思う。DFAの主宰者としてザ・ラプチャー『Echoes』を2003年にリリースし、ディスコ・パンク・ブームを牽引した。かと思えば、自身のバンドLCDサウンドシステムとしても、『LCD Soundsystem』『Sound Of Silver』『This Is Happening』という3枚のアルバムを残している。もちろん、いずれも1度は聴いてほしい名盤だ。


 そこに、ぜひ聴いてほしい1曲をくわえるなら、やはり2002年のシングル「Losing My Edge」だろう。〈1968年ケルンでカンのコンサートを観た〉〈1974年ニューヨークのロフトでおこなわれたスーサイドのリハーサルを観た〉など、1970年生まれのジェームスが歌うにはあまりに不自然な一節が次々と飛びだしてくるこの曲は、YouTube以降の状況、つまり音楽の細分化が進むことで、個々の音楽史が他人とかぶることが少なくなった状況の到来を予言していた。インターネットを介して、容易に過去の名ライヴや名曲にアクセスでき、個々の音楽史が築きあげられる世界。そこでは、90年代に行ったら次は30年代へ飛び、その後は2000年代に戻るといった、まるでタイム・トラベラーにでもなったかのような全能感を得られる。


 かぶることが少なくなるということは、それだけ多様になるということでもある。絶対視されてきた音楽史なり文脈の有効性は薄れ、ネット上にアーカイブされていく数々の名ライヴや名曲を浴びるように聴いたうえで鳴らされた音楽があふれる。そんな状況に突入する前夜の興奮が、「Losing My Edge」には記録されている。2002年当時に「Losing My Edge」を聴くことは、未来を見ることと同義であった。


 とはいえ、どんな未来もいずれは現在となり、過去となる。それはジェームス・マーフィーも例外ではなく、彼は2011年にLCDサウンドシステムとしての活動をストップさせた。今では、LCDサウンドシステムやDFAが提示したディスコ・パンクというスタイルも、目新しいものじゃない。それでも、ジェームス・マーフィーは今も音楽活動をおこない、DFAは良質な作品をコンスタントに発表しつづけている。ジェームスはトレンドセッターの座から降りてしまったが、筆者はトレンドセッターとしてのジェームスが好きだったわけではない。彼の鳴らすポップ・ミュージックが好きだったのだ。ポップ・カルチャーに対する愛情がたっぷり詰まった、彼のポップ・ミュージックが...。


 そろそろ想い出話を切りあげて、本作『Remixes Made With Tennis Data』について書くとしよう。本作は、ジェームス・マーフィーとコンピュータ企業のIBMがコラボレーションして制作されたアルバム。なんでも、2014年の全米オープンテニスでおこなわれた全試合のデータを特定のアルゴリズムに落としこみ、音楽にするということをジェームスとIBMはやっていたらしい。そうして生まれた音源の中から12曲を選び、リリースされたのが本作というわけだ。2013年には、2メニーDJズとデスパシオ(Despacio)なるプロジェクトを始動させているが、その次がIBMというフットワークの軽さ。自由にもほどがある。だが、ジェームスの音楽に対するモチベーションが高いことは素直に嬉しく思う。


 そんな気持ちを抱きつつ、本作に耳を傾けてみると、ほどよく肩の力が抜けた雰囲気で驚いた。アルゴリズム云々の話を聞いたときは小難しい音楽でもやってるのかと想像したが、音の抜き差しで起伏を作りあげていくミニマルなサウンドは、それこそLCDサウンドシステムを連想させる。「Match 176」なんかは特に。


 ただ、全体的には電子音の割合が多く、静謐な雰囲気が際立つ。ゆえに踊れる曲はないものの、静謐でひんやりとしたアンビエント作品として楽しめる。ビートとフレーズの反復が多いのも特徴で、微細な変化で音に味つけするその手法は、クラフトワークを彷彿させる。ひとつひとつの音が洗練され、音と戯れる無邪気な遊び心が本当に心地よい。新しい楽器や機材を手に入れて、いろいろいじってるうちにニヤけてしまう。そんなジェームスの姿が目に浮かんでくる。「Match 184」では、聴き手を酩酊にいざなうアシッディーなサウンドが展開されたりと、随所で覗かせるスパイスもグッド。


 また、ラフなマシーン・ビートと流麗なピアノ・フレーズが印象的な「Match 181」が、最近大きな注目を集める1080p周辺の新世代ハウス・ミュージックに通じる曲なのも興味深い。そういえば、去年DFAから発表されたダン・ボダン『Soft』のカセット版は、1080pがリリース元だった。もしかすると、ジェームスなりに今の潮流を解釈したのが「Match 181」なのかもしれない。こうした時代への目配せには、レーベル主宰者としての顔がうかがえる。


 トレンドセッターの座から降りたとはいえ、時代を嗅ぎとる抜群の嗅覚が衰えたわけではないようだ。ジェームス・マーフィー44歳、まだまだ健在である。



(近藤真弥)





【編集部注】『Remixes Made With Tennis Data』はIBMのサウンドクラウドからダウンロードできます。

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fourcolor.jpg

 いま、僕の手もとにひとつの音源がある。黒く、やわらかいフェルトのポーチには小さなバッヂ。そこにはアルバム・タイトル『Ballet』とアーティスト名である〝FourColor〟の文字。よく見ればカタログ・ナンバーもしっかり記されている。第一印象は「かわいい!」だった。手に取ってみたくなるデザイン、遊び心にあふれたパッケージは所有欲をくすぐる。それはレーベルやアーティストの「この音楽を楽しんでもらいたい」という気持ちの表れなんだろう。


 でも音楽って、もともとそういうもんじゃなかったっけ? いや、CDやアナログ・レコード、デジタル配信の音源が悪いってわけじゃくて、僕がいま手にしている〝カセット〟は、そんなふうに「楽しむ」気持ちを素直に表現しやすいフォーマットだということ。(ラジカセやカセット・デッキがあれば...だけれど)再生も録音もシンプル。だから、磁気テープに刻み込まれたサウンドもパッケージ・デザインもアイデア次第で自由にできる。「Do It Youreselfは、やっぱり面白い!」ってことに改めて気づいたり。ここ数年の間にまた注目され始めているカセットとの再会を、僕はこんなふうに楽しんでいる。


 僕がカセットを10数年ぶりに手にしたのは、とあるクラブ・イヴェントの物販にちょこんと置かれていた『duenn feat nyantora returns part I』『duenn feat nyantora returns part II』を見つけたことがきっかけ。それは、リリース元である福岡のカセット専門レーベル〈Duenn(ダエン)〉のメイン・アーティストであり主宰者でもあるダエンと、元スーパーカーの中村弘二がニャントラ名義でコラボしたアンビエント・アルバムだった。やわらかな電子音のはざまに聴こえるのは、浅瀬を流れる水のせせらぎや遠くへ走り去る自動車のエンジンのうなり。静かに、目の前に風景が広がってゆくような感覚が心地いい。そのサウンドのせいなのかもしれない、久しぶりにカセットを手にしたときに感じた微かなノスタルジアは消え去っていた。


 カセット・テープに封じ込められたアンビエント・ミュージック。提唱者であるブライアン・イーノの言葉にもあるとおり「聴き流してもいい音楽」と定義されたその繊細なサウンドと、一度は消滅しかけたアナログなフォーマットの組み合わせを不思議に感じたことも確か。けれども、その音楽に耳を傾けているうちに気づいたことがある。


 生活にとけ込む限られた音数のサウンド、言語の不在、そして、先に述べたとおりのカセットならではのフォーマットの自由さとは裏腹に、その音楽を鳴らすことができるのは(現在では持っている人がそう多くないはずの)再生装置が整っている場合だけという限定性。なるほど! アンビエント・ミュージックが持っているもうひとつの側面である〝ミニマリズム〟は、(流通方法も含めた)カセットというフォーマットだからこそ体現しやすいのかも。そして僕はもう一度、かわいらしいフェルトのポーチを手に取る。


 FilFla(フィルフラ)、Minamo(ミナモ)、Fonica(フォニカ)などエレクトロニカ系のユニットから映画/演劇への楽曲提供、大手企業のCM曲まで、〝多彩/多才〟という言葉がぴったりな活動を展開している杉本佳一によるFourColor(フォーカラー)名義の新作は、こうしてカセットというフォーマットでリリースされた。


 抽象的なサウンドの断片が折り重なって躍動感をも生み出す音像は、アンビエント(環境)というよりも僕たちの鼓動に似ている。それは、アルバム・タイトルである『Ballet』とも響きあうようだ。周縁と内面、優雅さと不穏さ、テクノロジーと肉体性、デジタルとアナログ。相反するイメージが静かに、スリリングに混ざりあう。そして、カセットが持つ〝限定性〟は、このアルバムを手にしたときに〝可能性〟へと変化するはず。


 「このアルバムは3万枚しか売れなかったけど、聴いた奴らはみんなバンドを始めた」。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムにまつわるそんな言葉を思い出した。そう言ったのも、またブライアン・イーノだ。事実かどうかもわからないし、ロマンティックでナイーヴすぎるけれど、音楽が持つ可能性を言いあらわしている。


 「どれだけ多く」ではなく、ひとりひとりに「どれだけ深く」届くかということ。杉本佳一が意識的に選び取ったカセットというフォーマットとFourColorとしての40分ほどのアンビエント・ミュージックには、そんな思いが込められていると思う。



(犬飼一郎)

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COET COCOEH.jpg

 ピアノと声を軸に、打ち込みやギターをそえて、最低限の音数でシンプルにまとめられた本作は、高島匡未(タカシマ マサミ)という女性のソロ・プロジェクトだ。ヤング・マーブル・ジャイアンツを連想させるチープなリズム・マシーンのようなシンセ音から始まる「美しきコラージュ」をはじめ、80年代ニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクの香りが全編に漂う。それは単なる焼きなおしではない。90年代以降の日本のポップス、オルタナティヴ・ロックを通過した感性で再構築されている。タイトル通り、繊細なガラス細工のコラージュのように、彼女の人生を彩る音の記憶を切り貼りしていく。


 タイトルからスーパーカーを思い出させる「SODACREAM」は、ピアノのループと打ち込みによるベース音が絡み、まるでらせん階段を上昇、あるいは下降していくような錯覚を与える。インスト曲「WHISPER」では、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインOnly Shallow」を連想させる轟音のなかに、あるはずのない囁き声を聞く。同じくインストの「ルーリードに花束を」は、タイトル通り、ルー・リードの「Vicious」を髣髴とさせるギター・リフに、教会の賛美歌のようなメロディーが重なり、まるでルーの魂を祝福し包み込むように広がっていく。


 また、元々ファッション・ショーのサウンドトラックとして作られたという本作は、聴きやすい一方、男性の私には近づきがたい雰囲気もある。女性だけの世界、もっといえば彼女の部屋、あるいはプライベートを覗き見したような気分にさせられる。それは香水さえ漂ってくるようなフィジカルな感覚だ。終盤に収録された、はかないピアノの響きが印象的なバラード「ガラスのガール」では、少女の乗るメリーゴーラウンドについて歌われている。小さな闇を抱えた彼女が乗る馬は戦いのペガサスだという。そこで私は、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を思い出した。ホールデン君が最愛の妹フィービーを回転木馬に乗せて見守る終盤のシーンを。そして、はたと気づいた。ひょっとしたら、本作にちりばめられたノイジーな擬似バンド・サウンドは、少女たちのイノセンスを守るための鎧なのではないか、と。どんな女性にも(そして男性にもアニマという形で)永遠の少女が息づいている。それは象徴的な意味で守られるべきなのだ。


 この作品は、ファッション・ショーというきらびやかな場のためという建前で作られている。しかし同時に、あらゆる少女たちにささげる、自らの闇と戦い生き残るための物語なのかもしれない。美を競うファッション・ショーは一見華やかだが、彼女たちがいずれ放り込まれる過酷な現実世界の縮図でもあるのだから。



(森豊和)



【筆者注】GLASS COLLAGE』はライヴ会場、通販限定です。通販先は公式サイトに順次追加されます。

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Satomimagae.jpg

 深みのある色あせたアコースティック・ギターの音が耳に流れこむと、すぐさま《小さな守り神が 白と赤の旗を振って こっちを見ている》と紡がれる。これは、Satomimagae(サトミマガエ)による『Koko』の1曲目、「Mikkai(密会)」の冒頭である。この冒頭を聴いた瞬間、筆者は『Koko』に魅了されてしまった。


 Satomimagaeは、都内で数多くのライヴをこなしてきた女性シンガーソングライター。本作はセカンド・アルバムにあたり、ファースト・アルバムは2012年発表の『awa』。それから、2012年に公開された映画『耳をかく女』でも音楽を担当したりと、幅広い活動をおこなっている。弾き語りが中心にある彼女の音楽をジャンル名で表せば、アシッド・フォークということになるだろうか。しかし、フィールド・レコーディングも用いることを考えると、ミュージック・コンクレートの文脈を汲んだ音楽とも捉えられる。シンプルに聞こえる彼女の音楽だが、注意深く耳を傾けると、実に多くの要素で彩られているのがわかるはず。


 といったところで、本作に話を戻そう。本作での彼女は、呟きすれすれの繊細な歌声を響かせている。押しつけがましい熱さであったり、今にも聴き手に掴みかかりそうな激しさはない。それでも彼女の歌声は、聴き手の興味を否応にも引きつける。同時に凛とした佇まいを脳裏によぎらせ、がなるだけのマッチョなバンドもどきよりも力強く見える。くわえて、妖艶。阿部芙蓉美(アベフユミ)や森田童子を想起させる、どこか孤独な雰囲気も魅力的。


 歌詞のほうも、幻想と現実の境目が曖昧な風景を描いていて面白い。「Ishikoro(石ころ)」は少し殺伐とした空気を漂わせるが、アルバム全体としては母性的な温かさを垣間見せるのが興味深い。これはおそらく、本作における彼女の歌い方が、母親が子供に童話を読み聞かせるときのテンポに近いからだ。ひとつひとつの言葉を丁寧に発し、まるで大事な我が子に言葉を刻みつけるかのように。それゆえ、淡々としているように聞こえるその歌声には、彼女の豊かな感情表現を見いだせる。


 また、ミックスとマスタリングをドローン/ アンビエント作家のChihei Hatakeyama(畠山地平)にまかせた影響か、本作は優れたアンビエント・アルバムとしても楽しむことができる。彼女の歌声は、聴き手のほうから歩み寄ることを求める受動性が色濃いゆえ、その歌声に傾ける意識を薄くすると、何かしらの風景を彩る一要素に変身してしまう。川の流れる音だったり、風が吹く音、あるいは風鈴が鳴る音と一緒の自然的なものに近づく。Satomimagaeという記号を捨て去り、〝誰かの歌声〟になるというか、さながら残留思念に触れてるような気分。


 とにかく、非常に面白い聴体験が待っている。




(近藤真弥)