reviews

retweet

佐伯誠之助.jpg  前にクッキーシーンでも紹介した「Ingo Beats Vol.1」に収録されている楽曲のリミックス集が、『Ingo Beats Vol.1 Remixies!!!』という形でリリースされた。参加アーティストは総勢60名以上という大ヴォリュームになっていて、オリジナルからより多くのちんぽが生み出されている。

 このレビューを書くにあたって当然ながら全収録楽曲を聴いているわけだが、よくも被らずここまでみんな個性を発揮できるなと心底感心するとともに、才能豊かなアーティストがこんなにもいるのかと驚愕させられてしまった。そのなかでも特に惹かれた曲について書いていくと、まずは909 Stateによる「珍宝的 ~シーズン1~ The Chimpo -Season1-」のリミックス。909 Stateはアシッド・サウンドを得意とするアーティストで、今回のリミックスでも強烈なアシッド・ハウスならぬアシッド・チンポを鳴らしている。「チンポ」と連呼するヴォイス・サンプルを上手く乗せた非常に面白いトラックとなっているが、僕が聴いた限りPhuture「Acid Trax」とHardfloorを掛け合わせたような音になっていると思うのだがどうだろうか? そして石井モタコだ。この人も「珍宝的 ~シーズン1~ The Chimpo -Season1-」をリミックスしているけど、僕のような凡人には理解できないまさに"孤高"という言葉が相応しいものに仕上げている。他にもThe Prodigy「Voodoo People」のPendulum Remixとちんぽをマッシュアップしたおもしろ三国志、日本のジューク・シーン発展に多大な貢献をしているD.J.Fulltonoによるぶっ飛んだジューク・リミックス、さらにはTofubeatsの美しい下ネタリミックス。この優雅な卑猥さに敵う曲といったら、Lil Louis「French Kiss」ぐらいかもしれない。

 しかし、ここまで素晴らしいリミキサー陣が束になっても、まったく霞むことがない楽曲を生み出す佐伯誠之助ってなんなんでしょうね? ほんと、すごい人だと思います。

(近藤真弥)

追記: 本作はVol.4のホームページからダウンロードできる。

retweet

THE DRUMS.jpg  彼らのファーストの冒頭を飾っていた「Best Friend」は死んだ友達をずっと待ち続けている、という切実な歌詞を躁状態のサウンドに乗せた傑作だったが、今作も決してただダウナーに陥ることなく、だが音の雰囲気はガラリと変わって、ファーストを昼から夕方にかけてのアルバムとするならば、今作は夜のアルバムだと言えるかもしれない。「Money」のPVの、あの薄暗いトーンとメンバーの「爆発してしまう寸前」のようなテンションが、まさに今作を象徴している。そしてその「Money」は彼らのソングリストのなかでも屈指の名作だ。《おれは君のため・ノ何か買ってあげたいけれど、そんなお金はどこにもない。車を持っていたらそれを売っても良いし、銃を持っていたらそれを売っても良い。だけど、おれは何も持っていない。死ぬまでに君に何かしてあげたい》。せわしなく動くギターとベースのフレーズがこのリリックにぴったり寄り添っていて、情けなくもユーモラスである。これを日本の汗臭い青春バンドにやられたら台無しなんだけどね、彼らはこういうの、ほんとうにうまくやるよね。

 だけど今作のベスト・トラックは別にある。その曲は「I Don't Know How To Love」というタイトルで、《3カ月前まで君の髪を触ることができたのに、いまはそれをしても君を混乱させるだけだ》《君はおれを愛する方法が分からない、ただ自分の人生が分からない、と言う》《なぜもっとおれを愛してくれないんだ》と歌われている。そしてリリックに登場する主人公が感じているであろうもどかしさをもっとも完璧に表現しているパートは、コーラスとコーラスのあいだに入る間奏部分にある。このシンプルで美しいギターの旋律はそれ自体が「なんで?なんで?」という感情の堂々巡りのように聴こえてくる。そしてこのあとに電子音のみをバックに《いま、僕たちは天国を求めているんだ》というフレーズが繰り返される「Searching For Heaven」が続く。とても良い流れだ。

 ドラムスのセカンド・アルバムはファーストの何倍も素晴らしい。真夜中の海に潜って海底に非現実的な光景を目にした時のような、夢心地を味わうことができるアルバムだ。ほぼ「Let's Go Surfing」1曲で次世代の窮児ともてはやされ、ファッション・アイコンとしても一目置かれるような存在になり(スキニーにホワイトの靴下にスニーカー。うむ、完璧だ)、彼らにはお決まりのプレッシャーが襲いかかってきた。メンバーを1人失い、危うくバンドも失うところだったが、思ったよりも早く精神的復帰を果たし、ニューウェイヴの香りがとくに強く残っている曲たちを集めたアルバムを完成させた。今作は現実に打ちのめされた悲しさもそこかしこに散らばっているアルバムではあるけれど、あくまで飄々として、ときどき笑ってしまうくらいハイテンションな彼らが2010年代の新たなヒーローだ。

(長畑宏明)

 


 

retweet

sacoyan.jpg  まず《同窓会》というレーベルについて簡単に説明すると、《同窓会》は2011年9月11日の5作同時リリースを皮切りにスタートしたネットレーベルで、公式HPに掲載されている主宰者のコメントを引用すれば、「オルタナティブ・ポップミュージックをインターネットで拡散していくことを目的としたネットレーベル」だそうだ。クッキーシーンにおけるTropicsのレビューでも触れたけど、何かを対象としたカウンター・カルチャーが成立しづらくなった現在において"オルタナティブ・ポップミュージック"と銘打つのはとても興味深いし、むやみやたらとナード音楽を持ち上げようとしない姿勢や個性豊かなリリース楽曲群も含め、今後の活動が楽しみなレーベルであることは間違いない。

 さて、その《同窓会》から新たにリリースされたミニ・アルバムがSacoyan 「Tivu Folded Shelves」だ。本作は、Sacoyanが持っている溢れんばかりの才能が詰まった素晴らしい作品となっている。神聖かまってちゃんもインタビューで彼女の名を挙げたりしているから名前だけは聞いたことあるという人もいるかもしれないが、僕がSacoyanの存在を知ったのはニコ生がキッカケで、初めて触れた作品はファースト・アルバムにあたる『虎モ猫になる』だ。そこに収録されているチープでありながら破壊力と繊細さが共立した楽曲群に完全ノックアウトされてしまった。そして「Tivu Folded Shelves」ではその破壊力と繊細さに加えて、壮大なコンセプトのようなものも取り入れるなど非常に興味深い音楽を鳴らしている。特にサイケデリックなローファイ・ポップに仕上がっている「アグニの煙」という曲がそれを顕著に表していると思う。"アグニ"とはインド神話に出てくる火神のことで、この世の人間と天上を繋ぐ存在とされている。アグニは儀式の祭火としての役割もあり、その祭火に投じられた供物は煙となり天に届けられるそうだ。この神話を歌詞という形で引用しているのは容易に推察できるが、「とろける炎に夢をみたよ / あなたはまるで燃える糸」という一節が「アグニの煙」に影を落としているよう見える。「あなた」は我々であり、「燃える糸」が天に上る煙だとしたら、メタ的な視点を通してSacoyanが見つめた現実そのものではないだろうか? もっと憶測を深めれば、「とろける炎に夢をみた」という一節も窮屈な日常からの脱出を願う非常に切実で死と隣り合わせな叫びと取ることもできる。

 アルバムを通して聴いても、《ミスタードーナッツでブレンドをずっと飲んでいた / すみません、ボールペンをお借りしてもよろしいですか / 店員さんのまばたき / 油と砂糖のにおい / こいつらみんな生きている》という一節が日常的な風景を見事に描写している「指もんを迷ろする」があれば、《この門は開いてるよ / こっちだよ、こっち / きみを呼んでるよ / 一面が花模様 / とっても恐かったことがふわふわ浮いて / 白くなっていくね》と、まるであの世を想起してしまうような言葉が登場する「花模様」など、本作でのSacoyanは"天"への憧れを地上から吐露しているように思えてくる。さらには「Tivu Folded Shelves」のラストを飾る「決裂」だ。ファンファーレのように鳴らされているこの曲は、いったい何を意味するのだろうか? "祝福"の意味も内包するファンファーレだが、「決裂」と名づけられた曲で祝福というのも彼女のユニークなセンスが出ていて面白い。

 ちなみにSacoyanのホームページでは、既に次のアルバムに向けた予告がされている。次回作はその名も『Ate』だそうだ。『Ate』はギリシャ神話の女神であるアーテ("アーテー"と表記する場合もある)を表す言葉であり、破滅や妄想といった意味も含有する。ギリシャ神話によると、アーテが地上に堕とされ人間と暮らすようになった結果、人間は愚行や悪事を犯すようになったとされている。さらには日本語の"宛・行き先"といった意味もあるらしく、どうやら『Ate』は様々なダブルミーニングが込められたタイトルのようだ。

 現在Sacoyanはニコ生を中心としたネット界で人気急上昇中とのことだが、「Tivu Folded Shelves」を聴けばそれも分かる気がする。それは彼女の目と心を通した"あなたの風景"が音楽として表現され、それが多くの者の琴線に触れているからだろう。ゲーテの名詩である「幸福と夢」のような、儚い喜びと哀しみが混在した本作は、間違いなく2011年のいま聴かれるべきアルバムだ。

(近藤真弥)

追記: 「Tivu Folded Shelves」は《同窓会》のホームページからダウンロードできる。

retweet

littledragon.jpg  キーボード、ベース、ドラムス、パーカッションという少し変わった編成のエレクトロ・カルテット。全員がヴォーカルを担当しているようだが、メインは日本人女性であるYukimiさんによるものだ。基本的にはスウェーデン出身/拠点としている彼らだが、今回の契約はロンドンのPeacefrog Holdingsと交わされていて、ヨーロッパやアメリカを中心にツアーを行なっている。

 ヴォーカルやエレクトロ・サウンドももちろん多く含まれているが、リズム音がより多いのは大変特徴的である。しっかりとしていながらもどことなく緩いフィーメール・ヴォーカルに音数の少ないエレクトロ・サウンドが合わさることで、全体を通して非常に実験性に溢れた音楽に聴こえてくる。無論、当然のことながらエレクトロというジャンルにおいて実験的でないものなど殆ど存在しないことは承知の上だが、ここにあるその要素は他ではおそらく聴けないであろう唯一無二の、言うなればキーボードとリズムと歌のバトルでもあり、それをここぞといういいところで盛り上げたりまとめたりしてくれている。そのような落差や裏切りに、ことごとく感服させられるアルバムだ。

 難しいのは彼らの音楽を聴く限りルーツが多種多様にわたるであろうことで、決して彼らはエレクトロを極めている人たちとは言えない。様々な音楽を自分たち流に解釈し融合させた結果、それを自分たちのものにし、最終的にそれらをエレクトロニカなるものにして表現しているのだと推測する。先述したようにリズム音に重点を置いている理由もきっとそこにあるはずだ。複数の音を簡単に出せるいわゆるコンピュータのような機材を使わず敢えてアナログで、ここまでの少ない音だけで適度にさして踊れない程度に高揚感を持たせたりいろんなカラーを持たせたりといったことが出来るのはもはや尊敬に値するのではないか。まさに一聴の価値あり。

 

(吉川裕里子)

retweet

COLDPLAY.jpg  ジャン・フランソワ=リオタールは、知識人の終焉、大きな物語の終焉という言葉で物議を醸し、そのままいわゆる、ポストモダニズムと呼ばれる「細部に神は宿る」というのに繋がる訳だが、実際、何が終わったのかというと、何も終わらなかった。正当化されていたはずの「正史」というものは、本当は「偽史」で成立していたのではないか、ということに対して自覚的になればいいのではどうだろうか、という提言であり、並列して、物質主義の先進化が進み、個々の心理が容易にショートカットされてしまうことへの警鐘でもあった「だけ」なのだろう。

 00年代に、ロック・バンドとしては、もっとも売れ、重要な存在になったかもしれないコールドプレイというバンドの野暮ったさとはつまり、大文字の懊悩が個々の「正当化」を補強する不安のために機能した印象を個人的には受ける。00年、最初のアルバム『Parachutes』とは後々、奇遇にも、そのタイトル通り、00年代の緩やかな「降下」時代の救命用具を意味してしまうことになってもしまったが、80年代のエコー・アンド・ザ・バニーメン、ザ・キュアーに並ぶような、線の細いニューウェイヴの音をヴァ―ス・コーラス・ヴァースの叙情性でコーティングした、要は「よくあるUKの1バンド」という印象があり、キーンのささやかさ、トラッドへの目配せがあったトラヴィス辺りと括られていたが、「Yellow」や「Trouble」に代表される曲の「良さ」はあったものの、当時、来日した時のライヴでは、間延びした気怠いパフォーマンスだったのもよく憶えている。

「大きな物語」とは、要はモダン内でのものであり、つまり時間軸を歪ませた退避ともいえるとしたなら、02年に『Parachutes』が米グラミー賞、最優秀オルタナティヴ・ミュージック・アルバムを取ったというのは皮肉だった。「最優秀」と「オルタナティヴ」 ― それが共存するということ自体、違和があるが、それが尚且つコールドプレイ「だった」ということ。この事柄が、その後の肥大してゆく過程を確約したのかもしれない。

 02年のセカンド・アルバム『A Rush Of Blood To The Head』の周囲の期待値と値踏みはおそらく、「オルタナティヴとは、実は無縁な人たち」に依って成り立っていた偽史があるとしたら(あるかもしれない、「正史」ではコールドプレイとは00年代を代表するバンドと刻印されるだろう)、そのセカンド・アルバムのリード・シングルでのU2の「One」のような大きなスケールのバラッド「In My Place」で、一気に飛翔した高みとは、とても低地だった。「低地」というのは、フラットに地に足を付けている「集」の場所ということで、個の最大公約数ではなく、より仮設された避難所のような意味を用意する。そこで、《How Long Must You Pay For It(いつになれば許されるんだろう)》と朗々と歌い上げ、最後に《I Was Lost(自分を見失った)》と締めるクリス・マーティンの肥えた観念とは「MY PLACE」を実は、持っている人にこそ響いたのではないだろうか。そして、世界中でその分かり易さとイメージは回収されてゆき、避難(非難)した人たちで桁違いのセールス(現在で約1,400万枚)を結んだ。

 コールドプレイの世界観は基本、シンプルだ。「僕のどうにもならなさ」、「君が居てくれることの大きさ」、「終わりなき旅路」、「太陽や雲といった自然への接近」―誰しもが心当たり、通底しているであろう「人生」内の人間の感情のスペクトルを大きく切り取る。だからこそ、様々な国境、人種を越えて「自分のことを歌われている」という錯妄も実感として、鳴り響く。

 05年の『X&Y』はその点、難しいアルバムになってしまった。役割期待に忠実に応えるために、しかも、クリス・マーティンが「何の意味もないが、何だかよく分からないもの ― つまり、人間の感情について、などに対する答え」というアルバム・タイトルの記号性の通り、決して難解ではないが、抽象的な歌詞世界は膨らみ、「愛的な何か」へこれまでよりも近付きながらも、フックのある分かり易いメロディー、18番の美麗なバラッド、ピアノの繊細な含み、ゴスペルの要素等々のささやかなマイナーチェンジ(実験というほどではなく)を行ない、ベルリン時期のデヴィッド・ボウイ辺りの空気感が仄かに漂うものの、今聴くと、精巧に設計図を作りながらも、そこに拘り過ぎたエラー的な合理性が息苦しくもなる部分はある。

 つまりは、過度ではなく、合理的なコールドプレイ像の深化を目指した大袈裟さがトゥー・マッチの域を更にオーバーしていたということかもしれない。そして、おそらくそういった声にも敏感だったバンド・サイドはブライアン・イーノ、マーカス・ドラヴスといったプロデューサー、限定されたスタッフで「籠る」ことになり、例のウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を導く女神』という誰でも観たことはあるだろう絵画をジャケットに置き、タイトルも『Viva La Vida Or Death And All His Friends』という総てを包括したような景理めいたもので、大規模・ネ形で自分たちの梃入れを行なおうとした。リズムが細かくなり、ジョニーのギターもよりラウドに目立つようになり、ポリリズミックな民族音楽的な要素を取り込んだり、明らかにイーノの影響も垣間伺えるものになり、「耳触りの良いロック」、「優等生的なバラッドを歌うロック・バンド」を対象化すべく、あくまで彼らの中ではオルタナティヴともいえる内容になったものの、如何せん例のストリングスが豪奢に鳴り響く「Viva La Vida」に引っ張られてしまうように、相変わらず安直な二項対立図式を越境せず、「ベタ」な曖昧に揺れる世界観のもどかし・ウは相変わらずだった。生死、美醜、喜びと悲哀-その曖昧さを「抜けてゆく」にしては、クリス・マーティンという人は生真面目過ぎるのもあり、結局は曖昧を狙った確定閾を彷徨し、暴走してゆくことになる。08年のサマーソニックでヘッドライナーを堂々つとめたライヴを大阪で観たときに、僕は彼らの音楽が何を救い、持ち上げているのか、考えながら、複雑な心境にもなりながら、オーディエンスはCMソングとしても印象的な「Viva La Vida」のイントロの時点で沸騰し、そのあと、緩やかに去ってゆくものも居たりして、SMAPの「世界にひとつだけの花」を歌うなどのサーヴィス含めて、スタジアム・ロックのカタルシス、シンガロングを共有したという疑似快楽ではなく、どことなく、虚無の満足が残る印象が先だった。

 虚無の満足 ― この引き裂かれ方がコールドプレイとしたら、今年、いや、10年代に入ってもう世界に向けて「大きく」音楽を呈示出来るのは彼らの存在が俄然、重要になってくるという奇妙さがある。00年代をサヴァイヴして、モンスターになったバンドが、混迷して、再分化と文化の衰退が如実に迫る、そのままの世界中の人たちを「繋ぐ」というのはこれもまた、イロニカルだが、事実だろう。

 既に、『Mylo Xyloto』というタイトルでリリースが決まっているアルバムから少しずつリード曲が出ている。最初のリード・シングルの「Every Teardrop Is A Waterfall」の多幸性は、意味深かったと思う。

《All The Kids They Dance, All The Kids All Night / Until Monday Morning Feels Another Life / I Turn The Music Up / I'm On A Roll / This Time And Heaven Is In Sight(子供たちはダンスを始める 夜通しで / 月曜の朝に 世界の変化を感じるまで / もっと音楽のボリュームを上げて / 僕は今良い感じだ / 視界もクリアーなんだ)》

《So You Can Hurt, Hurt Me Bad / But Still I'll Raise The Flag(痛みを感じても 僕も同じようなものさ / 今 旗をまだ掲げよう)》

 という歌詞が複層に重なるシンセと昂揚と熱を帯び、ドライヴしてゆくメロディーの中で、彼らの掲げる「旗」はもうおそらくドラクラワの女神の「それ」ではないだろうことが分かる。

 そして、アルバムを控えてのセカンド・シングル「Paradise」はクリアーなギターが鳴り響き、ビートが固く刻まれ、クリスの例の声が淡々と紡がれ、ゴスペル風の壮大なコーラスで《Para Para Paradise》と連呼されながら、ささやかな電子音も混じり、「普通の女の子が世界を知ろうとしたら、遠く飛び立ってしまい、眠りの中に逃げ、楽園の夢を見ようとした」、というような寓話性が高く、切ない内容だが、夢に逃げて、楽園を見る訳でも逃避ではない、シビアなここの現実を生きる人たちの背中を押す力が確実にある。

 アルバムでは、どのような全容が待っているのだろうか。ロックより、明らかにビート・ミュージック、ダンス・ミュージックの機能性や、即時性を持った音が求められている瀬にこのもどかしいほどに、叮嚀にロックの殉教者であろうとするコールドプレイは、今、本当に求められているといえるのだろうか、僕は少なくともこの「Paradise」の時点では、ささやかな希いを仮託している。

(松浦達)

 

retweet

The Wombats.jpg  筆者とザ・ウォンバッツとの出会いはアメリカだった。最初に日本で彼らの7"「Backfire At The Disco」を買い、そして世界初となるアルバム『Girls, Boys And Marsupials』(共に2006年リリース)を日本の《Vinyl Junkie》からリリースしたことで「インディー・ポップ・バンド」としての彼らを知ることとなった。そして翌2007年、まだ本国でもアルバムを出していなかった頃(本国UKでは2007年にデビュー・アルバムとして『Proudly Present: A Guide to Love Loss & Desperation』をリリース)、アメリカに彼らのライヴを観に行った。当然ラストを飾ったのは「Backfire At The Disco」。しかし新曲もプレイした彼ら、特に印象に残ったのが「Let's Dance To Joy Division」という曲だった。ただポップなだけではなく、彼らの隠れたルーツや影響を垣間見た気分になった。

  当時(2006年~2007年)のザ・ウォンバッツの一般的イメージはもっぱら「ポップ」であった。イギリスはリヴァプールの3ピースということである種それは当たり前の気がしていたのだが、たまたまアメリカ滞在中に同じホテルに泊まっていたためロビーでご挨拶すると、日本から来たというだけで3人共興奮気味! 何せ世界中で唯一のアルバムがリリースされている国なのだから、そして西新宿に店舗を構えていた頃のVinyl Junkieにもちょくちょく行っていたのでオーナーとも面識があり、日本で音楽雑誌の編集をやっているとくれば、かなり食いついて来てくれた。私が英語を上手く喋ることが出来たら是非取材を敢行しようと約束したのだが、結局出来ずじまいで残念な結果に終わってしまった。しかし滞在中の約1週間の間はヴェニューの近くですれ違うたびに声をかけてくれ、同行していた親御さんにも「彼女は日本の音楽雑誌の編集でライターをやっている」と紹介してくれたりもした。本当に、フレンドリーでナイス・ガイな3人だった。特に「I'm from Norway」と言っていたリヴァプール育ちのノルウェー人ベーシストは、同じ北欧のMewの大ファンだと言い、筆者にもMewについていろいろ語ってくれたしおすすめもしてくれた。彼だけは好みが若干他の2人と異なっているようで、そのとき「この人たちはただのポップ・バンドではないな」と確信したのであった。

  そんな彼らの満を持した新作は、邦題が『ディス・モダン・グリッチ ~ポップ中毒患者への処方箋~』と名付けられている。これは一般公募した中から選ばれたもので、「ポップ中毒患者」という言葉がやはり今までの彼らのイメージを引き継いだまま考えられたタイトルだと推測する。だが実際にはメチャメチャエレクトロ・サウンドになっているのだ。ややレトロで非常に大胆なシンセをとにかく多用し、多種多様な音楽が生まれるリヴァプールに相応しい個性的なバンドへと完全に生まれ変わっている。変わらないのはキャッチーなところか。アルバム全体としての完成度、クオリティ、統一感も素晴らしく、いい意味で裏切られた作品と言えよう。当然「インディー・ギター・ポップ」を求める人たちも決して少なくないと思う。だがシンセが入ったからといってギターがなくなったわけではない。彼ららしさはきっちりと残っている。

  アルバム全体を通して聴いてみると、MySpaceなどで1曲ずつ視聴するのとは全く印象が変わっているのが本当に驚かされた。これから発売される日本国内盤には本編に負けないくらいのたくさんのボーナス・トラックが収録されるとのこと。その数、実に8曲! これは是非とも国内盤を買ってみたいと思わざるを得ない。これを書いている時点では発売前ということでそちらはまだ聴くことが出来ないが、果たしてエレクトロ路線で攻めてくるのか、或いは前作と今作の約4年のブランクにおける「中間的」転機真っ最中の音源が聴けるのか、今から楽しみでならない。

  尚、今作ではプロデューサーにザ・ウォンバッツ自身の他Rich Costey、Eric Volentine、Butch Walker、Jacknife Leeといった有名人が名を連ねている。これらの名プロデューサーが前回プラチナ・ヒットを叩き出したプレッシャーをはね除けるべく現在のザ・ウォンバッツの楽曲たちを使ってうまくアルバムを一つの音楽作品として世に出そうと一役二役買ったのだろう、全体的に隙という隙が全く見当たらない完璧な仕上がりになっている。

  決してこれまでの彼らを知っている必要はない。むしろ新しいファン獲得にはもってこいの出来ばえで、初心者にも入りやすい作品になっている。とはいえ、これまでのファンの方々にも彼らの生まれ変わった変化ぶりを一聴してみてほしいという気持ちもあるので、結果論としては万人におすすめ出来るアルバムとなっていると思う。これを機会に、是非お手に取ってみてはいかがだろうか。

(吉川裕里子)

retweet

BALAM ACAB.jpg  チルウェイヴというネット的に連鎖状に繋がり、隆盛したエスケーピズムとしての白昼夢のような音世界には批判も同時にあったが、毅然と前に進むのが難しい時代において、せめて音楽の中では微睡んでいたい、というそれぞれの切迫した集団心理があったともいえる。何故ならば、現実から「逃避」することは、それだけ峻厳な「現実」を意識するということでもある訳で、そこから僅かな「隙間」を縫って、或る意味でファンタジックに、とも言える大文字の「暗み」と「耽美」を入れたのがウィッチ・ハウスだとしたら、ホーリー・アザー、サン・グリッターズ、ハウ・トゥ・ドレス・ウェル辺りのサウンドに宿る不穏さは世界中のベッドルームで累積された各々の呻きや懊悩を掬い上げ、そこに硬質なビート・メイクをすることで、逃避ではなく、「潜航」を促す。

 この場合、「潜航」しているときに見上げるのは現実ではなく、どちらかというと自分の内面であり、その内面を浸食している不安かもしれない。心理学者のダニエル・L・シャクターが言うTransience(もの忘れ・一時性)とは、記憶の「合成」過程内で怠り、再び把握する中で、「それ」とは違う「それ」が格納されることになるとき、実は親近性という概念が大きく持ち上がる。親近性という意味は、近く自分の中で「手に届くようなもの」である限り、それは不特定な対象性を帯びてしまうということであり、チルウェイヴの"親近性"に多くの人たちが近したのと同時に、何故かTransienceしてしまっているような状況性とはいうのは、例えば、普段掛けている眼鏡を「当たり前」として「いつもの場所」に置いてみても、それが「いつもの場所ではない可能性」を含意しないと、近付くほどに、茫洋とした現実に接触「してしまう」混乱が起きる。その混乱の切断面の一部分で起きるデジャ・ビュとは別に、ジャメ・ビュへの退転というものも引っ張られる。未視感。見慣れているはずのものなのに、知らないような感覚へ「着地」したときに、内側から混み出てくるノイズやカオス。それは決して明るい何かを帯びず、記憶認識の誤差からのバグがはぐれた現実を「再規定」する。

 バラム・アカブのファースト・アルバム『Wander / Wonder』は、初期のボーズ・オブ・カナダが持っていたドリーミーな音世界に近似しながらも、禍禍しさと亡霊の声のようなものが漂い、ダークなトーンが貫かれているところが興味深い。ビート・メイキングの素晴らしさと奥行きのあるサウンドスケープの中で明滅するのは、昨今のエレクトロニカ、IDMの良いエッセンスを凝縮したようなところもあり、同時にまだまだ若さゆえなのか、緻密な設計図に則ったというよりは勢いで作ったようなラフさもある8曲が揃う。

 想えば、2010年のEP「See Birds」でデビューしたときの彼は19歳で、ウィッチ・ハウスの貴公子のようなネーミング付けも為され、立ち上げたレーベルの《Tri Angle》もそのシーンのイコンになった。そして、チルウェイヴの代名詞のウォッシュド・アウトとコインの裏表のように比較されながらメディアで語られるイメージの誤謬やウィッチ・ハウスという定義が明確化しないまま、バラム・アカブの「音」は待たれていた。

 現今、音楽と呼ばれるものに、大きな物語や背景ではなく、そこから離れた「細部」を求めている層が確実に台頭してきており、その「細部」とは80年代的なカウンターカルチャー、ポストモダンとしての「細部に神は宿る」といったような何かではなく、現在進行形の胎動に自分たちで名称化していこう、書き替えや再定義をしていこう、という編集意識の表出としたならば、このアルバムで感じることができるデジャ・ヴュは、旧くはブリストル・サウンド、現在のダブステップが反射しながら結んだ「模像」とも解釈できる。「模像」としても、先行シングルの「Oh, Why」にあった子守唄のような優美さや硬く刻まれるビート、「Await」の静謐な孤独に凛と宿るエレガンスは今、必要な音なのは間違いない。

 ウィッチ・ハウスなどのカテゴリーは越えて、これからが期待を担うアーティストとして、彼はより暗闇とエレガンスに手を伸ばしてゆくだろう。まだ、これは「名刺(始まり)」ですらない。

(松浦達)

retweet

808 state『Blueprint』.jpg  今回リリースされた『Blueprint』は、808 Stateにとって『808:88:98』以来となるベスト・アルバムだ。こういった類のアルバムに必ずと言っていいほどついてまわる議論といえば、「なぜこの曲を入れたのか? どうしてあの曲を選ばなかったのか?」といったものだと思うけど、ゴリゴリなアシッド・ハウスが詰まった彼らのファースト・アルバム『Newbuild』から、オリジナルとしては今のところ最新作である『Outpost Transmission』までのディスコグラフィーを代表曲やファンの間で人気が高い曲などで振り返ることができる。その点に関してはバランスよく文字通り「入門編」として最適な選曲になっているが、もっと『Newbuild』の曲を入れてもよかったんじゃない?

『Newbuild』はローランドのDIN Syncを駆使して作られたアルバムで、当時のアシッド・ハウスにしては珍しく音楽的な要素が満載。一応リチャード・D・ジェイムスがAFX名義でリミックスしたヴァージョンの「Flow Coma」が収録されているけど、せめてオリジナル・ヴァージョンを入れてほしかった。他にもNew Orderのバーナード・サムナーが参加した「Spanish Heart」や、マッシュアップの先駆的な曲と言ってもいい「One In Ten」など、808 Stateが現在の音楽シーンに及ぼしている影響力を確認するという意味でも、他に収録する曲はあったんじゃないか? と、『Blueprint』を聴きながら考えたりしていた。でも結局のところ僕は、嬉々と本作を聴いていたりする。9曲が新曲と未発表トラックで、まあ、そこはある程度彼らの曲を聴き込んでいないと楽しめない部分でもあるが、なんだかんだいっても僕は808 Stateが好きなんだなということをあらためて確認させられてしまった。

 正直、リアルタイムで聴いてきたわけじゃないアーティストについて書くということに対して、抵抗感がないと言えば嘘になる。そりゃ当時の空気や時代の流れを知っている先輩方のほうがいろいろトリビアも書けるだろう。それでもここまで808 Stateに入れ込むようになった理由を書かせてもらうと、現在の音楽を取り巻くような状況と似たような"同時代性"を感じるからだ。例えば『ex:el』の裏ジャケットには使用した機材が載ってるんだけど、そのどれもが"宅録オタク"と呼ばれる人たちに使われている物がほとんどだし、金持ちしか使えないような高価機材というわけではない。杉田元一さんによる当時のライナーノーツに書かれた「音楽とは、(中略)テクノロジーに頼るのではなく、それをいかに使いこなすかという、センス次第なのだということを彼らはここでアピールしているのだろう」という一文がすべてを物語っているが、これは低価格化が進むと同時にDAWが一般化し多くの人がプロレベルの環境に手が届くようになり、結果として作り手の創造性や独自のテクニックがより鮮明になることによってそれがひとつの"売り"にもなってしまう現在と重なるようには見えないだろうか?

 また、いま述べたようなことと少し掠るかもしれないが、ポスト・パンク時代の音楽や精神を借用したりそのまま引き継いだような音楽を鳴らすアーティストが未だに出てきている。それは音楽を作る際に過去の歴史を振り返ったとき、ポスト・パンクという音楽がもっともアイディアとヒントが隠された宝庫だからだと思うけど、808 Stateもそういった存在になったということだ。クラフトワークやYMOはもちろんのこと、フュージョン、ヒップホップ、ラウンジ、ロック、アンビエント、ファンク、そしてエキゾチカ・ミュージックなど、彼らの音楽にはそれこそ数えきれないほどの要素が混在し、それらが自然かつ美しく融合し構築されている。これもまるで、音楽がフラット化し様々な音楽を掛け合わせることが当たり前になった現在と似ていなくもないが、時代の要請によって半ば強制的にそうせざるをえない今とは違い、808 Stateは自ら幅広い音楽性を取り込んでいった革新者という点を見逃すべきではないだろう。

「Pacifc State」は808 StateなりのDerrick May「Strings Of Life」を作ろうとして生まれた曲だが、そのDerrick Mayは後に『Innovator』と名づけられた楽曲集をリリースする。そして808 Stateは、『Blueprint』と銘打ったベスト・アルバムをリリースした。Derrick Mayは"イノヴェイター"として道を切り開き、そこに808 Stateは"青写真"を描いた。その"青写真"は石野卓球や《Transonic》などによって日本にも広がり、909 Stateという名のアーティストが出てくるまでになった、というのはロマンティックが過ぎるだろうか? しかし僕にはどうしても、すべてが繋がっているように見えてしまう。

 英NME誌は、808 Stateの最高傑作(と僕は思っている)『90』を「マンチェのヤツらをクラフトワークなど先達と比肩させうる作品。最新鋭、そして90年代のブループリント」と評したが、90年代どころかまさしく"今"のブループリントだと僕は思う。つまり、808 Stateは常に"可能性"であり続けてきたし、それは今でも変わらないということだ。この事実を『Blueprint』は、まざまざと我々に見せつけてくる。これを読んでいる808 Stateを知らない人達も、この機会に光り輝く"可能性"の一端に触れてみてはいかがだろうか。

(近藤真弥)

retweet

MY VIOLAINE MORNINGjpg.jpg  不思議と、何度も聴いていくうちに惹かれていく作品だ。バンドとしての音楽のルーツは明らかなのに、彼ら自身をカテゴライズすることは不要であることのように思えた。それは無理矢理オリジナリティを打ち出そうという類のものではなく、むしろ真逆である。シーンとは関係なく、自身の好きな音楽を信じて、そして自身の出す音を信じているからだと思う。マイ・ヴァイオレイン・モーニングは、インドネシアで2004年に結成された4人組であり、EPが2枚発表されており(今作で大半が収録されている)、フル・アルバムとしては初の作品となる。

 音のひとつひとつをかいつまんでみると、コーラス、ディレイなどのギターのサウンド・メイキングはシューゲイザーの影響下にあり、リズム隊とウワモノの絡みはポスト・ロックを通過したバンドのそれでもあると言える。実際、バンドのバイオグラフィーが詳細に記されている彼らのfacebookによれば、結成時のマイ・ブラッデイ・ヴァレンタインや、ライドなどといったバンドから、キャリアを重ねるにつれてシガー・ロス、ゴッド・イズ・アストロノート、日本ではトーなどが影響を受けたバンドとして挙げられている。しかし、今作を通して聴いてみると、それらのバンドの音はあくまで、バンドを構成する「要素」に過ぎず、意外なまでに特定のバンドを想起させないことに気付く(微笑ましいと取るかは受け手次第だが、フレーズやサウンドメイキングで、明らかに特定のバンドを想起させてしまうバンドはこの手のジャンルは特に多いと思う)。

 これまでの歩みを総括したフル・アルバムでもあるため、若干の曲毎の音楽性のばらつきがあるが、それを引き締めているのは全編を通して漂うノスタルジアである。空間系の音が好きな奏者ならば思わずコピーしてみたくなるような、清涼感と切なさを併せ持つクリーン・トーンのアルペジオを中心に、曲の輪郭を際立たせる表情豊かなドラムが入り、時折入る激しいディストーションやシンセは静かに感情を増幅させる。そこには、自分の信じた音楽と、これから自ら歩む道に殉ずる者が作り出す、先駆者とはまた別の新しい白昼夢が確かに存在する。

 彼らが冠した作品のタイトルに触発されて、少々大仰な言い方になってしまったか...。既出の2枚のEPのタイトルは「Where's My Place To Play」「Old Habits + New Technology」、そして今作が『The Next Episode of This World』。バンドの歩む「意志」を感じさせ、それを見事に言い当てている素晴らしいタイトルではないだろうか。何となく、泣けてくる。

(藤田聡)

retweet

ROPES.jpg  現代の日本においてのエヴリシング・バット・ザ・ガール...実際に鳴らしている音像は違えど、彼らロープスの活動スタンスやその成り立ちを見ているとそんな印象を感じずにはいられない。

 アート・スクールのフロントマン、木下理樹を中心に、同バンドのギタリスト、戸高賢史と活動休止中の日本のポストロック界の旗手、ダウニーのリズム隊である仲俣和宏、秋山隆彦に元オン・ボタン・ダウンのアチコをフロントマンに迎え、2枚のアルバムをリリースし、マイペースに活動していたカレンが解散を発表したのが、去年末。その後に、戸高とアチコが再び(さらにマイペースに)活動を始めたのが、このロープスである。当初はクラウディ・スカイズ・イン・ポーランドというバンド名で活動していたが、ほどなくして現在のロープスに改名。長らく、自ら「CDリリースもなければ、派手な告知も一切なし」として、実際にレーベルに身をおかず、特定の事務所に所属もせず、(一応「メトロ」と「薄れ日」という2曲をYoutube上にアップはしていたが)ライヴ・パフォーンスのみの露出だったが、この度、多くの邦楽アーティストから大きな信頼を獲得している大阪のセレクト・レコード・ショップ、《Flake Records》より、文字通り7インチのアナログ盤として、350枚限定でシングルをリリースする。

 90sオルタナティヴ・ミュージックを通過した後に'00sのインディー・ポップの感性でカラフルに彩られた世界を、あくまでバンド・サウンドとして打ち鳴らしていたカレンに対して、基本的にロープスは戸高による憂いを帯びながらも耽美さを感じさせるアコースティック・ギターの音色とアチコの奥行きと伸びのあり様々な表情を見せるヴォーカルのみで構成された音世界である。時たまに戸高もアウトロで、コーラスで加わる面もあるが、その様は、前述したようにエヴリシング・バット・ザ・ガールのようだ。エヴリシング・バット・ザ・ガールの片割れ、ベン・ワットのソロ作『North Marine Drive』で見られるような、必ずしも暗い曲調ではないにも関わらず(むしろギターのコードだけを取り出すとポジティヴィティすら感じるような明るさもあった)、どこか哀しみを背負ったような感触がロープスにもある。それに加えて、グレゴリー・アンド・ザ・ホークのような、アコースティック・ギターによるポストロック感とヘヴンリーなどのトゥイー感を折衷したような素朴ながらも温もりのあるサウンドが特徴的である。歌詞に関して、アチコは「信頼する戸高くんの持ってきたメロディから自分が感じ取った情景を言語化している」と語っているが、その通り、どこか朝焼けや夕暮れといった空が霞む時間帯の少女の憂愁といったものが歌われ、それがメロディにこれほどまでにないくらいマッチしている。

 また7インチのレコードとしてのリリース形態も興味深い。戸高によると「アチコさんが少女の頃に熱中した(エヴリシング・バット・ザ・ガールの)ベン・ワットとトレイシー・ソーンの7インチの感触を自分も実現させたいと強い要望があったので、踏み切った」とのことで、はからずとも、昨今、チルウェイヴ/グローファイのシーンのアーティストがすぐにCdとしてのリリースではなくカセットテープやアナログ盤で自らの音源を発表していた現代に呼応しているようにも感じる。

 とは言え、やはり邦楽シーンの他のアーティストと比較しても、相変わらずマイペースにゆったりと(しかし真摯に)活動しているように感じられるロープスであるが、彼らの活動方針通りバンド形態のアーティストと共演する機会も増えてきたし、露出も含めこれまで以上に活発になっていくだろう。なお、今作はFlake Recordsおよび、ロープス自身のライヴ会場でも入手することが可能だ。

(青野圭祐)