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AZARI&Ⅲ.JPG『Blue Songs』において、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェアが選ばなかった道。端的に言えば、『Azari&Ⅲ』とはそういうアルバムだ。

 アルバムにも収録されている「Hungry For The Power」で12インチ・デビューを果たしたアザリ・アンド・サードは、ドイツの《Permanent Vacation》やティガが主宰する《Turbo》といったレーベルからリリースを重ね、「Stay Here」ではフレンドリー・ファイアーズとコラボするなど、多岐に渡る活動を繰り広げている。これらの活動からも分かるように、アザリ・アンド・サードは幅広い音楽性と順応性を持っている。

『Azari&Ⅲ』も、往年のシカゴ・ハウスを基本としながら、エレ・ポップやソウルの香りを感じさせる曲、さらにはアート・デパートメントが鳴らすアングラ臭に満ちたモダン・ハウスをポップに昇華するなど、様々な音楽を繋ぎ合わせる嗅覚は突出したものがある。

 しかし、冒頭で"『Blue Songs』において、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェアが選ばなかった道"と書いたように、本作は必ずしも、アザリ・アンド・サードにしか作りえないアルバムとは言い難い。『Blue Songs』で前作の流れを引き継いだ音を維持しつつ、「チル」というダンス・ミュージックが持つもうひとつの側面へ果敢に挑戦したヘラクレス・アンド・ラブ・アフェアに比べると、『Azari&Ⅲ』は安易な選択に見えてしまう。「接合された音楽」が溢れるようになって久しいけど、そうした状況で問われることのひとつは、「いかにその接合センスにオリジナリティがあるか?」だと思う。そして、『Azari&Ⅲ』という現在地の中に、アザリ・アンド・サードのオリジナリティを見出すのは、正直難しい。

(近藤真弥)

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PeachMelba.jpg「Happy House」のヒットで、インディー・ロック界隈でも注目を浴びたJuan Macleanが新たに始めたプロジェクト。それがPeach Melbaだ。そして「Can't Let Go」は、Peach Melbaとしての第一弾リリースとなる。

 Juan Maclean名義でCosmic Kids「Reginald's Groove」をリミックスした際の音と似ていなくもないが、本作はシカゴ・マナーに基づくオールド・スクール・ハウスのようなグルーヴが特徴的だ。Amy Douglasという女性ヴォーカリストをフィーチャーしたヴォイス・サンプリング。攻め立てるような音が聴く者の腰を振らせるシンセ・リフ。どこまでも狂おしい情熱的なパーカッション。これらの要素によって生み出される熱狂とエロスは、Juan Macleanという男がハウス・ミュージックを理解し、愛していることを証明している。よりディープに仕上がった「Can't Let Go(Dub)」「Can't Let Go(Dub Of Dub)」も素晴らしい。

(近藤真弥)

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フル ページ写真.jpg《約束の時間ならとうに過ぎてるぼんやりと窓を眺めて居たらいつの間にか連絡手段を失って
今にも雨が降り出しそうです》(「ねぇねぇ」)

  今までにない浮遊感と透明感のあるサウンドスケープ、素朴なボーカル、後ろでリズムを刻まれるパーカッション。ストレートにサイケデリックな「うたもの」としての強度が1曲目の「ねぇ ねぇ」にはある。例えば、マジック・リアリズムのような「日常にあるものが日常にないものと融合した」作品に対して使われる芸術表現のテクニークに近いような何か、を巡るような温度。マジックという「非-日常性」、「非-現実」とリアリズムの日常性、現実性のアンチノミー性が同時折衷に表わすこのテクニークは時折、シュルレアリスム(超現実主義)と同義とされることがあるが、精確には異なる。

  現在のチルウェイヴ、チャーチ・ソングがときに深い森、濃霧の世界観の中に入り込んでしまう陶酔と微睡みは同時に、峻厳たるリアリティからのエスケーピズムに依拠していたとしたならば、この「ねぇねぇ」ではあくまで、リアリティに向き合いながらも、例えば、フロイト的精神分析や無意識論とは関わらず、フォークロア等といった非-現実的なものとの融合を取っている感触も受ける「約束の時間」を巡っての君と僕の行き違いが切々と紡がれる。しかし、ときに《汚い嘘しか吐けない僕を許して》というフレーズが挟まってくるように、「液体の三日月が揺れていた君と出会ったとき」から「約束」は、遅延されて、別離を刻むための5分の間、ドラマティックな意匠はなく、寧ろメロディーの淡々とした切なさが胸に響く曲になっている。

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  振り返ってみると、彼女はソロ名義として、工藤鴎芽という名前でスタートを切ってからオルタナティヴにザラッとしたローファイな質感と大文字の懊悩、行き難さを綴ってきたキャリアの中で、グランジ経由のギターロックからポエトリー・リーディング、シャンソン、ビート・メイクに凝ったもの、フィールド・レコーディングを取り入れた曲までヴァリエーションを確実に広げ、表現の「精度」も高めてきた。EPを重ね、ファースト・フル・アルバム『Mind Party!』である種、一つの結実点を見出せたような気もしたが、だからこそ、その後、震災でのチャリティー・シングル「胸の内/すいか」、EPの『Meek』で踏み込んだ領域は確実に観念内に籠もりながらも、ソトに立脚している拓け方を帯びていた。特に、『Meek』で見せた「アメル」辺りの新しいヴァイヴは今後の未来を期待する何かがあった。奈良にあるセレクト・レコード・ショップであるジャンゴ・レコードと組んだ1周年記念ミニ・アルバム『Mondo』では音響工作の美しさを極めた彼女の音楽的語彙を広めたポスト・クラシカルな作品としても、興味深かったが、今回、4枚目となるシングル「ねぇねぇ」は、どちらかというと、意匠や実験性が先立っていたきらいがある工藤鴎芽というアーティストが、シンガーソングライターとしても、良質なものを持っているのをリプレゼントする力作になったと思う。バシュティ・バニヤン、ジュディ・シルといったアーティストのような翳りのある折れそうなリリシズムに、柔らかな音の位相で泳ぐ切ない歌詞。以前のシングルの「Call Me」でも、《夢か現実か分からない声が聞こえる》と紡いでいたが、誰かに呼ばれる("Call Me")ことを「記号的」な街で待っていた彼女が、"非"記号的な街の中で具体的な君に問いかける("ねぇねぇ")に対しての変節点には3.11以降の彼女の心境も反映されているのかもしれないし、現実は空想に立脚し、空想は現実を改変し得る余地が見えるその「狭間」を筆致してきた彼女にとっては、この「ねぇねぇ」は逆説的に骨身のソウルを晒す結果となった。一転、2曲目の過去曲である「目論見」の"Toxic VS Telephone Ver."では、攻撃性とオルタナティヴなザラッとした質感がこれまで通りの更新版とも捉えられるが、「ねぇねぇ」と併せて聴くことで、立体的に浮かび上がってくる生々しさがある。その生々しさはこれまでにない心の痛みも孕むとともに、とても切なさを帯びてくる人間のカルマに抵触する。ただ、この諦念でもない痛みをそのまま、アウトプットする方法論としてこういった音楽スタイルを択び、昇華される軌跡も見えてくる「予感」もする。新しいフェイズに入ったシングルと言えるだろう。

《ほら 世界は何一つ変わらない》(「ねぇねぇ」)

(松浦達)

追記:9月9日よりmonstar.fmにて配信開始。 アーティスト・ホームページでも受注可能。

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MatthewHerbert.jpg  今や、コラムニスト的な存在になってしまったきらいもあるが、経済学者のポール・クルーグマンは以前より「経済格差はつくられたものである」と力説していた。つまり、現今、アメリカで極端なレヴェルまで貧富差が拡がったのは、経済的な意味でのグローバル化ではなく、政策に依拠するものだということで、これには、経済のグローバル化が一気に市場を飲み込んだという大きな論を相対化する歴史的背景もある。"縛り"としてのソーシャリズムが緩やかに解けてからの中国やロシアなどの大国の世界市場への進出と日本に流れ込んだ「安くて、良いもの」は産業のパラダイムを完全に変えた。

 しかし、総てを経済的与件に収斂するには粗雑すぎるのは、日本が築立してきた戦後からの経済的な持ち直しにはあくまで政策論としての側面と総中流階級意識としてのモラリティが発現していた要素も含意しないといけないからなのもある。それが「失われた20年」の中で、そして、現在の恐慌前夜のようなムードの中で、再び「格差」や「グローバリゼーション」に対しての警鐘が鳴らされている気がするが、90年代後半からに一気に隆盛したNO LOGOや反・グローバリズムの温度や空気感とは少し違うのは、"そこ"に「巻き込まれながらも、どうしてゆくか」というフェイズに入っているからだと思わざるを得ない。ASEANや新興国が目覚ましく発展し、未来を描いてゆく中で、日本やユーロ圏、アメリカは少しずつ老い、斜陽の時期を迎えている。そこで、例えば、ウォルマートやマクドナルドを敢えて、「仮想敵」に置いてしまうには時間的・文化的なラグが産まれてもしまう。

 要は、グローバル化の「象徴」として置かれるそういった多国籍企業が掬い上げる人たちの生活水準値を鑑みたときに、それを搾取の構造「論」の一端と置くには無理があるという意味でもあるし、日本でも郊外の景色の画一化、ショッピング・モールの乱立、風土のファスト化が嘆かれているが、そこで遊ぶ、「未来を生きる若者やキッズたち」は無邪気ではない形で、何かをしっかりと視ている。また、アジア諸国などに行けば、マクドナルドなどの企業はまだまだ発展の象徴であり、それができたことで自分たちの高度経済成長を確信するというイロニーも根付いている。

 例えば、ピエトラ・リボリの『あなたのTシャツはどこから来たのか?』(東洋経済新報社)を読んでも、自由貿易と競争市場原理と世界を巡るTシャツの在り方を抉りながらも、グローバル化に反対する活動家は好んでアメリカの大多国籍企業を標的とするが、自分が巡ったTシャツを巡っての考察においては、そうした大企業は登場せず、殆どが比較的小さな家族経営の企業ばかりだった、と示しているように「イメージ」のバイアスが膨らみながら、現在、グローバリゼーションという言葉はどんどん記号化、気化をしていきながら、市場メカニズムの「内実」からは遠のきつつあると言える可能性はある。

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 さて、マシュー・ハーバートの『One』シリーズが事前から予定(09年に『One Pig』の構想には彼は言及していた)されていたように、『One Pig』でもって愈よ完結するが、あの<反>グローバリゼーションの精神を押し進め、ステージで某・多国籍企業のハンバーガーを潰すなど過激なパフォーマンスをしていた彼が"One"(一人)に向き合ったという意味でも、『One One』のリリシズムも『One Club』のクラブ・シーンへの批評性も確実にこれまでの彼のアクションからすると、独特の翳りと彼らしい知性が別ベクトルで開花した手応えを感じさせるものになっており、音響工作の巧みさ以外にも、その発言から作品自体に包含された意味に注視されるアーティストだっただけに、『One』シリーズを10年代に入り、メインに置きだしたというのは個人的に非常に興味深かった。

 今作は、コンセプトとしては一匹の豚の誕生から死まで巡ってというもので、そのために農家まで出向き、豚の声などの音を取り、そこに彼が後から音響アレンジメントや加工などをしたといういささか奇妙な内容になっている。実際、国際動物保護団体からクレームが来るなど、リリースに漕ぎつけるまで厄介なことはあったようだが、コンセプト先行なしに聴くと、ディーセントなインストゥルメンタルに貫かれた作品になっており、明らかにこれまでの彼の打ち出してきた作品群とは少し毛色が違う。曲名にしても、「August 2009」や「September」、「May 2011」など、その時期にRECされたのか、シンプルな年・月名に統一されている。最新のビョークのリミックスも流石のできだったが、何かしらのビートや音位相のズレの巧みさ、粒立った電子音の気品などが彼の特徴だったとしたならば、今回はダンスへの機能性も排されており、音響工作の美麗さも決して際立っている訳ではない。

 緩やかなオフビートがあくまでなだらかなさざなみのように寄せては返しながら、そこに彼の手掛けたエフェクト処理や僅かな音響的な実験が浮揚する。その意味では、彼のこれまでの様々な作品に触れてきた人たちからすると、異質性に驚くことだろうし、『One Pig』という示唆深いコンセプトに何らかの意味を見出していた人たちからすると、何かしらの違和も感じるかもしれない。

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 ただし、冒頭から触れたように、グローバリゼーションという記号性が再浄化された中で、マシュー・ハーバートが<反定義>ではなく、<異化>を目指す形で、分かり易いポピュラリティに背を向け、一人でこういった作品に対峙するというのは個人的に非常に意義深い何かを孕んでいる気がする。90年代、00年代のダンス、IDMシーンをいささか過激にかつ華麗に彩った彼が10年代に入り、こういった概念性に向かったという事実には、少し感動もする。じわじわと染み込んでゆくような静謐な音の柔らかな波の中で巡る豚の声、そして、"一匹の豚の誕生から「死」までのナラティヴ"に、果たして、何が見えてくるのだろうか、おそらく、今度の9月の来日公演で明らかになると思う。

 最後に、彼が今回の作品に寄せた言葉を記しておきたい。

 「このアルバムは、ある豚が一生で発する音を使って作られる。その豚の誕生の瞬間、生きている間、死を迎える瞬間、そしてシェフに渡りご馳走が用意される間、その全てが録音される。そして、音楽となる。」

―そして、こうして、音楽に「なった」。

(松浦達)

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Madegg.jpg「子供の頃の集団での遊びを、楽しさだけでなく驚きや、恐怖心、不思議さなどの視点からイメージ」というテーマを元に作られた『Players』は、聴き手の想像力を求め、そして掻き立てる。

 京都を中心に活動する18歳のトラックメイカー Madeggの音楽は、どこか懐かしさを感じさせる。それは想像力を用いたコミュニケーションや、理性と本能の両立といった、我々が当たり前のように持っていた「優しさ」というのが存在するからかもしれない。同時に、いま挙げた要素を現在の我々は失ってしまったという「喪失感」も突きつけられるのだが...。

 フライング・ロータスが主宰する《Brainfeeder》周辺の音楽にも通じるビート。独特な時間軸によって心地良いグルーヴを生み出す曲進行。先日惜しくも亡くなったレイ・ハラカミを彷彿とさせるプリミティブな電子音(もちろんひとつひとつの音は丹念に作られている)。これらにスパイスとして加わるのは、聴き手であるあなたの想像力だ。

 "ディープにも、意味ありげにもなってはいけない。心を開き、アンビエンスの中に入り込む。それこそがハウス・ミュージックの美学だ。精神を開かれたものにすること。優れたアンビエント・ハウスは決して退屈なものではない。繰り返し一晩中聴き続けたとしても。優れたハウス・ミュージックは、トリガー・メカニズムを持っている。音が唇に降り注ぎ、顔には微笑を浮かべさせてしまうような...。"(The Orb / アレックス・パターソン)

 僕は『Players』を初めて聴いたとき、このアレックス・パターソンの名言を思い出してしまった。しかし本作はハウスじゃないし、どんなカテゴライズも受け付けない。強いて言うなら、聴き手との共犯関係によって完成する音楽であり、その音楽は聴き手の中で形成される。だからこそ、「同じ音楽」は存在しない。前述したように、完成させるのは聴き手である「あなた」だから。『Players』は、「あなた」の数だけ存在し、これからも増殖していく音楽だ。

(近藤真弥)

 

※本作は、分解系レコーズのホームページで無料ダウンロードできる。


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20110516_toumeizasshi2_v.jpg  韓国の大衆音楽を「K - Pop」と呼称するならば、「T - Alternative」とでも言うような台湾からのオルタナティヴ・ロック・バンドが出現した。透明雜誌だ。

 ナンバー・ガールやベース・ボール・ベアーやアート・スクールの木下理樹などを見定めた人物である、東芝EMIの新人発掘プロジェクト、「Great Hunting」のチーフ・プロデューサーを務める加茂啓太郎氏がTwitter上でツイートされていたり、東京のタワー・レコードを中心にプッシュされたりしたことで一躍、その存在を日本にも知らしめた彼らが、自主制作盤に収録された4曲をボーナス・トラックにした日本限定仕様盤が、この『僕たちのソウルミュージック(原題:我們的靈魂樂)』である。

 至るところで「台湾のナンバー・ガール」と称されたように、ナンバー・ガールの楽曲「透明少女」とバズコックスのメンバーだったハワード・ディヴォートが結成していたマガジンを組み合わせたバンド名を誇っているし、自主制作盤『透明雜誌』に収録された「凌晨晚餐」などを聴いている限りでは、ナンバー・ガールが用いていたようなアメリカのオルタナティヴ・シーンの影響を日本的な解釈で鳴らしたエッセンスをさらに彼ら自身の視点で最解釈したような感覚があった。たしかに、彼らも例えば国内のランクヘッドやベース・ボール・ベアーがデヴューした時に称されていたような、「ナンバー・ガールの継承者」の一バンドであると言えるだろう。

 しかし、それがいきすぎて、彼らをナンバー・ガールのパクりをしている台湾人などと見るのは、間違いと言える。彼らは、ナンバー・ガールだけでなく、ピクシーズやソニック・ユースにスーパーチャンクといったアメリカの並み居るオルタナティヴ・バンドからの影響も公言しているし、日本のバンドでもナンバー・ガールだけでなく、先の「凌晨晚餐」のMVでは銀杏ボーイズのバンドTシャツを着て演奏している姿が写っているし、「妳是我見過自殺最多次的女生」といった曲からは、つばきなどのいわゆる往年の下北系からの影響も垣間見える青いギターが印象的だ。英米のオルタナティヴ・バンドと日本のそれを並列に聴いて、自らの楽曲を生み出しているその出自は非常に興味深いと言えよう。

 とは言っても、先にミニ・アルバムからリリースされていたボーナス・トラックの4曲を見ると、やはりナンバー・ガールからの影響がかなり濃いように思えたが、この『僕たちのソウルミュージック』の全体を聴けば、それだけでなく先に示したようなアーティストからの影響と自らの方法論を混在させていっていることが分かる。

 タイトルに反して、スーパーチャンクのごとき爆裂のパンク・センスで突っ走る「ANORAK」や、ベース・ボール・ベアーのような青い時間を鳴らす「九月教室」、ヤケクソのようなイントロと、間奏の《ベイベーベイベー》というシャウトまでまんま銀杏ボーイズのエッセンスを借用したようなタイトル・トラックの「我們的靈魂樂」など、3年の間にナンバー・ガールの影響モロ出しから脱却している様がよく伝わってくる。

 先にも書いたが、この英米のオルタナティヴのエッセンスと日本のそれを同時に聴き込み、それを自分なりに咀嚼して衝動と焦燥を掻き回すそのスタイルは面白い。日本の数々のバンドからの影響を並列に出してくれるのは、日本人としてもやはり嬉しいが、さらに欧米からの影響も迷わずに強く出していくことによって、彼らを日本のバンドに似ているという文脈で聴くのではなく、欧米のバンドを聴くように、良い意味で洋楽を聴けるようになれれば良いと思う。いくら日本のオルタナティヴなバンドと曲調が似ているといっても、歌詞は中国語で歌われているし、それがナンバー・ガール由来のアジアンなメロディと絶妙にマッチして、見事にエキゾチズムを掻き立てているし、台湾のバンドとして聴かれるようになるとさらに面白いと思う。

 そして、恐らく心配はご無用だろう。彼らは台湾でのザ・ゲット・アップ・キッズの公演にもオープニング・アクトとして出演を認められたし、元ナンバー・ガールの向井秀徳氏自身からもホームページの日記にて、「今日の一枚」として当盤を挙げられる(そして、それをfacebook上で嬉しそうに報告している透明雜誌のメンバーがまた微笑ましい)など気運は上々だ。

 英米や日本など国籍問わず多くのオルタナティヴ・バンドが最初は、自らの敬愛するアーティストのエッセンスの借用からキャリアをスタートしている。ナンバー・ガールだって、最初はヴェルヴェット・クラッシュやマシュー・スウィートを意識していたことを告白しているし、それ以降もピクシーズやハスカー・ドゥ、ソニック・ユースなどの影響を公言しながらも自らのスタイルを築いていった。彼らも今の、ルーツを色濃く出している作風やスタイルが、台湾という土地の感性にさらに飲み込まれ、彼ら自身の新たな表現の位置に完全に到達することを期待して止まない。台湾から、どう世界へアプローチをしかけていくのか、見届けたいものだ。

(青野圭祐)

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中村一義.jpg「僕は行く」。

 中村一義は、21歳でデビューして以来、どのタームであっても常にこの必殺の切り口で世界と対峙してきた。多くのファンがご存知であるように、幼少時から壮絶なほど劣悪な家庭環境で虐待気味な待遇を受けながら「あり」、その後、両親と離れて祖父母の家に住んでいた少年は、既にその時期から何度も「自分対世界」の図式で、流れる景色を捉えていたことだろう。

 この中村一義ソロ時代から100sというバンドの一員として活動するようになってから現在までの中村の全キャリアを網羅するベスト・アルバムは、同時に、ザ・ラーズの「There She Goes」に感化されて絵画という表現形態を捨て、音楽を志した人間が「状況が裂いた部屋」という自室から世界を見据え、時には他者を、世界を、時には愛で、時には傍観し、時にはノーを突きつけてきた後、ライバルでもあり親友とも言えるバンドメンバーという存在を手にして、自己の内外に潜り、自分自身に回帰することになった一人の人間のドキュメンタリーとも言える作品である。

 ベスト盤としての選曲には、曽我部恵一、草野マサムネ(スピッツ)、小出祐介(ベース・ボール・ベアー)といったミュージシャンから津村記久子といった作家やうすた京介のような漫画家、果てはオリエンタルラジオの中田敦彦といったお笑い芸人にいたる著名人が、各々のベスト・ソングを持ち寄って、それを一つのアルバムにパッケージングするという画期的な試みをとっている。そのためか、オリジナル・アルバムからの収録曲数は少々偏りがあるし、シングルだからと言って収録されていない曲も少なくない。しかし、とりわけ、1曲毎に決死の想いをかけて曲作りに取り組み、ファンもそれらの1曲毎に丁寧に聴いて各々のベスト・ソングを精査するような関係が成り立っているアーティストである中村(100s)のこと、各々の大好きなあの曲やこの曲が収録されていないことを嘆き出しても仕方ないことである。少なくとも、この作品は中村一義という表現、中村一義という行き方(生き方)を俯瞰し、その行程をもう一度たどることのできるアルバムではあるのだ。

 まずデビュー・アルバム『金字塔』から収録されているのは、「犬と猫」、「ここにいる」、「永遠なるもの」の3曲。デビュー当初こそ、多くのメディアがこぞって「孤高の天才」と彼を称する向きがあったが、それまでの彼はむしろ、デモ・テープの審査がどこにも落ちまくり、「デビューできなかったら(責任を取って)死のう」とすら思っていた人間だ。その壮絶な幼少期から世界を見てきた人間が《同情で群れ成して否で通す》人間に対して、それでも《僕は行く》と言い放ったこのアルバムのジャケットは煙草の塔、言うまでもなく煙草は大人の象徴物であるし、そこで《街を背に僕は行く》と言い切った強かさは、幼少から地続きでありながらも、幼少期をどこかで切り離している感覚さえ覚えさせる。面白いのは、《同情の群れ》に対して「僕はそこからは引かせてもらって一人で行くよ」と叩き付けていながら、同アルバム最終曲では、「状況が裂いた部屋」に自ら閉じ込められていた人間からの溢れ出る博愛心を歌い切っていることだ。中村の世界との対峙の過程において、ここまで愛憎入り交じりながらも、それでも自分自身の来た道を全身全霊で「認めて」いくアルバムは恐らくこれから生まれ得ないだろう。

 「主題歌」は、本作収録曲で唯一、アルバムに収録されていなかったシングル曲。オリジナル・アルバムをメインに聴いているリスナーにとっては久し振りに陽の目を見ることになった曲ではないだろうか。サウンドの傾向としては『金字塔』の流れを汲みつつ、ザ・ビートルズ「Hello Goodbye」のようにどんどん開けて行くアッパーな曲調と歓喜と「僕は僕のやり方で行かせてもらうね!」という宣言をあますことなく歌い切った曲である。『金字塔』から『太陽』にいたるまでの途中経過として非常に大切な曲であるし、この曲をシングルという形でリリースしていなければ、中村のソロ時代の動向は大きく違うものに変わっていたのではとさえ思える重要な曲の一つである。

 21年間の中村を閉じ込めきった『金字塔』というヘヴィーな作品から、「その後の1年」をパッケージングしたという『太陽』からは「魂の本」と「笑顔」の2曲が収録されている。『金字塔』ではどこか個人に密着するのにかけていただけあって無骨さもあるサウンドだったが、『太陽』では温かみを帯びたメロディと録音が特徴である。そういった面では、たとえば、「そこへゆけ」あるいは「生きている」といった曲を収録しても良かったのでは?とも思えるが、当盤から2曲だけを選曲するとしたら、さらに「生活者としての中村一義」に密着しながら、痛みを抱えて、それでも「自分は諦めない」「歓喜で包み込んでやる」といった思いが如実に伝わるこの2曲が適当だろうと思う。

 新録曲「最高」にいたるまでの4曲が、『ERA』に収録された曲であるが、やはり、こうして並べるとそれまでの流れから様々な面でかなり大きく転んでいっている様が伝わってくる。プライマル・スクリームのようなアシッド・ハウス的手法やサンプリングなどの「加工」技術をそれまでより露骨に打ち出したサウンドもさることながら、中村は当該作では完全に怒りを体現していた。『ERA』において彼が批判し、切り捨てたのは、延々続く無気力、揚げ足の取り合い、自分は安全な場所にいる上での嘲笑/侮蔑/罵倒の嵐、誇大化した自意識の他人排除、価値観の倒錯であり、彼はそれらに今作でも収録されている曲からの言葉で言えば、《「変わらねぇ」。そればっか、まだ言うだけで、君も変わらないんだねぇ。》(「ショートホープ」)、《そう、君ん中に溢れ出す世界に、決して消えない場所が。それをキレイ事って済ますなら、去って。》(「ジュビリー」)といった諸々のセンテンスを用いて、不服従の姿勢を表明し続けた。中村のソロとしては(実質的な)最後のアルバムとだけあって、それまでにも増してコンセプチュアルでありながら、最初から最後の流れを切り取っても、無作為に出発点と到着点を切り取っても、その流れ自体が意味性を成しているようにも思える傑作であるが、この4曲が気に入ったら是非、オリジナル・アルバムの「ゲルニカ」~「グレゴリオ」~「君ノ声」の流れを聴いてみることをお薦めしたい。「捨てられた犬を焼く」少年が、再び「目を覚まして」世界と対峙し、「君」に出会うまでの流れだ。またソロでの中村が自ら《さようなら》と告げる「素晴らしき世界」も(熱心な中村一義ファンである漫画家の浅野いにお氏がこのタイトルをもじったような『素晴らしい世界』という単行本とともにキャリアを「スタート」させていることも含めて)興味深い。

 そして中村一義名義ではありながらもバンド100sとしての実質的なデヴュー盤『100s』(実際にこの『最高宝』の収録のされ方から見ても、ソロ時代とは明確に分けるかのごとくディスクが変わっている)からは、「キャノンボール」と「セブンスター」と曲数自体は少ないが、これまた象徴的な2曲が収録されている。非常に興味深いのは、100sというバンドを従えて、初めて世界に歌いかける「キャノンボール」においても、《そこで愛が待つゆえに、僕は行く》と叫んでいることだ。中村一義という一個人としても、バンド100sの一員としての中村一義としても、第一声が《僕は行く》という言葉であるのは特筆に値するだろう。中村が中村として自らを、他者を、社会を、世界を歌い出すとき、「僕は行く」という言葉を用いるのは最早、一つの業のようにさえ思える。もちろん、それだけでなく、この2曲からでも、「状況が裂いた部屋」で黙々と曲作りに勤しんでいた青年が、同士を見つけ、彼らとともに曲を作って行く喜びを全身で受け止めているかのような感動と緊張が伝わってくる。なお、この時期、中村は特にカヴァーに凝っていて、(このアルバムには収録されていないが、)シングル「新世界」のカップリングには、細野晴臣の「恋は桃色」のライヴ・カヴァーやスピッツのトリビュート・アルバム『一期一会』には、「冷たい頬」のカヴァーを提供している。

 名実共に100sとしてのファースト・アルバム、『OZ』からは、シングル曲から選ばれた曲はなく、「扉の向こうに」と「いきるもの」という当該作ではまだ、希望の灯りがおぼろげながら微かに見える2曲だ。レコーディング中に、中村をはじめ、メンバーの親類の不幸が続いたこともあり、100sとしての正式なデヴュー・アルバムながら、「死の地平から生を逆説的に映し切る」というヘヴィなコンセプトとなった『OZ』は、さながら、100s版イールズ『Electro-Shock Blues』とでも言うような、深淵の闇と厭世的ながらも最後の救いを提示したかのような観念論に満ちた文字通りのネオン・バイブルとでも言うべき作品で、アルバム中、どの曲を選んでも、密度過多にはなってしまいそうだが、特に「いきるもの」は後に繋がる「希望」のポジティヴなバイブレーションに後押しされるかのごとく、鮮烈に聴かせることに成功している。

『OZ』が「死の地平から生を奏でる」アルバムだとしたら、「生の地点から真っ直ぐに生を讃える」アルバムとでもいうような、『ALL!!!!!!』からは、アルバムジャケットにもみられた彩り豊かな楽曲、「希望」、「Q&A」、「つたえるよ」を収録。全体のバランスを鑑みると、「Q&A」を入れることには少しながら懐疑心が生まれる側面もないではないが、エレキコミックのやついいちろう氏の寄稿文にもあるように、《エロい栄光より、また、いつか君と会いたいんだ。》という一節が当時の中村のヴァイブスを示しているかのような、「つたえるよ」が収録されていることで不均等にならず、うまく中和された流れで聴き難くない。もちろん、このアルバムも、中村自身のルーツである中国に接近するという、密度の濃い「裏テーマ」が存在しているし、「蘇州夜曲」がヴィヴィッドに映えてはいるが、全体としてポップネスが高らかに鳴り響いているので、100sとしての中村一義のキャリアが気に入ったならば、このアルバムから聴いてみるのが良い入口であるように思える。

 そして、「モノアイ」、「最後の信号」は現時点で彼ら、100sの最新のオリジナル・アルバムである『世界のフラワーロード』から。ここでの「フラワーロード」とは、中村が生まれ育った東京は小岩のフラワーロードの商店街を指している。この当該作は、100sというバンドになった現在から、昔から自分が一度も転居していない「地元」のことを歌い切ったアルバムであり、それはつまり、叫びたくなる衝動の青を何度も吸い込み、そこで傍観的に過ごしていた過去の自分と対峙したアルバムである。《抗菌の世に住む君へ》(「世界の私から」)という一節から始まり、《乗り越えてゆくならば。》(「空い赤」)という一節で終わるこのアルバムは、あなたが捨て去ってきた古い自己を掘り起こしてくる厄介なコンセプトをもっているが、それでもそれが《同情の群れはとうにいねぇ。》(「魔法を信じ続けているかい?」)からこそであることも、同時に歌われている。ここにきて性懲りも無く自己の死と再生を歌う中村の想いの先は、「最後の信号」で鳴らされる。

 そして新録されたのが、「最高」と「愛すべき天使たちへ」の2曲。どちらもアコースティックによるプレイだ。「最高」はベスト盤に即したような、中村から今の地点に立ったことへの感謝をおおいにあらわしたような曲であるが、ここでも《穢れを好む人の群れくぐって、あぁ、また、ここでいつかさ、会えるなら》と歌っているところは相変わらずデヴュー当時の信念がまた再び現在進行形のものとして伝わってくる。そして、それをもって「愛すべき天使たちへ」の賛美に繋がっていく様は、ベスト・アルバムをリリースするまでにいたった彼と彼に賛同する多くの人たちをも祝福しているようで微笑ましい。

 こうしてみると、中村一義ソロと100sのどちらも、そのキャリアにおいて全てのアルバムがコンセプチュアルであり、非常に濃密なものであることが改めて実感できた。中村は「一気に全て出し切って、またゼロから始まるタイプ」と自身を分析するが、通常、そういったアーティストは、ベスト・アルバムをリリースすることを極度に毛嫌いするか、リリースしても曲選びに難航することが多いだろう。このアルバムは、先の通り、中村自身も祝福しているが、シングル曲のバラツキなども考えると、やはりすんなり選曲できたのではないかと思える。その面では、ゲストを招いて選曲してもらうというスタイルは見事に功を奏していると言えるかも知れない。

 どのアルバムをとっても、確固たる決意のもとに突き動かされてきた様が見える中村だが、彼が示し続けるアティテュードはやはり、この一節につきるだろう。もちろん、それは今作を聴かれるあなたへの問いかけでもあるのだ。

《僕は行く》

 さぁ、君は

《どう?どう?》

(青野圭祐)

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TheMirraz.jpg  ノルウェーの小説家クヌート・ハムスンの『餓ゑ』の筋は、おおまかに要は「一人の若者」が都市にやってきて、彼には名も家も仕事もない。でも、「書く」ために都市に出てきており、彼は、書きながら、時にいや、精確には「書かない」のだが、結果的に彼は飢餓寸前までに陥る。1890年のクリスチャニア(今のオスロ)、その若者は街を彷徨いながらも都市が引く導線である「空腹を惹起せしめる」為の装置の迷路に入り込むことになる。頼まれもしない、地元新聞の記事を書き、家賃に追われ、次の仕事を探す為の辛苦に埋もれ、懊悩の中でのた打ち回りながら、精神破綻寸前まで行き、破却が目の前まで迫っているような日々をおくる。

 それでも、「彼」は「ものを書く」。

 時折は、記事が二束三文で売れることがあって、僅かなお金が入って、「生活が潤沢になる瞬間」もあるものの、コンスタントに書いていくためには彼は体が弱すぎ、着想からエンドロールまで書き終えられる文章の方が少なく、未完の論考と哲学論と寓話、戯曲に揉まれて、彼は食べられない。結局は、書かないと食べられないのだが、「食べるためには書かないといけない」。それでも、彼は書けない。切実な迷路の中で、彼は筆を持ち、書こうするが、「書けない」。

 巷間での独り言。都市の彷徨。周囲の人たちは「彼」に対して徐々に心を離してゆく。そして、たまたま何かの契機でお金が舞い込んでも彼はそれを他人にあげてしまう。彼は宿からも追い出され、そして何かを食べても何かを吐き出し、一人の女の子と恋愛的な戯れに暮れたりするものの、屈辱しか感じず、やはり彼は「餓える」。

 でも、彼は死なず、理由も関係なく船乗りの仕事に就き、「街を去る」。

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 ザ・ミイラズが今、面白いモードに入ってきている。

 アークティック・モンキーズ × ビースティーボーイズのパクリ、いや、オマージュでいいだろうか、そのままに鋭いビートにまくしたてるような言葉数の多い畠山氏のボーカルには様々な登場人物が現れるが、基本、総てはアウトバーンで車を飛ばすように景色みたく流れてゆき、「僕」から発された自意識内でのカオスが君としての「対象a」に向けてマシンガン的に放たれるという在り方が押し出される。そして、髭(HiGE)辺りに近いシニシズムをうまく包含し、作品を重ねてゆくごとにどんどん彼らの人気は「もたざるユースたち」の心をしっかりと掴むようになっていった。

 数多ある彼らの曲群の中でも、「シスター」の《殺人鬼も犯罪者も政治家も総理大臣 コンビニの店員も配達のおじさんも タクシーの運転手もナースもネラーもニートも不良も 泣いてないで》、「ハッピーアイスクリーム」の《僕らはもう少しうまくやれたのかな》といったふと挟まれるフレーズの破片は、セカイ系の終焉を迎えたこの時世においてもオンになるというのは不思議というよりも、君と僕の先に世界が滅ばない代わりに、僕は「自分が思うことをブレスさえ入れないくらい詰め込んで(そこか、向こうの)君に向けて歌う」―そのスタンスがとても批評的な行為を帯びていたと言える。

 そして、2011年、初のシングルとなった「観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは」ではシンプルなロックンロールに回帰したようで、過剰な言葉が巻き込む熱よりもサビの《観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは 僕だけのものになっていたはずさ》という歌詞の切なさの余韻が残る。何故ならば、「観覧車」という密閉空間の中で夜景に照らされているというロマンティックな情景描写があった上で、それでも、僕だけのものになっていた「はず」という夢想・回顧でもあり、「今」はその観覧車に乗っていったのは果たして僕だけだったのか、それも判らないからであり、だから、これは想い出を再映するべく2分半で一気に完結する。終わるために音楽が鳴り始まるならば、この曲での簡素さは最初から終わりを始めている。2曲目の「ウザイあいつ」は爽やかなギターロック調に、「愛されたいから愛欲しい」と歌う曲で、言葉遊び的なものが活きた疾走感があり、彼らがネクスト・フェイズに入ってきた過渡期としての空気感がしっかりおさめられている。

 思い返せば、『Top Of The Fuckn' World』、『We Are The Fuckn' World』の近二作でサウンド・ヴァリエーションの幅が拡がり、シニシズムと偽悪が前面化する雰囲気よりも、その要所でどうしても滲む、優しさがベースになっていたといっても、過言ではなかった。そして、インタビューにおけるボーカル・ギターの畠山氏は相変わらずのビッグマウスで、アークティック・モンキーズ、M.I.A、キングス・オブ・レオン、更にはビートルズからの直截的なオマージュ(パクリ)に触れ、「ミスチルくらい売れたい。」というようなことを言っていたが、あくまでもたざる者・生活者たちに向けた視点を貫いた上でのものも鑑みることができるゆえに、ほのかな慈しみが垣間見えるのも確かだった。

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 現今、日本では神聖かまってちゃん、SEKAI NO OWARI、PLENTYなど若い世代で「生き難さ」、「未来への不安」、「君を想う僕」、「もたざる者たちとしての咆哮」をパンク的アティチュードで綴るバンドが増えてきたが、THE MIRRAZはそういったバンドの"餓え"と確実に違う何かを持っているバンドではないか、と思う。

 おそらく、彼らはクヌート・ハムスンの『餓え』に倣う訳ではないが、どうやっても「書くだろう」し、いずれは「街」を去る可能性もある。そして、最後に触れておくと、9月にリリースされる第二弾シングルの「ラストナンバー」もリズムが心地よいバウンシーなロックンロールであり、歌詞も失恋を巡ったモノローグであり、ときに"儚い恋のように"2分半ほどでこれも終わる。

《「1、2、3、4」で忘れないでよ 36.5℃の思い出を 単純な言葉で残しとこう》(「観覧車に乗る君が夜景に照らされてるうちは」)

 単純な言葉で、36.5℃の想い出を残そうとしているザ・ミイラズのこれからは非常に楽しみな表現への"餓え"があり、頼もしい。

(松浦達)

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THE VINES『Future Primitive』.jpg「ザ・ヴァインズが帰ってきた!」なんて台詞は残念ながら、クレイグ・ニコルズがアスペルガー症候群で心身ともに疲弊しきっているというアナウンスがされてから、ニュー・アルバムをリリースする際にもう何度も聞かされてきたし、多くのファンが言ってきた。しかし、この台詞が繰り返されること自体が、もう一種の皮肉だ。だって、本当にコンスタントに「帰ってきている」のならば、そんな台詞は一度で済むはずだから。彼らは、サード・アルバムである『Vision Valley』以降、幾度となく再生と挫折を繰り返してきた。件の台詞は、その『Vision Valley』をリリースした時よりも、次作『Melodia』をリリースした時の方がよく聞かれた感覚がある(もちろん前者の時点でも相当の声が聞かれたが)。英米ではコケてしまったが、本国や日本ではそれなりに評価された(むしろ個人的には、勢い偏重なところも見られたデヴュー・アルバムよりも豊満なメロディと共にこちらの方が重要作のように思えた)『Winning Days』同様にクレイグが手がけたアルバム・ジャケットや名曲「Get Free」を思わせるタイトルの「Get Out」なども注目され、再び世界にヴァインズの勢いをぶつける!と思わされた『Melodia』だったが、本国でのチャートでは少し持ち直したものの、英米はほぼ無視状態と状況は変わらなかった。日本でもファンは受け入れ、来日ツアーも決定し、期待を募らせたが、直前になってクレイグの病状が著しく悪化したとのことで、全公演がキャンセル。多くのファンが、クレイグの状況を不安に思いながらも落胆してしまったのも事実だろう。往年の彼らの勢いを鑑みると、やはり苦境の中にいると感じざるをえない。

  さて、そこで豪州のソニーと契約し再び大々的にリリースされたのが本作、『Future Primitive』だ。どこかレディオヘッドの『In Rainbows』を彷彿とさせるジャケットもさることながら、リード・トラックとしてアルバム・リリース前から発表されていた曲を聴いて驚いた。その名も「Gimme Love」。MVもアルバムより先に公開され、Twitterの公式アカウントでファンの感想も募るなどしていたこの曲、MVで焦点の定まりきっていない目をしてストラトをかき鳴らすクレイグが、《愛をくれ、俺に愛をくれ。マジでそれが欲しいんだよ》と絶叫する様を観て、ヴァインズも(良い意味で)ほんの少しずつ変わってきてるのだ、と感じた。曲自体は、「ビートルズ・ミーツ・ニルヴァーナ」(個人的には、ザ・ビートルズよりもザ・キンクスを当てはめた方がより的確では?と思う場面も多々あるが)の衝動に変わりはないが、Fで始まるワードを繰り返し吐き出し、自らの状況に中指を立てまくって「俺はお前らみたいなんじゃない!早くここから抜け出たい!」と、叫んでいた頃からすれば、「愛がほしいんだ」なんてフレーズは、ふと出た本音でしか考えられないが、今、率直にそれを打ち出すのは、遂にクレイグも焦燥と怒りと(状況が変わらないことへの)嘆声だけでなく、愛憎入り交じった表現につっこんできたのだ、と思わせられた。

   思えば、彼らはまだ決定的な敗北が見えていない時から、《勝利の日々は過ぎ去った》(「Winning Days」)と、豊穣なメロディと共に歌っていたが、そこから実際に「敗北の日々」を重ねた後に、今更かというように開き直りかのような「愛をくれ」と歌うのは、むしろ彼らの(と言うか、クレイグ・ニコルズの)生のドキュメンタリーを見ているように生々しい。とは言え、アルバム全体を見れば、相変わらず、3分以内のガレージ・ポップ・ソングとサイケデリック・ソングが大半だし、タイトル・トラックの「Future Primitive」ではスペシフィックなシンセサイザーの響きが心地良いが、これも「Futuretarded」などの過去の曲で、その兆候は既に見られる。ちなみに『Highly Evolved』から、半ばシリーズ化している「Autumn Shade」も、「A.S.4」として4作目が収録されている。

  しかし、このアルバムは良盤である。先程までの連ねてきた言葉を見れば、「進歩がない」とすら見られそうだが、それでも、だ。そもそも彼らがデヴューした時は、時代の流れもあり、先の「ビートルズ・ミーツ・ニルヴァーナ」なんて形容も持ってきて、ガレージロック・リヴァイヴァルと評されてきた。同じ枠組みで捉えられてきた経歴を持つ、ザ・ストロークスやザ・ハイヴスなどが作品をリリースする毎に新しい方法論を見出し「更新」されていっているのに比べれば、ザ・ヴァインズはその更新具合は、亀の歩みであるとすら言えるだろう。実際に、『Vision Valley』以降は、先のシンセの遊びも含めた種々のアプローチもしかけているが、それも微々たるもので、基本的にザ・ヴァインズというバンドは、ガレージ・ロックとネオ・サイケデリックが基本の2軸だろう。
 
  これを先のように「進歩がない」とする見方も出来るが、「変わらない頑固さ」「職人気質」とも見ることはできないだろうか。元々、一つのことに集中しだすと、それにのめり込んでしまうクレイグのことだ。バカ正直にこの道を突き進め続ける青年たちと見ても悪くないだろう。実際に、今作の「Gimme Love」も前作の「Get Out」も前々作の「Gross Out」も曲自体のクオリティとしては往年の必殺チューンに負けず劣らずの説得力があるし、その面ではむしろ、安心のクオリティを保ち続けているとも言える。たしかに、目を見張るような革新性は生まれていないが、例えばダイナソー・ジュニアがそうであるように、一つの確固たる方法論の下に長年信頼され続けているアーティストに彼らがなることは不可能だろうか。このアルバムのラストを飾る満点のパワー・ポップ曲、「S.T.W.」のフルタイトル、「Screw The World」のように、むしろその頑固な美しさで、世界を掻き回し得る存在にならんことを願わんばかりだ。このアルバムは、その彼ら特有の色をいつも以上に引き出しているアルバムである。

  これからヴァインズはどう進んでいくのだろうか、破滅の道を歩むか、あるいは、本当の帰還を果たすことに成功するのか...まだ分からない。でも、彼らは現時点では「未来は未開拓だ!」と鳴らしている。その言葉の行く先を見届けたいところだ。

(青野圭祐)

※国内盤は8月24日リリースです。

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Gypsy & the Cat 『Gilgamesh』.jpg  モダナイズされたAORでクオリティの高い作品って、なかなか出会うチャンスが少ない。ソングライティングの面で妥協することは許されないし、もちろん演奏技術も卓越している必要がある。それでいて時代のムードみたいなものも嫌味にならない程度に取り入れることができれば、文句のつけどころがなくなる。今年のサマーソニックにも登場したオーストラリアの若きユニット、ジプシー・アンド・ザ・キャットの作品はまさにその理想形に近い。MGMTがよく引き合いに出されるが、その通りエレクトロの心地よい浮遊感を従来のAORサウンドにプラスすることで、ただのダサい「おじさんおばさんロック」にならずに済んでいる。それどころか、2000年代にマルーン5がAORの要素をたぶんに含んだR&Bサウンドでジャミロクワイ以来の成功を勝ち取った超傑作ファーストを引き合いに出したくなるような、素晴らしいデビュー作だ。

   いくつかYouTubeにもアップされているスタジオライヴなどを観ると、演奏はほんとうにうまい(そういえば同じオーストラリア出身のザ・ネイキッド・アンド・フェイマスも新人離れした技術を誇っている)。ソングライティングの基礎もしっかりし過ぎているほどしっかりしているから、聴いていて安心してしまう。ファイヴ・フォー・ファイティングとか、ポール・コールマン・トリオ(覚えている人いるかな)とか、シザー・シスターズとか、TOTOとか・・・連想されるバンドの名前を羅列してもあまり統一感はなさそうだけど、そのくらい実は豊かな音楽的土壌を持つバンド。そういえば最近の「Cookiescene」でのインタビューで「エールから多大な影響を受けた」という旨の発言を目にして、「あー、確かに!」と思いました。やっぱり絶妙なバランス感覚です。とくに最後の「A Perfect 2」、まさにアルバムを締めくくるに相応しいバラッドなんですが、彼らのこういうのはむちゃくちゃ良い。爽やかだけど胸が締め付けらる。もちろん『Kitsune』のコンピにも収録された「Time to wander」、軽やかに疾走する「Running Romeo」など、どれをとっても極上のポップソングで、ため息が出る。

(長畑宏明)