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Aziz Sahmaou『University Of Gnawa』.jpg  レッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリクスが心酔した音楽としてグナワというモロッコ音楽を知っている人は多いかもしれない。金属製のカスタネットのカルカベと3弦撥弦楽器のゲンブリに声が合わさったシンプルな編成で鳴らされる音楽であるが、その歴史には複雑な因子も孕んでいた。西アフリカ地方から来た黒人奴隷たちによって、モロッコへと運ばれたというだけではなく、儀式性として悪霊に取り憑かれた人たちの治療としても使われた。そして、そのグナワの魔術的な反復性がもたらすトランシーな音は精神的な高みに近付くための導線もあった。

  ただ、こういった音楽に付き纏う胡散臭さといおうか、危うさに関しては訝しげな目を向けられることも常であるが、グナワとともに有名なモロッコの山間部での"ジャジューカ"にしても、かのブライアン・ジョーンズの奇作『Brian Jones Presents the Pipes of Pan at Joujouka』に代表されるように、その神秘性と陶酔には魅かれる音楽家や芸術家は後を絶たず、映画や様々なアート・シーンでこういった音楽は効果的に用いられていたりもする。ルネ・デュボスが行なってきたように、人間の「精神」への測定に対して、常に設計されたことと変化してきたことに対して焦点を合わせるとしたら、内なる声がどんどん重ねられながら、独特の幻惑をもたらすこういった音楽にも色眼鏡が掛けられるべきではないのかもしれない。

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  オルケストル・ナシォナル・ドゥ・バルベスの創立メンバーであったアジズ・サハマウイ(AZIZ SAHMAOUI)の初リーダー作品がかなり意欲的な内容になっている。アジズといえば、ジョー・ザヴィヌル・シンジケートでも活躍するなど、精力的な活動が目立っていたが、満を持してのアルバムは、タイトルからして、『University Of Gnawa』という「グナワ」と「大学」が並ぶという面白いもので、かといって、グナワを研究対象として解析しようというものではなく、もっとグナワを世界に拡げていこうという気概に満ちたポップネスと共に、グローバル化の中でのグナワの再対象化をはかろうとしている強さがある。プロデュースはフェラ・クティ、キング・サニー・アデなど数々のアーティストの作品を手掛けてきた敏腕のマルタン・メソニエ。このアルバムでのアジズはしかし、ゲンブリではなく、そのルーツ的な楽器と言われるンゴニを演奏している。ンゴニは、西アフリカ、マリで使われる楽器であり、ゲンブリよりも音の域が高い。更に、マンドーラというマンドリンを巧みに弾き、パーカッションやギターとの調和を巧くはかっているところはグナワのモダナイズを試みているという意味で、非常に興味深い。実際、"グナワ大学"を標榜しているにも関わらず、啓蒙的なムードは無く、グナワのトラッド曲「Salabati」や「Foufou Danba」などのアレンジも斬新なものになっており、ウェザー・リポートのカバー「Black Market」のマグレブ流解釈もいいが、注目すべきは、モロッコの人気歌謡曲である「Ana Hayou」をグナワ式に再構築したドライヴ感のある演奏そのものかもしれない。徐々に熱を帯びていき、アジズの声とコーラスが重なり、絶妙に昂揚してゆく熱量。ここには、人力トランスともいえる独特のグルーヴも感じられ、ライヴで見ると、より響くものがあることだろう。勿論、「うたもの」としても美しいものが含まれており、レゲエからブルーズ、柔らかな弾き語りまで様々なヴァリエーションの曲が愉しめるのと同時に、音楽そのものが持つ生命力に胸打たれる内容になっている。

  北アフリカの音楽がこういった形で伝播してゆく過程の中で、世界の様々な音楽やその背景の歴史に目を向ける人が少しずつでも増えていけば、良いことだと思う。このアジズの挑戦は更に新しい"気付き"を様々な人たちにもたらすことと希ってやまない。

(松浦達)

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LAMA「Spell」.jpg  なんだこれは? 何度聴いても、何かが解き明かされるどころか、ますます謎が深まりどんどん深みにハマっていくような感じ。しかしこれが、元スーパーカーのナカコーとフルカワミキ、ブラッドサースティー・ブッチャーズやトドルなどで活躍中の田淵ひさ子、そしてアグラフこと牛尾憲輔の4人によるバンド、LAMAの魅力かも知れない。

 どんなバンドでもシングルに次作の方向性や狙いが隠れていたりするものだけど、「Spell」にはそれがない。だがその不明瞭さは、バンドの未来が見えないといったネガティヴなものではなく、「次に何が飛び出してくるんだろう?」というワクワク感と共にあるものだ。

「Spell」とカップリングの「One Day」だけがLAMAの本質ではない。音楽的背景がそれぞれ異なる4人が集まっているのと、全員がプロデューサー的視点を持っていることも手伝って、どんな音楽をやっても不思議じゃない引き出しの多さが本作には感じられる。おそらくLAMAは、4人にとってクリエイティビティーが交差するハブ的な存在なのではないだろうか? それはバンドというよりも、帰納的にそれぞれの個性が収斂されていく「プロジェクト・チーム」のようなものだ。

  LAMAという存在のあり方を考えたとき、僕はアート・オブ・ノイズを想起してしまったのだけど、LAMAも彼らのように、実験的なことをあくまでポップ・フィールドの中でやろうとしている節がある。それはすごくチャレンジングなことだし、もっと言えば、それは従来の「バンドという名の共同体」の概念とは異なるものだ。この異質とも言える要素が、LAMAの音楽を面白くしているのではないか。

(近藤真弥)

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Love Love Love「夏色恋」.jpg  3月に発売されたフルアルバム以降、初のシングル(3曲入り)。いたってシンプルで特別新しいことをしているわけではないものの、それでいながら新鮮な輝きを放つ今作。さまざまな音楽を聴いてはいても、自分たちの作品で出来ること出来ないこと、やるべきことやる必要のないことを見極め、本来の自分たちの音楽性を大きく逸脱することがない彼らの作品は、ナイーヴでセンチメンタルで、そしてピュア。知的な印象のトラックとマッチする寺井孝太のデリケートなヴォーカルも、それだけである種の聴き手を惹き付けてやまないが、今作の注目点は、デビュー当時から良いメロディー、もっと言えば日本人が書く良いメロディーを書いてきた彼らの表現者としての自覚や熱が以前より上がっているところだ。今を生きるバンドが今を生きるリスナーに向けて、より確かな音を放ち続けようとすること。これ以上に新しいことはないと思う。純情っぷり丸出しの言葉も愛おしく、胸に刺さる。

(粂田直子)

 

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  これマジでヤバい。何がヤバいって? シカゴはウェスト・サイドから出てきた、Karlis GriffinことDJ Diamondによる『Flight Muzik』というアルバムが!僕は同レーベルからリリースされた『Bangs And Works Vol.1: A Chicago Footwork Compilation』収録の「Freakazoid」「Ready Mother Fucka」で彼の音楽に初めて触れたんだけど、この2曲に出会ったときの衝撃を余裕で超えるものが、『Flight Muzik』には詰まっている。

 DJ Diamondは、徐々に注目され始めているシカゴのジューク/フットワーク・シーンのプロデューサーであり、シーンのなかでも若手の部類に入る。独特のカットアップ・センスと、他に類を見ないグルーヴを生み出すミニマル・フォーマットが特徴のアーティストだ。もちろん『Flight Muzik』でも彼の才覚は遺憾なく発揮されていて、トランス風のシンセと加工されたラウドギターが絡み合う「Decoded」などは、DJ Diamondの真骨頂とも言える曲だ。


 アルバム全体としては綿密なサウンド・プロダクションが施されていながらも、ワイルドで肉感的な雰囲気を崩していない。例えば『Room(S)』におけるマシンドラムは、ひとつひとつの音を洗練し、ひたすら角を磨き上げることによって上品とも言えるグルーヴを展開した。DJ Diamondの音も洗練されてはいるが、それは優雅で高尚な方向に向かうものではなく、あくまでゲットー・マナーに基づくドープさを維持している。このドープさこそが、DJ Diamondにとっては目指すべき「よりよいもの」であり、だからこそ、執拗とも言えるくらい「汚れ」をエフェクトとして曲に与えているのかもしれない。この「汚れ」という要素の使い方に関してDJ Diamondは異質なセンスを持っているし、このセンスこそが、DJ Diamondを他のプロデューサー達とは違う個性的な存在たらしめているのは間違いない。

(近藤真弥)

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THE BRIGHTS『A Trivial Pursuit』.jpg  さあ全国のネオアコ・ファンの皆さん、聴いてらっしゃい観てらっしゃい!とでも言わんばかりのエセックス出身のザ・ブライツ。ベタベタなまでに、ザ・スミス、ザ・ジャム、スタイル・カウンシル、ペイル・フォウンテンズ、そしてアズテック・カメラにオレンジ・ジュースなんかの70年代末期~80年代初期のイギリスのポスト・パンクの方法論を踏襲した海岸沿いのグッド・メロディー。

 昨今、デンマークからノーザン・ポートレイトやスウェーデンからザ・ソネッツが登場して、ネオアコ再評価が水面下で起こってきていたが、本家イギリスからもエドウィン・コリンズ(ex-オレンジ・ジュース)が『Losing Sleep』を発表。そして、このザ・ブライツも、そこに加わることは確実だろう。この『A Trivial Pursuit』にレコメンド文を寄せたカジヒデキ氏の言葉を引用させていただくと「スタカン時代のP.ウェラーの精神を純粋に継承し、かつ80'sのネオアコ、90'sのスウェディッシュ・ポップの旨味をギュギュッと凝縮させた」サウンドである彼らだが、近年のネオアコ勢の中ではとりわけ、そういった「往年の」先人たちの影響を率直に打ち出したサウンドが魅力的だ。昨年1月にフリッパーズ・ギターのベスト盤『Singles』がSHM-CD化して再発されたこともあり(ネオアコだけの枠では到底、括れそうにない『ヘッド博士の世界塔』含め)彼らもますます再評価がなされてきているが、そんなネオアコをリアルタイムでは聴けなかった新世代から、「若かりし頃を思い出すなぁ」なんてネオアコ玄人にまでアプローチをしかけられるジャングリーなコード感も心地良い。

 と言う訳で、老若男女問わず思わずホロリと涙してしまいそうな本作だが、現時点では良くも悪くも「往年のネオアコの再来」と言う枠をうまく脱していない印象を少々受けるのも事実だ。例えば、ザ・ドラムスがオレンジ・ジュース最高!と言いながら、海に向かってずんずん進んで行く様を見て来た僕たちはザ・ブライツにも、更なるインディー・ポップ的な期待を重ねても良いだろう。ネオアコが様式美化してしまうのを超えて、次の世代にどんどん移り変わることを見届けてみたいものだ。

 アズテック・カメラの「Walk Out To Winter」を思い出さずにはいられないイントロのシンプルなコード、そこから水色の世界を映し出す「Footsteps」や、思わず街に繰り出したくなってくるようなリズミカルな「A Cameo Can't Last Forever」、リードギターの切なく高鳴るようなハイが印象的な「London Belongs To Me」、「Memories Of You」などのリード曲になりそうな曲たちもつかみ所が明確で良いが、是非、日本盤のボーナス・トラックである「Lost In Tokyo」も聴き逃さぬよう。ティーンエイジ・ファンクラブのようなエヴァーグリーンなギター・ストロークスに初期のスピッツのような物哀しく傍観的なブルース・ハープが鳴るイントロが魅力的なこの曲は、そのインディーっぽいコーラスも含め全方位にアプローチしていける現代的グッド・ソングの一つだ。

(青野圭祐)

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exit through.jpeg「動くバンクシー」って言うか、「映像作家」としてのバンクシーも最高だった。"バンクシー先生、ストリート・アートから飛び出して表現の幅を広げるの巻"かと思ったら、トンデモない映画が出来上がった。しかもドキュメンタリー。まず最初に断言できるのは、これは僕が今年見た映画の中で、いちばん面白かった!ってこと(8月8日現在)。ユーモアと皮肉にあふれていて、知的な好奇心もくすぐってくれる。

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 僕がバンクシーを知ったのは、ブラーの『THINK TANK』のジャケット。潜水服を着たカップルのアレ。ポップ/ロック・ミュージックのアルバム・デザインを新進気鋭のデザイナーやアーティストが手掛けるのは、60年代からの伝統だ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやストーンズにはウォーホール、ピンク・フロイドにはヒプノシス、ピストルズにはジェイミー・リード、ニュー・オーダーなどのファクトリー系にはピーター・サヴィル etc...。音楽とアートの幸せな関係。レコードやCDを買ったら、ブックレットを隅々まで精読して「誰がデザインしてんのかな?」って、チェックするのも楽しい。アルバムのテーマやコンセプトが視覚的に表現されているのはもちろん、ミュージシャンのセンスや(現実的/精神的な)繋がりが垣間見えたりもする。意外だったのは、ジョー・ストラマー&ザ・メスカレロスの1st『Rock Art And The X-Ray Style」にダミアン・ハーストのイラストが使われていたこと。「"輪切り"で有名な人だから、絵はヘタなんだ」と思った。ブラーはベスト盤にジュリアン・オピーを起用したり、そこら辺の目配せもしっかりしていた。

 でも、『THINK TANK』のジャケットを初めて見た時はピンと来なかった。"バンクシー"という名前(タグ)だけが、僕の頭に書き残された感じ。ブラーの活動も尻すぼみになったから、アルバムにも特に愛着はない。その後、ネットか雑誌かで再びその名前を知って、興味を持つようになった。花束を投げ込む暴動者、キスをしている警官、パレスチナの壁に描かれた青空と子供。ご多分にもれず、僕もパッと見でグッときてしまった。『THINK TANK』のデザインは、むしろ失敗作じゃん。...だけどね。「バンクシー大好き!って言う前に、ちょっと用心しなくちゃ」って、もう一人の自分が心の中で囁く。『わかりやすさ=ポップ』はキケンだよ、と。「来年の夏には、ユニクロのTシャツになってるぜ!」とかね。

 ユニクロのTシャツが悪い、とは全然思わない。むしろセンスが良いのも(ECMとか!)あるし。でも、"ユニクロのTシャツという額縁"に収まった時点で、とっくにアートとしての役割が終了しているのは事実。「大量に再生産」されるのは"ポップ=大衆的"だけど、それが不特定多数の(洗濯機の)中で文字通り色褪せてゆくのはどうだろう? ウォーホールが夢見たことではないと思う。ピーター・サヴィルがデザインしたパックマン(も、どうかと思うけど)のユニクロTシャツを着た人を、何度か見かけたことがある。それがピーター・サヴィルで"ある必要がない"という点で、やっぱり複雑な心境になってしまう(ついでに、僕はデザイナーズ・ブランドがジョイ・ディヴィジョンをモチーフにしたことにもガッカリした。引用/サンプリング/パスティーシュという視点で、話はちょっと違うと思うけれども)。何でも消費し尽くされるスペクタクルな世界だね!

 真面目にアートの意図を理解して愛でろ、とは思わない。だけど、作家が描いた時のモチベーションに感化されなくちゃ意味がない。それが僕の"ポップ・アート"に対するスタンス。知るきっかけはレコードやCDのジャケットで良い。「ずっと前から好きでした」「追っかけてます」的な知ったかぶりはしんどいだけ。1枚のポップ・アート作品をじっと見つめてみよう。色は? モチーフは? ステンシルかな? CGかな? 手書きかな? そして、コイツは一体何が言いたいんだ?

 そんなことを考えながら、僕は09年の夏にBunkamura Gallaryで開催された"urban / graffiti art exhibition"を見に行った。バンクシー、ジェイミー・リード、そして『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』では、渦中の人とも言えるスペース・インベーダーの作品も展示されていた。結局、そこは限りなくユニクロのTシャツ売場と同じように思えた。僕の収穫はバンクシーの作品集『Wall and Piece』を手に入れたことだけ。感動したなんて、口が裂けても言えない。

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『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』の前半では、ティエリー・グエッタという一人の男の目を通して"グラフィティ/ストリート・アート"の成り立ちが描かれている。単なるビデオカメラオタクが、ひょんなことからアンダーグラウンドのアート・シーンに深入りして行く様はスリリングですらある。この時点で、バンクシー本人は謎のままだ。やがて、ティエリーはシーンの頂点に君臨するバンクシーとの邂逅を果たす。しかし、そこから事態は思いがけない方向に急展開。ドキュメンタリーという手法を用いながらも、後半はティエリー自身を追いかける視点へと変化する。ティエリーはビデオカメラを置き、名前を変え、ある行動に出る。その一部始終が、パワフルで滑稽だ。まるでシュールなコメディのように。

 バンクシーは映画の中で、3つの役割をこなしている。1つは作中に登場する語り部。2つ目はティエリーが接触を願う"シーンの最高峰アーティスト"として。そして、3つ目はこの作品の監督。バンクシーが体現するトライアングルの中で、ティエリーという男が右往左往する。そこに真実と虚像があり、皮肉と爆笑がある。冷笑ではないのが、この映画の素晴らしいところだと思う。

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 言うまでもなく、グラフィティ/ストリート・アートは刹那的であることが宿命だ。公共の場に「落書き」するという手法ゆえに違法でもある。多くのアーティストが名前を偽り、素顔を隠す。バンクシーもしかり。そんな彼らのアートの行き先はどこなのだろう? 翌朝にはブラシでゴシゴシ消されてしまうのか。美術館の額縁やTシャツに移植されてしまうのか。オークションで高値で取り引きされるのか。それでも、なぜ描き続けるのだろう? ストリート・アートのみならず、現代アート全般においても共同作業/外部発注は当たり前のこと。そこでの真の作家性とは? アートの居場所とは? バンクシーはそれを問いかける。この映画では、たった独りバンクシーだけが爆笑していない。彼が浮かべるのは苦笑いばかりだ。

「孤独な苦笑い」

 それは、アートがプリントされたユニクロのTシャツを発見した時の気持ちにも似ている。手に入れるのも自由、無視するのも自由。もちろん、作品の意図を考え直すのも自由だ。「さて、どうする?」。バンクシーはそう問いかける。マドンナのベスト盤とブラーの『THINK TANK』のジャケットを見比べてみても、たぶん同じ気持ちになるだろう。そんなことを考えているうちに、映画は冒頭でも流れていた主題歌と共に幕を閉じる。

 元ロングピッグスのギタリスト、リチャード・ハーレイの「Tonight The Streets Are Ours」がぴったりで、可笑しくて、切ない。《今夜、ストリートは僕たちのもの》と歌われる、ちょっと前の思い出。バンクシーはいつもと同じく皮肉屋さんだけれども、結局、誰のことも批判していない。彼が描くストリート・アートのように映画の中にメッセージを投げ込んで、僕たちの前から姿を消す。あの夜、ストリートで警官から逃げ去ったキッズのように。だけど、今は「してやったぜ!」という無邪気な笑顔はない。もう誰も"あの頃"には戻れないことをわかっているから。

(犬飼一郎)

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』公式サイト

http://www.uplink.co.jp/exitthrough/

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TEAM GHOST『We All Shine』.jpg  エレクトロニカ×シューゲイザー=エレクトロ・シューゲイザーの旗手fromフランスのM83の脱退したオリジナル・メンバーのニコラ・フロマージョが、一時の潜伏期間を経てマルチ・インストゥルメンタル・アーティストのクリストーフ・ゲランと出会ったことでパリにて結成されたのが、このチーム・ゴースト。M83は、フロントマンのアンソニー・ゴンザレスとニコラによってフランス南部の港町、アンティーブで結成されたバンドであるが、彼らの出世作であるサード・アルバム『Before The Dawn Heals Us』の前、セカンド・アルバムである(タイトルからニコラっぽさがでている?)『Dead Cities, Red Seas And Dead Ghosts』をリリース時点でニコラが脱退。それからも、先の出世作やエヴァーグリーンなジャケットが印象的な『Saturday = Youth』をリリースし着実にキャリアを重ねていった。ちなみにニコラのM83脱退の原因は端的には、音楽生の違いとされているが、それはこのアルバム『We All Shine』を聴くと分かるかも知れない。

 ソニック・カセドラル・レコーディングスより2010年にリリースされていた『You Never Did Anything Wrong To Me』、『Celebrate What You Can't See』という2枚のEPに「Red Light Corridor」と、タイトル・トラックの2曲の新曲を入れたのが、日本デヴュー・アルバムとなる本作、『We All Shine』。手に取ってすぐ見るからに「ゴシック!」と言いたくなるような物々しい修道女が描かれた表ジャケットから中まで19世紀のイギリスにタイムスリップしたかのような暗美なアートワーク。ジャケット内側にニコラとクリストーフの写真が写っているが、この2人の写り方、形相もスージー・アンド・ザ・バンシーズを彷彿とさせる。そして、このアートワークは彼らの耽美な音楽を見事に視覚化していると言えよう。起伏がなくやや冗長な1曲目、「Lonely, Lonely, Lonely」を抜け出ると早速、「A Glorious Time」の(どこかアドラブルなどを思わせる)ゆるやかな轟音に包まれる。よりホーリックなものを感じる「Sur Nous Les Etincelles Du Soleil」や「Only You Can Break My Heart」などもけたたましいインパクトがあるが、あくまで翳りのある退廃的な空気が印象的だ。特に後者2曲などは、M83で見られたようなサウンド・マテリアルとさほど遠くない音色を感じるが、こちらの方がより、内省から外向きの衝動を鳴らしているのを感じる。題材はあくまで耽美な退廃であるにも関わらず、だ。M83はどこか都市と田舎の景色を思わせ、合理的な都会にはびこるグロテスクを暴きだすかのようなアティテュードが見られたが、チーム・ゴーストは人間の根源的なグロさを曝け出そうともがいているようだ。先のような曲は7曲目、「Deaf」までが『You Never Did Anything Wrong To Me』に収録された曲だが、「High Hopes」からは『Celebrate What You Can't See』の曲たち。この2枚のアルバムのリリース間隔はおよそ半年しか空いてないこともあり、サウンドに劇的な変化が訪れはしないが、こちらの方がよりゴシックな暗がりは増していると言えるだろう。より暗く、端正に、といった印象だ。インストゥルメンタルのタイトル・トラックに辿り着けば、古代の煤けた神殿で儀式を終えた後に光が見えるような気分にさえなる。

 全体的な印象としては、同じくエレクトロ・シューゲイザーとも評される65デイズオブスタティックのような印象をも受けはするが、彼らがハードコア・パンクも通過しており、叩き付けるような甘美な獰猛さを持っているのに対して、チーム・ゴーストは、幾分、暗がりと密室の耽美を実直に音像化しているシックな音像と言えるだろうか。

 シューゲイザーも、00年代後半の再評価の波を受けてエレクトロ・シューゲイザーだけでなく、そのジャンルが細分化されていった。近年はシューゲイザー再評価(いわゆるニューゲイザー勢だけに限ったものではない)のその先を映し出しているかのようなムーブメントであるチルウェイブ/グローファイも水面下で起こっている。チーム・ゴーストは、先の『You Never Did Anything Wrong To Me』をリリースした際に、NME誌には「コールド・ゲイズ」なんて言葉を使われて評されたようだ。直訳すると、「冷たい凝視」。チルウェイブのチルは「ひんやりした寒気」とか「鳥肌のたつ陰気な」なんて言葉を表している。これらを似て非なるものとするだけでも、さすがに乱暴すぎる解釈ではあるとは思えど、やはりほんの少しの近似性を垣間みることも確かだ。

 猛暑が続くが、一人ひっそりと部屋にこもってチーム・ゴーストの鳴らす耽美に背筋ひんやりと凍るものを感じるのも、試してみたいひとときだ。

(青野圭祐)

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INGO BEATS JACKET.jpg「面白くてカッコいいから、とにかく聴け!」

 本当はこれだけで十分なんだけど、それはあまりにもアレなので、蛇足になることを覚悟の上でいろいろ書いていきます。

 小学生レベルが鉄板で食いつくネタを、いい大人が綿密なプログラミングとサンプリングで音楽にしてしまった。それが、2011年07月21日(オナニーの日)に突如リリースされた「Ingo Beats Vol.1」というEP。

 司会のお姉さん口調の"みなさ~ん、チンポ好きですか~"から怒涛の下ネタが展開される「珍宝的 ~シーズン1~ The Chimpo -Season1-」。『Vitamin』以前の電気グルーヴを想起させる軽快なハウス・チューン「Sodc網頁開放!! SodcHPopen」。おそらくパクったであろうベースが特徴的な「珍宝何故勃起 Chimpo Wa Naze Tatsuno」。どこまでも馬鹿馬鹿しく、でも異常に完成度が高いトラック群。そこに『Voxxx』までの電気グルーヴが持っていた「自己破滅型の卑猥な狂気」を混ぜ合わせると...。あら不思議、見事な「Ingo Beats Vol.1」の完成というわけである。

 しかし、久々に"マラ"とか"ザーメン"と歌っている音楽を聴いたなあ(少なくとも日本語では)。「Ingo Beats Vol.1」には、今の日本に必要なものがあるとそこそこ思ってます。


(近藤真弥)


※このEPは、Vol4 Recordsのサイトから無料ダウンロード可能です。


 

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  日本においては、未だにダブステップについてあまり理解が進んでいないようにも見えるが、そうこうしている間にも、海外では新たに注目されているベース・ミュージックが存在する。それはシカゴを発祥とする"ジューク"と呼ばれるものだ。

 シカゴにおけるジュークは、シカゴ・ハウスから続く長いアンダーグラウンド・ミュージックの歴史に連なるものだ。よくジュークは「突然変異の音楽」と言われたりもするが、同時に、過去の偉大なるアンダーグラウンド・ミュージックの後継者に相応しい、謂わば「正統」と呼べるものも内包している。それはヨーロッパにも飛び火して、特に《Booty Call》や《Moveltraxx》といったレーベルが元気なフランスでのジューク熱はかなり高い。もちろん本場シカゴにはTraxmanという重鎮がいるし、ここ日本でも、D.J.Fulltonoが主宰する《Booty Tune》が重要な働きをしている。そして、ジュークが世界的に注目されるキッカケを作ったレーベルで外せないのが、《Planet Mu》だ。

 《Planet Mu》といえばIDMなどのイメージが強いかも知れないが、2005年あたりからグライムやダブステップのリリースが始まり、現在はジュークのリリースにも力を入れるなど、常にベース・ミュージックの第一線を走り続けてきたレーベルでもある(《Planet Mu》からリリースされたジュークのコンピレーション・アルバム『Bangs & Works Vol.1: A Chicago Footwork Compilation』は必聴盤)。

 そんな《Planet Mu》の現在を示すアルバムが『Room(s)』だ。マシーンドラムによるこのアルバムは、全世界のレコードショップにとって新しい悩みの種となるだろう。というのも、『Room(s)』にはテクノやダブステップ、ヒップホップにエレクトロなど、いくつもの音楽が混在している。その中でも特に目立つ要素が、前述したジュークだ。160近いBPMにぶっといベースがジュークの主な特徴として挙げられるが、シカゴやフランス産のジュークに多いストイックなトラックのそれではなく、R&Bの視点からジュークのプロダクションを取り入れたようなものになっている。僕も『Room(s)』を手に入れてから何度もDJでスピンしているけど、フロアで有効なのはもちろんのこと、『Room(s)』の魅力がより分かりやすくなるのはホーム・リスニングだろう。元々ポストPrefuse73として注目を集めたマシーンドラムだけに、職人芸とも言える音作りには定評がある。ひとつひとつの音が繊細で、ビート・プログラミングも秀逸。ベロシティ(音の強さ)など、細かいところまで神経が行き届いている。

 現在のベース・ミュージックのもっとも面白い部分のひとつとして、あらゆる音楽を横断し纏めてしまう編集能力が求められていることだろう。現在それをもっとも興味深い形でやっているのは、最近「Satin Panthers」をリリースしたハドソン・モホークだが、マシーンドラムは、ハドソン・モホークとはまた違う表現方法を用いている。ハドソン・モホークの場合、音楽的文脈に沿って聴くことに無理が生じる。というのも、ハドソン・モホーク自身意識的に他とは違う音楽を作ろうとしているし、その結果として、彼の音楽には「歴史性」が存在しない。あくまで自分の音楽体験を基に、ハドソン・モホークは音楽を生み出している。一方のマシーンドラムは、音楽的文脈を踏まえている。アルバムごとに作風が変わるのも特徴のひとつであるマシーンドラムだが、その都度「同時代性」を取り入れることで、彼は進化を続けている。

 しかし、マシーンドラムとハドソン・モホークには共通点もある。それは、様々な音楽を「接合」することによって曲が形成されている点だ(決して「切断」ではない)。「切断」は文化の「断絶」を引き起こし、これを主因とした細分化によってバラバラになってしまったものを、2人は再び繋ぎ合わせ「あるべき場所」へ、もしくは新たな居場所を与えているようにも見える。視点は違えど、2人のやろうとしていることは一緒だと思う。

 ちなみに僕が最近のベース・ミュージックを熱心に聴いているのは、「接合」による未知なる領域の拡大に対して興奮を覚えるからだ。こうしたダイナミズムというのは、ポスト・パンク以降のロックが時の流れと共に失ってしまったものだから。ブライアン・イーノとデヴィッド・バーンによる『My Life In The Bush Of Ghosts』以降、マルコム・マクラーレン『Duck Rock』、これに影響を受けたアート・オブ・ノイズ、さらにはダブステップなど、主にロック以外の音楽が「接合」の役割を担ってきたのは、偶然ではないと思う。これらの音楽によって彩られた文脈から生まれた「今」、それが『Room(s)』というアルバムだ。

(近藤真弥)

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ハウス・デ・ラケット『アレシア』.jpg  とてもゴダール的な作品と言っていいだろう。

  それはつまり、同郷という枠で括られがちなタヒチ80やフェニックスやジャマイカが予め備えているようなロマンティシズムと少しだけ温度のズレがあることを意味する。例えば、ゴダールの映画群に対して解像度を高めていこうとすると、知覚システム内部の誤認と不確定な知覚の領域の幅へと受容側は「追い込まれる」厳しさをときに包含してくるのと同じくして、世界中に許容されるダフト・パンクのビッグネスとは、或る意味で、LCDサウンドシステムが示唆した「(Daft Punk)Is Playing At My House」というところにあったのかもしれない。その文脈下では、Pierre Leroux、Victor Le Masneからなる男性二人組、ハウス・デ・ラケットの08年のファースト・アルバム『Forty Love』は「At My House」の部分が強過ぎたが為に、巷間に拡がりを持つことが出来なかった脆さとセンス("感覚"ではなく)だけが先走っていたきらいがある。それは、ファーストの頃のフェニックスの取り囲んでいた世界の磁場も想い出した。彼らの無邪気なハード・ロックへの興味や80年代な音を蒐集して、「あれもこれも」詰め込んだ時代錯誤性(アナクロニズム)を当時、距離を置いてシニカルに捉えていた人はフレンチ・カルチャーの持つ剽窃のベタさとスノビズムを事前にインストールしていたのかもしれないし、セルジュ・ゲンスブールのようにあくまで表層を転げてゆくことで、何らかの意味記号を逸れて、本質のための喪失を見出そうとする、かの国の、上品な下世話さとは、サンジェルマン・デ・プレ近辺を巡り、そこでの歴史を追認するまでもないと思うが、ハウス・デ・ラケットの場合も見事にその轍を踏んでいた。

  しかし、退屈であることを「退屈に語ろうとする所作」がゴダール的な要素を包含してくるとしたら、このセカンド・アルバム『Alesia』で踏み込んだ場所には、それに近いような美しい形式性に充ち満ちている。

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《Kitsune》からのリリース、フィリップ・ズダールのプロデュース・ワークということで更に注目度が上がった中での今作は果たしてどうなのか、というと、ジェントルな音響工作が練り込まれ、過度なキャッチーさやフックさを狙った作為よりも、仄かに立ちのぼるような儚いメロディーが目立つものになっている。ファーストに散見されたハード・ロック的な疾走やギター・ポップ的な軽やかさは抑え気味になり、「Alesia」、「Aquarium」に顕著な幾層にも重ねられたエレクトロニクス、サウンド・テクスチュアとドラマティックな展開が肝だといえるだろう。日本盤には「Roman」、「Chateau」、「Les Hommes Et Les Femmes」のデモがボーナス・トラックで収められているが、それとアルバムの本テイクを比べたら、明確に分かるくらい、非常に流麗なプロダクションに出来る可能性のある骨身があるにも関わらず、やや分厚めのエレクトロ要素で囲い込むことで、抜けの良さを「密閉」している。それでも、それによってエールの『テン・サウザンド・ヘルツ・レジェンド』やフェニックス『アルファベティカル』のような質感への"近似"を得ているのも事実だ。

  軽快でスマートな音楽の愉しさよりも、ラウンジ、アンビエント的な意味が深まり、濃霧で覆われた音世界の中で《雨が降ってる 北京の街 僕は待ってる だってもう終わりそうなんだ》(「Apocaklypso」)、《オルガンが君のために鳴り響く 君はずっとおぼえていてくれるかな》(「Chorus」)、《赤と黒 相違と一致 様々な道があるのさ まっすぐな道 斜めの道》(「Les Hommes Et Les Femmes」)というまるで映画のワン・シーンのセリフのようなりリリックが浮かんでは、聴き手の感性をぼやかし、仄かな浮遊感をもたらす。そして、そこで実際の濃霧が立ち込めたパリの街を想ってみるのもいいかもしれないが、そのパリも別に実在するパリでないような気もする。フレンチ・カルチャーの旧き良き伝統を引き継いでいる真面目な二人組という意味では、そこでも同時代性やリアリティとの距離があり、やはりゴダール的なのだと思う。

  この濃霧が晴れるころ、また、彼らは新しいヴィジョンも呈示してくれることだろう。

  確かなポテンシャルを感じさせる好作になったと思う。

(松浦達)