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MARITIME.jpgのサムネール画像  マリタイムは、理想的な「枯れ方」を体現してくれているバンドだと思っている。初期エモ・ムーヴメントの代表的バンド、プロミス・リングのフロントマンのデイヴィー・ヴォン・ボーレン、ドラムのダン・ディディアーを中心としたバンドで、今作は4作目にあたる(2作目まではディスメンバーメント・プランのメンバーも在籍)。

 プロミス・リングの最後の作品にして最高傑作であった『Wood/Water』で、彼らの音は円熟の度合いを醸し出すことに成功した。そしてプロミス・リングの解散を経てマリタイムが結成される。その間にはヴァーモントというアコースティック・ユニットが組まれ『Wood/Water』で得られたウォームな音がよりアットホームな感覚で鳴らされている良盤がリリースされてもいる。しかし、マリタイムのキャリアはそれとはまた異なり、深みを増していくと同時に、アルバムを重ねる度に初めてバンドで音を鳴らしたときの瑞々しさに立ち返っている。今作でも、その瑞々しさはさらに顕著になったと言える。特に「Paraphernalia」は、バンドとしてのキャリアが15年に及ぼうかとしているとは思えないほどの眩さ、と同時にキャリアを経ることで得た憂いが同居している名曲である。

  過剰な装飾や、必要以上のシリアスさを感じさせない、日常に横たわる普遍性を追求し続けた結果の音がここでは鳴らされている。プロミス・リングが謳歌すべき青春であり、『Wood/Water』がその終わりであるならば、マリタイムはまるで、西に傾いていきつつも輝きを増していく太陽に例えられると思う。そして今作を聴く限り、マリタイムという太陽は沈むことなくまた輝きを放つだろう。

(藤田聡)

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スガシカオ.jpg  社会学者のマックス・ウェーバーは、西洋近代文明に対しての根本原理は合理化だと置き、そこで「個人」は剥き出しになったまま、知や価値観の持ち方が分化していく過程を説明した。文明や文化が進捗し、形を為す毎に、砂のように崩れる人間の存在性―。また、精神病理学者のヤスパースは彼に私淑していたのだが、彼は「自分の城を持とうとする者は、破滅する」と言っていた。つまり、自分は「自分として」「在る」わけではなく、他者相互・関係の下に「成立」する訳であり、もっともそうな「我、想うゆえに、我あり」ってフレーズ自体は、マスタベイティングに自我の破損・欠落をもたらすのではないか、という懸念を生み出す。「自分の城を築きあげる」ために、努力をして、煉瓦を買って、塀を高くして、扉に鍵をして、誰も入れなくなったとき、そして、呼吸だけ出来るような穴を開けて、生きようとしたときに、人間は寧ろ、生きられなくなる。「自分」なんか、寧ろ要らないのだと思う。

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 常に社会的人間として、生きるがゆえの劣等感や被害者意識を纏い、生物的な人間性に向けてサディスティックともいえる妄執をファンク調のサウンドにのせて、「きみやぼくを巡ってのあれこれ」を歌ってきたスガシカオがラブソングを主体にしたというアルバムがこの『SugarlessⅡ』である。タイトルのとおり、新たなアルバムというより、新曲、セルフカバー、B面をベースにした『Sugarless』の第二弾の意味も勿論、孕む。

 01年の『Sugarless』の第一弾のときは、シングルのB面集の形を取りながら、彼のロウでラフで人間の業が内にこもりながら、妙な攻撃性を持っていた。そこに入った「マーメイド」といった新曲にしても、いやらしい大人の匂いを巡って少年性のロマンや青さの余地をシニカルに捉えるダークなものだった。ただ、今回、同じく1曲目に新曲としておさめられた「コーヒー」では、全く手触りが変わっている。近年に強く出てきた「雨あがりの朝に」のような優しく、"含み"があまりない曲で、ストリングスを交えた流麗な旋律を奏でながら、《こんな遠回り ぼくの手はきみに届くの? 》という、届きたくても、届かない心の距離をこぼしたコーヒーのしみのようにどうしようもないということを歌う。そして、他にもミスターチルドレンの「ファスナー」を桜井氏とカバーしている温度も、嵐に提供した「アオゾラペダル」のカバーも、シングルのB面サイドに入っていた曲群にしても、穏やかで優しげなものが敢えて選ばれている節がある。

 しかし、この10年で彼の闇は、こうして浄化されていったのか、というと、そうではないと思う。♂/♀としての次元まで降りていき、本能中枢を刺激する域内で迷いながら、模擬的なカタルシスとして、彼は人間という生物の因業を知的に暴く視角が少し変わったということなのだろう。10年代に入って、再び綺麗言やスローガンが思考停止的な"それ"を指すようになった今、彼の優しさは、「君」の服を脱がすこと―芸術やアートや、表現や生活が着込みすぎていることに接触する。そして、その服を脱がして「消毒」して、消毒後、まだ「きみとぼく(ぼくら、ではなく)」がそこに立っていたとしたら、所詮そんなものなのだろう、という刹那さがこのアルバムでは目立つ。

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 少しだけ整理をすると、彼自身を巡る磁場には幾つもの誤解やバイアスが纏わりついていて、熱狂的に彼を愛する人も毛嫌いする人も、要は、ある一定の「文法(スティル)」に縛られていると言える部分があり、それは村上春樹がスガシカオが好きで、スガシカオも村上春樹や大江健三郎が好きで、といった側面もそうであろうし、彼の言う「ファンク」が決して字義通りの「ファンク」ではないところにJ-POPものにおける立ち位置の微妙さを際立たせているのだと思う。加え、明らかに優しくなっていき、ノリやテンションが重視されてきた近年の作風には穏やかな勝ち組サイドからの大人としての戯れを感応した人も居るかもしれない。

 個人的には、初期の文学性が良い、とか、彼の描く世界観がどうとか、そういう表層で判断するアーティストではなく、彼の人間としての「正気」を信じている部分がある。彼の歌そのものには正直、声量がないかもしれないし、ファンク的な要素が程好く混じった隙間の多く、流麗なサウンドワークと歌謡曲的な部分も備えたメロディーのベタなキャッチーさ、そして、「夜空ノムコウ」を筆頭とした歌詞面での独自性と曖昧さをして、聴く人が聴いたら、巷間のシティー・ミュージックやJ-POPものと差別化するのさえ、難しいかもしれない。ただ、彼の積極的に、希望の余白を歌わないアティチュード、目の前の生生しい現実を譜割としては難しいし、歌詞用言語としては"使わないだろう"言葉をさらっと使いながらも、よくよく細部を聴くと、スティーヴィー・ワンダー、カーティス・メイフィールド、アル・グリーンなどのニューソウル系譜の音の出し入れをしているのを伺えるところやスライ、プリンス含め相当なレベルで「黒い音楽」を摂取しているセンスに唸らされてきた。しかしながら、シングルとしては06年の「午後のパレード」、アルバムとしては08年の『Funkaholic』、10年の『Funkastic』の近年二作のストロークの大きさ、躁的な振り切り方は気にもなりつつ、興味が離れてゆくところはあった。そういったことに、もしも、本人もとても「自覚的」にフラットに舵を取り直す意味で、この『SugarlessⅡ』を今、リリースすることを考えたとしたならば、過去・現在・未来におけるスガシカオ像を補整し直せる見渡しのよさがあると思うし、ここから彼の音楽に触れる人たちにとっても、いい作品になった気がする。

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 サウンド・メイクとしては、以前よりもデジタルな感触とハイファイで80年代風の大きなアレンジが増え、弾き語りのようなラフの曲でも、張り詰めた感じよりも穏和さが前景化している。そこに彼の例のザラッとした声と時折、いびつな歌詞が置かれる。

《ぼくらが生きていく理由なんて きっとちっぽけな理由しかないような気がするんだ》「夏陰」

《彼女に電話した 何か別の用で 「あ...そうなの?」ってゆう返事 まぁ そんなもんでしょう》「コンビニ」

《君をダメにしたのって 誰のせい? そう全部 ぼくのせい》「ネコさん」

 ここでの主人公たちは皆、倦怠や懶惰を明らかに抱えている。諦観といってもいいくらい、くたびれた中で、「個的(孤的)」なものであり、同時にどこかに拓けてもいて、またとても悲惨で残酷で、「閉塞性の高い」描写で巡りまわっている。それは、現実の輪郭をなぞったときの「そのまま」に近いものであって、彼は基本的に、現実なんて碌なものでもなく、人間関係とは拗れることで始まるものがあり、セックスをサブライムな何かへと昇華させるべきではなく、男性側の本能的な(権威欲、支配欲に絡んだ)陰湿さとか女性側の(生物的な)朗らかな闇へと静かに降りてゆく。やはり、そういう意味では、これは『Sugarless』の続編であり、ラブソング集なのだと思う。

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 偶然にもといおうか、彼がリスペクトしてやまない岡村靖幸の帰還と、彼のこのラブソング集は奇妙なコインの裏表を描くことになるだろう。つまり、スガシカオは岡村靖幸でいう『禁じられた生きがい』(彼はこの作品で論文でも書けるとラジオで言っていたことがある。)をモノにできなかったから、「身体」ではなく、「都市」を目指した。その都市は観念内で増設されたループが紡がれる。それは、大江健三郎の『奇妙な仕事』というテーマを髣髴ともさせる。『奇妙な仕事』とは、実質、彼の公的には(駒場の雑誌に「火山」も載せているが)、処女作で、150匹の犬が居て、そこに「女子学生」、「私大生」、「(国立大生たる)僕」が「犬殺し」のバイトとして、参加をする。一日50匹しか「処理」出来ないので、100匹は次の日に残り、そこで、「犬殺しの講師」はその100匹に餌をやるが、私大生が「明後日には全部殺してしまうんだろう?それに餌をやって手なづけるなんて卑劣で恥しらずだ。僕はすぐに殴り殺される犬が、尾を振りながら残飯を食べることを考えるとやりきれないんだ。」と言う。それを受けて「犬殺しの講師」は「後の100匹を飢えさせておくのか。そんな残酷なことはできない。」と返すというような、極限の対立に向き合った作品であるが、ラブソングというのはときにそういう「性質」を帯びてしまうものでもあり、スガシカオのこのアルバムでもそういった「対立」の「対立」として、砂糖抜き(Sugarless)のコーヒーを頼み、飲まずに(飲めずに)こぼしてしまった痕を見て、遠回りして行こう、ということを歌っている。その遠回りは決して、無駄じゃないかもしれない。

《ぼくの足がからんで 道に倒れるまで走ったら この街の向こうへ 自由へ 君を連れて行けるのかな たぶん 春の夢のように》(「黒いシミ」)

(松浦達)

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宇野常寛『リトル・ピープルの時代』.jpg  批評家・宇野常寛氏の新刊『リトル・ピープルの時代』が発売された。

 2011年という年は東日本大震災と福島原発の問題という日本という国にとって未曾有の危機を迎え、その結論も先行きもまだ見えていない。宇野氏は第一章と第二章の原型となった部分が仕上がった直後にあの大震災後が起き、彼はこの震災の事を考えに考え抜いて彼の中で繋がり始め全てを書き直す事になった。

 そして発売されたのがこの『リトル・ピープルの時代』だ。500ページを越えるこの新刊は大震災後から村上春樹と彼が用いた「壁」と「卵」の比喩からこの本の目的を書く序章から始まり、第一章は村上春樹を取り上げながら『ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ』を、第二章はウルトラマンから仮面ライダーを扱いながら『ヒーローと公共性』を、第三章では貨幣と情報のネットワークが世界をひとつに繋げた世界『拡張現実の時代』を、第一章から第三章までを繋げた「大きなもの」への想像力を取り戻す『石巻のリトル・ピープル』と補論が三つ、その一『「ダークナイト」と「悪」の問題』、その二『AKB48ーキャラクター消費の永久機関』、その三『<歴史>への態度ー「宇宙世紀」から「黒歴史」』と全三章と補論三章から成る。

 本書を読んだ感じとしては宇野氏が大震災後に考えに考え抜いた震災後の社会と文化においての「鍵」を彼がきちんと呈示するために、多くの人に読んでもらうためという気持ちが前面に現れている。

 一つは圧倒的に読みやすいと言う事だ。村上春樹の小説を読んだ事がない人も、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』や『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』や『木更津キャッツアイ』をたとえ知らなくてもこの本は読める。それはそれらについての説明が丁寧になされ関係性やどう社会の影響を受けているのか、あるいは社会を映し出していたのかが本当に丁寧に書かれている点だ。

 500ページのこの本は確かに分厚いし少々重い。聖書かと思うぐらいに厚い/熱いがだからこそ彼が伝えたい事が丁寧に読む側に伝えようとする意志の元で書かれている。伝えようとする意志がページを次へ次へとめくらせていく。そうして本のページはどんどん減っていき気が付いたら終わってしまう。

 第一章では村上春樹『1Q84』における「リトル・ピープル」から『ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ』を展開する。

 「ビッグ・ブラザー」とはジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』に登場する独裁者、正確にはカリスマ的な独裁者の疑似人格的なイメージ(キャラクター)の事。60年代末は「政治の季節」であり「終わりの始り」だった世界的な学生反乱の時代であり、フランス五月革命にベトナム反戦運動に日本の全共闘運動があり、その敵はビッグ・ブラザーつまり国民国家を形成する大きな物語が発揮する権力だった。

 「リトル・ピープル」とは『1Q84』に登場する小説『空気さなぎ』に登場するカルト教団「さきがけ」が崇める超自然的な存在。私たちは誰もが、老いも若きも男も女も、ただそこに存在しているだけで決定者、すなわち小さな「父」として不可避に「機能してしまう」時代・現代において世界は小さな「父」=リトル・ピープルたちで溢れている。

 貨幣と情報のネットワークが世界をひとつにつなげた結果、これまで触れ合うことすらなかった「父」同士が衝突するようになった。<911>に現れた新しい暴力、グローバル化の反作用の本質がある。

 日本人の小説家として世界で唯一とも言える知名度と評価される作家である村上春樹は、この加速度を増すリトル・ピープルの時代に追いつくのも精一杯な現状である。それは「文学」と呼ばれる想像力の敗北でもあると宇野氏は告げる。

 現在の世界と私たちとの関係を、「巨大なもの」のイメージを捉えるために村上春樹と比肩し得るのは国内の市場評価と国外における文化的評価されているポップ・カルチャー群である。ビッグ・ブラザーとは『ウルトラマン』であり、リトル・ピープルは『仮面ライダー』であるのだと。春樹作品における「井戸」をひたすら潜り続け、つながることのない壁を越えてつながるコミットメントのための思考として。

 批評にも想像力が必要だ。と彼は告げる、つながることのなかったものをつなげていくために深く深く潜る。そして自然と壊死していったビッグ・ブラザーと今や世界中に溢れているリトル・ピープルから第二章『ヒーローと公共性』へと批評は繋がっていく。

 ウルトラマンと仮面ライダーは国内市場による存在感と海外における文化的評価を保持している点で春樹以外の作家を挙げるよりも妥当である。前者は60年代の「政治の季節」に後者は70年代の「政治の季節」の終わりに社会現象化することで国内のポップカルチャー全般に決定的な影響を与えた。

 『ビッグ・ブラザー』は誰かに倒される事もなく自然と壊死していった。「政治の季節」が終わり、リトル・ピープル的なヒーローである仮面ライダーが出現し世界から政治性を物語性を排除した。

 ウルトラマンは「光の国」という外宇宙のユートピアから来訪した超越者だったが、仮面ライダーはショッカーの一改造人間が脱走し反旗を翻した存在だった。ウルトラマンには「光の国」という<外部>から揺るぎない正義を人類社会に持ち込む事ができたが仮面ライダーには<外部>が存在しないことを意味していた。

 「ここではないどこか」から「いま、ここ」へ。

 『ウルトラマン』と『仮面ライダー』の作品群や長年の流れを現実社会の変化と関わりから紹介していく。70年代後半から80年代かけて大きく発展したロボットアニメ群『機動戦士ガンダム』や『マジンガーZ』や『新世紀エヴァンゲリオン』に代表される男子児童の成長の受け皿としての、拡張された身体=依り代としてのキャラクターとして位置づけ、進化させていった。

 これらは父親(祖父)からロボットを与えられ社会自己実現の機会を得る表現構造を踏襲している。戦後日本(=12歳の少年)が迎えた消費社会下の男子児童に強く支持されていく。ロボットアニメという表現が70年代後半から80年代にかけ台頭した。ロボットという装置は男性性の虚構化(拡張)による擬似的な獲得であると同時に壊死を始めたビッグ・ブラザー(の語る大きな物語=歴史)を代替するものとして機能した。『スーパー戦隊』シリーズ『メタルヒーロー』シリーズがそれらのアニメブームと共に70年代から80年代前半に(特撮)ヒーロー番組の中核を担うことになる。

 第二章はこれらの年代的な影響などを順だって記述しながら日本におけるヒーローの歴史をわかりやすく記している。そして1995年がやってくる。阪神大震災とオウムの地下鉄サリン事件という悪夢が日本を揺るがし、その後の監視社会の始まりでもあったと思う。一方ではウインドウズ95の発売によりインターネットが普及し始めた年でもあり、村上春樹を「転向」させた年だった。

 その後の春樹作品にはオウム地下鉄サリン事件と阪神大震災が象徴的に扱われる事になる。そして怪獣映画/ウルトラマンは息を吹き返す。ビッグ・ブラザーの復活ではなくその死を確認する想像力を発揮させる。平成『ガメラ』シリーズ、平成『ウルトラマン』、『エヴァンゲリオン』はその不可能性を体現しながらその後のリトル・ピープルの時代の想像力の萌芽を残していくことになる。

 ビッグ・ブラザー≒ウルトラマンの死を明言する事で『エヴァンゲリオン』は社会現象となり、第三次アニメブームを牽引し、文学、ポピュラーミュージックなど他ジャンルにも広く影響を与えていくことになる。そしてこの時期にインターネットの普及に伴い拡大していった現代のオタク系文化の消費者コミュニティの下地が整えられていった。

 ビッグ・ブラザーが完全に死滅した新しい世界=リトル・ピープルの時代が始まっていく。その変化がほぼ完了したときに『仮面ライダー』=リトル・ピープルが意外なかたちで再び復活を遂げた。

 サンフランシスコ体制のもたらした戦後的「ねじれ」を正面から引き受け/引き受けざるを得なかったウルトラマンに対し、浅草東映的な娯楽時代劇をルーツにもち、石森章太郎の原作に存在するアングラ・カルチャー的な政治性すらも剥奪した仮面ライダーというヒーロー、いや表現の回路がリトル・ピープルの時代に息を吹き返す、いや本来のポテンシャルを発揮しだしていくのが平成『仮面ライダー』シリーズである。

 春樹も昭和のヒーローもいかにして「父(正義の執行者)になる/ならない」を問うことで表現を成立させていたが、生まれ変わった『仮面ライダー』たちが直面したのは自動的かつ不可避に世界に溢れかえっている「父」たちの世界だった。そこで問われるのは「父」たちの関係性、いかにして「父」同士がかかわるか、だった。

 そしてここからが『リトル・ピープルの時代』の想像力を宇野氏がさらに突き詰め、批評していく本書のメイン部分になっていく。ここまでは、ここに至るまでの大事な過程だろう。なぜ『リトル・ピープルの時代』になったのか、どういう歴史の元にヒーローが作られて自己批評をしていったのか。そこを読みやすく何度も大事な事は反復しながら書く事でここでの語りや批評性が増していく。

 そこは僕が思うには園子温監督作品のように冒頭や物語序盤は主人公たちのモノローグがこれでもかと語られるのに似ている。その理由について園子温監督は冒頭で主人公たちの内面を出していく事で彼らのその後の行動に観客に違和感が起きなくなると語っていた。

 平成『仮面ライダー』が直面した世界に溢れかえる「父」たちの関係性と「父」同士がかかわるかを描き批評するためにそれまで歴史や繋がり流れをきちんと呈示することで『リトル・ピープルの時代』がより明確に読者に伝わるように展開されている。

 平成『仮面ライダー』シリーズの第1作『仮面ライダークウガ』から第11作『仮面ライダーW』までを順を追っていく。その間にはアメリカ同時多発テロ 通称「911」が起きている。「911」以後の世界に「正義」は存在しない世界で仮面ライダー同士がバトルロワイヤルを行い、最後の一人までになるまで戦いが終わらない第3作『仮面ライダー龍騎』などが現れる。

 「リトル・ピープル」が世界中に溢れかえり『貨幣と情報のネットワークが世界をひとつにつなげた結果、これまで触れ合うことすらなかった「父」同士が衝突するようになった。「911」に現れた新しい暴力、グローバル化の反作用の本質がある。』というものだ。

 そこでは彼らは正義ではなく自らの欲望のために戦う。そこにはかつての大文字の「正義」はない。あるのは欲望だけだ。あるいはいかにケリをつけるのか。

 平成『仮面ライダー』シリーズの世界を旅し、その9作品のライダーに変身する能力を持つ第10作『仮面ライダーディケイド』において過去ライダーに変身するだけではなく召喚する事が可能になる。データベースとしての機能が彼の進化である。それは「壁」であり「システム」自体であるヒーローを生みだした。

 そして第三章では世界はもはや革命では変化しない。この世界を受け入れ、徹底して内在し、ハッキングすることでしか更新されない『拡張現実の時代』について。現代における「コミュニケーション」それ自体が「キャラクター」化と通じ、現実の多重化=<拡張現実>を孕む。そのために「コミュニケーション」と「キャラクター」について語られ終章『石巻のリトル・ピープル』へと。

 この本は宇野常寛という批評家のファンや気になる人が大多数読むだろう。村上春樹を読んだ事のなかった若い読者が彼の小説を読み始めたり、年齢層の高い読者が平成『仮面ライダー』シリーズを見始めるかもしれない。そういうある種の新しい出会いも引き起こすかもしれない。

 そうじゃない人には向かないかと言われるとそうじゃない人に読まれたい、読んでもらいたいという意向も読んでいて感じる。それが宇野氏の<拡張現実>であり、彼が批評の言葉や時代に合った言葉をきちんと伝えていこうとする明確すぎる意志と真摯な態度だ。そして、この本の印税は被災地に寄付される。

 レヴューというよりは紹介になってしまったが多くの人に読んでもらいたい本だ。

(碇本学)

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V.A.『HARUTA EP』(Lowfer Records).jpg『Haruta EP』は、ダブステップがダブステップを自ら取り込み、進化していることを証明するコンピだ。

 国産ダブステップ・レーベルとして、6月にオープンした《Lowfer Records》が放った最初の一手に収録されている楽曲群は、ダークな2ステップが雛型となって生まれたのがダブステップとするならば、ダブステップから逸脱している。元々ダブステップは非常に高い順応性を持った音楽だけど、その順応性を主因として進んだ多様化のなかで、ダブステップはダブステップを超えてしまった。そして、この「ダブステップを超えたダブステップ」が、「ポスト・ダブステップ」と呼ばれる音の正体だと思う。しかし僕は、「ダブステップを超えてしまった」音を「ポスト・ダブステップ」と呼ぶことに、違和感を覚えてしまう。強いて言うなら、「ベース・ミュージック」ではないだろうか?まあ、なんとも曖昧な言葉ではあるが、現在進行形で進むこの混沌とした音楽を表すには、適した言葉だろう。

《Hessle Audio》からリリースされた『Hessle Audio: 116 & Rising』や《Planet Mu》の『14 Tracks from Planet Mu』といったコンピ、それからアフリカ・ハイテック『93 Million Miles』などがダブステップ以降のベース・ミュージックを上手く鳴らしているけど、『HARUTA EP』は、これらに匹敵するくらい現在のベース・ミュージックと未来を表している。曲単位では、ニュー・エレクトロとダブステップをごった煮したような相対性理論「Miss Pararel World (Loco Edit vvotaro retouch)」や、曲名が表すように、弾けるような爽快感が気持ちいいMononofrog 4sk「Soda Float」が、ヘヴィさを保ちつつも、国産らしい軽やかなグルーヴを生み出している。日本からも、こうして素晴らしいベース・ミュージックが生まれていることを我々はもっと知るべきだし、『Haruta EP』は、その第一歩として最適なコンピであるのは間違いない。

(近藤真弥)


追記 『Haruta EP』は、Lowfer Recordsのホームページで無料ダウンロードできる。


 

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Hudson Mohawke『Satin Panthers』.jpg『Butter』ではサイボトロンやアウトキャストなど、実に様々な影響を感じさせる音を鳴らして見せたハドソン・モホーク。そんな彼が届けてくれた最新EP「Satin Panthers」には、今まで以上に強烈なパワーが宿っている。

  本作から感じ取れるのは、エレクトロやヒップホップにR&Bはもちろんのこと、ダフト・パンクや初期レイヴを想起してしまう瞬間もある。つまり、『Butter』を超えるいろんな音が散りばめられているわけだが、個人的に本作が持つパワーは、初期レイヴの要素が大きな役割を果たしていると思う。しかし何よりも重要なのは、ハドソン・モホーク自身が我々を驚かせようと、意識的に他とは違う音楽を作っている点だ。しかもストイックな求道者のそれではなく、自分のなかにある趣向を躊躇なく表現する遊び心によるものだ。それはまるで、おもちゃ箱をひっくり返し、無邪気な笑みを浮かべて遊んでいる子供のようにも映るけど、そんなハドソン・モホークが生み出す音楽は「過剰」ですらある。しかしその「過剰」さは、ジャスト・ブレイズ(カニエ・ウエスト、ジェイ・Z、リル・ウェインなど)のような売れっ子プロデューサーがツイッターで本作を絶賛したように、世間ではすんなり受け入れられている。

『Butter』リリース時に、クッキーシーンのインタビューで「特にメッセージっていうようなものはないと思う」と前置きしながらも、「ただ僕が好きないろんな要素を混ぜ合わせて作った作品だし、もし何かそこから言えるとしたら、100通りの別なスタイルを混ぜ合わせたってOKなんだってことだけかな(笑)」と答えたハドソン・モホーク。「Satin Panthers」でもこの姿勢を貫き、さらなる進化を果たしている。そしてこの姿勢を貫きながら、もっともアルバムが待たれるアーティストへと成長した事実。この事実には、多くのアーティストが見習うべきものがある。「過剰」であることに躊躇する必要はないのだ。

(近藤真弥)

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naomigorokikuchi.jpg  ボサ・ノヴァが緩やかにアメリカのミドルクラス・サイドのラウンジ・ミュージックへと回収され始めた1960年代初頭、本来持っていたブラジル発信の「ボサ・ノヴァ」の持つ先鋭性や反骨の要素因子は如何せん対象化されていたところがあったのは否めない。元来、ボサ・ノヴァはリオの海岸地方に住んでいたジョビンなどを筆頭に台頭した「うたごころ」も備えたものであり、同時期に行き交ったジャズ・サンバは、マンフレッド・フェスト辺りのジャズ側からのアプローチに伴うブラジルのリズム感覚に沿ったモダン・ジャズと言えた。としたならば、いまだに名盤扱いされている63年にレコーディングされた『Getz/Gilberto』という作品は、どのような場所での座標軸を定めるべきなのか、曖昧にされている領域があり、曖昧にされることでマスターピースに成り得ているともいえる。ボサ・ノヴァの歴史のコアを担う錚々たる面々、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ミルトン・バナナなどに混ざって、白人の当時は少し人気が凋落気味だったスタン・ゲッツがテナー・サックスを持ち込むというボサ・ノヴァとジャズの関係性の複雑さをポップネスに漂白した形で落とし込んだアルバム。世界的にはブレイクし、尚且つ、それまでボサ・ノヴァやジャズ・サンバに疎い多くのリスナーも「巻き込んだ」と言えば、響きはいいものの、この作品によって、ボサ・ノヴァの商業化に拍車化を掛け、必ずしもクールやアンクールでは語られない音楽形式(ボサ・ノヴァは形式ではなく、アティチュードだった)であるはずなのに、70年代に入り、緩やかなアンクールの称号がアメリカを中心にして消費されてしまったのは周知の歴史かもしれない。

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  今回、Naomi&Goroが菊地成孔とコラボレーションして、この『Calendula』をリリースする運びになったが、現在でも今作を巡って行き交う多くの音楽評は『Getz/Gilberto』的な磁場を巡るものだったりする。Naomi&Goroといえば、布施尚美女史と伊藤ゴロー氏からなる本格的に且つオーセンティックにボサ・ノヴァを追求するデュオであり、その世界観はほぼ確立もされている。そこに、あのプロデューサーとしてのセンスも長けており、ときに蠱惑的なサックスを吹くジャズメン、菊地氏の参加がどういった影響が起こるのか、正直、僕は不安が募った。しかし、結論から言うと、お互いがお互いを牽制し合っていないという意味に沿って、艶めかしい涼やかさを感じる内容になったのは好ましい。ここに、イージーリスニングやヒーリングの成分やCTI辺りの空気を見出せる人たちもいるのだろうが、もっと良質な音楽そのもの豊かさを取り戻そうとする蛮性もある。選曲にしても、書き下ろしの曲やジョビンなどの曲のみならず、流麗に再構築されたプリファブ・スプラウトの「The King Of Rock'n Roll」や叮嚀に纏められたホール・アンド・オーツの「One On One」、布施女史の声が柔らかく弾み、ピアノとサックスのミニマルな絡みが美しいブリジット・フォンテーヌの「Brigitte」などベタながら、興味深い11曲が収められている。欲を言えば、菊地氏絡みのワークであるならば、UA×菊地成孔のときのような「Over The Rainbow」のような大胆なアレンジがあっても良いと思ったが、そこを抑制の美で纏めたところは菊地氏がNaomi&Goroの良さを引き立て、尚且つ、彼らが菊地氏により有効なフィードバックをもたらすような「関係性」が「Getz/Gilberto的な何か」ではない形で良い方向性を向いているということを表象している気はする。個人的には、「イパネマの娘」のようなサービス・トラック(勿論、これが入口になってもいいと思うが)は入れなくても良いのではと感じたりもするが、"ボサ・ノヴァ×ジャズ"といった距離感へ訝しさを持つリスナーやフラットに軽やかで流麗な音楽を聴きたいリスナーにとっては「感性のクールダウン」を要求させるという意味で、2011年の「今」に相応しい音楽になったという気がする。

  不穏な時代こそ、こういった透き通った質感を持った音楽が個々の感性に風穴を開けて、空気を送り込み、"三月の水"を飲める逃避行へと導くべき路を示すとしたら、ひとまずこの作品の上梓を僕は喜びたいのとともに、大きな音で静かに聴きたい内容になったのには快哉を叫びたい。

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  最後に、このアルバムを聴いて、ジョルジョ・アガンベンの「インファンティア」という言葉を喚起した。インファンティアとは、「非言語的」ではある訳だが、言語がそこを前提として成立していくような「閾(いき)」ある。そこで、言葉は「閾」から、何かしらの新しい衝動を獲得して、言語的な何かに向かって生じるものである。だからこそ、「歴史を語る」にしても、美術表現にいたるのも、そもそもが「インファンティア」に発し、「インファンティア」に根付いているものなのだとしたら、この作品はしっかりとインファンティアに対峙していると思う。

(松浦達)

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PLASTICGIRLIINCLOSET.jpg  岩手発、最強の新世代ギター・ポップ・バンド、プラスチック・ガール・イン・クローゼットのセカンド・アルバムが到着。(夏ならではの?)切なさ、もの悲しさを鮮明にサウンドに乗せつつ、クリアに、そして優しく聴かせてくれる。ノイズ・ギター、ピュアなメロディ、真っ直ぐなヴォーカルなどが溶け合ったマジカルなサウンドは、ノスタルジックな要素が満載ながらも「現在」の音として新鮮に響く。そんな器用さが全く嫌味に聞こえない理由は、全12曲を一気に聴かせてしまうテンションの高さが、ちゃんと彼ららしさになっているからだと思う。そ・オてとにかくメロディが美しい。マイナー・コード主体でメランコリーの深い霧が全編を包み込むも、暗い印象は与えない。それが彼らの持ち味なんだろう。風を斬るような勢いのあるギターも、かっこよくキメることをどこか恥じらっているような控えめさが美しく見え隠れ。

(粂田直子)

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ねごと『ex.Negoto』.jpg『メルシールーe.p.』を初めて聴いたときに予兆は感じていたけど、『ex.Negoto』は、痛みを鳴らしている。『Hello!"Z"』「カロン」で見られたポップネスをそのままに、『メルシールーe.p. 』では聴く者の心を抉るようなエッジと感情の「揺らぎ」を表現したねごと。この一連の集大成としてリリースされた『ex.Negoto』は、文字通り傑作となっている。

 アタックが強いピアノとドラムが印象的な「サイダーの海」から始まり、「ループ」「カロン」、さらに「ビーサイド」を挟んでの「メルシールー」という疾走感溢れる前半は、彼女達の成長をドキュメントしているようで非常に感動的な流れだ。特に「ビーサイド」「メルシールー」で心を鷲掴みにされる瞬間は、何度聴いても「ゾクッ」とする。

 そして叙情的なピアノが心地良いミドル・テンポな「ふわりのこと」から、『ex.Negoto』におけるねごとの新たな一面が顕在化していく。アイディアと遊び心がたくさん詰まった、まるで初期XTCのようなユーモア・ポップを想起させる「七夕」。シューゲイザー的な轟音、といっても弱々しい最近のシューゲイザー・バンドのそれではなく、ソニック・ユースや、これに匹敵するハードさを持っていたから受け入れられたマイ・ブラッディ・ヴァレンタインなどのバンドをちゃんと理解した音が鳴っている「Week...end」。「七夕」「Week...end」の2曲は、主に90年代オルタナへと通じるコアな音楽性を持っていることが証明されている(特に「Week...end」はそうだろう)。この要素は、耳が肥えた玄人リスナーを惹きつける大きな武器となるはず。

 アルバム全体を通して複雑で曖昧な感情を表現し、その結果として、『ex.Negoto』はすごく情緒的なアルバムになっているが、その情緒的な部分がどんどん露わになっていく「季節」「AO」「揺れる」が並ぶ終盤の流れ。この終盤は、我々が成長する過程で必ずぶつかってしまう「行き場所がない不安な感覚」と、それでもどこか楽観的に歩みを始めてしまう根拠なきポジティブシンキング。そして、これら両極端な感情の狭間に存在する「ナニカ」を内包しているように感じる。それはまさに「複雑で曖昧な感情」で、未来を形成する可能性にもなれば、簡単に絶望へと変わってしまう繊細で心許ない「揺らぎ」だ。結局のところ、我々はこの「揺らぎ」と死ぬまで付き合うことになるわけで、それだったら、より楽しく生きるほうがいいに決まっている。もちろんそれは大変なことだけど、壮大な青空を眺めているようなスケールを携えた「インストゥルメンタル」を聴くと、そう難しいことではないような気がしてくるから不思議だ。まあ、僕の若さがそう思わせてしまうのかも知れないが...。しかし、ねごと自身が既に『ex.Negoto』の地点から旅立ち遠く先を見据えているように、彼女たちはこれからも数多くの未来と可能性を、我々に見せてくれるはず。『ex.Negoto』は、そんな希望の始まりとして生まれた素晴らしいアルバム。

(近藤真弥)

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THE WOODEN BIRDS.jpgのサムネール画像  ヘッドフォンの両極で、ウォームで朴訥とした、木の匂いを感じさせるドラムとパーカッションがかたかたと軽快に鳴る。前作同様のこのスタイルが実に気持ち良い。ステレオ・ラブやピンバックがアコースティック編成になったようでもあるが、際立ってフォーキーであるところが唯一無二であるし、やはりアメリカン・アナログ・セット同様、何よりもメロディの立ち方が最優先されている。

  ウッデン・バーズは、90年代からオースティンにて活動していたローファイ・バンド、アメリカン・アナログ・セット(再始動を切実に求めてます)のフロントマン、アンドリュー・ケニーを中心としたバンド。本盤は二枚目のフル・アルバムにあたる。アメリカン・アナログ・セットでは、抑制されたビートや独特な音色のジャズマスターが緩やかなテンポで淡々と響き、じわじわと内省的なカタルシスが込み上げてくるような姿勢が、全てのアルバムで変わらず貫き通されていた。いわゆるリビングルーム・ライク、ベッドルーム・ライクなバンドであったのだが、こちらのプロジェクトでも、その姿勢は貫かれている。対照的であるのは、そういったアットホームな形式を崩さないまま、アメリカン・アナログ・セットの内省さから解放されたかのような、外に向いたスタイルであるという点である。友達を沢山招いて、自宅の庭でアメリカン・アナログ・セットの曲を演奏でもしたかのような雰囲気が漂う。それは前作がより顕著であったのだが、本盤にもその流れは汲まれており、かつてのアメリカン・アナログ・セットらしいナンバーもいくつか垣間見える(5曲目、9曲目なんて正に)。

 ハイハットからシェーカーに、ドラムはスティックからブラシに持ち替え、繊細にヴィブラートをかけたギターのメロディは伸びやかで柔らかい。とりわけ、各音の配置、アコースティック・ギターの豊かな響きは格別だ。ベン・ギバードやマット・ポンド(こちらは正式にメンバーとしてクレジットされている)などのゲスト陣に囲まれていながらも、相変わらずアンドリュー・ケニーはいまいち派手さに欠けているが、派手かどうかなんてことは些事たるものである。

(楓屋)

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The Blanche Hudson Weekend 『Reverence Severance And Spite』.jpg  根暗じゃないジーザス・アンド・メリーチェイン? ノイジーなガレージ・ロックをやりだしたストーン・ローゼズ? まあ、どんな呼び方でもかまわないけど、元マンハッタン・ラヴ・スーサイズのダレンとキャロラインが新たに始めたバンド、ザ・ブランシェ・ハドソン・ウィークエンドが『Reverence, Severence And Spite』という素晴らしいアルバムを上梓した。

 前述のジザメリやストーン・ローゼズ、そしてニュー・オーダーなど、イギリスが生み出してきた素晴らしいバンドの要素が見え隠れして、それは奇しくも、イギリスのインディー・ロックの歴史を眺めているようで、とても不思議な感覚に陥ってしまう。轟音のなかに潜む、どこか懐かしさを感じる人懐っこいメロディーも、この不思議な感覚への導火線となっている。

『Reverence, Severence and Spite』の、甘美で爽やかなノイズ・ギター・ポップは、正直派手なアルバムとは言えないし、なにかでかいトピックを生み出すバンドではないかも知れないが、こうした良い曲を生み出すカッコいいバンドが、多くの人の目にとまることを、心の底から願うばかりだ。だってこんな良いバンド、一部のインディー・ロック愛好家のものだけにするなんて、あまりにもったいないでしょ?「僕のもの、私のもの」ではなく、「私たち、僕たちのもの」にしていきましょう。

(近藤真弥)