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DIGITALISM『I Love You Dude 』.jpg  デジタリズムのセカンド・アルバムは、どの曲も輪郭がハッキリとしている。前作『Idealism』にも、ニュー・オーダーを想起させるギター・リフが印象的なアンセム「Pogo」があったように、元々歌心がある彼ら。『I Love You Dude』でもさらにその部分を強調してくることは予想できたが、歌ものトラックはメロディを強く打ち出し、インストの曲は、90年代のダンス・ミュージックのような音色とビートを刻んでいる。

  初期レイヴ的なグルーヴが面白い 「2 Hearts」。どこかフューチャリスティックな響きが聴く者を不思議な感覚へと導いてくれる「Circles」などは、歌ものトラックとして出色の出来だ。

 ケミカル・ブラザーズとThe KLF「What Time Is Love?」を混ぜ合わせたような「Antibiotics」。ハードフロアによってホワイトトラッシュされた以降のアシッド・サウンドが高揚感をもたらしてくれる「Maimi Showdown」といった曲は、前述の「90年代のダンス・ミュージック」を感じさせる。しかし、彼らの音に古臭さを嗅ぎ取ることはできないし、ましてやノスタルジーなんて皆無だ。

 近年の音楽シーンは、90年代の要素を取り入れた曲が多いけど、これは90年代の10年を通じて細分化され、そのことによって「置き去り」にされた音楽の再評価の動きだと思っている(例えば日本だと、小室哲哉の再注目がそうだろう)。細分化が進むごとに、その音楽が持つ精神性や哲学などが先走りし、結局は内省に向かいつまらないものになってしまった様々な音楽を、期限切れの時代性から解放することで、再び命を吹き込もうとする背景が、90年代再評価の動きにはある。だからこそ、それをうまく実行できているデジタリズムは、「まんま」な音は鳴らさない。あくまで「現在」という立ち位置から過去を逆照射することで同時代性を獲得し、そこにデジタリズム独自のセンスを加えることで、彼ら独特のポップ・ミュージックとなっている。『I Love You Dude』は、そんなデジタリズムの才覚が発揮された素晴らしいポップ・アルバムだ。

(近藤真弥)

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『テロルのすべて』.jpg 1945年8月6日、広島市に原子爆弾リトルボーイがB-29(エノラ・ゲイ)によって投下された。3日後、8月9日、長崎市に原子爆弾ファットマンがB-29(ボックスカー)により投下された。同年8月14日、日本はポツダム宣言受諾し、翌日8月15日に玉音放送により国民に発表された。

 『さらば雑司ヶ谷』『日本のセックス』『民宿雪国』『雑司ヶ谷R.I.P.』を発表している小説家・樋口毅宏が放つ五冊目は日本に核爆弾を落としたアメリカに対する一人の若者の復讐劇『テロルのすべて』だ。

 福島原発のメルトダウンを含む現在の原発問題は解決の行方が見えないままだ。かつて忌野清志郎はRC サクセション「SUMMER TIME BULES」で原発批判をした。地震と原発で揺れるこの2011年に誰もが起きないと思っていた事が起き、世の中の仕組みが、わたしたちの住んでいるこの国や企業の利権や思惑が放射能と一緒に知らされなかったものも放たれた。騙されていたのか? いやきっと知ろうとしなかった、あってもない事にしていたものが目の前に一気に目に見える形で現れ問題を突きつけている。

 地震の後に多くの小説家やミュージシャンは自分たちの言葉や音楽を失い、途方に暮れてしまった。樋口氏は読切り小説誌『FeeL Love』の「2011.3.11 そして、いま私が思うこと。」のコラムでみんな自分たちのしている事(小説)がそんなに大層な政治的なものだと思っていたのか? と小説を書くのは生活のためと少々の見栄が欲しいという旨に近い事を書かれている。こちらも読んでもらえると小説家・樋口毅宏という作家の姿勢がわかる。

"自分たちの都合のいいようにルールを決め、今なお世界の覇者気取りで澄ましているアメリカを、僕は心の底から軽蔑している。嫌いじゃない、大ッ嫌いだ。では、弱者が取るべき行動は何か。自分より弱者を見つけ、叩くことではない。強者の脳天に斧を振り上げることではないだろうか。そう。テロルこそもっとも有効な手段なのである。アメリカに、××を落とすのだ。注目の異才がどこまでも過激に紡ぎ出す、テロリズムまでの道のり。" (AMAZON 作品紹介より)

 僕が福島原発の爆発等の一連の流れをテレビで見ていて思っていたのはかつて長谷川和彦監督が作った『太陽を盗んだ男』のような作品がきっと出てくるだろうと思っていた。この作品まだ観たことない人は観てください。内容は中学の理科教師である城戸誠(沢田研二)が原子力発電所から液体プルトニウムを強奪しハンドメイドの原爆を作りそれで政府を脅迫するというもの。監督の長谷川氏は母親の胎内にいる時に広島で胎児被爆をされている。

 『テロルのすべて』の主人公はアメリカ・ボストンの大学で学ぶ、そこには世界屈指の優秀な学生ばかりだ。アラン・B・クルーガー『テロの経済学』によると「貧しくて教育レベルが低いひとがテロリストになる」というのは間違ったイメージで実はその真逆で「少なくとも中流以上。教育を受けてきたエリートがテロリストになる」と述べているが彼はその事に同意する。さまざまなテロ行為事件を起こした人物たちがそれに当てはまるからだ。彼もまたそうだった。

 主人公の宇津木が日本の大学に通っている時に唯一心を許せた友の名前は「長谷川誠」だ。この作品が長谷川和彦氏に捧げられているのは読むとわかる。

 文学における現実をどう描くか、希望と絶望をどう捉えるか。小説家は今どんな物語を書くのか。優しい、癒しだけが必要ではないと思う。悲惨な現状を前にしてもそれよりも悲惨な絶望を見ることで読む事で癒されてしまうということもあるし、世界の成り立ちに牙を剥き、勢いで突き進むスピードこそが救いになるということもあると僕は思う。

 地震の後の原発問題で誰かが長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』のようなアイロニーと強烈な意志を持った作品を作るだろうと思ったら樋口毅宏『テロルのすべて』でやっていた。今読了したけどゴジさんに捧げますって。意志は引き継がれる。と僕がtwitterでつぶやいたら樋口さんに返信していただいたのが、「僕がやらないで誰がやるのだろう?」だった。

 この夏、『テロルのすべて』と『太陽を盗んだ男』をどちらが先でも後でもいいから読んで観てほしい。このふたつを読んで観て何も感じない人はきっと幸せな人生を歩んでいくだろう、そして一生目に見えない誰かを踏み台にして(そんな想像力もないのだろうけど)痛みも感じずに暮らしていけばいい、そして一生僕の目の前に現れないでほしい。

(碇本学)

 

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 彼らのファーストがリリースされたときには、ケイジャン・ダンス・パーティやレイト・オブ・ザ・ピアやフレンドリー・ファイアーズもほぼ同時期にアルバム・デビューを果たし、音楽シーンは2000年代前半に匹敵する熱狂を取り戻した。エレクトロや民族音楽を貪欲に取り入れたバンドたちがリスナーにも批評家にももてはやされたが、グラスヴェガスはかなり毛色が異なった。フィードバック・ギターの中を突き抜けてくる過剰に「泣き」の入ったヴォーカルと、ノスタルジックな光景を思い起こさせるリリック。そして彼らのサウンドのパターンはたった1種類に過ぎない。余計なギミックは何も仕込まないし、アルバムの曲はだいたい同じに聴こえる。だからこそ、彼らの個性が見事に詰め込まれたファースト・アルバムは「見事にグラスヴェガス」だったし、セカンド以降のアルバムでどのような変化を遂げるのが想像もできなかった。むしろ解散しちゃったケイジャン・ダンス・パーティのほうが、セカンドで理想的なサウンドを手にしそうな予感があった。

 結論から書くと、グラスヴェガスのセカンド・アルバムはファーストよりウェルメイドなアンセムが並ぶ、不平不満のひとつも出させないような傑作になった。ファースト・シングルとしてリリースされた「The World Is Yours」の間奏でちらりとピアノ・パートが入るところあたりは評価が分かれそうだが、わたしはこのくらい振りきれてやっているバンドのほうが好きだ。ロンドンのハイセンスな若者が好みそうなクールさは欠片もないし、オアシスのようなラッディズムもあまり感じないが、アイドルワイルドやトラヴィスを長く愛し続けるような人たちにとってはぴったりのアルバムに仕上がっていると思う。メディアが騒ぎ立てたくなるような要素はほとんどないと思っていたが、NMEが" The 50 best albums of 2011 so far "にこのアルバムを選出していた。NMEがどういう媒体かは関係なしに、こういうのは嬉しいものだ。

(長畑宏明)

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"Wu Lyf は、ホームと呼べる場所を心の底から欲しがっているバカな4人のガキどもの集まりさ。2組の2人兄弟が出会い、一緒にheavy pop をプレイしている。ここはホームじゃない。これじゃ満足できない。" (ウー・ライフのホームページに掲載されている声明文から引用)

 この声明文の一部からも分かるように、イギリスはマンチェスター出身の4人組バンド、ウー・ライフの音楽は、怒りや悲しみを鳴らしている。彼らは、ホーム=居場所がない者達だ。この喪失感による哀しみというのは、故郷を失った人々の音楽であるジプシー音楽にも通じるが、この哀しみは、現代に生きるほぼすべての人間が共有できるものではないだろうか?

 現代人は、強迫的に知識や情報を取り入れ、自らの鎧として身に着けていく。そうしないと、目まぐるしいスピードで変化する現代社会についていけないからだ。それでも、確固たるアイデンティティーを築き上げ、社会的ステータスや華麗なキャリアに恵まれた人生を得る者は、ほんの一握りしかいない。そして社会に搾取されていくなかで、最低限の尊厳や権利といったものまで奪われていく。こうしたシステムがさらに複雑化し巧妙になった現代において、「2.5次元」といった現実と幻想を曖昧にした概念が注目されるのも理解できるし、ツイッターなどSNSの「手っ取り早いリアリティ」でキャラを作り、批判や不満をぶちまける行為が「文化」になりえてしまう状況も、時代を反映した結果として受け止めざるえないだろう。しかしウー・ライフは、そのすべてを否定する。彼らは、これらの後ろ側にいる人々に手を差し伸べる。リヴァーヴが効いたサウンド・プロダクションも、繊細なギターが奏でるメロディも、力強く地を這うようなベースとドラムも、そして、哀しみと希望が同時に存在する絶叫も、すべては我々と繋がるための、しかも原初的な段階での繋がりを求めるために鳴らされている。なぜ「原初的な段階」で音を鳴らすのか?それは、彼らにとって我々が「世界」という場所に集まっているように見えて、その実、バラバラになっていると考えているからだ。彼らにとってSNSは、本当の意味で人と人が繋がる選択肢を狭めているものでしかない(特に日本のように高い匿名性が守られている場合、SNSはストレスの温床となり、そのストレスが繋がりとなっている現実を踏まえれば、それが歪なものと見ることも可能だ)。

 こうした「リスクが伴うコミュニケーション」を実践する者たちは、過去を遡ればザ・クラッシュ、マニック・ストリート・プリーチャーズ、リバティーンズなどが挙げられるが、リバティーンズですら10年以上前のことだ。この約10年以上の間に、世界はより混乱の度合いを増し、個人の顔が見えにくくなっている。ウー・ライフがやろうとしていることは、多大な想像力を必要とする行為だ。当たり前だけど、想像は現実を凌駕するもので、いま我々が生きる日常も、現実を凌駕した想像が現実化するというサイクルを長年積み重ねて作り上げられたものだ。しかし、現実を凌駕する想像を生み出すのは、前述した多大な想像力と、強靭な意志と知恵が必要となる。だがウー・ライフは、果敢にもその難題に挑戦する。

 歌詞だけを取り上げれば、語彙不足という指摘も可能だろう。もちろんそうした指摘をするのは構わないが、それは音楽を聴くことに対する想像力の欠如を自ら暴露することになる。彼らは小説家でもなければ脚本家でもない、れっきとした音楽家であり、音楽をやっているのだから、リスナーもそれ相応の想像力を持って迎えるべきだ。ましてや、彼らのことを「宗教」呼ばわりして、安易に「震災後」というキーワードで語るのはもっての他だ。「震災後」を語るのも必要だが、「音楽評論家」と名乗る者であれば、音楽を通して「震災」を語るべき。もし、「震災」という言葉を掲げなければ「いけない」、もしくは「震災」について語ること「のみ」が批評精神の責任だとするならば、そんな批評精神の元で音楽について語られても、その言葉が多くの人に届くことないし、そもそも音楽について語る必要もない(「手段としての音楽」にしか興味がないなら別だけど)。そういう意味で、『Go Tell Fire To The Mountain』は、我々にとって重要な試金石となるアルバムかもしれない。

 ウー・ライフは、音楽の力を信じている。だからこそ、音楽でもって我々と繋がろうとするし、彼らは音に言葉を託し、必死になって音楽を鳴らしている。実際彼らの音には、暑苦しいほどの情熱が宿っている。そして力強い意思と想像。ある種のメランコリーを感じさせる部分もあるが、彼らのメランコリーは、クラナッハ『憂鬱』やフリードリヒのメタファー的な絵画とは程遠く、サルトルやキルケゴールのそれよりも、双極性障害に近いものを感じる。グラスヴェガスも『Euphoric///Heartbreak\\\』という双極性障害を想起させるタイトルのアルバムをリリースしたけど、それは、何かを切実に求めようと日々生きている証のように見える(世界をまっすぐ見据えている点も、ウー・ライフとグラスヴェガスに共通する姿勢だ)。彼らのようなバンドをシニカルに切り捨てることもできるだろうし(日本では「うざい」「キモい」だろうか?)、それが時代というものならば、それも致し方ないのかもしれない。しかし、こうした得体の知れないものにこそ、未知なる興奮が隠されているし、それを「うざい」「キモい」と簡単に切り捨ててしまうのは、あまりにもつまらない。まあ、切り捨てるかたちで「存在しない者」とするのもいいけど、それは結果的に、自らの首を絞めることになるかも知れない。これは、日常を生きるうえで我々が「存在しない者」とされる仕打ちと同じだからだ。ウー・ライフが鳴らす、キラキラとしながらも闇を引きずり前進する美しいポップ・ソングは、「それじゃ何も変わらないだろう?」と、猛烈に聴く者の心に訴えかけてくる。

(近藤真弥)

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FIGURINES.jpg

  アマゾンでも出回っていないということでご存じない方も多いと思うが(こんなところで宣伝するのも何だが私のサイト、ヘッヂホッグ・レコーズでは販売中です)、彼らは元々メッズ、クリスチャン、イェンス、クラウス、クリスチャンによる5ピースで、ザ・キスアウェイ・トレイルとのツアーで忙しいデンマークの逸材、フィギュリンズだ。通算4枚目のアルバムとなり、初のセルフタイトルド・アルバムである。その音楽性は前作『When The Deer Wore Blue』がフレーミング・リップスの『Clouds Taste Metallic』だとすれば今作は「Yoshimi Battles The Pink Robots』と言ったところだろう。つまり『The Soft Bulletin』ど真ん中は行っていないのだ。それでありながら、2000年代から見せ始めたリップスの至福さを彷彿とさせるデンマーク勢の新人や新作をきっちりと継承してみせている。前作のレヴューで"クリニック meets フレーミング・リップス"と書かせて頂いたが、今回クリニックらしさが薄れ、その代わりに"歌"や"メロディー"というものを大切にしている。もちろんこれだけひねくれたインディー・バンドだからこそ王道を行こうという風でもない。僅かな"ねじれ感"が未だ感じられるところは彼らならではなのだろう。

 1990年代半ばに結成され、これまでペイヴメントやモデスト・マウスらと比較されてきた。またクッキーシーン・ムック『北欧POP MAP』で紹介させて頂いたセカンド・アルバム『Skeleton』はジム・オルークなどと仕事をして完成したインディーズ・サウンドだった。サード・アルバムに関してはソニック・ユースとの作業でも知られるジェレミー・レモスがプロデュースしている。ところがその後、メッズとクリスチャンが脱退し3ピースとなってしまった。そしてリリースされたのが今作『Figurines』というわけだ。そこには彼らが3人になってもフィギュリンズであり続ける、その姿勢がセルフタイトルドへと決断させたのではないかと推測出来る。バンドの新たな決心が、もう一度いや初めてかもしれないが、初心に返らせたのだ。

 いわゆる"ヘタうま"とも言える彼らのヴォーカルとバッキング・ヴォーカルに、今作ではストリングスを加えたりアコースティック・ソングを歌ってみせたり、ある種の違和感を感じさせながらも、そこが魅力となっているバンドである。またバンドとはある種の反骨精神から生まれるものも少なくない。彼らももしかしたらそうだったのかもしれない。だからこそ年月を経た今、"幸せ"を鳴らそうとしているのかもと、そう感じさせられたのが現実だ。3人となった彼らに、もう一度期待を寄せてみよう。

 (吉川裕里子)

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 このコンピは、ハード・オンリーのアシッド・ソングを集めたコンピレーション・アルバムだ。M3という同人系のイベントで販売されたこのコンピは、今までリリースされたアシッド・コンピの中でも、クオリティがずば抜けて高いと言える。ただのアシッド・コンピではなくて、しっかり練られた曲順、具体的には、3部構成のような並びになっている。前半はシカゴ・テイストなアシッド・ハウス、中盤はニュー・ウェイヴを感じさせる曲が多く、終盤はトランスの要素が色濃く出ている。それとクレジットには、楽曲ごとに使用された機材が記載されていて、808ステイト『Exel』を想起してしまった(このアルバムも使用機材が記載されている)。TB-303を持った女子高生ジャケもそうだが、こういったところにも、テクノ好きのフェチ心をくすぐられる。

 アシッド・リバイバルは、数えるのも面倒なくらい何度も起きている。もはや「アシッド」というジャンル自体がクラシックになったのかも知れない(曲単位ではクラシックと呼べるものはあったが)。それは、すべての音楽が平均化された現在だからこそなのだろうか?おそらくこの先、アシッドは流行にも左右されず、永遠の魅力を放つ音として語り継がれていく。ノスタルジーよりも、同時代性が強く感じられる曲群を聴いていると、そんなことを想像してしまう。本作は、意識が飛ばされるような強烈アシッド・サウンドと、アシッド・サウンドに対するリスペクトと愛情が詰まった、日本が世界に誇れるアシッド・コンピだ。

 (近藤真弥)

 

*本作はTB OR NOT TB特設サイトで通信販売している。【筆者追記】

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くるりベスト2-.jpg 随分と赤裸々な形でのベストになった。

 思えば、06年のベストにはコンセプトというより、青い時代と実験の季節の紆余曲折を纏め上げたという意味で、一種、くるりの終わりを示していた。くるりの終わり、という意味では「How To Go」の前に終わりかけていたのかもしれないし、バンドとしてのフォーマットは都度、形態を変えていったが故に、その「終わり」の意味はどういったものになっていったのか、考えないといけないのも分かるが、間違いなく、これはくるりとしての作品になる。

 そして、このベストを経て、ということになるだろうか、周知の通り、くるりは、岸田氏、佐藤氏以外に、ギターの吉田省念、トランペット奏者のファンファン、ドラムの田中佑司の新メンバー三人が入り、京都にベースを移す。

 ちなみに、「京都」という記号に関して敷衍しておかないといけないのは、「外部」から見ると、如何にもスタイリッシュさと風光明媚を兼ね揃えた歴史的情緒に溢れた「良好で、ときに偏屈な」イメージがあるかもしれないが、「内部」側から鑑みると、常々自分の姿勢や知性や在り方を問われる<場所>は他にないと思うくらい、シビアな柵としきたりが張り巡らされた難渋な場所であり、学生の街として若人が往き来しながら、離合集散して刷新されながらも、モラトリアム的な爛れと伝統の重さが妙な軋みを孕んでいる。といえども、それは京都という街が「予め」歴史的に備えているエッジを持った排他主義的な純粋性と同時に併せ持つ保守的な部分とのアマルガムによって形成されており、歴史と革新が拮抗し合うというフレーズとは遠心力を持つ。寧ろ、それが「故の」多種多様な人種、知性、生き方を許容するメルティング・ポットとしての磁力の強さがある。そこで、綯い交ぜにされた整合美と、地均しされたカオスに満ちた「街」―としての、厳然とした境界。そんな「街」の代表的なバンドとして、くるりはカテゴライズされているが、"京都的なバンド"という括りがそもそもない「ように」、彼らも帰る場所は実は何処にも無い。だからこそ、今回、京都を拠点にもう一度、くるりを始めてゆくという在り方は厳然たる事実を示唆する。

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 今作の14曲の色合いはとてもまろやかな曲群で、ジェントルな趣きを持ったものが多く、クラシックとポップが融合された高潔な『ワルツを踊れ』からは「ジュビリー」、「ブレーメン」、「恋人の時計」、「言葉はさんかく こころは四角」の4曲、都会的なアーシーさが特徴的だった『魂のゆくえ』からは「さよならリグレット」、「かごの中のジョニー」、「三日月」(アルバムではボーナス・トラック扱いだが)の3曲、最新作の和的情緒をシンプルなバンド・サウンドで組み上げた『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』からはユーミンとのコラボ曲「シャツを洗えば」、「魔法のじゅうたん」の2曲、そして、映画主題歌として今年リリースされたカントリー調の「キャメル」、サイケデリックな透明感を持った「奇跡」に加え、CM曲として以前から流れていたものの、音源としてリリースされるのは初になるフォーキーな「旅の途中」、そして、映画『奇跡』の挿入歌である素朴な佳曲「最終列車」、ツアーでも披露されていた「鹿児島おはら節」の柔和なカバーといういわゆる、シングル集という体裁ではなく、コンセプチュアルな色彩を持った選曲が為されているのと同時に、アヴァンギャルドな要素が敢えて排されたクリアーですっきりした曲が目立つ。また、特徴的なのが、これまではときにマニエリスモ的だった岸田氏の歌詞が直截性を帯びてきており、素直でストレートな優しさが押し出されたものが多く、特にそれはこのアルバムで御披露目となった曲で明確に分かる。

《バスが来た 見知らぬ行き先に微笑む 君の横顔がまぶしくて 海へ行こう そしてまた名前を呼ぶよ ここは名もなきバス停だよ ここは旅のまだ途中だよ》(「旅の途中」)

《大切な宝物を探せよ ほらいつも ポケット裏返せば こぼれ落ちたのは いつか君がくれたぬくもり》(「最終列車」)

 基本、君(誰か)と繋がろうとしても繋がれない感情、アパシー、そこで沸き立つジレンマを「別離」というモティーフでリリシズムに落とし込み、描写してきた岸田氏の歌詞が前を向いた形で、その"続き"を歌おうとしている。これを日和見、加齢と片付けるのは容易かもしれないし、曖昧な余白を常に待備しているバンドだけに、この区切りも一つの句読点に過ぎないとみなせるかもしれない。ただ、このベストで見えるフェアポート・コンヴェンションやドノヴァン辺りのブリティッシュ・フォークの因子、チェンバー・ポップとしての室内音楽の箱庭感、凛としたダウン・トゥ・アースなカントリー要素はレイドバック、ではない、くるりが過去からブルーズ、サイケ、ポスト・ロック、ダンス、民族音楽、パワーポップ、プログレ、モッズ・ロックなどといった音楽的試行をしてきた結果、上澄みとして浮かび上がった健やかさがあるのも事実だ。

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 今、くるりという存在に何を求めているのか、おそらく古参のファンであるほど、距離感を持っていたりするのも正直なところだろうし、新しく参入したファンには過去のカタログを追いかけるとその分裂的な様と現在の佇まいの差異に戸惑いもおぼえるだろうし、新しい音楽の入り口を呈示するバンドとしての訴求力も過去ほどはないかもしれない。そこをかろうじて、岸田氏の声やメロディーと佐藤氏のベースが支えている表面張力の際どい部分が近年の彼らの危うさと魅力でもあり、また、ロック・バンドが「歳を重ねてゆくこと」の一つの臨床例を示していたとしたならば、今回のベストでは、京都タワーを前面に押し出した形ではなく、遠景に京都タワーを置き、進みだす刻印を残したといえる。このベストもだから、彼らからのささやかな近況報告書でもあり、なだらかな旅が続いてゆく「途中」をパッケージングしたものとして、捉えるのが正しい気がする。もう彼らも戻れないし、戻らない。

《なんで僕は 戻らないんだろう 雨の日も風の日も》(「ジュビリー」)

 (松浦達)

 

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Heavenstamp.jpg 今や欧米では、ディスコ・パンクやニュー・レイヴなんてすっかり過去のものになってしまった感じがするけど、パンクの発展型であるハードコアが米国に飛び火して、後のUSオルタナを爆発させる礎になったように、ディスコ・パンクやニュー・レイヴも、どこかでひっそりと受け継がれていても不思議じゃない。日本発のヘヴンスタンプ(Heavenstamp)なる男女混合4人組バンドの音を聴いていると、そんな想像を膨らませてしまう。

 「Stand By You」には、ザ・ラプチャーのダンス・ミュージックを通ったパンクに、シューゲイザー的な美しい轟音、歌謡曲的と言ってもいいメロディなど、実に様々な音楽が混在している。そして面白いのは、安っぽい共感や親近感からは遠いところで音が鳴っている点だ。誤解を恐れずに言えば、ミステリアスな空気を纏ってリスナーから一定の距離を保ち、「憧れられたい」という意識が伝わってくるのだ。この意識というのは、デス・キャブ・フォー・キューティーのように、リアリティーに根ざしたインディー精神の良心を守っているバンドが世界的に注目されているなかでは、異端とも言える佇まいではないだろうか?

 もちろん90年代のバンドが持っていた感覚と態度そのものは斬新と言い切れるものじゃないが、それを意識的に取り戻そうするのは、4人なりに時代を見つめていなければできないことだ。例えば「Stand By You」も、一見普遍的で胸キュンなラブソングに聞こえるけど、聴く者の心を乱すSally Cinnamon(サリー・シナモン、Vo / G)の声が、もっと原初的な「繋がり」の地点で歌われていることに気づかせてくれる。それが得体の知れない個性として、しっかりとバンドの武器にもなっている。この「匿名性」と言ってもいい個性は、特に現在の日本ではかなり好みを分けることは否めないが、僕は大好きだ。

 ちなみにサリー・シナモンという名前は、ストーン・ローゼズのセカンド・シングルが由来だそうだ。これもひとつのメッセージになるかも知れない。

 (近藤真弥)

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super8.jpg

〈ストーリー:1979年、アメリカ・オハイオ州。8ミリカメラで映画撮影をしていた6人の子どもたちのそばで、貨物列車の衝突事故が発生。貨物列車は空軍施設エリア51からある場所へと研究素材を極秘に移送中だった。アメリカ政府が隠す秘密を目撃してしまった子どもたちのカメラには、事故の一部始終が記録されていたが...。〉

 ハリウッドきってのヒット・メーカーである2人のクリエイター、スティーヴン・スピルバーグが製作を務め、J・J・エイブラムスがメガホンを取るSF大作。1979年にアメリカで実際に起こった事故を引き合いに、アメリカ政府がひた隠しにする秘密と、映画撮影に夢中になる少年たちが真実を暴く冒険と成長を描く。

 「この映画は、スーパー8フィルムで映画を作っていた子どもたちのことを語りたいという気持ちから生まれたもので、もともと自伝的な要素のあるアイデアだった。でも結果的には、僕が少年時代に夢中になっていた作品に対するオマージュになっていると思うよ(笑)」
 「僕の好きな映画がすべて1つになったような作品だ。ラブ・ストーリー、ドラマ、コメディ、青春ストーリー、アドベンチャー、モンスター、すべてが合わさっているのさ。これはアンブリン社(スピルバーグが82年に設立した映画・TV番組の制作会社、アンブリン・エンタテインメント)の作品の特徴だよね」(J・J・エイブラムス監督コメントより)

 21世紀の『E.T』だとか言われてる時点でネタバレも何もないとは思うんですが、『LOST』のJ・J・エイブラムスが監督作の映画です。この物語の核は移送中の「何か」ではなくて少年たちの成長を描くという意味で、観た感じだと『E.T』『グーニーズ』『スタンド・バイ・ミー』的なものを感じます。あとは『未知との遭遇』などの今から三十年ほど前を舞台にしていた少年たちが冒険に出るという物語、そして成長していくという冒険譚の系譜を正統派的に受け継いでいる作品。

 映画作りの少年たちは主人公(アメリカの少年映画でのある種の典型的な父との葛藤〈家族問題〉や失われた者に対しての気持ち〈切なさ〉、そして仲間との冒険で何かを得ていく〈成長〉)とアメリカ的なデブの子にからかわれる子に手癖の悪い子に臆病者の子という基本的なパーティ構成です。今作ではヒロインの女の子もそこに加わります。彼女もまた〈家族問題〉を抱えています。

 謎の物体(ルービックキューブ的な)を持ち帰るシーンは『グーニーズ』のエンディングでポケットから宝石が出てきたものに近いものを感じました。この映画の舞台は1979年で実際に起きた貨物列車事故を元にしています。テレビでは「スリーマイル島原子力発電所事故」が流れている時代背景。

 最後まで観た感想は糸井重里さんが作ったゲームソフト『MOTHER』を思い出しました。『MOTHER』をハリウッド映画にしたらこんな感じなんだろうなって『MOTHER』好きな僕には思えてしまいました。『MOTHER』は糸井氏がアメリカ文化に大きな影響を受け、また『スタンド・バイ・ミー』や『グーニーズ』などアメリカ映画へのオマージュが見られる作品であり、アメリカ的な町並や鉄道などが登場。総じてジュブナイル、児童文学的な雰囲気を持っています。僕が好きだった『MOTHER』は僕が生まれた当時のアメリカ映画からのオマージュだったわけですが、この『スーパーエイト』もそれらのオマージュやリスペクトから作られているので似ている感じがしたのだと思います。

 この『スーパーエイト』は母のいない世界(主人公の母は事故死、ヒロインの母は家から出て行った)で少年・少女期の彼らは残された父との関係の回復と世界の不思議と出会い仲間と共に不思議を探ります。世界とそうやって出会っていきます。「家族」というもので守られていた/あるいは庇護されていた幼少期から様々な友人と出会い、彼らは大切なものを見つけ傷つきながらも、自己のアイデンティティを獲得していきます。そういう意味ではきちんとしたジュブナイル・少年たちの冒険譚を描いた映画です。

 父親たちと息子と娘、母の形見の伏線回収がラストにきちんとやってきて、主人公が選んだ行為を見て僕らは彼が成長した事に感動を覚えます。少しだけ彼は大人になっているのです。

 ゼロ年代以降のSF的な想像力(『第九地区』『インセプション』『ダークナイト』『ハーモニー』『クォンタム・ファミリーズ』等)と近現代(70~80年代)のアメリカノスタルジーの組み合わせが上手くいっている作品だと思います。日本でも少年・少女が観に行って冒険に出かけたくなるような映画が作られてもいいのになあと思ったりもしました。あとこの映画の一番面白いところは映画仲間の一人が何度もゲロ吐くんだけど、そいつのゲロ吐くタイミングが面白すぎなところです。

 映画撮る少年の話なら『リトル・ランボーズ』の方が泣けるとは思います。でも、この映画のモンスター映画的な表現とかは劇場でもみんなビクってなっててSF映画だぜって感じで楽しめますし、世界に出会っていく彼らにかつての自分の幼少期を重ね合わせるノスタルジーを感じるのもいいです。子どもがいる人は、一緒に観に行ったらお子さんにとって素晴らしい映画体験になると思います。

 しかし、あいつがゲロ吐くタイミング完璧です。

 (碇本学)

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 一人一人の聴き手に想像の幅が残されている。多様な聴き方、見方のできる作品はそれだけでも面白い。本盤は、ポートランド出身のマーカス・コットンによるソロ・プロジェクトであるチャンネル・イン・チャンネル・アウトの、一枚目にあたるフル・アルバムとなる。アコースティック・ギターでフォーキーなリフをループさせ、雑多な電子音が不規則に奏でられているその形式は、レディオヘッドの『Hail To The Thief』あたりをアコースティック・ギターと電子音という編成で再現してみたような雰囲気を醸し出している(ジャケットのアート・ワークも似たテイスト)。「書き手と語り手」というタイトルに相応しく、彼によるポエトリー・リーディングやストーリー・テリングを中心とした、モノクロの写真集や短編集を想起させる内容となっている。「荒々しい」「大勢の人々が行き交う雑踏にて立ち尽くしている気分」というのが率直な私の感想だが、「美しい」と評する方も「暗いなぁ」と評する方もおそらくいる。それこそ多様な雑感が噴出するだろう。

 彼の公式サイトにて、このプロジェクトの目的が掲げられている。「映像、写真、アートを介して音楽を生活に寄り添わせる(架け橋にする、といった表現だろうか)」ことが、チャンネル・イン・チャンネル・アウトにおける一つの到達点として語られているのだが、確かにサイトに掲載された写真や映像を媒介にすることで、より彼の世界観に埋没できるし、もしくは、広大な風景写真を見せ付けられることで、「後は自分で想像してね」と伸び代を残される。言うなれば、彼の到達点はアートとしての音楽、音楽だけで完結しない総合芸術、自己表現の手段としての音楽だ。着想はクールだが、きっと曖昧模糊で困難なゴールになるだろうし、自己陶酔のような狭い回路で終結してしまう危うさも孕んでいる。彼の言葉を借りるとすれば、彼自身が「書き手」と「語り手」の両者になりかねない。

 こういったフォーキーな形式は、それこそ『Hail To The Thief』が出た当時から現在に至るまでにやり尽されたが、チャンネル・イン・チャンネル・アウトのそれは決して古臭くない。それは勿論、表現へのオリジナリティある意志を彼が秘めているためだ。そういった表現への欲求に委ねる姿勢と、このざらついた衝動にまみれた本盤は高く評価されるべき。

 (楓屋)