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 去年のサマーソニックにおける、アタリ・ティーンエイジ・ライオットのライヴはほんとに凄まじかった。アレック・エンパイアは相変わらずのキレっぷりを見せつけてくれたし、「カオス」という言葉が相応しい熱狂と歓喜に満ちていた。そのライヴで見せてくれたパワーがさらに増していることを、オリジナル・アルバムとしては12年振りとなる『Is This Hyperreal?』は教えてくれる。

 以前鳴らしていたドラムンベースなどの要素はなくなり、アレックがルーツとするテクノの要素が目立つ内容となっている。アルバムの多くを占める荒々しいノイジーな曲とは裏腹に、ひとつひとつの音は丁寧に作られた洗練に近いものを感じる。それはキャリアを通して、優れたIDM(インテリジェント・ダンス・ミュージック)やアンビエントを生み出してきたアレックだからこそできる芸当だ。政治・社会性溢れる刺激的なメッセージに隠れがちだが、アタリ・ティーンエイジ・ライオットの音楽は、サウンド・プロダクションにも目を見張るべき非凡なものがある。

 だからといって、彼らのメッセージや表現方法について無視するわけにもいかない。音楽リスナーのなかには、政治性が強い音楽を嫌う者もいるが、音楽という表現は「自身の内面」を出発点としている。もちろん外部からの影響はあるが、その影響も結局は「自身」というフィルターを通過するし、もしその「自身」が様々な政治的意見や背景に囲まれた環境で育った者であれば、むしろ強い主張は当たり前とさえ言える。これらが起因としてあるから、アタリ・ティーンエイジ・ライオットの音楽とメッセージには説得力が宿っている。彼らにとって、音楽も政治もあくまで「日常の一部」でしかなく、好きなものであり追求するものであっても、決して盲信するものではないし、権威化や特権化して分ける対象でもない。しかし、「日常の一部」だからこそ、音楽という方法で我々とのコミュニケーションを求め、手を差し伸べてくる。これは彼らのライブを観れば、さらにハッキリと実感できるはずだ。もし、そんなアタリ・ティーンエイジ・ライオットのことを未だに「異端」としてしまう世界だとしたら、我々のほうがおかしいのかも知れない。『Is This Hyperreal?』は、そんな疑問を抱かせるだけの力がある。そして本作は、前述したように12年振りのオリジナル・アルバムだ。12年経ってもまだ有効なのである。この事実をどう捉えるべきか、僕も本作を聴きながら模索しているところだ。

 (近藤真弥)

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 「新聞を用意しなさい ハサミを用意しなさい 作ろうとする詩の長さの記事を選びなさい 記事を切り抜き 記事に使われた語を注意深く切りとって袋に入れなさい 袋をそっと揺り動かして 切り抜きを一つずつ取り出しなさい 袋から出てきた順に一語ずつ丹念に写し取りなさい 君に相応しい詩ができあがる 今や君はまったく独創的で魅力的な感性をもった作家というわけだよ まだ俗人には理解されていないが」(トリスタン・ツァラ「ダダの詩をつくるために」より)

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 言語学者のフェルディナンド・デ・ソシュールは「今ある言語」がその言語であるべき必然的な理由は存在せず、例えば、社会的な取り決めの下で発展してゆくものとして捉え、研究するのは違うのではないか、と指摘した。要は、機能性としてのパロール(声)はラング枠内で格納され、シニフィエ・シニフィアンとしての恣意的な言語構造があるとしたならば、言語とはある種の記号であり、同時に形態・特徴を指し示す何かでしかないという文脈があり、そのまま「意味」が「言語」に繋がるかどうか、となると、そこは難しい。声は「声」のまま、共時的に響くのか、その検討の範囲内でこそ、実のところ、「声」は浮揚する。

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 今回、ワープ・レコーズ第二作となるアルバムで、ブライアン・イーノは03年から共作を続けていた詩人であるリック・ホランドとコラボレーションを行なうという話を聞いた時、彼のことだから、"ポエトリー・リーディング・ミーツ・アンビエント"といったようなそんな平易なものにはならないだろう、と思っていたが、案の定というか、非常に実験的な内容になっており、面白い。リック・ホランドの詩は多種多様な人たちの「声」によって朗読されてゆく。その多様な人たちは、彼のスタジオの付近で声を掛けたという南アフリカ人であったり、近所のスポーツ・ジムで働く女性であったり、いわゆる、一般の市井の人たちであり、その大半は英語を母国語としていないためか、独特の「癖」がある。そこに、イーノらしい端整な電子音やサウンド・シークエンスが混ざり、不思議な浮遊感をもたらす。そして、詩の言葉そのものの強さよりも、起伏の豊かな、ある種、歪な声の特質(ときに、オートチューンで加工・変調も為されている)が先立ちながら、極めて機械的な作りを為されているにも関わらず、全体を通じて不思議な「暖かさ」があるというのはどういうことなのだろう。思えば、ジェームズ・ブレイクが現代のソウル・ミュージックと一部で称される磁場が形成されている現代とは「Be Computerized」されたものこそ、そこに生々しさが宿るという反転が起きているところがある。それをフーコー的な物言いを援用すると、もともと明確であった公的なもの(ビオス)と私的なもの(ゾーエ)との区分が緩やかに瓦解しつつあり、公的であるのか私的であるのかを「分類」できない、不分明な地帯で、多くの相互共感が生まれるという理由付けは出来なくもない。その「親密圏」では、機械的な声の方がより遠心力を持つ可能性がある。だとすれば、今作での様々な「加工された、癖を帯びた声」はとても色味を感じるのも道理なのかもしれない。

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 昨年、発表された前作が即興セッションから生まれてきたのと比すると、今作はより練り込まれ、じっくりと詰められたような印象も受ける。しかし、ときにアカデミックになってしまいがちな彼の作風からすると、何故か風通しが良いのは「声」そのものに重きを置きながら、その声が何を明瞭に指し示しているのかどうか、を脱化(ポップ化)したところにあると思う。そういう意味で、純然たるボーカルにフォーカスをあてた作品ではあるのだが、イーノのサウンド・ワークの妙に唸らされる点が大きいと言えるだろう。ワープ・レコーズへの移籍の影響もあるのか、ブレイク・ビーツや電子音のバリエーションも今まで以上に幅広く、前衛的な気配があるのも興味深く、今後のヴィジョンがより拓けていくものになるのではないか、という予感も感じることができる。数年前からスタジオに色んな人たちを読んで、声の可能性を探るワークショップを開いているという話は有名だが、もしかしたら、ストレートな音楽家としてのブライアン・イーノのポップ・アルバムというのも近いのではないか、という感触も受ける今作は10年代に入って、再び彼のギアが入ってきたことを示す好作になったと思う。個人的には、このアルバムのドープなリミックス版も聴いてみたい気がする。

 (松浦達)

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 太陽がさんさんと輝くカリフォルニア。昨年、ベスト・コーストウェイヴスが、夏のビーチのサニーなサウンドトラックとなっていたのも記憶に新しいだろう。

 だが、光あるところには影が生まれる。そのグロテスクな暗部を描き出したのがこのEMA。1枚のアルバムを残し解散してしまったノイズ・フォーク・バンド GOWNSのフロントウーマン=エリカ・M・アンダーソンが、かつてのバンド・メイト兼元ボーイ・フレンドのエズラ・バックラと始めたプロジェクトだ。彼女がこのたびドロップしたソロ・デビュー・アルバム『Past Life Martyred Saints』では、砂地の風景を思わせるサウンド・スケープを、デヴィッド・クローネンバーグのニヒリズムで描き出した。それは、あまりにも殺伐としていた。

 ノー・ウェイヴ~アシッド・フォークを基調とし、重苦しいゴスのテイストを加えた楽曲は、ヴァース/コーラスからなるロックの起承転結からはかけ離れた展開を見せる。また、殺伐としたノイズを撒き散らすサウンドはヴェルヴェッツを想起せずにいられない。7分に渡ってニール・ヤング風のささくれたフォークがじわじわと沈み込んでいくオープニングの「The Grey Ship」といい、ヘヴィにバーストするノイズとキャッチーな歌心が同居する「Milkman」といい、音のレイヤーの隙間が荒く黒く塗りつぶされているようだし、自殺を綴った「Butterfly Knife」では背筋がそら寒くなる。だが、収録曲中最もショッキングなインパクトがあるのは「California」だろう。爆発とも地響きともとれるようなビートにのせ、《クソったれなカリフォルニア あんたは私をつまらないものにした》《私はたったの22歳 死ぬことなんか気にしない》といったパーソナルな怒りのリリックをリスナーに突きつける。彼女のカリフォルニアに対する鋭い意思表明、それはあまりに重苦しく訴えかけてくる。

 甘い夏を歌うシーンは過ぎ去った。大きな闇が横たわっている。これもカリフォルニアなのだ、と。

 (角田仁志)

 

 

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 「こんなバンドがシアトルから現れるなんて!」

 このアルバム、『Go With Me』を友人たちと共に初聴した時に、思わず自分の口からそんな言葉が出てきた。

 元々、ボーイング社やマイクロソフトにスターバックスといった、誰もが知っている一流ブランドの発祥の地でもあり、近年では日本にも浸透しきった感のあるこれまた大規模なビジネス、アマゾンの成功により、見る見る内に大都市化・高級化していくシアトルにおいて、いまだに労働者階級の雰囲気が染み付いているウェスト・シアトル(ちなみに、ここはシアトルのローカルシーンを支える2大インディー・レコード・ショップの一つ、Easy Street Recordsの本店のある地域でもある)の少し風変わりなビーチ、アルカイ・ビーチ・パークで撮影されたのでは?と思わせられる陽光に照らされた女性を写したジャケットが示すように、ザ・ペイング・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートのようなUKの過去のインディー・シーンに共振したアメリカならではの、ごった煮サウンドを聴かせてくれる本作は、一聴しただけでは、それこそブルックリンやカリフォルニアから来たの?と言うような秀逸なインディー・ポップ・ミュージックを聴かせてくれる。

 そのローファイなサウンドからベスト・コーストやサーファー・ブラッドといったアーティストを引き合いに出して語られることの多いだろう彼らであるが、何度か聴くとむしろそういったグループよりも、前述のペインズが参考にしていたようなヘヴンリーやベル・アンド・セバスチャンといったトゥイー・ポップ、ザ・パステルズなどの80年代の英国のインディー・ポップ勢の影響を感じる点がいくつも出てくる。もちろん、それらの素材をUSオルタナのジャンキーなカラーと混在させることもペインズ同様にさらりとやってのけているが、アルバム全体を通してみると、そこまでペインズに似たサウンドではなく、先述のジャッケットやそのキュートなアルバム・タイトルと同様に彼ら、シーポニーの方がキラキラとした清冽さや瑞々しさが伝わってくる。彼らのノイズはシューゲイズのノイズと言うよりは、ローファイの産物としてのノイズと言えるだろう。ドラムのビートも躍動感をつけると言うよりは、ポンポンと小気味良く鳴っているのが、そのノイジーなギターと混ざり合い、ローファイ感を演出しているのが魅力的だ。アルバム全体を通しても35分程度のコンパクトさも(良い意味で)磨きかけのマテリアルのようで、聴きやすくもある。

 こういったバンドが同じワシントン州内でもオリンピアから出てきたとすると、合点がいく。シアトルよりもさらにインディペンデント色の強い州都、オリンピアはビート・ハプニングのフロントマンでもあり、US北西部のオルタナ・シーンを80年代から裏で支え続けて来た陰のカリスマ、キャルヴィン・ジョンソンがオーナーを務める良質なインディー・ポップを輩出してきたKレコーズや、ロック・ミュージックにおける女性の地位復権活動、ライオット・ガール・ムーヴメントの窓役となった過去があり以降もゴシップやディアフーフなどのラジカルな女性をフロントマンに持つバンドを後押ししてきたKill Rock Starsの本拠地でもあるといった、まさにシーポニーを生む土壌としては最適な場所であるように思えるからだ。ビート・ハプニングを筆頭にトゥイーでローファイなバンドマンやぐだぐだしたフラストレーションの溜まっていそうな学生が道端を歩いているオリンピアにシーポニーの面々がふらりと歩いているのは想像に難しくないが、何だかんだ言っても、やはりグランジの発火点でもあって、それが沈静化してからもインディー・「ロック」の隆盛を誇るシアトルの少し殺風景な空気にシーポニーが馴染むとはどうも考え難い。

 実際に、自分は去年の下半期のほとんどをシアトルで過ごしたのだが、ヴェニューやレコード・ショップや大学にいたキッズたちの口からパフューム・ジーニアスの名前は僅かに出てきてもシーポニーの名は一度も聞いたことがなかった。こうして見ると、ベッド・ルームから独りムフフといった笑みを浮かべながら、それを聴いたリスナーを知らず知らずの内に共犯の内に引きずりこむようなミニマル・ミュージックを作っている絵が浮かぶパフューム・ジーニアスの方がまだいくぶんシアトル人らしいと言えるような気さえしてくる。もちろん彼も昨年デビューを飾った際には、マタドール・レコーズと契約したこともあり、シアトルらしくない新人としても話題になったアーティストであるのだが。

 時代の流れと同時にシーンを統一的な見方で括れなくなったゼロ年代以降であるが、シアトルはそれでも俯瞰した時に、他の都市に比べ、どちらかと言えば「分かりやすい傾向のある」地域であったように思う。しかし、昨年のパフューム・ジーニアスやこのシーポニーの登場で、だんだんとアメリカ極北西の都市シアトルも一筋縄で括りにくくなってきた。それでも、僕はこの新星シーポニーの登場を嬉しく思う。このアルバムには、やっぱり、自分たちと過去の偉人は違うとしょげながらもどこかでそんな憧れの存在に手を伸ばしているような不器用なシアトルに住むバンドマンの鳴らすメロディーがたくさん詰まっているからだ。

 ブルックリンやカリフォルニアの砂浜ももちろん良いが、この夏は本作『Go With Me』を聴きながら夢見心地(「Dreaming」)で、北の浜辺を目指してノース・マリン・ドライヴに出るのはいかがだろうか。

 (青野圭祐)

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 環ROYの前作『Break Boy』について、ライターの二木信は「幅広い音楽性を持った環ROYが、なぜ、ここに来て日本語ラップにあえてこだわろうとしたのか、またそこに毒を吐いたのか」と書いたが、そこは僕も大いに疑問を持った。それはやはり、フラグメント、エクシー、DJユイ、オリーヴ・オイル、ニューディールといった様々なスタイルのトラックメイカーたちとのコラボをすることによって日本におけるヒップホップの可能性を押し広げてきた彼に「日本語ラップ」という「島宇宙」に囚われて欲しくなかったし、「島宇宙内部」で「島宇宙内部」をディスることに内破の可能性など微塵も無いことに気づいて欲しかったからである。1つの「島宇宙」の中でノイズが起こったとしても、それは「島宇宙内部」でのみ消費され、拡大することは無く、「一過性のエンターテイメント」として消費されることになってしまう(実際、ヒップホップ・アーティストが己のオリジナリティを提示するために現行のヒップホップ・シーンをディスリスペクトするのはよくあることだ)。

 それでも僕が前作をよく聴いた理由はトラックメイカー達の仕事がどれも素晴らしかったことと(二木信は「いくつかのトラックが気の抜けたデジロックが空騒ぎしているよう」と言っていたが、それはさすがに表現として酷い。彼の今回のラップのテーマが日本のヒップホップにおけるノイズなのだから、このようなノイズを含んだトラックの存在はむしろ必然だろう。環ROYが「日本語ラップ」への言及「以外」の「葛藤する主体」について書いたリリックが気に入っていたからである。

 3rdアルバム『あっちとこっち』はそんな「葛藤する主体」について書かれたリリックに満ちている。前作収録の「Break Boy In The Dream」でもそうだったように(《時間の流れに逆行 不可能》)彼が「葛藤する自我」について書いたリリックでは「時間」についての言葉が散見され、このアルバムにおいてもそれは変わっていない。「主体」は常に「過去」「現在」「未来」に想いを馳せ、その中でもがき、ラップする。

《ずっと昔に誰かが想像してた未来に僕らは立っている いま俺がいる街は特に上下左右がギュウギュウで 嘘みたいだなって思ってしまう風景なんだけど 君の町はどう?居心地がいいなら少し羨ましいよ できるなら そこの話が聴きたいな》(「街並み」)

 「昔」、「未来」、「いま」という異なった時間を示す言葉の交差点となっているこのラインにあるように彼の時間に対する向き合い方は様々な形態をとっており、その時々で彼が時間に対して紡ぐ言葉の帯びる感情は異なってくる。また、ここに書かれている「俺がいる街」は「日本語ラップ・シーン」のメタファーともとれ、「日本語ラップの閉塞性」を批判する彼のスタンスは変わっていないにもかかわらず、そこには前作のようなトゲトゲしさも無い。前作のアグレッシヴなアプローチを変化させ万人に届くようなリリックにし、メタファーに気づかぬとも問題ないものになっている。ここにあるストーリーはありきたりだ。「昔」抱いていた「未来」に「いま」立ってみると、そこは思っていたほど素敵な場所ではなかった。無数に語られてきたストーリーの上に彼のリアルはある。そこで彼は「孤独」と向かい合うこともあり(「Ms.Solitude」)、《モノに出来てサマになる声 今の俺にはあまりに足りない》(「You Are...」)と思うときもある。柔らかな物言いにもかかわらず、彼の現状認識は非常にシビアであり、諦念を抱いているように思える時もある。しかし、彼はこのアルバムをそのような諦念で見たすようなことはしなかった。

《信じたいみえないモノ まだ次の景色みてない まだやりぬいたって言えない 信じたいみえないモノ》《きっと時間が経って見渡したら きっと景色は変わってるはずだ きっとばかりが積み上がるけど きっとを信じるくらいはしなきゃな》(「みえないモノ」)

《手は抜けない 抜いたらすぐに消える 時の流れは無情にみえる だけど見方を変えられるなら それを希望に変えてくだけだな》(「フルメタルラッパー」)

《最初は違った 今とは違った だけど君と同じこと思った 時のせいか 新しく開けなきゃ トビラ》(「あるがままで笑える」)

 「みえないモノ」=「未来」について、彼は可能性を感じている。「不可視」であることは人間に恐怖や不安をもたらすことがしばしばであるが、彼はそこにどこかオプティミスティックにさえ映る想いを抱いている。「今、ここ」の苦しみやそこから抜け出すことをラップし続けた、ついこの前まで日本のヒップホップの中心だったハスリング・ラップには見受けられなかった「ポジティヴィティ」がそこにはある。環ROYはそれと気づかずに日本語で「ポジティヴィティ」をラップすることに挑戦しているのかもしれない。それは日本のヒップホップ黎明期における「ヒップホップというマイノリティ」が集合した共同体内における「祭り」(さんぴんキャンプ)が生み出した「ポジティヴィティ」とは全く異なるものである。今、日本のヒップホップは彼にしてみれば「嘘みたいだなって思ってしまう風景」であり、もはや「勃興しつつある新しいカルチャー」ではないヒップホップは以前のような「ポジティヴィティ」をラップすることはできない。その状況でいかにして、「ポジティヴィティ」をラップすることが可能か。彼のこのアルバムの焦点はここにあるのではないだろうか。

 (八木皓平)

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 エド・マックによると、『PARA』は、バックストリート・ボーイズやイン・シンクなどにも影響を受けたアルバムだそうだ。もちろん3人が、楽器を放り出して踊り始めたわけではなくて、前作『Friendly Fires』の内省にも行きかけないほどのエスケーピズムは大きく後退し、80年代エレ・ポップとディスコの要素を基本とした、健康的なポップ・ソングが多い。これは前述したアーティストの影響はもちろんのこと、多幸感など前作の良さを引き継ぎつつ、より開かれたフィールドへ向かうため、さらなる音楽性の獲得に力を入れた結果だろう。この方向性は、ヘラクレス・アンド・ラブ・アフェア『Blue Songs』と似ていなくもないが、本作は、前作のシカゴ・ハウス的な如何わしい卑猥さからくるアクの強さが、すっぽり抜け落ちている。このアクの欠如をどう捉えるかによって、評価は分かれるはず。

 個人的には、アクが薄まってしまったのは残念でならない。先程「前作の良さを引き継ぎつつ」と書いたけど、僕にはその引き継ぎが、方向性の転換に近い大きな変化に見えてしまった。様々なサンプリングを多用し、ある曲のフレーズを別の曲で使用したりと、その実験的な姿勢を保ちつつ、開放的で万人性が高いポップ・ソング集に仕上げたのはすごいと思う。しかし行儀が良すぎて、体を揺らすには最適でも、陶酔に近い没入感というのは、まったく得られない。この変化というのは、ライナーノーツにあるエド・マックの発言を引用すれば、「今はブラック・アイド・ピーズやケシャみたいなのが流行ってるから、以前の感じを取り戻したいと思ってるんだよ。今はうんざりさせられるようなエレクトロ・ポップがたくさんあって(中略)でも僕らは、ポップ・ミュージックを違う方向に持って行かなきゃいけないって感じてるんだ」ということ。つまり彼らは、自ら挙げたアーティストを仮想敵に設定し、本作を作った。これは好きな音(ハウス、パンク、シューゲイザーなど)を自己流に解釈し、好き勝手やるという前作とは違うアプローチだ。

 いい曲が詰まったポップ・アルバムとしては素晴らしい出来だが、「飛ぶ」「ハマる」などのトリップ感を失わせることになった、メインストリームとの距離感から生ずる緊張を糧とした創作姿勢は、批評にすら「橋渡し」の役割を求められている現在において、少しばかり退屈に見えてしまう。



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friendly_fires.jpgのサムネール画像
《君が過ごした時間を感じることは無い 僕には君の過去に触れることができない でも僕は 生きてゆく 生きてゆく 生きてゆく 僕は今夜、過ぎ去った日々を生きるんだ》
(「Live Those Days Tonight 」)

 彼らは前作『Friendly Fires』において「Paris」=「ここではないどこか」を志向した。しかし、今作ではそれとはうって変わり、「今、この夜」を生きることをアルバム冒頭の1曲目で歌う。アルバムは全編このステイトメントに忠実に「今、この夜」を生きることを鳴らしている。前述した歌詞を読めばわかるように、彼らは過去が無かったかのようにふるまうわけではなく、過去に最大限の敬意を払いつつ、それと「同じこと」ではなく、「それと異なった形で同じように」、「今夜」を生きようとしている。それが「過ぎ去った日々を生きる」という言葉の意味なのだ。

 震災後、「暗闇」について思いを馳せることが多くなった。それは僕が、地震が引き起こした、大規模で長時間にわたる停電(とは言っても僕のいる地域は復旧まで2日かからなかった)の被害にあったからだ。その停電が引き起こしたのは「長い夜」だった。そこでは本を読むこともできず、ネットを観ることもできず、電池が充電できないため、メールをすることも電話をすることもできなかった。ラジオをつければ被害情報が繰り返され、神経がすり減る。大規模な余震も連発し、3月の中旬であったその頃は、暖房が無ければ凍えてしまうくらいの寒さだった。「この夜を生き延びることができるのか」が冗談ではなく、頭の中で繰り返された。

 日本中で「節電」が叫ばれ、街という街に夜が侵食した。その夜は「暗闇としての夜」であり、明かりを灯すことができない夜だった。「いつもの夜」と「暗闇としての夜」が混在した。「いつもの夜を取り戻せ」という声と今は「暗闇としての夜」が必要なのだという声が混在した。

 この「混在」の情報がメディアから放たれるたびに僕はその「混在した夜」をどう過ごせばよいのかわからなくなった。この「混在した夜」は「日常」を侵食した。そして、「日常」は「非日常」を生み出し、人々の振る舞いにさらなる混乱をもたらした。「日常を取り戻そう」という言葉は否応なく「非日常」を身体に刻みつけ、「力を合わせよう」といったどこにも向いていない「大きな言葉」が宙を飛び交った。

 震災後には様々なチャリティーソングが様々な形で発表されたが、そのほとんどが「暗闇としての夜」と向き合っていないように思えた。時が経ち、現在、「日常」から「非日常」の影は少しずつ取り払われつつあるが、それでもやはり「原発問題」を抱えている我々に「日常」が戻ってきたとは言い難い。「暗闇としての夜」がまた戻ってくるのではないかという恐怖も少しだが、確かにある。

 そしていつしか、僕は音楽を聴くとき、それが「暗闇としての夜」でも堂々と鳴り響くことができるかを考えるようになった。それを聴くことによって「暗闇としての夜」の中でも自分が鼓舞されるかどうかを。

 フレンドリー・ファイアーズのこの新譜はそんな「暗闇としての夜」の中でも、その輝きを失うことは無いように思える。前作にあったDFA周辺のディスコ・パンク色は影を潜め、ブルー・アイド・ソウル、ハウスミュージックなどの影響が前面に出ており、ソフィスティケイテッドなメロディをヴォーカルのエド・マクファーレンがソウルフルに歌い上げる。そして、そこで歌われるのは先ほど述べたように、全ての過去を踏まえ、それを記憶にとどめ続けながらも、今夜、自分たちは生きてゆくんだという揺るぎないメッセージだった。

「ここではないどこか」なんていうファンタジーが容易に通用しなくなった今(これは震災後の日本においてもとても大きな問題でもある)、彼らが「今、ここ」に焦点を当てるのは必然的とさえ言える。しかし、彼らはその「今、ここ」を「サヴァイヴする場所」として提示することをしなかった。「サヴァイヴ」に付随して起こる「バトルロワイヤル」は人々を疲弊させるばかりであるから。彼らはあくまでそこで「踊る」ことをサジェスチョンする。それは「暗闇」に押しつぶされることなく、「暗闇」を引き受けた上でなお、自分たちは踊りつづけるという決意であり、そのようにあって欲しいという「祈り」に満ちた音楽なのではないだろうか。

 僕らは色々なものを「喪失」してしまった。そこには取り戻せないものも数多く存在するし、そのことに心を悩ませ続ける人間も大勢いる。しかし、『パラ』はそんな想いを抱く人々の心にも届くはずだ。なぜなら最初に述べたようにこのアルバムは「昔と異なった形で同じように踊る」ことを歌ったアルバムだからだ。

「喪失」を知ってしまった僕らが「昔と同じように踊る」ことは不可能だ。だが、「今までとは違ったやり方で今夜、踊る」ことができる。


*2011年2月来日公演のときのインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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 ここ数年、ミュージック・シーンで数多く見られる往年の名バンドの再結成。ラーズ、ピクシーズ、ペイヴメントなど90年代のオルタナ勢から、この夏のサマー・ソニックに登場するPiLやポップ・グループなどポスト・パンク期のレジェンドまで。もう「お金のためでしょ?」なんて意地悪な意見はナシ。確かにフェスや"期間限定"ツアーがビジネスとして成立している側面もある。でも、やっぱり彼らのライヴや新譜を耳にしてしまうと...月並みな言葉ではあるけれど、優れた音楽は時代性/ノスタルジアを軽く凌駕する。そして、"今"だからこそはっきりと見える普遍性があるのも事実。僕が見たピクシーズはメンバーの体型とは裏腹にタイトだったし、これからやって来るPiLの存在感は半端じゃないだろう。

 それにしても24年ぶり! カーズがまさかの再始動だ。僕が生まれて初めて買ったレコードはカーズの『Greatest Hits』だった。"ベストヒットUSA"で「Tonight She Comes」のビデオ・クリップを見て、そのレコードを選んだ当時の自分をほめてあげたい。2枚目に買ったレコードはトーキング・ヘッズの『Little Creatures』。この2枚が僕の人生を変えたと言っても過言じゃない。僕は今も、そしてこれから死ぬまでずっとロック/ポップ・ミュージックを聞き続ける。その楽しさを教えてくれたのは、カーズとトーキング・ヘッズだった。その頃は"オルタナ"だなんて、思ってもいなかったけれど。

 80年代に全米チャートをにぎわせるヒットを連発し続けたカーズ。そしてイーノとの邂逅を経て、『Remain In Light』という金字塔を打ち立てたトーキング・ヘッズ。中学生だった僕はモダン・ラヴァーズの1st『The Modern Lovers』を見つけて驚愕した。カーズのドラマー、デヴィッド・ロビンソンとトーキング・ヘッズのマルチ・プレーヤー、ジェリー・ハリスンが同じバンドに在籍していたなんて! しかもプロデュースは元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル。これでバラバラだったイメージがひとつになった。おぼろげながら見えてきたのは、60年代中盤~70年代後半のニュー・ヨークを中心とするアンダーグラウンドの音楽シーン。それはヴェルヴェット・アンダーグラウンドからテレヴィジョン、ラモーンズにまで受け継がれる反逆と知性の爆発であり、僕に"Do It Yourself"という考え方を教えてくれた。つまり、パンクだった。

 バンド解散後はウィーザーの1st(ザ・ブルー・アルバム)や3rd(ザ・グリーン・アルバム)、ガイデッド・バイ・ヴォイセズの『Do The Collapse』など、プロデューサーとしての活動が目立っていたリーダーのリック・オケイセック。それらのアルバムからカーズや彼のソロ・アルバムを手に取った音楽ファンはどれくらいいるのかな? パワー・ポップが好きな人はもちろん、ストロークスのファンにもこの『Move Like This』を聞いてもらいたいと思う。すぐに覚えられるメロディ、シャープなギター・リフ、キラキラ輝くシンセ、そしてタイトで軽快なドラム。いつまでたっても手の届かない近未来からの「Hello Again」だ。そこで30年も前から鳴らされ続けてきたサウンドが、どれほど多くのバンドや音楽ファンに愛されてきたのかわかるはず。

 プロデュースはR.E.M.やスノウ・パトロールを手掛けてきたジャックナイフ・リーとカーズが半分ずつ。本質は何も変わっていないけれども、バンド編成が変わってしまった。オリジナル・メンバーでベーシスト/ヴォーカリストのベンジャミン・オールが2000年に癌で他界。ジャケットを飾るシルエットも彼を除く4人だ。ベンジャミンは、デビュー曲「Just What I Needed(燃える欲望)」や、今でもFMでよくオン・エアされる「Drive」などで美声をキメていたイケメン。クセのあるリック・オケイセックのヴォーカル(とルックス)との対比もカーズの魅力だった。『Move Like This』なら、「Soon」とか「Take Another Look」がベンにはぴったりかな。ワクワクするようなポップ・ソングとちょっぴり切ないバラードのバランスが気持ち良くて、何度もPLAYボタンを押す。"ポップ"という言葉も"オルタナティヴ"が広く知れ渡った今では、多彩なイメージを帯びるだろう。そこにカーズの軌跡と現在がある。

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 時は1991年、ニルヴァーナというバンドがアメリカで全世界的音楽革命を起こした。メジャー・デビュー・アルバム『ネヴァー・マインド』は言わずと知れた歴史に残る一枚となった。その頃、世界中の音楽関係者は「次なるニルヴァーナ」を求め、その結果見いだされたのがティーンエイジ・ファンクラブだった。その音楽はいわゆる「グランジ」ではなかったが、彼らの『バンドワゴネスク』は同じく商業=金を皮肉ったスリーヴでUKからの返答と相成った。

 さて2000年代、これという革命は起こらなかったものの、ニューヨーク出身のザ・ストロークスが一躍脚光を浴び、これまた世界中で人気を博した。そして音楽業界はまた「次なるザ・ストロークス」を探し始めたのである。そこで目に留まったのが同郷ミューヨークで活動するステファニー・ジャーマノッタという一人の女性歌手だった。

 ステファニーはニューヨークという土地において、なかなか皆の注目を集めることが出来ずにいた。ある日いつも通りピンク・フロイドやクイーンのカヴァーを披露することになったステファニーは、下着でステージに上がるという強攻策に打って出た。そのとき初めて皆が注目してくれたのだ。そしてステファニーにとって、これがのちの「露出」の原点となっていく。

 そんなステファニーは、もちろんザ・ストロークスとは音楽性が違っていた。しかし歌唱力と人間的魅力を感じたある関係者が何か別の方法で売り出そうと考え、ステファニーにこんなことを考案した - 「ダンス・ミュージックをやってみないか?」。

 そして、それに見合う新しい名前が決まった。クイーンの曲「レディオ・ガ・ガ」をもじったレディー・ガガという名前だった。

 60年代や70年代という時代には1年に一度程度のペースでアルバムが出されていた。だがしかし、ここ最近はストーン・ローゼズ、ナイン・インチ・ネイルズ、そしてミューまでもが4年半ぶりに新作を出す時代となってしまった。そんな中でレディー・ガガは毎年フル・アルバムをリリースしているのだ。何と凄い逸材が生まれたのだろう! 今回は早くも通算3作目となる新作だ。

 スロー・テンポで始まるこのアルバム冒頭部分は既にその瞬間から直後にやってくる竜巻を予感させる。もちろん期待は裏切らなかった。ガガ旋風の始まりだ。その後もアッパー・チューンが続いていく。これまでと敢えて違う点を挙げるとすれば言わば陰と陽、静と動、強と弱といった波が1曲1曲に感じられることだ。更にエレクトロ音のアプローチもよりハード・デジタルに移行し、新鮮に感じる。それでも尚ポップ・ミュージックという枠に括られるのはひとえにステファニーによる卓越したメロディー・センスとヴォーカリズムにあると思う。皮肉なのは「アメリカーノ」というかつてオフスプリングも使用したベタなアメリカ的タイトル曲が非常に民族的要素に富んでいること。最も現在のアメリカらしくない一曲にガガの才能を感じざるを得ない。

 ステファニーは米インタヴューで「私は女でも男でもない。両性具有だ」という発言をしている。実際、彼女(或いは彼)が本当に男か女かは未だ誰も知らないというのが現実なのだ。ヴィデオ撮影の際に男性器が見せそうになって撮り直したというエピソードまである。そのスタイルは、ゲイ(&レズビアン)・カルチャーに絶大な支持と衝撃をもたらした同郷のシザー・シスターズ、過激なショウでファンの目を釘付けにするヤー・ヤー・ヤーズにも似ている。だがステファニー曰く、ガガのショウは彼らとは一線を画し「ショックアート」と位置づけている。また、ステファニーが設立したファッション・チームは「ハウス・オブ・ガガ」と名付けられ、ハウスというのはドイツの「バウハウス」から拝借されている。

 ロック界やアンディー・ウォーホルの「ライフ」そのものに興味を示したステファニーは、彼らの生活に欠かせないドラッグに手を出すことになる。だがあくまでそれは「興味」と「好奇心」と「体験」への探究心から成るもので、深入りはしなかったという。ドラッグのBGMには必ず大好きなザ・キュアーの曲をかけていたとも言われている。ステファニーの心には幼い頃からロックが刻まれているのであった。初期の曲「ボーイズ・ボーイズ・ボーイズ」はモトリー・クルーの「ガールズ・ガールズ・ガールズ」へのオマージュとも取れよう。

 シュウ・ウエムラの付けまつ毛の目元にジギー時代のデヴィッド・ボウイとそっくりのアイ・メイクを施すなど、ボウイへのリスペクトは今でも続いている。更に音楽と芝居(演劇)を好むステファニーは当初、マイルス・デイヴィス、スティーヴ・ライヒ、チック・コリア、フィリップ・グラスらを排出したジュリアードへ進学する予定もあったという。

 こんな風に様々な音楽が溢れ返るニューヨークで生まれ育った彼女にとって、究極に斬新なものでなければ注目されなかった苦労の日々が、今やトップ・スターダムへとのし上がり、まさに今回のキャッチ・コピーの通り、「レディー・ガガは止まらない」。

 最後に、アメリカ音楽界で同じくトップ・スターダムへと登り詰めたコートニー・ラヴ。彼女は今、レディー・ガガの存在をどう思っているのだろうか?

 
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lady_gaga.jpgのサムネール画像
 世界的な音楽不況が叫ばれるなか、海外だけでなく、ここ日本でもチャートを席巻するほどのセールスを記録するレディ・ガガ。洋楽としては、日本におけるレディ・ガガのブレイクというのは現象と言えるものだし、商業面で張り合えるとしたら、AKB48くらいのものだろう。 

 ただ、レディ・ガガがここまで支持されている背景には、彼女のポップ・スターとしての才能だけではなく、彼女自身が内包する同時代性が関係しているというのは、大方の同意を得られるところだろう。実際彼女は、これまで音楽という枠を越えて様々な批評の対象にされてきたし、語られてきた。そのなかでも、マドンナとの比較は多かったと思うのだけど、『Born This Way』を聴いて興味が向いたのは、アルバム全体に漂う「雑さ」だ。この「雑さ」については、すべてを切り開くようなパワーや勢いと捉えることも可能だけど、『The Fame』『The Monster』にあった隙の無さに驚いた僕にとっては、『Born This Way』の雑な作りに対して疑問を抱いてしまったのだ(蛇足として、この隙の無さが、当時のレディ・ガガがマドンナと比較されてしまった要因のひとつだと思う)。ヒット・チャートに氾濫しすぎて飽和状態となっているエレクトロを、ダサくならず、あくまでスタイリッシュにやっているのは評価できるが、音だけを聴けば、起伏が少ないアルバムだし、「Hair」のようなバラードもアクセントにはなりえていない。 すべてがシングル・カット級の曲ながらも、アルバムというよりもシングル集的な印象が拭えないし、音のみで判断すれば、傑作とは言えない。

 それでも僕が『Born This Way』に強い興味を持ってしまうのは、歌詞が複雑で、それが内省的に吐き出されているからだ。『The Fame』リリース時、PopMattersなどで歌詞を批判されたことを受けてか、現代のアメリカが抱えるトピック、特にアメリカ社会やマイノリティとされる立場の人々をガガなりにピックアップし、それを弁証法など様々な形で歌っているものが多い。しかしその歌詞は、何かに立ち向かう急進的なものだが、同時に単調な曲とは裏腹に、パーソナルな呟きに近い、前述した内省的なものに聞こえる。

 ガガはステファニーと呼ばれることを拒否し、《レディ・ガガ=私》と自分自身を定義した。しかし、『Born This Way』には、ガガが捨て去ったはずのステファニーが戻っている。このステファニーの介入が、現在のレディ・ガガと、アイドル声優などに対するスラングとして使用されるようになった、「2.5次元」という言葉とシンクロしているように思えるから面白い。いままでのレディ・ガガは、ステファニーという器の消滅によって、彼女の歴史と精神を取り込む受け皿となっていた。だからこそ、レディ・ガガは「実在する幻想」でいられたし、リスナーもリアルなものとして受け取ることができた。しかし、『Born This Way』でのレディ・ガガは、アバターとしてステファニーの前に立ちはだかる者として対峙している。それは、シングル「Born This Way」のMVが示唆していたのかもしれない。おおまかに説明すると、まずは冒頭の、海老反りのようになったガガの背後に回ると、クレオパトラを思わせる姿をしたガガが登場し、そのガガが「ガガのようなもの」を次々と生み出していくシーン。僕は、この「ガガのようなもの」を生み出している者がレディ・ガガで、その前の死んだような表情で映し出されるレディ・ガガは、ステファニーではないかと踏んでいるが、このシーンは、レディ・ガガの「新たなレディ・ガガ」を作り出す苦闘を表しているのではないだろうか?このあとは、下着?姿のレディ・ガガ、ゾンビのような骸骨姿になったレディ・ガガ、成長した「ガガのようなもの」、そして「ガガのようなもの」を生み出そうとしたレディ・ガガが、代わるがわる登場する。最後は一筋の涙を流すレディ・ガガの後に、おちょくるかのように風船ガムを膨らますゾンビ・ガガが登場して、MVは幕を閉じる。

 ここで、同MVの冒頭でガガ自身が読み上げたと思われるマニフェストを、長くなるが、僕が直接MVから聞き取ったものを引用させてもらう。

《これは母なるモンスターのマニフェスト。山羊座にある宇宙の中の異空間を支配する政府で、素敵な魔法のような調和が誕生した。その誕生は有限ではなく、無限のものだった。そして母胎の月が満ち、未来の細胞分裂が始まった。この忌まわしい時は、一時的なものではなく、永遠のものだと思われた。こうして、新しい人種が始まった。それは人類に属する人種だが、偏見はなく、裁きも下さない、無限の自由を持つ人種。しかし時を同じくして、永遠の恋人が多元的宇宙を彷徨っていると、もう一つの恐ろしいものが誕生した。『悪』です。彼女は2つに引き裂かれ、2つの究極の力の間でもがき、選択の振り子が揺れはじめた。迷い無く、善の方に引きつけられるでしょう。しかし母は考えた。「どうしたら、こんな完璧なものを守れるか?悪なしで?」》
 
 このマニフェストにおける「こんな完璧なもの」はレディ・ガガであり、そのレディ・ガガを邪魔する存在という意味において、「悪」とはステファニーではないだろうか?つまり、レディ・ガガの中に眠っていたステファニーが目覚めることによって、レディ・ガガという完璧な存在が揺れている。そして彼女自身、レディ・ガガとステファニーの狭間に本当の自分を見出そうとしていて、そこにいるのが、「人類に属する人種だが、偏見はなく裁きも下さない、無限の自由を持つ人種」なのかも知れない。その人種が希望なのか、はたまた絶望なのかは『Born This Way』を聴く限り知ることができないし、そういう意味では「レディー・ガガは正しい」と断言はできないが、少なくとも本作は、彼女がレディ・ガガとステファニーという謂わば完璧な幻想と実在の間にある「ナニカ」を見つめている姿が窺い知れるアルバムだと思うし、その「ナニカ」の正体を知ったとき、彼女がどういったことをするのかは、すごく興味がある。

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 昨年の『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』というアルバム「以降」の彼らは相当、峻厳でシビアなフェイズに入ってしまったことを示してしまう結果になったのは、その後のライヴ・ツアーやそのアルバム内容の受容のされ方をして慮ることが出来る部分があったかもしれない。くるりというバンドが"さよなら"を言うのが"ストレンジャー"ではなく、"見知った人(つまり、近しいファンとも換言できる余地はある)"だったところに「捩れ」があり、骨身だけになったバンド・サウンド、B面集のベストでオリコンの一位を取った形態、昨年の京都音楽博覧会での旧メンバーとのセッションを含めて、07年の『ワルツを踊れ』までギリギリまで保たれていた様々な「音楽とのロマネスク」、ロラン・バルト的に言うならば、「自分自身が定義されることを好まないこと」が解体され、09年の『魂のゆくえ』からはくるりとしての切断面から音符が漏れるようになった途端、喪ってしまった要素は確実にあったと思う。

 それは、「ばらの花」をいまだ求める古参のファンの慕情なのかもしれないし、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」の終わりなき青い時間への希求なのかもしれなかった。それでも、彼らは今でも武道館という大きなステージで『図鑑』というジム・オルークという組んだエクスペリメンタルなアルバムから「青い空」を早弾きで、観客を突き放すように「そんなことは言いたくないのさ」と駆け抜けた。「温泉の中での気持ちの良さのまま、魔法の絨毯に乗って、シャツを洗って、麦茶を飲みながら」、日常に着陸したはずの彼らの続きは異質/忘我の縁のどちらを往くか、しか残っていなかったような気さえするのに、それでも―。そのストラグルする姿勢には複雑な感情が喚起された。

 何故ならば、例えば、「さよならアメリカ」の後景には、はっぴぃえんど(HAPPY END)があった訳で、現今、同世代のスーパーカーがリ・モデルされ、中村一義が「愛すべき天使たち」へ向けて歌を紡ぎ、向井秀徳が「ふるさと」を朗々と歌い上げる中での彼らの立ち位置は微妙になって然るべきだったのは自明とも言えた節がある。岸田繁ソロ名義での『まほろ駅前多田便利軒』のサウンドトラックで、ボーナス・トラック的にくるり名義として収められた「キャメル」のクロスビー・スティルス・ナッシュ・アンド・ヤング、ザ・バンドのようなダウン・トゥ・アースの曲も決して新ビジョンを拓くものでもなく、今年明けからのライヴでも披露されていたが、『言葉にならない、笑顔を見せてくれよ』の中に含まれていてもおかしくない肩の力の抜けたささやかに漸進するような曲であり、仄かに胸を暖める叙情性は含みながらも、「行間」の妙が少し粗雑に思えたのは個人的な感慨だった。震災直後に、アコースティック・セットで京都の磔磔というライヴ・ハウスで観た彼らのライヴも奇遇か、前にも後ろに進めない感じが刻印された印象を受け、その曖昧さが良いケミストリーを生みだすバンドだけに、その曖昧さに自縄自縛になっている「気配」に遣る瀬無さをおぼえた。だからなのか、どうなのか、今回、彼らは一部の義捐活動を除き、チャリティー・ソングという形式などは全く取らず、ホームページで岸田氏の原発や震災の現状を憂う日記が綴られ、夏に向けてのイベントやフェス参加の告知が為されただけだった。

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 しかし、この「奇跡」は今のくるりの一つの分水嶺になる曲になることだろう。

 是枝裕和監督の『奇跡』の主題歌ということで、「キャメル」に引き続き、純然たる新しいくるりの新局面の打ち出しではなく、CMで繰り返し流れている新曲の「旅の途中」でもないのだが、それでも、「奇跡」には、同じく映画主題曲でもありながら、現在でも代表曲の一つでもある「ハイウェイ」に繋がるような、柔らかな希望の予感と詩情に繋がれている。ここでは直接、"奇跡"は歌われてはいないが、《退屈な毎日も 当たり前のように過ぎてゆく 気づかないような隙間に咲いた花 来年も会いましょう》なんてフレーズが挟まってくる。いつになく優しくたおやかな岸田の声とアコースティック・ギターの響き、決して高揚はしないが、淡々と刻まれるリズム、透いたバンド・サウンド。『魂のゆくえ』からベタッとした身体性に訴えかけるサウンド構築を心掛けていたような節もある彼らはここではただ、音楽の持つ透明感に「回帰」しようとしているところが興味深い。この流れのまま、次へと踏み出すという感じではないだろうが、3.11以降ですっかり変わってしまった世の中で《さぁ ここへおいでよ 何もないけど どこへでも行けるよ 少し身悶えるくらい》と今、紡ぐ意味は非常に大きいものがあると思う。

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 ここには、くるりの身体的な「痕跡」とともに、「モードへの旋回」がある。そこで、形容される名前は、日常に連結した奇跡とも言える願望のような別名である気がしてならない。すぐに前に進まなくても、ここで来年も会えたらいい。

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  まずは、タイトル名とその鮮やかな色彩のジャケットに目を奪われる。

"LOVE & REVOLUTION"という大文字を見て、そこで何故&の次に"PEACE"が来なかったのか、僕などは彼の代表作でもある『Other Directions』のシックさと既存のジャズではない、その他を目指そうとするオルタナティヴなセンスをして、マル・ウォルドマンとは別文脈、語義で"レフト・アローン"的な何かを求めていた部分があるが、それは良い意味で裏切られた。そして、いわゆる、クラブ・ジャズの実質的な終焉を示した作品としては決定打となるだろう。00年代後半から雨後の筍のように溢れたクラブ・ジャズとしてカテゴライズされた、打ち込みが混じり、スムースなジャズ・テイストのサウンドの機能性の「限界」を打ち破るのは何よりその名称を嫌っていたニコラ・コンテだったというのも興味深い。

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 彼は、ミュージシャンであるが、コンポーザー且つ、DJとしての資質も強い。

 だからこそ、エディット感覚も優れており、今回でも多くのフィーチャーされたアーティストを束ね上げ、適する場所に配置するのも絶妙だ。ちなみに、前作の『Rituals』から引き続いた参加アーティストは、ボーカリストとしてはホセ・ジェイムズ、アリーチェ・リチャルディ、トランペットのティル・ブレナー、ファブリッツィオ・ボッソ、ピアノのピエトロ・ルッス、バリトン・サックスとフルートのティモ・ラッシー、ドラムスのテッポ・マキネン、コンガとパーカッションズのピエルパオロ・ビゾーニョなど鉄壁の面々が揃い、今作では、ジャイルス・ピーターソンも絶賛していた女性シンガーのナイラ・ポーター、パートタイム・ヒーローズ、ネクストメン、ダブレックス・インク等々でフィーチャーされてきたガーナ系イギリス人の女性シンガーのブリジット・アモファーから、2011年のグラミー賞のベスト・ジャズ・ヴォーカル・アルバムにノミネートされたのも記憶に新しい『Water』でデビューした気鋭の男性シンガー、グレゴリー・ポーターといった新顔が涼しげな風を吹き込んでいる。勿論、ボーカリスト以外にも、サックス・プレイヤーとしての実力も評価が高いマグヌス・リングレンやクワイエット・ナイツ・オーケストラのリーダーでトロンボーンを扱うピーター・フレドリクソンなど多岐に渡すメンバーがそれぞれに良い働きをしており、色彩豊かな作品内に奥行きとふくよかさを付与することに貢献している。

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 今作は、ヴォーカル・トラックが主軸になっており、ウォームでオーガニックな空気感が全編を漂う。まず、吃驚するのが、冒頭の「Do You Feel Like I Feel」だろう。これは、ニューソウル的な雰囲気もあり、非常にスムースで、グレゴリー・ポーターの歌声もダニー・ハサウェイのようでソウルフルだ。これまでベースとしては、モード・ジャズを推し進めてきたニコラ・コンテの姿勢を知る人からすると、「モード」ではなく、よりポップ且つソウルフルな温度を手に入れたかったのか、と思うかもしれない。しかし、"黒さ"とは無縁と言っていいだろう、センスの良さとエレガンスなサウンド・メイキングが醸しだす音風景にはどうにも洒落た夜のバーやカフェに合うようなムードとたおやかでメロウで程よいクールさが備わっている。レアグル―ヴへの目配せがされた上で、更にリズムの細かさやグルーヴにセンシティヴになったのが伺える結果として、アシッド・ジャズのような「Black Spirits」からパーカッシヴで躍動的な「Ghana」、静謐なピアノが柔らかく女性ボーカルと絡み合うフィラデルフィア・ソウルのような雰囲気さえある「Quiet Dawn」辺りの曲は印象的だ。また、イントロでシタールが響く「Scarborough Fair」といい、中近東の音楽やアフロ・ビートへの配慮がより強くなっているのも特徴だろう。なお、ファラオ・サンダースやサン・ラーのようなスピリチュアル性に対しても向き合っているところも要所で感じることができるが、精神的な内面に潜航し、ときに難渋さを帯びる何かがあるというよりも、精神性の深遠越しに、もっとリスナーやオーディエンス・サイドへ開けた視点へと変換するセンスが上回っているというのは如何にも彼らしい。クラブで流れる絵が浮かぶ「Bantu」みたいな曲もあるが、基本、この作品はフラットに生きる人たちの平穏なる日常に寄り添い、少しの安らぎと華やぎをもたらすサウンドトラックとしての意味が大きい気がする。そして、彼に興味が湧かなかった人やクラブ・ジャズ周辺の音になんとなく距離を置いていた人にも届くものになった点は、何よりも評価はしたい。

 ただ、ベンサム的な再考証の観点を入れるとして、現在の「不自由な自由」とは人間の行動が快楽の追求と苦痛の回避に基づいた「効用」の合理的最大化によって成り立っているとしたならば、その「効用」面での最大化に寄与する音として今回のニコラ・コンテの音は"透明な"社会の要請によって成り立った、如何にも汎的でグローバルな音になってしまったきらいもあるのは否めない。モード・ジャズ内で収まっていた頃の彼は、ある種の「自由な不自由」を満喫出来ていた。しかし、この作品で踏み込んだ「不自由な自由」の中で、今後、より彼の刻印が押された音を出していけるのか、そういった岐路に立つことにもなった気がする。ジャズ・レコードとしての耳で捉えるのではなく、ポップ・レコードとしての文脈とクラブ・ジャズの歴史の終焉を重ね合わせながら聴くと、感慨深くなるものになった。