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 グローバル・コミュニケーションやハーモニック313名義などで長年活躍しているマーク・プリチャード。J・ディラとコラボレーションした「Eve」で知られるスティーヴ・"スペイセック"ホワイト。この2人によるユニットが、アフリカ・ハイテックである。そのアフリカ・ハイテックが生み出した傑作アルバム『93 Million Miles』は、ダブステップ以降のハイブリット音楽が迎えたひとつのピークだ。ダブステップ自体が非常に順応性が高い音楽で、人によってはアティチュード的な視点で見るくらい曖昧なものだが、見事に2人は、その曖昧さと順応性をうまく活用している。

 僕が分かるだけでも、初期のレイヴやアシッド、ジャマイカン・ダンスホールにグライム、さらにはジェイムス・ブラウンのようなソウル・ミュージックの要素まで垣間見れる。他にもトライバル・ミュージックや、ジュークのような最新型ゲットー・ミュージックもあったりと、20年以上ダンス・ミュージック・シーンの最前線で活躍してきた2人の歴史と同時に、現在進行形で進んでいるモダン・ミュージックが交わることで生まれているのは、一歩先の未来。つまり、2012年以降のベース・ミュージックが進むべき道のブループリントが鳴らされている。正直、若いアーティストがこうしたアルバムを作り上げたら、より大きな衝撃をもって受け入れられたかも知れないけど、本作が傑作であるのに変わりはない。

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 あくまで個人的な意見である。2011年のシーンを決定づけるアルバムはグループラヴが今年の秋にリリース予定のデビュー盤であり、とびっきりホットで長くなりそうな夏にへヴィーローテーションされるべき曲は彼らの「Naked kids」か、もしくは「Colors」のほかにない。グループラヴがいったい何者なのか、ここ日本では彼らのプロフィールさえまともに紹介されていないが、どうやらロスを拠点に活動しているようだ。5人のうちロンドン出身のメンバーが一人いて、あとはアメリカ人で、ギタリストはイエスの元メンバーの息子だそう。そのサラブレットが所有している家のスタジオでグループラヴの曲もレコーディングされている。デビューして間もなくフローレンス・アンド・ザ・マシーンの前座としてアメリカ・ツアーをまわり、名を広めた。そしてNMEが選ぶ2010年の「ソング・オブ・ザ・イヤー」の上位に彼らの「Colors」がランクインされる(わたしは1位でも良かったと思っている。身震いがするくらいの名曲である)。そこから私のような「自分たちの日常を変えてくれるようなインディバンドがいないか、常に嗅ぎまわっている」音楽ファンたちのあいだでざわざわし始めたのである。
 
 アーケード・ファイアのファーストにあった祝祭のフィーリングを思い出してみてほしい。あるいはアークティック・モンキーズが「When The Sun Goes Down」のワン・フレーズで60年代を羨望の眼差しで追いかける必要なんかないくらいの興奮を私たちに与えてくれたあの瞬間を思い出してみてほしい。リバティーンズが信じがたいくらいにティーンを熱狂させた、フラジャイルだからこそ魅力的だったバンド・ドリームでも構わない。こんなにもエモーショナルでフリーな音楽を、あなたは愛せずにいられるだろうか。ソングライティングのアイデアがずば抜けていて、コーラスを務める女の子のキーボディストが最高にチャーミングで、ドラムがずっしり心臓に響いてきて、ほかに必要なものなんてある? いまのティーンには彼らがいるのかと思うと、わたしが3年以上も前にそれを卒業してしまったという事実が残念で仕方ない。とにかく今回紹介したこのEPに収録されている楽曲はどれも傑作で、とくに「Colors」は何だかもどかしくなるくらいの名曲です。もう称賛の言葉は使い果たしました。もう一度書きますが、彼らのニューシングルが夏にリリースされて、秋にはデビュー・アルバムの全貌がついに明らかになります

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 イギリスのメディアは、「ギター・ロック復権を象徴するバンド」みたいに騒いでるみたい(特に『NME』が)。バンドを徹底的に持ち上げて、シーンを作り上げようとするやり方は相変わらずですね、ぷぷっ。まあ、見習うべき部分もありますが。さて、このヴァクシーンズという4人組は、いい意味でそんなメディアの期待にそぐわない素晴らしいデビュー・アルバムを作り上げてきた。『ヴァクシーンズに何を期待してんの?』というアルバムタイトルも秀逸だが、主にロカビリー、ブルースの影響が窺える曲群も、グッド・メロディとロックンロールのグルーヴがうまく同居していて、リスナーの心を楽しませてくれる。特に親しみやすさすら感じるメロディは、ジェイ・ジェイ・ピストレット名義としてロンドン・フォーク・シーン界隈で活動していた、ジャスティン・ヤングのソングライティング・センスによるものだろう(ちなみに僕は、彼がジェイ・ジェイ・ピストレット名義でリリースした「Happy Birthday You EP」も持っているのだけど、これもなかなかの良盤)。

 リヴァーブが多用されたサウンド・プロダクションは、もろにチルウェイヴ、グローファイの影響を感じさせるが、イギリスにも数年遅れてそれらの要素が本格的に上陸してきたということだろう。国内盤のボートラ「We'Re Happening」の歌詞の一部を引用させてもらえば、≪俺たちこそ「今起こってる」ことなんだ≫といったフレーズがあるように、「自分達が好きなことをやる」のが姿勢。これは現在のUSインディー勢にも通じるフィロソフィーだが、ヴァクシーンズの場合、それは意識したというより、ほぼすべての新世代に共通する「趣味性の高い個人的な快楽」によるものだろう。そして、その新世代によって作られたアルバムが、全英4位という形で多くのリスナーに共有されているのはすごく興味深い。そんな『What Did You Expect From The Vaccines?』を聴くと、新しい価値観の胎動を感じる。


*インタヴュー記事はこちらに掲載されています。【編集部追記】

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 アメリカの詩人ローラ・ライディングは『語ること』の中で、我々には語られるべき何かがあって、それが語られるのを皆が待っており、不本意な「無知」の状態下で、それでも、人は古い人生、新しい人生、捏造された人生などを巡る物語に進んで耳を傾けると述べている。そして、尽きはしない好奇心の時間を何らかの形でも埋めてくれるものはないか、という熱量が動かすものはあるかもしれないが、それは結局代わりにはならないし、なれないと敷衍する。空虚は空虚のまま、「語られる」。だから、何をどう語られるか、静かに待ち続けるか、しかない。そんな待つための時間に合う音楽は、僕はポップであるべきだと思うときがある。

 トッド・ラングレンやXTCをはじめとして、彼らは大きな意味を求めない代わりに、語られるべき何かを「ポップ」という言語に置換して、多くの人たちの好奇心が募って何かを追いかける隙間の時間を埋め合わせてきた。しかし、ポップと呼ばれるものの背景でアーティストはパラノアックになってゆく過程に入っていった事例は枚挙にいとまがない。「伝統形式としてのロック」としてのそれは続くのに、何故に「ポップを響かせるのは難しいのか」。やはり、作り込む中で自家中毒的な状態に陥ってしまうからなのか、それとも、細部に神は宿るがゆえに、その宿らせるマジカルな瞬間を彼らも「待ち続ける」だけしかないのか、昨今、聴いていて胸が躍動するような現代のアーティストのポップな作品と出会う機会が減ってきているのは自分のアンテナの怠慢もあるにしても、絶対数としても、ポップを迂回しようとしている動きさえ感じる。

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 ベルギー出身の四人組の2年振りの新作。前作をソウルワックスが手掛けたこともあり世界的にもブレイクしたが、今作ではセルフ・プロデュースで、自分のスタジオで音作りを始めていったという。では、前作との変化はあるのか、というと、目立った点では、80年代的なギターとエレクトロニクスの折衷が見られる以外、引き続き、「ポップ」であることに忠実な内容になっており、素晴らしい。ここには、ジェリー・フィッシュ、ファウンテインズ・オブ・ウェインのようなパワーポップの煌めきもペイル・ファウンテンズやアズテック・カメラなどのネオアコ的な繊細なメロディーも、そして、稀代のポップ・メイカーであるエルトン・ジョンやブライン・ウィルソンへの畏敬の念にも溢れている。つまりは、弾んだムードと美しいメロディー、リリシズム、練り込まれたサウンドスケープの中で「音楽自体が愉しそうに戯れている」。

 これだけ健やかにオーセンティックなポップに対峙したという意味で、どちらかというと、少し真面目過ぎると思ってしまう人も居るかもしれない。例えば、スクイーズのようにもう少しのひねくれた部分を求める人からしたら、あまりにまっすぐなポップが全編で貫かれているのも否めない。ただ、例えば、「Skip The Rope」でのピアノが鳴り響く叮嚀なメロディーライン、ベル・アンド・セバスチャンのようなナイーヴさが映える「Fair Weather Friends」、「I Me Mine」の伸びやかな高揚感など、純粋に音楽としての心地良さが先立つ。

 時代を引っ繰り返すとかシーンをかき回す、とかそういった大それたアルバムではないが、この作品に出会った人はこれからもずっと大事にしていけるようなものになったと思う。様々な刺激的なサウンドが溢れ、犇めき、どうにもまっすぐポップに向き合うバンドは陽当たりがいい訳ではないのも実情だ。でも、ダス・ポップのような存在が居なくては困る。聴かず嫌いは抜きに、より多くの方に届いて欲しい快作。

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 人の「行為」によって「場」が形成される場合もあれば、「場」が人の「行為」を引き起こす場合もある。例えば、さして喉が渇いているわけではなくとも、水飲み場に行けば水を飲みたくなることがこの場合に該当する。

 メトロノミーが前作『Nights Out』で志したものの一つに、当時隆盛を誇っていた「ニューレイヴ」なるムーヴメントへのカウンターがあった。それは「ニューレイヴ」存在下においては、「クラブ」という「場」が人を脅迫的に「ダンス」という「行為」に駆り立て、「踊らなければならない」という空気を形成していたと、彼らが捉えていたからだろう。だからメトロノミーは前作で「踊らなくてもよい」という音楽を提示し、その張りつめていた空気に穴を開け、さらにそこから抜け出てくる空気を音像化した。だからこそ、彼らの音はあんなにも「どこにも向かっていない」のだ。彼らは「踊らなくてもよい」音像を確固たるコンセプトとして提示するために、一つのコンセプトを立てた。それが「報われない夜」というコンセプトだ。前作の1曲目「Nights Out」におけるシンセサイザーの異様な響きがそのコンセプトの始まりと終わりを同時に鳴り響かせる。その音は「報われない夜の予感」と「報われなかった夜」を同時に内包している。そして、その通りに主人公は女性と「報われない」時間を過ごす。そしてこの「報われない物語」はまた振り出しに戻る。彼らは期待と失望が「ループ」するナイトクラビングをこのように「報われない物語」としてまとめあげた。

 そして彼らは新譜『The English Riviera』を上梓する。前作のプログレッシヴなサウンドに古のアメリカのウエストコーストサウンドが溶け込み、宅録作業中心だった今までの方法からスタジオ録音中心の方法へと移行し、今作の音像は全体的に非常にメロウな仕上がりになった。

《この街は僕の一番古い幼馴染 僕らは上がり、落ちて行く いつもこの街を駆けずり回っている そしてこんなうわさを囁かれていたと思いこむ これよりマシなものは得られない》
(「The Look」)

 彼らは前作では「報われなかった夜」に「囚われていた」。前述したようにそのあらかじめ決定されていた運命を彼らは知っていたわけではなく、ただ「予感」としてそれを認知し、そこから抜け出るための淡い「期待」を抱いていた。しかし、その「期待」は打ち破られ、それは「報われない物語」として回収されてしまっていた。このアルバムでは、彼らは「街」に「囚われている」。

《あなたを連れ戻した時は また逃げ出すかと思ったけど まだここにいるわ》(「Everything Goes My Way」)と昔分かれた女性に囁かれ、同曲で《僕はもう逃げ出さない ああ、ここにいるよ どこへも行かないよ》と歌う。彼らが「街」に「囚われている」のはもはや自明である。

 その「街」の中で、「彼」は「彼女」がすやすやと眠る顔を見つめて《疲れるなんて見込みも吹き飛んでしまった》(「She Wants」)と安らぎを感じることもあれば、《僕は出掛けたくない 君は家にいたくない また口論になるだろうな》(「Trouble」)と「街」どころか「家」から出たくない思いに駆られている。時に思い切って《だけど、早く出て行かなきゃ》(「The Bay」)と思うものの、同曲で《この入江はとても快適な場所》であると感じており、結局「街」から出ることはできない。

 このままでは彼らは前作と同様の「報われない物語」から抜け出ることができない。しかし、ここで2曲目「We Broke Free」に注目してみよう。前作では1、2曲目のインストゥルメンタルナンバーが「報われない物語」を明確に表現していた。『The English Riviera』では「物語のはじまり」はどのように表現されているのだろう。

《用意はいいかい 君を街に連れ出そう とても素敵なものが見られるはずさ こんな宝が僕のものだなんてありがたい 僕らが立つこの丘のこの場所で ずっと君のことを思ってきた いつの日か手を携えてここまで登ってくることを こんな宝が僕のものだなんてありがたい》(「We Broke Free」)

 そう、彼らは「物語のはじまり」で「街」という「物語」の中に「君」という「宝」があるということを歌っているのだ。「街」から抜け出ることはできないが、その「街」の中にこそ、最も大切なものが存在しているのだと歌っているのだ。そしてこれも、前作における冒頭の2曲と同じように、「街という物語」の「終わり」も歌っているということは、最終曲である「Love Underlined」を聴けばわかる。

《時に辛いのかもしれない 目を見開いて僕を見つめ続けるのは でも今夜手を握り合っている間は 僕らは未だ際立つ愛の中なのさ》(「Love Underlined」)

 彼らはこのようにして「街」という物語を突き詰めてゆくことで前作では越えられなかった「報われない物語」を内側から食い破った。彼らの音を聴いて、その佇まいを見て、多くの人間は彼らが「どこにも属さないアクト」だと感じたかもしれない。しかし、彼らの素晴らしさは一点に止まり続けることによって「閉塞」を打破したということなのだ。「報われない物語」が、「報われる物語」になったのではなく、「報われるかもしれない物語」になった。この「物語」という言葉は「日常」という名前だったとしても、きっと差支えないだろう。

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 1stではダン・ジ・オートメーター、2nd『ディーモン・デイズ』ではデンジャー・マウスという最先端のトラック・メーカーとの共同作業で多くを学び、前作『プラスティック・ビーチ』では、錚々たるゲストを迎えたコラボも大成功。あとは...マードック、2D、ヌードル、ラッセルをフィーチャーした映画しかない!とか思っていたら、意外な速さで最新作が届けられた。ブラー在籍時よりも音楽バカ(もちろん褒め言葉)でワーカホリックな性格が目立つデーモン・アルバーン。彼はゴリラズの北米ツアー中にも、しっかり音源を録りためていた。すべての曲がiPadとアプリ(!)、そしていくつかの宅録機材だけでレコーディングされている。タイトルの『ザ・フォール』は、前作に参加したマーク・E・スミスが率いる伝説のバンド"THE FALL"へのリスペクト&トリビュート...ではなくて、レコーディング期間が秋だったからとのこと。

 このアルバムは、もともと去年のクリスマスにファンクラブ用に配信されていた音源。それが公式アルバムとしてリリースされることにも納得できる充実の内容だ。メロディーは1st、2ndの頃のようにちょっぴりダークでメランコリック。そして、限られた録音機材を逆手に取ったミニマムなサウンド・アプローチとレコーディングされた日付順に並べただけのトラック・リストが想像力を刺激する。アメリカ~カナダの地名を含む曲名が多く、クレジットにはレコーディングされた場所もしっかり記されている。

 テキサス、デトロイト、カリフォルニア、シアトル...。行く先々の音楽を吸収したというよりも、その時の心象風景を描いているような曲が並ぶ。時間と場所が明確なだけに、もともとの"バーチャル・バンド"というコンセプトが希薄になった。サウンド・スケッチあるいはロード・ムーヴィーっぽい感覚は、とてもリアル。使っている機材も音楽性も違うけれど、この感覚はブルースやフォークのアルバムに似ている。

 アニメーションのキャラクターとその世界という"想像力"からはみ出したデーモン・アルバーンのミュージシャンとしての"創造力"。コンセプトやギミックを抑えた上で、彼が無意識に選び取ったテーマは『現実』だったのかもしれない。「最新のiPadとアプリを使って!」とか「たった32日間で録音!」とかの煽り文句には耳をふさいで、このアルバムから聞こえる音楽だけに耳をすまそう。前作ほどの賑やかさ、派手なプロモーションはないけれど、このアルバムはゴリラズ(デーモン・アルバーン)にとって重要な1枚になるはず。そして、もちろん僕たちにとってもそれは同じ。いにしえのルーツ・ミュージックと同じようなフィーリングで、エレクトロニックなサウンドが語りかけてくる。こんなゴリラズも最高だと思う。

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 ドイツ出身の歴史学者ジョージ・モッセは『大衆の国民化』で大衆の不確かな定義を試みようとしたが、アメリカの政治学者のベネディクト・アンダーソンが指摘したように、近代ネーションではどこかに帰属すること、すなわちナショナリティをもつことは自明の理であるはずなのに、どの国民も自分たちは他の国民とは異なる国民性(または、民族性)や文化性を持つという「ように」確信することについて言及した通り、何かに帰属していると想っている間は、そこから外れているのとも同じようなことでもある捩れが近代の課題の一つであり、それが妙な個人主義に収斂する形で、右軸も頼りなく、不条理性における快楽の閾値をはかることの艱難を孕み、そして、左軸の理論武装の限界も見えるなど、両軸が揃いづらくなった。だから、「想像」する形でのコミュニティを模索の形を取るという行為しかないようになったとしたならば、例えば、ロック・フェスが装置化したというシステム論も「小さいネーション」なのだということが分かる。その文脈で、andymoriはヴィクティムでもあり、同時に果敢なドン・キ・ホーテだった。

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《なんにも考えなくていいよ 投げKISSをあげるよ》
(「投げKISSをあげるよ」)

 彼らが颯爽と現れて、字余り気味の歌詞を吐き捨てながら、前のめるビートで「Follow Me」と叫んだとき、僕はメディアが絶賛する新世代ロックンロールの旗手としての冠詞やアークティック・モンキーズ世代の日本語ロックの最新モデルのバンドという印象よりも、あくまで隠喩としてだが、京大西部講堂が似合うイメージやフォーク・ミュージックの匂いと、四畳半からはみ出そうとする「もたざる者の咆哮(彷徨)」を痛切に感じた。

 そこには、ルックスの良さとスマートなR&Bのモダン解釈でヒップな座を射止めたTHE BAWDIESや、銀杏BOYZ的なリビドーの昇華をファンクネスで再構築してみせたモーモールルギャバンや、シンプルにユースフルな観念的な生き難さを平易な言葉で紡いだplentyなどのバンドと比べると、あまりに野暮ったさが残る感じがあり、初めてライヴで観た時も、マイク・チェックをしながら、「City Lights」のフレーズを早口でまくしたてるボーカルの小山田氏の焦点が何処に当たっているのか、視えなかったし、そのまま、ライヴ本編に入っても、アイデンティファイ出来る緩衝帯を最後まで見つけることが出来ず、それでも、怒涛のドラミングからギターが唸る「Follow Me」に入る瞬間に立った鳥肌は何だったのか、考える。

 そして、そのまま、考えは飛躍して、時代が時代なら、中津川フォークジャンボリーのような舞台で観るのが相応しいような気がして、背景には岡林信康、遠藤賢司、はっぴいえんどの匂いがしたのと共に、「断罪」される身を弁えながら、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでエレキ・ギターを掻き鳴らしたボブ・ディランの詩情と気骨への距離感に繋がった。

 だからなのかどうなのか、現代において彼らがスピードを上げながら、様々なフレーズ片をマシンガンのように掃射するスタイルに個人的に懐疑性も持った。ボーカルの小山田氏の紡ぐ歌詞世界には「ウイスキー」、「タイランド」や「人身事故」といったキーワード群が絶妙に配置されてシュールな日常が持ち上がってくるのにも関わらず、例えば、ケルアックやバロウズのようなビートニクの匂いはせず、観念の中の小さい酒場でのメモを千切って破り捨てて、配ってゆくような捨て鉢さがある。それを「狂気性がある」と喜ぶロック・ジャーナリズムならば、訝しさを持つ。寧ろ、そういったメモを受け取るファンの感受性のアンテナが何処を向いているのか、「変奏」の経路をジャーナリズムなら解析しないといけない筈なのに、andymoriは特に批評磁場で誤解が積み重なっていったトラジェディはあったと思う。

 要は、ユースの集合的自意識がコロニー内で通じるハンドルネームで往復書簡を交わし合うようなモードに入っていた00年代後半から10年代の機運と彼らの朴訥さはマッチしたということだろうし、彼らは何処にも連れていかないのに、「Follow」(Twitter時代の最大のキーワードだろう)をしてゆく人たちの群れがandymoriというバンドの実像を肥大させていった。それ以上でもそれ以下でもないと思う。

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 2010年の日比谷野外大音楽堂でのワンマン・ライヴで初期メンバーのドラマーであった後藤氏の脱退表明があるという早すぎるクライマックスを迎える中、新しく岡山健二氏をドラマーとして招いた形での新しいフェイズといえる新作がこの『革命』になる。

 タイトルからして、『熱狂とファンファーレ』から果たして更新(後進)されたのか、気になるが、結論から言うと、正直、そういった大文字が並ぶのは前半の3曲ほどである。それも、1曲目の例の3ピースのバンド然としたビートでスウィングする「革命」での《革命を起こすんだ 明日はあるんだと誰もが今夜祈るわけは》も、《太陽がなんだか恋しいんだ コンクリートジャングルに降り注いだ Weapons of mass destruction 東へ東へ》という3曲目の「Weapons of mass destruction」にしても、3.11以降、メタファーとしての核シェルター時代に入った今における警句として深読みは幾らでも出来るが、彼らの「東」はおそらく「フクシマ」や「ドイツ」ではないのが明らかに分かるのは、その次の4曲目の「ユートピア」だろう。緩くハンド・クラップを求めるような《バンドを組んでいるんだ すごくいいバンドなんだ》と朗々と表明するアティチュード。ここには、もっと身の丈の日常に添った感情とささやかな小文字が混ざり合っている。

 基本、今作の全体像として大きいのは、『革命』という題目と比して、非常にささやかな世界観で、スーパーマンに「なりたい」と願いながら、そこで地団駄を踏むようにダンス・ステップでテンションを上げ、ただ日常をやり過ごせたらいい、という柔らかい空気感だったりする。だからなのか、ときに恋人の影を匂わせた二人の世界観があっても、孤立したモノローグのような寂寥が先立ち、そして、誰かとの共振を拒否しながらも、「呟き(Tweet)」を巷間に受け止めて欲しい、今の時代の"閉じたシンクロニシティ"への期待を担保に入れたままのフォーキーなリリシズムがこれまでより気化速度を遅めながら、現前している。そういう意味では、カントリー調の「Sunrise&Sunset」から本編ラストのいつになく優しい「投げKISSをあげるよ」の流れが今作の核心と言える気がする。

 BPMは抑え目に、「最期」や「無」を意識するあまり、過剰なレゾンデートルをディグしてしまうことになった、このアルバムを果たして、ユースたちはベタに受容「してしまう」のか、そこが気になる。セカイ系も終焉を迎えつつ、循環するように「YOU&I」への完結こそが、切り詰まった世におけるかろうじての通気孔だという認識論が台頭してきている瀬に、andymoriが今作で踏み込んだややこしさは「&I」の世界であり、の「&」の前項目が気になってくる。それが「THEY」や「WE」なら、面白いが、誤配の果てに予め設定されるのは「YOU」なのだろう。そうだとしたら、リリース前から勝負が決まっていた作品なのだろうか。

《いつか見た夏の海も冬の星も消えてしまうだろう なくなってしまうだろう》
(「Sunrise&Sunset」)

 だからこそ、今の彼らには「だろう」じゃなくて、消えてしまうんだ、なくなってしまうんだ、という言い切りをして欲しかった気がする。そこで、仮想敵が増えた方がより未来への展望が開けたと思えてしまうだけに、僕自身は怜悧に評価するのが非常に困難な内容になってしまったと悔やみもする。「無じゃない何か」への希求を日本語で紡ぐ表現のエッジがこの場所だとは少なくとも想えない。まだまだ、彼らは速度を早められる気がする。「どこか」なんかないから、「ここ」で革命は起きない。

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 新曲シングル「ロスト・イン・ザ・ファイア」を今年2月にリリースしたばかりのザ・ストーム。ご存知の方もいるかもしれないがデンマーク出身のバンド、ミューの元ベーシストであるヨハン・ウォーラートがミュー脱退後に女性シンガーのパーネル・ローズダールと組んだ男女デュオで、ヨハンはギタリストに転向している。2007年にリリースされたデビュー・アルバム『ウェア・ザ・ストーム・ミーツ・ザ・グラウンド』は既にソールド・アウトで今は手に入りづらくなっている。正確に結成されたのは2006年夏にさかのぼり、ヨハンのミュー正式脱退が彼に子供が産まれた2006年5月だったことを思えば彼にブランクは無かった。

 これまでプロデューサーにガンズ・アンド・ローゼズやモトリー・クルーらを手がけた人物を起用していることからHR/HMの持つストロングさを感じさせるが、音楽的にはミューの持っていたポップさに加えスウィートでドリーミーでハッピーでもあり、今彼らのやりたいことが何かを確実に示しているアルバムだと言えよう。ロック・ディーヴァと称されるパーネルのヴォーカルがフィーチャーされ、アメリカ的メジャー・サウンドに近づいているように感じる。だが一方で本国デンマークにおいてはシューゲイザー・サウンドが根強く、デンマーク国内では異質な存在であることがうかがえる。この矛盾にどのように立ち向かうのか、今非常に楽しみなバンドだ。

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 思えば、昨年、くるりの上海公演に行ったとき、何より盛り上がったのが「ワンダーフォーゲル」だった。僕は周囲に居たアート・スクールの学生に「この曲の意味とか分かる?」って聞いたら、「ダフト・パンクみたいで良い。」とよく分からない回答をされたが、どうも中国のポピュラー・ミュージックの歴史を考えてみると、大局観ではアヘン戦争後の1842年以降の中国の状況というものが今でも尾を引いているものがあると思う。終戦後の条約で清は多額の賠償金及び香港の割譲、上海、広東、福州、廈門、寧波の開港が認められることで、一気に欧州の文化侵入が許されることになり、イギリスと清国との不平等なバランスに目を付けたアメリカやフランスの条約締結なども合わさり、半コロニアル化されてしまったような事態の中、特に上海はその「入り口」になったせいか、1920年代半ばからアメリカを初めとして、ヨーロッパのバンドが寄生することになってゆく。30年代に入れば、中国の伝統文化である京劇と西洋のオペラがエクレクティックに合わさった音楽の舞台が用意されるなど、ハイブリッドな音楽が育成されてゆく中で、日本でも御馴染みのテレサ・テンが「戦後」と「天安門事件前」の80年代の中華圏において多く受け入れられたのは、文化の多様性内における自民族文化への誇りを取り戻した、という訳でもなく、世界が高度経済成長をしながらも、まだ「イズム」としてソーシャリズムの網の中でより自由なものへ、民主化へと傾いでいた民衆のマインドへ向けて、例えば、テレサの繊細ながらも、一人ずつの聴取者に歌いかけるような「うた」が大きかったという文脈は敷ける。その「うた」は、いまだバイアスがかかったままで、中華圏内の音楽というと、ピンとこない人も多いのも実状だが、先ごろのボブ・ディランの北京公演然り(あれも相当な縛りの中で行われたが)、規制下でも少しずつ「自由」が育まれていっている。

 その中でも、今回は特に北京、上海という大都市をメインにしながらも、アート・スクール出のアーティストたちが主体となり、各地で盛り上がりを見せているIDM、エレクトロニック・ミュージックの一端を紹介したいと思う。彼らの感性内にはイージーリスニングもワープ・レコーズもゲーム電子音も混在していて、そこに自文化の色が含まれてくるゆえに、面白い音になっていることが多い。

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 まずは、中国のエレクトロニック・ミュージックのレーベルといえば、02年の設立から今に掛けて、世界的に注目を浴びている〈山水(SHANG SHUI)〉だろう。オーナーの孫大威ことSULUMIは吸管楽隊というベーシックなパンク・バンドでギターを担当し、ニルヴァーナ直系のグランジ的な音に二胡などの音楽を取り入れたオルタナティヴ・バンド優質大豆楽隊でベースを担当するなど、ロックの畑から豐江舟の影響を受け、ミニマル・テクノ、チルアウト、デジタル・ハードコアといった引き裂かれた音楽要素を折衷させる活動に入り(例えば、彼に影響を与えただろうクラフトワークの名もMySpaceのフレンドに見受けられる)、イベントのオーガナイズをしてきたが、彼の特徴は端整なIDMからファミコンのようなチープなサウンド・メイキング、柔らかなアンビエントまでスキゾに渡り歩き、日本にも何度も来日しており、人気が高い。そのレーベルからKID606やUSKの作品が出ていることから、ポテンシャルははかりしれることと思う。

 次に、気鋭としてはEVADEも外せない。中国マカオをベースに活動し、Sonia Lao Ka Ian (ボーカル)、Brandon Lam (ギター)、Faye Choi (プログラミング)の3人からなるエレクトロニカ・ユニット。エレクトロニカ、シューゲイザー、IDM、フォーキーな要素、そして中国の伝統音楽の因子を要所に取り入れた繊細でウォームな質感のトラックと、中国語/英語で歌われるSoniaのささやきのように儚げな歌声が絶妙に解け合う美しくて優しいサウンドのドリーミーな温度は心地良い。

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 そして、現在、今後より目立った存在になっていくだろうアーティストとしては、北京を拠点に活動する翟瑞欣(ザイ・リュウシン)の単独プロジェクトME:MO(ミモ)を挙げたい。昨年に出た、最新作にして3作目になる『Peking Scene』で表そうとするものは彼が生まれ育った北京の失われた情景をテーマにしたノスタルジックな回想録は多くの人に受け入れられたのも記憶に新しい。鳥の囀り、バイクの音、子供たちの嬌声などに少しジェントル過ぎるともいえるエレクトロニクスと、揺れるように鳴るアコースティック・ギター、暖かなシンセ、口笛まで全体を通して柔らかい音風景はまるで、コリーンの『Golden Morning Breaks』やムームの初期作群を彷彿とさせる上品なエレクトロニカ作品になっていた。思えば、グーテフォルクの『Tiny People Singing Over The Rainbow』からトランズ・アム『Sex Change』、シー・アンド・ケイク『Everybody』までを好んで聴いていたと2007年の『原景/Acoustic View』のアルバム・インタビュー時に言っていたが、そのサウンド・センス通り、相変わらず優等生ではみ出さない音の紡ぎ方は、キエラン・ヘブデンのワークを思わせるところもある。しかし、翟の場合は彼ほどフットワークが軽い訳ではなく、音の置き方から構成、果ては活動スタイルまでその音は中国のエレクトロニカ・シーンの中でもどちらかというと地味な存在でもある。

 今回の作品はマレーシアの〈Mu-Nest〉と東京の〈Plop〉/〈Nature Bliss〉の共同でリリースされているが、例えば、〈SHAN SUI〉メイトでもあったDEAD JやSULUMI辺りのエクスペリメンタル性もB6のようなセンスの秀でたコンポーザー体質も彼にはない。あるのは、朴訥とした職人気質であり、今回の作品ではそれが吉と出ていると言えるだろう。「幻像としての北京」は僕にはここには見ることは出来ないが、それは別としても、7曲目のとろけるようなアンビエント曲「I Also Yearn」から8曲目「Dream Side」の流れは白眉といえる。ここには、初期のボーズ・オブ・カナダに色濃くあった白昼夢のような淡い音像さえも彷彿とさせる。これは遅れてきたモダニスト、80後(バーリンホウ)の世代(翟は1980年生まれだ)としてのフレキシブルな感性を活かし、既存の価値観に沿いながら、非・アジア圏を目指したグローバルな音楽だ。既に、ヨーロッパ盤のリリースも決まっている。

 ME:MOを始めとして、「80後」の子たちは、改革開放政策後の安定した成長経済のもと育ち、一人っ子政策が本格化したあとの世代であり、自己を取り巻く規律が明らかに以前の世代と比して違う。そして、ネットやコンピューターにも非常に強いというのもあるが、個人主義的でヴァルネラビリティも過度に持ち合わせていたりする。そういった要素まで含めて、巨大な国、中国が一気に近代化(現代化ではなく)を進めたときに掛かった負荷で生まれたクレパスからこのような繊細な音が零れ出てくるというのは興味深い。勿論、中国は広く、地域によっての色も違いすぎるがゆえに、「これ」という括りは出来ないが、各地から生まれてくるエレクトロニック・ミュージックの動向は追いかけていきたいと思っている。

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SCREAMADELICA.jpg よりクリアーに世の中を見渡すために、理論武装のカードとして所謂、"ヘッド博士の世界塔"からハウスへの文脈を敷くことがクールな時代があった。日本におけるバブルという、在った筈の時代(僕自身が物心付いたときには、既に残骸しか残っていなかったので、後追いでの動きしか分からない)では、より自意識を<外部>に置けるかどうかに意味が持ち上がってくるような磁場があり、そこには引用と解釈のタグ付けで膨れ上がった思想書を持っておくことで、何らかの護符として役割があった。というのは"逃げ切れなかったであろう"大文字のポストモダニストたちの回顧録だとしても、インディ・ロックがどうにも追い詰められていた瀬において、マイノリティとしての結束が赦された場所はハウス・カルチャーの<内部>にあったのは間違いないとも言える。

 ナイトクラヴィングやフロアーに対して距離がある人や非フロアーの人たちでさえ、90年から91年にかけてリリースされた四枚の12インチ・シングル、「Loaded」の昂揚、「Come Together」の肯定性、「Higher Than The Sun」のサイケデリックな陶酔、「Don't Fight It,Feel It」でのソウルフルな熱量には動かされたものはあったことだろうし、そして、これらの作品にアンドリュー・ウェザーオール、ジ・オーヴ、元PILのジャー・ウォブル、808ステイトのグラハム・マッセイたちが参加していたように、プライマル・スクリームというバンドがネクスト・フェイズに入っていた気配に躍動をおぼえた人も多かっただろう。スコティッシュ・ポップ、アノラックの温度を濃厚に感じさせた瑞瑞しいファースト・アルバム『Sonic Flower Groove』、一転してのガレージ・ロック方面に振れたセカンド『Primal Scream』での軌跡からの軽やかな脱却と、セカンド・サマー・オブ・ラヴ的な全方位性を持ったラヴ・アンド・ピースへの傾倒。その先には、実際のクラブがあったとしても、または、ベッドルームがあったとしても、ロック/ダンスが折衷されたユーフォリアをリプレゼントしたものが91年の『Scremadelica』という怪作だった―。

 というレジュメを敷くにはあまりに拙速過ぎるかもしれない。ストーン・ローゼズ、インスパイラル・カーペッツ、ハッピー・マンデーズらの築きあげた「愛の夏」とはまた違った形の距離と熱を持っていたからこそ、今でも『Screamdelica』の周縁には数えきれないほどのアーバン・ブルーズもロック・スピリットも散らばったままだからだ。

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 例えば、アシッド・ハウスが西欧のドラッグ・カルチャーと密接に結びつきながらも、(暗黙裡に)そういったカルチャーが根付いていない日本で今でも熱烈に愛される『Scremadelica』とは果たして何なのか、と考えると、そう簡単なものではない気がする。

 思い返すに、スーパーカーがシューゲイズから抜けて、大胆な打ち込みを取り入れ、バレアリックな融和点を見出した『Futurama』から「Strobolights」辺りの煌めきや、いまだにクラブでパワースピンされるくるりの「ワールズエンド・スーパーノヴァ」といった、"何処へでも行ける"という感覚が要請した00年代前後の景色が示唆するものは、タイム・ラグの問題だけではなく、基本、シーンと呼ばれるカテゴライズが無縁化し易い島国のカルチャーの時差と換言出来るかもしれないからだ。"文化が遅れてやってくる(根付く訳ではなく)"、それはもしかしたら包摂と排除の論理からすると、シビアなラヴ・アンド・ピースへの審美眼(とシニシズム)を持っているからこそ、との着地点を探し出せる可能性があったとしても、現在進行形で局地化を余儀なくされた「大きな物語」の中で再生される幾つもの挿話にいまだに胸躍らされているトライヴを居る訳で、そうなると、00年代以降で決定的な「共通言語」としてのロック・ポップが無くなったと憂う「結論を急ぎ過ぎる人たち」(多くは年を取るのを急ぎ過ぎた層に限定される傾向がある)の嘆息と仄かな距離感とも繋がってくる。

"それ"は、個人的には「在った」と思っていたものが「在ったように見せかけられていた」だけだったのだというフィクション感覚に依拠してもくるのが厄介でもあるが、何かがあるように語るとき、その背景には何もないかもしれない、という疑念が同居していないといけないとしたら、今、10年代に入ってロック/ダンスについて正面から語るとき、どのような意味があるのか、または、どこまで斜めからの視野に入れるべきか、悩んでしまう。同時に、ロックへのピュリズムや教条主義がときに同調圧力として働いてしまう動態を引き離すためにダンスという装置性が求められたという事柄も考慮に入れなければならない。この場合、ロック/ダンスは「引き裂かれる」ものではなく、アンビバレントなものであるというのが大事な点になってくる。容易にクリアランスは出来ないこういった難題への一つの処方箋として、今、『Scremadelica』について考えてみる時間は無意味ではないと思う。

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 しかし、僕はリアルタイムで接したものではなかったのもあるが、この作品に対してアップリフティングされたというよりも「なにもないから、ある」という表面から滲み出るプライマル・スクリームというバンドの身軽さとヘナヘナな意志に胸打たれたもので、どう捉えるべきなのか、いまだに分からない部分がある。理論武装して語るハウスや論的な整理をするインディ・ロックでもない場所に佇む、"シングルを集めたコンピレーション集"という体裁を持っていたからこそ、今まで語り尽くされることが無かった作品だからこそ視えないのか、色々と考える。

 勿論、アンダーワールド、ダフト・パンク等の名は挙げるまでもないにしても、ロック/ダンスのフィールドからも、例えば、フランツ・フェルディナンド、ザ・ラプチャー、フレンドリー・ファイアーズ辺りが出てくると直ぐに参照点として挙げられざるを得ないメルクマールであるのだが、今、世界各地で行なわれている再現ライヴの映像を観る分には、もっと理論の枠組やロック/ダンスへの直接的な影響から逸れてゆく何かがある。ノスタルジーでもなく、プログレッシヴでもない、しかし、ゴスペル・コーラス、ブラス・セクションがステージの上で混じって豪奢に『Scremadelica』というメタベタな作品がダイレクトに適度に加齢化して、老若男女入り混じったクラウドの前に提示される光景は感動的としか言いようがなくて、僕がプライマル・スクリームという組織体に持っていたフラットな意識さえも超えてくる。それを感応するために「20年」という歳月があった、と言えるならば、あらゆるものが柔らかく「年をいった」ということなのかもしれないし、"愛の夏"へ近い何らかのフレーズが遅延され続けていた感覚に漸く自分の中の季節が追い付いたとも継ぎ足せる余地もある。

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 今の季節において、アシッド・ハウスが必要かどうか、など勘繰ることは野暮だろう。

 但し、急激な勢いでリヴァイヴァルなのか再発見なのか分からない形で、ディスコやハウスが発掘される引力を「引き剥がす」表層をサーフしてゆく91年の空気を刻み込んだこのリアリティは音楽が元来備えていた筈の「愛に近いムード」を埋める何かを持っていた作品でもあるから不思議にも感じる。そう考えてゆくと、遅れていたのは、(自分を含めた)フロアーや現場に溢れる愛に近い何かや憎悪やアルコールやセックスや倦怠をかき混ぜたその「向こう側」に昨日とは地続きではない違う朝が迎えられると思っていた人たちだったのかもしれない。

 全体性には収斂しなくても、一部として全体性に繋がることが出来るという導線を敷いて、対峙してみる『Screamadelica』は、峻厳な文化状況にある日本のみならず、緩やかに終わりの終わりに向かうグローバリゼーションの急進化の波で、個々の享楽性さえもコロニアル化されてゆく"抑圧"をかわす光がある。だからこそ、アシッド・ハウスに影響を受けた形でも全面的にダンスの持つ全能感のみに触れておらず、セカンド・ライン風のリズムが目立つ「Movin' On Up」にしろ、切ない南部ロック風のバラッド「Damaged」が入ってくることの意味も大きい。天上へと昇る(Higher Than The Sun)ためにはいつ何時、地へ落ちるかもしれない、という憂慮も必然と同居することになる。ここには、まだ日常に連結される形でのパレードの続きはあるということなのだ。

 やはり、『Screamdelica』はまだ誰のものでもなかったのかもしれない(そして、誰のものでもあったのかもしれない)。ゆえに、混沌たる今の時代下で"20年目の『Screamadelica』"は「あなた」が決して戦わず、感じること(Don't Fight It,Feel It)の意味の再定義を静かに求めてくる。今夏は愈よ日本でもサマーソニックでパフォーマンスを観ることができる。

(松浦達)

*プライマル・スクリーム『スクリーマデリカ(20周年アニヴァーサリー・エディション)』通常盤およびDVD付豪華仕様の完全限定生産盤の二種類が発売中。また、COOKIE SCENE MOOK第2弾でもSide AAにて表紙及び特集記事を掲載しています。【編集部追記】