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猛烈リトミック.jpg

 もしかすると、赤い公園というバンドは気分屋なのかもしれない。たとえば、ファースト・アルバム『公園デビュー』に収録された「今更」は、一聴すればメロディーが耳に残るキャッチーなポップ・ソングである。だが同アルバムには、実験的で殺伐とした音像が際立つ「つぶ」みたいな曲も収録されている。そもそも、メジャー・デビュー・ミニ・アルバムにあたる「透明なのか黒なのか」「ランドリーで漂白を」からして、赤い公園が一筋縄ではいかないバンドであることを示していた。圧倒的な勢いとカオスが渦巻いた前者、そして赤い公園の中心人物である津野米咲の高いソングライティング能力が前面に出た後者は、作風が驚くほど違うこともあって、それぞれ "上盤(黒盤)" と "下盤(白盤)" に分けてリリースされた。どうにか1枚にまとめてファースト・アルバムにする手もあったと思うが、赤い公園が持つ膨大なエネルギーと音楽的彩度は、1枚のアルバムという形に収めるのが難しいのも事実。だからこそ筆者は、エネルギッシュな空気で満ちた『公園デビュー』に対して、散漫すぎる印象をぬぐい去ることができなかった。


 しかし本作には、『公園デビュー』で見られた散漫さがない。メンバー全員の演奏スキルが格段に上がり、津野米咲のソングライティング能力もさらに磨きがかかっている。「透明なのか黒なのか」の粗削りな音が好きなリスナーからすれば戸惑う作風かもしれない。だが、考えぬかれたうえで鳴らされた本作の音は、やはり魅力的だ。ひとつひとつの音色もこれまで以上に練られていて、聴くたびに驚きがある。そんな充実したバンドの雰囲気は、その名もズバリ「楽しい」という曲にも表れていると思う。


 また、KREVAをゲストに迎えた「TOKYO HARBOR」は、赤い公園の新たな側面が示された曲として非常に面白いものだ。ヒップホップの要素を滲ませながら、街の一場面を切りとったような歌詞とアーバンな雰囲気を醸すサウンドスケープは、80年代のシティー・ポップを連想させる。筆者からすると、SeihoとAvec AvecによるSugar's Campaignやtofubeatsの名も浮かぶのだが、そうした新世代と共振できるという意味でも興味深い。


 そんなアルバムを最後まで聴きとおすと、本作が "歌" を強く意識したポップス・アルバムであることがわかるはず。"みんなのうた" と言える親しみやすさを備えた曲が多く収められ、そうした内容に呼応したのか、佐藤千明の歌声はその表現力を飛躍的に高め、艶も増している。その歌声は間違いなく、ポップス・アルバムとしての本作をより魅力的にする大事な要素だ。


 本作は、赤い公園がこれまで残してきた作品と比べれば、飛び道具は少ないしカオスも減退している。だが、繰りかえし何度も聴きたくなる味わい深さを持った作品であることは確かだ。その味わい深さは言いかえれば、ボディーブローのようにじわじわリスナーの耳に浸透していき、安易に消費されない強さとも言える。少なくとも、瞬く間に消費され捨てられるインスタント・ポップとは一線を画する。こうした多くの人に届けるための普遍性に挑みつつも、自分たちだけの音を鳴らすことも忘れない姿勢に、筆者は盛大な拍手を送りたい。



(近藤真弥)

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 後期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを連想させるギター・サウンドはダークさとともに、どこか懐かしいあたたかみを感じる。京都のアート・パンク・バンドmy letterの音楽には、聴くものそれぞれの個人的な思い出に直接つながっていくような不思議な感覚がある。メロディー・ラインの端々に日本情緒を感じるからかもしれないし、少なくとも彼らは単なるUSインディーの後継者ではない。


 「バンド・メンバー共通の音楽的バックボーンは実はあまりない。被ってないっていうのが結構重要で、それぞれ通ってきたものがあって、アイデアを持ち寄るということが凄く大切」。これはギター/ヴォーカルのキヌガサがインタヴューで語った内容だ。この発言から私が感じたのは、様々な影響を取り込み流用しながらも、自分自身の確たる個性を崩さない精神。何かをルーツとしてそれに従属するような存在ではないという意思。穏やかだが強固なステートメント。


 個々の楽曲に言及していくと、冒頭、重々しいハンマー・ビートに愛らしいキーボードが添えられ、ささやくようなヴォーカルに繊細なギターが絡みついていく「アメリカ」は、それぞれの人生という旅の始まりを告げる序曲のようだ。続く「夜は遠くから」はソニック・ユースを連想させるインスト・パートから始まる。単調に刻まれる8ビートにアンニュイなギターが絡み徐々に盛り上がっていく。中盤で加わるヴォーカルは他者を求めながらも離れていかざるをえないもどかしさを歌うが、後半で重なるやわらかな女性コーラスは、そんな矛盾する思いを中和していくようだ。《花は散った》と歌われる「壁」では、くるり「ばらの花」を連想させる淡々とした曲調にコーラスのかけ合いが美しい。くるりは青春の痛み、その美しさを花に例えたのだろうが、この曲でmy letterはその花が散るさまを歌い、最後に《あきらめた花をさかせよう》と誓う。


 ところで、バンド名は日本語だと「私の手紙」と読める。これは、私が書いた誰かへの手紙が宛先不明で戻ってきたのか、それとも個人史を綴った自分宛の手紙なのか、色々と推測できる。Eメールも今は昔、SNSの普及に伴い、世界は格段に狭くなったようで、より小グループ、個々人へと分断された感もある。我々は沢山の他者とコミュニケートしているようで、実は自分自身への手紙を書き続けているのかもしれない。しかし、共有されない個という表現が、逆に密かに広く共有されていくこともありうる。時間的にも空間的にも、点在しながら緩やかにつながっていく個人的な手紙。その宛先はどこでもないし、同時にあらゆる場所なのかもしれない。



(森豊和)

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by the sea_endless-days-crystal-sky.jpg

 まずは、このアルバムのリリース直後に(昔だったら「セカンド・カット・シングル」って感じで)ユーチューブ公開された2曲目「You're The Only One」のヴィデオを観て「おおっ!」と思ってしまった。


 曲自体も素晴らしい、写ってるメンバーたちの様子にも共感が持てた。最近はリリック・ヴィデオ(歌詞が入ってるやつ、ってことね)も珍しいものではなくなってきたとはいえ、それだけじゃない。イントロのギター・コード進行まで「公開」しちゃってる...という! とくに西洋では何世紀もつづく「フォーク・ミュージック」の根底にある「みんなで歌おう、プレイしよう」というD.I.Y.スピリットを、すごくいい形で受けついでいる。


 それがなかったら、今となってはぼくも気づかなかったかもしれないけれど、A(メジャー)7thコードもちゃんと入ってる、っつーね! いや、80年代前半に本国(や欧米の一部)で人気の高かったポスト・パンク一派...日本では90年代以降にネオ・アコースティックなんて呼ばれるようになったバンドたちの特徴のひとつも、メジャー7thコードを多用してることだった。エヴリシング・バット・ザ・ガールのふたりあたりはその典型って感じだったし、アズテック・カメラなんか、たしか歌詞にまで(笑)それを出してた...。


 全体的に言って、ぼくのような(当時を体験した)ジジイは、これ、かなり80年代のUKポスト・パンク・インディーを思いださせるかも? と言いたくなってしまう部分は、たしかにある。どこかサイケデリックな雰囲気もあって、ポップでありつつフォーク・ロック的で、そのものずばりではないけれど、いわゆるシューゲイザーにつながってくる味もなくはない。


 それはUKバンドではなかった(80年代には一時UKに住んでたにしても結成地はオーストラリアだった)し、00年代の再結成時には(当時ぶいぶい言わせてた)USインディー・バンド関係者がバックを務めていたので、まさに無国籍バンドと言ってもいいような、ザ・ゴー・ビトウィーンズに、とてもよく似ている曲まであったりして。


 8曲目「The Stranger Things」なんだけど、これ、シンコペーションを通りこして変拍子っぽく響いてしまうリズム構成も含み、かなり彼らの「Cattle And Cane」っぽい。もし意識していない(いわゆるオマージュではない)とすれば、ここまで似ることってあるのか? というくらいに。


 ただ、もちろんこのアルバム、決して「リヴァイヴァル」っぽくは全然ないどころか、今の空気にジャストすぎるくらい合っている。調べてみたところ、彼らはUKリヴァプール近郊のバンド、ザ・コーラル周辺とも仲がいいようで、それを(たしか)脱退したビル・ライダー・ジョーンズも参加している。でもって、これは(前作が結構評判よかったらしいので)満を持してリリースした、セカンド・オリジナル・アルバムらしい。


 なるほど、リヴァプールか。90年代のそれを代表するバンドのひとつだったザ・ブー・ラドリーズの初期ほどはポスト・パンク・オルタナティヴ色が強くはないけれど、彼らの「爽やかとも言えるポップ・サイド」が好きだったら、これもいけるかな? そして『Endless Days Crystal Sky』というアルバム・タイトル(なんとなく、よっつめの単語はSkiesと複数形にしたほうが語呂がいい気もするんだけど、逆にそうじゃないところが、かっこいい!:笑)における言葉の使い方などは、そう、80年代初頭の同地を代表するバンドだった、エコー&ザ・バニーメンを連想させる...。


 要するに「いい意味で、伝統を継承する」ってのは、こういうことなんじゃないかな。一聴地味に感じるかも(たとえば、でっかいお店の試聴機で聞いたらスルーされちゃうかも?)だけど、実にグレイトなアルバムだと思う。




(伊藤英嗣)


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The Night Is Young The 2 Bears.jpeg

 いまでこそザ・2・ベアーズは、裏方として音楽業界で生きてきたラフ・ランデルとジョー・ゴッダード(ホット・チップ)のユニットだと知られている。だが、デビューEP「Follow The Bear」(2010)がリリースされた当時は、ガーナ出身のクマ2匹によるユニットらしいという情報も流れたりと、少々うさんくさい雰囲気があった。まあ、すぐに正体がバレたことをふまえると、かなり雑な設定だったのは容易に想像がつく。ふたりも当初の設定にこだわりを持っていないようで、MVやアーティスト写真でも堂々と素顔を見せている。いまだアンドロイドであり続けるダフト・パンクとは大違い。


 とはいえ、ふたりの作るポップ・ソングが魅力的なのは確かで、しかもイギリスのクラブ・カルチャーに向けられた愛情も備えている。それは本作『The Night Is Young』でも健在。特に2曲目の「Angel (Touch Me)」なんて、マッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴ期のイギリスを連想させるハウス・ミュージックである。また、この曲に限らず、本作では随所でマッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴに対する憧憬が見受けられる。「Angel (Touch Me)」ほどではないにしろ、ほとんどの曲で80年代末から90年代前半のハウス・ミュージックのエッセンスが漂っているのだ。作品で例を示すと、ニュー・オーダー『Technique』、そのニュー・オーダーのバーナード・サムナーがジョニー・マーと結成したエレクトロニックの『Electronic』、さらにはペット・ショップ・ボーイズ『Introspective』のような音。それゆえ、お世辞にも "斬新!" と言える作風ではないが、過去のダンス・ミュージックが持つ面白さを現在に伝えるという役目はしっかり果たしている。そこにポップ・ソングとしての人懐っこさがあるのも、ザ・2・ベアーズの持ち味。


 そうしたサウンド面だけでも、イギリスのクラブ・カルチャーに向けられた愛情は十分に表現できているが、本作にまつわるヴィジュアル面も興味深いので書いておく。まずは、本作から先行で公開された「Angel (Touch Me)」のMV。ドライバーが酒を呑んで酔っぱらう様が描かれているように見えるが、錠剤らしきものを口に含んだあと笑顔で踊りだし、そのあと異様な発汗に襲われる描写もあることから察するに、錠剤はエクスタシーだと思われる。エクスタシーといえば、マッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴを語るうえで欠かせないドラッグだが、そんなエクスタシーの効果と副作用を約3分のMVにしてしまうセンスは、思わず笑みがこぼれてしまうほどストレート。くわえて絶妙なのが、ドラッグを称揚する内容になっていないこと。それこそ映画『トレインスポッティング』のように、あくまでひとつの文化として存在するから描いているに過ぎない。こうしたドラッグに対する姿勢を日本人が完全に理解できるかは正直わからないが、ここはひとつ、"お国柄の違い" を楽しんでくれたらということで。


 そして、もうひとつ本作から公開された「Not This Time」のMVでは、多くのドラァグクイーンがフィーチャーされている。もともとドラァグクイーンはゲイ・カルチャーのひとつだが、クラブ・カルチャーにも影響をあたえているのは、ダンス・ミュージックを熱心に追いかけている者からすれば説明不要だろう。クラブ・カルチャーは、ゲイなどのマイノリティーと呼ばれる人たちの受け皿にもなってきた歴史があるだけに、そうした歴史に対する目配せを「Not This Time」のMVは表現したと言える。ラフとジョーは、本質的にはクラブ・カルチャー畑の出身じゃない門外漢だからか、こうした "気配り" を欠かさない。そう考えると、スウィートなレゲエ・ナンバー「Money Man」で、サウンド・システム文化を讃える「Soundbwoy」などが有名なジャマイカ出身のスタイロGをゲストに迎えたのは、慧眼の一言に尽きる。ザ・2・ベアーズが拠点とするイギリスとサウンド・システムは、切っても切れない関係だからだ。たとえば、50年近い歴史を持つイギリスの祭り "ノッティング・ヒル・カーニバル" が、ジャマイカからイギリスに移り住んできた人たちによってサウンド・システム文化が持ちこまれたことをキッカケにして生まれたのは有名な話かもしれない。このサルサやレゲエが鳴り響く祭だけでなく、イギリスで誕生したジャングルやダブステップなども、サウンド・システムの強い影響下にある。これらのことをふまえると、スタイロGの起用には "さすがわかってる!" と膝を打ってしまうのだ。


 時として、"内部" よりも "外部" のほうが、その文化に宿る寛容性や魅力を上手く表現できるのかもしれない。それこそ、セカンド・サマー・オブ・ラヴの空気を的確に捉えた、プライマル・スクリーム『Screamadelica』のように。



(近藤真弥)

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Andy Stott Faith In Strangers.jpg

 《Modern Love》などを中心としたポスト・インダストリアル・ブームの象徴であるアンディー・ストットの前作『Luxury Problems』は、いまも絶大な存在感を放っている。呪術的でダークなサウンドスケープには聴き手の心を掻きむしるエモーションが宿り、深淵の底を這うようなズッシリとしたグルーヴは黄泉にいざなうかのような怪奇さを醸す。ダブ・テクノ、インダストリアル、アンビエント、ドローン、さらにはコクトー・ツインズというインディー・バンドまで引きあいに出されたが、『Luxury Problems』の群を抜いた独創性はそのどれにも当てはまらない。ゆえにこのアルバムは、ポスト・インダストリアル・ブームが落ちついた現在にあっても私たちを魅了する。


 また、ニュー・バウハウスの写真家として知られるアーロン・シスキンドの "Pleasures and Terrors of Levitation" シリーズを連想させるジャケットも素晴らしかった。そのアーロンがよくテーマに用いた "死" の匂いと殺気をいまだ放ちつづけ、『Luxury Problems』が不朽の傑作として存在するための重要な要素になっている。サウンドはもちろんのこと、ヴィジュアル・イメージでも抜かりない『Luxury Problems』が残した傷痕は、いまも私たちの心にまざまざと刻まれている。


 その傷痕が癒えぬうちに、アンディーは新たなアルバムを完成させた。前作から約2年ぶりとなる『Faith In Strangers』である。本作を作りあげるまでにアンディーは、コウトン「Shuffle Good」、トリッキー「Valentine」、バティラス「Concrete」、マップス「I Heard Them Same」といったリミックスを残し、デムダイク・ステアのマイルス・ウィテカーと組んだミリー&アンドレア名義では、フロア仕様の曲が多く収められたアルバム『Drop The Vowels』を発表。加えて今年5月には来日公演をおこなうなど、精力的に活動してきた。それゆえ、"待望の!" と大袈裟に喧伝できるほどの長い不在を感じなかったのが正直なところ。とはいえ、仮に長い間不在だったとしても、アンディーに対する注目が薄れることはなかったと思う。『Luxury Problems』以降にリリースされ、ポスト・インダストリアルの文脈で捉えられるアルバム、たとえばラヴ・カルト・テイク・ドラスの『Yr Problems』、それからアメリカ同時多発テロ(9.11)をテーマにしたヴァチカン・シャドウ『Remember Your Black Day』、第一次世界大戦の写真をジャケットに使用したサミュエル・ケーリッジ『A Fallen Empire』、そしてイギリスの首相デーヴィッド・キャメロンと同国の財務大臣ジョージ・オズボーンをネタにしたパーク『The Power And The Glory』などは、それぞれ持ち味がある良質なアルバムではあった。しかし、『Luxury Problems』と双璧を成せるかと言われれば、やはり難しいだろう。これらの作品を楽しみながらもつくづく思ったのは、『Luxury Problems』の "次" を形にできるのはアンディーだけなのだという確信であった。


 とまあ、早々と本作から話が逸れてしまったが、『Faith In Strangers』は私たちの期待に応える充実作だと言っていい。まずは前作以上に興味深いジャケットについて。フィーチャーされている面長でタイ米のような彫像は、イタリアのリヴォルノで生まれた芸術家アメデオ・モディリアーニの "Tete"という作品。病弱だったモディリアーニは画家として有名かもしれないが、彫刻家としても、体力面での不安が原因でやめるまではいくつか作品を残している。そのうえ、20世紀前半パリを中心に活動していたグループで、自由奔放な生き方を求める画家たちが集まった "エコール・ド・パリ" の重要人物でもある。35歳で夭逝するまでドラッグや酒が常に付いてまわったというモディリアーニの生き様は "エコール・ド・パリ" の精神を象徴するもので、音楽ファンからすると、ジム・モリソンやイアン・カーティスなど、いわゆる破滅的なロック・スターの精神を見いだせるかもしれない。


 そんなモディリアーニの "Tete" を使用した本作のジャケットだが、バックの街がニューヨークというのもこれまた面白い。ニューヨークといえば、かつて2001年のアメリカ同時多発テロで標的となったワールドトレードセンターがあり、2008年のリーマン・ショックを引きおこしたリーマン・ブラザーズが本社を構えていた街である。このふたつの出来事が世界中に影響を及ぼしたのは言うまでもないが、これらの中心地となったニューヨークをバックにアウトサイダーとして自堕落な人生を歩んだモディリアーニの彫像があるというのは、とても意味深に思える。ロシアのマルク・シャガールや日本の藤田嗣治なども絡んでいた "エコール・ド・パリ" の多国籍な側面をふまえると、本作のジャケットは人種の坩堝とよく言われるアメリカに、多国籍な "エコール・ド・パリ" を重ね合わせたとも考えられる。また、その象徴として、異端性あふれるがゆえに芸術界で孤立したモディリアーニの作品を選んだのは、その異端性をマイノリティーと呼ばれる人たちの暗喩に用いるためではないだろうか? 加えて、"Tete" がアフリカ彫刻からインスピレーションを受けて作られたということも、本作を深く理解するためのヒントになると思う。


 そう考えると、レーベルから発表された本作のプレスリリースで、ロン・ハーディー、プリファブ・スプラウト、ドーム、アクトレス、コクトー・ツインズらと一緒に、アーサー・ラッセルが挙げられていることにも納得できる。アーサーはアメリカのアイオワ州オスカルーサ出身のアーティストで、ニューヨークに移り住んでからはパラダイス・ガラージというディスコを語るうえで欠かせないクラブへ頻繁に通い、自身も数多くのディスコ・チューンを制作した。そして、ゲイであった。このように本作は、ジャケットや影響源となったアーティスト、さらには "ニューヨーク" というキーワードを繋げていくだけでも多くの暗喩を見いだせる。だが、そこにアンディーのサウンドが交わると、これらの暗喩はより複雑怪奇になっていく。これまで書いてきた暗喩をふまえて、「Violence(暴力)」「Science & Industry(科学と産業)」「Damage(被害)」といった曲目に目をやると、本作にはアメリカや消費主義に対する徹底した皮肉が込められているのがわかるはず。


 なんて言うと、"さすがにまわりくどくないか?"と言いたくなる者もいそうだが、こうして聴き手にいろいろ考察させるのも表現の役割なのだからまったく問題にならない。むしろさまざまな解釈と観点を生みだすという点において本作は、音楽以外の表現形態を含めて考えても秀逸な作品だと言える。このような本作と類似性が見られる作品を強いて挙げれば、カナダの映画監督グザヴィエ・ドラン制作の『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)だろうか。ビートニクの感性を現代に蘇らせ、同時にアメリカへ向けた痛烈な批判を繊細なタッチで描いた物語に込めたこの映画は、本作に匹敵する多くの暗喩と情報量が渦巻いているからだ。本作と『トム・アット・ザ・ファーム』は共に現在と共振できる要素を持ち、さらにグザヴィエがゲイであることを考えると、マイノリティーとされる人々からの視点を孕んでいるという点も共通項になる。


 それにしても、コンセプトだけの作品に仕上がっていないところは、さすがアンディーというべきか。前作から引きつづき、アンディーのピアノ教師だったというアリソン・スキッドモアが全9曲中6曲でヴォーカルを担当したこともあり、ポップ・ソング集としても聴ける幅広さを獲得している。前作にあったダークで退廃的な雰囲気は深化し、聴き手の精神を肉体から解き放つかのような神々しい恍惚感も健在。冒頭で書いたジャンルの要素がすべて詰まった彩度ある音楽性は特定のジャンルに括れるものではないし、もっと言えばどう呼んでも成立してしまう。それほどまでに本作は独創的だ。


 前作よりもヘヴィーなベースが際立っているのは、おそらく『Drop The Vowels』を経たからだと思う。その特徴が顕著に表れているのは、ミリー&アンドレアのサウンドを連想させる「Damage」だろう。ビートの起伏が激しい「How It Was」もベースが前面に出ていて、本作の中では一番踊りやすい曲だ。そういった意味で本作には、ダンス・ミュージックの享楽性もそれなりに残っている。とはいえ、それも残滓レベルの話だが・・・。やはり全体的にはダウナーで不気味なサウンドスケープが目立ち、前作と比べていささか音の隙間がある。前作がその圧倒的かつ荘厳な世界観で聴き手を蹂躙するような能動的作品だったとすれば、本作は聴き手を受けいれる寛容さと誘惑で満ちた受動的作品である。それゆえ前作以上に多くの人がコミットできる懐の深さがあり、"ポスト・インダストリアルの1枚" に収まらない多面性を備えている。フィールド・レコーディングやサンプリングを駆使するなど、貪欲なチャレンジ精神も見逃せない。


 アンディー・ストットはまたしても、私たちを挑発してみせた。さあ、次は筆者も含めた私たちがその挑発に応える番だ。



(近藤真弥)

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 南アフリカのハウス・ミュージックを愛聴する人は、いったいどれだけいるのだろう? 最近は配信サイトでも買えるようになったとはいえ、日本のレコード・ショップのハウス・コーナーに並んでいるのは、イギリス、アメリカ(特にニューヨーク)、ドイツのものがほとんど。日本では、南アフリカのハウス・ミュージックがリスナーに行きわたっているとは言えない。


 じゃあ南アフリカ産ハウスのクオリティーが低いのかといえば、決してそうじゃない。2010年に「Superman」というフロア・ヒットを放ったブラック・コーヒーは世界的なDJ/プロデューサーだし、その「Superman」にヴォーカルで参加したブシーは、『Princess Of House』という良質なハウス・アルバムを残している。他にもリキッディープやCWBが質の高いシングルを発表したりと、南アフリカのハウス・ミュージック市場は日本のリスナーが想像するよりも遥かにデカい。それは、ブラック・コーヒーのフェイスブックの「いいね!」数にも表れていると思う。


 そんな南アフリカから、またひとつ興味深いハウス・ミュージックが届けられた。DJスポコの『War God』である。DJスポコは12歳でプロデュースを始め、南アフリカで10年近く活動している男。南アフリカのダンス・ミュージック、シャンガーン・エレクトロの第一人者ノジンジャからサウンド・プロダクションを学んだそうだが、DJスポコは自身の音楽を"バカルディー・ハウス"と呼んでいる。


 確かにDJスポコのサウンドは、シャンガーン・エレクトロと呼べるものではないし、ブラック・コーヒーのソウルフルで上品なハウス・トラックとも違う。粗々しい質感が特徴の音粒に、性急かつ肉感的なグルーヴ。そして何より、汗臭い。お祭り騒ぎの祝祭感であふれ、性欲すらも漂わせる猥雑な雰囲気。それゆえ『War God』に収められた曲のすべては、聴いていて楽しめるものであるのは間違いない。シンセの音からはシャンガーン・エレクトロの影響も見受けられるが、リズミカルな展開とチープで享楽的なところは、南アフリカのクワイトに通じる要素をうかがわせる。こうしたバカルディー・ハウスと類似するサウンドといえば、ブラジルのテクノブレーガと呼ばれる音楽だろうか。要は、踊って楽しんだもん勝ちな音楽であるということ。


 だが、トラックにつけられた曲名は暗喩を滲ませる。アルバム・タイトルもそうだが、「More Pain」「Civil War」などは、タウンシップと呼ばれる黒人居住区に住んでいたDJスポコの背景を考えると、どうしても意味深に思えてしまう。南アフリカといえば、かつて人種隔離政策のアパルトヘイトがおこなわれていたことでも有名だが、タウンシップはアパルトヘイトの影響で黒人が強制的に住まわされた場所という歴史を持っている。その影響は、アパルトヘイトが完全撤廃されたいまも差別や格差という形で残っているのは有名かもしれない。華やかなダウンタウン、それから住民の多くが白人のゲーテッド・コミュニティーと呼ばれる高級住宅街の目と鼻の先に、タウンシップはあるのだ。さらには"ブラック・ダイヤモンド"と呼ばれる黒人の中間所得層も出てくるなかで、黒人間の格差も問題になっている。こうした南アフリカの現状をふまえると、「Man In Black Suit」や「Captain Jack Spoko」といった、とある有名なアメリカ映画をネタにしたであろうタイトルも皮肉に見えてしまうが・・・。DJスポコは、《True Panther Sounds》からリリースしたシングルに「Ghost Town」と名づけるような男だから、ありえなくもない。


 そう考えると『War God』は、"踊り" や "祭り" 自体がひとつの抵抗手段や主張になりえることを証明したアルバムだと言える。パラダイス・ガラージの熱気、アシッド・ハウスの狂騒、そしてハーキュリーズ&ラヴ・アフェアがそうであるように。人は都合よく記憶を風化させる生き物だが、そのような者たちが『War God』を聴いてどう感じるのか、非常に興味深い。


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WarauBunshin.jpg

 映画を紹介するときによく使われる"ネタバレ"って言葉は、この『嗤う分身』には必要ない。もちろん、あっと驚くストーリー展開はあるけれど、それを語ったからといってこの作品を観る楽しみが台無しになることはないと思う。言わないけどね! そもそも"ネタ"だの"オチ"だので、わかったような気分にはならない不思議な魅力を持った作品だから。観終わったあとに向き合っているのは、(誰の心の中にもいるはずの)もうひとりの自分自身なのだと気づかされるはず。


 テーマとストーリーは、この秀逸な邦題『嗤う分身』に集約されている。映画の原題は『THE DOUBLE』、ドストエフスキーによる原作は『ドッペルゲンガー』(岩波文庫版では『二重人格』)という味気ないほどストレートなタイトル。邦題に加えられた"嗤う"のひとことは、日本語ならではの微妙なニュアンスがひりひりする。自分の分身がニヤニヤしている姿が目に浮かぶ。そしてスクリーンの中に現れるもうひとりの自分は、やっぱりニヤけている。親しげに"笑う"のではなく、不遜にも"嗤う"のだ。僕自身を。


 ピュアな心を持ちながらも仕事も恋も...というか、日常生活すべてを不器用に生きることしかできない主人公のサイモン・ジェームズ。そんな彼の前にある日突然、自分とまったく同じ容姿のジェームズ・サイモンが現れる。そして、密かに想いをよせている同じ職場のコピー係、ハナとの関係も少しずつ変化してゆく。


 一人二役で正反対の人格を演じきるサイモン/ジェームズ役のジェシー・アイゼンバーグと可憐さの中に深い闇を垣間見せるハナ役のミア・ワシコウスカの演技は、まるで二人っきりの舞台演劇のように濃密だ。その舞台とは、"ちっぽけだけど、平和な自分"と"理想だけど、手に負えない自分"、そして唯一の対象ともいえる"憧れ"がひっきりなしに交錯するところ。そう、それは僕たちの心の中そのものなのかもしれない。


 ひとりぼっちで目を閉じても、現実は何も変わらない。鏡を覗き込んでも、イケてる自分はそこにはいない。そして、恋するあの子にも悩みがあることなんて知る由もない。最善策は現状維持なのかな。人には言えない、知られたくない欲望だけが行動理由。そんなふうに自分が造り上げてしまった世界の秩序を破れるのも、自分しかいないのだけれど...。


 そんな複雑なプロットをリアルな心理描写とファンタジックなヴィジュアル・センスで手際良く描いてみせる監督・脚本のリチャード・アイオアディは、ヴァンパイア・ウィークエンド「Oxford Comma」、「Cape Cod Kwassa Kwassa」やカサビアン「Vlad The Impaler」、アークティック・モンキーズFluorescent Adolescent」などのPVも手掛けるインディー/オルタナティヴ・ミュージックにも近い存在(『嗤う分身』にもダイナソーJr.のJ.マスキスがひょっこり登場するから、要チェックね!)。「アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーのソロ・デビュー作はサントラだったでしょ。あの『サブマリン』って映画を監督したんだよ!」といえば、ピンと来る人も多いはず。同じくPV出身のミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズが思い浮かぶけれど、ダークなのになぜか笑える『嗤う分身』の感性は新しい。コメディアン/俳優としても活躍する彼ならではの個性だ。


 散りばめられた分身/複製のメタファーはデヴィッド・リンチ的な暗示に満ちている。キューブリックを彷彿とさせるシンメトリーなアングルはスクエアに歪んでいる。そんな孤独な世界を映し出すのに、太陽の光は似合わない。不穏なオリジナル・スコアに混ざって響き渡るのは、坂本九の「上を向いて歩こう」やジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」など、60年代の昭和歌謡。面倒な自我とやらに掻き乱されっ放しの頭の中を映像化したらきっとこんなふうに見えるのだろう。「原作がロシア人で音楽が日本人。監督がイギリス人で主演俳優がアメリカ人」というカオスなハイブリッドは圧倒的に正しい。頭の中では、時代も時間も場所も関係なく、すべてがめちゃくちゃにこんがらがっているから。そして、それはポップで切なくて、こんなにも狂っている。少なくとも僕の場合はそうだ。


 "もうひとりの自分"を描いた『ファイト・クラブ』はまだマシだとさえ思える。エンドロールに流れるピクシーズの「Where Is My MInd?」には、"My MInd"を対象として意識している分だけ救いがあるような気がする。けれども、この『嗤う分身』はどうだろう。見つめ直さなくちゃならないものが"My Mind"の内側そのものだとしたら、その答えをどうやって見つければ良いのかな? その問いかけこそが、『嗤う分身』の本質なのだと思う。答えは観る人それぞれに託されている。




(犬飼一郎)

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Objekt『Flatland』.jpg

 オブジェクトことTJ・ハーツは、実に多面的な男である。《Hessle Audio》からリリースした「Cactus / Porcupine」はポスト・ダブステップを代表するシングルのひとつだが、「Objekt #2」収録の「CLK Recovery」では、ストレートな4つ打ちが特徴のテクノを披露している。とはいえ、オブジェクトの音楽はダブステップやテクノだけで構成されているわけではなく、ある者にとってはUKガラージの因子を見いだせる音だろうし、コスミンTRGとのスプリット・シングルに収録の「Shuttered」を聴いた者は、ドレクシアなどのエレクトロが流入していると感じるだろう。それほどまでにオブジェクトの音楽は多角的で、聴き手のあらゆる解釈に耐える懐の深さを持っている。


 そうした音楽を鳴らす才に恵まれたオブジェクトが、ファースト・アルバム『Flatland』のリリース元に選んだのは、ベルリンを拠点とする《PAN》。リー・ギャンブル『KOCH』やジェームズ・ホフ『Blaster』に象徴される、実験的かつ急進的な作品を数多くリリースし、昨今のエレクトロニック・ミュージック・シーンのなかでも一際注目されているレーベルだ。活動当初はジ・エックスエックスFKAツイッグスの作品を取り扱う《Young Turks》からシングルを出していただけに、なんだか極北に来てしまったなと言いたくもなるが、お似合いといえばお似合いである。


 さて、肝心の『Flatland』を端的に表すと、なんとも掴みどころがないアルバムのように思えてしまう。まず、キラキラとした未来的なサウンドスケープが際立ち、さまざまな音楽が撹拌された作風は、ロゴスの『Cold Mission』を想起させる。だが、このアルバムがジャングルやグライムの要素を醸すのと比べれば、『Flatland』の音はμ-Ziq(ミュージック)などのIDMに近い。そう考えると、ローン『Reality Testing』やフォルティDL『In The Wild』といった、ここ最近IDMを取り入れた作品が多くなってきた流れとも共振できる。


 とは言っても、「Ratchet」や「Strays」では先に書いたエレクトロを前面に出しており、いわばオールド・スクールなノリも強い。しかし、無機質で冷ややかな質感が際立つ「One Stitch Follows Another」は、シフテッド主宰《Avian》周辺のUKハード・ミニマル、あるいはハーツが住むドイツの《Ostgut Ton》に通じるサウンドである。


 こうした内容の『Flatland』は、過去~現在~未来が溶解した状態で存在し、高い音楽的彩度を誇る作品だ。それゆえ、"◯◯なアルバム" と断定するのが難しく、聴く人の感性次第でいかようにも姿を変えてしまう。再帰的な結論になってしまうが、ある者はIDMだと言い、ある者はエレクトロだと言い、ある者はテクノだと言うだろう。だから筆者も、"◯◯なアルバムだ!" と断言できないが、よりどりみどりな作品になったことで、『Flatland』は聴き手を夢中にさせる多彩さを獲得できたのだ。Resident Advisorのインタヴューでハーツは、『Flatland』について「この仕上がりにはとても満足していますけど、自分から取り除かないといけない要素がある気もしています。なので次回はもっとフォーカスした結果になるでしょうね」と語っているが、今回に限って言えば、フォーカスしなかったことでオブジェクトの多様性が見事に表れたと言える。



(近藤真弥)

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きのこ帝国『フェイクワールドワンダーランド』.jpg

 きのこ帝国『eureka』のレヴューで筆者は、次のように書いている。


 「「渦になる」を初めて聴いたとき、お世辞にも愉快とは言えない感情を抱いてしまった。あれは一種の拒絶反応、例えば、今まで見たことがない存在に遭遇したときの気持ち悪さに近いものだったと思う」


 彼らのデビュー・ミニ・アルバム「渦になる」、それからファースト・アルバムの『eureka』が、強い興味を持たせる内容であるのは確かだ。しかし同時に、聴き手に対する無用な攻撃性が目立つものでもあり、この部分がきのこ帝国を聴く際の引っかかりとしてずっとあった。怒りや憤りをサウンドに変換するのが悪いわけではないし、むしろジョイ・ディヴィジョンやジーザス・アンド・メリーチェインなどを愛聴してきた筆者からすれば、そのようなサウンドは大好きだ。とはいえ、怒りや憤りはあくまで音楽という表現の礎であってほしいし、わざわざ他者に向けて傷つけるための手段、もっと言えばその "傷" を演者と受け手のコミュニケーションとして捉えている節があったのが、ハッキリ言えば好きではなかったのだろう。


 だが、セカンド・アルバム『フェイクワールドワンダーランド』では、無用な攻撃性が鳴りを潜めている。聴き手を受けいれる隙と余白が生まれ、自分たちの音楽をできるだけ多くの人と共有したいという意思が見てとれる。これまで以上にメロディーと歌が際立ち、胸ぐらを掴んで自分たちの世界に引きずりこむ強引さよりも、手を繋いで導く優しさが色濃い。他者を拒むように鳴らされていた轟音もほとんどない。


 こうした作風に至ったのは、『eureka』のあとにリリースされたEP「ロンググッドバイ」の存在が関係していると思う。このEPは、音響面での実験精神が表れた「FLOWER GIRL」を収録する一方、《さよなら ありがとう 幸せになってね》と歌われる表題曲、さらに心地よいサイケデリックなサウンドスケープが耳に馴染む「海と花束」など、聴き手に寄りそう歌があるのも特徴だ。これをふまえると本作は、突然変異的に生まれた作品ではなく、きのこ帝国がこれまで切り拓いてきた道の延長線上にある作品だと言える。こうした側面は、デビュー当初から彼らを熱心に追いかけてきた者たちも納得できる"物語"と"深化"として、しっかり受けいれられるだろう。


 だが、本作が何よりも素晴らしいのは、これまでのきのこ帝国を知らずに聴いた人も惹かれる力強さが宿っていることだ。オープニングを飾る大名曲「東京」や続く「クロノスタシス」など、本作には "街"という風景がひとつの側面として存在する。味気ないアスファルトの香り、儚い光を放つ夜の街灯、さらにはそこを行き交う人々の呼気。このようなものが本作では表現されている。温もり、冷たさ、喜び、哀しみ、怒り、憤りなどさまざまな感情が熔解した形で渦巻き、聴き手の心を激しく揺さぶる。特に「クロノスタシス」は、先行で公開されたMVと合わせて聴くと、本作をより深く理解するための手助けになるだろう。関 和亮が編集なしのワンカットで制作した「クロノスタシス」のMVを観たときは、思わずザ・ヴァーヴ「Bitter Sweet Symphony」のMVを想起してしまったが、後者がリチャード・アシュクロフトの唯我独尊的なカリスマ性を活かしているのに対し、前者はヴォーカル/ギターの佐藤が街に馴染んで微笑みを見せている。かつての近づきがたい雰囲気はなく、彼女の中で何かしらの変化があったのではないか? と思わせる内容だ。意思の強さを感じさせる点は両MVに共通するが、前者が不遜でギスギスしているとすれば、後者は優しく温かいし、キラキラしている。確かに孤高でいることのカッコよさも惹かれるものではある。だが、フェイスブックでいくらフレンドを作り、ツイッターでフォロワー数を増やしたところで、それはあくまで緩やかな繋がりによって維持されたネットワークに過ぎず、こうした脆さに不安を抱いてしまう人も少なからずいるだろう(というか、いるからこそクローズドなLINEが普及してるのだと思う)。そのような孤高になれない者たちにとって「クロノスタシス」は、ひとつの希望になりえる曲だ。


 そして、本作の中でも特に耳を惹かれるもう1曲が、表題曲の「フェイクワールドワンダーランド」だ。アコースティック・ギター、ハーモニカ、佐藤のヴォーカルというシンプルな構成で、1分弱足らずの短い曲である。しかし、そこで紡がれる言葉は、他の曲と比べても一際強く迫ってくる。


 《一瞬の世界の醜ささえ 越えてゆけるさ そんな気がした 一瞬の世界の美しさに 騙されて 君と歩きたいのです》

(「フェイクワールドワンダーランド」)


 《未来はそんな悪くないよ》と控えめに唄われる、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」がアクチュアリティーをもって語られる現在には、夢や理想の居場所はないのかもしれない。とはいえ、それでも人は夢や理想を語る。KOHH(コウ)の「I'm Dreamin'」がそうであったように。その欲望は消費主義という名の蟻地獄に利用されることも多々あるが、誰かを好きになったり、あるいはこうなりたいという願望が日々を生きるうえでのエネルギーになるのも事実だ。


 SEKAI NO OWARIが綿密なファンタジーを提供する一方で、シャムキャッツなどが日常的風景を描いて支持される現在の日本のポップ・ミュージック・シーンは、二極化の傾向にあると思う。そうしたなかで、先に引用した「フェイクワールドワンダーランド」の一節は、そのどちらにも安易に偏らない絶妙なバランス感覚を持っている。たとえば、《世界の美しさ》とまんま唄うのではなく、《一瞬の》を加えるところなど。たった3文字の違いだが、この《一瞬の》によって「フェイクワールドワンダーランド」は、聴き手に問いかける説得力と返答を受けいれる余白を手にできている。複雑にこんがらがった感情を平易な言葉で表現しきった点では、チャットモンチー「シャングリラ」で紡がれる、《胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ 希望の光なんてなくったっていいじゃないか》という一節に匹敵する。また、「フェイクワールドワンダーランド」が入ることで、その説得力がアルバム全体に及んでいるのも見逃せない。それゆえ本作は、アルバムとしても高い完成度を誇っている。


 もし、本稿を読んでいるあなたが、既存の価値観や常識に対する問いかけなり揺さぶり、あるいは理想や夢をポップ・ミュージックに求めているとすれば、本作を聴いてみればいい。その期待に応えてくれるはずだ。



(近藤真弥)

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Gui Boratto『Abaporu』.jpg

《What a beautiful life... What a beautiful world... I can see light... I can feel love... I can see the sun...》


 こんな一節を多幸感あふれるサウンドと共に紡いだ「Beautiful Life」は、2007年を代表するフロア・アンセムとして今でも輝いている。この曲によってギー・ボラットの名は、テクノ・シーンのみならず幅広い層から認知された。ダンス・ミュージックとしての高い中毒性を持ちながら、メロディアスでロマンティックなサウンドも備えていた「Beautiful Life」は、頻繁にクラブへ足を運ばない人たちの耳も魅了し、ダンスフロアの熱狂にいざなってみせた。やはり、メロディアスなトラックは強い。「Beautiful Life」と同年に発表されたザ・フィールド『From Here We Go Sublime』もそうだったか、当時のギー・ボラットのサウンドは "シューゲイズ・ハウス" や "シューゲイザー・テクノ" なんて呼ばれていた。このことからも、いかに「Beautiful Life」が優れた万人性を持っていたかわかるというもの。


 その「Beautiful Life」を本稿の書きだしとしたのには、もちろんそれなりの理由がある。ギー・ボラットの最新作『Abaporu』は、「Beautiful Life」に通じる歌心とメロディアスな側面が色濃いのだ。前作『III』はアンビエント色が漂う静謐な作品だったが、本作ではファンキーでアッパーなギー・ボラットの姿を見ることができる。さすがに "シューゲイズ・ハウス"と呼ばれていた頃の音を見いだすことはできないが、「Take Control」などは、「Beautiful Life」を連想する者も多いと思わせる素晴らしいヴォーカル・チューン。どこか哀愁を漂わせ、聴き手の感情が持つ機微を刺激し、耳と心を幸福感で満たしてくれる。このあたりは、リリース元の《Kompakt》が得意とするサウンドだが、ギー・ボラットはそれを象徴するアーティストのひとりと言っていい。


 全体的には、享楽的かつ開放的、そしてトランシー。少なくとも聴いていて気が滅入ることはないはずだし、むしろ心がどんどん昂っていく様を感じるだろう。コインは表裏一体、というのも変かもしれないが、本作はダークでヘヴィーなポスト・インダストリアルの余韻が残る現在において一種の清涼剤となりえる作品だ。



(近藤真弥)