reviews

retweet

americaa.jpg アメリカの国勢調査局の発表によると、09年のアメリカ国内の貧困層人口の割合は過去15年で最悪の14.3%となり、4,360万人となった。これは人口比でいうと、7人に1人という高い割合であり、オバマ政権下の歯止めがきくような気配はない。原因としては依然として高い失業率、教育や社会保障に関連した予算が大幅削減されていることも大きいが、年金や医療制度の崩壊も含めて明確な処方箋が打ち出せていないところに結局は収斂する。更には最近では、3,000万世帯はあるという銀行口座を持たない、或いは殆ど利用しない層に向けての大規模小売店が仕掛ける金融サービスが活況を呈しているという。(ワシントン・ポストUSAより)

 経済的与件でも切り詰まり、公的教育システムも万全に機能しているとは言えない。そんな「不平等性」はより個々の心理次元の中に落ちていき、満遍のない茫漠とした少しの無力感や悲観と交換されてきてもいる表面を滑っている。それを例えば、アレクシス・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』内の「境遇がすべて不平等である時には、どんな不平等も目障りではないが、すべてが斉一な中では最小の差異も衝撃的に見える。完璧に斉一になるにつれて、差異を見ることは耐え難くなる。平等への愛着が平等そのものとともに増大するのはだから当然である。」という言葉に沿うと、最新作でR.E.M.が踏み込んだ一歩の方がとても意義深かったのだとも思う。

>>>>>>>>>>

 では、現代のオバマ「以降」のアメリカがときに色濃く見せる沈鬱とした横顔を考えるときに、ルーツや伝統、自国の水脈を掘り下げて、もう一度「新しいアメリカ像」の焦点を結び合わせることこそが迫られているのも自明になってきてしまうが、その自明は"自明でない"形で特に、アーティスト・サイドには「共有」されてもくる。何故ならば、埋もれているルーツの破片を拾い上げて、アメリカという近代が生み出した国家制度によって保守された「自由の別名」に対して、向き合うための導線が必要になってくる気がするからだ。

 例えば、フリート・フォクシーズが新作『Helplessness Blues』で現代のアメリカに対して幻滅の姿勢を取るために、自分たちの中の内省や翳りに接触した結果、トラディショナル・フォーク、ブルーズ、フィル・スペクター的なコーラス・ワークなどをソフィスティケイティッドさせることで明らかに遠心性を持ってしまっていた。また、ブルックリン・シーンと呼ばれていたものの中でのパンダ・ベアの待望されていた『Tom Boy』やギャング・ギャング・ダンス『Eye Contact』の生真面目さや、また、LCDサウンドシステムの終わりとともにでもないが、ドロップされたタイヨンダイ抜きのバトルスの新しい音がどうにも焦点を結ばない様相を呈していたのとともに、今、「在ったはずのアメリカ」に対して、フランツ・カフカ的な"不全としてのアメリカ"の視座を持ち込んだサウンドが増えているのは、明らかにブッシュという仮想敵が居た中での不遇たる連帯の側面ではなく、ポスト・オバマのもたらした市場原理社会の進捗に伴う個の疎外が想像以上に希望的な上昇曲線を描かなかったことに幻滅ではなく、「当惑」したまま、音楽として何を鳴らすか、に向き合わざるを得ない状況になっている証左でもあるような気がする。

 だからなのか、〈ウッディスト〉周辺で"熱狂的に微睡む"(Siesta)方法を模索する流れや4年振りの新作『C'mon』でなだらかな音の波の中にルーツ的なアメリカン・ロックへの敬慕の念を込めたスローコア、サッドコアの第一人者のロウの佇まい、そして、ファースト・フルアルバム『Perch Patchwork』でサウンド・ヴァリエーションが豊潤になり、ヴァイオリンやフルートが絡みながらもパーカッションが強く打ち出され、リズム・パターンは多彩になるとともに、チェンバー・ポップ、モダン・サイケデリックな要素やトラディショナル・フォーク・マナーに沿った曲まで「跨ぐ」地力が備えたマップス・アンド・アトラスィス(Maps & Atlases)辺りに個人的に、軽やかさを感じたのもぼんやりと理由が浮かぶ。

 そして、既に、チルウェイヴ/グロファイの回収先も見えてきてさえいるUSインディ・ロックの先には、凛然としたアメリカーナ音楽が亡霊のように浮かび上がってきているのは、ディセンバリスツの「再認識」をして、そして、ハードコア精神の循環は、ビースティー・ボーイズの「若返り」辺りの動きを見ても、気付くところはあるかもしれない。未来に回帰するためには、過去に進まないといけないということなのだろうか。"メイク・サム・ノイズ"を掲げる際の「ノイズ」の中に今のアメリカの不全状態がぼんやりと揺蕩う幻影が見えるときがある。

>>>>>>>>>>

「私が言っているのは、これから先は芸術に形式などなくなるということではありません。新しい形式が生まれるだろう、そして、その形式は、混沌を認める、混沌を何か別のものにはすり替えないとはしないものになるだろう、ということです。」
(トム・ドライヴァーによるサミュエル・ベケットへのインタビュー、『コロンビア大学フォーラム』1961年夏号)

 このベケットの言葉に沿うならば、今のアメリカの音楽シーンにおけるゴドーとは何で、「何を待たないといけない」のか緩やかに持ち上がってくる。エルネスト・ルナンの言に沿うと、総ての個々が国としての多くを共有していて、それをお互いすっかり「忘れてしまっている」現況を更に忘れさせようとするのではなく、ふと思い出させるような何かが求められることになるだろうということで、例えば、ポップ・アイコンたるブリトニー・スピアーズがラスコと「共振」したり、ジェームズ・ブレイクがピッチフォーク以外でも着実に持て囃されるような、緩やかな(ダブ)ステップを踏みながら、近付いている距離感をして、はかることは出来る。そういう意味では、今はアメリカは「欠けている」ことに対して「欠けている」。トクヴィル的に言えば、アメリカとして束ねられていた「統治性」としてのシステムがベネフィット優先ではなく、リスクの優先されたヘッジに向いている中で、だからこそ、ヘッジ優先された音楽は「老成」せざるを得ないというわけだ。その文脈に沿うと、ザ・ナショナルやブライト・アイズなどのストイシズムも分かる気がするし、アーケイド・ファイアの目指した郊外にはグローバリゼーション≒アメリカ化ではないという意地も見えたのも繋がってくる。

 愈よ、アメリカにおいて、スタンダールが『赤と黒』の巻末に捧げた"To the happy few"の「few」が試されるフェイズに入ってきたと言えるのかもしれない。果たして、現代アメリカで弾かれてしまう人たち(few)に届けられるような毅然とした耀きがある、何かが新しく始まる予感の音楽は生まれてゆくのか、その答えを「待つ」のではなく、「追いかけたい」。先には、今年のある種の象徴にもなるだろうフル・アルバムを控えたウォッシュド・アウトのバンド名の意味そのもののような形にならないことを希う。

(松浦達)

retweet

monobright.jpg「むこう1年以上のライヴ&リリース予定を事前に発表する」。その「予定」が、かなり余裕を持ったものならまだしも、ツアーをガンガン敢行するうえ、1年のあいだにアルバム2枚をレコーディングするというハード・スケジュール...。だけど「強烈な表現意欲」があれば、なんとかなるだろう! ...それが、2010年初頭に始まったモノブライトの「DO10!!(「怒濤」と読めるわけですな:笑)」プロジェクトだった。

 20年前、いや10年前と比べても、インターネットによるネットワークが極度に発達。草の根的な情報伝達の速度も精度も高まった「現在」ゆえ、それはなおさら興味深い試みと思えた。

 さらに、そのプロジェクトが始まった段階ではメンバーさえ予想だにしなかったであろう出来事も起こった。突然解散を遂げたビート・クルセイダースの中心人物ヒダカトオルの電撃加入。もともとレーベル・メイトとして、ある程度の交流はあったと思われるのだが、なんとも大胆な...。平均年齢20代後半のオリジナル・メンバー4人より15歳ほど年長の「新メンバー」。洋楽ファンであれば、元ザ・スミスのギタリストとして80年代に一斉を風靡したジョニー・マーが、10歳もしくはそれ以上の年齢差を無視してモデスト・マウスに短期加入、そのあと(へたしたら20歳以上の年齢差がある)ザ・クリブスに加入した(ちなみに、どちらもそれまで「中堅以上」の存在感を持っているバンド)という前例を知っている。にしても、まだまだ「レア・ケース」。

 そんなヒダカが加入して5人組となった新生モノブライトの初アルバムにして、DO10!!プロジェクトの大団円とも言える作品(モノブライトとしは通算4作目のフル・アルバム)が、この『ACME』だ。

 素晴らしい。ひとことで言って「ダイレクトさ」が大幅に増している。

 たとえば彼らはファースト・アルバムで「デイドリームネイション」という曲をやっていた。ソニック・ユースの同名アルバムからとられたタイトルだが、もちろんオリジナル曲だ。「オマージュ」であることはよくわかる。歌詞の内容もサウンドも、アルバム『Daydream Nation』が本気で好きなら「なるほど」とうならせられてくれる。にしても、たとえばソニック・ユースが「なんとなく好き」だったり「それっぽいサウンドが好き」なひとがこれを聴いても、なぜこのタイトル? と首をかしげるであろう程度にはひねくれて(オマージュ的な「焦点」が無意識に? ぼかされて)いた。

 自戒をこめて言うが、それはある意味で(あまりよくない意味での)オタク性にもつながりかねない。ぼくのいう「いいオタク」とは、そうじゃなくて...といった(ぼくが自分自身にも対して感じる:笑)もどかしさが『ACME』では大幅に解消されている。

 どこかで見たことがあるアルバム・タイトルにしても、「Timeless Melody」とか「Come Together」といったタイトルのオリジナル曲をやっているという事実にしても、モノブライトのメンバーは彼ら(ジョン・スペンサーや、ラーズや、プライマル・スクリームおよびビートルズ)がきっと好きなんだろうなあと勝手に納得しつつ、すべて完全に「モノブライトのもの」になっている。それだけのパワーがびんびん感じられる。

 そして極めつけは、「スロウダイヴ」というタイトルのオリジナル曲で、スロウダイヴ(というバンド)~マイ・ブラッディ・ヴァレンタインを思わせるサウンドを、実に高度なレヴェルで打ちだしていること。アルバム・ヴァージョンではイントロのピアノのフレーズがイーグルス「Desperado」を思わせるおかしさ(これはたぶん偶然)も含み、2メニーDJ'sの域に達していると評することさえ可能だ(笑)。いや、ぼくはマジでそう言ってる。彼らは(たとえばシューゲイザーという言葉などにまつわる)ロックの「イメージ」ではなく、「音楽そのもの」を愛している。そしてジョークのセンスも、2メニーDJ's並にベタな魅力を発揮している。アルバム1曲目のタイトルは、「淫ビーDANCE」(笑)。これに対して「インディー・ダンスというジャンルに対する冒涜だ!」とか憤るひとは、たぶんモノブライトの良さが一生わからないだろう(いや、それはそれで別に構わないけど:汗)。

 こんなふうに、彼らの音楽は、けっこうきわどい毒も含んでいる。

 たとえば3曲目、「No Cotrol」。マイナー・キーのハードコア・ポップ・パンク・アレンジで、歌詞は「父親が娘に抱いてしまう性欲に関して、それを乗りこえたいと思っている娘の側から描いた」ストーリーとなっている。桃野は"この歌の主人公である少女が「それでも光を見つける」姿を描いている"とは言っているが、歌詞の字面だけを負っていると、正直あまりにえぐい...。しかし、これがバンド・サウンドと共に歌われると、桃野が「光」と言う意味も了解できる。

 音楽って、そういうもんでしょ?

 ちなみに、ぼくには息子しかいない。だから、すべての父親が娘に性欲を抱く瞬間があるのかどうかはよくわからない。ぼくの息子は中学生。結構大きくなってきた。思春期にさしかかって「自分の世界」を持ちはじめ、以前より手間がかからなくなったけれど、その分さびしくもある(なんというか「子どもの世話」をするのって、とくに子どもが小さいころは、癒しになったりする部分もあるよね?:笑)。そして、ぼくには娘がいない。

 だからつい数ヶ月前、GREEというゲーム系SNSで美少女アンドロイド育成オンライン・ゲームをはじめた。『萌えCanちぇんじ!』ってやつ。まあタイトルがそれだから(それ需要を見こんで作ってるゲームだから)といえばそれまでだが、ヴァーチャルな娘を育てるつもりで始めた二次元アンドロイドに対して欲望を抱いてしまう瞬間があることを、否定したらうそになる。極めて現代的かつ不健康な状況だ(ちなみに、フィリップ・K・ディックによる大昔の小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の主人公的な悲しさも、ときどき感じる...)。

 でもって、その二次元アンドロイドには「みう」という名前をつけた。妻の名前が「み」で始まるひらがなだからオマージュ捧げつつ(でも彼女には、ぼくがこんなのやってることは当然言ってない。恥ずかしいでしょ。普通に:笑)ネコの鳴き声みたいだし。最初「そら」にしようと思ったけど、それはよくある感じ? じゃあ「うみ」? それもいいけど、いまいちインパクトに欠ける。なら、ひっくりかえして「みう」だ! というわりと安直なネーミングだった。にしても、毎日「彼女」を見て/育てて(笑)るうち、かなり愛着もわいてきた。

 そんなころ、『ACME』の音が届き、まず曲名表を見て驚いた。「Miu」なんて曲が入ってるじゃないですか! いわゆる「ライト・ネオ・アコースティック~シティ・ポップ」ふうアレンジも、珍しくリラックスした桃野のヴォーカルもいい! これはもう個人的に「みう」ちゃんのテーマだ! 「Miu」ってのは桃野が好きな(好きだった)女の子の名前だったりするのかな? とか妄想しつつ、後日届いた、桃野による全曲解説(CDブックレットに掲載予定)を見たら「タイトルは海を業界用語風にしたという、ただそれだけです(笑)」。いやー、やられた...なんて、ひとりインタヴュー(ひとりボケ&つっこみとも言う)。

 ヒダカの加入により、いい意味でパワフルになった『ACME』。高橋幸宏っぽいポップさと透明なイメージ漂う「夜明けのバル」なんて曲もある。にしても、ファウンテインズ・オブ・ウェインやモーション・シティ・サウンドトラックに通じる部分がこれまで以上に前面に出て、パワー・ポップという言葉を付すのも可能とさえ感じる(彼らのアルバムはいつも素敵に「幕の内弁当」的)。

 モノブライトの音楽は、ライヴで盛りあがるのも最高だ。『ACME』全曲演奏ライヴなんてのがあったら、さぞかし「ダイレクトな気持ちよさ」を感じるだろう。ただし、『ACME』は、上記のような「ひとりぼっちの歪んだ楽しみ」にも、不思議とよく似合う。

(伊藤英嗣)

retweet

beadyeye.jpg「好きなものは、いくつあったって全然困らないぜ!」そんな当たり前のことを堂々と表現したアルバムだ。

 2009年8月のノエル脱退によるオアシスの空中分解。それから1年ちょっとで、こうしてアルバムが届けられたことに驚いた。そして、とても嬉しかった。後期のオアシスでは、メンバーの手による曲も増えていたけれど、やはり希代のソングライターでありバンドの精神的支柱でもあったノエルの脱退は大きすぎる代償だ。ジョイ・ディヴィジョンがイアン・カーティスを失ったこと、バウハウスからピーター・マーフィーが抜けたこととも違う。良くも悪くもオアシスは大きくなりすぎていた。近年、伝え聞こえたリアムの不遜とも言える立ち振る舞い、ノエルの威光のもと不相応にも見えたアンディとゲムの存在感。ノエルがステージで頭のおかしい客にぶん殴られたり...。アルバムが出るたびに「メンバー全員で頑張った!」って言っても、僕たちの耳と目はごまかせないよ。いずれにしても、オアシスは崩壊していたかもしれない。そうじゃなくても、僕の興味は消え失せていたと思う。"存在すること"だけが目的になったオアシスなんて、見たくないから。

 これはオアシスじゃない。リアムのソロ・アルバムでもない。ビーディ・アイという生まれ立てのバンドが踏み出した初めの一歩だ。『Different Gear,Still Speeding』って、すごく良いタイトルだと思う。今の彼らをそのまま言い表している。オアシス解散(休止?)からアルバムのリリースまでの短いスパン、ボーナス・トラックを含めて全15曲から漲るポジティヴなフィーリング、続々と発表されるツアー日程。そのフットワークの軽さは、オアシスでは考えられなかったこと。今までの功績やら楽曲のクオリティやら、あれこれ...って、考えすぎないのが、リアムの良いところなのかも。アンディ、ゲム、そしてクリス・シャーロックが大賛成しているところが目に浮かぶ。「Beatles And Stones」でリアムが吠えるように《とにかくロックンロールしたいんだ!》って、ただそれだけ。そして、僕たちはそんなバンドを待っていたんだ。

 アルバムは、最高にカッコいいワウが鳴り響く「Four Letter Word」で幕を開ける。このギターはアンディでしょ。アンディがギターに戻ったことは大きな力になるはず。ライド~ハリケーン#1で、アイデアいっぱいのギターと数多くのソングライティングを実践してきた彼本人が、いちばん納得している編成だと思う。誰がどの曲を書いたか、なんて大事なことじゃない。そして今、彼らが立ち向かっているのはオアシスでもない。相変わらずバカ正直にビートルズ、ストーンズ、フー、そしてラーズへと突き進んでいる。スティーヴ・リリーホワイトのプロデュースも大正解。ラーズ『The La's』やポーグス『If I Should Fall From Grace With God』での手腕を期待されての起用だろう。エレクトリックとアコースティック・ギターのバランス、ヴォーカルとコーラスのきめ細かいエフェクトが秀逸だ。ピアノやビンテージ・シンセの響きもいいアクセントになっている。プロデューサーとして、音を作るのではなく、きちんと捉えている。だからサウンドが重たくならずに、メロディが活きてくる。リアムは「The Beat Goes On」で宣言する。《生命はまだ尽きていない。俺の心のどこかで、ビートは鳴り続けている》OK! ギアを入れ直して、スピードはそのままだ。

 そして何よりも僕が嬉しかったのは、リアムのミュージシャン・シップがはっきりと伝わってきたこと。いい曲を書き、歌う。それは当たり前。オアシスの時は、ノエルの書く曲の中で「声」と「キャラクター」で押し切っていた部分が感じられた。僕にはそれが時々、物足りなかった。ビーディ・アイは違う。リアムが愛しているのは、"ロックスターである"ことじゃなくて、ロックンロールそのものだということ。そして、そんなロックンロールを愛してやまない僕たちにも、同じような愛情を注ぐことができるということ。いち早く来日公演を発表したり、サマーソニックへの出演を約束したり。そして、この震災の際に伝えられたメッセージに元気づけられたファンも多いはず。僕もその一人だ。さらにロンドンではビーディ・アイの呼びかけでベネフィット・ライヴが開催された。"声"を上げて、すぐに"行動"すること。いまリアムが何を見て、何を感じているのか、わかるような気がする。

 これを書いている今、5月の来日公演が9月に延期されるという知らせが入ってきた。僕たちは、まだ「大丈夫」って言えない状況なんだ。ビーディ・アイがスペシャルゲストとして登場するサマーソニックの無事な開催を祈ろう。9月のライヴも特別なものになるはず。その時はリアムに負けないくらい大きな声で迎えよう。ビーディ・アイに、ロックンロールに「ありがとう」って伝えるために。


(犬飼一郎)

---

--- 

beadyeye.jpg 3月に旅行で訪れたイギリスで観た彼らのライヴは、それはそれは素晴らしかった。リアムもバンドもポジティヴなヴァイブで満ち溢れていたし、オーディエンスだってオアシスの曲をプレイしてくれとかそういうこともなくて、それどころか「The Roller」や「The Beat Goes On」では大合唱が巻き起こって、ライヴが終わった後も野朗どもは「Liam! Liam! Liam!!」と大騒ぎしながら満足そうに帰っていった。この時点でわたしはたいしてアルバムを聴きこんでおらず、正直「彼らのライヴを生で観られる」という興奮はあったものの、オアシスのライヴに臨むときのような、その日一日が終わることを惜しんで止まないような期待感はなかった。だがそのライヴで明らかになったのは「より強固になったオーディエンスとバンドの結び付き」であり、「ビーディ・アイというバンドが今後のわたしの人生において計り知れない意味を持つこと」であった。

 バンド結成後に最初に解禁になった音源は今作にも収録されている「Bring The Light」だったが、第一印象は決して胸がぞわぞわするような類のものではなく、「こういうのだったらプライマル・スクリームの方がもっとうまくやれるのに」という、むしろ逆のものだった。今ではこの曲のイントロで血流が一気に速くなるが、そのときはオアシスの再結成を待ち望む気持ちがただ強くなっただけだった。リアムががに股で立ち、マイクに喧嘩を売るような姿勢で歌っているのは鳥肌が立つほど格好良い。でもそれだけだったらわたしは彼らのデビュー作「Different Gear,Still Speeding」を何十回もリピートしない。これは特にソングライティングの面から言って、年間のベストの一枚に数えられても不思議ではない傑作だ。

 確かにあまりに単純すぎる箇所もいくつか見受けられるし、あくまでサウンドの話をすれば、オアシスでやってきたこと以上のことは、たぶんない。わたしは彼らに何を期待していたのだろうか。何も期待していなかったのだろうか。そうかもしれない。ただリアムの声がこの世界に響き続けるという一点のみで、ビーディ・アイの動向を追い続けていたのかもしれない。だが、いかにもアンディらしい作風のアルバム随一のバラッド「The Beat Goes On」にも、オアシス時代にステージ上でリアムが1番誇らしげに歌っていたように感じた「Bring It On Down」を思い出す「Four Letter Word」にも、ノエルだったらどうアレンジしただろうかと気になってしまう「The Roller」にも、結局はオアシスの曲以上に依存してしまっている。そう、オアシスやビーディ・アイの曲はどうしても依存してしまう性質なのだ。

 オアシスと一緒にするのは間違いか。彼らは新人バンドなのか。このデビュー作の成功はノエルに対する勝利宣言なのか。違う。おそらくノエルは再びこの4人の元に帰ってくる。それを待ちわびているわけでもない。ビーディ・アイに何か決定的な物足りなさを感じているわけでもない。ただわたしはこのアルバムを聴きながら、オアシスのことをよく考える。このアルバムは良い。ビーディ・アイもバンドとして絶好調だ。リアムの声だって若返ったみたいだ。でもオアシスは近い将来復活する。ビーディー・アイで十分なわけはない。やっぱり後ろ向きな印象を与えてしまうかもしれないけれど、わたしは「いつかはみんながおれたちの歌を歌っているんだろう」という「The Beat Goes On」の歌詞を見て、それがノエルへのメッセージのようにも思えて泣いちゃいそうになる。

 最初に書いた「ビーディ・アイというバンドが重要な意味を持つ」というのは、このアルバムで得た感動のことでもあるし、バンド自体が放つ輝きのことでもあるが、オアシスのことでノスタルジックになっている時期に聴いて余計染み込んだ歌、ということでもある。やっぱり好きなバンドのことになると脈略のないことを書いてしまうが、「アルバムは文句なしに素晴らしい」し、「それでもオアシスのことを文脈から消し去る必要もない」し、「ビーディ・アイとオアシスの違いを必死になって探して、それを愛する必要もない」ということで、このレビューをそろそろ終えたいと思う。

(長畑宏明)

retweet

denki.jpg「契約のために」


「Due To Contract」を訳すとこんな意味になるわけだけど、実際はどうか知らないし、特に注目しているわけでもない。だって、そういう掴みどころがないのが電気グルーヴだと思うから。


 電気グルーヴは、いい意味で人の期待を裏切ってきた。祭り上げられそうになるとジョークをしてみせ、悪ふざけを求められると真面目に丁寧なことをする。でもそれは、電気グルーヴが確かな音楽的力量を持っているからこそできることではないだろうか? 今回のベストアルバムを聴いて思ったのは、「普通に良い曲を作ってきたんだな」ということ。気持ちいい符割りの「N.O」や「Upside Down」はもちろんのこと、歌モノではない「Nothing's Gonna Change」にまで歌心が宿っている。僕は「ギターに歌わせる」バーナード・サムナーのプレイが大好きなんだけど、電気グルーヴの音にも似たような「歌っている音」というのがたくさんある。


 まりんによる全曲リマスターなどのトピックはあるものの、それ以外に目を引くようなトピックがないのも事実だ。しかし、この『電気グルーヴのゴールデンヒッツ Due To Contract』というのは、メロディーメイカーとしての電気グルーヴの姿を鮮明にしたという意味では意外と重要なアルバムになるのではないだろうか? それが狙いなのかは不明だが、選曲も比較的おふざけが少ない曲が多いし、まりんのリマスターも大きく変化させるというよりも、現在のリスニング環境を考慮した「微調整」といった手を施している印象だ。しかもそれが、より電気グルーヴの歌心とメロディセンスを分かりやすくさせているし、本当に素晴らしい仕事をしている。これから電気を知る人の入門編としてはもちろんのこと、メリーノイズ(卓球さんが昔組んでいたバンド)の頃から追いかけている熱心なファンが聴いても、面白い発見がある良いベスト・アルバムだと思う。

(近藤真弥)

retweet

ana.jpg 福岡出身のバンド、アナはレーベルも京都の「SECOND ROYAL」に移籍し、彼らの第二期の幕開けとなる三年振りのアルバム『HOLE』が発売になった。

 彼らは渋谷系に影響を受けているバンドであり年齢的にも僕と同学年で今年三十代に入る。数年前に彼らのライブを初めて観たとき、渋谷系にまったく影響を受けず、真剣には聞いてなかった僕でさえもオザケンやコーネリアスの影響を絶対に受けていると思わせられるシンセとサンプリングによるエレクロ・ポップを鳴らしていた。

 この『HOLE』と前作『FLASH』が出るまでの三年間のあいだに、彼らはライブをしながら拠点であった福岡から東京に上京した。ボーカルである大久保君は『FLASH』までの時期を<中・高校時代に聴いてたもの、90年代モノの影響をひきずってやっていた>とインタビューで語っている。

 それは90年代に思春期を過ごした世代にハマろうがハマらなくても流れていた音楽、脳裏にしっかりと刻みつき、あるいは脳裏の奥の方にわずかに残るものだった。彼らが鳴らす音楽はそれらを呼び起こした。だからそこに加わったシンセにサンプリングに彼らのライブパフォーマンスをライブで観たものはポップな音楽で踊り、ある意味では哀しい歌詞や少しのアイロニーも混ざった歌詞にかつて過ごした時間や人との想い出を揺り起こされた。

 第二期の前に第一期が上京と所属していたレーベルとの契約解消によるフリーへ。そして「SECOND ROYAL」所属のRufusの上田修平氏との縁から三人でやってきた彼らが自分たちでアルバムを出そうとしていた際に彼にプロデューサーを依頼し「SECOND ROYAL」からやるならうちのレーベルから出しましょうとレーベル所属が決まり彼らの第二部が動き出した。そこまでにあった人と人の繋がりや彼らがやってきたものが目に見えて繋がり出した時に『HOLE』というアルバムが輪郭を増して作られ出す。

 地元の福岡から上京し東京へ、そして三人で作っていた所にプロデューサーが加わり、前の三作とは制作環境が変わった中で曲が作られていく。アルバムを通して聴くと少しばかりノスタルジックな部分、歌詞もそうだが感じながらも同時代性とでもいうか同じような感覚を感じられる。まあ、前三作も歌詞的にはノスタルジックな部分はかなりあったけども。

《永遠と垂直に交わった時間の中で/時は去り 君が行き 僕はとまどった/見送っているようで僕らは見送られては/また誰かとの距離を歩いてくよと》
(「TEI」)

《君をおもい眠れない夜が何年続いたとしても/きっといつか土の下で眠るそんな日々がくるってことを/泣かないでほしい せつなさの上で眠る日に》
(「ノルウェイのあれ」)

《だれかと不意にあいたくなったろう/今夜も街へ消えていくのだろう/目にしみるような煙にまみれた/部屋にたちこめたため息よりはましさ》
(「夜は幻」)

 どんだけ孤独なんだよっ! とツッコみたくなるような歌詞も彼らのポップサウンドにのるとノスタルジーを感じさせつつも踊ってしまいたくなる。時というものの中で僕らが掴みたくても掴めないもの、どうしようもない巨大な力の前で失ってしまうものたちと僕達の人生はいつも一緒だ。全てはギリギリのバランスの中で成り立っているように思える、本当の事とか隠されている事とか嘘だとか、僕らは3.11の大震災の後では確実に変わってしまったと思う。僕はそうだった。あなたはどうだろうか?

 この『HOLE』からアナを聴きだしてもとてもバランスのいいポップなアルバムだと感じると思う。数年前から聴いていた僕もアナの変わらない部分と変わっていく部分のバランスが聴いていて非常に心地いい。彼らが影響を受けた核となる音楽たちと環境が変わり出会いと経験の中で手にした想いやテクニックや音楽性が溶け合っている。

 アナ=穴=HOLEというある意味でのセルフタイトル。まあ、こういうの本当に好きだなって思いながらも第二期のスタートをきった彼らの音源を聴いてライブで彼らを見てほしい。単純にいえば素敵なポップミュージックがそこには鳴っている。

 このアルバムがアナの新しい名刺代わりになる。オザケンやコーネリアスが好きな、好きだった人には特に聴いてほしいと思う。僕が彼らを聴くようになったのはアナを聴いてだから逆に先祖返りをしてしまったけど、90年代という時代から続くものが今どういうものに変わっているのかというだけでも彼らの鳴らしている音が同時代性を感じさせるものだと思う、特に70年代後半から80年代前半生まれ。きっと90年代的な表現に影響を受けた世代の表現がこれからもっと花咲くだろう。90年代に思春期を過ごした世代が三十代に入って表現の世界でももっと目立つようになると思うから。ポップでノスタルジーでアイロニーも含んだ散乱銃で色彩を失いつつある世界中をカラフルに。

《風が街のほうから季節を運んでは/幾千もの幾千もの通りすぎてた日々に/例え過ぎた言葉とメロディーを繋いでは/宛てもなく何枚もの返事を書き続けているのさ》
(「PLANET」)

(碇本学)

retweet

bebechio.jpg「今までで一番シンプルな気持ちで、良い作品が出来たなって思ってる。きばらずに良い事言えたし、そういう意味で焦りのない良い表現が出来た。」(Vo&Gt 早瀬直久。以下同じ)

 大阪在住の二人組、ベベチオの3年ぶりの2ndフルアルバムは素朴なメロディと共に無垢な言葉がしっかりと心に響いてくる好盤。ただ、前作までと異なり、アルバムタイトルにデカダンスという、どちらかといえばマイナスなムードの言葉を使っていることもあり、全体のイメージはモノクロだ(と思ってたら、ジャケットもモノクロだった!)。

「デカダンスって言葉自体が全部悪い意味じゃなくて...。例えば退廃的な気分とか虚無を帯びてるとか、そういうことも美化していこうって思っていて。上手いこといかへんから今日はデカダンでいこう、みたいな。そういうのが暮らしには絶対必要。良いことばっかりあって、急にダメなことがあった時にドンて落ちるんじゃなくて、予めそういうのを解っておくことが暮らしには必要なことやとずっと思ってて。でもそれをわざわざ表現するのも違うのかなって思ってたけど、今回、そこを美化していくことも必要やと思ったんです。で、リビングに大きいタンス、でっかいタンスがあったら邪魔じゃないですか?でもそこに何を入れるかが、生きるスペースに関わってくると思うんですよね。」

 ある「想い」という縦軸は貫かれているんだけど、曲のスタイルという横軸に関してはバラエティさもあり、聴きやすかったりもする今作。3年振りということもあり、音作りで新しい試みなどはあったのだろうか。

「曲の作り方は今までと変わってないですね。僕の中である程度アレンジしてから相方の平良(Ba)に聴かせてます。音作りっていうところで言うと、今回は音を結構抜いてますね。一回入れたやつを削る作業が多かった。抜いた方が曲の輪郭が見えやすくなるから。着飾るよりもシンプルなものが大事やし。」

そして、アルバムの最大の魅力が、早瀬直久の精神からチューブを絞り出すようにぬらりと滑り出す、その歌声にある。一定の距離感を保ちながらも、誰にともなく告白するような生々しい歌声は、濡れているようで枯れている。発狂横の美しさと優しさ、そして強さ。

「自然にしてても人となりは表現の中に出ると思うけど、僕の場合、意識して出そうとしてるから余計にそうなってると思う。曲に強さがあるっていうのは...俺、まあまあ強いんちゃいます?(笑)」

(粂田直子)

retweet

birthday.jpg 80年代、音楽評論家の渋谷陽一氏がバンド・エンドの批判論を展開していたが、それは要約すると、「綺麗事」で完結してしまう中で本当にその善意とメッセージは検討されているのか、ただ、盲目的に信じようとしてしまっていないか、不幸の肯定への懐疑、道徳的な言葉の発信元とはどうなのか、根本的な「解決策」には繋がらないのではないか、という瞬間の絶対性に対してもっと相対的な論理に出発点を置き、共約出来る正義などない場所から表現は始めるべきではないか、というものではあったが、果たしてどうなのだろう。

 今、メタ的にポーズを取ることは容易である分だけ、情緒に流されてしまえる鈍化の状態に「是非」を置くことは禁忌とされている状況でのPRAYやHELPの本質はもう少し違うところにある気がするのは、今は80年代の余裕よりもテンション(緊張)が要求される時代背景に依拠する。

>>>>>>>>>>

 僕は、この2011年3月から4月に行き交った数多の善意と優しさに持ち上げられたりもしたが、その行方を辿れない内にオブセッシヴな形でそれらが切り詰まってゆく状況の閉塞も感じた。「連帯」の下に、手と手を繋ぎ合う気分で終わってしまわないのか、頻発するキャッチーな惹句や警句が舞う。しかし、例えば、マルセル・モースは、ドイツ語の「ギフト」には、贈与したものと毒の二義性があることを示したが、贈物をもらうこと、何らかの善意の中に招かれることそのものが、致命的な「毒がまわる」ということの関係因子はもう少し考える為の意味があるかもしれないならば、THE BIRTHDAYの新しいシングル「なぜか今日は」の示すヴィジョンには"明るい暗闇"があって、今ここの瞬間で聴く手をリフト・アップする力があり、頼もしく映る。
 
《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする でも 裏側には何かがある気がする でも》
(「なぜか今日は」、以下同)

>>>>>>>>>>

 バズコックス、アディクツ、ドクター・フィールグッド、ダムド、更にはザ・クラッシュなど、パブ・ロック、パンク・ロック、ガレージ・ロックの影響を受けて、ジ・ミッシェル・ガン・エレファント(以下、TMGE)がタイトなスーツ姿で「ビートニクス」をなぞる初期の格好良さはまるで、「路上(On The Road)」で「裸のランチ(The Naked Lunch)」を食べているような格好良さがあり、銀行強盗風のマスクを被った男がスーパーに立つジャケットが印象的な96年の『High Time』辺りのタイプライターマシーンをハンマーで叩き割って、そこから文字を拾い上げるようなバンドとしてのアティチュードに心底、痺れた。90年代後半のいささかハイなムードの中で、決してオンではなかった直球でスタイリッシュな8ビートはセンスが先行していたきらいもあるが、「世界の終わり」というこれ以上無い程の明確な表現を引っ提げて、シーンに登場してきて、「ロックンロール」という言葉通り、複雑で込み入った時代の中をどこまでも粋に、加え、スマートな知性とエネルギッシュなスタイルでロールしてきて、一ファンとしては、その姿はいつも頼もしくもあり、「日本の」ロック自体がつまらなく思える時など、その存在性はシーンを見渡す時の良い指針になっていた。もっと言うならば、とかく浮つきそうになるロック・シーンにおける一つの重石のような役割としても彼らを観ていたりもした。

 ちなみに、個人的に彼らのライヴには幾度となく行ったが、やはり強烈だったのは「意味」ではなく、「乾いたリリシズム」を備えて野放図に宛先不明の手紙を郵便箱に投函していた時期であり、「起きてくれ、ルーシー」という掛け声には多分、片道切符を切るべきロックンロールの清清しさがあった気が今でもしている。だから、『ギア・ブルーズ』を境目に、より真摯に、鋭角的に「意味」に深く潜り込んでいき、最終的には「太陽」を「つかんでしまった」とドアーズのような境地にいったのは巷間(マス)の要請か、彼ら自身の誠実さ故なのか、分からなかったが、誰かをサルベージするものがロックという大文字ではなく、ロール、スウィングさせる"効き"にこそ、美しい非・予定調和があると思うような自分からすると、その次作『カサノバ・スネイク』からのシリアスな流れにしんどさもおぼえてしまったのとともに、ラスト・ライヴでの「過剰なサービス精神」に少し寂寥も感じもしてしまったのも事実で、「トゥッティ・フルッティ」と口笛を吹かせてくれるような音の行間が欲しかった。その後、アドルノ的なニュアンスでいえば、ポピュラー音楽は様々な手札を用いて聴衆に生じる複雑な思考を阻害し、聴取方法までも「規格化」することで聴衆の自律的思考を阻害するとして、このような聴取の「退行」の下、聴衆の自立性の喪失と狭まったコミュニティへの追加の帰属意識を固めてゆく意味で、その「確認」のために、TMGEというスティグマ(聖痕)に悩まされていた一人としては、まだ的確な言葉で彼らを対象化することが出来ないでもいる。

>>>>>>>>>>

 TMGEは03年に解散する。

 ROSSOやRAVEN、THE MIDWEST VIKINGSやMIDNIGHT BANKROBBERS、他バンドへの参加、スカパラへの客演などを経ながら、まるで意味から解き放たれたバンドを求める為に、ボーカル/ギターのチバユウスケはTMGEのドラマーであるクハラカズユキ、元フリクションでROSSOのメンバーとしても参加していたギターのイマイアキノブ、元てるる...のベースのヒライハルキの四人で06年にTHE BIRTHDAYというバンド形式を取り、それがメイン活動になる。THE BIRTHDAYでは、技巧主義に走るよりも「直感的なイメージ」が優先され、ローリング・ストーンズの転がり方のように、なだらかに続いてゆく道を歩む途程で、自然とキャッチーな「アリシア」、「カレンダーガール」、「涙がこぼれそう」、「愛でぬりつぶせ」という佳曲も生まれていった。

 しかし、僕は彼らの無邪気なロックンロールにそこまでアディクト出来ないでいたのは「正し過ぎる」という点に収斂するかもしれない。ブライアン・イーノが『A YEAR』で書いていたように、かつて「美学」には正しい一つの流れがあって、様々な作品はそれとの距離関係を持っているかの、測定作業でもあり、ときにその正しさの再規定の作業でもあった訳だが、今や日本でロックンロールをするにはシーンの"gravity"から無縁であるか、過去のレリックに敬礼をするか、の二項に引き裂かれているきらいもある中、双方への目配せもある彼らの音は「手術台の上で蝙蝠傘とミシンが出会う」予感ではなく、「愛でぬりつぶせ」と歌ってしまう大きさに自分の中の小文字が錯綜してしまうときがあり、"ザ・ブルーハーツ以降の甲本ヒロトの真面目さ"と同位相で、チバユウスケという人がロックへのパースペクティヴが殉教に近いものになっていった感じさえ受けた。ゆえに、THE BIRTHDAYの周辺に行き交う批評や賛辞、揶揄も含めて、総てが気分としての「ロック」という大文字の概念内で行なわれる密室内での共犯にしか思えないことが増えて、そこで僕は何を想えばいいのか、は分からないまま、新作は出たら聴く、でも、殆どライヴに足を運ぶことは減っていった。フィリップ・K・ディックの作品にあるような、「アウトサイダーの優越性」に対してもっとも敏感であった筈のチバユウスケが静かに優しくなってゆく軌跡を観るのは少し切なく、ましてや、TMGE時代の盟友のアベフトシを2009年に亡くし、ますます背負ってゆくものが増えてきたと思えてきた折、この「なぜか今日は」は、会心の作になった気がする。

 2010年9月にイマイアキノブが抜け、存続が危ぶまれたが、新メンバーとしてこれまでTHE BARRETT、MY LITTLE LOVER等数々のバンドで名を馳せてきたギターリストのフジイケンジが加入したのもあり、一気に次のヴィジョンに踏み込んだ手応えと軽快さを感じるシングルになった。バリエーション豊かな3曲が収められている中でも、ギター・リフが牽引する抜けたロック・チューンになった鮮烈な表題曲は特に素晴らしい。「Stupid」辺りの速度感のあるフレーズの羅列と、疾走感、程好い軽さ。その「軽さ」は、ときにTHE BIRTHDAYというバンドに付き纏う周囲のディレンマもあったが、この拓け方と並行して、オルタナティヴなザラッとした質感と緊張感のある詩的な言葉が乱射される様は「綺麗な歪んだ温度」を感じる。

「今日(今、ではなく)」を歌うことが難しい時代になったとは思う。

 希望的なのか絶望的なのか「何か」が待っている明日へ向けての投げ掛けを行なうか、それぞれに「何か」が残っている昨日へのノスタルジーをストロークの広い表現で囲い込めば、リプレゼントできる糊しろは想像の域を越えてくるかもしれないが、《なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする だけど裏側には何かがある気がする でも なんか今日は でも きっと今日は でも なんか今日は でも きっと今日は》の「でも」と「きっと」の狭間に仄かな光が視えるのも確かであり、「デッドエンド」を認識することから始まり、その「デッドエンド」を解明しようと懸命にロックンロールしてきたチバユウスケがこういう<場所>に辿り着き、また新たなメンバーとともに音楽活動をロールさせてゆくという行為性の中にはおそらく、想像し得ないチア/ジャッジが混じってくるのだろう。そうだとしても、ここには「ロック」と区切ってユースの自意識をコロニアル化するような商法で罷り通っている界隈の安心を対象化して捉え直し、はたまた、そこで囲まれざるを得なかった精神的逼迫のコンテクストと一線を引く強かさがある。

>>>>>>>>>>

 THE BIRTHDAYは綴る。
 
《シンデレラに羽が生えて 飛び立ってった クツは忘れっぱなし でも 幸せだって》

 そういう幸せの形が"今日"ならば、響く気がしている。私的なセンチメントやリリシズム、そして、綺麗事を越えて、ここにはささやかなもっと大きな何かに繋がる"HELPへのPRAY"がある。

(松浦達)

retweet

b-valentine.jpg サンダンス映画祭やカンヌ国際映画祭など世界各地の映画祭で注目された今作。壊れかけた夫婦には、『ラースと、その彼女』のライアン・ゴズリング、『ブロークバック・マウンテン』のミシェル・ウィリアムズ。10年以上も脚本を練り上げたデレク・シアンフランス監督による、愛が終わる痛みを巧みな演出で紡いだ切ないストーリー。

<ストーリー:結婚7年目を迎え、娘と共に3人で暮らすディーン(ライアン・ゴズリング)とシンディ(ミシェル・ウィリアムズ)夫妻。努力の末に資格を取って忙しく働く妻シンディに対し、夫ディーンの仕事は順調ではない。お互い相手に不満を募らせながらも、平穏な家庭生活を何とか守ろうとする2人だったが、かつては夢中で愛し合った時期があった...。>

 ディーンとシンディとフランキーの家族。庭で飼っていた犬がいなくなる所から物語は始まる。娘のフランキーが犬の名前を呼んで探している。やがて父のディーンを起こし探すがいない。二人は仕事明けで寝ていたシンディを起こし朝食を作ってもらい食べ出す。この娘のフランキーがすごく可愛い。父の陽気さを受け継いでいるように明るい女の子だ。

 やがて犬が道路沿いで死んでいるのをシンディが発見し、ディーンに伝えるが二人は娘には伝えずにで父は「あいつはハンサムだったからハリウッドに映画犬になりに旅立ったんだよ」と伝えるが娘には死んだ事を知らせずに庭に埋葬する。飼い犬を失った哀しみを晴らすために隣町のラブホに行って酒を飲みまくって久しぶりに二人きりになろうと提案するディーン。朝から仕事がある彼女はそれを嫌がった。途中に立ち寄ったスーパーでシンディは大学時代の恋人のボビーとすれ違い、軽く話す。その事を車で夫に話すと彼は不機嫌になってしまう。

 ラブホに着いて食事をしながら会話をしているとやはり口論になってしまう。苦学末に資格を取って働いているシンディには向上欲もなく家族と過ごすのが一番だと思っているペンキ塗りをして満足なディーンが不満だった。シンディは音楽やいろんな才能があった彼に「自分を高めるような仕事をしてほしい」とディーンに言う。ディーンは「父親として、夫としてこれ以上何を求めるんだ」と。彼女へのある種の劣等感で酒を止めれない彼。喧嘩の末にディーンはシンディを求めるが彼女はバスルームにこもってしまう。

 それから二人がどうやって出会ったのか何があったのかが物語られる。現在に続く始まりの時。互いが互いに恋をした時代。ディーンが一目惚れしたシンディに、シンディは彼の飄々さに惹かれた。そして彼らは家族になった。

 過去の描写はフィルムで撮った少し荒々しい映像で現在との対比もありつつも現在は24時間の事だけど過去は数ヶ月を描いている。過去と現在。ラブホで起きたディーンはいなくなったシンディを追いかけて彼女の職場に出向くのだが...。

 冒頭の犬がいなくなるシーンではディーンがシンディに犬小屋の周りの柵になんで鍵をしなかったんだと怒る所がある。映画を観ていて物語が彼と彼女の終わり、月日を重ねて堆積した崩壊への感情や想いを観ていたらなぜ犬が出て行ったのかわかる気がした。彼らの家の庭にいた犬は彼らの愛情のメタファーだったように感じる。犬は逃げ出して道路で死んでしまった。彼らの間には互いへの想いや愛情はあるけども互いに求めるものが違ってしまった。しかもそれはもう話し合っても修正できないものになっていた。だから犬は死んだのだ。家から飛び出して死んでしまった。

 出会い互いに惹かれ合い恋をすることはある、しかし恋をするだけで誰も愛には辿り着けない。なぜなら愛など存在しないからだ。子供ができて家族になったからといって愛だと盲信する。本当の愛を探すものはいつも...という野島伸司脚本『世紀末の詩』の百瀬教授の台詞が浮かんだ。

 この作品は『(500)日のサマー』の思春期のちょいとした別れみたいなほろ苦さみたいなものよりも確実に痛くどうしようもない月日の堆積からの別れを現在と過去を描いているだけに哀しい。両方共に現在と過去を描いている。『(500)日のサマー』は古谷実『シガテラ』に近い気もする。最後でそういう思春期の思い込みなんて時が過ぎればただの思い出になって過ぎて行くんだという皮肉すらある。ほのかに甘く痛い思い出。当時は辛くても時間のみが癒してくれる、あるいは別の誰かが現れたらそれも薄れるという哀しい人間の性。

 主演のライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズは現在32歳ぐらいだが若き頃と現在を演じるために体重を増やしたりとかなり現在と過去で時間が経ったのがわかるほど変わっている。この作品においてミシェル・ウィリアムズがセックスシーンをきちんと演じている部分がこの作品の哀しみが増す要因だと思う。あれがあるからこそ切なさが増しより心に届いてしまう。こういう作品においてきちんと俳優がセックスシーンで絡む部分があると彼らの気持ちが伝わりやすくなると思う。なんかベッドで二人が寝ててやりましたよ的なしょうもない描写は観てる方はさめざめする。

 映画の最後のシーンは独立記念日の日で街中でも花火をあげていてそれがエンディングの映像と重なる。流れるグリズリー・ベアの音楽とエンディングの花火の明かりに照らし出されるかつてのディーンとシンディの美しさが時の残酷さのようだった。

 確かに彼らの思い出は花火のように輝いていた。だからこそその瞬間の瞬きに二人はかつて酔い未来を夢見た。だけど互いに過ごした時間の中で変わってしまったものと変わらないものが交わらなく決定的に二人の中にあった何かを感情をもはや紡ぐ事はできなくなった。

 一人で観に行くのもいい。でも恋人同士や夫婦で観に行ってもいいだろう。彼らはなぜ別れて行ってしまったのかを観たカップルで話し合う事は無駄ではないはずだ。

(碇本学)

retweet

pandabear.jpg「何か...サンプラーをいじってどうこうすることには少しうんざりしてきちゃって―今回は寧ろ、ニルヴァーナやホワイト・ストライプスみたいなギターとリズムに焦点を当てた音楽に影響を受けたかな」(パンダ・ベア)

《さあ、僕を信じて/少しのあいだだけど、君を守ってあげるから―ねえ、だから出ておいで》(「You Can Count On Me」)--強烈なリバーブを掛けられた空間でリフレインを繰り返すコーラス。そこにハンドクラップ、ドラム、時折入ってくるざわめきの残響の起こすディレイが後続の音と繋がって多層的なフィードバックを生じさせて行く―『Tomboy』を再生すると先ず、私たちはある種呪詛的なフィーリングを見出すだろう。

 加えてサマーブリージンへの目配せからか、このアルバムの全編はフロウティングな柔らかいビートや、更にフォグに暈す所謂「Hypnagogic Pop(=入眠時のポップ)」的なヴァイブスに包まれている。さきに引用した「You Can Count On Me」のように少しダークでセンチメンタルな世界観はそのままに、要はフリー・フォークのセオリーに則った多幸感にアンビエントとオフビート・トランスを合わせてチルアウトしていくように展開して行くのだが、パンダ・ベアの新譜に於いてはそれはでも、このような「計算されたダンス・ポップの妙」を加味してもやはり予定調和であると言えなくもない、といった一抹の不安を或いは抱くのではないだろうか。

>>>>>>>>>>

 例えば「サマー・オブ・ラヴ」がそうであったように、件の911テロ事件やイラク戦争といった社会的な不安が多くの人々を包んだような00年代をして「浮遊の時代」と呼ぶことがあるが、そうした時代の持つ「浮遊感」に対して若者達は「集まり」、「パーティーを始めた」のは記憶に新しい。それが所謂、破れたスキニーをガムテープで留め、ライダースを着込んで"良かった昔なんてない"と逆説的な「現在」の否定を図る所作(=「ワット・ア・ウェイスター」)であったり、パッション・ピットゴールド・パンダのように個人的な動機(動悸)を胸にベッドルームとダンスホールを繋ぐアーティストの発現であったりする。そして10年代に入り間を縫うように「グローファイ/チルウェイヴ」というタームが浮上するのだが、それは置いておくとして、"MP3ダウンロードという聴き方"を経てより「個人的」なものとなった「音楽体験」からすると、「今」のインディーズ・シーンでヴァイナルやカセット限定のリリースが多い理由もだからわからないでもないし、「世界のある場所で起こってきたこと、いまも起こっていることにより正確な観点を与え、意識化すること」を掲げたワールド・ワイドなレーベルであるサブライム・フリークエンシーズの存在を想起せずには居られないのも事実である。

 アラン・ビショップの言葉を引用するまでもなく、「現在」に於いて音楽を聴くということは寧ろ、任意の地域の切り取る「窓」としての「周波数」をキャッチすることに近いのかも知れない。ヒシュバやチョビ、或いはルークトゥン。サハラではどういうわけかフランジャーを効かせた音が跋扈しているといった具合に、ラジオを通して「出会う」、「ケオティックな体験」の希求が現代は確かに認められる。いや寧ろ、「同じふたつのことを言う人間」はつねに「他者」であるからして(=『終わりなき対話』)、音楽とのフィジカリーな邂逅という意味ではだから、彼にとって4作目となる本作で「如何にも」なフリー・フォークが「今」、鳴っているのも不思議ではないような気もする。そして「彼は敢えて同じことをする」。

「もし"Tomboy"のイメージを僕に当てはめるとしたらそうだな、ボルチモアのラジオの音源を集めていたミドル・スクール時代を追体験するような感じだね」(パンダ・ベア「Paw Tracks」掲載ページより抜粋)

>>>>>>>>>>

「乾いた水を飲まされて喉がからからになっても、君をまちがえてのみこんだりしませんように」(「月のひざし」)--では水が引いた「そこ」にあるものは、地下室で"黙示録的な呪詛"を謳う若者だろうか、それとも「足場」としてのノスタルジアに対する傾斜か。或いは、ふたたび"裏庭から水が湧き出て"来る、という可能性も考えられる―さて、この「アクティヴ・チャイルド(Active Child = お転婆娘)」と名付けられたアルバムをどのように評価したものか。

 夜明けとともにパーティーが穏やかにチルアウトしていく凪の瞬間のように「多層的な」不安を尻目に、「Tomboy」は無邪気に走り去って行くだろう。行き着く先で「彼」はサーフィンをするのか、植民地の音楽に傾倒するのか、はたまた「鏡の向こう」を見つけてしまうのか―どちらにせよ、彼の動向からまだ暫くは目が離せないのだろう。

(黒田千尋)

retweet

lilliesandremains.jpg 共同プロデューサーにMETALMOUSEを招き、初期のゴシック的なニューウェーヴ直系のサウンドから新たな音響の膨らみと実験性を獲得した昨年の力作EP「MERU」を経て、約二年振りとなるセカンド・フル・アルバム『TRANSPERSONAL』が指し示す世界観は面白いことになっている。アルバムのタイトル名は1960年代から起こり始めた心理学における新しい潮流のことを言い、人間性心理学における自己の「トランセンダント(超越性)」という概念に関して更に突き詰めた形のもので、如何せん、昨今、隆盛しているスピリチュアル、ニューエイジ系との共振も感じさせる部分もあるが、自己を越えた何ものかへと「統合」される考えやメソッドを模索、援用するというのは『MERU』で見られたボーカルのKENT氏の三島由紀夫の『豊饒の海』にインスパイアーされながら、傾いだ仏教、東洋思想("天上"という記号性が付随していたりもした)と、その後のインドへの渡航で得た「"人間としての個"を巡る再考」がはかられた結果の必然的な流れともいえるだろう。実際、歌詞内でもマテリアリズムや過度な個人主義社会への警鐘のフレーズなど個の超越に基づいた精神性の奪還を目するものが散見される。

 ただ、その際に存在論的または方法論的に、暗黙の合意を条件付けした上で「意識」を語っていないかどうか、という危惧も同時に生まれてくるのがトランスパーソナル心理学の一側面であるが、そのスピリチュアルな要素(不確かな内面性)の湿度を乾かすようなサウンドのモード(確かな外面性)が巧く活きており、メッセージ性の堅苦しさが先走った印象は受けない。80年代のシンセが押し出されたヒューマン・リーグ、デペッシュ・モード辺りのニューロマンティックス的な華やかなクールネスからポスト・パンクの色がより強まり、ビートへの感覚が更に逞しく強化されたことにより、ストイックな疾走感を得ているという捩れによって、奇妙な説得力を持ったスキームを提示することに成功している。そして、彼らを語る場合に兎角、参照にされがちだったザ・キュアー、バウハウス、ジョイ・ディヴィジョン等に備わっていた暗みも多少は継承されているが、そういった目配せや冠詞自体はもはや疎遠ともいえ、より堂々と彼ら独自の孤高の「シリアスな黒い色香の漂うポップネス」を手にしたようになったのは頼もしい深化だと思う。

「MERU」の時点ではいささか纏まりがなく思えた音像の点も滑らかに改善され、エレクトロニクス要素が良い形でポップなエッセンスとして機能しながら、引き算と抑制されたメロディの下、KAZUYAのエッジのあるギター、KOSUKEのアタック感が強まったドラム、NARA MINORUの静かな熱を帯びるベース、KENTの蠱惑的なボーカルの一体感はなかなか今の日本にはない筋の通った毅然たる美意識を貫く意志を感じさせる。

>>>>>>>>>>

 日本のロック・シーン(日本に限られるものでもなく、また、"シーン"というのもあるのか、難しいが)で取り交わされる少なくない数の"大きな言葉の「ロック」"とは、兎角、抽象的に精神論とともに、サウンド、歌詞にしても、その政治性自体の持つ押しの強さであったり、アーティストのパーソナル・ストーリー沿いに作品論まで広い視野の中で攪拌されて語られてしまうきらいがあり、そういった磁場と実際に鳴っている音楽そのものは切り分ける「べき」だと思うのは、どんな音楽であっても、大文字の他者へのアンテナの鈍感さが散見され得る限りは、共通する筈の言語往来の場での「第三者」がスルーされてしまうならば、その受け入れるアティチュードは意味よりも「意味しているもの(シニフィアン的なもの)」を補う可能性を持っていることが好ましい気がするからだ。賛同(または、批判)と意味の「壁」に向かって、投げ掛ける音というのは結果的に自家中毒気味の相互閉塞を待備せしめてしまうときがあり、その際のアーティストのリスナーの「関係性」は密室内での確認作業に堕してしまう。その「確認」という行為とは更新はされてゆくが、刷新される必然を持ち得ない場合がある。それはオルテガの言うように、大衆(聴衆とこの場合、置き換えてもいいかもしれない)とは新しい慣習のようなもので、「大衆とは心理的事実」であるが、この大衆の動きや思考の反映が、それがシーンの選択した「信念」と捉えられてしまうと、難渋な誤配の問題が起こるという事と繋がってもくる。要は、「名もなき意思」が社会に刻印される紙一重のラインには線引きして、音楽は語られるのが健全であると僕は思っている。

 そういう意味でいうと、リリーズ・アンド・リメインズ(LILLIES AND REMAINS)がこの『TRANSPERSONAL』で踏み込んだ(敢えて言うが)深遠なスピリチュアリティと80年代のサウンド・マナーで引き裂かれた、また、地上と地下を鬩ぐ「隙間(crevice)」の境地には、そういった相互確認を迂回するタフさがあり、その分だけ、"共通する言語の磁場での「第三者の個」"へ向けた希いのような何かが込められている気がする。

>>>>>>>>>>

 彼らは、一部メディアが言うようなアンダーグラウンド・シーンの中の先鋭などと括られてしまう分かり難いバンドでもないし、日本のバンドらしくない音をクールに鳴らしている、なんて標語よりも、もっとマスへと拓けてゆける反逆精神のポテンシャルを秘めていると個人的に思う。まだまだこれからも「新たに始まってゆく」バンドだろうし、更にフォーカスは絞られてゆく気もする。だからこそ、この作品内で例えば、「Effectual Truth」や「You're Blind」等の曲でときに見せる拓けたポップネスや全体を覆うまろやかな音響工作には初期からのファンは微妙な印象を持ったかもしれなくても、彼らが従来の闇を彷徨し続ける道を択ぶのではなく、マッシヴな形で闇の中を内破していこうという要素が強く視えるという文脈に沿えば、「個を越える」為の変革の企図が「これまでの自分たちを越えてゆこう」とする意欲に繋がったという点を何より評価すべきなのではないだろうか。

(松浦達)