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2562.jpg 2562ことデイヴ・ハウスマンズは、とある雑誌のインタビューで、尊敬するアーティストとしてマラやシャックルトン等の名を挙げていた。理由は、これらのアーティストはトレンドに左右されずに、自分の音を生み出したからだそうだ。そしてデイヴ・ハウスマンズも、トレンドに左右されない一貫とした音作りの美学を持っている。しかし同時に優れた柔軟性を持ち合わせており、だからこそ『Fever』という様々な音楽が交差し混じり合ったアルバムを完成させることができたのだろう。

 デイヴ・ハウスマンズは、2562のほかにも様々な名義を持っている。ア・メイド・アップ・サウンド名義では、強い影響を受けたと公言するデトロイト・テクノ色が濃い作品をドイツの〈フィルポット〉からリリースしているし、ドッグデイズ名義では、〈フライン・ハイ〉からヒップ・ホップ・トラックをリリースしている。こうした幅広い音楽性を持ち合わせているデイヴの本領は、『Aerial』や『Unbalance』 でも十分発揮されていたが、『Fever』はそれをさらに押し進めたような印象がある。前2作は「ダブステップをやる2562」という分けた感じが残っていたけど、『Fever』ではデイヴが普段好んで聴いているファンクやソウル、それから今まで以上にデトロイト・テクノ的な音とアグレッシブさが前面に出ている。重たいリズムとメランコリーはあるけども、それ以上に汗をかいて笑顔で踊っている姿が目に浮かぶ、聴いていて楽しいアルバムとなっている。特に「This Is Hardcore」以降の流れは、ジャンルなど関係ない純粋な音楽へと変貌を遂げていく過程が鳴らされているようで、本当に素晴らしい。デイヴ・ハウスマンズが、また一歩ジャンルやトレンドに囚われない存在へと近づいたことを証明する一枚だ。

(近藤真弥)

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merengue.jpg 近年はキリング・ボーイのデヴュー盤のエンジニアをはじめ、多くのアーティストに楽曲提供もしてきた多才なメロディー・メイカー、クボケンジの本バンド、メレンゲの約2年振りの新作、ミニアルバムはギリシア語で困惑を意味するタイトルを冠した『アポリア』だ。

 例えばグラスゴーのティーンエイジ・ファンクラブや国内のバンドではスピッツのように、新作をリリースする度に決して大きくは変わらないが、そのそれぞれに新たな試みが見られる、基本のベースに様々な色の塗り方(時には、それは前の作品に残った色と今の色が混ざっていたりもする)をして更新されながら提示してくれるバンドがあって、メレンゲもそういったアーティストの一つだろう。

 また、クボの豊満なメロディー・センスと恋する心をやさしく繊細になぞっていきながら、でもどこか外からは見えにくい場所にハッキリと爪痕を残していくように刻み付ける歌詞、それらで構成される世界を堅実に支えながらも、よりビビッドに色彩を濃く滲ませるようなタケシタツヨシとヤマザキタケシによるリズム隊...これらは最早、メレンゲ印と呼んで差し支えないだろう。

 そして、盟友であるフジファブリック(クボにとっての親友であった志村正彦が急逝した後に開催された彼らの主催イベント、「フジフジ富士Q」でもフジファブリックをバックにクボがカバー参加していたことも記憶に新しい)から山内総一郎とゴーイング・アンダーグラウンドから河野丈洋、メレンゲのサポートメンバーでもあるプレクトラムから藤田顥(メレンゲと度々共演していたシロップ16gのサポートをしていた経験もある)と曽我部恵一ランデヴーバンドから横山裕章、それに皆川真人、おおはた雄一といった豪華な顔ぶれがゲストに集結した今作でもメレンゲ印はそのまま、彼らが次のステージに進もうとしているのがリアルに伝わってくる作品だ。

 『アポリア』は、まずCDを取り出す前に手に取ってみた時から、そのジャケットと彼らの世界のシンクロ具合に驚かされる。これは、漫画家、浅野いにお(アジアン・カンフー・ジェネレーション『マジックディスク』収録のシングル曲「ソラニン」のオリジナルの作詞者でもある)によるものだが、先日、エロティックス・エフに連載されている新作、『うみべの女の子』の単行本を初めて発売した浅野とデヴュー当初から海や海辺の風景を一つのテーマとも言えるように歌ってきたメレンゲは経歴的にも絶妙にマッチしていて面白い。
 
 午後の海辺の潮の匂いのする曲を多く歌ってきたメレンゲであるが、今作で見える景色は、ジャケットが示すように、夕方(『初恋サンセット』)が終わり、陽が落ちて、辺りが暗くなってきた頃の海が見える家のベランダから見える風景だろうか。

 とは言え、メジャーデヴュー以降の各アルバムの一曲目は「夕凪」、「きらめく世界」、「午後の海」がどれも夕方の景色を、「カメレオン」が夕方~翌朝のそれを描いているのに対して、今作の幕開けを飾る「旅人」は、明確な時間設定を示す言葉がタイトルにも歌詞中にも現れない。ただ、少しベクトルを変え、この1曲目たちをもう一度、精査してみると面白いことが分かる。「夕凪」は僕を映し出す、もう一人のボク、そしてその隣にいるキミとの関係を歌っているが、ここでのキミは虚像としてのボクが持っている清算不能になってしまった弱さである(あるいは、弱さを振り払った偽物のボクに魅力を感じる人物とも取れる)。どちらにせよ、虚実併せ持った存在としての僕が浮き彫りになっている。「きらめく世界」は、一見、タイトル通りのキラキラと輝く《海の見える小さな街》で遊ぶ2人を映し出すキュートな曲に思えるが、《どこにでも落ちてる使い捨ての愛に命を吹き込む午後6時の魔法》という歪んだ一節のおかげで、これがフェイクの恋心に包まれた君と僕の関係であることが浮き彫りになる。採算のつかなくなった僕は、「カメレオン」になって自分を隠し、自身を騙そうとするが、実存さえも失いかけ、慌てて君に会おうと《急いでカーテンを開け急いで僕は外に出る》。「午後の海」では、清算も採算も必要なくなり、<<僕らは永遠じゃない/消えちゃうまで触り合ってたいだけ>>とフェイクの刹那に耽溺しようと試みる。ここで、その先の世界が「旅人」だとすれば、《思い出ばっかで膨らんだ気球/割れないのが自慢/迎えに行くよ/待っててね》という一節が、より鮮やかに響きはしないだろうか。つまり、これまでの虚実や耽溺が報われなくダメになってしまった後、自分自身をもってもう一度、あるいはまだ見ぬ、君と出会う覚悟を決めたのである。

 これは彼らの曲では初めてプレリュード「untitled」と共に収録されている「夢の続き」の一節、《体中の全部で優しかった君だけ思い出そう/忘れるはずがない/そんな夢の続きもある》や、一昨年の彼らのアニバーサリー・ライヴにも同じタイトルを冠されていた、新たなアンセム「アルカディア」の《後ろは見ちゃうけど/かならずそばに居て/なんでこんな僕にも/優しくされるんだな》という一節にも如実に現れている。

 今までの思い出を詰め込んだリュックを背負って、たまにそのリュックの中のフォト・アルバムを眺めてセンチメンタルにもなりながら、戸惑いもしながら、それでも君に出会うこと。『困惑』というタイトルをもった今作は、それを讃えたアルバムのようだ。その点で、今までの夕方の景色からは少し時間が過ぎた、夜が訪れた後の世界を映し出していると言えないだろうか。

 サウンド面を見ても、「旅人」は今までの1曲目との違いが顕著に出ている。「夕凪」を除いて、今までのどの幕開けの曲も、軽快なシンセとギターの豊かなメロディが絡まったアップ・チューンで、(これは「夕凪」も含め)どの曲もシングル曲になるようなポップさを持っているのに対して、「旅人」は確かにポップではあるが、シンセの音は微かにバックで鳴っている程度で、実直なリズム隊のビートが印象的なミドル・チューンである。色鮮やかな幕開けというよりは、むしろゆったりとしたグラデーションのような始まりである。ディレイと揺れるギターが印象的な横ノリの「夢の続き」も、カントリー調の土の匂いのする「ルゥリィ」も、今作では最も緩急がついており盛り上がりも明確な「ムーンライト」も、どの曲も派手さはないけれど落ち着き成熟したサウンドが魅力的だ。またビートたけしと玉置浩二の「嘲笑」の原曲に忠実なアレンジのカバーも収録されており、それも含めて彼らの新たな一面を見ることもできる。

 たった一つ残念なのは、権利等の関係もあったからか、どうしてもアルバムの毛色に合わなかっただろうからか、前アルバム『シンメトリー』の約4ヶ月後にリリースされていた、新垣結衣に提供した名バラードをセルフカバーしたシングル「うつし絵」が収録されていないことではあるが、それがあっても、ネクスト・ストップへ進み出そうとする彼らを追える今作は、あと数年経って以降の作品をリリースしてから見返した時に重要なターム・ポイントになっているはずだ。

 是非、この春の夜は、この海沿いの街の湿った気怠い夜更けを映し出すアルバムを聴きながら、少し湿った夏の風を待っていたい。

(青野圭祐)

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telebossa.jpg 一括りに「ドイツの音楽」と言っても、第二次世界大戦後は「フランクフルト・サウンド」として知られるジャズ・シーンが隆盛しており、60年代末70年代初頭にかけて「クラウト・ロック」が西ドイツをベースに世界に向けて影響を広げていた時期には、"ベルリン派"として知られるタンジェリン・ドリーム、アシュ・ラ・テンペルに代表されるサイケデリックで実験的なバンドの存在も大きかったが、その後の世界的なシェアの度合を考えると、西部ライン地方のクラフトワーク、カンなどのロック産業文化へ向けての警鐘と明るさが並存したバンドが秀でていたと言えてしまうのは仕方のないことかもしれない。

 何にしても、「一枚の壁」の前後までといおうか、ベルリンという豊穣である筈の都市は混迷や模索を余儀なくされた。機能の緩やかな衰退と、経済的停滞、治安の悪化もあり、「一枚の壁」によって囲まれた空虚な形質を外側へ向けて発信する「記号」を孕んだまま、音楽のみならず文化都市としても、北部の経済都市であるハンブルクやライン川の河畔に位置する産業都市ケルンといった場所に主管が移っていくことになり、"外れてゆく"場所になっていった。

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 しかし、1989年に壁が壊れるまでのベルリンはだからこそ、持たざるユースを中心した文化的な閉塞を内側からブレイクスルーしてゆくような意思も育て上げていき、例えば、70年代後半から80年代初めの英国のパンク、ニューウェイヴのムーヴメントと西ドイツが「共振」し、ノイエ・ドイチェ・ヴェレ(Neue Deutche Welle、"ドイツの新しい波"の意)を作り上げることになったが、ハンマービートが印象的なDAFやノイズ、インダストリアル・サウンドの革新を進めたアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、ジャーマン・エレポップの才人ホルガー・ヒラーなど多種多様なアーティストたちが芽吹き始めた際に、そこでのキーとなった都市はベルリンであった。産業化したロックや形骸化したアートに対しての〈反〉たるアティチュードを掲げるために、オルタナティヴな音楽実験の場の文脈下でベルリンは様々なアーティストたちによって「試された」。廃品置き場から拾ってきた鉄板を使ってのパーカッション作り、地下でのノイズ・パーティー、アヴァンギャルドとしか言いようのない演奏スタイル、兎に角、あらゆる試行がそのまま眼前の現実と連結される形で、文化状況の閉塞を打ち破るような狂騒が静かに渦巻いていった。それは、"Die Geniale Dilletanten"(天才的ディレッタント)と形容もされ、1981年のベルリンの壁近くのポツダム広場のテントではディー・テートリッヒェ・ドーリスのヴォルフガング・ミュラーが主となったイヴェントが催されるなど、ディレッタントがときに帯びるネガティヴな意味を越えて、確実に時代に楔を打ち込んでいった。

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 そして、壁が壊されて20年以上経ち、緩やかにグローバリゼーションが文化の均質を迫る中、ベルリンという辺境は再び「中心」に戻ったのか、というと、そうでもなく、テクノ・ミュージックとアヴァンギャルド・ミュージックの模索が為されるカウンター性を持った都市の意味を近年、更に強めている。今回、紹介するベルリンで結成され、活動するテレボッサ(TELEBOSSA)も"とてもベルリン的な、雰囲気を持ったディレッタントなユニット"と言えるだろう。
 
 テレボッサという如何にもな名前を持ったユニットを担う一人は、ブラジル南部のクリティーバ出身で、ヨーロッパで舞台音楽を中心に活動をするシンガーソングライター、シコ・メロ(CHICO MELLO)。最近でも、彼の84年のエクスペリメンタル・ミニマルの名盤『Agua』が再発され、話題になったのも記憶に新しい。もう一人は、ドイツ出身のチェリストにして、Kapital Band1のメンバーでもある前衛的な音楽家ニコラス・ブスマン(NICHOLAS BUSSMANN)。一部ではカエターノ・ヴェローゾを彷彿とさせるとも言われるシコの歌声は非常に評価が高い。中性的という要素では確かに感じる部分があるが、個人的にマルコス・ヴァーリやセルソ・フォンセカ辺りのスムースな透明感も見える。その彼がボサノヴァを軸にした軽やかな弾き語りをベースに、ときにモンゴルのホーミーといった歌唱までみせ、そこに、ニコラス・ブスマンのドイツの伝統的な室内楽の形式に則ったチェロや、まろやかなエレクトロニクスが絡んでくる。

 本作に収められた7曲では、オリジナル曲以外にも、ブラジル音楽の古典である「Seculo do Progresso」や「Amoroso」等カバーを含んでいるが、比較的、奇を衒わない形におさまっている。それでも、要所でエクスペリメンタルなアレンジが為されており、ブラジル音楽のトラディショナルなセンスとヨーロッパ音楽のクラシカルな深みが「ミニマル」の枠内で絶妙に溶け合い現代的な野心に溢れた面白い内容になっているのは二人の気鋭の現代音楽家の面目躍如と言ったところだろうか。

 この日本での先行発売を経て、5月にはドイツの〈Staubgold〉から世界リリースがされることで、盛り上がりを見せている「ポスト・クラシカル」と呼ばれる音楽の中でも、テレボッサの研ぎ澄まされた美しさは俄然、注目を浴びてくるだろう。ベルリンという"辺境の中心"から生まれてくる音楽にはまだまだ眼が離せない。

(松浦達)

*一部レーベル記述に誤りがありましたので修正しました。【編集部追記】 

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strokes_a.jpg 結論からいうと、とても評価の難しい作品になったと思う。

 先行のシングル「Under Cover Of Darkness」はキュリアスな音響工作とある種、彼らのトレードマークの一つであるシャッフル・ビートのセンスの活きた佳曲だったが、その延長線にあるとは言い難い多彩なサウンド・ヴァリエーションと些かスキゾに引き裂かれた10曲には、これまでよりクリアーでハイファイな録音で、レゲエ、ニューウェーヴ、ポスト・パンク、シンセ・ポップ、レイドバック気味のロックンロール、ハードコアなどが混然と収められている。そして、メンバーの独自色がこれまでよりも色濃くあらわれるようになった。緩急、アップダウンを行き来し、より表情が豊かになったジュリアンのボーカル、実験的なフレーズが増えたアルバートとニックのツイン・ギター、ニューウェーヴ風のニコライのストイックなベース、リズムに対してより厳格になったファブのドラム、と、いつかのガレージ・ロック・リヴァイバルの先陣を切っていたバンドの音とは思えない大胆な舵取りが為されている。

 00年代に入り、ハイファイに振れ気味であったロック・シーンに低熱の「ローファイ」な「倦怠」で切り込んだときの彼らの現れ方は鮮やかでもあったが、佇まいとクールネスとは比して、その後の軌跡は決してスマートとは言い難いものも含まれていた。

 例えば、ベーシックな意味で「ザ・ストロークスの新しさ」とはTHISをITと言い換えるための知性であり、同時にクエスチョン・マーク(?)を投げ掛けたこと(Is This It?)だと推察することもできるが、その「THIS」とは90年代以降のオルタナティヴ・シーンが自家中毒的な状態に陥り、ロック・ポップスの持つ手続きが必要な形式よりも、よりダイレクトな機能を持つヒップホップや先鋭的なR&Bにイニティアティヴを奪われ、エレクトロニカやポスト・ロックといったものが積極的に多くのリスナーの耳の鋭さを鍛え上げ、ダンス・ミュージックがユースのウィークエンドをスイングさせるようになった90年代後半から00年代に差し掛かる状況論ともリンクしていたとしたならば、彼らの「IT?」という一言はニューヨークという場所に根付くアンダーグラウンド性とパンク・スピリット、そして、アート・ロックのシェイプを再定義させるまさしくオルタナティヴ、代案としての美しさがあった。勿論、彼らの"優等生的なガレージ・ロック"にはハイプと紙一重の危うさもあり、様々な毀誉褒貶も纏わることになったものの、セカンドの『Room On Fire』以降、急速に自己対象化とフリーキーなエクスペリメンタルな模索の入り口を潜り、並行して各々ソロ活動が盛んになっていくにつれ、実際、ザ・ストロークスが背負ったシーンからの過剰な役割期待というのは、奇妙な形で分散したような一面もあり、前作からここまでの「5年間の沈黙」と合わせて、どうにも彼らの混沌は「停滞」に近似するのではないか、という周囲の危惧や憂慮によって縛られてしまっていた節もあった。

 09年初頭から入った今作のレコーディングでは、曲作りの難航、ジョー・シカレリをプロデューサーに招いて進めた音源のボツ、バンドとしてのレコーディングにジュリアンが立ち合わない、といった紆余曲折が目立ち、機能不全のままバンドが進んでいる感じさえ受けた人たちも多かったことだろうし、元来、ジュリアンがコントロール・フリーク振りを発揮していた旧来の場所から離れて、アルバート、ニック、ニコライ、ファブといった四人が率先してアイデアを持ち寄り、そこにジュリアンが「参加」する形というこれまでと違う民主主義的連帯の中で各々のイメージやアイデアが詰め込まれた分だけ、より捉え辛いザ・ストロークス像が立ちあがってきてしまった点もあるかもしれない。

 なお、歌詞世界はビートニクのようなものから、形式的にラブソングと言えるものや"We"(異性や人間関係のメタファーと言えるだろうか)を象徴として含んだものまでシンプルながら多重のイメージを喚起させる。軍隊に入る男が、様々な人間関係に別れを告げなければいけない切なさを含んだ「Under Cover Of Darkness」を筆頭に、《Living in an empty world(からっぽの世界で生きているんだ)》(「Games」)、《Waiting time is to blame(非難を負うべき時間を待っている)》(「Call Me Back」)、《We talk about ourselves in hell to forget the love we never felt(僕たちが決して感じたことのない愛を忘れるために 地獄で僕たちは僕たち自身について話そう)》(「Life Is Simple In The Moonlight」)など不全や内省にこんがらがっている感じのフレーズの断片が特に刺さってくる。

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 現今、チルウェイヴ/グロファイの波は緩やかにまだ続き、USインディーシーンの対岸では「正統なるアメリカーナ音楽」が亡霊のように浮かび上がってきている折、ディセンバリスツが改めて発見されたり、アリエル・ピンクみたく未来に回帰するための過去に進んだノスタルジックな音がオンになり、ローファイがじわじわと染み入る中、この表層を滑ってゆくようなサウンドの呈示は分が悪いかもしれなく、カーズ、ポリス辺りに繋がる80年代風のサウンド・メイクにも是非が問われるところだとは思う。

 それでも―。僕はこの作品に距離を置く気持ちにならないでいるのは、これまでの一挙手一投足に過大なバイアスと熱狂が常に付き纏っていた彼らがもっとフラットに愛すべきロック・バンドになったという文脈に準拠する。そして、何よりライヴで例えば、「Hard To Explain」や「Last Nite」などの旧曲とともに、これらの曲が混じってくることを考えると、自然と昂揚するものがあるというのが大きい。

『Angles』とは、2011年のザ・ストロークスの純然たる新しいフェイズというよりも、手探りのままで過程をなぞる作品の意味を抜け、あくまで"バンドとして"続いてゆくための未来への橋渡しをする大事なものになったのではないか、という気がする。

《Trying to find the perfect life(完璧な生き方を探すために挑んでいるんだよ)》(「Metabolism」)

(松浦達)

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salyusalyu.jpg 3.11の影響でリリース日が遅れたのもあるが、後出しジャンケンになってしまった感は否めないので、好き勝手に書かせてもらおうと思います。Salyu本人が(それまでほとんど放置状態だった)ツイッターで夜中にアナウンスした途端、すさまじいバズを巻き起こした新プロジェクト、その名もSalyu×Salyu(サリュ・バイ・サリュ)。本人いわく、2年以上前から水面下で動いていたプロジェクトらしいが、あのコーネリアス=小山田圭吾が全面プロデュースということで、今まで彼女の存在を無視してきた音楽評論家やメディアが、手のひらを返したように人物像や過去作品を調べていましたね。おせーんだよ。

 振り返れば、2010年のSalyuはリミッターが外れたように働きまくっていた。まず、小林武史の黄金律をスロットル全開にした名曲「新しいYES」と、3年ぶりのオリジナル・アルバム『MAIDEN VOYAGE』のリリース。夏には鮮やかなポップ・シフトを見せた新曲「Life」で大衆音楽に接近し、フル・バンドまたはコンボ編成による2度の全国ツアーをやり遂げ、夏フェスをはじめとする様々なイベントへ出演。七尾旅人やMiss Mondayの作品へのゲスト参加、バラエティー番組を含む多数のメディア露出、そして、いまだにカルト的信者を多く持つリリィ・シュシュを新曲と共に"再生"させ、中野サンプラザにて一夜限りのコンサートを開催。あまりのワーカホリックぶりに、彼女のベクトルが一体どこに向かっているのか理解できなかったほどだ。

 しかし、その"神出鬼没"なフットワーク、あるいはアグレッシブな"身体性"は、本作『s(o)un(d)beams』で見事に昇華されたと言えるだろう。かねてから「自分の声は楽器だ」と語ってきたSalyuだが、まさに面目躍如。鍵盤の8鍵すべてを押さえることで生じる不協和音を、人間の声に置き換える「クロッシング・ハーモニー」なる理論に端を発し、Salyu自ら小山田にアプローチを仕掛けたという。ドイツのエレクトロ・バンド、ラリ・プナ(Lali Puna)のカヴァーである「Hostile To Me」を除く全編で小山田が作曲を手がけているが、歌詞を寄せた面々が興味深い。坂本慎太郎(元ゆらゆら帝国)、七尾旅人、国府達矢、いとうせいこう...いずれも曲者ぞろいであるが、国府はSalyuの過去作品でも小林武史とは違った前衛性を常に提示してきた才人なので、相性は文句なし。坂本の予期せずして震災をイメージさせる言葉が並んだと話題の最終曲「続きを」は、すでにアンセムの風格さえ漂わせている。

 小山田の手によって、記号的にカットアップされたSalyuの声たち。4人のSalyuによる輪唱とハンドクラップがピアノとリズミカルに絡む「ただのともだち」を筆頭とし、"航海"をキーワードに『MAIDEN VOYAGE』との連続性を窺わせる「Sailing Days」、プレフューズ73のようなヴォーカル・チョップ手法の「歌いましょう」、トロピカル・テイストにキュートな言葉遊びが映える「奴隷」、クラシック&ボサノヴァ調の「レインブーツで踊りましょう」、スラップ・ベースとヴォーカルの掛け合いがたまらない「Mirror Neurotic」など、収録された楽曲はどれも"声"が主役だが、エクスペリメンタル一辺倒に振り切るのではなく、きわめて楽しげなポップ・ソングに仕上がっているのが特長。"歌いましょう"や"踊りましょう"といった、能動的なアクションを促すタイトルもSalyuには珍しい。"声"にフォーカスした楽曲---というと、やはり『MAIDEN VOYAGE』のラストを飾った「VOYAGE CALL」を思い出す。歌詞こそ存在しないが、伸びやかな高音ヴォイスと溢れんばかりの開放感が押し寄せるあのナンバーは、シンガーとしてのSalyuが別次元のレヴェルに到達してしまったことを何よりも物語っていた。そうして「声の実験」に流れ着いた本作は、またもや初期のファンからは賛否両論だと聞くが、彼女の飽くなき探究心とチャレンジングな姿勢は、メインストリームで活躍する多くのアーティストも見習うべきだ。

 ただ...。いや、もちろん手放しで絶賛できる傑作ではあるが、周囲が大騒ぎするほどの「斬新さ」は感じられなかった。つまり本作は、Salyuにとっての『メダラ』に当たるアルバムなんじゃないかと。これまで何度もビョークからの影響を公言してきた彼女だけに、"声"にフォーカスし、ヒューマン・ビートボックス(Salyuも近年興味を持っているらしい)を大々的に取り入れた『メダラ』は、人間としての表現の可能性/身体性の限界という面でも大きなヒントになったんじゃないかと思う。となると、音のマエストロ=小山田圭吾の立ち位置はマシュー・バーニーか? デビュー当時より「和製ビョーク」と呼ばれ続けてきたSalyuが、もはや本家にも匹敵する(何度も言うが)"身体性"を獲得した『s(o)un(d)beams』は、この稀有な才能における新たな"自我"の目覚めなのである。

<続きを/もっと見たい>。

(上野功平)

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salyusalyu.jpg 声に惹かれて震える。そんな経験があなたにはあっただろうか? 僕にはあった。それがSalyuだった。Salyuが一般的に(世間に知られ始めたという意味で)認知されたのはプロデューサーである小林武史とミスチルの桜井和寿を中心とした「ap bank」の活動資金や融資金を集めるために結成されたバンド「Bank Band」の曲『to U』からだと思う。

 今から十年前のゼロ年代初頭に小林武史の盟友とも言える映像作家・岩井俊二監督作『リリイ・シュシュのすべて』において物語のキーパーソンとしての歌手「リリイ・シュシュ」としてSalyuは世に出る形になった。作中では映画内のプロモーションビデオに現れる形のみだった。三十代半ばから二十代後半の世代は九十年代に思春期を過ごし、今やある種のジャーゴン的な使われ方にすらなって今の二十代前半や下の世代に全く通じなくなったミニシアター系や単館系映画を多感な頃に観た世代にとって映像作家・岩井俊二は非常に影響を受けたクリエイターだったことは言っておきたい。

 その後、Salyu名義として彼女は小林武史プロデュースでデビューする。僕は正直彼女がSalyuとしてデビューしたことを知らなかった。COUNTDOWN JAPAN 04/05でなにげなく彼女のステージを観た。Salyuはまだシングルを二枚ぐらいしか出してなくその次の年に発売される曲になった『彗星』を聴いて僕は虜に、その声に一気に持って行かれた。彼女が「リリイ・シュシュ」だとわかったのは曲数がなくて普通に「リリイ・シュシュ」の曲を歌っていたからだった。

 僕はあまり女性ボーカルに惹かれたりすごく追いかけたりしたことがなかった。ただ『彗星』という曲がきっかけだったが彼女の天性の声に惹かれてしまった。それから彼女のライブやツアーはできるだけ観に行くようになった。当初は新宿ロフトでのスプリットライブ等にも小林武史はキーボードとして必ずいるような感じで彼がsalyuに対しての期待も凄いのだと感じていた。Salyu自体の人気も『to U』以後には確実に出てきたのだけどファーストアルバムツアーの後のアコースティックツアーの辺りから少しずつだが人気が出ているのを肌に感じるようにはなっていた。Bank Band『to U』の前から彼女のツアーのラストではSalyu ver.『to U』で締めていた。小林武史とのクリエイションの中で彼女はさらにボーカリストとしてアーティストとして成長し、自分の考えをいかに表現するかを体現しながら楽曲を発表していく。一度は小林以外のプロデューサーと組んだりしながらも去年の終わりには『リリイ・シュシュ』プロジェクトが再始動もしたりしている。

 Salyuとしてではなく自らをププロデュースする形でのsalyu×salyuとして音楽プロデューサーにコーネリアスを、作詞には元ゆらゆら帝国の坂本慎太郎に七尾旅人にいとうせいこうという布陣でリリースされるのが、すいません前フリが長過ぎましたがSalyu×Salyu『s(o)un(d)beams』 という新しいアルバムです。

 Salyuの公式サイトでのコーネリアスとの対談インタビューによるとこのプロジェクト自体は二年以上前から始まっていた。Salyuが4年くらい前に出会った"クロッシング・ハーモニー"に感銘を受けた事が始まっているそうだ。一曲のカバー曲以外はコーネリアスが曲を。この二人が組むと声と音がこんなにも実験的でありながらもポップでしかもSalyuの声が非常に意識的に声の強さを出す事に成功している。引き出せているように聴いていて感じる。Salyuの声を「日本のビョーク」というミュージシャンの人もいるぐらいなのだが、コーネリアスの楽曲と自身の声に非常に意識して展開させたこのアルバムはその発言に頷けるものとなっていると思う。小林武史というプロデューサーに見出され世に出たSalyuは自らをプロデュースしたSalyu×Salyuプロジェクトは彼女を新しい次元にステップに見事に立たせたのだと思う。このプロジェクトは続けて欲しいし、小林武史とまたsalyuとしての楽曲作りにも期待が高まる。

 一曲目『ただのともだち』(詞・坂本慎太郎)、六曲目『奴隷』(詞・坂本慎太郎)、七曲目『レインブーツで踊りましょう』(詞・七尾旅人)、九曲目『Mirror Neurotic』(詞・いとうせいこう)がオススメな楽曲ですが、トータルの楽曲をコーネリアスがしているのでアルバムとしての完成度も非常に高いものになっています。

 これをライブでぜひ観たいと思うそんな素晴らしいアルバムです。

(碇本学)

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human_league.jpg イアン・クレイグ・マーシュとマーティン・ウェアという二人のコンピューター技師と、当時整形外科病院に働いていたフィル・オーキーの3人で始まったヒューマン・リーグ。それが1977年のことだから、今年で34年目になるわけだけど、変わってない。なんというか、「ヒューマン・リーグ」という言葉を聞いて思い浮かべる音がそのまんま鳴っている。確かに、昔の美しい姿と厚化粧はもうない。フィル・オーキーは海老蔵みたいな丸坊主になっているし、スーザンとジョアンヌも若作りに勤しんでいるおばさんに見えなくもない。でも、『Credo』にはあの声がある。フィルの女を口説くような歌声と、お世辞にも上手とは言えない女性コーラス。それだけで僕は、『Credo』というアルバムを好きにならずにはいられない。

 内容としては、これぞヒューマン・リーグというエレ・ポップが詰まったものとなっている。既に数多くのリミックスが作られている「Night People」や「Never Let Me Go」も良いが、個人的にはTB-303風の音が鳴っているアシッド・ディスコ・ソング「Electric Shock」が最高だ。初期のような実験的エレ・ポップもありながら、ここまでアグレッシヴなアルバムを作ってくるとは、正直想像できなかった。前述したように、34年目になる大ベテランがここまでエネルギーに溢れているとは...。やはりそれは、自分達がエレ・ポップの先駆者であるという自信が源になっているのだと思う。自分達のキャリアに誇りを持ち、それをまざまざと見せつけてくるような迫力がある。

 ヒューマン・リーグというのは、一種の芸だ。クラフトワークもそうだけど、ステージに4人立っている姿も含めてクラフトワークなのであって、ヒューマン・リーグもフィルだけでは駄目なのだ。横には必ず微妙な踊りをするスーザンとジョアンヌが必要で、その踊りすらもヒューマン・リーグたらしめているのだ。そうしたヴィジュアルも音楽としたコンセプトは今も見受けられるし、それは現在もヒューマン・リーグという芸は有効であることを証明している。もっと言えば、今あるすべてのポップ・ミュージックは、ヒューマン・リーグの影響下にあるということだ。だからこそ、昔から変わらないヒューマン・リーグの『Credo(信条)』が、ここまで心に響くのかも知れない。そして、キャッチーなエレ・ポップとコンセプトを貫き通す力強さと度胸があるヒューマン・リーグ。そんなヒューマン・リーグが、僕は大好きだ。

(近藤真弥)

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bertoia.jpg 2007年の結成から3年経って発表されたベルトイア(Bertoia)のデビューアルバム『Modern Synthesis』は極めて正しく「シューゲイザ―」と呼称されるそのジャンルの歴史を踏まえた上で作られている。ここにはラッシュがあり、マイ・ブラッディー・バレンタインがあり、ペイル・セインツがあり、ギャラクシー500があり、スロウダイブがあり、チャプターハウスがあり...とその音楽的記憶が豊かに反映され、我々が「シューゲイザ―」という言葉を聴いた時に存在していて欲しい旋律、アレンジ、ハーモニーが存在している。これらが美しく折り重なるよう緻密な配慮が行き届いた音像が、豊潤なハーモニーを生み出している。無論、これは予想通りのものがそこにあると言う意味ではなく、むしろこうあって欲しいという集合的無意識が見る夢がその音像に奇跡的に反映されているということだ。

 昨今の欧米のポップミュージックシーンにおいてシューゲイザ―の影響下におかれたバンドが乱立していることは周知の通りだ。最近ではアソビ・セクス、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートなどのアクトが素晴らしい作品を上梓したが、多くのシューゲイズ・バンドにマンネリ感が漂っていることは否めず、個人的には去年の暮あたりから食傷気味であった。そんなときに届けられたのがこのベルトイアである。シューゲイザ―という歴史が堆積させてきたデータベースから抽出してきたそのファクターを巧みに配置させ作り上げられたそのサウンドは先ほども述べたように由緒正しいシューゲイザ―であり、それは僕を食傷気味にさせるどころか、その出会いを心から喜ばしく思うような作品であった。

 その理由はなんだろうか。まず確認しておきたいのは多くのシューゲイズサウンドが逃避主義的と言われる理由はそれが「ここではないどこか」という超越性を志向し、リスナーをその次元にトリップさせるという力学が働いているからである。それに対して、ベルトイアのシューゲイズはそのような「外在する超越性」ではなく、日常のワンシーンに思いがけなく、物静かに刻み込まれているような「内在する超越性」にリスナーを「気付かせる」働きを持っているように思える。これがベルトイアが多くのシューゲイズバンドとの間に横たわっている大きな差異である。ベルトイアの音楽がいつだってどこか優しく寄り添っていてくれるようなサウンドであるのはそのおかげである。

 ここで少しその「超越性」=「理想」という言葉について纏めてみる。プラトンにおいては「本来の世界」であるイデア界はその不完全な写しである現象界よりも上位に位置している。つまり我々が知覚している現象界にとって本来の世界であるイデア界は「ここではないどこか」に存在しており、この2つの関係はイデア界が「上」、現象界が「下」の上下の関係として捉える事ができる。しかし、これでは近代科学を考えることはできないと考えたデカルトは「理想」を上ではなく、「私」という存在の「内」に「観念」として読み変え、それは完全な存在としてあるとした(上下から内外へ)。だが、その「観念」は不完全な「私」から生み出されたものなので必然的に完全な存在の観念を産めないのである。「私の意識のうちにあるものは、いわば、ものの像であって、これにのみ、本来、観念という名は当てはまる」という『省察』内での彼の言葉はそのように受け止められるべきである。彼にとって「内」は「精神」であり、「外」は「物体」であるとされ、その2つを繋げることによって近代科学を成立させるという夢を持っていた。

 このように「理想」が「観念」に変化したものの、それはなお、「理想」を維持し続けている。であるから、僕らがベルトイアの音楽を聴いてその時に内在する己の「理想」を日常になんらかの形で投影することも可能ではないだろうか。

 話を変えて、もう少しその音楽性について見てゆこう。前述したようにここにあるのはあまりにも優秀なシューゲイズサウンドだ。だが、それを説明しただけでは彼らの音楽性を描写したことにはならない。なぜならヴォーカル&ギターを担当しているmurmurはギターポップ・ソロユニットmurmur、打ち込みや音響を担当している根岸たくみはフォークトロニカ・ユニット、swimmingpoo1としても活動しており、この2人の音楽性がこのアルバムに置いてスパイスとして効いており、それがベルトイアの独自性をより確固たるものにしている。

 murmurのメロディセンスはシューゲイザ―を聴いているだけでは培えないものであり、そこには彼女が影響として挙げているようなトッド・ラングレンや、デスキャブ・フォー・キューティーなどが―無論、直接的な影響としては感じられないが―遠く反響しているのかもしれない。ソロユニットmurmurは参照点は数多くあるが、何よりも思わず渋谷系を想起してしまう爽やかな音楽を奏でていて、時折見せるそよ風のような安らぎがベルトイアに物静かな気品をもたらしている。そして、ベルトイアにおける音響、音のレイヤーの構築の秀逸さは根岸たくみによるところが大きいのではないだろうか。彼のswimmingpoo1(日本のボーズ・オブ・カナダとつい言いたくなってしまう素晴らしいユニット)における世界観が直接反映されているわけではないものの、その躁にも鬱にも振り切れない独特のドリーミングな音像はこのベルトイアにも盛り込まれているのは確かだ。また、ベースの歌うようなラインはややもするとギターノイズばかりが先行し、単調になってしまうシューゲイズサウンドに彩りをもたらしているし、ドラムの安定感はしっかりとベルトイアの世界観を底から支えている。このリズム隊あってこそのベルトイアであろう。そして、個人的にはギターにはいたく感動させられた。いわゆるシューゲイズ的なギターサウンドだけではなく、時にダイナソーJr.における掻き毟るような切ないギターが鳴り響く瞬間があり、これには驚かされた。

 少々語り過ぎてしまったが、まだまだ彼らの魅力を伝えきれた気がしない。いくら言葉を紡いでも追いつくことは無いだろう。彼らが産声を上げる瞬間を目の当たりにできたことを心から嬉しく思う。彼らはシューゲイザ―のネクストステージだ。

(八木皓平)

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dodos.jpg 並外れたテクニックで1曲1曲に膨大な量の情報を詰め込み、その一方で耳にすんなりしみこむメロディが鳴っている。混沌と素朴の同居――00年代中期より活動しているフォーク・デュオ、ザ・ドードースの魅力はそこにあると僕は感じている。

 その点において、08年の2nd『Visiter』で彼らはひとつの頂点を極めた。だが、翌年早くもリリースされた『Time To Die』で失速。ザ・シンズやバンド・オブ・ホーセズを手がけたフィル・エクをプロデューサーに迎え、聴きやすさとメロディを徹底的に磨き上げ、ヴィブラフォン奏者をメンバーに加えて音の厚みを増してみたものの、お行儀良く型にはまったサウンドは彼らの魅力を殺してしまっていた。
 
 それから3年。スタジオセッションを繰り返し、『Visiter』のプロデューサー(ジョン・アスキュー)と再びタッグを組み、ニーコ・ケースがコーラスで前面参加した『No Color』は快哉を叫ぶべき作品となった。

 叩きつけるような力強さで刻む西アフリカ風のビートが徐々に加速していくオープニングの「Black Night」から一部の隙もないアルバムの完成度が伺える。ニーコのコーラスと流麗なヴァイオリンが彩りを添える「Sleep」や、アンセミックなリフを備えた「Don't Try And Hide It」など、続くトラックも充実している。この2人には洗練なんかいらない。生のダイナミズムが必要だったのだ。『Time To Die』を経て辿り着いたこの作品でしみじみそう思う。シーンなんか気にせず、スタイルを貫いて欲しい。彼らが拠点とするサンフランシスコは、グレイトフル・デッドの時代からガールズが活躍する現在まで、独自のスタンスを持つバンドを育んできた地なのだから。

(角田仁志)

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led.jpg 日本のインストミュージックの流れそのものを修正する気概に溢れた、圧倒的に想像力豊かでエモーショナルな音。2000年に結成された7人組のインストバンド、L.E.D.のセカンドアルバムは規格外の唯一無二っぷり。エレクトロニカ、アンビエントからジャズ、ファンク、ヒップホップまで様々な要素を追い求め、独自のフィルターを通して再構築、オリジナルな位置に辿り着いている。インストバンドだから歌詞はない(今作には原田郁子をフィーチャーしたバンド初のヴォーカルトラックがあるんだけど、これが本当に素晴らしい!!!)けど、バンドが今どういう感情なのか、それをどういう音にして、そこからL.E.D.の世界観をどう表すのか、という彼らの集中力からは強いポジティビティーを感じる。

 世間一般にメッセージ性の強いロックが上で、インストミュージックが低く見られることが多いけど、フォーマットではなく、聴き方が重要なんだと思う。あらゆる要素を飲み込んで、ステイタスのあるものをドレスダウンさせる。彼らの音楽に和やかさだけではないエッジがあるのはその為。

(粂田直子)

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mew.jpg とにかくミューというバンドは何て器用なんだろう。今までに5枚のアルバムをリリースし(日本ではサード以降の3枚)、メンバー脱退もありながら徐々にまた順調に成長してきたミュー。14年間の総括となる。これは一つの区切りでもあるだろう。常に違う色のアルバムを出してきた彼らだが、これがまたよく上手くまとめられている。4枚目のアルバムだけは全体が繋がっている為あまり選曲に入っていないものの、フォースはそれだけで素晴らしいので併せて聴いてほしい(今作では別れて入っているのが惜しい!)。それ以外の部分となると、このアルバムに顕著な通り実験性の強いポップ・バンドであり、個々それぞれが主役になれるバンドだ。日本未発表と新曲で3曲また新しいミューが聴ける上、これまでの曲たちもまるでライヴを体験しているかのように、セットリストとあまり変わらないセレクトが成されている。これだけで一つのアルバムとしての完成度が非常に高いという点は、驚かされるばかりだ。新曲は「イントロデューシング・パレス・プレイヤーズ」に近いギターの効いた曲に仕上がっている。最初に「アム・アイ・ライ?・ノー」、最後に「コンフォーティング・サウンズ」というところも、ミューの原点が『フレンジャーズ』にあることを感じさせられた。

 一方DVDの方はというと、これはこれで幼い頃の古い貴重な映像や手の込んだ最近の映像まで、お気に入りの黒い服装で存分に楽しめる一品。動物好きな彼らならではの見所もあればアニメに強い彼らの見所もある。国内盤のみでリリースされた曲もあり、また「パンダ」や「ミカ」などの映像はここでしか見られないだろう。総括的に言えばこれも一つの軌跡である。例えばデンマークでベスト・シンガー賞を受賞した直後に作ったヴィデオが「ザ・ズーキーパーズ・ボーイ」。シンガーとして、バンドとしての一面を前面に出している。顔をフィーチャーしたフォース・アルバムからは「ホワイ・アー・ユー・ルッキング・グレイヴ?」が収録。表情から見て取れる彼らがわかるだろう。そんな風にベスト盤CDもDVDも付いた大きな作品。ここからまた次の彼らが待っている。

(吉川裕里子)