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british_sea_power.jpg 断言しよう。いまのところ2011年に、この作品に匹敵する傑作はリリースされていない。何かの呪縛から逃れたあとのようなサウンドの自由なフィーリングも、矢面に立たされながらでも、ときには疑心暗鬼になりながらでも、自分の感情を正直に吐露したリリックも、「Living is so easy」での《全部簡単だっていうけどさ...》なんていう諦めも、すべてがあまりに素晴らしい。多くの現代に生きる「オールライトじゃない」人たちは、この作品を聴いて身震いするか、あるいは哀しみとも喜びとも表現できないような涙を流すに違いない。たとえば「We Are Sound」では《僕らこそがサウンドだ。僕らこそが光なんだ。真っ暗闇の夜に入っていこう。》と歌われている。こんな力強い彼らの宣言に、喝采を挙げずにはいられないだろう。最近までイギリスではバンドが立たされている状況は悪化の一途を辿っていて、もはやチャートの上位に入る希望など持てるわけがなかった。もちろん、「バンド」という形態以外でも素晴らしい音楽はいくらでもあるし、現実に「ノー!」を突きつけることだけが良いというわけでもない。ただ、そんな状況で、非現実の世界に想いを馳せたり、自分たちの音楽をいまのトレンドにすり寄せたりすることは一切せずに、ファンが待ち望んでいた姿で彼らは見事にシーンに戻ってきてくれた。
 
 前作のチャート・アクションは散々たるものだった。それでも彼らはけっして希望を捨てようとはしないし、「誰がコントロールされているのかは分からないけれど、どっちでもいいなんて、言わないでくれ!」と叫ぶ。マニックスの最新作が出たときのクッキーシーンのインタビューでも、ジェームスは「すべてに醒めて嘲笑うような風潮に憤りを感じる。」と話していた。さらに印象的だったのはポール・ウェラーが「いまの若者は立ち上がって闘うべきだ。」と言ったことに対して、フランキー・アンド・ザ・ハートストリングスのメンバーが「そんなこと言ってるから、ポール・ウェラーは若者とコネクトできないんだ。」と某誌のインタビューで話していたこと。もちろんこれでBSPがポール・ウェラー側だ、とか、フランキーはけしからんとか(実際にわたしは彼らのアルバム・レヴューも書いている。大好きだし。)いうつもりは毛頭ない。あるいはそこまで現実は単純ではないのかもしれない。だからこそ、このアルバムは《僕たちは見当違いのところにいる》というフレーズがある「Heavy Water」という曲で締めくくられる。そして忘れてはならないのが、同曲で唯一の救いが「君」だということ。《今度また君に会えたらどんなにうれしいだろう 水が激しく落ちてくるのを見たかい? 加重超過の空から 天国から そして君の瞳から》。世界と対峙した先にあるのは、いつも2人をつなぐ愛だ。

(長畑宏明)

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one_am_radio.jpg インド系アメリカ人のリシケシュ・ヒアウェイによるプロジェクト、ワン・エーエム・レディオ(The One AM Radio)による07年の彼自身三作目となる『This Too Will Pass』は物哀しいレコードだった。燃えたぎる家屋を背景に「これもまた過ぎ去るだろう」と無執着を宣言したジャケット。内省的なラップトップ・フォークはストリングスやホーンと絡みながら美しく淡々と綴られる。真夜中に古ぼけた蓄音機から流れてくる冷静ながらもやりきれない独白を耳にするような、不思議な感覚にとらわれていく。"午前一時のラジオ"という名のとおり、これまでの彼はさしずめ夜の使者だった。

 それから4年の月日を経て届けられた最新作『Heaven Is Attached By A Slender Thread』が声も失うほどすばらしい。みずからの可能性を決めつけなかったリシケシュは、この作品において自分の持ち味を殺すことなく、大きく息を吸いながら真の自由を獲得したようだ。

 前作がニック・ドレイクの系譜に連なるSSW然としたものだとすると、本作の肝は奔放なビート・メイキングにある。ミニマルな躍動感が楽曲に陽性の生命力をもたらしている。これはそれまでライブのサポート担当だったメンバーを正式に加入して"バンド"として生まれ変わったこと、そして名プロデューサーであるトニー・ホッファーの貢献が大だろう。トニーの辣腕ぶりは挙げていくとキリがないので彼のページを参照していただくとして、ベルセバの近作やベックからフェニックス、ジャック・ペニャーテ、果てはフィッシャースプーナーまで、関連作品のいずれにも通じるのは(各アーティストのキャラを活かしつつの)独特のリズム構成と音の抜けのよさ。この作品でもドラム・マシーンの一音一音が気持ちよくビシバシ決まって、中毒性たるや半端ない。またゲストとして、昨年おおいに話題をさらった小デブでナードな革命児バス(Baths)と、同じくアンチコン所属のエイリアスがイイ仕事を聴かせ、さらにデヴィックス(Devics)のヴォーカルであるサラ・ラヴも可憐な歌声で華を添えている(余談だけど、デヴィックスの『The Stars Of Saint Andrea』や『Push The Heart』も夜に聴きたくなるダークで気だるいレコードだ。マジー・スター好きは必聴。昔、本当にお世話になりました...)。

 かといって、ヤケッパチのごとくバカ騒ぎするような作品では決してなく、本来の持ち味だったジェントルな憂鬱ぶりは健在だ。彼独自のメランコリックでひねくれた旋律はここでも冴えわたり、アンビエンタルな音づくりにストリングスもうまい具合に配置されているし、リシケシュの歌声も変わらず柔らかい。気高さを保ったまま甘酸っぱいポップな大衆性を獲得したこの作品を2010年代仕様のAORとも位置づけられるし、昨今のトロピカル風味なバンドの愛好者や、辛抱強くポスタル・サーヴィスの新作を待ち望んでいるような人たちにもきっと歓迎されるだろう(日本盤のボーナス・トラックには"片割れ"のディンテルと、Boy In Staticによるリミックスも収録)。

 活動拠点であるロサンジェルスの空虚な夜をテーマにしたという本作には、幾多のドラマとともに希望と絶望のムードがそれぞれ同居している。讃美歌のような冒頭のエレポップ「Sunrise」では再起の象徴である朝日が登るのを待つひとについてうたわれているが、この曲を題材にした写真コンテストも開催中で、投稿作をズラっと眺めることができる。こうして太陽の写真を連続して見つめていると、月並みすぎるが明けない夜はないのだと考えずにはいられない。マルチネ・レコーズによる『MP3 Killed The CD Star?』には「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」なんて曲が収録されているが、このアルバムも音や境遇や主義主張は違えど、同じ視座に立っているように思える。

(小熊俊哉)

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we_are_enfant_terrible.jpg 皆さんつまみフェチですか? 唐突で申し訳ないですが、僕はつまみフェチです。例えば、TB-303という機材をいじっているとき。レゾナンスをかけて音をビキビキさせていくときの高揚感はたまりません。それからDJをやるときも、デリック・メイになりきりEQを大胆に使って音を変化させるのも大好き。ジェフ・ミルズのように繊細なタッチで微調整していくのもストイックでカッコいいけど、僕はつまみをひねった瞬間にエフェクトがかかって、お客さんが「ウォー!」と歓声を上げる場面を見ると、どうしてもニンマリしてしまう。つまみだけじゃなく、楽器に触れたことがある人なら誰もが経験しているあの興奮。適当にギターを弾いていたら、偶然カッコいいリフが弾けて「俺天才!」みたいな。これを「初期衝動」という人もいるけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルのデビューアルバム『Explicit Pictures』には、そんな瑞々しい姿が刻まれている。

「我々は恐るべき子供」と名乗るこのフランス発の3ピースバンドは、ガレージや8ビットにニュー・エレクトロ、引き合いに出せるバンドとしては、ザ・ラプチャーやヤー・ヤー・ヤーズだろうか? そしてその名の通り、ウィー・アー・エンファント・テリブルが出す音は子供じみている。もちろんこれは褒め言葉だ。人にもよるだろうけど、子供というのは基本的に暴れたくて仕方がないものだ。それは「大人になる」という過程で植えつけられる抑圧などが行き届いていないからだと思うけど、このバンドはかなり奔放な存在感を放っている。ライブではゲームボーイを使って生演奏してみたり、ドラムにいたっては座って演奏することがほとんどない。抑え切れない衝動に突き動かされるように、だんだん腰が浮いていく様子は観ていて笑えたし、なぜか痛快ですらあった。

『Explicit Pictures』の前には3枚のEPがリリースされているが、『Explicit Pictures』とEP群に大きな変化の差はない。まあ、多少は幅広さが備わっているが、ジャンクな感覚で好きなことを混ぜ合わせたごった煮ロックである。正直、演奏が上手いわけでもないし、フランスといえばフェニックスを思い浮かべる人もいるだろうけど、彼等と違ってウィー・アー・エンファント・テリブルは、野蛮でスマートとは言えない。じゃあ、ウィー・アー・エンファント・テリブルの魅力は何なのかというと、それはアティチュードとしてのロックンロールをやっていることだ。

 音としては、「ロックンロール」と聞いて大半の人が思い浮かべるような、ギターがガンガン鳴っているようなものではない。しかし、「楽しいからやっている」という感覚と共に、意味がないようでいて皮肉が効いている歌詞(特に「Filthy Love」は意外とキツい内容に思える)から覗かせる鋭い視点は、現代の本質を射抜くかのようだ。僕にとってのロックンロールは意識的か否かは問わず、いかに時代を見抜いているかが重要だったりするけど、ウィー・アー・エンファント・テリブルは、現代の本質に近いところで音を鳴らしているのは確かだと思う。

 一聴した感じはチャカポコとしたヘンテコな音だが、騙されてはいけない。彼らにとってのファーストアルバム『Explicit Pictures』には、恐るべき子供の本性が隠されている。

(近藤真弥)

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sunahara_l.jpg 実に01年の『LOVEBEAT』から10年近く経ち、新作『liminal』が届けられることになった。ほぼ10年振りといっても、その間にも07年のベスト『WORK'95-'05』、09年の『No Boys,No Cry』のサントラ、昨年のいしわたり淳治とやくしまるえつことの「神様のいうとおり」もあり、また、agraphの『equal』のマスタリング、コーネリアス『Fantasma』のリマスターを請け負うなど、作り手としての側面以外でもエンジニアとしても彼特有の「音の手触り」には接する機会は近年、ますます増えていたためか、「不在感」はなく、寧ろ、その粒立った電子音と行き交う空間の位相へのオリジナルな視点はより評価は高まっていたと言っても過言ではないだろう。

 取り分け、『LOVEBEAT』が孕んでいた削ぎ落とされた引きの美学とでもいえる音響の美しさと、それを支える屈強な意志と余計なロマンティシズムやエスケーピズムを介入させない強い「音のメッセージ性」は孤高で、いまだ有効であり、色褪せることもなかった。この10年、どこかで常に鳴っていた音のような気もするからだ。

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 振り返るに、今回のアルバムの先行EPでありながらも、全く違った意味を持つことになってしまった「subliminal」における表題曲のPVで社会への警鐘を鳴らすようなメッセージ群やフレーズがカット・アップされ、そこに鋭角的なビートが挟んでくる展開にはマシュー・ハーバートがときに表象するような怜悧な反抗を感じさせるとともに、マーシャル・マクルーハンが流布したような警句とは距離を置き、「メディア」は決して「メッセージではない」、という受け手側の身体性への作用に関して自覚的になっているのが伺えた。マクルーハンが指すメディアは一概にテレビや書物やネットといったものばかりではなく、もっと広汎な装置的な意味を孕む。そうなると、音楽だってメディア「概念」を帯びてくる。その「概念」に意識裡ではないアーティストは無規則な内容面での懐疑より、メタ・ポーズ内での意味への構え、理論武装への解除意識に躍起になってしまう転倒が起きる可能性が出てくる。つまり、社会的に再編成・組み入れられたシステムとしてのメディアのレベルの度を考えると、個の個たる発言も巨大な発言力を持つ機関のステイトメントも均質に「形式化」(形骸化ではなく)されてしまった結果、その波及の幅より原基的な言語自体の作用/非作用に対して"降りてゆく"ことになるからだ。そこでは、クルト・レヴィンやクルト・コフカの残影やゲシュタルト(Gestalt)がアフォードされるだけの可能性を帯びる。今、何かに対して「NO」を言うためには、どこまで「YES」の周辺への思考的な文脈を冷徹に敷けるのか、が問題になってくる。

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 では、「メッセージはメディアに孕まれない」―そんな反転を突き抜けるような作品として『liminal』が孕んだアブストラクトなささくれは、"『LOVEBEAT』以降の沈黙の先に、更に沈黙が残っていた"途中経過を示しているような気もしてくる。幾らソリッドに音をシェイプ、デザイニングしていっても、行間から立ちのぼるメロウネスも彼の魅力だったが、今作に至ってはそういった要素もほぼ排除されており、よりクリアーにハイファイに組み上げられた音の設計図の中で具体的なメロディーやフックのある何かは聴こえ辛くなっており、どことなくダークなトーンが引き延ばされている。しかし、取っ付き難く、分かり辛いという訳でなく、PoleやDeadbeat辺りのジャーマン・エレクトロニカとの相似も感じさせる暗みも感じるし、テックハウス、クリックへの近接も見える。

 前半2曲は、『LOVEBEAT』からの地続きの印象も受けるが、マシン・ビートに不穏なノイズが混じってくる鋭さを持つ3曲目の「Natural」、オブセッシヴな電子音がミニマルに刻まれる4曲目の「Bluelight」、アブストラクトなサウンドが展開される5曲目の「Boiling Point」の流れは今作の肝と言ってもいいだろう電子音が饒舌に現代の景色を縁取るという視角の「新しさ」がある。

 8曲で40分にも満たないというと、奇遇にもレディオヘッドの最新作『The King Of Limbs』とのシンクロも感じさせるが(実際、音響工作の緻密さ・精度で言うと、似ている箇所もある)、あの作品が「語らないことを、語る」意味を孕んでいたとしたら、これは「語るべきことを、語らないでいる」"含み"から滲み出る空間によって、聴き手・受容サイドの判断/認識の留保や前段階を揺さぶり、刺激する。そして、これまでも彼の推進力となっていたストイシズムと美学が、根に宿るパンク精神によって押し出された形で、シリアスな表情が極まった結果、2011年という年におけるビート・ミュージックの一つのメルクマールとして必ず通奏低音になってくるだろう重みを感じ取ることができる。

 インタビューでは、既に「次を作りたいという気持ちが強い。」という言葉を残しているように、この作品の8曲で見渡せる全体像よりも、まだ総てが途中であるという行方の果てが個人的に既に気になってもくる。人間がギリギリ知覚出来るという領域という"liminal"という言葉そのものが示すとおり、ここには喜怒哀楽であったり、感情の機微というものを人間が名称化する前の、または、社会の装置性や要請によって名称化させられてしまう前の、形容できない靄が纏わりつくような情動の何かに向けてフォーカスがあたっている音像のせいか、聴いた人たちがこの作品越しに光が見えるにせよ、暗闇が見えるにせよ、それ自体も感覚のエラーなのかもしれないし、何らかの作為によって成り立っていることなのかもしれない、と"自分の中の何かに名前がつくことで、落ち着いてしまう領域"から逃れさせる。

 だからこそ、逃れた先として、ここからまた始まってゆく言葉や感情があるなら、まだ音楽と呼ばれるものにも未来があるような気もする。

(松浦達)

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noah.jpg 08年の1st『Peaceful,The World Lays Me Down』は、レディオヘッドの『Pablo Honey』のようなものじゃないか、としみじみ思う。

 デビューから間もないころのノア・アンド・ザ・ホエールはUKアンタイ・フォークの中心としてメディアにかつぎ上げられた。しかし、バンドの中心人物チャーリー・フィンクは恋人ローラ・マーリングとの別れで悲しみの底へ深く沈みこむ。傷心の結果作られたのが、09年の2nd『First Days Of Spring』だ。そこで鳴らされていたのは力なき独白と洗練されたメロディ。以前の面影を一切残さない音楽性の変化と格段のクオリティの向上にただただ驚いた。

 その後、絶望の向こうに彼らは何を描くことが出来るのか? その答えがこのアルバムだ。『地球最後の夜』――。SF映画を思わせる仰々しいタイトルだが、このアルバムのテーマは何度も繰り返される「LIFE」。前作とは打って変わりはつらつとした歌声と、気高いゴスペルのコーラス、エレクトロやグロッケンシュピールにヴァイオリンなどを導入し清涼感のあるサウンド、ロックを取り込み獲得したダイナミズムと力強さ・・・。フォークバンドだったころの面影は微塵もない。リスナーが感じるのは、たくましい生命力だ。このアルバムの制作に当たって影響を受けたとチャーリー・フィンクが公言するのは、トム・ウェイツやトム・ペティ、ジェネシスなど。複雑ながら独自のスタンスで生き抜いてきた先達の音楽に触れ、チャーリーが選んだのは、生きることだったのだろう。

 フジでの初来日が決定したが、今の彼ら以上に、地震で落ち込んでいる日本に生命の息吹を吹き込むのに相応しいアクトはいないはずだ。どのようなステージになるのか、今から楽しみでならない。

(角田仁志)

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lykke_li.jpg リッキ・リーの名前、もしくは声を初めて聞いたのはいつだろうか。私はプライマル・スクリーム『Beautiful Future』の「uptown」「the glory of love」におけるバッキング・ボーカルでその声を初めて聴いた。次はロイクソップ『Junior』での「Miss It So Much」と「Were You Ever Wanted」における客演であった。このように彼女の声に初めて触れたのが本人の音源ではなく、アーティストの客演や、リミックスであったという人は多いのではないだろうか。他にも彼女が客演している曲、リミックスされたものを挙げると、カニエ・ウエスト、N.A.S.A.、サンティゴールドなどと供に「ギフテッド」を収録、TV オン・ザ・レディオの中心人物デイヴ・シーテックは彼女の「I Follow Revers」をリミックスし、「Little Bit」のドレイクによるリミックスなどもある。また、フレンドリー・ファイアーズは彼女の「I'm Good, I'm Gone」をカヴァーしていて、彼女の才能が非常に大きな規模で受け入れられていることがわかる。また、彼女自身、他アーティストの曲のカヴァーもおこなっていて、カヴァー曲にはキングス・オブ・レオン「Knocked Up」、ア・トライブ・コールド・クエスト「Can I Kick It?」、リル・ウェイン「A Milli」、ヴァンパイア・ウィークエンド「Cape Cod Kwassa Kwassa」などがあり、彼女の音楽的関心もまたジャンルレスであることが窺われる。

 そんな彼女は1986年にミュージシャンの親の元に生まれ、世界の様々な場所を転々と引っ越しを繰り返し、越境を繰り返した。ニューヨークに流れ着いた彼女は、そこで2008年にデビューアルバム『Youth Novels』をリリースした。まずは少しだけこのアルバムの音楽性について言及しようと思う。しかしその前にいささか唐突ではあるが、あるギタリストの発言の引用をする。

「彼はミニマリストなんだ。ギターのオーヴァーダブとかドラムスの音をいろいろいじったりすることを嫌う。かつビートにこだわるんだ。それと、ベース。その2つが決まればかなり満足するんだ、俺たち。例えば他のプロデューサーだったら何百と音を入れるようなところに、彼は2つ3つを入れる程度。それが良いんだな。それにユーモアのセンスが最高さ。スウェーデン風の不思議なユーモア、俺たちそれが特に気にいったんだ」

 これはプライマル・スクリームのギタリストであるアンドリュー・イネスが、彼らのアルバム『Beautiful Future』の一部の曲をプロデュースしたビョ―ン・イットリングについて言及したものであり、イネスの言葉はビョ―ンのプロデュースについての特徴を巧みに言い表している。実はリッキ・リーがリリースしてきた2枚のスタジオアルバムも彼のプロデュースであり、イネスによるビョ―ンのプロデューサーとしての特徴についての言及は彼女の2枚の作品においても的を得ている。

『Youth Novels』は清楚でガーリーな、それでいてどこか小悪魔チックなところもある彼女のボーカルがビョ―ン・イットリングによるダンサブルでミニマルなアレンジの上で踊る良盤である。この作品は当時、21歳だった彼女の赤裸々な想いを書き連ねた、まさしく「青春小説」である。しかし、それは思春期特有の甘酸っぱさとはかけ離れており、どこか物寂しげで、時に暗く沈む。

 冒頭で《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》(「Melodies & Desires」)とテルミン、シンセサイザー、ピアノ、アコースティックギターがごく控えめに奏でる陰鬱なサウンドの中、彼女は呟く。アルバムの幕開けとして最適なナンバーであり、この曲がアルバムの雰囲気を完全に決定している。 続く「Dance Dance Dance」はダンサブルなベースが孤独に響き続ける中、「ダンス」という言葉から連想する楽しさなどは微塵も感じられず、誰もいない部屋の中で一人ぼっちでダンスしている彼女の姿を思わず連想してしまう。「Let It Fall」のように失意の中、わずかにドリーミーな瞬間が差し挟まれる曲もあるのだが、その「ドリーミー」はどこか夢想することへの諦念のようなものを含んでいる。60sにおけるガールズ・ポップを彷彿とするナンバー「My love」では彼女が付き合ってきたであろう男性たちに《どこに行ったの?》と問いかけ、《私の愛する人はきっとやってくる》と歌う。「Tonight」では《私の瞳よ、乾いて》と歌い、「Little Bit」では《私はあなたを少しだけ愛してる、あなたが私を少しだけ愛してくれるならね》と歌う。「Everybody But Me」にでは《みんな踊っているけど私は踊らないわ》と自分以外の人間と自分との間に広がる絶望的なまでの差異に戸惑っている。そしてそれほどまでに辛い思いをしてでも彼女は、静かなピアノの音色にか細い、今にも千切れてしまいそうなウィスパリングボイスを優しく乗せ、《私は青春を失いたくない》と「Time Flies」で歌う。

 今回はこのアルバムのレビューではないのでいくつかの曲をざっと紹介するにとどめて置くが、それだけでも十二分に彼女の1stアルバムにおいて基調となっている雰囲気を読みとってもらえたと思う。このアルバムの全てのナンバーが青春は喪失や寂寥感のそれであると囁き続けていた。

 ここで、このレビューで紹介する『Wounded Rhymes』について説明しようと思うのだが、その前に少しだけ彼女がこのアルバムを発売する前に発表されたモーゼズ・バークソンが撮ったショートフィルム『Solarium』について触れなければいけない。なぜなら彼女はこの映画の出演者であり、この映画は『Wounded Rhymes』製作に大きな影響を与えているからである。彼女は失恋、それに加えて度重なるツアーへの疲れから、友人とともにキャメラを携えて砂漠へ向かった。そこにある大きな太陽と鏡が(映画内には多くの鏡が出てくる)、「自分自信のエゴ、思想、期待、取り除くのが困難な様々な想い」を可視化する助けになったらしい。ジャック・ラカンを引くまでもなく、いつの時代も人々は鏡に想像的な己を映し出すのだ。このモノクロームのショートフィルムにおけるリッキ・リーは『Young Novels』において我々が想像したキュートでガーリーな彼女は存在せず、エロティックに体を揺れ動かし、艶めかしく鏡に摺りつけ、なにか怨念めいたものを体中から噴出させている彼女がそこにはいた。そして、この彼女の変化は『Wounded Rhymes』においても継続しているのだ。このアルバムにおいてまず印象的なのは前作におけるセンチメンタルなシンセ・サウンド、ロリータ・ヴォーカルはそのままだが、際立って鼓膜を刺激するのはビョークさえ想起させる野性味溢れるブードゥーでダンサブルなドラムであった。このダークで躍動的なビートが本作におけるトーンを形作っている。

 彼女は前作を《愛はハーモニー 欲望は鍵 愛はメロディー 今、私とともにそれを歌う》という言葉とともに始めたが、彼女はこのアルバムを雄々しく打ち鳴らされるドラムに乗せて《私は若者は知らないと言った 若者は痛みが無いことを知っている》と始めた。ここでも彼女が歌うのは前作と同じ、「若者」についてである。そしてそれは「痛み」についての物語であると彼女は歌う。続く「I Follow Rever」では《海の底まであなたについてゆくわ》と歌い、「Love Out Of Lust」では《あなたの腕で死んだ方がマシ》と歌う。前作よりもラウドで強靭になったビートに比べ、歌詞においては前作よりも相手の男性に依存してゆくようなものが多く見られるのは興味深いところだ。続く「Unrequested Love」ではムードが一転してカントリー風の歌唱が柔らかに爪弾かれるギターとともに緩やかな雰囲気に満たされる。60sのガールズ・ポップ風味のバックコーラスが聴こえるのもムード演出に一役買っている。しかしそこで歌われるのは「報われない恋」についてである。5曲目はリード・シングル「Get Some」。肉体的でダンサブルなビートに乗せてリッキ・リーが言葉にメロディを纏わせず、ぶつきりのまま、その想いをストレートにぶちまけるなんともアグレッシヴなナンバーである。これは村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』に触発されて書かれた曲であることが知られているが、歌詞のほうはかなりダイレクトにイヤラシイことになっている。本人曰く「みんなエロいっていうけど、これはパワーについての曲なのよ!」らしいが、やっぱりどう読んでもこの歌詞はエロい。でも彼女は私のような論者に対しては「女が何かするとすぐに神経質にセックスのことだと言ってくるのよね」と言っているらしい。本当にごめんなさい。両方とも英新聞『ガーディアン』からの引用です。

「Rich Kids Blues」はハモンドオルガンが鳴り響く中、リッキがどこか粘着質な歌唱法で《私は金持ちの坊やたちのブルースを得た あなたには関係ないけどね》と歌う。続く「Sadness Is A Blessing」はこのアルバムのタイトル『Wounded Rhymes』というワードをその歌詞に含む曲であり、フィル・スペクターを彷彿とさせるアレンジがその物悲しい歌詞に静かに優しく寄り添う。この曲は彼女の失恋についての曲である。《毎晩 私はわめきちらし、求め、乞う。彼に行かないでくれと》そして、彼女はここで彼女にとっての「成長」を歌う。《悲しみは祝福 悲しみは真珠 悲しみはボーイフレンド ああ悲しみよ 私はあなたの女よ》。そう、その「成長」とは悲しみを受け入れることであった。1stアルバムから長い道のりを経て彼女はこの答えを見出した。大袈裟な物言いであることは十分に承知しているが、それでも1人の女性として、リッキがこの想いを吐き出したことに僕は静かな感動を覚えた。その答えに辿り着いた彼女は次の曲「I Know Places」でどこか達観したように《私は私たちのゆける場所がわかるの》と静かに、溜め息を吐くように歌い、「Jerome」ではジェロームに向かって《今、あなたは私のもの もう一度私のものになったの 誓いなさい あなたは決して私のもとを離れないと》と、その身勝手な想いのたけを口にする。最終曲「Silent My Song」。彼女はこのアルバムが「痛み」についての物語であるということを1曲目で宣言したと私は書いた。この最後の曲では彼女はやはり「痛み」について歌う。《背中の中に針が入っていて 私の血管と魂を切り開き そのことが私をリラックスさせる》。このマゾヒスティックな表現から読みとることができるのは彼女が青春、もしくは若さというものが徹頭徹尾、痛みや悲しみによって貫かれていると考えているということである。

 無論、彼女がこのアルバムで辿り着いた答えは何の目新しさも無い。しかし、ポップ・ミュージックが恋愛を語るときにダイナミズムを帯びるのは、決まって「愛」を得る時よりも、それを失った時である。少なくとも私はそう思っている。リッキ・リーは「失われた愛」を「傷ついた韻」で歌った。この事実はポップ・ミュージックにおいて一人の才能あふれる歌姫が誕生したことを告げる。

(八木皓平)

*日本盤は4月20日リリース予定です。【編集部追記】

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rem_.jpg 今でも大好きなバンド、大切なアルバムがたくさんある。いつ、どこで、どんなふうに出会ったのか、僕はそのひとつひとつを思い出せる。ちっぽけとは言いたくないけれど、壮大とも言い切れない人生の中で出会うべくして出会った音楽。今そばにいてくれる誰かのように、今すぐ思い浮かぶ誰かのように、それはかけがえのないものだ。一度でも音楽に心を奪われたことがある人には、わかってもらえるはず。今、そんなことを考えながらR.E.M.にとって15作目となる『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞いている。

 僕はR.E.M.の音楽を聴きながら育った。軽快なビートを刻むスネアと早口言葉みたいな歌。「レナード・バーンスタイン!」でのブレイク。少年が廃屋でスケボーしながら、犬と遊んでいた。ナイーヴすぎると思うけれど、自分に似ている気がした。「It's The End Of The World」だなんて、最高じゃないか! 1987年、僕はそんなふうにR.E.M.と出会った。それは今、全然笑えない皮肉かもしれない。でも、曲のパワーは初めて聞いたあの時のまま。相変わらずカッコいい。やっぱり"I Feel Fine!"って叫びたくなる。

 テレビを消して、ジャケットを眺めながら『コラプス・イントゥ・ナウ』を聞く。そこにはオリジナル・アルバムとして初めて3人の姿が写っている。腕を大きく振り上げたマイケルがいつになく頼もしい。「Discoverer(発見者)」「All The Best」「Every Day Is Yours To Win」など、ポジティヴなタイトルの曲が並ぶ。『New Adventures In Hi-Fi』以降、モノクロームや淡い色彩をイメージさせる曲調が多かったけれど、ここではすべてがカラフルだ。力強いマイケル・スタイプの歌声。ピーター・バックは、繊細なアルペジオと豪快なフィードバックを自由に操る。マイク・ミルズのコーラスと発想豊かなベース・ラインが優しく彩りを添える。躍動感、そして鮮やかな生命力。「Uberlin」でマイケルは歌う。

《I know I know I know what I am chasing / I know I know I know that this is changing me》

 インタビューでも言及されているとおり、"Change"という言葉が今、いくつもの意味を持って響く。そして現在進行形の描写が、現実と重なり合う。僕たちが追い求めているもの。この先に待ち受けている変化。一曲一曲が投げかける問いに、まだ答えは見つからない。不安を声に出してもいい。可能性に耳を傾けてもいい。2011年3月、僕はこのアルバムと出会った。"Remember Every Moment"という言葉を胸に刻む。そのことをいつまでも忘れないように。

(犬飼一郎)

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morning_teleportation.jpg 震災が起きてからは多くの方たちと同様に心落ち着かない日々がつづき、音楽なんてとても聴く気にならない時間を過ごしたあと、ちょっと持ち直してからよく耳にしたのがR.E.M.で(こういう人は結構多かったのでは?)、それからティーンエイジ・ファンクラブの『Grand Prix』、あとはモデスト・マウスの「Float On」をYouTubeで繰り返しずっと聴いていた。『バッド・ニュースを好む人へのグッド・ニュース』は紛れもなくすばらしいアルバムだが、アルバム全体を聴き通すのはそのときどうにも億劫で、何度もリピートしながら、力強く躍動するリズムと《Alright, don't worry, we'll all float on.》というフレーズをぼんやりしながら頭に浴びせた。昨年、海外の音楽ブログを賑わせた23歳の俊英、ブラックバード・ブラックバード(今年に入ってアルバム『Summer Heart』が日本国内でもCD化もされた)の手によるこの曲のチルウェイヴ・ヴァージョンがこれまた出色の出来で、次々と流れていく悲惨なニュースやデマやヒステリックへのほどよい緩衝材として機能してくれた。

 個人的な話は一区切りするとして、文人肌でありながら獰猛で無骨なモデスト・マウスのリーダー、アイザック・ブロックはすばらしきミュージシャンであると同時に敏腕A&Rマンであり、これまでにもいくつかの才能を掘りあててきた。その代表格といえるのはウルフ・パレードだ。アイザックもプロデュースを務めた05年の『Apologies to the Queen Mary』は破格の傑作だったし、彼らはいまやカナダのインディー界隈とサブポップを代表するバンドまで成長した。アイザックは2005年に自身のレーベルGlacial Paceを設立。 Love As Laughter、Mimicking Birdsといった良質なバンドが籍を置いている。ポートランドで活動する5人組、Morning Teleportationによるこのデビュー作『Expanding Anyway』も同レーベルからのリリースで、バンドはモデスト・マウスのツアーで前座を務め、プロデュースもやはりアイザックが担当...まさしく秘蔵っ子である。

 一聴して印象的なのが、初期のモデスト・マウスを彷彿させるゴリゴリとしたギター・カッティングに、爆発と収束を繰り返す極端な転調で、異様なハイテンションはアルバムの最後までずっと続く。さまざまな楽器を持ち替えながらオーガニックに絡む演奏はローカル・ネイティヴスらに通ずる現代的なマナーに則っているが、音の方はもっと野蛮で、ジャム・バンド化したビルド・トゥ・スピルとでもいうべき野放図なスケールに到達している。

 ヒッピーライクで悪趣味なPVも一見の価値ありなタイトル曲「Expanding Anyway」に顕著な、扇情的かつベタベタにメロディアスなギターの響きと威勢のよい掛け声がアルバムの主成分だが、かたや9分超えの「Whole Hearted Drifting Sense of Inertia」ではシンセが跳ねたり宇宙的に拡散したり、「Banjo Disco」ではバンジョーを駆使してディスコ・ロックしてみたり(まんまだ)、目まぐるしく変わる光景を追いかけているうち頭が痛くなるほどの暴れん坊っぷり。腹を抱えて笑うアイザックの顔が目に浮かぶようだ。悪く言えば足し算しか知らない子どもによる音楽だが、右へ倣えの世の中でここまでブチ切れていれば、少なくとも僕は文句ない。90'sオルタナ好きにもフジロッカーにも積極的に推薦したい痛快な一枚。ぜひもっと注目を浴びてほしい。

(小熊俊哉)

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brave_irene.jpg ローズ・メルバーグの声を、私は「可愛い女の子が頬杖をつきながら、けだるそうに唄うような声」と(勝手ながら)表現している。特別キャッチーに唄っているわけではないのだが、彼女の声は不思議とすぐに判別できる。ソフティーズの音源を初めて聞いた時も、すぐに「ローズ・メルバーグ相変わらずいいなぁ」と、疑いなく絶賛し、ソロ作品の時も瞬時に頭が理解した。彼女の唄うメロディが共通して、爽やかでありながらどこかセンチメンタルに響くものばかりだから、というのも起因しているかもしれない。
 
 ブレイブ・アイリーンは、タイガー・トラップ、ゴー・セイラー、ソフティーズなど様々なポップ・プロジェクトを作り上げたローズ・メルバーグがメインとなる、ガールズ・インディー・ポップバンド。ソフティーズやソロ名義の時代には、それまでのバンド編成とは異なり、アコースティックでソフトな作品ばかりをリリースしていた。本盤は久しぶりのバンド編成にて、ジャングリーなギターが鳴っている。彼女自身もこれまでの経験を経て(というか齢を重ねて)、バンドの音こそ活動初期に似通っているが、けだるい唄い方はソフティーズの頃のそれである。また、ローファイな音色で終始唸るオルガンが、今までのプロジェクトにはない味を出している。
 
 パンクの要素はなくなり、純粋かつトラディショナルなC-86直系のインディー・ポップへと昇華しているが、テンポは遅くなりながらも爽快感は増している。女の子を象徴するようなローズ・メルバーグの声を聴くと、無性に旅に出たくなる。

(楓屋)

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serge_gainsbourg_ex.jpg今年の3月2日でのセルジュ・ゲンスブール没後20年を受けて、にわかに彼の周辺が盛り上がっている。日本でもジョアン・スファールの初監督作品の評伝映画『ゲンスブールと女たち』も公開されることになったり(そのサントラもゴンザレスやPHILIPPE KATRINE等が参加した充実の内容になっている。)、音楽家としてのキャリアを纏めた20枚組ボックス・セット『Integrale 20ieme Anni』も出るなど、俄かに世界的に賑やかしくもなってきているが、その中の一つ、このブラッド・スコットとその仲間からなる6人組の英仏の混成バンドTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEは外せない。リーダーの英国人であるブラッド・スコットはアラン・バシュング、ジャック・イジュラン、アルチュールH他でのバッキング・ベーシストなどで活躍し、また、マルチ・アーティストの面からも名を馳せた、生粋のセルジュ・フリークでもある。実際、彼はセルジュの60歳前後の晩年期にテレビ局の楽屋裏で会い、話をしたという逸話も残っている。

 セルジュ・ゲンスブールの曲を「カバー」するというのは容赦なくそのアーティストの才覚が試される。何故ならば、シャンソン、ジャズ、スウィンギン・ロンドン、アフロ・パーカッション、オーケストレーション、ロック、ポエトリー・リーディング、レゲエ、ニューウェーヴ、ヒップホップと多様な音楽様式を表層的にドライヴしてきた彼には都度の「断線」があるからだ。それを繋いだのは、あの気怠い声であり、沈み込むような詩情と、時に軽やかな言葉遊びのリズムだったと言える。それは、セルジュの認証印が押されてこそ成立するものだったからと言えるならば、周縁をなぞるだけでは、より実質から遠くなってしまうというイロニーがあった。稀代のトリックスターであり、ノマド精神を持った彼の残影を「追いかける」にはどんな形にしても、容易ではない。その中で、今回のTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEはある程度の緩さも含めて、的確な形での「近接」を果たしていると言ってもいいかもしれない。近接しているからこそ、濃厚な彼自体へ遠心力を持ち、もはや耳馴染みの曲でも新しく感応出来るのは嬉しい。

 バンド名があまりに"そのまま"過ぎて、シニカルな視点を持ってしまう人もいるかもしれないが、演奏スタイルはガレージ・バンドのようなラフでファストなものに終始しており、全く衒いがなく、近年、溢れるセルジュのカバーの中でも比較的、ストレートな"抜けた"ものになっている。女声ボーカルを受け持つセリエ・スコットの声もブリジッド・バルドーやジェーン・バーキンが持っていたアンニュイさとは程遠く、至って朴訥と健全に絡んでくるのも面白い。そこで、どのような曲が選ばれているかというと、1968年の『INITIAL B.B.』から「Comic Strip」、「Initials B.B.」、「Bonny and Clyde」、1961年の『L'Étonnant Serge Gainsbourg』内の「Chanson de Prévert」といったメジャーな曲から、やはり外せないオーケストレーションとポップの折衷で雄大な高みを極めた1971年の『Histoire de Melody Nelson』から「Valse de Melody」、「La Ballade de Melody Nelson」という二曲。また、1962年の『No.4』の 「Requieme pour un twister」、1967年の『Rock Around The Bunker』の「SS in Urguay」といったマニアックな曲など、巷間のトリビュートとは一線を隔したセンスが貫かれているのは流石だともいえる。

 中でも、特筆すべき曲としては、アコーディオンを取り入れた軽快なロック・テイストに生まれ変わった「Chanson de Prévert」、原曲への愛慕に溢れたダークな空気感が纏うダウンビート「La Ballade de Melody Nelson」になるだろうか。06年の『Monsieur Gainsbourg revisited』というトリビュート・アルバムでのジャーヴィス・コッカ―による「Je suis venu te dire que je m'en vais」の英語版「I just came to tell you I'm going」のカバーで、タメのきいたリズムにブラッドの声がこもったトーンで映えているのにも印象深い。近年、リミックス、ダブ、エレクトロニカ、ロック方面など多種多様なアプローチが彼の数多の曲に関しては為されてきたが、それでは掬えない部分がここではフォローされているような感じさえあり、寧ろセルジュ・ゲンスブールという巨像(虚像)に対してはこれくらいの正攻法でこそ新たな意味が生まれてくるような気がする内容になっている。

 フランスの社会学者ガブリエル・タリドの『模倣の法則』に沿えば、「社会とは、模倣によって、あるいは反対模倣によって生み出されたさまざまな類似点を、互いに提示し合っている人々の集合」と言え、セルジュ・ゲンスブールという人は社会への挑発とカメレオンのように多くの要素を取り込み、模倣体としての在り方を繰り返した結果、社会の〈内〉に閉じ込められるようになってしまった悲劇の人物でもあった。「すべてに成功したが、人生に失敗した」と彼が言うのは、結局は「逃げ切ることができなかった」自分へ向けての絶望にも近い何かであったのかもしれないと思う。そうすると、彼の模倣であれ、反対模倣であれ、様々な類似点を互いに提出し合うことで、より彼の思想の模倣は表現の模倣に先行し、目的の模倣が手段の模倣に先行してしまうという危惧を孕んでくる。それに対して、このTHE SERGE GAINSBOURG EXPERIENCEが対象として置くものは、模倣が人間の内側に留まるものではなく、外部へと開放の為の導線を仕掛けてゆくものであるということの証明をしようとするものである気もする。皆の内側に根付いた、セルジュ・ゲンスブールという幻像を引っ張り出し、現代性の文脈下でリアルに額縁におさめたという点は評価できる佳作だと思う。

(松浦達)