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bibio.jpg 高度市場原理主義が「大きな子供たち」の遊び場を用意したとしたら、それはウォルト・ディズニーやハリウッド的なメガロマニアな仕掛けが組み入れられた余地ではなく、集合的な自意識の肥大化の果てのグーグル化した何かだったのかもしれない。そこでは、おそらく、ベートーヴェンやモーツァルトの近代的な美しさよりもシューベルトのピアノ・ソナタのようなくだくだしくも、少し曖昧な自由が似合う。「曖昧な自由」とは、ラカンディアンが夢想する「身体的統一性」が確保出来ていない状況との近似・連鎖さえも包含してくる可能性がある。そこで、「大人の大人」は子供の振りをして躍ってみせるのか、「子供の大人」は頭を抱えてみせるのかの二分軸に分かれるとしたならば、その転倒をはかるのが「ダンス」の意味と言える可能性はある。

 ダンス自体が自由を赦す訳ではなく、自由側がダンスを受け入れるとしたならば、BIBIOことスティーヴン・ウィルキンソンが09年の前作『Ambivalence Avenue』におけるフォークトロニカとドープなヒップホップ・ビート、ソウル・ミュージックのガジェット的な意匠を纏ったエクレクティズムからより進んで、一気に多様性を増した今回の『Mind Bokeh』で想定するのは、大きな子供たちの遊び場としてのダンスフロアーなのかもしれないところが興味深い。そして、この音にはヘドニズムや安易なエスケーピズムの要素よりも、もっとノスタルジアの中で音が過去から今に向かって鳴っている気さえする。

 紡がれる不規則と変性を是とするビートと多彩な電子音、そして、カット・インしてくる加工された人間の声を含めた全体が醸す甘美な違和。ワープ直系のセンチメントもフレンチ・エレクトロにも繋がるようなスノビズムもブラジル音楽のリズムを咀嚼したムードに帯びる楽天的な明るさもIDMシーンへの批評眼も、横断するような凛然とした意志に貫かれており、「大きな子供の一人」として自意識の箱庭の音楽として、多くの人を巻き込もうとするしたたかな優しさがこの作品には過去以上に溢れている。"ぼかし"という日本の概念を反映させたとの彼の言葉の通り、サウンド・レイヤーの重なりがより優美になっており、生音の加わり方も淡く、独特の色気も漂う。その色気は、チルウェイヴを牽引するトロ・イ・モワの新作とも繋がるところを感じる。また、70年代のサウンド・メイキング、つまりクリアーでソリッドな透き通った音響工作と、スクリッティ・ポリッティが持っていたようなリズムのバネを援用し、ロマンティックな温度を保ち続けることに成功しているのも特筆すべき点だろう。

 主な曲に触れると、3曲目の「Anything New」ではアヴァランチーズが今、新しい音を出すならこういったものになるかもしれないという嬉しい予感がこもったスムースな雰囲気があり、6曲目の「Take Off Your Shirt」はフランスのジャマイカの曲と言っても不思議ではないだろうギターが響くラウドなものになっていたり、12曲目の「Saint Christopher」にはフォーテット『There Is Love In You』以降のオーガニックなIDMの系譜を更新してゆくようなソフトで幽玄な美しさがある。

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 ここには、「今」に絞られた音が提示されている。タイトルの『Mind Bokeh』というコンセプトも過去に頼らず、未来を予想しない、「永遠なる今」への対峙状態であると言うからして、その周縁の意味をハイデガーのいう存在論的差異を援用してより深く掘り下げて考えてみることは出来るだろうか。「あるもの」(存在者)は、「あること」(存在)によってその存在を可能することができる。「あること」がないのであれば、「あるもの」もあるものであることを、止めざるを得なくなる。だとすると、「あること」と「あるもの」、この両者の差異とはどうなるのか。加え、「あること」と「あるもの」の差異を見ている人間そのものへの視座も要ることになる。つまり、存在論的差異に対してさらに差異を持っているのが人間の存在であり、ハイデガーはこれを「現存在」と呼んだ。

 今回のスティーヴン・ウィルキンソンは「現存在」として、「あること」、「あるもの」の差異をブレイン・ストーミングのように音でリプレゼント(/強調)しようとしており、曖昧な自由の中で、攪拌された結果、この作品は「今」の枠を外れ、過去から今に響くノスタルジアを醸すと同時に、"今という過去に進んだ"感触を残すことになったというのは、面白い。

(松浦達)

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crookes.jpg 昨年くらいからイギリスではギター・バンド復権の動きが着々と見え出してきているが、多くのバンドが溢れんばかりに愛や青春(に伴う痛み)をレイトバック気味なロマンティシズム全開で高らかに歌い上げるのは、かの国の伝統なのだろうか。シェフィールドで08年に結成された新進気鋭の4人組、ザ・クルックス(The Crookes)も文学的で情緒豊かなうたを聴かせるギターポップ・バンド。メンバー各自の髪のサイドの刈り上げっぷりやシャツの着こなしなど、総じて爽やかなルックスからもそれは見てとれるし、実際に図書館をまわるライブ・ツアーも過去に敢行しているみたいだ。

 そんな彼らの公式ページにはフレーズの引用がふたつ掲載されていて、これがバンドのキャラを掴みやすくしている。ひとつは『西部戦線異常なし』で知られるドイツの作家、レマルクの言葉。"青春の風景を初めて歩を進めるようにさまよい、ぼくらは迷子になっている"とでも訳そうか(この句はアルバム封入のブックレット裏表紙にも掲載されている)。もうひとつはZachary Condonなる人物によるもので、お気づきの方もいるかもしれないがベイルートという名義で彼は有名だ。彼にとっての代表曲「Elephant Gun」の歌詞からの抜粋で、内容そのものもそうだし、若きベイルートが東欧の音楽・文化に惚れこんで自身の幻想を膨らませていった姿にザ・クルックスがシンパシーを抱くのもとてもよく理解できる。ベイルートがそうしたように、彼らは50~60年代のオールド・ポップスやC86世代ポップ・バンドへの偏愛をみずからの音楽に強く反映させている。

 すでにリリースされていたシングルやEPで日本も含めた音楽ファンの注目を集めていた彼らの、待望となるフル・アルバムが本作『Chasing After Ghosts』だ。MySpaceの「影響を受けた音楽」欄にもアズテック・カメラやアイシクル・ワークスなどの名前が堂々と載っているが、ネオアコ系ギターロックの流れを大きく汲んだ軽快でジャングリーな演奏と抑揚の効いたドラマチックな歌唱法が特徴的で、ハウスマーティンズをバックにモリッシーが朗々と歌う図が脳裏に浮かんでくる。余計な重ね録りに極力頼らないライブ感のあるバンドサウンドも小気味よい。二曲目の「Chorus Of Fools」に顕著な、キラキラしたギター・カッティングを軸に据えた骨太かつ柔軟なアンサンブルが持ち味で、疾走感を前面に押し出してくるかと思いきや、スミスの「I Know It's Over」を彷彿とさせる陰鬱ぎみで大仰な曲が出てきたりと(「The Crookes Laundry Murder,1922」)引き出しも多いうえに、むせ返るほどおセンチで胸焦がさずにいられない瞬間の連続だ。朗らかなコーラスにカウペルの音まで聴こえてくる躍動感タップリな「Bloodshot Days」が本作のハイライトだろうか。バウンシーなリズムやトロピカルなムードに乗せて《"ひざまずいてくれ"と彼は言う/ああ降りかかってきた血のにじむような日々》なんて言葉をリフレインさせるあたり、けっこうシャレがきいていると思う(PVのアニメーションも凝っていてイイ感じ)。
 
 瑞々しくメロディアスな曲の数々にノエル兄さんが熱を上げるのも納得で、シェフィールドの大先輩である元ロングピッグス(懐っ!)のリチャード・ハーレイとも交流があったり、我が道を歩みながら支持を大きく拡大しているザ・クルックス。個性という点ではまだ若干弱い印象も否めないが、これからさらにおもしろい方向に転がりそうな将来性もあると思う(関係ないけど、自分たちのファンを"Bright Young Things"と呼ぶセンスはすごく好きだ)。個人的にはそれこそモリッシーばりにもっとアクが強くなることを勝手に期待しつつ、英国産インディ・ギターポップのアルバムとしては処女作にして満点に近い内容と熱烈にプッシュしたい。あ、有志によるツイッターのこのアカウントも同時に推しておきます。こういう動きは最高に支持。

*@TheCrookesJPはバンドの呼びかけでできた公認アカウントで、他にブラジル、スコットランド、カナダ、USA、ドイツ、オランダ版がそれぞれ存在する...とのことです。情報ありがとうございます!【3/25 筆者追記】

(小熊俊哉)

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la_sera.jpg 本稿の主人公ケイティ・グッドマン(a.k.a Kickball Katy)は、09年に東名阪の来日ツアーも成功させたブルックリン発のガールズ・トリオ、ヴィヴィアン・ガールズでベース&コーラスを担当しているUSインディー界きっての別嬪さんだ。

 彼女はヴィヴィアン・ガールズの他に、2つのサイド・プロジェクトを抱えている。一つはキャット・パワーのツアー・バンド=ダーティー・デルタ・ブルーズの一員としても有名なグレッグ・フォアマン(ザ・デルタ72)と結成したAll Saints Day(オール・セインツ・デイ)。そちらはセルフ・タイトルのEPをリリース以来、目立った動きは見られない。そしてもう一つが、純然たるソロ・ユニットのLa・sera(ラ・セラ)である。オール・セインツ・デイがニューゲイザー&ネオ・サーフを鮮やかにマッシュアップしたような、良い意味で息抜き的な作風だったのに対し、本作『La Sera』では60'sフレーバーたっぷりのオールディーズやカントリー・ソングに到達。しかしそれは痛いほどに誠実で、「ルーツ回帰」の一言では片付けられない複雑な憧憬と、照れ隠しにも似たもどかしさを孕んでいる。

 インディー・ミュージック・マガジン『Under The Radar』に掲載された、Frank Valishによるインタビュー記事を読むと、ラ・セラはかなり突発的に立ち上がったプロジェクトのようだ(以下、発言部分は同誌のテキストを意訳)。昨年の冬、ツアーの合間に2週間のオフを取ったケイティは、ニュージャージーの実家に帰省。ところが、あまりにもヒマを持て余した彼女は、地元で100ドルのギターと、小さなオレンジのアンプを購入し、連日ソング・ライティングに励む。帰省中に書きためた楽曲は、いつの間にやら膨大な量に。「これ、アルバムが作れるんじゃないの?」---- そう閃いたケイティは、友人のBrady Hall(本職はフィルム・メーカーながら、ライターや音楽家としての顔も持つマルチ・アーティスト。ヴィヴィアン・ガールズのMVも撮影した)にデモ・テープを送り、最後の仕上げを依頼。バンドとの差別化として、「ファズの一切無い、きわめてクリーンなレコードを作りたかった」とのことで、プロデュースには概ね満足だったそう。

 全12曲で30分未満。Brady Hallが監督した、激スプラッターなビデオも最高に可笑しい「Never Come Around」や、「Devils Hearts Grow Gold」といった先行でリリースされていたシングル曲にも顕著だったが、狂おしいほどに美しく、ちょっぴり猟奇的で、ノスタルジック。ラストの「Lift Off」などドゥワップ調のナンバーもあるが、ギミックや新しさはほとんど感じられない。アコースティックな楽器の響きよりも、ヴィヴィアン・ガールズでもお馴染みの透き通ったコーラスのダブ&ループを駆使した白昼夢のようなサウンドスケープ。しかし、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ぶには少しチープで、60年代のラジオ・ヒット曲にも似た味わい深さがある。先日、念願叶ってLAに引っ越したケイティは、最近スタートしたばかりのラ・セラのライヴで、必ず「カリフォルニアから来たラ・セラです」と挨拶しているらしい。そう、「夢のカリフォルニア」------  すなわち、彼女は憧れのママス&パパスの世界に近づきたかったのだ。

 先述のインタビューによると、学校中がグリーン・デイに熱狂している傍らで、ママス&パパスの「Dream A Little Dream Of Me」をNo.1フェイバリット・ソングに挙げ、アーカンソー州出身のフォーク&カントリー・シンガーであるアイリス・ディメントを愛聴...という渋いティーン時代を過ごしていたらしく、おそらく音楽的な引き出しは多いはず。だが、今までそれを発揮するチャンスがなかっただけなのかもしれない。我々の想像以上に、ヴィヴィアン・ガールズにおいての主導権はキャシー・ラモーン(彼女もまた、昨年来日したWoodsのメンバーとThe Babiesなるサイド・プロジェクトを始めている)にあったのだろう。そんなケイティの青春時代に接近したアルバム誕生のきっかけが、久しぶりにホームタウンで過ごした日々だったのだから、音楽は面白い。それに、レーベルやメディアからのプレッシャーに気を病む必要もないので、『La Sera』がここまで正直でフラットな作品になったのだともいえる。そしてリリックは、恋愛真っ最中というより、もう終わってしまった恋についての言葉が目立つ。どうやら元カレについて歌った曲もあるそうで、そのご本人をオーディエンスの中に見つけた時は、相当気まずい思いをしたとか。とすると、「Never Come Around」のMVで男どもを血祭りにあげたのは、彼女なりの「恨み節」だったんじゃないか...? うーむ、やっぱり、もどかしい。今春リリースされる、母体ヴィヴィアン・ガールズの3rdアルバム『Share the Joy』(ディアフーフも移籍したポリヴァイナルから!)におけるフィードバックにも期待大。

 最後に。ケイティ・グッドマンは、その両腕にびっしりと掘られたタトゥーからは考えもつかないが、大学院で物理学の博士号を取得したほどの秀才でもある。それは決してバンドが売れなかった時の保険ではないだろうが、ミュージシャンとしての人生がそう長くないであろうこともほのめかしている。いや、ひょっとしたらショーン・マーシャルのように、ジャニス・ジョプリンやジョニ・ミッチェルのカヴァーなんかを披露しながら、マイペースで音楽活動を続けていくかもしれないけれど...。ラ・セラが、もしもスペイン語の「Que sera sera(ケ・セラ・セラ)」から拝借されているのならば、「なるようになる」 。とにかく今は、この刹那的な瞬間をリアルタイムでシェアできることが嬉しい。

(上野功平)

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crystal_fighters.jpg 突然ですが、皆さんにとって「ポップ・ミュージック」とはなんですか?

 人によっていろんな意見があるとは思うけど、僕はポップ・ミュージックを「自由で実験的な試みも可能な音楽」と捉えている。実はハーツのセオにインタビューをさせてもらってから、ポップ・ミュージックについて考えることが多かった。セオは「ポップ・ミュージックはふたつある。ひとつは、万人が楽しめて盛り上がれるポップ・ミュージック。もうひとつはオルタナティヴなポップ・ミュージック」と言っていたけど、「その両方を実現することも可能なんじゃない?」と、話を聞きながら思ったりもした(まあ、そのときは議論ではなくインタビューをしに行ったので、話を引き出すため聞き役に徹しましたが)。もちろんセオの話もポップ・ミュージックとしては全然アリだし、すごく頷ける面白い意見もたくさん語ってくれた(実際同意できる話がほとんどだったし)。とにかく、音楽から歴史性が失われてフラット化した現在においては、「それぞれの音楽」というのがますます増えてきて面白いと思った次第です。

 このスペイン出身のクリスタル・ファイターズというバンドは、現代におけるポップ・ミュージックを鳴らしている。「シンセサイザーとバスク音楽の民族楽器を、歌とテンポの良いダンスビートと融合させたような音楽」とメンバーは語っているが、ベースにはダブステップの強い影響が窺えるし、トロピカル系と呼ばれる音楽の要素もある。「In The Summer」という曲ではフリー・フォークをダンス・ミュージックに上手く落とし込んでいるし、サイケデリックでもある。先程引用した発言にもある通り、ダンスビートを基本としながら、そこにありとあらゆる音楽を組み合わせて曲に仕上げたようなものが多い。だからといって散漫としたアルバムにはなっていないし、BBCが「クラクソンズのセカンド・アルバムが目指して辿り着けなかったような大ヒット作だ」と絶賛したくなる気持ちも分かる。聴き込むほど音楽的な面白さが出てくると同時に、片手間に聴きながらでも楽しい飽きないアルバムとなっている。

 それと冒頭のポップ・ミュージックの話とも重なるんだけど、クリスタル・ファイターズはすごくオルタナティブで実験をしているバンドだと思う。アルバムを聴いていて強く感じるのは、それを無意識にやっている感覚。つまり天然なのだ。だから堅苦しいストイックな空気はないし、それが良い意味での「軽さ」となり親しみやすさにも繋がっているから、結果的に「万人が楽しめるオルタナティブなポップ・ミュージック」となっている。この「軽さ」が伝統や歴史を重んじる評論家から批判の対象になっているようだけど、『Star Of Love』は「今」が生み出した素晴らしいアルバムであるのは間違いないし、僕のように異なるものが交わり融合していく瞬間に興奮を覚える人にとって、『Star Of Love』は絶対に聴くべきアルバムだ。

(近藤真弥)

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Killing_boy.jpg アートスクールのフロントマン、木下理樹と2003年末にバンドを離れた日向秀和(現:ストレイテナー、ナッシング・カーヴド・イン・ストーンetc、元:ザゼン・ボーイズ)が再び手を組んだ。2010年半ば頃からTwitter上にて木下が「ソロ活動をしたい」と呟いたところ、日向が「是非バックで弾かせてほしい」との旨のリプライを送ったことにより胎動を始めた、このキリング・ボーイ(余談ではあるが、このバンド名は、木下がアートスクールのサイト上でのブログ「狂人日記」において、日向がバンドを離れる前後、「好きな(映画)作品BEST50」として挙げた作品の一つでもあるカルト・ムービー、『キリング・ゾーイ』を思わせる)は、日向がナッシング・カーヴド・イン・ストーンから大喜多崇規を、木下が旧友の元スパルタ・ローカルズ、現ヒントの伊東真一を誘い、彼らをレギュラー・サポート・メンバーとして迎えて結成される。2010年末に、年越しライヴ・イベントで、そのベールを脱いだ彼らがこの度リリースするのが、パーカッションとして現ヴォラ・アンド・ジ・オリエンタル・マシーン、元ザゼン・ボーイズならびにナンバー・ガールのアヒト・イナザワ、エンジニアとしてメレンゲのクボケンジといった顔ぶれの豪華なゲストも目立つ、デビュー盤だ。

 先のTwitter上の日向のリプライに対して、木下が「初期のデス・キャブ(・フォー・キューティー)みたいな暗いのをやろうよ」と返していたのが印象的だったが、キリング・ボーイとして彼が鳴らすのは、デス・キャブの色は薄く、ゴスやポストパンクといった80'sのUKからの影響が色濃く感じられるニューウェイヴ・ソングだ。木下は同じくTwitter上で「このプロジェクトはリズム、ループ感、グルーブに重点を置いている。それはアフリカ音楽の概念を理解し探求していく作業でもある。(中略)その反復するリズムに俺はシューゲイズの感覚も残したい」とも呟いているが、そのツイートが示すように、トーキング・ヘッズやヴァンパイア・ウィークエンドといったバンドを思わせるアフロリズムに、度々繰り返される抑制されたループで構成されるグルーブが強烈だ。これは木下と日向とが共通する各々のルーツに、プリンスがいることが非常に大きいだろう。また最近のバンドの共通のフェイバリットとして、フランスのフェニックスやジャマイカも挙げている。ここまで書くと、心地良いダンス・サウンドを想起させるかも知れないが、木下は、キリング・ボーイのメロディについて、「ダークなのにポップな」、ザ・キュアーのそれを意識したことも強調する。少なくとも木下は、日向が在籍していた頃から、特に最新のアートスクールのアルバムにおいてもキュアーの感触を前面に押し出しているが、ここで感じられるのは、それとは少し違い、あくまでグルーヴィーなプリンスのサウンドと暗澹たるポップさを保ったキュアーのサウンドを融合させるという試みの野心だ。
 
 この融合は、抑圧されて内省的な一面も見せる木下と躍動感溢れる日向という対照的な二人の邂逅においても、完全に功を奏している。木下は日向と再びプレイすることを決めた際に、昨年末にフジ・ロックで繰り広げられたアトムズ・フォー・ピースの名演を思い出したと言う。アトムズと言えば、言わずと知れたレディオヘッドのフロントマン、トム・ヨークとレッド・ホット・チリ・ペッパーズのベーシスト、フリーなどによるトムのソロ作をライヴで再現することから始まった異色バンドだが、どこか似ていないだろうか、このキリング・ボーイの成り立ち、構成と。ここでのトムは木下、フリーは日向だと言うと、やや大袈裟だけれど、邦楽ロック界をそれぞれの手法で牽引する彼らを見ていると、それほどのポテンシャルをどこかに垣間見てしまうのも事実だ。木下は活動当初、日向にスパークルホースの魅力を伝えたとも語っているが、マーク・リンカスが鳴らした、虚無や憂鬱も同時に色付けることにも、ニューゲイズやチルウェイブ、グローファイといったインディ・シーンの時流を取り入れることにも成功している。
 
 かくして、生まれたキリング・ボーイのサウンドは邦楽界に新しい風を巻き込む、「暗く閉じているのに踊れる」ダンス・ロックである。

 歌詞の面も注目したい。≪僕の愛は死んで≫(「cold blue swan」)、≪注射針を抜く時/固くなった傷跡≫(「xu」)、≪死にたい時そんなことを考えたりするよ≫(「Confusion」)など、明らかにアートスクールのそれよりも、直接的な言葉を用いて堕ちている。最終曲「Sweet Sixteen」(タイトルは、映画「SWEET SIXTEEN」を思わせる)に至っては、一節目から≪月曜は死にたいと思った≫であり、キュアーの「Friday I'm In Love」を思わせるように、曜日順に感情を歌っているが、全ての日がどれも病んでいる。キリング・ボーイは、木下の陰鬱な感性を更に曝け出すようだ。
 
 この歌詞は、インディだからこそ出せたと木下は語るが、このアルバム自体も、木下の自主レーベルであり、日向が脱退してからメジャーに移籍するまでのアートスクールの作品をリリースしていた、VeryApe Records(ニルヴァーナを敬愛する木下らしいネーミング・センスだ)からのリリースである。原盤制作費も自らが負担するなど、こだわった発売形態はこの規模の邦楽のバンドでは、珍しいほどの感じられるインディとしての意志が感じられて素晴らしい。

 キリング・ボーイは、実直なほどに海外的なエッセンスを取り入れたサウンド、自身の闇あるいは病んだ精神を晒す無防備さ、自主レーベルからの徹底的に突き詰めたリリース形態などで、邦楽シーンに新たなスタンスを提示する。それは、何よりも音楽が大好きな人間だけで構成される愛をもった現代に対するささやかなアンチテーゼのようだ。この規模のバンドのこんな活動スタイルが広く認められるようになれば、邦楽ロック界も、更に大きな可能性がどんどん芽生えるのではないだろうか。このアルバムがキッズ達にどう聴かれるかが発売早々、楽しみでならない。

(青野圭祐)

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heya.jpg 本盤は、西荻窪に実店舗を構えるセレクトCDショップ『雨と休日』の店主、寺田俊彦氏の選曲によるコンピレーション・アルバムである。『雨と休日』の名前は、Twitterでも、近頃見かけるようになりつつある。実店舗の端的な詳細を記しておくと、「穏やかな音楽」というコンセプトを掲げており、ビル・エヴァンスやステファン・グラッペリなどのジャズに始まり、ゴールドムンドなどのポスト・クラシカル、小瀬村晶などの日本のエレクトロニカ、ブリティッシュ・フォーク、聞いたこともないアンビエントのアーティスト...、文字通り、ジャンルレスに良盤が集められている(先日レヴューされていたインドネシアのアーティスト、アディティア・ソフィアンのアルバムもあったはず)。箱庭のような内装が実に素敵で、独占欲に似た「好きすぎて、あまり人に知られて欲しくない」という衝動に駆られてしまう。
 
 店主の解説曰く「中低音域をメインに使った曲」のみを集めたアルバムだそうで、全曲インストで成り立っており、中心となる楽器はアコースティック・ギターとピアノ。アーティストは、坂ノ下典正、青木隼人、paniyolo、Balmorheaなどの木漏れ日フォーク勢、小瀬村晶、haruka nakamura、Brian McBride(ドローン系のユニット、Stars of the Lidの一人)、Peter Broderickなどのアンビエントやエレクトロニカ勢、Dakota SuiteやOlafur Arnaldsなどのエクスペリメンタル勢など、ふり幅は大きいが、確かに似た音域の音楽が集められただけあり、不思議な統一感がある。おすすめはイノセンス・ミッションのギタリスト、ドン・ペリスのソロ名義での曲。
 
 部屋でアルバムを最初から通して聴くと、音楽が部屋に馴染み始め、鳴っている感覚が失われ、そこで初めて「部屋が溶ける」というフレーズが生まれたのだと言う。日常に音楽が密接しているようで、凄くいい。

(楓屋)

*3月24日リリース予定です。【編集部追記】

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radwimps.jpg「偶景(アンシダン)――偶発的な小さな出来事、日常の些事、事故よりもはるかに重大ではないが、しかしおそらく事故よりももっと不安な出来事、人生の絨毯の上に木の葉のように舞い落ちてくるもの、日々の織物にもたらされるあの軽いしわ...表記のゼロ度、ミニ=テクスト、短い書きつけ、俳句、寸描、意味の戯れ、木の葉のように落ちてくるあらゆるもの。」(ロラン・バルト)

 君と僕を内包する狭い世界内から内破するように、抽象的でサブライムな「神」という概念に近付こうとした臨界点にして転機となったのが08年の「オーダーメイド」という曲だったのかもしれない。そこでは人間がアダムとイヴに二分化してしまった過程まで遡り、叮嚀な筆致で君と僕は別々だからこそ、繋がり合えるという絆(とその儚さ)を描写したが、そこから、ジョン・ミルトンの『失楽園』での喪失の為の路を探すための過程と『アルトコロニーの定理』という作品の持つ通気孔のなさはリンクしてくるような気もしてこないだろうか。"RADWIMPS"というそれまでのアルバム・タイトルから外れて、"定理"へ向かったときに彼らが手に入れた場所とは何だったのか、よく掴めなかった。つまり、《このなんとでも言える世界なのに この何とも言えない想いはなに このなんとでも言える世界がいやだ こんなに歌唄えちゃう世界がいやだ》(「37458」)で、最後を締めてしまえる感性に彼らの来し方としての、それまで/これからの断絶を感じさえしたからだ。

《おれとお前50になっても同じベッドで寝るの》(「ふたりごと」)と、セカイさえもぶっちぎる「君」への求心と絶対性に心身を委ねつつ、ふと(笑)と皮肉を潜ませる巧みさが彼らのチャーム・ポイントでもあった筈なのに、気が付けば、野田洋次郎を軸としたRADWIMPSというバンドは、非常に生真面目でストイックなバンドになっていった。その後、野田氏は雑誌の企画でインドに行き、死生観をより感じてきたようで、それはどういった形で作品に影響を与えるのか、個人的に興味深かった。

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 2010年6月には、「マニフェスト」と「携帯電話」という二枚のシングルをリリースして、これは肩慣らしのような雰囲気もあったから、どちらかというと、自分たちの手による自分たちの曲のパスティーシュであった要素が強かった。そして、新しいアルバムに向けてギアが入ったのが今年に入ってからの「Dada」であり、「狭心症」だった。前者は「おしゃかしゃま」路線のミクスチャー・ロック、言葉数の多さが巧みにドライヴしながら、駄々を捏ねるように、言葉遊びをするかのように、地団太を踏み何処にも行けない堂々巡りを表す曲であり、後者は過度にヘビーな情感と人類、世界、僕といった大きい言葉が並びながら、自分を攻め立てるような悲痛なムードを帯びていた。《見ちゃいけないなら僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ 塞いでしまうから 縫ってしまうから 最後にまとめて全部見してよ》(「狭心症」)と切り詰まる。

 自意識の中で膨れ上がったオブセッションが死生観に依拠するものだったのか、それとも、野田氏自身が持つ"人間の失敗作としての自分"という基点に戻って、もう一度表現をしないといけない必然性があったのか、この『絶体絶命』という作品全体が持っている座りの悪さからは見えてこない。また、これまで以上の多くの負性が垣間見えながら、希望や君が唄われる為か、茫漠とした印象をおぼえてしまうところもある。「透明人間18号」、「君と羊と青」、「DUGOUT」のような従来型のギターロックも清々しく響いているし、「π」でのピアノ・ロックでの弾むリズムも新鮮だ。叙情的な側面が強調された「だいだらぼっち」、「ものもらい」も澄んだ空気感がある。「G行為」におけるエミネムを真似たようなライムを披露する様も興味深い。全体的にスケールが拡がり、グル―ヴ感が増し、バンド・サウンドとしての纏まりも非常にダイレクトに響いているというのに、だ。

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 RADWIMPSがこういったスケールの大きい世界観を包含せしめようとする際に、個人的に疑念が生まれるのは、ギデンズの構造化理論のことだったりする。ギデンズによれば、社会学には現象を「意図」(人々が実際に頭の中で考えていること)から説明する主観主義的アプローチと、関係なく客観的に実現している状態(「構造」)から説明する客観主義的アプローチがある。後者は、例えば、私たちは、街中を歩いていて他人とすれ違っても積極的に話しかけたりしない。といえども、完全に無視したりもしない。これをして、「市民的無関心」とも言われている。この市民的無関心は結局、多くの人の都市での生活を可能にしている訳だ。皆が皆に話しかけていたら、都市生活の機能がままならないからだ。しかしながら、人々が「市民的無関心」を持っているのは、なにも都市の生活を可能にするためではなく、だからこそ、これは主観的な意図に還元できない現象ともいえる。この二つのアプローチを結びつけたのが構造化理論だが、「人が主観的に行動するときには、客観的な構造を前提としているし、またそのように行動することで構造を再生産している。」とすると、最近のRADWIMPSは、客観的な構造の前提が欠落したまま、主観主義的アプローチ沿いに、誰彼問わずに「話しかける」アティチュードが可視出来る。他者性に向けて、何でも言えるポジションに居ることができる彼らだからこそ、『絶体絶命』というタイトルで、スキゾなまでに多種多様な音楽のスタイルに挑み、溢れる言葉群を詰め、テンションも高いというのも良いことだとは思う。それでも、同時にこのテンション(緊張)が接点として見出す聴き手(生活者)側のフラットな感度にフィットしてくるのかは見えない。渦巻く熱量が宛先不明のままに、眼前に在る、そのような印象さえ受ける奇妙な作品だと思う。

 最後に、この作品には、過去の彼らの作品では潜んでいた偶景(アンシダン)が殆ど感じられないのが個人的に残念でならない。とともに、彼らのこの音楽は多くのユースの難渋な自意識をサルベージしたとしても、意味世界で生きていない人たちにはどう響くのか、それに少しの憂慮もおぼえてしまう。そして、RADWIMPSはこのテンション(緊張感)を保持したまま、果ての「その先」 を行くのか、複雑な想いにもなる。

《「金輪際 関わんない」「ついに諦めた、万々歳」「だけど最後に、お願いよ 耳澄ましてみて」》(「グラウンドゼロ」)

(松浦達)

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tpobpah.jpg 以前のシアトルでのライヴレポートの際にも書いたが、ザ・ペインズ・オブ・オブ・ビーイング・ピュア・ハートは、セルフタイトルを冠したファースト・アルバムから、着実に進化を遂げている。「Higher Than The Stars」EPにおいて、表題曲でプライマル・スクリームを意識したというシンセサイザーを前面に押し出したダンス・サウンドへ歩み寄る試みはもちろん、「Say No To Love」や「Heart In Your Heartbreak」といったシングルをリリースする度に、貪欲に新しいカラーを取り入れてきた彼らだけあって、セカンド・アルバムが今春発表されるという報は、今まで以上に多くのリスナーの期待を高めずにはいられないものだっただろう。しかも、プロデュースにスマシング・パンプキンズ、ナイン・インチ・ネイルズ、シガー・ロス、ジーザス・アンド・メリー・チェインなどを手がけてきたフラッド、ミックスに同じくスマパンやNINやジザメリに加えて、デス・キャブ・フォー・キューティー、ブロンド・レッドヘッド、果てにはマイ・ブラッディ・バレンタインやライドといったシューゲイズの雄たちを手がけてきたアラン・モウルダーを迎えて制作されたという事実だけで、インディー・ミュージック・ファンにとっては垂涎ものではないだろうか。スマパンの『Siamese Dream』を共通のフェイバリットの内の一枚として掲げているだけあって、バンド側も、このアルバムを発表するまでは死んでも死に切れないくらいの思いがあったことだろう。

 さて、満を持してリリースされるこの『Belong』は、端的に言うと、「Say No To Love」以降のシングルのジャケットのアートワークが象徴するように、ファースト・アルバムよりも、格段にカラフルな世界を見せてくれる豊満なサウンドだ。ファーストで彼らが示してくれた、モノクローム、あるいは淡い単色の薄こけてただれたような世界(それはジャケットだけでなく、彼らのアーティスト写真やPVでも確認することができる)に、徐々に彩りが増し、平面的なきらいも否めなかった(もちろん、この平坦さはファーストの大きな魅力の一つでもあるのだが)サウンドは、遂には、抑揚を身につけ、広がりを身につけ、何よりも確かな温かみを身につけた。例えるなら、それは、秋の始まりを感じさせるように紅く染まりゆく街路樹を通り雨が過ぎ去り、木々の先に残った滴が雨上がりの陽の光を反射して、きらきらと光る並木道のようだ、と書いてみるといいだろうか。

 僕はこのアルバムの国内盤のリリースが発表されると同時に、最初に聴いた時、思わずスーパーカーやアートスクールといった日本のオルタナティヴ・バンドのサウンドの広がりの遍歴を思い出さずにはいられなかった。デビュー・アルバム『スリーアウトチェンジ』をリリースしたスーパーカーが以降、新作を発表する度に、深淵を感じさせるまでに奥行きを増していったように、アートスクールが『Flora』をリリースし、それまでの彼らの描いた薄れゆく君と壊れゆく僕を包んだ轟音の世界にシンセサイザーの軽快なポップ・センスが加わって、より豊満な世界を垣間見ることができたように、この『Belong』もまた、一辺倒なカラーが昇華され、元の絵の具と新しい絵の具を混ぜ合わせたような、「次の世界」を見せてくれる。
 
 少し余談だが、日本のオルタナティヴ・バンドと比較を試みた上で、もう少し、加文させて頂くと、日本のオルタナ・バンドで世界観として彼らに近いのはスピッツであると僕は感じているのであるが、今作はスピッツ・ファンにもお薦めさせて頂きたいものでもある。彼らが歌う、「純粋さを保ち続けること」。そのためには歪んでもペインズ(複数の傷跡)を背負っても構わない、ただただその先のきらきら光る世界を切望し、それだけが見てみたいのだという無垢な衝動はスピッツのそれと、とても似通っているように思える。

 絵の具の先の新しい色は1曲目であり、シングルとしてもリリースされ、アルバムの表題曲でもある「Belong」を聴いてすぐに手に取るように感じることができるだろう。横に揺れるクリーンなアルペジオとタイトなドラムが軽快に鳴り、ローファイな轟音が襲ったかと思うと、すぐにクリーンとダーティな2つのギターは絡み合い、今までの彼らとは決定的に違うカラフルなノイズを響かせる。そこで、ファーストから何倍も温かみを増したキップ・ベルマンのボーカルが乗った時点で、あなたの目の前の景色は既に甘い暖色のトーンに変わっているだろう。ジーザス・アンド・メリー・チェインのような残虐な曲やアソビ・セクスを思わせる幻想的でキュートな曲もあれば、先のアートスクールが『14 SOULS』などで鳴らした清冽なまでのきらめきを保ちながら沈みゆくサウンドを想起させるような曲もあるが、どの曲もドリーム・ポップ、もっと言えば、オルタナティヴなポップ・エッセンスに包まれているから、素晴らしい。彼らがこれまでみるみる内に躍進し続けていく様を見届けていたリスナーからは驚きと同時に、「やっぱり彼らはやってくれた」というような確信の声すら聞こえてきそうだが、まさかここまでとは思えただろうか。それほどまでに、このアルバムは彼らを確実に新たなステージへ導き、多くのリスナーに彩りをもたらすようなポップ・センスに満ちている。
 
 たった一つ個人的に残念に思わずにはいられないのが、「Higher Than The Stars」EPの後にリリースされ、それまでの彼らとの決定的な差異を見せつけたシングル「Say No To Love」が収録されていない(残念ながら、国内盤のボーナス・トラックにも収録されなかった)ことであるが、それを補ってもこの『Belong』が、世界中の多くのリスナーの2010年上半期のベスト・オブ・インディー・ポップ・アルバムに選出され得るのは、まず間違いないだろう。「カラフルなペインズなんてにわかに信じ難くてアルバムにすぐには入るのは少し抵抗が...」なんてあなたには、是非、今作の前に「Say No To Love」を聴くことをお薦めさせて頂きたい。

 最後に、もう一度だけ書いておこう。『Belong』には彼らの新しい世界が詰まっている。それは、彼ら自身を新しい世界に進ませるだけでなく、インディー・ミュージック・シーンをもよりカラフルに染めてくれるだろう。僕は以前、クッキーシーンのムック誌に「彼らは00年代後半で最もホットだったシーンの一つ、ブルックリンの街角から出てき、それまでのこんがらがったニューゲイズ論争を一蹴した」といったような事を書かせて頂いたのだが、今作を聴くと、より彼らをニューゲイズという狭い枠組み一つで捉えることは不可能なのであると再認識させられるだろう。

 あなたが純粋さを保ち続ける上で、幾つもこしらえるだろう多くの傷跡に、この優しく甘いノイズが染み渡りますように。

(青野圭祐)

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nicolas_jaar.jpg ニコラス・ジャーと僕は似ている(実際、ライナーノーツにも僕が登場します)。ニコラス・ジャーは常に身近にピアノがあり、それを即興的に弾きこなしていたそうだ。そして、テクノに目覚めたキッカケが14歳のときに聴いたティガのミックスCDで、その年のクリスマスプレゼントにお父さんからルオモのアルバムとリカルド・ヴィラロボス『The Au Harem d'Archimede』を貰い、「今まで聴いたなかで一番セクシーな音楽だなと思ったよ」とぬかすニコラス・ジャー。 詳しくはライナーノーツに載っているので、買って読んでください。かなり面白いです。

 ちなみに僕も、音楽は常に身近にあった。クッキーシーンで書かせてもらった原稿でも何回か触れたけど、僕の親父とお袋は小さい頃からいろんな音楽(主にポストパンクやダンス・ミュージック)を聴かせてくれた。これは僕の友達のなかでも賛否がある話なんだけど、僕は87年に『ハシエンダ』でDJペドロのプレイ聴いた! まず、DJペドロとはロラン・ガルニエが『ハシエンダ』でDJを始めたときのDJネームだ。そして、なぜ僕がDJペドロのDJを聴いたと言えるのか? それは、僕が胎児としてお袋のお腹にいるとき、親父とお袋は『ハシエンダ』に行ってるからだ。よく胎内にいるときでも外の音は聞こえると言われているが、もしそれが本当なら、僕は『ハシエンダ』の音を胎児として体験していることになる。ただ残念なことに、そのときの記憶は一切ないのだが...。

 こうして書いていくと、ニコラス・ジャーと僕は共に音楽の英才教育を受けていると言えなくもないし、共通点も少なくない。ただ、ニコラス・ジャーにはその英才教育の成果を、音楽という形で表現できる才能がある。一方の僕は、ニコラス・ジャーみたいに音楽として成果を表現できる才能がなく、それでも好きな音楽に関わりたいがために、こうして「不誠実な寄生虫」として文章を書いている。そんな僕からすれば、この『Space Is Only Noise』は、嫉妬にも近い賞賛をしたくなるようなアルバムだ。

『Space Is Only Noise』は、Circus Companyというレーベルからリリースされている。昨年のDop『Greatest Hits』リリースで注目を集めたレーベルで、次にプッシュするのがニコラス・ジャーというわけだ。そのニコラス・ジャーのデビュー・アルバムは、実験的なポップ・ミュージックであると同時に、ダンス・ミュージックでもある。『Time For Us EP』や『Love You Gotta Lose Again EP』のように「トラック」として機能させようとした意識はなく、自由に様々な音楽を楽しんでいる様子が見て取れる。前衛的なインタールード曲「Sunflower」、美しいピアノとヴォイス・サンプルに鋭いヒップホップ・ビートが交わる「Specters Of The Future」、スーパーピッチャー『Kilimanjaro』を思わせる「Too Many Kids Finding Rain In The Dust」や「Keep Me There」など、アルバム全体としては今までのリリースで見せてきたダンス・ミュージック色に加え、ジャズやアフリカ音楽というニコラス・ジャーが幼少の頃から聴いてきた音楽の要素が色濃く出ている。そのためフロア直結型ではないが、映画のサウンドトラックのように全体としての世界観はより強固なものとなっている。そして、『Space Is Only Noise』の音は歌っている。わかりやすいヴォーカル曲があるわけではないが、音のひとつひとつに言葉と風景が刻まれていて、それらが一斉に歌っているかのように聞こえるのだ。それは時折SSWアルバムと錯覚させるほど。そういう意味では、ジェームズ・ブレイクの『James Blake』に近いと言えるかも知れない。ただ、『Space Is Only Noise』のほうがより強い主張があるし、『James Blake』にある孤独さというのは感じられない。メランコリックではあるものの、より豊かな感情表現がある。

 そして、この豊かな感情表現と主張の強さの理由は、ニコラス・ジャーのこんな発言からも垣間見える思想によるものかも知れない。

「90年代を通して、ダンス・ミュージックはスピードをあげたかもしれないけど、一方で表現する幅は狭くなった」(ライナーノーツから引用。発言元はガーディアンのインタビュー)

 このあとは「とても一面的で、現実逃避のサウンドトラックになってしまった」と続くが、この話には同意できる。というのも、The Kink Controversyで現在のダンス・ミュージックについて書かせてもらったことと一致する部分もあるからだ。ニコラス・ジャーは、ダンスフロアに感情の幅広さと「自己」を呼び戻したと思う。上手く表現できる言葉が見つからないが、ニコラス・ジャーの音楽がダンスフロアで鳴り響いた瞬間、そこにいる人々は私小説を披露することが許される。そして、それぞれが自分を表現することによって「人は皆違う」と理解し、その点においてその場に居る人達が「共有」できる何かが生まれる。それは、無理して大衆となり息苦しい思いをしている人や、無理して大衆になれないがために疎外感を抱いている人。そうした人々も許容される場ではないだろうか? 美しい緊張感とメランコリックに溢れながらも、自由でリラックスとした雰囲気すら感じる『Space Is Only Noise』を聴いていると、そんなダンスフロアの新たな風景が見えてくる。

(近藤真弥)

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bo-ningen.jpg BO-NINGEN(棒人間)。我々人間が自らを「人間」とすると、なぜかドキリとする。それとも、この「棒」という単語が曲者で、無機質な「棒」という単語と、血肉が通ってこそ生きている「人間」という考えから、相反するそれが並ぶ事で「死」を連想してしまったりして、ドキリとしてしまうのだろうか。

 いずれにしても、BO-NINGEN(棒人間)と名乗る、この日本人の四人組は、活動の拠点をUKに持ち、ザ・ホラーズのお気に入りであったり、各地で精力的なライブをこなす事で話題を振りまき、このデビューアルバムが届くまでには、ここ日本よりも海外での認知度を高めていったようだ(それにしても、海外で人気の日本人バンドとは日本での認知度は低いというのは、世の常だろうか。)
 
 その見た目は1970年代から飛び出してきたような時代錯誤(失礼承知で言うならば)な長髪とファッションというのは、ヴィジュアル系がウケてると聞く海外の好みから言えば少なからず要素の一つだろう。海外を拠点にしながらも、詩の99%を日本語で歌う事はその場所で活動を続ける彼らを特徴付ける要素でもあるだろし、そんな日本語を楽しんでいるようにも思える。彼らは、「koroshitai kimochi」と曲のタイトルにつけ、「殺したい気持ち」という殺伐とし気分をアルファベットを並べて中和しているようだ。また、そんな言葉をはきだす歌い方も特徴的で、(急にこんな事を言えば的外れかもしれないが)僕は、「北斗の拳」を思い出してしまう。ケンシロウが一子相伝の北斗神拳をもって、アベシ! と言わせるあれだ。「あたたたた!」と北斗百列拳を繰り出すケンシロウのようなあの甲高い声が、ところどころでシャウトされ、僕は思わずにんまりしてしまう。実にこれがいいスパイスになっている。こう言うとまるで「イロモノ」だが、ブラック・サバス直径のようなギター・リフに、展開はプログレッシブ・ロックという様は、一筋縄ではいかない。全体を通して、サイケデリックな音使いではあるが、今まで語った要素を足してみると、「サイケデリック」という言葉は、「おどろおどろしい」という言葉にも置き換えられる気がする。日本語、アニメ、おどろおどろしい。実に彼らは日本的である。そんなバンドが海外で活躍しているのなら、とても喜ばしい事だ。
 
 ところで、偶然なのか必然なのか「人間」と名乗る、とあるバンドを思い出す。かつて、一世風靡した番組、イカすバンド天国出身のバンド、人間椅子である。その「椅子」という無機質な物体と「人間」という単語を組み合わせるセンスもさる事ながら、上記にあげたサウンド面の特徴とは、ほとんど人間椅子にも当てはまる。そして、BO-NINGEN(棒人間)が海外で日本語を歌うように、青森出身の人間椅子は東京の地で津軽弁を交えた歌を歌う。もしかしたら、この精神こそ、両者の共通項の根源なのかもしれない。それにしても、かつてはねずみ男の衣装にまで身を包んだ人間椅子とは、あの時代には早すぎた存在だったのかなと、BO-NINGEN(棒人間)の活動を見ながら思い、そして、少し悔やむ。「BO-NINGEN(棒人間)よ、人間椅子のためにも頑張ってくれ!!」と言ったら、いまだ現役の人間椅子に怒られてしまうだろうか。

(佐藤奨作)

*日本盤は4月6日リリース予定です。【編集部追記】