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abd_al_malik.jpg「スラム」という様式を世間にアピールした06年のセカンド・アルバム『GIBRALTAR』の鮮烈さはいまだに記憶に新しい。05年のフランス・パリの郊外で起きた暴動事件に関連する形で、フランスという国の持つ固定化された階層構造についてメスを入れたのみならず、グローバリゼーションの進捗下で、「もてる者/もたざる者」が決して規得の型枠の中で形成されるものではなく、或る程度、"innate"なものが優先されるというあからさまな図式をメタ化するような詩情は美しかった。例えば、「La Gravité」という曲で、《Avoir mal à la bourgeoisie comme Che Guevara, se lever chaque matin sans réellement savoir pourquoi, Souffrir du non sens, une maladie qui n'épargne aucun personnage, Je viens d'un lieu où rien n'est jamais vraiment grave.(チェ・ゲバラのようにブルジョワジーに不快をおぼえ、毎朝起きる理由も本当にはわからない 意味のなさに苦しむ この病気はどんな人物であろうと逃さない 重苦しいことなどない土地から私は来た)》と、コンゴ系フランス人の彼が綴る意味は大きかった。

 今思えば、スラヴォイ・ジジェクの『暴力――6つの斜めからの省察』(青土社)に繋がるところもあった気もする。ジジェクの指摘した暴力論とは、直接的な関与や対峙では暴力を再生産する恐れがあり、「斜めからの視線」を持った上で向き合うべき余白を用意する。要は、散文的な態度を取り、シビアに観照することで、新しく「暴力」に対しての言葉に依拠した対抗ではない、非言語としての芸術の一姿勢として音楽が持ち上がるとき、その音楽に近い形を取る詩のみが「何か」を語ることができたのかもしれないとしたなら、スラムはモダン(近代)以降の音楽様式を予め含んでいたともいえる。

 少し説明しておくと、スラムとは、80年代のシカゴで始まり、フランスでは90年代以降にも行なわれるようになったポエトリーリーディングのパフォーマンスの一種である。スラム・セッションは、カフェ、ストリート、バー、あちこちの「人の居る場所」で行なわれ、それがまた電子媒体などに乗る形で世界中に伝播していったからして、それらを間接的にでも観た方々も多いことと察する。

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 アブダル・マリック(ABD AL MALIK)は精緻な意味では、スラムというフォーマットを活かしながら、あくまでラップ、ヒップホップのセンスを軸にしたアティチュードを取るとともに、例えば、セルジュ・ゲンスブールが生きていたら、間違いなく剽窃したであろう「ポエトリーリーディング・ミーツ・ジャズ」、はたまた、一部のメディアが言うような「シャンソン・ミーツ・ヒップホップ」とでもいえるような流麗なスタイルも纏っていた。また、舌鋒鋭く世の欺瞞を暴くパースペクティヴと、ストリートに根差した峻厳で哲学的な思考を巷間に向けて昇華させていた手際も周到だった。

 08年の手堅い深化作『Dante』を経て、今回、新しいアルバムをかのゴンザレスがプロデュースするということを聞いたとき、良い形での化学反応が起きるのか、それとも、沈潜するようなビート・メイクとエレクトロニクスの中に彼の声も埋もれてしまわないか(つまり、マニエリスモに回収されてしまわないか)、個人的に二つの考えが浮かんだ。

 結論から言うと、この『Château Rouge』はその二つの選択肢の間を縫うような、そして、避けるような、大胆な舵取りをした作品になっている。ゴンザレスの意向が明瞭に示された、チープであり、過剰にフックがあるエレクトロニックな意匠が凝らされたトラックの上で、スラム、ラップという既存のスタイルを取りながらも、ときに朗々と「歌う」というギクシャクした要素も含まれており、これまでの彼のイメージを覆す実験性が先立ちながらも、ポップな開け方をしている。それだけに、過去のような"「歌」としての政治性"の必然は此処には感じることはできないかもしれない。しかしながら、個人的には、スノビズムといった何かで割り切って流してしまうよりも、彼自身が踏み込んだ「場所」自体に興味深さを感じる。その場所には、例えば、おそらく比較に出されるであろうアンチコン界隈のヒップホップとは一線を隔したものであり、どちらかというと、ルーペ・フィアスコ(LUPE FIASCO)『Food & Requor』、キッド・カディ『Man On The Moon-The End Of Day』辺りの作品やニンジャ・チューンのヒップホップ・レーベルであるBIG DADAのアーティスト群に近似する「ベタ」な温度を感じるからだ。

 惜しむらくは、PVでおどけながら歌うコミカルなチープ・エレクトロ・ポップ「Ma Jolie」や80年代風のダンス・ビートの野暮ったさが残る「Syndi Ska Liste」といい、要所でどうにも、「大味」のプロダクションが目立つ点と、ゴンザレスのプロデュースと彼が噛み合っていないところが散見することだ。彼自身も今作にあたってはインタビューで「エレキギターを持ったボブ・ディラン」なんて発言もして物議を醸しているが、これまでのキャリアになかった軽やかさを得るための急進性を選んだという意味では、「次」に繋がる過渡期としての作品として捉えるべきかもしれない。或る意味で、メタに知性を駆使してきた彼がベタなポップ・フィールドに降りようとしたコンテクストが透けて見えるという手応えともどかしさを感じる面白い意欲作だと思う。

(松浦達)

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ducktails.jpg これこそインディー・ポップの真骨頂、醍醐味であるといえる作品。リアル・エステイトのギタリスト、Matthew Mondanileによるソロ・プロジェクトの3rdアルバム。平坦なドラム・マシーンと、トロピカルかつサイケデリックに重ね合わせたギターによる人力アンビエントは、文字通りDIYかつローファイであり、「こねくり回していたら、こんなものができちゃいました」と言わんばかりの、強烈なセンスが光る(しかしながらギターの演奏は相当の上手さ)。
 
 リアル・エステイトでは、ドリーミーかつポップなバンド・サウンドの中に、危うさ、ノスタルジー、あるいは毒のようなものが垣間見えていたが、ダックテイルズにおいては、そういった複雑な要素は薄まっている。現実的なしがらみからトリップしたかのように、ストレス・フリーで白昼夢的だ。いずれにせよ、00'sの最後に現れた新機軸バンドが、非常にトラッドなインディー・ポップを鳴らしているというのは気持ちがいい。この質感は堪らない。

(楓屋)

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hoshinogen.jpg WIRED VISIONの2010年11月30日の記事
で、情報の中毒性と既知の事実への新たな知の好奇心のシステムについて触れている。ワシントン州立大学の神経科学者JAAK PANKSEPP氏の「ドーパミン系の予期せぬものを見出したり、新しいものを期待したりすることで活性化される」という言に沿うと、毎日の大量の情報の摂取とは健全なる「報酬」のメカニズムを示唆する訳だ。しかし、同時に人間の情報処理能力や記憶のキャパシティは有限であり、好奇心の射程も「しれている」。

 同記事では、アメリカの政治学者のLARRY BARTELS氏の調査も取り上げ、政治に詳しい人だとしても、「支持政党に起因するバイアス」から逃れられない理由として、「人々は自分たちが既に信じていることを裏付ける事実しか吸収しない傾向にあるからだ」と述べている。要は、「知らないことに関して、知らない」という姿勢を造作もなく、人間は取ることが出来るのとともに、自分の中でインストール済みの情報や知識を反復する為に、その媒体にアクセスして「再確認」してみることも多くなるというのは当然ということだろう。だから、昨日、雑踏ですれ違った人の表情を想い出そうとするよりも、自分の中のミームで仕切られた情報の中での制限された報酬を得ることで満足する瀬を更新というのか、後進というのか、人それぞれだとしても、「日常は退屈に溢れている」と降りてしまうには、確認出来ないことが多すぎる。それをして、星野源はささやかに《くだらないの中に 愛が 人は笑うように生きる》と歌う。そこには過剰なロマンティシズムも自己陶酔も啓蒙もモードもなく、彼自身がインタビューで自分を評する際の「普通の人」としての真っ当な感覚が裏付けされている。
 
 SAKEROCKのリーダー、劇団大人計画の俳優、文筆家など多彩な顔を持ち、コアなファンも多い彼が昨年にリリースした「うたもの」要素が強く出た彼流の『Hosono House』とでも言えるだろうか、ファースト・ソロ・アルバム『ばかのうた』の存在感は大きかった。

 内容自体としては大仰でもなく、どちらかというと、地味でストイックな要素が強かったが、この作品によって彼の「声」や「詩情」を改めて発見した人も居ただろうし、彼を取り巻く総体的な活動にそこまで興味を持っていない人たちにも良質な作品としての魅力を感じさせたのは、逆説的にその新しさも劇的な仕掛けもない、柔らかな温度が立ちのぼる、陽炎のような「平穏な日常が忍び寄る気配」に依拠していたような気もする。平穏な日常がすぐ傍まで自分に寄ってくる「気配」とは、隠し事のない、或る種の残酷な世界観としての意味も含まれてくる。ゆえに、彼が筆致する描写は《世界は ひとつじゃない もとより ばらばらのまま》(「ばらばら」)、《いつかなにも 覚えていなくなるように 今の気持ちも 忘れてしまうのかな きっと 腐った体だけを残して》(「キッチン」)、《寂しいと叫ぶには 僕はあまりにくだらない》(「くせのうた」)、《朝起きて 仕事して 帰ると君が 腹へって 冷蔵庫 開けて二人は ぼんやりとチューするの》(「子供」)のような他愛なく、時に彼岸を思わせる視点が内在される。その内在された視点の箱庭で暮らすのは、彼が当初に設置した登場人物ではない「君や僕」かもしれないところに意味があったとしたならば、此岸の「君や僕」は彼の唄う彼岸の「君や僕」に近付こうとするために、自らの他愛のない日常を再確認することができた、行為性を引き寄せるという深みもあった気がする。また、僕個人としては、『ばかのうた』にはコリン・ブランストーンの『一年間』、ロバート・ワイアット『ナッシング・キャント・ストップ・アス』、中村一義『太陽』などの作品に宿る、じんわりと聴いた人の心を暖める歌い手としての「うたごころ」に通底する何かがあったのも美しく感じた。

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 ファースト・ソロ・シングルとなるこの「くだらないの中に」も、取り立てて斬新な試みもなにもない、『ばかのうた』の延長線上にある凛とした視線が貫かれている。良い具合に肩の力の抜けたフォーキーな表題曲、叙情的な「歌を歌うときは」、朗らかなムードの「湯気」の3曲の新曲と、「ブランコ」、「くせのうた」の自宅で一人で録られたというテイク、初回版には「くだらないの中に」、「くせのうた」のPV、『ばかのうた』や今回のシングルを巡るドキュメンタリー、ソロ・ライヴの映像、オーディオ・コメンタリーなどを収めたDVDが付属しており、昨年からのソロ・アルバム・プロジェクトの総集編のようなヴォリュームになっている。
「くだらないの中に」での登場人物も、相変わらず「君と僕」で、「魔法」や「希望」なんて大文字の言葉に魅かれたりしながらも、結局はお互いの髪の匂いを嗅ぎ合ったり、首筋の匂いがパンのようですごいな、と絡まり合うだけで蒸発してゆく"湯気"のような景色に溶け込んでしまう儚さとありふれた風景が縁取られている。対象化させるように、2曲目の「歌を歌うときは」では、《想い伝えるには 真面目にやるのよ》という素面の冴えたフレーズも挟まってくるのが印象に残る。

 このシングルでの「君」もブレはない。それでも、何度確かめても「君」が「君」なのか、分からないような人間の性(さが)に寄り添う分だけ褪せないタナトスがこれまでよりも濃厚に宿っている。そのタナトスが覆う平坦で朧ろな日常を掻い潜って、君「と僕」が担う「くだらない」の中に果たして、本当は誰が残響するのか、が確かには視えない場所に彼の素面の鋭い知性が突き刺さったまま、宙空に浮かんでいる。浮かんだままで、彼の手元から日常という「彼岸」へと投げられた先に何があるのか、その想域は聴き手に委ねられている。

《心が割れる音聴きあって ばかだなあって泣かせあったり つけた傷の向こう側 人は笑うように》(「くだらないの中に」)

(松浦達)

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antichrist.jpg『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などを手掛けたラース・フォン・トリアーが監督した新作『アンチクライスト』はシャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォーが主演し、シャルロットは今作の演技で第62回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞している。

(*ストーリー・愛し合っている最中に息子を事故で失った妻(シャルロット・ゲンズブール)は罪悪感から精神を病んでしまい、セラピストの夫(ウィレム・デフォー)は妻を何とかしようと森の中にあるエデンと呼ぶ山小屋に連れて行って治療を試みるが、事態はますます悪化していき...。)

 ラース・フォン・トリアー監督が自身のうつ病からリハビリとして書き始めた今作は彼にとってのセラピーになったようだ。大ヒットしている『冷たい熱帯魚』の園子温監督もこの映画を作ることで自分自身が救われたとインタビューで答えていたが、どちらも強烈な作品であり目を逸らしたくなるようなシーンも性的な描写もある作品である。

 壊れていく妻であるシャルロットとそれを見守る夫のウィレムのセックスシーンはぼかしが入っているのだが海外の映画はそこまで作品のためにできるのだなあと改めて思いながら観賞した。二人の性行為シーンは妻の肉薄した壊れそうな自分を救ってほしい、この世に繋ぎ止めるような行為であり、シャルロットの自慰行為などもぼかしを入れる必要あるのかと思ってしまった。ない方が自然だし、入れる事で余計に意味を持たしてしまうような気もする。

 精神が壊れてしまう妻を観ていると思い浮かんだのは橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』とトラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』の二作だった。『ぐるりのこと。』はとても素晴らしく壊れてしまった妻とずっと一緒にいた夫との時間を社会に起きた事件などを描きながら二人がいたその時間を丁寧に描いた作品だった。

 『ノルウェイの森』は非常に脚本がクソだとしか思えない展開で原作の村上春樹『ノルウェイの森』を読んでないと映画の物語が補完できない残念な作りだった。そしてこの作品はボーイフレンドが自殺して精神が病んでしまった直子を演じた菊地凛子や小説では重要なキャラクターだったレイコを演じた霧島れいかとの性行為シーンが胸すら出ないし映ってないという不自然極まりないシーンで内容も残念な事ながらそこにもリアリティの欠片もなかった。

 シャルロットの演技を観て、一部のきわどいショットは代役らしいが(おそらくはそれはクリトリスや女性器が映っているシーンではないかと思うのだが)、性行為シーンや『ノルウェイの森』の原作小説でいえば緑のパンティで包んで手コキ(映画ではそのシーンはなかった)に近いシーンでも彼女はウィレム・デフォーと肉体を持って演技して、妻になっていた彼女を観ながら僕は『ノルウェイの森』の菊地凛子もシャルロット・ゲンズブールぐらいしてくれたらあの映画もまだ少しだけマシにはなったのではないかと思いながら観てしまった。画というか撮り方がアートフィルムのような感じの部分もあり、そこの辺りは少し眠気を感じたりもしたが、後半に行くにつれて妻と夫しか出てこないシーンでの展開と妻が夫にする行為を観ながら喉がとても乾いた。

 セックスとある種の暴力を描く事で、観ることで、救われる何かというものが人間の何かは少なからずある。そこには作品における殺人も含まれていると思う。人は体験できないことを、しようと思ってもできないことを作品で疑似体験するによって救いだったり癒しやストレスからの開放を見つけれる事ができる。

 ミニシアター系の単館系の映画館の閉館が続き少しだけ話題になったが、シネコンの乱発でスクリーンは増えているのに上映される作品の数自体は減っているようだ。スクリーンが増えても同じ作品を多く流されるという状況の中でこの『アンチクライスト』の公開や一月末に公開され連日立ち見になりヒットしている園子温監督『冷たい熱帯魚』という作品が求められる理由は簡単だろう。

 観客は制作側の「どうせこのくらいの内容で役者で知名度がある原作なら客入るっしょ」的な考えで作られた作品にはもう飽き飽きしているのだ。いろんなものがフリーになっていく時代の中でお金を払ってでもみたいのは作り手の強烈な才能や禁忌とすら戯れているようでもあるラインを越えてしまうような作品に出会い、体験したいのだと思う。

 シャルロット演じる妻が下半身丸出しで森を彷徨うシーンや夫の自由を奪うためにする目を背けたくなるような行為や、セックスの最中に子供を失ってしまった事に対しての懺悔のようなシーンの強烈さ、などまさしく息をのんでしまう。観終わった後に劇場から渋谷の雑踏に立ったときに、少しだけラース監督がこの作品によって救われたと言った事がわかるような気がした。

(碇本学)

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bright_eyes.jpg 「ブライト・アイズの新作が出た!」ってことで、僕がツイッターでフォロワーさんと交わした会話に「あの手コキの歌、好きですよ!」という言葉があった。僕はもちろん激しく同意。その歌は2004年に「Lua」と同時にリリースされたシングル「Take It Easy(Love Nothing)」のこと。"最初は手でやってもらって、その次は..."って、いきなり歌い出すあたりが素敵。この2曲は全米チャートで1位と2位を独占した。ブライト・アイズは当時、ブッシュ政権の再選を阻止することを目的とした"VOTE FOR CHANGE"ツアーに参加。スプリングスティーンやR.E.M.とステージを共にしているが結局、そのときはブッシュが再選を果たしている。ブライト・アイズはその直後、ブッシュ政権を批判する「When The President Talks To God」をiTunesからリリースした。手コキの歌のあとに、真摯なプロテスト・ソングで国家に楯突く。僕はその時からブライト・アイズを本気で好きになった。僕たちにとっては両方とも切実な問題だから。

 前作『CASSADAGA』がリリースされたのは、ブッシュ政権下の2007年。荘厳ともいえるオーケストラ・アレンジと緻密なリズム・アプローチ(ジョン・マッケンタイアも参加)が印象的だった。カントリー/フォーク・ミュージックを現代へと継承するソング・ライティングも本当に素晴らしかったけれど、かつてのような「叫び」は抑えられている。安定感のあるサウンドは、ブライト・アイズがコナー・オバーストのソロ・ユニットからバンドへと変貌したことを印象づけた。その後、ブライト・アイズはデビュー以来初めてコンスタントなリリースを休止し、コナー・オバーストのソロやモンスターズ・オブ・フォークとしての活動へと移ってゆく。そしてブッシュが表舞台から姿を消すまでに、僕たちは2年も待たされることになる。

 2009年のオバマ政権誕生から、さらに2年。ようやくブライト・アイズとしての新作が届けられた。タイトルの『THE PEOPLE'S KEY』とは、クラシックやポピュラー・ミュージックで"Gメジャー"を表す言葉だという。ギターやキーボードを持っている人は、ポロンと鳴らしてみよう。"人々のキー"と呼ばれる理由がわかるかもしれない。アルバムはSF調のスポークン・ワードに導かれて幕を開ける。燃え上がるジャングルのようなアートワークも意味深だ。バンドは前作と同様にコナー・オバースト、マイク・モギス、そしてネイト・ウォルコットを中心に編成されている。曲ごとにカーシヴやザ・フェイント、ナウ・イッツ・オーヴァーヘッドなどから、気心の知れた仲間たちが参加。サウンドは前作よりもシンプルでタイトだ。カントリー/フォーク・ミュージックへと連なるフィーリングは希薄で、ミュートを効かせたギターのカッティングとシンセはむしろニュー・ウェーヴっぽくもある。そして震えるようなあの叫びは、ひと言ひと言を噛みしめる強い歌声へと完全に生まれ変わっている。

 その歌声には、古代の神話、近未来のヴィジョン、ヒトラーとエヴァ・ブラウン、そしてラスタファリアニズム(!)などの象徴的なキーワードがたくさん散りばめられている。特にラスタファリアニズムからの引用が興味深い。「Firewall」では、"Lions Of Judah"や"I And I"という言葉が使われ、「Haile Selassie(ハイレ・セラシエ)」というタイトルの曲もある。でも、不思議なことにサウンドとしてレゲエを取り入れたアプローチの曲はひとつもない。

 エチオピアには、「アフリカをひとつにするのは、黒人の王が即位する時だ」という予言どおりに、ハイレ・セラシエ1世が皇帝に即位したという歴史がある。ラスタファリアニズムの起源となったエピソードだ。その姿をバラク・オバマの登場になぞらえているって思うのは、深読みのしすぎかな。それでも僕はこのアルバムを聞いた後に、ボブ・マーリィの「Redemption Song」を思い出した。アコースティック・バラードとして永遠ともいえる力強さを持った名曲だ。前半では搾取されてきた人々の歴史が歌われ、後半では現代の核兵器を中心とする軍事的な科学へ懐疑的な眼差しが向けられている。過去と未来の真ん中に立った人々の歌だ。それは2011年の今、この世界そのものでもある。そしてブライト・アイズは「A Machine Spiritual (In The People's Key)」(Gメジャーの機械霊歌)で、こんなふうに歌っている。

《歴史がお辞儀をして、脇にどいた/ジャングルの中には紫の光の円柱がある/僕たちはやり直すんだ》

 少しだけ時は流れた。残念ながらもう手コキの歌はないけれど、ブライト・アイズが帰ってきた。きっかけは外国人の違法滞在を取り締まるアリゾナ州法SB1070号への抗議団体"THE SOUND STRIKE"の結成だった。異議を唱えよう。そしてまた、前へ進もう。僕は今、ギターを抱えて"人々のキー"を鳴らしてみる。「Redemption Song」もGメジャーだった。

(犬飼一郎)

*日本盤は3月2日リリース予定です。【編集部追記】

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radiohead.jpg 2月14日、レディオヘッドのニュー・アルバム『The King Of Limbs』が週末にリリースされることが突如発表になった。僕はそれをTwitterで知った。その後、彼らのtwitter公式アカウントから、日本語で「渋谷 ハチ公広場 金曜日18時59分」とツイートされ、様々な憶測が流れた。

 結局のところ、渋谷駅前を占拠する3基の巨大ビジョンで、ニュー・アルバムから「Lotus Flower」のPVが世界で最初に流されるということだったらしい。しかし、ライブ・パフォーマンスがおこなわるかもしれないなどといった憶測が流れ、そのことを否定するも渋谷のハチ公前に人が集まり混乱になる可能性が高いということで、日本のレーベル、ホステスから企画自体が中止になった事が発表された。 

 僕自身は午後六時に仕事が終わり、中止になった事を知らぬまま渋谷に向かっている電車の中でその発表について知った。とりあえず様子だけ見ようと思いハチ公広場に向かった。金曜日だった事もありたくさんの人が待ち合わせしていたが、なんとなく普段よりも欧米系の外人の姿が多かったように思えた。何も起こらないのならばと僕は家路を急いだ。 

 その後、もともと予定されていた時間ぐらいに『Lotus Flower』のPVがYouTube上にアップされ、一日前倒しでニューアルバムが「今すぐ発売」となって配信開始された。僕もTwitterのTLを眺めながら予約していたのでダウンロードを開始した。トラフィックがあまりに混みあっていたせいか最初はうまくいかずにいたが、数分後にはダウンロードできた。一通り全八曲を聴いた時に二曲目『Morning Mr Magpie』と七曲目『Give Up The Ghost』と八曲目『Separator』が特にいいなと思い、その後も何度も繰り返してアルバムを通して聴いた。 

 全体的にはなんというかしなやかなダンスを見ている体験を聴いたようなリズムというのだろうか、僕の中にゆっくりと溶け込んでいくような音だった。『Lotus Flower』のPVでトム・ヨークがダンスしているせいかもしれないがそんなイメージ。ちなみにそんなPV監督はブラー「Coffee & TV」などでも有名で、以前に僕もレヴューを書いた『リトル・ランボーズ』のガース・ジェニングス。 

 このアルバムに付属するもの全てがこのアルバム『The King of Limbs』ではないかと何度も聴きながら思う。そこで思い出したのが大塚英志著『定本物語消費論』だった。 

「1980年代の終わりに、子供たちは『ビックリマンチョコレート』のシールを集め、『人面犬』などの都市伝説に熱狂した。それは消費者が商品の作り手が作りだした物語に満足できず、消費者自らの手で物語を作り上げる時代の予兆であった。1989年に於ける「大きな物語」の終焉を出発点に、読者が自分たちが消費する物語を自分たちで捏造する時代の到来を予見した幻の消費論」(本の裏面の紹介文より)

「『ビックリマン』において子供たちは、一枚一枚のシールという目に見える商品を購入することを通じて、実はその背後にある『ビックリマン神話』を手に入れようとしていた。商品の実体はシールでも、ましてやチョコレートでもなく、<神話>そのものだったのである。『ドラクエ』や『ファイブスター物語』でもそれは変わらない。消費者は<神話>や<歴史>の全体像を知る手段として、その断片であるソフトやコミックを買うのだといえる」(文庫版 P66より) 

 音源のダウンロードではシールのような実物ではなくデータであるので目には見えないが、ネット上でリリースされることやTwitterでの告知やそれにまつわるツイートなどが可視化される。そして中止になっても知らないでハチ公前に集まった人達が期待していたのは<神話>や<歴史>をニューアルバムについての何かがハチ公前で起きる事が目の前で起こるだろうという期待、それは一種の<祭り>であった。大規模なものではないにしても、リアルタイムで流され拡散される情報によりレディオヘッドに期待する人、洋楽ロックに興味ある人がネットを通じてその祭りに参加しようと期待値を膨らませていた。その流れも今回のアルバムには付随してしまうものだった。 

 中止になったからこそすぐに前倒しでダウンロードを始める事で、この祭りは不満で潰される事なく哀しみの後の喜びのように届けられた。現実において彼らの音は届いた。だが、彼らが今まで作りだしてきた音楽にあるリズムとそのメッセージ性が、現実の中において、聴けば聴くほどにある種の形を僕の中で作りだして行く。 

 僕がそうやって<祭り>だったり<祝祭性>という言葉を使うようになったのは社会学者・鈴木謙介著『カーニヴァル化する社会』を読んでからだが、彼は本文を始める最初の「ふたつの「祭り」+1/お祭り化する日常」において、  こう書いている。

「夢を語る/騙ることが問題なのではなく、こうも容易くたくさんの夢を見ることができる時代に、なぜ私たちは夢から醒めることができないでいる、あるいは醒めようとしないでいるのかについて考えるのが、本書の役割であるのだから」(P12より) 

 さきほど引用した『定本物語消費論』の著者である大塚英志は、かつて『MADARA』という漫画の原作を手がけている。その作品はメディアミックスされ、今の角川書店におけるメディアミックスの基になっていると彼は主張しているのだが、そこにあった一筋縄ではいかない顛末の結果として『MADARA』という言葉をタイトルからはずし、"終わらす為に書いた"作品『僕は天使の羽を踏まない』の文庫後書きにて、こう書いている。 

「ぼくは中途でしばしば物語ることを放棄するし、読者に小説の外側の世界をいつも突きつけようとする。なるほど、しばしの間、夢を見ていた読者にとってぼくは迷惑で無責任な小説家なのだろうが、しかし、ぼくにとって小説は夢を見せるためではなく、醒めさせることのためにある」(文庫版 P282より) 

 僕がずっとレディオヘッドに感じていた事は、彼らの音楽は夢を見せるものではなく醒まさせる事にある音楽という事だ。ラストの八曲目『Separator』の最後で「wake me up」とトムが何度も歌っているように。

(碇本学) 

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radiohead.jpg「作者」が表現の全体を把握し、「読者」は作者の唯一のメッセージを読み取る「解読」を行っていた時代では、その主従関係のバランスとともに表現の隷属者であったのは作者なのか読者なのか、曖昧であった。しかし、今や「作者」がその特権的な位置を消失した現在において、読者はどのような視角を持って「作者」に対峙すればよいのだろうか? ミスリーディングされた道をそのまま辿り、適度な場所で自戒すればいいのか、複数の意味を見出せばいいのか、幾つでも選択肢は「拡がった」中で、審美眼は読者側に預けられることになった。これが、所謂、「作者の死」を巡る基礎概念だ。

 読者とは、あるエクリチュ-ルを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛て先にある。(略)読者とは、歴史も、伝記も、心理ももたない人間である。彼はただ、書かれたものを構成している痕跡のすべてを、同じ一つの場に集めておく、あの誰かに過ぎない。(ロラン・バルト『テクストの快楽』より)

「誰か」は「僕」かもしれないし、「君」かもしれない。そうだとしたら、『Kid A』とはまさに「誰も」であった。それはレディオヘッド自身を映した鏡面であったのかもしれないし、今更、新しい装置としてのロックを起動させるという意味を避ける為の潜航だったような気もする。

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 2月14日にオフィシャル・サイトでふとポストされた新しいアルバム『The King Of Limbs』のリリース告知と、その後の過度な盛り上がりと、レディオヘッド側のまどろっこしいマーケティング手法には個人的に少し消耗するものがあった。『In Rainbows』のときも、急遽、買い手側の言い値方式のリリースを敢行し、話題になったが、それは彼らがレコード・レーベルの契約に振り回されていない身分であるということよりも、セールス・ポテンシャルが強い自分たちを用いた実験のような、遊びのようなものが見えた。「システムとして新しい」、「既存のリリース・スタイルを変えた」など多くの賛美の声も寄せられたが、それは部分的な変化であり、全体様式としての影響とはまたセパレートして語られる知的な蛮行だったと思う。その"知的な蛮行"というイロニカルな要素がレディオヘッドの良い要素でもあった訳だが、今回の彼らの「仕掛け」はどうにも野暮ったく、"物語なき時代"における謎解きとしての面白さ以上の付加的要素を見ることができなかった。

 現代の状況においては、パラダイムに忠実であるか、パラダイムから自由であるか、といったことはもはや重要な問題ではないだろう。社会・経済的環境の変化、とりわけコンピュータやそのネットワークの加速度的な発達は、科学研究のスタイルにも、その中身にも大きな影響を与えている。すなわち、科学研究も含めた知識生産の様式(Mode)が大きく変化しつつある。というより部分的には、すでに変化してしまったのである。(M・ギボンズ、1998年)

 例のレディオヘッドのオフィシャル・ツイッターで2月17日にツイートされた「渋谷 ハチ公広場 金曜日 18時59分」を受けて、渋谷で大々的に流れるはずだったかもしれない(※企画が中止されたので、もはや真偽は分からないが。)トム・ヨークがダンスする「Lotus Flower」のモノクロームのPVは鮮やかで、また、曲も以前からライヴでは発表されていたものの、ダブ・ステップ経由のビート・メイクと幾層ものエレクトロニクスが神経症気味に絡みつく優美なアレンジに着地していたのは流石だと感じた。DEAD AIR SPACE(彼らのウェブサイト)のオフィス・チャートでAPPARAT「King Of Clubs」、ブリアル「South London Boroughs」、ローン(LONE)「Angel Brain」などの曲をポストしていたことからの影響も伺える音の肌理細やかさをそこには感じることが出来たからだ。そこに、《I'll set you free》、《Listen your heart》といったフレーズがトムのか細い声で紡がれる。個人的には、この曲を聴く分には、『Kid A』以上にバンド・サウンドとしてのダイナミクスを感じないのに不安になったが、アルバム自体はよりサウンド・テクスチャーの面で明らかに「細部に降りてゆく」ことは何となく想像していた。

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 このアルバムに至るまでの最近の経緯を簡単に追ってみよう。

 09年には、第一次大戦を戦った最後の元英陸軍兵、ハリー・パッチ氏の05年のTODAYのインタヴューをトム・ヨークが聞き、インスパイアされて作ったという「Harry Patch(In Memory Of)」と、「These Are My Twisted Words」という今回のアルバムに向けてなのか、レコーディングを行っていた最初期に録り終えた曲をダウンロード・リリースするものの、ストリングスが優雅な前者、ブレイクビーツに「Palo Alto」のような不穏なサウンドが被さるラフで実験性の高い後者といい、どちらも具体的なアルバムへの道筋を付けるという曲ではなく、単体としての意味が大きかった。2010年の1月にはLAでナイジェル・ゴドリッチとレコーディングを行なっているとの情報が入り、その後も、各々メンバーのコメントはどうにも歯切れが悪いものが多く、「出来上がっている」、「殆ど完成しそうなんだ」と、ファンはその都度、振り回されたまま、2010年内のリリースは無かった。しかし、周知の通り、トム・ヨークのフライング・ロータスの作品への客演やレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーなどと組んだアトムス・フォー・ピース名義でのバンド活動、ドラマーのフィル・セルウェイの滋味深いソロ・アルバム、ジョニー・グリーンウッドの手掛けた『ノルウェイの森』のサウンドトラック等の課外活動は盛んだった。

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 昨年、フジロックで観たアトムス・フォー・ピースのライヴで、トム・ヨークのソロ・パートで、弾き語りで今回の『The King Of Limbs』にも入っている「Give Up The Ghost」を聴いたとき、メロディーオリエンティッドなものをより離れ、全体の音像として聴かせるようなミュジーク・コンクレート(Musique Concrète)へより接近してゆくのではないか、という想いも少し抱いていた。その想いは半分、当たっていたような気もするものの、半分は外れていた。何故ならば、『King Of Limbs』の8曲、40分にも満たない内容の中で、展開されるミニマルに刻まれたリズムとより精度が極められたビートはまるで、ドナルド・ジャッドの『無題』の絵を見ているかのような気分にもなったからだ。

 例えば、音楽としての進歩体系の一つかもしれない「トータル・セリエズム」とは、音楽家サイドからは知的な音楽の構築姿勢として捉えることも出来たかもしれないが、大半の「保守」的な聴衆には、無規則な音の羅列に対して距離を置いてしまったのではないか、という疑念は歴史上、何度も検討されてきた。トータル・セリエズムの起点としては、「人間が聴くことが出来る情報処理能力の有限性」への懐疑があった。初期のトータル・セリエリズム楽曲の演奏は誤りが多く、それを聴く聴衆側の耳も誤解が多かったゆえに深刻化した問題を克服するために、「ポスト・セリエル」へとモードが転回されていく訳だが、ここで大きな点として、こういった音楽の発展らしき何かと比して「聴衆不在の音楽」としての背景も忖度せざるを得ない憂慮があった。今回、レディオヘッドの作品は『Kid A』とは違った形での(つまり、"拒絶"ではない)「聴衆不在」の音楽のような気もする。ミニマル・ミュージックがときに「ニュー・シンプリシティ」と言われるのに対して、彼らの音はより複雑になっているからこそ、この複雑さが何を規定してくるのか、今の僕には見えないのだ。

 前半4曲までには、ヨーロッパのディープ・ミニマル・シーンとの共振を感じさせるとともに、クラウト・ロック、つまりカンやノイ!辺りの60年代末から70年代初めにかけて西ドイツに登場した実験的バンド群のリズムからの影響も垣間見える。2曲目の「Morning Mr.Maggie」は、前作の「15 Step」がよりリズムを細かく刻まれ、音響的な"含み"を持たせたという印象も持ったが、ドラスティックな曲展開が「起こらない」という点で、カタルシスのポイントがサウンドのダイナミクスではなく、緻密に編まれた電子音そのものへの意識付けによって為されるとしたら、この書簡は届けられるのか、疑念を呈さざるを得ない。アドルノが言うような、「誰かが拾ってくれることを祈って、真摯に書かれる音楽には、音楽家と聴衆との間に、偶然と言っても良い出会いによってミメーシスが行われることへの希望が込められている」としたならば、『King Of Limbs』の描く希望とは何なのか。それは、これまでの彼らのサウンド・ヴォキャブラリーが今の形で再構築された佳曲「Lotus Flower」や柔和なピアノ・バラッド「Codex」などが入る後半の4曲を聴いても、よく分からない。

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 この作品は、大文字の「ロック」を別に進化させるものでも、再定義を迫るものでもないが、音楽が音楽そのものとして語られるべき強度を持っているのは興味深い。そして、映画『ソーシャル・ネットワーク』の予告編でベルギーの少女合唱団スカラ(Scala & Kolacny Brothers)が朗々と歌っていた彼らの初期の代表曲「Creep」を対象化させる「速度」に溢れた作品である。この作品が「過ぎた」跡に、蓮花(Lotus Flower)が咲くとしたならば、それはそれで何て救いのないことだろう、と思いもするが、レディオヘッドというバンド体としての名義で音楽を「音楽」に戻そうとした意味で、今回は「聴衆の不在」ではなく、「非在」の場所を目指したのかもしれない。そう考えると、ライヴではどんな形で再現されるかどうかの観点は別にして、バンドとしてのダイナミクスや力学を感じないのも納得がいく。

 08年のダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ(Dan Le Sac Vs Scroobius Pip、UKのヒップホップ・エレクトロ・デュオ)のシニカルな歌詞を改めて噛み締めてみるにはいい時期なのかもしれない。この作品が「批評」される磁場に僕は興味がある。

《No matter how great they are, or were.Radiohead, just a band.》
(ダン・ル・サック vs スクルービアス・ピップ「Thou Shalt Always Kill」より)

(松浦達)

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frankie.jpg 彼らの何が素晴らしいって、まずはEPからジャケットに使い続けているモノクロの写真。今回はいかにもやんちゃそうなガキどもがカメラに向かって無邪気な笑顔を浮かべたり、ぜんぜん無邪気じゃない笑顔を浮かべたり、憂いのある表情を浮かべたりしている。これを見ただけで「2011年は楽しくなりそうだ」という気がしてくる。2010年後半に彼らがデビューして、イギリスではいよいよバンド・サウンドの復権が叫ばれるようになった。といってもヴァクシーンズやブラザーのようなラッディズムとはすこし違って、彼らの場合(特にヴォーカルのフランキーは)根はノーブルだ。フランキーのステージでの動きを見て真っ先に連想したのはモリッシーだが、週末のパブで野朗が大合唱していそうな曲の大衆性もまた、彼らを積極的にプッシュしたくなる理由のひとつである。
 
 そしてリリック。もう女々しくて、ウジウジしてて、後悔してて、開き直ってて、ほんま最高。自分から別れを切り出した相手に向かって、「なぜそんなことを言ったのか、自分でも分からない。君を取り戻したい」とか。恋人との倦怠期に「これはただの肉欲なのか」とか。「お前が泣こうがわめこうが、ちっとも気にならない」とか。全部同じ1人の相手に向けられているのではないか、というほどリアルで、勝手にセンチメンタルで、情けない。だって、どれもこれも恋愛においてぜったいに優位に立てない男の話でしょ。恋人がいないとまともに生きて行けない究極の寂しがり屋でしょ。それを男4人のバンドで思いっきり歌い上げることで、また人生の同じところをグルグルまわるんでしょ。
 
 今回リリースされたファースト・フル・アルバム「Hunger」はEPからとくにサウンド面での変化はなく、いかにも彼ららしい強烈なフックを持った「ど」キャッチーな楽曲が並ぶ。構成もメロディの運び方も、どうやら彼らはぶれない芯をひとつすでに持っているようだ。今回もプロデューサーは元オレンジ・ジュースのエドウィン・コリンズ。ちなみに「Want You Back」のアレンジが変わって、もっと名曲になった(「Ungrateful」を除く既発曲はすべて再レコーディングされている)は全てアルバム用に再レコーディング)。良いアルバムだ。空前のリリース・ラッシュですこし埋もれてしまった感のあるこのアルバムだけど、たぶん7作目くらいで「相変わらず良いね」と言われるようなバンドになると思う。

(長畑宏明)

*昨年来日時のインタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

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james_blake_a.jpg これはダブステップ・アルバムではない。これはジェームズ・ブレイクというノース・ロンドン出身の青年が作り上げた、美しくもメランコリックな「ただのアルバム」だ。ジェームズ・ブレイクは、主に「ポスト・ダブステップ」というタームの中で語られている。昨年は素晴らしいファースト・アルバムを上梓してくれたゴールドパンダ。他にもマウント・キンビーやフローティング・ポインツなど、今やポスト・ダブステップは大きな一大勢力となって、我々の耳と心を賑やかにしてくれる。しかし、『James Blake』はポスト・ダブステップの中でも浮いた存在だし、寧ろ孤高に近い存在感を放っている。
 
『James Blake』は、良い曲が詰まったSSWアルバムに過ぎない。こう書くとあまり褒めていないように思われるかも知れない。だが、ダブステップが日常に侵食していることを証明するアルバムではあっても、「ダブステップ・アルバム」と片付けられるほど単純なアルバムではないはずだ。「Limit To Your Love」などはダブステップのトラックとしても機能しているが、その他の曲は歌そのものだ。

 僕自身の話になってしまうけど、クラブやライブハウスで様々な人に話を訊く限り、『James Blake』はダンス・ミュージックよりもインディー・ロックを好んでいる人が多く聴いている気がする。それは、何百人と集まる場所のアンセムとして鳴るタイプのような曲が多いわけでもないし、一人部屋で音楽と向き合って聴くような、謂わば聴き手と1対1の会話を求めてくるアルバムだからかも知れない。

 しかし、なぜジェームズ・ブレイクはここまでアルバムを待望されたアーティストなのか? それは、これでもかと心の中をさらけ出し、それを音楽という芸術として表現したからだろう。機械的に加工され、もはや中性的ですらある歌声や、ひんやりと冷淡な音とビート。その音やビートも「歌声」として機能させているプロダクション。どこか近未来的なヴィジョンと、現実的な匂いや呼吸を混ぜ合わせたようなハイブリット・ソウル。ジェームズ・ブレイクは、本質的な音楽の役割に忠実だっただけに過ぎない(「自己を表現する」というのは音楽だけではなく、小説や映画など「芸術」と呼ばれるすべての行為に言えることだが)。その役割を前提とした上での表現が、多くの人の琴線に触れたのだ。「自己を表現すること自体が」コンセプトとなってしまっている音楽が多いなか、『James Blake』の音楽的表現(芸術的表現)はかなり飛び抜けている。

「自己を表現することを前提とし、その自己をどうやって多くの人に届けるか?」

 ジェームズ・ブレイクはいま、こうした次元でポップ・ミュージックを鳴らしている。

(近藤真弥)

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anna_calvi.jpg 風が吹きすさぶ不穏なパノラマ――、それはまさに幕開けにふさわしい。オープニングのインスト曲、「Rider In The Storm」は、そんなヴィジョンを脳裏に焼き付ける。この曲が示唆するとおり、このロンドンの新星、アンナ・カルヴィ(Anna Calvi)のセルフタイトル・デビュー・アルバムはあまりに映像的でドラマチックだ。

 このアルバムは、全体を通してひとつの物語が展開されるコンセプト・アルバムではない。だが、ひとつひとつのシーンを克明に語りつくすような歌詞や、オーケストラ風の音のとり方で壮大さを表現したサウンドスケープは、彼女自らデヴィッド・リンチの作品を目指しただけあり、悪魔や欲望をテーマとした映画と呼ぶに相応しい。

 ジミ・ヘンドリックスに影響を受けたというギターは言葉より巧みにストーリーのディティールを語り、ニーナ・シモンやマリア・カラスの歌唱法を取り入れたヴォーカルは堂々と存在感を示す。プロデューサーはPJハーヴェイの仕事で知られるロブ・エリス。彼が、無駄を削ぎ落としたサウンドを煌びやかに輝くよう組み立てている。また、バックを支えるマルチ・インストゥルメンタリストのマリー・ハーペズとドラマーのダニエル・メイデン・ウッドの腕も確か。スキルの高さが、スト-リーの陰影を際出させ、迫真の演技を想起させるようだ。

 ここ数年、フローレンス・アンド・ザ・マシーンやマリーナ・アンド・ザ・ダイアモンズといった、非日常的な世界観を提示するポップ・アイコンが台頭してきた。彼女たちの音楽には、繰り返される貧しく苦しい日常を一瞬でも忘れさせるための妙薬、という側面があるといえるだろう。そして、このアンナ・カルヴィ。音楽的にはかけ離れているが、ひとときの夢にリスナーを浸らせてくれる、という役目においては同じだろう。

 確かに、BBC SOUND OF 2011のリストに選出されたことや、ブライアン・イーノが熱烈な援助を行なっているなど、熱心なリスナーなら食いつかずにいられない話題が彼女には尽きない。だが、何よりこのアンナ・カルヴィは、そういった余計な情報を一切排除して耳を傾ければ感じられる、類まれなる物語性によって真価をはかってほしい。

(角田仁志)

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michou.jpg 現在、最も注目すべきエモ/インディ・ロック・バンドを一組挙げろ、と言われたら、僕は何の迷いも無く、このカナダはオンタリオ州ウィンザー出身のミシュー(Michou)を挙げるだろう。

 彼らのmyspaceのバイオグラフィーには、「未来の科学者が1974年にタイムスリップし、ある実験を行った。それは1人の男性に別々の4人の女性を妊娠させ、4人の子どもを産ませるといったものだ。4人はそれぞれ男の子として産まれ、彼らの父親の跡を追っていく内に、深内部のある街に辿り着き、カウボーイになりギャング行為を行い、人々から恐れられるようになった。市民はギャングたちが現れる時に叫ぶ『ミシュー』というコールに怯えながら街を歩くこととなった。科学者は4人のギャングを2010年に呼び起こす。そこで彼らは、ポップ・センスに満ちた未来のインディ・ミュージックを生み出し始めた。そして、自分たちのバンド名を昔の合い言葉から取り『ミシュー』と名付けた」というストーリーが載せられている。幻想的なのかSF的なのか、何だかよく分からないが、凝ったヒストリーだ。

 さて、そんな彼らが今年、世界的にリリースするこの『カルドナ』は、まさに、先のバイオグラフィーにも書かれていた通り、極上のポップ・センスによるインディ・ロック、エモの新たな指針になることは、まず間違いないだろう。ここでは、僕たちの日常に寄り添う鼓動、歓喜と憂愁を包み込んだ躍動が奇跡的なバランスをもって鳴らされている。
 
 本国カナダでは既に2010年2月にiTunesでリリースされており、2010年度の新人賞を総なめ。"カナダのデス・キャブ・フォー・キューティー"という異名すら獲得している。
 
 しかし、僕は彼らを、「カナダのデス・キャブ・フォー・キューティー」という枠組みだけで見るのは、あまりに矮小すぎるように感じるというのが本音だ。もちろん、言うまでもなく、デス・キャブ・フォー・キューティーは素晴らしいバンドであるし、彼らのフォロワーとして捉えられることも、もちろん光栄なことだろう。それでも、このアルバムは、例えば、ミューのもつメランコリックながら包み込まれるような耽美さ、エリオット・スミスのもっていたフラジャイルながら突き刺さるような切実さ、ムームやシーベアーといったアイスランディック・アーティストのもつ素朴な温かみ、そういったものも多くみられる。そして、それらのテイストを取り入れながら、独自のポップ・センスを磨き上げたサウンド、それがミシューというバンドであるのだ。
 
 この端麗なメロディ、儚くも強かなボーカルが見せてくれる世界は僕たちの日常そのものでありながら、それを更に切なく、優しく、キラキラした世界に変えてくれる。2011年早くも素晴らしいインディ・ロック・アルバムが登場してしまった。

(青野圭祐)

*日本盤は3月9日リリース予定です。【編集部追記】