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gil_scott_heron_xx.jpg 昨年の大きかったトピックの一つといえば、13年振りのギル・スコット・ヘロンのカムバック作『I'm New Here』だろう。71年の名曲「The Revolution Would Not Be Televised」がいまだに標語としても警句としても、メディアに流れ続け、クラブ・シーンでは彼の70年代のアルバムが再評価されている、現代が誇る詩人の一人であり、プロテスト・シンガー(一部では"黒いディラン"とも言われる)。しかし、彼はレジェンドにもアクチュアルな存在のどちらでもない「狭間」の中をドラッグ禍や監獄に縛られながらも、50年ものキャリアを重ね、ロバート・ジョンソンが契約を交わしたかもしれないクロスロードを渡り歩き、60歳を越えて、「私は新しく此処に居る(I'm New Here)」と表明した。その姿勢に力を貰った人は多かったことと思う。

 それにしても、『I'm New Here』とは何だったのか、今でも考える。巷間で冠詞のように捧げられた、ラップの始祖としての本懐を奪取し、ヒップホップのモダナイゼーションを担ったともいえる核たる言葉の強さを備え、ブリアル以降のダブステップのようなサウンド・ディメンションを持ち合わせた現在進行形のシリアスな作品として捉えられることよりも、要所に挟まれるスポークン・ワーズとして数十秒で「語られる」行間にこそ、僕は、現代のブルーズとしての彼のソウルを感じたのは事実だ。今の彼にとっては、音楽の縁枠、形式美をなぞるよりも、「発語」された途端に意味を越えて、一気に空気を変えるような言葉の輪郭の鋭度に感応するべきだという気がする。だから、アルバムとしては「今」を射抜くようなものでも、タイムレスなものでもなく、オルタナティヴなひしゃげ方をしていた奇妙なフォルムを保っていた。そのひしゃげ方に、アーバン・ブルーズとしての萌芽も確実に見ることができた。

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 かのザ・ストリーツのマイク・スキナーがフィンとなる今回のアルバムで『Computer And Blues』というネーミングを付けて"しまった"ように、今やエジプトでの事もそうだろう、革命は「Be Televised」される時代になってしまった中で、ギル・スコット・ヘロンの《例え、どれだけ間違った道を進んでいようと いつでも後戻りしてみればいい 振り返ってみればこそ 全力で走ることができるかもしれない もう一度 新しい場所に辿り着くかもしれない》(「I'm New Here」)というフレーズは決して退歩ではない。コンピューターやネットワークが高度化し、管理の網が投げられる中を掻い潜り、より"一歩先"に実存が蒸発するまでの微かな希望的な予感に目を凝らせてみようと「I(個)」の意志が反射する光が現実という水面に撥ね返るのを捉えるために、「We(我々)」の想像力が何より必要だったということを示していた、とすると、彼の声が届くには我々がまだ「遠くに居過ぎた」気もしてくる。

 今回の『We're New Here』では、その「距離を埋める」かのように、『I'm New Here』をTHE XXのトラックメイカ―であり、DJであるロンドンの気鋭、JAMIE XXが大胆にアップデイト/リミックスしている(なお、ここでは素材は「歌」のトラックしか用いていないという)。サウンドもかなり刺激的なものになっており、重いベースが響くダブステップから、ブレイクビーツ、変拍子のリズム、ドープなミニマルまで、先鋭的なエレクトロニック・ミュージックの要素が強烈に迸りながら、そこに彼のしわがれた声がまるで亡霊のように行き交う。作品としてはフロアーに対応したという部分もあるが、彼の声を素材にした上で、「新しい声」を手に入れようとした結果の意味概念への志向性の矢印が見える。

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 意味概念への志向性―。

 フッサールの『論理学研究』での、意味概念の志向性理論への導入こそがブレイクスルーする「先」を示唆したかもしれないという点がある。対象自体から区別された「意味」と呼ばれる内容概念を導入し、「志向性」の本質的な特徴付けを付与したフレームワークの中で、彼の意味概念は、対象に対する作用の持つ独特な関係性としての志向性に対して不合理に陥らせず、適切な理解を可能にするものとしての「振り幅」を見せる。
「振り幅」内では、結果として「意味」と呼ぶものは、対象から区別され、イディアールな性格を持ち、作用に例化されることで対象的関係を作用に与え、等々の形で特徴付けられることとなる。例えば、作用の持つ対象的関係を、それが例化することによって対象的関係を与えるような《存在者》の導入によって説明するというのは、立場の明確化という意義はあれども、そのままでは無内容に近くなる。したがって、『論理学研究』における意味概念が思弁的な理論構成から要請される特徴付けを超えた、積極的な内実を持つならば、その解析面で鋭い視座を我々(We)が可視化しないといけない。特徴付けされた意味概念に対して。

 だからこそ、アルバム・タイトルは『We're New Here』なのかもしれない。その「We」はギル・スコット・ヘロン、JAMIE XX「以外」を視程に収めてくるとしたら、昨年から続くドキュメンタリーのような、シーンに再帰した彼の道程が今作にして帰着するという感動的な一面もある。JAMIE XXの手腕によるエレクトロニクスの端々が「語る」言葉とギル・スコット・ヘロン自身の「リアルな言葉」が混ざり合った美しい作品だ。我々(We)が感じるべき熱がここにはある。

(松浦達) 

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slack.jpg 正直この作品、彼にとっての3rdアルバムである『我時想う愛』は2ndアルバム『Whalabout』でスラックのファンになった人々にとっては賛否両論ではないかと思う。2ndにおけるスラックに顕著な奇妙に歪んだビートや、エクスペリメンタルなプロダクションは、スムーズでかつメロウなものに取って代わっている。つまり、非常に「聴きやすく」「キャッチー」になっている。あえて乱暴に言うなら、1stアルバム『My Space』収録の「I Know About Shit」「Deep Kiss」におけるジャジ―でソウルフルな路線をアルバム一枚に拡張したと捉えても良いだろう。しかし、そのトラック・メイクのクオリティは格段に上がっていて、「日常において零れ落ちたロマンティシズム」を非常に美しく表現している。

「そういうねじれた感じの曲もちゃんと入ってると思うんですけど、過去の作品はそれを大げさにやってたところがあったというか、もっと自然に出せると思うし、自分で聴いても、まだまだ甘いっすね。」

「もともと自分のなかには色んな面があるというか、別にユルいのだけが売りというわけでもないし、今回に関しては、キャッチーなものが出来たので、みんなも 聴きやすいんじゃないかと思いますね。元々の発想として、俺が聴きたいネタをみんなに聴かせたかったりもするし、自分の音楽センスを見せたいということもあるのかもしれないし、ラップもちょっと変わりましたね。」(*以上の発言は<CLUSTER>2月14日の記事より引用)

 己の変化を自覚しつつも、そこに対しての意識はいつも通り―これは彼の音楽の一つの本質でもあるのだが―「ゆるい」=slack。

 2008年に100枚限定で自主制作で発表した『I'm Serious(好きにやってみた)』によって、その存在が認知され、その翌年2月に1st『My Space』を上梓し、その音楽性はストーンズ・スロウ周辺のアクト(マッドリブやジェイディラなど)と比較された。また、非常にハイスキルでありかつ、日本語と英語の境界が曖昧な発音に満ちた彼のラップは独特のオリジナリティに溢れている。このアルバムには先ほども述べたように今作の音楽性の萌芽となるものがある。しかし、新譜におけるアダルトなムードに満ちたロマンティシズムというよりは、「ダラダラとした日常のワンシーン」と言ったようなダイアリーな意味合いが強く、非常にのんびりとした空気が漂っている。そしてなんと同年11月に2nd『Whalabout』を上梓している。このアルバムは前作における「ダラダラとした日常」の路線を踏襲しながらもメロウでスムーズな前作とは打って変わり、リズムは歪み、メロウネスよりもエクスペリメンタルなプロダクションが目立つようになった。また、リリックにおいても、《俺は自分の足でクラブに行き 自分でフレンズを選び 自分で曲を作る シーンのルールには興味もない Musicのみ Musicのみ》(「That's Me」)など、己のアティテュードを明確に打ち出すようなものが見られるようになった。無論、このようなリリックよりも「適当」などに象徴とされるスラックにおいて一貫しているワードのほうが断然多く使われていることは言っておかなければならないが。
このようなソロ活動の他にも彼は実兄のPUNPEE(彼は昨年、『MIXED BIZNESS』という素晴らしいMIX-CDをリリースした。そこにはヒップホップは勿論、椎名林檎、ゆらゆら帝国、トッド・ラングレンなどの曲が収録されていて、極めて雑食的な彼の音楽性を垣間見ることができる。スラックと並んで最も有望な若手である。)や高校の友人であるGAPPERとともに結成されたPSG(3人のメンバーの頭文字をとって名付けられた)というクル―のメンバーの一人でもあり、『DAVID』というアルバムをリリースしている(こちらも必聴!)。

 彼の過去をざっと俯瞰したところで、彼のよく使うワードであり、同時に彼のオリジナリティの根幹である「適当」というワードについて考えてみよう。

 このワードはある対象への必要以上のコミットメントを避けるアクションを示す。これによって、過剰なコミットメントから生み出されるストレスを回避することができるわけだ。「適当に敬意を 考え込むな」と彼が言うのはそのためである。彼のこの部分を読みとることができないと「メジャーの応援歌系ラップ」や「ヤンキー風味の歌詞」などと彼の表現が矮小化され、揶揄されてしまう(「解釈しようによって」はこれらの表現が該当する部分があるのは事実ではあるが...)。

 批評家の宇野常寛は彼の著書『ゼロ年代の想像力』において、国内における90年代はいわゆる「大きな物語」が失効したため、それが個人の人生を「意味づけ」することが無くなり、そこで生きる人間は「~する/~した」という行為を評価されることではなく「~である/~ではない」というキャラクター的実存において承認を得ようとし、東浩紀の言葉で言えば「動物化」し、その膨大に増幅されてゆく承認欲求が母性(それは自分が「~である」というだけで承認してくれるものである)のディストピア(「セカイ系」もその一端を担う)に陥ったと分析している。そこではさらに無数の「小さな物語」が乱立し、各々が「あえてベタに」己の帰属している「物語」を信じているために、そこはバトルロワイヤル状況に陥ってしまう。

 スラックの「適当」は己が「小さな物語」に属しているのを承知していながらも(《最低限で暮らしたい 意味はない別に やりたいからやってるだけ》「Sin Son(In)」)、その「小さな物語」にすらあまりこだわらないという彼のアティテュードを示している。己の「小さな物語」に寄りかかり過ぎると、それが何らかの形でバトルロワイヤル的な状況に関わってしまう時にストレスになってしまう。だから、彼はその「小さな物語」すらも非常に流動的なものとして捉え、固執することは無い。無論ヒップホップは彼の重要な「物語」で、それを捨てるわけにはいかないだろう。しかし、このレヴューの最初にも示したように、彼は自分自身の行っているヒップホップに対する認識もダラダラと「ゆるい」。つまり彼は、その都度対象に対してこだわりを見せるが結局、それもすぐにどこかに流れていってしまうのだ。スラックの表現における独自性とはこの「流動的な小さな物語」に見出すことができる。

 これが僕のスラックに対しての見方である。しかし、このロマンティシズムに満ちた新譜を聴いて少し疑問に思ったことがある。

《人は常にネガティヴ忘れないよ》(「But Love」)

《いつも思う死ぬ前にきっと もっと行けたなんて想うんじゃないか》(「いつも想う」)

《ふと思う時がある自分の足跡 時々思い描く先の世界を》(「Come inside Pro」)

 これらのリリックを聴いて、このアルバムにあるロマンティシズムと言うのはスラックが本当に「適当」であれば流すことのできた「内省」ではないだろうか。そう、「東京23時」などを聴いて「ロマンティシズム」だと思ったそれは実は「メランコリー」だったのではないだろうか。彼はこのアルバムの冒頭で「テキトー」と自嘲気味に言っているが、その「自嘲」は本当は彼の「適当」が上手くいっていないことへの意識から出たものではないのだろうか。今作を聴いて唯一心残りだったのがその一点である。そして、この答えは彼の次の作品を聴くことによって確かめたいと思う。これはスラック個人の問題ではなく、人間がはたして「流動的な小さな物語」を受け入れることができるかどうかの問題なのだから。

(八木皓平)

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echo_lake.jpg シューゲイザーを鳴らすバンドは今までも数多く出てきた。「マイブラを連想させる」「初期ライドのようだ」。こういう枕詞もうんざりするほど見てきた。このロンドン出身の新進バンド、エコー・レイクの音もマイブラであり、初期ライドそのままだ。ネオ・サイケの影響が出ているし、ひたすら甘く憂鬱なメロディを奏でている。

 前述したように、エコー・レイクはシューゲイズ・サウンドを鳴らしている。何を歌っているのか分からないヴォーカル。力強いとはいえない全体のグルーヴ。そして甘美なサイケデリック・サウンド。どれをとってもシューゲイザーそのものだし、はっきり言って革新的なサウンドとは言い難い。でも、『Young Silence』にはしっかりエコー・レイクとしての音が鳴っている。それは、エコー・レイクが吟味を重ねたうえで、こうしたサウンドを選んだからだろう。過去に登場したマイブラ・フォロワーバンドの多くが、メディアの比較論(もちろん、その比較対象はマイブラだ)から逃れるため無理やり差別化を図ろうとした結果、どっちつかずの凡庸なアルバムを残してフェードアウトしていった。しかし、エコー・レイクの音からはそうした差別化を図る無理な努力は感じられないし、寧ろ諦念に近い「これが好きなんです」が感じられる。

 僕にとってジーザス・アンド・メリーチェインは、カッコよくヴェルヴェット・アンダーグラウンドを出来た唯一の存在だ。実際ヴェルヴェッツからの影響を公言していたし、『Psychocandy』リリース時のジム・リードはこう語っている。

「"Cut Dead"は、とてもとてもヴェルヴェッツっぽい。だけど、それがどうしたっていうんだい? なぜそれがいけないんだい?」

 まあ、エコー・レイクの面々がこうしたことを実際に言うかは分からないけれど(アーティスト写真を見るかぎり、そんなことを言うような人達じゃないと思う)、マイブラっぽい音であることは全然悪いことじゃないと思う。僕から言わせれば、エコー・レイクはカッコよくマイ・ブラッディ・ヴァレンタインを出来たバンドだし、そうした影響元を隠さずに、それらの要素を上手く自分達のサウンドとして転化させている。

 ここで、先程引用したジム・リードの発言の続きを書いておこう。

「じゃあ"In A Hole"の場合はどんな風に聴こえる? あのサウンドは僕の考えうるいかなるバンドとも似ていないよ」

 この「In A Hole」にあたるのが、『Young Silence』においては「Buried At Sea」であり「Sunday Evening」だ。そして「Cut Dead」にあたるのが、「Everything Is Real」や 「Memory Lapses」といったところか。この2曲は『Loveless』の影響が色濃く出ている。エコー・レイクの未来はこれからだが、まずは『Young Silence』という魔法にかかってみてほしい。それはそれは素晴らしい桃源郷が待っている。少し俗っぽいところもある桃源郷だが、それがまた最高なのだ。

(近藤真弥)

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adhitia_sofyan.jpg インドネシアで音楽といえば、条件反射的にガムランが思い浮かぶ。神秘的な音色。ガムランといえばYMOの『テクノデリック』。70年代のインドネシア・サイケは結構熱い。オリエンタルでエキゾチックで...。

 こういう偏狭すぎるかの国への固定概念(すいませんでした)を取り払ってくれそうなのが、ジャカルタ出身のアディティア・ソフィアン(Adhitia Sofyan)による『Quiet Down』だ。みずからを"コーヒー・ミュージックを歌うシンガー・ソングライター"と呼ぶ純朴な見た目をした青年の奏でる音楽は、そのアルバム名のとおりに聴く人の心を穏やかにさせる。慌ただしい仕事からも街の喧騒からも離れた、手持ぶさたでアンニュイなひとりきりの時間をすごす人々へ彼の歌は捧げられている。

 普段はオンライン・マーケティングの仕事に携わっているという彼は、あるときからアコースティック・ギターを携えベッドルームで録音を開始する。そしてラジオ局のプッシュから火がつき、インドネシア国内の音楽フェスを回り、映画(『Kambing Jantan』という、ブログを原作にした作品。ブログ執筆者ご本人が扮する主人公の顔が激しくナードなところも込みで『電車男』を思わせる)にも曲が起用され大ヒット。まるでインドネシアにおけるエリオット・スミス(『グッド・ウィル・ハンティング』)ともいうべきサクセス・ストーリーを歩む彼だが、どれもこれも素晴らしい曲があってこその話だ。

 やさしく頬を撫でるゆるやかな風を思わせるギターの調べに乗せて、そっと語りかけられるように歌われる冒頭の「Adelaide Sky」。過ぎ去る時間や別離といったモチーフが、人肌や夕暮れどきの日差しがもつ温かみとともに押し寄せてくる。控えめなストリングスもさりげなく華を添え、郷愁が胸を静かに通り過ぎていく。唯一インドネシア語で歌われる「Memlihmu」では歌声はさまざまな表情を遠慮ぎみに見せ、"チキチキバンバン~"と癖になるフレーズが挟み込まれる。まるで自分の目の前で演奏されているかのようなアットホームな音色は終始リラックス・ムードに包まれ、ときにセンチメンタルなトーンや言葉が飛び出すものの、メロドラマ的に押しつけがましくなることなく、静かに寄り添ってくれる。流れていく景色を肘をついて車窓からぼんやり眺めているような、カップに入った飲み物の温度を取っ手ごしにじんわり確かめるような、そんな音楽だ。

 品のいい奥ゆかしさをもったミニマムな弾き語りは、一時期のニック・ドレイクやサイモン&ガーファンクルを想起させる。どんな想像や妄想をも許してくれそうな包容力に満ちた作品だ。背中を向けたジャケットのイラストもいい。そっぽを向いた彼はシャイながらも面倒見のいい音楽の気質を、コーヒー豆を思わせる背景の淡い茶色は「Sound Of Silence」とも「Quiet Is The New Loud」とも違う、彼にしか出せないのどかで芳しい香りを、それぞれ地味ながらもうまく表しているように思う。

(小熊俊哉)

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helll.jpg 日本発のMinamo、Asuna、The Medium Necksとポートランド発のHochenkeit、Irving Krow Trio等のメンバーから形成された日米混合スーパー・ミラクル5人組バンド、Helll(ヘル)。来日公演でステージを共にしたジャッキー・O・マザーファッカーのトム・グリーンウッドのレーベルであるU-Sound Archiveから出る出ると噂され続けること数年間...。正に待望となった彼らの初音源が、遂にリリースされました!

 バンド結成初期のライヴ音源やスタジオでのレコーディング素材を元にAsunaが編集したという今作は、もう首を長くして待っていた分以上の期待に相応する、充実のアヴァン・ドローン・サイケ・フォークな逸品。音の隙間に意識を持っていかれる構築的でミニマルなサウンドから白昼夢のようにぼやけた音像ながら心地良く持続するドローン・サウンドまで、儚く可憐で優しく美しいヴォーカリゼーションと叙情的なギターやエレクトロニクスと共に紡がれていく唄の数々にもううっとり。時おり摩訶不思議な音があちこちに散らばってはいるものの、それが散らかることなく、体温的に近い一定のトーンと情感あるサウンドスケープを描き切っている様は、目を見張るものがあります。

「ミニマリスト・サイケデリック・エレクトロ・フォーク・フロム・ジャパン」。これは2010年の彼らの初のUSツアーのフライヤーで書かれていたというジャンル詰め込み系の紹介文(笑)。この作品には確かにそのような様々な音が感じられるものの、その楽曲の構成っぷりはそれらを昇華しきっていることを証明しているし、何より様々な音の配置や押し引きのサジ加減っぷりは流石の一言です。メンバーのAsuna主宰のカセット・テープ専門レーベルのWaiting For The Tapesから出た「Circle Around」と同じく、要必聴作品です。

(星野真人)

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brandt_brauer_frick.jpg 最近でも、NICOLA CONTEの04年の名盤『Other Directions』のデラックス・エディションがリリースされるなど、ミラノの〈SCHEMA RECORDS〉を中心にしながら、ヨーロピアン・クラブ・ジャズ・シーンを巡る熱は相変わらず高いものがある。思えば、05年のTHE FIVE CORNERS QUINTETのフル・アルバム『Chasin' The Jazz Gone By』(過ぎ去りしジャズを求めて)というタイトル名と内容が象徴していたように、「記号としての優等生的なモダン・ジャズ」をスタイリッシュに見立ての良い衣装(意匠)で纏い、引用レベルのアフロ・ビートとパーカッションが入った流麗な音はカオティックな音楽が溢れる中で、まるで壁一枚隔てた無菌室、エレガントなダンスホールで「鳴っている」ような幻想をもたらせてくれたのは確かだ。ジェラルド・フリジーナ、ザ・インヴィジブル・セッションなどもクラブを通過したジャズとして、ファッショナブルでヒップな多くの人に求められ、結果、そのような破綻なきスムースさが直接のフロアーも含め、カフェにも「居場所」を見つけてしまったのは周知のことかもしれない。兎に角、個人的に、00年代の後半は行く国々のカフェで、"打ち込みが入った如何にもなジャズ"が流れる場面に出会うことが多かった。

 また、その流れと並行して、無名に近かったイタリアのピアノ・トリオであったMAYAFRA COMBOの77年の良作『Mayafra』やGIL CUPPINI QUINTET、ROB AGERBEEK QUINTET等が再発見・再開拓され、過去に埋もれていたヨーロピアン・ジャズまでも「今」に取り込まれて、クラブでスピンされているのは良いものだな、と自然と昂揚したが、ハウス・メイカーのSTEFAN GOLDMANの『Le Sacre Du Printemps』が09年にドロップされて以降とも言えるだろうか、いわゆるクラブ・ジャズはミニマル・テクノと微妙に拮抗するようになっていったような気がする。当該作品における、ストラヴィンスキーの『春の祭典』のスコアを146もの断片にエディットした所作はポスト・クラシカルとしても鮮やかであり、クラブ・ジャズ・シーンが進めたモダンネスを対象化するものがあった。10年代に入ってから、個人的に京都のクラブ・ジャズ・イヴェントに訪れたとき、かかっていたのは、大半が05年から増えだした「名の通った」冒頭から挙げたようなヨーロピアン・クラブ・ジャズだったものの、STEFAN GOLDMAN、COBBLESTONE JAZZ、THE MOLEやWAREIKAといった、ジャズというよりもミニマル・テクノに近い音も混ざりだしていたのには驚いた。取り分け、COBBLESTONE JAZZの存在には魅かれた。生音を取り入れたジャズの即興性とラップ・トップ、リズムマシンを組み合わせた上で緻密な音を生みだすのに長けており、ライヴで見せるクールネスから含めて、ディープ・ミニマル・シーンの胎動を強く感じさせるバンドだと思ったのと同時に、シーンの「これから」に強い関心を持った。

 そのシーンの「これから」を担っていくことになるだろうBRANDT BRAUER FRICKの持つ懐の深さと知性には期待をしている。ダニエル・ブラント(DANIEL"BRANDT")、ヤン・バラウアー(JAN"BRAUER")、ポール・フリック(PAUL "FRICK")の三人からなるベルリンを拠点にした多彩なアイデアを持ったバンド(察しの通り、バンド名は彼らの名前の繋ぎ合わせである)。何より先に、多くの人が彼らの存在に注目を持つようになったのは09年のPV「Bop」だろう。映像作家としての肩書も持つメンバーのダニエルのディレクションの下、旧き良き時代の歌謡ショー"ミニマル・パレード"(司会者の言葉に対応して、なぜか、日本語字幕が流れる)のショーケースに参加する彼らがピアノ、ヴィブラフォン、ドラム、パーカッション、金管楽器を扱いながら、10人以上に増えていったり(その内、扱う楽器は、半分くらいは壊れたようなものである)、途中にはバレリーナが現れて可憐な舞いを見せるなどシュールな内容に終始しており、かのカニエ・ウエストも自身のブログで紹介していた。

 都度の音源が12インチのヴァイナルとしてカットされる度に、DJやアーティスト、早耳のリスナーによって売り切れを起こすなど、密かに彼らを囲む状況は盛り上がる中、ファースト・フル・アルバム『You Make Me Real』が届けられた。日本盤のリリースは昨年の末になるが、この作品が持つ熱量は今も着実に世界中に伝播していっており、2011年はスタジオ・ワークスを越えてライヴでの真価もより試されるだろう一年になると思う。このアルバムは「9曲で1曲」のような感じさえ受ける、シームレスでひんやりとした温度とピアノを基調としたトーンに多様な楽器と微妙に反復を逸れる電子音と共に、ミニマルに紡がれる音像が特徴的である。その生音とエレクトロニクスの絶妙な混合は、緻密な設計図さえあるのではないか、というほど精度が高い。加えて、ミニマル・テクノ、ミニマル・ミュージックの造形美を保ちながら、静謐に体を揺らせてくれるという意味ではテックハウスの様な享楽性もある。目立った曲としては、3曲目の「Paparazzi」でのピアノの連弾にビートが刻まれていき、じわじわと熱が帯びてゆく気配は美しく、ダウンビートとサウンド・エフェクトの妙が心地良い9曲目の「Teufelsleiter」も面白い。その中でも、5曲目の「Mi Corazon」がハイライトと言えるかもしれない。パーカッションとプログラミングされた電子音にピアノや金管楽器などが静かに絡む硬質なテクノで、非常に素晴らしい。

 ちなみに、このアルバムで聴こえる音をして、ある雑誌ではセオ・パリッシュの名を彼らに賛辞として寄せていた。それも分からないでもないが、もっと彼らの場合は「現代音楽」寄りなところがあり、スティーヴ・ライヒの『Drumming』を思わせるようなアフロ・リズムが伺える曲もあったり、ポスト・クラシカルと言われるアーティストたちに繋がる要素の方が強い気がする。ライヴも映像で見る分には音が想起させるような締まった印象よりも、もっとラフで肉感的な雰囲気が先立っていた。こういった音はライヴでのダイナミクスこそ「体感」してみたい。

(松浦達)

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autumnleaf.jpg オータムリーフ(Autumnleaf)は、福岡出身の4人組バンド。これまでにリリースしたアルバムは、いずれも陽の光と木々が美しく輝くジャケットであり、彼らがバンドを通してそういった風景を表現したい、という心模様が想像できる。スロウで大きなグルーヴを生みだすリズム隊の上で、二本のギターによる木漏れ日のようにウォームなアルペジオが重なり合う。そしてエンジニアを務めるのはtoeの美濃隆章という、あまりにも分かりやすいポスト・ロック的な作品。
 
 乱暴に言えば、ウィスパー・ボイスなヴォーカルを迎え入れた百景が、スロウコアをやってみたような音楽かもしれない。スリリングな曲はなく、だらだらとして、一貫してラウンジーな曲が緩慢に続く。アルバム内におけるダイナミクスはない。しかしながら、「こういう音楽をやりたい」という意欲は強く伝わる。頑固な姿勢が潔くて好きだ。強いて前作と比べるのなら、ギターの音が丸みを帯び、柔らかくなった印象。よりメロウになっている。

(楓屋)

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negoto_k.jpg 結論から言うと、2011年の飛躍を確信させるには十分過ぎるシングルとなっている。まず「カロン」は、ねごとがグルーヴと確かな音楽的力量で勝負ができるバンドであることを証明している曲だ。当初4つ打ちだったこの曲はしかし、音楽的野心と遊び心溢れる面白い曲になっている。それは「初めて人に聴いてもらう、聴いてもらいたいという思いで制作とりかかった曲」だからかも知れない。確かに聴いていても試行錯誤の跡が窺えるし、この曲の完成に至るまでの道のりがドキュメントとしてしっかり曲になって表現されている。未だに、ノリがある曲を作るときは安易な4つ打ちに頼るバンドが多いなか、音楽的進化を目指しながらもポップ・ソングとしてリスナーを意識した曲を作り上げる才能は凄いとしか言いようがないし、メンバーはソニック・ユースやフィッシュマンズなどが好きらしいけど、実際はもっといろんな音楽を幅広く聴いていて、それらを上手く咀嚼する能力にも長けている。そこにロック的なヒリヒリとした不協和音や脱線も隠されているし、この要素がねごとの個性としてしっかりアピールされている。

 それとやはり歌詞も重要だ。音楽評論家のなかには、極論として「音楽は音を楽しむものだから歌詞なんて必要ない」という方もいるが、声も楽器として捉えている僕からすれば、歌詞は重要な要素のひとつだ(もちろんインストものも好きだが)。というのも、五十音ひとつひとつにしても違う音なわけで、それらを組み合わせて「歌詞」という形にするのも立派な「音楽的行為」のはずだ。つまり、音楽とは言葉であり、言葉はそれ自体にメロディというものを内包している。その「言葉という音」から聴く者が感じたことも、立派な言葉であり音だ。

 そういう意味では、「カロン」における蒼山幸子の歌詞も制作当時の空気や感情が上手く反映されていて素晴らしい。意識的なのか無意識なのかは分からないが、バンド全体のスキルと共に、蒼山幸子の言葉選びのセンスも一段上のレベルに達した印象だ。『Hello!"Z"』に収録されていた曲群よりも抽象度は下がってより具体的になってはいるが、「ここではないどこか」を描いたような世界観は変わっていない。分かりやすい方向性の変化や深化はないが、前述した「初めて人に聴いてもらう、聴いてもらいたい」ということを意識しての歌詞としては好感が持てる。それと「フレンズ」の「ぼくらは間違えない」という不敵な? 言葉も好きだ。蒼山幸子は、言葉で音楽を作ることができる才能があると思う。

 それにしても、ファーストシングルの時点でここまでバンドのグルーヴを完成させて披露してくるなんて思いもしなかった。しかも「カロン」は本来『Hello!"Z"』に収録されるはずだったことを考えると、「カロン」での進化は偶然ではなく元々持っていた素質による必然だということだ。間違いなく、ねごとは日本のロック・シーンのポールポジションの一角を占めている。

(近藤真弥)

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pillows.jpg 今年結成22周年を迎えるザ・ピロウズの、フル・アルバムとしては17枚目の作品となる『HORN AGAIN』。

 長年その活動を一人のファンとして追いかけているアーティストの新作を待つときの気持ちは、期待と不安が入り交じっていつも複雑であると僕は思う。それはデビュー・アルバムが最高だったときに感じるような、未来の次回作に対するまなざしに込めてしまう、非常に余計でちょっと失礼な気持ちに似ている。"待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね"と言ったのは太宰治だけど、きっとアーティストもそういった気持ちを皆持っているのではないかな、と想像する。

 本題に入ろう。ピロウズのファンなら誰しもが知っていることだろうと思うが、ピロウズは一昨年の結成20年を迎えた時に初の武道館公演を成功させた。一般的に見れば、よくあるバンドの成長の過程の一部として映るだろう。しかし、これはもう少し前のピロウズを見ていた人からすれば信じられない事態だったのだ(もちろんいつか...とは信じていたけど)!

 ピロウズ魅力のうちの1つに、ソングライターである山中さわおのアイデンティティから伝わってくるメイン・ストリームに対する葛藤、そしてそれと背中合わせにある本流への羨望に近い感情を含みつつも、バンドの信念を貫き通すという姿勢があったと思う。そんなピロウズが武道館公演を行い、セールス的にも波にのってきた...。これはファンとしては嬉しいことこの上ないのだが、いったいこの先のピロウズはどう進んでいくだろうか...という気持ちが沸き上がったのも事実であったように思う。

 そんななか発売された、今作『Horn Again』である。少し昔のような葛藤や絶望をを躍進力にへと昇華するような、魅力的な危うさを持った雰囲気というよりも、シンプルなバンドの好調さからにじみ出てくるような勢いを感じるアルバムだ。ピロウズの十八番とも言える特徴あるビートとポップさとシニカルさを持ち合わせた楽曲に加え、もうひとつのピロウズの武器であるスローテンポなリズムに山中さわおの語りに近いメロディを乗せた「Brilliant Crown」のような重心の低い曲。アルバム全体を通して王道オルタナティブ! と呼べるシンプルに歪んだギターサウンドに、シンプルなビート。そこに乗せられるポップなメロディ。そして、そのポップさに酔っている所へ鋭く切り込んでくる山中さわおの暗くシニカルでセンチメンタルな歌詞。なんだ、間違いなくいつものピロウズじゃないか!! と,つい叫びたくなってしまう。

 アルバムの冒頭を飾る「Limp Tommorow」で山中さわおは《欠けたままでいたいのさ 満ち足りないまま》と歌っている。武道館を一定の成功の条件として見るというのはまた別の問題だと思うけど、少なくともピロウズは"売れていないけど良いバンド"を越えた次のステージに移ったと思う。ファンとしてはあんたすごいよ! と肩を叩きたくなってしまう。でもそんな中、堂々と新譜の一曲目でこの歌詞を歌ってしまうこの感じ! 絶望や葛藤、希望ってある意味とても入り込みやすい感情だと思う。だからこそ絶望や希望と戦ってきたピロウズを見ていると、すごい身近に感じ、勇気をもらったような気持ちになる。そんなピロウズの成功する姿を見て、ちょっとほっとしている自分がいる。でも、ふと気が付けばまたこうやって良い意味で突き放されている(笑)。

 このアルバムの姿勢を見ればピロウズはバンドとして武道館(つまりはセールス的な成功といった意味合いも含めて)を経ても、山中さわおがよく使う言葉を用いれば"ロッカー"としていつまでも、何が起ころうと健在であるんだなということを確信できた。よくあるセールスに対するファンの杞憂を、何事も無かったように流すのではなく、受け止め、そしてもう一度バンドの姿勢、メンタリティを提示してくれたアルバムだと思う。僕は疑ったことを反省した。

 先行シングル「Movement」が発売されたときのライブで山中さわおは、この新曲を演奏する前に、「この歳になっても、良い曲ができると自分でもとても嬉しい!」と笑顔で語っていた。そして「Biography」という曲は《誰にどんな事を言われてもいい キミ自身がどう在りたいかだ》という歌詞で締めくくられている。

 自分がどんなに変わってしまっても、ピロウズは変わらずにいてくれる。そして、聞き手としての在りかたを自分で決めさせてくれる。待つ身として、こんなに嬉しいことはない。

(陰山ちひろ)

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 毎日忙しい。慌しく朝起きて、駆けるように駅へ向かい、満員電車で仕事へ。この会社で私はどれほど貢献出来ているのだろうか、誰かに必要とされているのだろうか、なんてことを考える暇もなく、あれこれ雑務を片付けたらもう夜だ。そしてとぼとぼと帰路につく。これが昔思い描いていた「大人」なのかなぁなどと思いながら。そんな日々を過ごしているのは、きっと私だけではないでしょう。そしてそんな日々に必要なのは、きっとこんな音楽でしょう。じんわりと心があったまるような。急いで歩くスピードを少し緩めて、一緒に口ずさみたくなるような。

 日米3人のヴォーカリストによるこのアコースティック・スプリットは、名前だけではピンと来ない人も多いかもしれないけれど、よく知っている人からしたら「待ってました!」という組み合わせ。日本で共演したこともあったり何かと縁のある3人は、バンドで出している音はエモやパンクに分類されているけれど、以前からバンドとは別にアコースティックでのライブを行ったり、作品を作ったりといった活動を続けてきた。そんな共通点の多い彼らがひとつの作品を作ったというだけではなくて、お互いの曲をカバーしあっているっていうのがこのスプリットの素敵なところ。同じ時代に同じシーンで音を鳴らしてきたいわば同志のような3人が、お互いの曲をチョイスしアレンジし個性たっぷりに表現した楽曲はまるで友情の証のようで、しっかりとした繋がりや想いが温度を持ってちゃんとこちらに伝わってくるのが嬉しい。

 最初に歌い出すのはセイヴズ・ザ・デイのクリス・コンリー。1曲目の「Let It All Go」はツアーのみでリリースされているデジタルEP(彼らのショウでダウンロードカードを入手できるそう)にも収録されているセイヴズ・ザ・デイの新曲(myspaceで動画も見られます)。透き通るようなハイトーンは、優しくてすがすがしくて冬の晴れた空にとてもよく似合って、トップバッターの役割を見事に果たしている。セイヴズ・ザ・デイで聴かせてくれる真っ直ぐさそのままに、ひたむきでさわやかにこちらに届く彼の歌には、メンバーチェンジを繰り返しながらも止まることなく歌い続けるというクリスの意志が込められているようだ。聴く人を切なくさせるクリアな歌声の中にはそんな強さも垣間見える。彼がカヴァーしたのはゲット・アップ・キッズでもニュー・アムステルダムスでもなく、マットのソロアルバムからのタイトルトラック(何てニクい選曲!)。ハスキング・ビーからは初期の名曲「Sun Myself」を。どちらもクリスらしいストレートなカヴァーに仕上がっている。

 二番手はハスキング・ビー、マーズ・リトミックを経てソロとしての活動を始めたイッソンこと磯部正文。クリスとはうって変わってちょっとハスキーだけれど奥に熱さを秘めた声にグッとくる。作品中唯一の日本語で歌われる「Have A Nice Day」は、独特なイッソンワードが耳に残る新曲。彼の詞にはいつでもさりげない風景が織り込まれていて、空の色や雲の行方、風の声や花の色、そんな普段見過ごしている何気ないけれど美しい景色をふと思い出させてくれる。現在は磯辺正文BANDとして最強なメンツでのライブも行っているけれど、不定期的に行っている弾き語りライブがこれまた最高に楽しくて幸せで素晴らしいのだ。歌は言葉になるし、気持ちは伝わるし、嬉しくても楽しくても涙は流れるし、素敵な時間はずっと忘れないっていうことを、心から実感出来る濃密な時間。歌が共通言語となり、コミュニケーションツールとなり、そこにいる誰もが歌によって繋がっていく感覚を全身で感じることが出来る。自身の曲だけでなく奥田民生やイースタン・ユース、ビートルズやもちろんゲット・アップ・キッズも、好きな曲なら何でも(時にはお客さんからリクエストを募ったりしながら)歌ってしまう彼を見ていると、歌うことを心底楽しんでるのがたっぷり伝わって、それが聴く人を自然と笑顔にする。その楽しさはこの作品に収録された軽快な3曲からも溢れ出ている。

 トリを飾るのはゲット・アップ・キッズのマット・プライアー。第一声から吸い込まれてしまいそうなほど美しく、深く、生々しく、でもさりげない。ギターの音を極力抑え、マットのヴォーカルがより際立つようなバランスになっていて、まるで隣で自分に歌ってくれているのかと錯覚するほど。ギター1本あれば、そして彼の声があれば、それだけで私たちを深く深く包み込んで、彼の景色の中へと誘なってくれる。とてもプライヴェートな空間で奏でられているような、自分の傍に寄り添ってくれているような彼の音楽は、ずっと変わらずに家族や故郷を大切にしてきた彼の生き方そのもののようだ。虚構ではなく、いつでも手の届くところに存在している。長いこと彼の歌を聴き続けてきたけれど、この人は本当に凄い歌い手なのだとつくづく思わされる。彼の声にはきっと魔法がかかっているに違いない。マットがカヴァーしたのはセイヴズ・ザ・デイの「Freakish」とハスキング・ビーの大名曲「Walk」。どちらもマットの世界観で新しく生まれ変わって、また改めて原曲の素晴らしさに立ち返ることが出来る。ゲット・アップ・キッズとしては2009年に再始動、現在は新作ツアーの真っ最中。バンドとはまったく違う表現方法だけれど、もともとゲット・アップ・キッズ活動初期からアコースティックユニットのニュー・アムステルダムスを続けており、このスタイルはファンにもお馴染みであるし彼にとってもライフワークのひとつ。音楽活動のキャリアも長くなり、私生活では3人の子供の父親となって、彼自身の成熟した面(といってもまだ30代前半だけど!)が少しずつ音に滲み出ているのが感じられる素晴らしい3曲。
 
 メタルが好きでパンクが好きでハードコアが好きで、若い頃はウルさければウルさいほど、速ければ速いほど、重ければ重いほど良かった(もちろん今でも大好きです)。アコースティックなんてツマラナイって思っていた時期すらあったのに、今ではこの作品を繰り返し繰り返し聴くほどに、ウルさくて重いのとは対極にあるこのシンプルな音に魅了されている。これがもし、年を重ねたことによる変化なのだとしたら、「大人」になるってことも悪くないもんだ、と思える。素晴らしいアコースティックサウンドを聴かせてくれている彼らも、スタートはパンクだったというところもなんだか興味深い。

 忙しい毎日の中に、本当に心を預けられる何かがあるということ。それが恋人や家族でも、好きな音楽でも、何かひとつでもそういうものがあるなら、それはとても幸せなことだと日々思う。音楽を聴くために少し立ち止まったって、人生からおいていかれるわけじゃない。またひとつ生涯の友となるような作品と出会えた嬉しさは、大人になっても変わらない。だから明日もまた慌しく忙しい日常を駆けていくのだ、好きな歌を口ずさみながら。
 

*嬉しいことにこの3人によるアコースティックライブが東京で開催されることが決定しました! マットもクリスもソロでの来日は初となるうえ、とても距離感の近い会場で行われるので、彼らの歌をじっくり堪能できるはず。彼らの歌声が持つ力を一人でも多くの人に体感してほしいと思います。【筆者追記】