reviews

retweet

hercules&love_affair.jpg 「ダンシング・ゾーン・コンセプト」
 
 これは、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアの中心人物であるアンディ・バトラーが唱えたものだ。以降の引用は、彼等彼女達がガーディアンの取材に応じた際に発言したもの。最初にこのコンセプトの一端を語るのは、メンバーのひとりであるキム・アン。

「私達の政治的企みは、否応なしに踊らせること」
 
 そしてこれは、アンディ・バトラーの発言。

「僕は人々の踊ることができる公共の場を作りたい。人々がいる場所で踊ることが重要なんだ」
 
 これは妄想でもなんでもなく、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアは本気で全人類を踊らせることを目指している。
 
 前作『Hercules & Love Affair』は各方面で絶賛された(特にピッチフォークの興奮度は半端なかったと記憶している)。アントニー・ヘガティが言うところの「世界最高のクラブには、最高のセックスとドラッグがあった」ということだ。『Hercules & Love Affair』にもこのふたつがあったし、だからこそ玄人ハウス・リスナーからも評価されたんだと思う。発売されているクッキーシーンのムックでも書いたけど、『Hercules & Love Affair』にはディスコの歴史が詰まっている。具体的に言えば80年代の、「パラダイス・ガラージ」や「セイント」がもっとも隆盛だった時代だ。もちろんヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアは「今」の存在だから、単なるノスタルジーでディスコを鳴らしたわけじゃない。でなければ、ディスコであれだけの強度を持った政治性と音楽性をできるはずもない。ディスコというのはハッピーな煌びやかさ(というイメージ)とは裏腹に、歴史的にはナイーヴなものを内在していて傷つきやすいものだ。ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアの凄いところは、美しいが脆さと儚さもあるディスコという音楽で、あれだけの政治的強度を持った音を鳴らすという矛盾によって評価されたところ。そして、そうした矛盾を孕んだまま評価されたことが、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアを「今」という存在にしている大きな要因のひとつであるのは間違いない。

『Blue Songs』では、前作の作風に90年代前半のNYハウスシーンを混ぜた曲が多い。特に「Falling」以降は「It's Alright」以外ジュニア・ヴァスケスのようなハード・ハウスの要素が見え隠れする(少なくとも「Get Your Hands Off My Man」が聴きたくなるくらいには)。ストリングスがハイなグルーヴを生み出す「Painted Eyes」や、前作に入っていてもおかしくない「My House」「Answers Come in Dreams」「Leonora」にはアクが強い卑猥な部分も残っているが、KLF『Chill Out』を思わせる「Blue Songs」などに代表されるように、いままで以上にダンス・ミュージックのアーカイヴを掘り下げつつも、新たな音楽性を開拓しようと果敢に挑戦しているし、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェア流アコースティック・ソングな「Boy Blue」もあり、ムードに統一感がないぶんバラエティ豊かな内容となっている。一番印象的なのは、すごく流れを意識した曲順になっていることだ。「Painted Eyes」「My House」「Answers Come in Dreams」「Leonora」は前作の延長線上にあり、「Boy Blue」「Blue Songs」がブリッジになって、「Falling」以降でまたアゲる。そして最後は、ロマンティックに「It's Alright」で『Blue Songs』は幕を閉じる。それはまるで、クラブでの一夜を再現しているようだ。おそらく、エロティシズムの次は、非日常の馬鹿騒ぎを取り戻すということなのだろう。

 ゼロ年代に入ると、ダンス・ミュージックは生活のBGMとして機能させることを目指し始める。つまり、日常に寄り添ったものが求められていた。ダフトパンクを筆頭に、アンダーワールドやケミカルブラザーズはポップ・ソングとしての強度を持たせることで。レモンジェリーやロイクソップなどの所謂「ラウンジ」と呼ばれていたものは、アンビエントの思想を参照にしてダンス・ミュージックを鳴らしていた。それぞれ方法論は異なるが、日常にダンス・ミュージックを根付かせようという共通点の元にシーンは動いていた。だがもちろん、ダンス・ミュージックに非日常を求める人が居なくなったわけではない。こうした人々は(アーティストやリスナー全部含めて)、アンダーグラウンドに潜伏していった(蛇足だが、モービー『Hotel』は当時のダンス・ミュージック・シーンの状況を知るサンプルのひとつとしては面白いアルバムだ)。そこでの熱狂が表立って出てきたのが、ニュー・ディスコでありダブステップなんだと思う。

『Hercules & Love Affair』が革命前夜に鳴らされた秘密の乱交パーティーだとしたら、『Blue Songs』とはヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアにとっての始まりである。前述したアクが強い卑猥な部分が薄まった代わりに、より幅広くリスナーを獲得しようとする冒険心が窺える。アンダーグラウンドのエッジを保ったまま広い場所へ出て行くということを、音楽が「趣味」へと向かっている時代にやろうとしているのだ。そう、初期のニュー・オーダーがそうであったように。ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアは、アンダーグラウンドの熱狂を携えながら、政治的な主張と思想でもって大衆を踊らせようとする確信犯であり、ただの愉快犯ではないことを力強く証明しているのが『Blue Songs』というアルバムだ。
 
 ちなみに、「It's Alright」はスターリング・ヴォイドというアーティストが生み出したハウス・クラシックで、ペット・ショップ ・ボーイズがカヴァーしたことでも知られている。そして、この曲の歌詞にはこんな一節がある。

《Cause The Music Plays Forever》

 こうした一節を持つ曲をカヴァーするところに、ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアの明確な志の高さが垣間見れる。

(近藤真弥)

retweet

gruff_rhys.jpg 例えば、レディオヘッドは「移動」に伴って喪われてしまう感情や"人間的な、外枠"を「Let Down」という曲で表象したが、アーティストが全世界を対象にしたツアーや取材で疲弊して摩耗してしまうケースは少なくない。また、それがローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンなどの場合だと行く先々のホテルでの乱痴気騒ぎが「ロック・バンドの神話」として増幅してしまうことになったりしたものだが、ウェールズが誇るオルタナティヴ・バンドのスーパー・ファーリー・アニマルズ(以下SFA)のフロントマンであるグリフ・リーズは疲弊にも乱痴気騒ぎにも振れず、15年以上に渡るツアー生活が「日常」と化した中で、訪れる場所でのホテルのアメニティ・グッズ(主に、シャンプーの小瓶)を収集することを楽しみにし、そのコレクションされたグッズと記憶をモティーフにして、ソロ・アルバムを作ることになったという経緯が興味深い。

 彼によると、ツアーを続けられることは"ラッキー"であると言っているから、元来のノマド体質なのだろうし、その体質がいつも音楽面でも良い波及効果を齎せているのは周知のことと思う。母体であるSFAにおけるサイケデリア、アシッド・フォーク、ソフト・ロック、トロピカリア時期のサウンド、カンタベリー・サウンド、バート・バカラックの手掛けた60年代の大文字のアメリカン・ポップスまでを渡り歩くスマートさと、常に「確信的なステイトメント」を作品の中に潜ませてきたそのセンスはこれまでも高い評価を得てきた。近年では、ブーム・ビップと組んだサイド・プロジェクトであるネオン・ネオンでのシンセ・ポップへのアプローチ、ゴリラズ『プラスティック・ビーチ』の客演でも存在感を示すなど多岐に渡った活動も目立っていたが、四年振りとなるソロ・ワーク三作目『Hotel Shampoo』では、彼の持つ音楽的な語彙の多さが如何なく発揮された懐の深いカラフルな作品になっている。ときに、サイケデリックに傾ぎ過ぎてしまうSFAでの"角"を矯め、トン・ゼーやフランク・ザッパが持っていたようなフットワークの軽さと絶妙なバランス感覚を活かしながら、肩の力の抜けたカジュアルな雰囲気が、心地良い。個人的には、SFA名義でのウェールズ語で作られた00年の『Mwng』辺りの柔らかな温度の人懐っこさを彷彿させるところもあり、過度にシリアスな表現や現実逃避としての音楽がシーンに溢れる中、マジカルな音楽そのものの底力を再定義するようなものになっているのが嬉しい。
 
>>>>>>>>>>

 ソロとしての前作『Candylion』の、リラックスした箱庭ポップも良かったが、今作はより拓かれた形でコンセプチュアルに焦点が絞られた構成になっており、FLOOR1(1~7曲目)、FLOOR2(8~13曲目)と分かれているように、"シャンプー・ホテル"のための架空のラウンジ・ミュージック的な側面がある。

 カモメの鳴き声とチューニングを合わせるラジオからザ・サークルの名曲「It Doesn't Matter Anymore」が聞こえて始まる冒頭の「Shark Ridden Waters」は美しいハーモニーと旧き良き時代の大文字のポップスが現代に再帰したかのような佳曲で、「最近のぼくは本当に空中に浮遊しているような気分なんだ」という歌詞とシンクする不思議な柔らかさがある。4曲目の「Vitamin K」、12曲目の「If We Were Words(We Would Rhyme)」でのとろけそうな甘美さにはアソシエーション、ハーパーズ・ビザール、サジタリアス、ミレニアム、フリー・デザイン辺りのソフト・ロックの遺伝子と往年のA&Mの作品の影響も垣間見えるし、それらを含めて、全体を通底するサウンド・メイキングにはエンニオ・モリコーネの映画音楽を想起させるメロウネスがあり、ときに微かな潮風と共にザ・ビーチ・ボーイズの香りもする。また、人によっては、ストリングスの挟み方にはヴァン・ダイク・パークスの影が見えるかもしれないし、ステレオラヴ、ハイ・ラマズ、オブ・モントリオール「以降」の如何にも現代的な音響工作が緻密に練られた作品群と近似する温度も感じられるかもしれない。

 そして、彼の人柄そのものが表れた優しい閃きに満ちたメロディーも今回は冴え渡っており、麗しい。勿論、従来通りのサイケなセンスや、隠喩と風刺に満ちた歌詞も耳に残るが、あくまで核たる部分は、オーケストラル・ポップの幻想的なサウンドスケープと、かつての共通言語だった時代のロック/ポップスの魔法を取り戻そうとするグリフの音楽愛への敬虔さだろう。派手さは決してないが、多くの人たちに届いてほしい芯の通った力作だと思う。

《ひとつの文を取り上げて それを繰り返してほしい 人魚のうたが聞こえるまで》(「Take A Sentence」)

(松浦達)

retweet

ringo_deathstarr.jpg
 マイブラ、ジザメリ...夥しいほど引き合いに出されてきた単語を目にして、何度も聞いた文句だと思いつつも、やっぱりその謳い文句に惹かれて音源をチェックしてしまう。例えそれが先人達の焼き直しであったとしても...。きっといるはず。僕もそんなひとりです。そしてそんな僕等の誰よりもど真ん中を射ち抜く 、更にシューゲイザーの文脈に興味がない人にも1つの良質なポップ・アルバムとして薦めたいアルバムをリンゴ・デススターが作り上げた。2009年に発表された『Sparkler』に続くファースト・フル・アルバム。
 
 ギター、ヴォーカルを務めるエリオット・フレーザーの声は間違いなくジザメリを想起させるし、ベースの紅一点、アレックスはビリンダだろうか?基本的な音もまさにシューゲイザーのイメージそのものである。ちなみに12曲目「Tilt-A-Whirl」はまさにマイブラの「(When You Wake)You're Still In A Dream」で、思わず2つを聴き比べたほど。14曲目の「Candy Paint」にブラインド・ミスター・ジョーンズの「Lonesome Boatman」を想い出させて悦に入ってしまったのは勘繰り過ぎの産物だろうか...? 勿論それだけではなく、3曲目「So High」のメロディにはネオアコや、ヘヴンリィなどのツイー・ポップバンドと共通するものを感じることができるなど、随所に様々な音楽性を見せつつ、一辺倒に聴こえないのもまた魅力である。
 
 しかし何と言っても、曲が良い。1曲それぞれ、単独で成立できるクオリティの高さがあるため、単純に、通して聴いて飽きない。何度も聴けてしまう。ザ・ペインズ・オブ・ビーイング・ピュア・アット・ハートにも近い感想を抱くが、ミックスの妙か、リンゴ・デススターの今作は彼らよりも全体を取り巻く音がカラっと乾いていて、音抜けがよくとてもクリアに聴こえる。ジャケットよろしく、太陽の下でノイズを浴びているような感覚に陥る。それがたまらなく心地いい。「Two Girls」「Chloe」なんかまさにそうだと思う。
 
 ここまで陽性なノイズを撒き散らしておきながら、しかもその1つ1つが強い光を放っている。数多いこのシーンで、マイブラ、ジザメリを引き継ぐ正統派と呼ばれながらも、実はこんなバンド、ありそうでほとんどいないと言っていいのでは。そんなバンドだけに、音楽的文脈を知らない、興味がない人にこそ聴いて欲し いと思ってしまう。このくだり、2度目ですが。2011年早々にして傑作。
 

retweet

cloud_nothings.jpg いやあ、痛快! バズコックスやザ・ゲット・アップ・キッズ、アッシュにティーンエイジ・ファンクラブ、はたまたブリンク182なんかを思わせるようなメロディ――それがあまりにキャッチーでポップなのだから。パワー・ポップでローファイで、パンク。何より、キッズが盛り上がれる音楽を、19歳の少年が作っているということが何より、いい。

 クリーヴランドに住む大学生ディラン・バルディ。サックスを専攻する彼が、自己満足のため家の地下室で始めたレコーディング・プロジェクトがこのクラウド・ナッシングスだ。現在は3人のメンバーを率いるディラン少年が、ネットに楽曲をアップするとまたたたく間に注目が集まり、その後カセットや7インチ、CD-Rなどで音源を大量にリリース。それらのシングルやEPはコンパイルされ、昨年アルバム『Turning On』として発表され多くのインディ・ファンを熱狂させ続けている。結果、ピッチフォークの読者投票による2011年の注目新人(「Best Hope For 2011」)の4位にランクインするほど期待を集めてきた。

 そして、『Turning On』から1年もおかずに届けられたこの作品が、彼ら初となるオリジナル・アルバムだ。とはいえ、ローファイぶりは一切変わらない。地下室からバルチモアのスタジオへ、完全な我流からプロデューサー(ダン・ディーコンを手がけたチェスター・グウェッズダ)の監修を受け、という変化はあったものの、演奏は驚くほどラフ。まるで

 音から若い勢いが透けて見えるようだ。だが、何よりメロディがいい。3分にも満たない楽曲のなかでジェットコースターのように急上昇と急降下を繰り返すスリル。そこにコーラスやギターのフレーズでこれでもか、というほどフックを作り出している。19歳の若さを最大限に活かした勢いと瑞々しさ、一切計算のない無垢さがリスナーをとりこにし、この28分にも満たないアルバムをリピートされる。

 幼いころにはビートルズやコステロを聞きあさったというディランくん、彼のソングライティング能力と速さはしばらく落ちることは無いだろう。はやくも次のアルバムへの計画も進めているようだし、今後も大量に楽曲をリリースすることは間違いない。ネイサン・ウィリアムスやブラッドフォード・コックスのように、常に新曲を届けてくれる存在になってくれるよう見守ろうじゃないか。

(角田仁志)

retweet

cut_copy.jpg いまやインターナショナル規模のダンス・アクトとなった彼らの待ち望まれた新譜が、どうしてこんな肌寒い季節にリリースされるんだろう...とちょっとだけ不思議だったが、そういえばこの人たちはオーストラリアのバンドだった。この原稿を書いている一日の、彼らが拠点としているメルボルンの最高気温は19度。土地によっては30度を超えている。本当にそういった事情がリリース・タイミングに関係あるのかは正直よくわからないが、南半球は温かさそうだな。羨ましい...あはは。

 08年に発表された二作目『In Ghost Colours』で彼らは一躍その名を世界中に轟かすところとなった。シンセサイザーを駆使した煌びやかで光の渦のようなサウンド・スケープと、メランコリックで郷愁あふれるメロディ、80年代エレポップの影響を根幹に据えながらも、フレンチ・エレクトロやエレクトロ・シューゲイザーなどの流れも汲んだ、極めてモダンな疾走感。「ニュー・オーダーのアルバム再発(これも08年)はカット・コピーが促した」なんて評まで見かけたが、オーストラリア産らしいセンスの微妙な"ズレ"も含めて、バンド名どおりに情報の取捨選択センスも存分に発揮された快作はセールス的にも大成功を収めている。

 思い切り乱暴に仕分けすれば、この『Zonoscope』は『In Ghost Colours』の続編、あるいは焼き直し...みたいな位置付けもできると思う。相変わらず歌声を聴けば胸を掻きむしらずにいられないし、フェアライトCMIのような旧式の電子楽器や、それらを駆使した古のミュージシャンたちに対する研究の跡もうかがえる。カット・コピー印のキラキラしたエレポップは健在だ。しかし、アルバムを聴くと長めのインターバルが空いただけの工夫と苦労も見え隠れしてきて、そこがリスナーによって評価を二分させるであろう要因になっていると思う。

 マンハッタンの摩天楼を浸食するナイアガラの滝。意味深なジャケットは日本のデザイナー、故・木村恒久氏による有名なフォト・モンタージュ作品が用いられている。人工的な建築物を大自然がなぎ倒していく...。このモチーフは彼らが本作で企図したサウンドと一致したようだ。メルボルンにあった廃墟を改築し、長期に渡るジャム・セッションのすえにこのアルバムは完成した(そのときのようすはMySpaceでも現在公開されている)。そのエピソードを聞いて予感させるとおりの、デジタルとオーガニックの融合を目指した冒険の成果がここには記録されている。

 先行シングルである「Take Me Over」は、ねちっこい唸るベースラインとファンキーなギター・カッティングを基調としたトム・トム・クラブを思わせる緩いグルーヴに、チープな電子音が絡まるバレアリックなディスコ・ナンバー。かつてのタフ・アライアンスあたりにも通じるトロピカルな空気は、つづく「Where I'm Going」でも継続している。いやらしい見方をすれば昨今の流行を押さえた作りになっているが、もともとファンク・ミュージックや90年代のアシッド・ハウスもルーツにもつ彼らが籠もってジャムり続ければ当然の帰結というか、単に地の部分があからさまに出ただけな気もする。一方、「Blink And You'll Miss A Revolution」や「Hanging Onto Every Heartbeat」のような楽曲はAOR的と形容できるほどポップスとして洗練され、2分弱のインスト曲「Strange Nostalgia For The Future」での穏やかな響きは、その曲名と合間って『Zonoscope』の世界観を読み解くヒントのように機能している。ヘラクレス・アンド・ラヴ・アフェアの新作同様に80年代後半あたりのハウスからの影響が見え隠れする曲もあるが、そこから汲み取れるのもエロスではなくてやはりノスタルジアだ。

 前作よりやや丸くなって落ち着いた作風になっているぶんアルバム全体としてはやや間延びしている感も否めないが、曲のひとつひとつを取り出せば聴きどころも多く、ネタの種類も豊富になっている。なんとも悩ましいレコードだ。収録時間の4分の1を占めるラストの長尺曲「Sun God」が、トリッピーなアシッド感覚が全開ですばらしい内容になっているのもまた悩ましい...。強引に喩えれば前作がニュー・オーダーの『Technique』で、こちらはトーキング・ヘッズの『Speaking In Tongues』。どちらが好みかは人それぞれ...、というところでしょうか。ちなみに、彼らはトーキング・ヘッズ的(『Stop Making Sense』的)なシアトリカル路線のライブ・ステージの構想を練っていたりもするらしい。それはぜひお目にかかりたいぞ。正しい姿勢として断固支持したい。

(小熊俊哉)

retweet

esben_and_the_witch.jpg 08年にイギリスのブライトンで結成されたエスベン・アンド・ザ・ウィッチ(Esben And The Witch)。よくもこんな素晴らしいファースト・アルバムを作り上げたものだ。ブライトンだからといって、ファットボーイ・スリムのような陽気でハッピーな音ではない。「ナイトメア・ポップ」なる新語で呼ばれているだけあって、どこまでも深い闇に引きずり込まれそうな音だ。レイチェルの呪術的なヴォーカル、シューゲイザーを思わせる轟音、ミニマルかつ鋭利なビート。人によってはダーク・エレ・ポップと形容したくなるようなところもある。だが、『Violet Cries』においては「ギターの音」といったものを超越していて、すべては『Violet Cries』というひとつの巨大な世界のための音となっている。つまり、すべての音が「楽器」という体から幽体離脱し、『Violet Cries』の匂いや風景として機能しているのだ。はっきり言って、『Violet Cries』に収録されている音を「音」という言葉で表現することにすら、僕は抵抗を感じる。それくらい『Violet Cries』は世界として強く存在しており、ユートピア的ですらある。

「インダストリアルは空にキスする代わりに、宇宙の裂け目を覗き込んだということだった。インダストリアルはさかさまになったサイケデリア、ひとつの長く不快なトリップなのだ」

 これはサイモン・レイノルズ(『ポストパンク・ジェネレーション 1978-1984』の著者)の言葉だが、「インダストリアル」の箇所を『Violet Cries』に置き換えれば、まさしくその通りだ。『Violet Cries』は聴いていて気持ち良くなる音楽ではない。徐々にフェードインしてくる「Argyria」から始まり、MVのメンバー同様聴く者もボロボロになっていく「Marching Song」。そして、3曲目の「Marine Fields Glow」以降になると、周りの景色はがらりと変わっている。そこは暗く雑音だらけの美しい世界。まるでそれは、この世において負とされるものだけで構成されているような世界だ。しかし、僕にとってその世界は清々しく痛快ですらある。それはなぜか?

「吐き気をもよおす非道......いまここで公的資金が、われわれの社会の倫理性を破壊するために浪費されている。この者たちは文明の破壊者だ!」

 また引用になってしまうが、これは76年10月、ロンドンのインスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アート(ICA)にて行われた展覧会「プロスティテューション」を糾弾した際に、保守党議員二コラス・フェアバーンが吐いた言葉だ。『Violet Cries』はこの世に存在する倫理が及ばない場所で鳴っているし、だからこそ普段我々が生きているこの世界の景色を変え、常識や価値観を混乱させる力が宿っている。僕はこうした価値観が更新される瞬間の痛快さとスピードが大好きだし、たくさんの音楽を聴ける(「たくさんの音楽を聴いている」ではダメだし、それは嘘になる)ようになったのもだからだと思う。

 エスベン・アンド・ザ・ウィッチを語る際に引用されるバンドはスージー・アンド・ザ・バンシーズやザ・キュアーが多いみたいだけど、僕はスロッビング・グリッスルの精神を感じた。

 僕がこの世に生まれて初めて聴いた音楽はポストパンクだった。特に祖母に教わったスロッビング・グリッスルが大好きで、というのも、よく幼稚園の送り迎えの車内で曲が流れていたし、『20 Jazz Funk Greats』が家で流れた日は、決まって親父とお袋がセックスをしていたからだ。そのせいもあって、スロッビング・グリッスルを多く聴いていた。もちろんそれだけがスロッビング・グリッスルを好きな理由じゃない。一番の理由は、スロッビング・グリッスルの音楽は本能に訴えかけてくる究極のボディ・ミュージックだからだ。メロディやコードなどのありとあらゆる音楽性を排除し、トランス状態の恍惚へと誘ってくれる。これは現在のダンス・ミュージックと似ている方法論だが、スロッビング・グリッスルの精神を「チル・アウト」という形で表現したのがThe KLFであり、現在の音楽シーンにも「言葉とアイディアがたくさん詰まっているもの」という意味において、スロッビング・グリッスルやThe KLFの影響下にあるバンドやアーティストが多いと言える(たとえ意識していなくとも)。
 
 エスベン・アンド・ザ・ウィッチもそうした影響下にあるバンドだと思う。ただ、『Violet Cries』がスロッビング・グリッスルをまんまやっただけなら、僕もこうしてレビューを書きたいとは思わない。エスベン・アンド・ザ・ウィッチは、スロッビング・グリッスルの精神と音楽性(技術や音楽的教養という意味)の折衷に挑んでいるし、『Violet Cries』でもそれは成功していると思う。特に「Eumenides」は最高の成功例だ。数年前にあったポストパンク・リヴァイバルなるものは、結局ポストパンクのスタイルだけを真似たもので、音楽的には張子の虎だった。しかし、エスベン・アンド・ザ・ウィッチは「ポップとしてのポストパンク」の魅力に気付き、それを人々が共有できるアンセムとしても機能する形で表現できた数少ないバンドではないだろうか。ちなみに、僕は「数少ないバンド」のなかにハーツも含んでいるんだけど、エスベン・アンド・ザ・ウィッチとハーツ共にカイリー・ミノーグ「Confide In Me」をよくライヴで披露する。これも面白い偶然だと思う。

(近藤真弥)

*日本盤は2月23日リリース予定です。【編集部追記】

retweet

jonny.jpg ジョニーってなに? バンド名? このアルバム・ジャケットもどういうこと?? 上半身をはだけたむさくるしい男5人(誰だよ、おまえら)が自分の腹に「J・O・N・N・Y」って一文字ずつ書いて満面の笑みを浮かべて並んでいるポラロイド写真。ジャケ買いとか絶対無理。ぜんぜんいけてない。いや、むしろださい...と思ったみなさん(僕もそう!)は、ぜひこの彼らのデビュー・アルバム『Jonny』を聴いてみてほしい。そんなことどうでもよくなるくらいに、ポップで楽しさにあふれた作品だから。

 スコットランドはグラスゴー出身で、ここ日本でも人気の永遠のギター・ポップバンド、ティーンエイジ・ファンクラブ(以下TFC)のノーマン・ブレイクと、英ウェールズ出身のサイケデリック・フォークバンド、ゴーキーズ・ザイゴティック・マンキ(以下ゴーキーズ)の中心メンバーでバンド解散後はソロとして活動していたユーロス・チャイルズ。共にイギリスの音楽シーンにおいてメロディ・センスが光るソング・ライティングで有名な2人がデュオでなにやら作品を作っていると聞いたのは2006年頃の話だった。両者ともにかねてから相手のファンであることを公言し、90年代から互いのバンドで共演するなど友人関係にあった2人なので、その時は特に驚かなかったが、たぶんシングル1枚でも作るのだろうくらいに思っていた(本人たちもそう思っていたようだ。このバンド結成の経緯や上記ジャケット写真の詳細などは別に掲載されているノーマン・ブレイクのインタヴューに詳しいのでそちらをぜひ)。が、その2人がそこから数年経ちアルバムをリリースしてしまうと聞いたときにはさすがに驚いた。互いに忙しい身であったし、そこまで本格的なプロジェクトだと思わなかったから。でも2人は忙しい合間を縫い長年に及ぶ断続的なセッションを経てついにセルフ・タイトルのデビュー・アルバム『Jonny』を届けてくれた。

 アルバムで聴けるのは、前述のようにとにかくポップなサウンドだ。1曲目の70'sあたりのオールド・スタイルなロック・チューン「Wich is Wich」から、ファースト・シングルとなった「Candyfloss」(このPVは2人がCandyfloss=綿あめを食べるおかしなものなのでファンの方はぜひ見てみてほしい)、ユーロスのハモンド・オルガンが疾走する「Goldmine」、同じくゴーキーズ時代を思わせるユーロスVoのピアノ・バラード「English Lady」、パンについてユーモアたっぷりに歌われる「Bread」に、アルバムのハイライトのひとつとも言えそうな10分強もあるスペイシーなサイケデリック・シンフォニー「Cave Dance」、ノーマンVoのフォーキー・ポップ「I Want To Be Around You」、そしてラストの2人のコーラス・ワークが息をのむような美しさの牧歌的なクロージング・チューン「Never Alone」まで(国内盤にはアルバムに先行してフリー・ダウンロード配信されていた、その名も「Free EP」の4曲がボーナス・トラックとして収録)、その「Cave Dance」を除けばすべて3分前後の楽曲で多彩なサウンドが展開されていて、2人がそれぞれの楽器を手におもちゃ箱をひっくり返したような楽しさを味わうことができるアルバムに仕上がっている。中でも個人的に、6曲目のノーマンのメインVoによる、シンプルなコード進行に、これぞノーマン節と言える美メロとパパパ・コーラス、そして切ない歌詞が乗った「Circling The Sun」は、TFCの名曲「Did I Say」や新作『Shadows』での「Dark Clouds」あたりを思わせる1曲となっていて、うれしくなってしまう。

 そうしたようにもちろん曲は、TFCとゴーキーズという人気バンドで活動してきた彼らの経験から生まれているわけで、ポップ・ソングであるということにおいては、このジョニーもそう大きな違いはない。たからどちらのバンドのファンにもすんなり受け入れられる作品だろう。が、最小限のグループ単位でより個性が際立つデュオという構成で作曲をしたことにより(ほとんどの曲は2人の共作になっている)、そのポップ・センスの中でもノーマンのグラスゴー産のエヴァー・グリーンさと、ユーロスのウェールズ産のひねくれたユーモアが、それぞれのバンドやソロでの活動よりダイレクトに響いていることも間違いない。また2人のハーモニーや時にユニゾンでのヴォーカルの相性がとてもよく、それは今までの作品ではあまり聞けなかった、このアルバムならではの新しい発見となっている。そして、なによりこのジョニーで大きな違いを感じられるのは、彼らがそうした自身の音楽キャリアで培ってきたメロディーやサウンドを、影響を受けてきたバーズ、ステイタス・クォー、13th フロア・エレヴェイターズ(シングルのB面では、バンドのメンバーだったロッキー・エリクソンの「I Love the Living You」のカヴァーが収録されていた)、そしてビートルズなど過去のバンドへの愛情たっぷりに、なんのギミックもなく素直に自然体で出しているという点だ。そしてその自然体ということが、このジョニーの音をとても新鮮なものにしている。前述のインタヴューでもノーマンが「自分たちが楽しむためにやっているプロジェクトだ」と語ってくれたように、プレッシャーがない環境で、自分たちのやりたい音楽をやりたいようにやったのがジョニーであり、このデビュー作で彼らが形作ったサウンドになっているのだろう。そして、その楽しさは、アルバムを聴く僕らファンの耳にダイレクトに届いている。
 
 古くはサイモン&ガーファンクルからダリル・ホール&ジョン・オーツ、ファンタスティック・サムシングやキングス・オブ・コンビニエンスまで、男性ポップ・デュオはたくさんいるけれど、このジョニーもそこに加わえていいはずだ。サイド・プロジェクトとしては充実しすぎているこの2人のコラボレーション。ぜひこの1枚だけではなく継続的なものとしてこれからも、自由で、楽しめる、そして変なジャケットのアルバムを作り続けてほしい。

 でもやっぱりジャケ買いはしないけどね!

(安永和俊)

retweet

zzz.jpg zZzって...。オランダのアムステルダム出身のこの2人組は、その名もzZz。日本語にすると、イビキでもトリプル・ゼットでもズズズでもなく、「ャズ」という。国内盤の帯にはご丁寧にも※印付きで、"日本語表記の「ャズ」は、「Jazz(ジャズ)」の「Ja」を抜かした発音です。"って書いてある。でも、うまく発音できない...。意地悪なユーモアなのか?月並みなコミュニケーションに中指を立てるパンク・スピリットなのか? それとも、本当に眠いだけなのか? とにかく一筋縄では行かない感じが、バンド名からも伝わってくる。そんな彼らが2008年に発表した2ndアルバム『ランニング・ウィズ・ザ・ビースト』が、ようやく国内盤としてリリースされた。

 ブックレットをペラペラめくってみると、そこには思いがけない発見が! アルバムのコンセプトをビジュアルで表現するのは当たり前だけど、このブックレットではその制作過程も見ることができる。なんて愉快なアクション・ペインティング! ストーン・ローゼス(ジョン・スクワイア画伯)に丸パクリされたジャクソン・ポロックも、これなら天国で微笑んでるに違いない。親切な連続写真も笑える。このアルバムはデータじゃなくって、絶対にCDかアナログで手に入れるべき。最後のページで完成作を手に(ドヤ顔で!)仁王立ちする2人も頼もしい。ャズの正体は、ミニマムなアートを愛するロック・バカだってことが判明。最高でしょ。

 ドラム&ヴォーカルのBjörn Ottenheimが叩き出すビートは、タイトでシンプル。リヴァーブ深めで翳りのある歌声もカッコいい。Daan Schinkelが奏でるシンセサウンドは、極彩色のサイケデリックと薄暗い蛍光灯が揺れるガレージを行ったり来たり。時折聞こえるオルガンはモッズっぽいし、サウンドの奥底ではブルースも鳴っている。JSBXやスーサイドと比較されることが多いらしいけれど、このアルバムはまるでブラック・キーズがジョイ・ディヴィジョンをトリビュートしているみたい。ブルースやソウルに対する自由な解釈とニュー・ウェーヴにも通じるダンサブルなアプローチ。ギター&ベースレスとは思えない多彩なアイデアとアレンジが、僕の耳を奪う。

 すでに海外では、このアルバムに収録されている「Grip」のPVが大きな話題に。彼らと同じくアムステルダムを拠点に活動する映像作家 Roel Woutersによる斬新なアイデアは、一見の価値あり。"欽ちゃんの仮装大賞"どころか、ヨーロッパではいくつものビデオ・アウォードを受賞し、挙げ句の果てにフィアットのTVCMに担ぎ出される騒ぎにまで発展。これにはYouTubeの覇者 OK GOもビックリしたとか、しないとか。その後もフランツ・フェルディナンドやゴシップとツアーを巡り、人気も評価も急上昇中だ。2〜3年周期でのリリース・タイミングを考えると、今年は新作が期待できるかな。このアルバムがみんなの耳に届けば、次作はもっと早く国内盤が出るかもしれない。そして一日も早く、人力グルーヴが渦巻くサウンドをライヴで体験できますように。では、おやすみなさい。zZz...zZz...。

(犬飼一郎)

retweet

iron_and_wine.jpg まさか、全米2位とは・・・。古巣サブ・ポップからワーナーへの移籍による大幅なバックアップの獲得は大きいのかもしれないし、、『アグリー・ベティ』を始めとするUSドラマに楽曲使用されたことも影響しているのだろう。加えて、ディセンバリスツ『The King Is Dead』の全米No.1という直前の追い風もあった、とはいえ、やはりこれは驚くべき快挙だ。

 もちろん、アイアン・アンド・ワインことサム・ビームの4枚目となるこのアルバムがすごいのはチャートでの成功だけじゃない。柔らかにレイヤーを重ねたコーラスと、心に染み入るフォーキーなメロディは健在、音のテクスチュアはほんのりと陽性で、郷愁を呼び起こす。

 また、トム・ウェイツ『Swordfishtrombones』の影響を受け、ダブやレゲエ、アフロ・ビートが取り入れた前作『The Shepherd's Dog』の路線を継承、更にジャズや電子音まで加えてしまった。結果、フリートウッド・マックの華やかさと実験性、ジェイムス・テイラーのラジオ・フレンドリーさを獲得してしまった。それを思うと、いつも通り肩の力が抜けた、ビタースウィートなサムの歌声にたただた恐れ入るばかりだ。

 だが、僕はアイアン・アンド・ワインは今後まだまだ面白いことになると信じている。というのも、最近のライヴがこれまでのサムのイメージにとどまらない内容だからだ。2部構成のステージは前半がアコースティック・セット。バンジョーやマンドリン、キーボードのプレイヤーを従え、メランコリックで美しいサウンドスケープにオーディエンスをいざなう。だが後半では、エレクトリック・ギターに持ち替えフォーキーな楽曲が表情を一変させるそうだ。

 この構成・・・そう、ボブ・ディランを思わずにはいられない。セルフ・イメージに囚われないプレイを続けるなら、このアルバムすら通過点なのではないか、そう思えてならない。

(角田仁志)

retweet

Secret_Shine.jpg いまや必携の名著、シューゲイザー・ディスク・ガイドを片手に、シークレット・シャインの最初のアルバム『Untouched』を聴いている。1993年の作品で、廃盤なのかアマゾンのマーケット・プレイスでは目が痛くなる値段が付いているが、iTunesではきちんと適正価格で購入することができる。便利な時代だな...と思う。「常にナイーヴなポップ・センスを内包しマニアックな人気を誇っていた」「MBV(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)からの影響が強く~」と先述の本で紹介されているが、シューゲ門外漢の僕でもクスっとなってしまうほど、男女混成ヴォーカルもハーモニー具合も浮遊感も、たしかにそのままMBVや初期スロウダイヴを思わせる。ときおり疾走感もみせるバンド演奏は、シューゲイズした音の氾濫する今のインディー・シーンに馴染んでいる音楽ファンにも求心力をもっているはずだ。

 ヘヴンリーやザ・ヒット・パレード(どちらも大好きなバンドだ...。ヘヴンリーのアメリア・フレッチャーは今でもTender Trapというバンドの一員としてがんばっている)らを輩出したかつてのネオアコ・ファンにとってのマスト・レーベル、サラ・レコードからデビューしたブリストル出身の彼らは、活動休止やメンバーの死などを経て、コンピレーション作を挟み、06年に2枚目の『ALL OF THE STARTS』を発表している。そして2011年、結成20年ということを考えるとますます意味深なタイトルを冠した本作『The Beginning And The End』をリリースした。

 一聴して驚かされるのは、いい意味でキャリアの長さを感じさせないサウンドの瑞々しさ。美しく重なる電子音のレイヤーと、プリファブ・スプラウトのウェンディ・スミスをも思わせる神々しく舌足らずな女声コーラスがタイトなアンサンブルを牽引する冒頭の「In Between」一曲で打ちのめされる。全体的にシンセ・サウンドが有効的に活用されており、最近のレディオ・デプト辺りを彷彿とさせる音づくりはキャリア20年と思えぬ同時代性を発揮している。一方で、80年代~90年代に登場したある種のギター・バンドたちと通じる繊細なメロディは、長く現役を張ってきた人間にしか出せない重みと説得力を持っている。

 ストリングスの起用など短絡的なシューゲイザーの文法にこだわらない一面も見せ、「Run Around」や「Harry」といった曲の穏やかさに身を任せていると意識がどんどん遠のいていきそうになる。「Windmill Hill」あたりに顕著なやや古めかしい音色はノスタルジーを喚起させるし、かつて披露した熱っぽいバンド・サウンドも随所に用意されている。懐の深さと抜群のオリジナリティーを誇り、アルバムのどこを切っても芳香なメロディが流れ出てくる。マニアックと呼ばれることを拒否するかのような堂々とした佇まいでありながら、触れたら崩れそうな脆さを孕んだ気高い音楽だ。成熟したところを存分にアピールしながら、今も変わらず儚い青臭さも感じさせるのが何よりいい。

(小熊俊哉)