reviews

retweet

underworld_live.jpg
 去年の10月に行われた日本ツアーもそうだけど、ダレン・エマーソンが抜けた後のアンダーワールドは明らかにライヴからのフィードバックを重視している。それはダレンが抜けたことで、クラブからのフィードバックを得られなくなったことも関係しているんだろうけど、ライヴとアルバムは別というよりも、ライヴがアルバムの世界観を表現する上での集大成となっている。だからこそ、盤という形でライヴを真空パックするのには無理がある。もちろんそこらのライヴ盤よりははるかに聴いていて楽しいし、何度も聴きたくなる。「Born Slippy Nuxx」での抗えない高揚感はさすがの一言だし、ライヴ・バンドとしてのアンダーワールドの魅力を確認できるという意味では、すごく最適な1枚だと思う。

 ただ、アーティストとしてのアンダーワールドという視点でもって聴くと、どうしても寂しくなってしまう僕がいる。『Barking』からは「Always A Loved Film」と「Scribble」が収録されているが、正直他の4曲と比べると、観客を熱狂させるパワーは落ちる。もちろん「Born Slippy Nuxx」のようなアンセムを生み出せとは言わないし、もしアンダーワールドが過去の焼き直しなんてやり始めたら僕は本気で怒るだろう。でも、ライヴでアルバムの集大成を表現するのが現在のアンダーワールドだと思っている僕からすれば、『Live from The Roundhouse』は何かが足りない。どうせなら『Everything Everything』のように、アンダーワールド自身の手が隅々まで行き届いているライヴ・アルバムをリリースしてほしかった。はっきり言って、『Live from~』は「10年経った『Everything Everything』」に過ぎない。それでも繰り返し聴いているのは、やはりアンダーワールドのライヴがもたらす快楽が忘れられないからで、『Live from~』にもその快楽の欠片が収録されているからだ。『Everything Everything』ほどアルバムとしての個性や存在意義はないけど、アンダーワールドのライヴの興奮を記録出来ているという意味ではなかなか良いアルバム。僕にとっては愛憎入り乱れる複雑なアルバムだ。

(近藤真弥)

retweet

coldfish.jpg
*ストーリー: 熱帯魚店を営んでいる社本(吹越満)と妻の関係はすでに冷え切っており、家庭は不協和音を奏でていた。ある日、彼は人当たりが良く面倒見のいい同業者の村田(でんでん)と知り合い、やがて親しく付き合うようになる。だが、実は村田こそが周りの人間の命を奪う連続殺人犯だと社本が気付いた。

 園子温監督がこの作品を書いた頃は恋人が家から出て行ってかなりボロボロで新宿でホストにケンカ売ってわざと殴られたり「クランクイン前には警官に捕まえてと言っていた。人を殺してしまう前に」と言ってしまうぐらいに落ちていて、一緒に脚本を書いた高橋ヨシキさんにも同じようなことをしようとしても彼の方が大人で「一緒に映画やろう」と言われたらしい。 

 雑誌『CUT』の園監督のインタビューではこの映画を作ることで自分自身が救われたと。ラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』でラースも同じような事を言っていたとのこと。そのインタビューではみんなが『愛のむきだし』ばっかり言うから嫌になったと。だから新しいスタートを切る『冷たい熱帯魚』は第二のデビュー作のようなものでジョン・レノンでいうとソロになった『ジョンの魂』だと言う事を園監督は述べている。 

 作品としては巻き込まれ型である。主人公・社本の家庭は崩壊している。後妻と娘の関係は最悪、その妻と自分の関係も冷えている。それがギリギリのラインで保たれながら日々が過ぎている。そして出会ってしまった男・村田により彼はその平穏な人生から転がり堕ちていく。村田は殺人の後始末に社本を連れて行く。村田の妻(黒沢あすか)と彼は手慣れたやり方で殺した相手をどんどん解体していく。社本は泣きながら吐く事しかできない。しかしこの時点で彼は車で死体を運んでいる、彼は知らぬ間に巻き込まれ共犯者になっていく。死体を細切れのからあげサイズにそして焼いて骨を粉になるまで、肉は途中の川に。そうやってその死体は透明になる。村田は社本を殴りつけたりしながら殴ってこいよと言うが社本にそれはできず、昔の俺みたいだなと言う。村田はこの作品における象徴的な父である。そしてこの作品はオイディプス・コンプレックスを扱っている作品になってしまっている。去年の東京フィルメックスでは無意識にそうなってしまったと園監督は言っていた。 

 園子温作品を何作か観ればわかるが園さんは家族というものを否応なく描いてしまうし題材というか大きな軸として展開する。それは大抵崩壊した家庭だったりするのだが。それが顕著なのは吉高由里子が世に出る事になった『紀子の食卓』だろう。『愛のむきだし』での主要キャラの三人の若者の家庭には問題があった。時にはそれらを置き去りにし、崩壊しかかっているものを完全にぶち壊す。家族という最も最小単位の社会。それが壊れている時点でそこにいる子供はそこから出て行くかそれを破壊し進むことでしか自分を殺さないですむのかもしれない。 

 この作品は『愛犬家殺人事件』をリサーチしその他何種類かの殺人事件から発想を得ながらも園監督の個人的なものをつぎ込んで作られた実話を基にしたフィクションだ。とても過剰な狂気に満ちあふれながらも極限状態の人間が放つ言葉や行動は不謹慎ながらも笑いを誘ってしまう。 

 例えば絶対に笑ってはいけない葬式でふいに目に入った事で笑ってしまいそうになるのを堪えながらも耐え切れずに吹き出すようなある種の不謹慎。それはなんというか見えている現実が自分の中の平凡さを突き抜けて過剰過ぎてタガが外れてしまうような、コメディと悲劇が紙一重だというそういうもの。社本が転がり堕ちていく悲劇は他者であるからこそ笑えるのだが、当事者だったらとてもじゃないが耐え切れない。 

 そういう堕ちていく彼はオイディプス・コンプレックスの先に何をするのか。そして最後の終わり方。彼の最後の行動は僕にとっては彼が唯一娘にできる事を父親としてしたんだと思う。彼女に語りかける言葉と彼がする行動は娘をある意味では孤独にそして自由にする。それ以外に彼には方法がなかったとも言えるし、彼が選べた最良の事かもしれない。それを娘がどう思うかはまた違う問題だとしても。 

 園子温作品というか園子温という人物が放つ作品は驚喜=狂気=凶器だ、しかもそれを一度でも自分の中に受け入れてしまえば麻薬だ。この魅力からはもはや逃れる事はできない。この驚喜=狂気=凶器はその人の中にあるラインを踏み越えさせてしまう、いいかい、これは簡単な話だ。踏み越えると同時に踏みとどまるのだから。この意味は難しいようで易しい。君が死まで抱えていくこの生きるという時間と生命の宿命である生殖=性が園子温作品にはあり、あなたがもしどうしようもなく誰かを殺したいのならばそれを踏み留める、救ってくれる可能性だ。 

 人を殺したいと思っている人の全てがこれで救われるわけではないが、届く作品というものにはその作用とやはりそこから飛び越えてしまうものが出てしまう問題は絶えず存在する。 

 日本が誇る映画、宮崎駿作品もといジブリの作品を観ていれば人を殺さなくてすむのだろうか? もちろんそんな事はない。連続幼女殺害犯として死刑になった宮崎勤の六千のビデオテープの山の中でラベルに唯一「さん」付けさけていたのは宮崎駿だったのは有名な話だし、『魔女の宅急便』を観た後に睡眠薬を飲んで数人の少女が自殺未遂を起こした事だってある。 

 表現が届くというのはそのプラスもマイナスも起きる。その表現が表現としての強度や精度、スピードがあれば。単純な消費だけの表現ではそこには辿り着けない何かが潜んでしまう。僕はそれを園子温という才能に出会って身にしみてわかったんだ。園さんという人に実際に会って話をして酒を飲んで感じた事はこの人は映画を撮らなきゃダメな人なんだ。そしてそれをわかり支える人がいる。だからこそ映画は世の中に出て行くのだけども。 

 どうしようもなく選ばれてしまった側の人だと寂しくもなる。三池崇史さんが「狂人が作るべきなんですよ映画は」と言うのはわかる。どこかが欠落しているのだ、それを埋めようと作り続けて壊しては作る。園さんの作るペースはかなり速い、『冷たい熱帯魚』の次の作品もクランクアップして待機している。 

 『ゼロからの脚本術』で園さんが語っている「やっちゃいけないことは、ひとつもない。これは映画に限らずだけど、そういうものを破っていくのが快感だし、破るべきだと思う」と。 


retweet

sonomati.jpg
*ストーリー:阪神・淡路大震災で子どものころに被災するも、現在は東京で暮らす勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)は、追悼の集いが行われる前日に神戸で偶然知り合う。震災が残した心の傷に向き合うため、今年こそ集いに参加する決意をした美夏に対して、勇治は出張の途中に何となく神戸に降り立っただけだと言い張るのだが......。 


 2010年1月17日にNHKで放送されたドラマに新たな映像を加え、再編集バージョンとして公開。

 この『その街のこども』の脚本の渡辺あやさんの作品と言えば『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』などの映画作品に、NHKで放送され『火の魚』とこの『その街のこども』で、今年の秋から始まるNHK朝の連続ドラマ小説『カーネーション』(デザイナーコシノ三姉妹の母親が主人公の作品)で脚本を書く事が発表された。 

 『ジョゼと虎と魚たち』『メゾン・ド・ヒミコ』『天然コケッコー』『ノーボーイズ、ノークライ』『火の魚』『その街のこども』にある渡辺あや脚本で描かれる人と人の間にある距離。人間というものが最小単位である個と個が触れ合う事を丁寧に描いている。だからこそ観終わった後の余韻が振るわせる。 

 わかりあえるかもしれないという可能性あるいは希望が人の間にはある。だけども僕らは100%わかりあえるはずもない。溶け合う心が君を僕を壊すように、『エヴァ』(旧劇場版)でシンジがその世界を拒否したように君と僕が溶け合う、同じ意識の集合体になれば個は消えて全体が大きな個の中に閉じられる。触れ合って同じ時間を共有しても全てはわかりあえない。わかりあえたような気はするけども最終的な部分は個と個とだから。彼女の作品は主要の登場人物の二人の触れ合いと許有する時間の中でのわかりあえるかもしれない希望ととそこからはみ出してしまうディスコミュニケーションという他者であるという事を描く。 観ている僕らには立場や環境が違えども彼らや彼女たちに感情移入する、それは僕らがずっと生きてきた中で感じていた、体験してきた事だから。 

 『ジョゼと虎と魚たち』において恒夫(妻夫木聡)とジョゼ(池脇千鶴)の関係性で恒夫は若い男性にありがちな今を見ていて未来を見据えれなかった。だからこそ彼は彼女の元を去っていく。それをジョゼは受け入れるのは付き合い出した当初からこの人はいずれ私の元を去っていくだろうと哀しい達観をしていた。その事に気付けない男とそれについてずっと一緒にいてとは言えない女。恒夫は彼女との家を出て他の女(上野樹里)と歩き出すが歩いている途中に別れたら一生会う事ができない女の元から逃げ出した自分についての嫌悪感とこれまでの彼女との想い出がごっちゃになり泣きながら嗚咽する。ジョゼは車いすを押してくれた恒夫がいなくなり電動車いすで町に出て行くという対比が強さと弱さとどうにもならないものを感じさせた。 

 シネクイントで観た後に僕は一人で落ち込んでしまった。その時は恒夫に感情移入してしまって、でも何度も観る度に彼らの関係性と諦める事でしか人生を生きてこれなかったジョゼの哀しみ故の強さを描いてしまったこの作品に増々惹かれてしまった。 

 『その街のこども』は勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)の震災15年目の前の日からの出会いとその追悼の時間までを描く。震災にあった当時子供だったひとの絵や当時の映像も使われているが、この二人が話す事で震災からどう生きて来たのか、価値観の違う二人がたまたま出会い、巻き込まれるように同じ時間を共有し共感し反発する。そこにはやはりわかりあえるかもしれない事とわかりあえない事が描かれている。 

 モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)風に撮られているので彼らの息づかいもリアルなものに感じられる。どこまで台詞でどこからかアドリブなのかわからない。二人の役者は実際に震災にあっているだけに役と本人の境界線が薄れている。それを編集し一つの物語に構築している。 

 震災という同じ体験をしているというある種の共有。しかしそれは当然ながら個人個人で細部は異なり抱く感情も違う。共通の友人がいてその人がいない時にさほど仲の良くない者同士がその人を語ることはできる。共有している話題や体験、しかしその人に抱いている思いや感情は二人の中で同じ部分もあるが細部は当然異なる。そういうものが一つの対象について語られる、そこから見えてくるもの。 

 映画では神戸という街が彼らには違って見えるだろうし、僕のような関係のないものにもその場所は「物語」のある風景として刻まれる。 

 彼らの息づかいが伝わるような感じがする。何気ないシーンや光景でも僕は涙ぐんでしまった。僕ら個人がどうしようもできない巨大な出来事に対して僕らの内面とそれを繋げる想像力や装置が必要なのかもしれない。 

retweet

liars.jpg
「俺たちはダークなレコードを作りたかった。最近は楽観的で花飾りしたような音楽が増えてるよね。まるで祝い事のようなさ...いったいアイツら何を祝うってんだよ!」

 ピッチフォークによる2010年のインタヴューで、背丈が2mを越すことで知られるバンドのフロントマン、アンガス・アンドリューはこんな発言をしている。NYで猛威をふるうサーフ・ロック勢に向けられた言葉である。気がつけば結成から10年が経ち、いつも変わらずダークな音楽を作り続けてきたが、それとともに常にシリアスに構え、その勤勉さをおかしな方向に向けたまま突っ走ってきた。ライアーズはそんなバンドだ。

 かのバンドによる2010年のアルバム『Sisterworld』は、アメリカ人らしい陽気なポジティブ・シンキングに背を向けた人たちの作りだした住処をテーマにしたというコンセプト作となっている。彼らは00年代の半ばに活動拠点としたベルリンを離れ、かつてバンドが学生時代を過ごしたロサンゼルスに移り住んだ。アルバムの特設ページを開くと、画面上に木々や海が静かに広がる。ここに映るロサンゼルスにはグット・バイブレーションした爽やかな波風は存在しない。倒壊したホテル・カリフォルニアの瓦礫が淘汰されたあとの、絶望的な桃源郷とでもいうべき景色。上記のインタヴューでも、LAで連想する面々としてドアーズやラヴ、そしてデヴェンドラ・バンハートを挙げている彼ららしい世界観だ。

 仰々しくおどろおどろしいコーラスのあとに、暴力的でけたたましいバンド演奏と絶叫が鳴り響く「Scissor」でアルバムは幕を開け、そのあとは背筋が凍りそうなストリングスとクラウトロック的なミニマル・ビートがアルバムを支配している。ときにシューゲイザー的なギター・サウンドに目配せしながら(「Scarecrows On A Killer Slant」)、ディーヴォを彷彿とさせる得意の痙攣ビートも披露(「The Overachievers」)する。どことなく『Another Green World』のころのイーノやアトラス・サウンドの近作を思わせるドリーミーな曲(「Proud Evolution」)も含め、アルバムはドラマチックな躁鬱状態を繰り返すが、安易なポップに走る瞬間は一秒も用意されていない。各アルバム・レヴューごとにジャンルや類似アーティストをわかりやすく整理している律儀な音楽サイトTiny Mix Tapeも、本作に関しては「STYLES: rock? Liars?」と匙を投げるほど、ある意味で集大成的な作品ともなっている。

 ムックのほうでも触れたが、"ポストパンクはサウンドではなくアプローチの言葉"という概念を彼らは誰よりも生真面目に体現してきた。結成後初となる01年の『They Threw Us All In A Trench And Stuck A Monument On Top』では時代に適合したNYダンス・パンク勢の一味として名を売り、あのストレイテナーも当時、ライブの入場時にこのアルバムの収録曲を使っていたというほどキャッチーな仕上がりだったが、すでにこの時点で、ラスト・トラックには20分超に及ぶエクスペリメンタル・サウンドが仕込まれていた。次の『They Were Wrong, So We Drowned』でポップなスタイルを簡単に捨て去り、ドイツの魔女物語をコンセプトに騒音ギターと電子音、壊れたリズムによる狂騒的でジャンクな闇鍋サウンドを展開。あまりの悪趣味ぶりにほとんどの媒体から理解されずボロクソにけなされたものの、それをまったく意にも介さず、ベルリン移住後の06年『Drum's Not Dead』ではドローン・サウンドとともにタイトルどおりに太鼓の音を乱舞させ、呪術的でアブストラクトなそのサウンドは過去にも類を見ない強烈すぎる個性を放つ。アーティスト性をこじらしたすえに咲いた大輪の花のようなこのアルバムでバンドは地位を確立させた。今こそ改めて聴かれるべき、鬱蒼とした暗黒ダンス・ミュージックだ。

 黒魔術的なモチーフや一見ポップさの欠片もないサウンドのせいか、この頃から日本では無視されがちになるが、4作目の『Liars』は、アメリカン・ニューシネマ的なPVも印象的な名曲「Plaster Casts Of Everything」を筆頭に、ソニックス~プライマル・スクリーム的なロックンロール作になっている。難解なアート・バンドと思われがちだけども、見るからに野蛮人なルックスそのままのフィジカルな躍動感はどの作品にも溢れているし、聴けば聴くほど感覚的でシンプルに作られてあることに気づかされる。00年代初期に現れた多くのポストパンク・リヴァイヴァル勢が袋小路にはまって消えていったなかで、唯我独尊状態でクレイジーな舵取りとともに音の変遷を重ねつつも、うまい具合に時代に適応しながら追求する快楽性には首尾一貫したものも見える。10年の長きに渡って絶好調ぶりをキープしているバンドなんて、80年代のオリジナル・ポストパンク・バンドでも数えるほどしかいない。ここまでオンリーワンな存在である彼らがまもなく来日するというのは、個人的には大事件なのですが...どうでしょう。

 招へい元のContraredeがご丁寧にライブ映像をまとめてくれているので、もちろん全部観てみた。ここまでくると、難しい言葉を使って語るのはもはやバカらしくなってくる。ノイズと汗を撒き散らしながら、大男が全身をしならせる。ヤバい。カッコいい。優等生が増えてきて、見せものとしてのロック文化が衰退していくなかで、それこそ"化け物"を観察しに行く感覚でライブに足を運べる機会なんていまやそうそうないはず。ヤー・ヤー・ヤーズとともに来日した03年から今日までの空白は日本の音楽ファンにとって確実に損失だった。トム・ヨークもブラッドフォード・コックスも憧れるこのバンド。見逃してしまうのはあまりにもったいない。

retweet

caroline.jpg
 アメリカ人と日本人のハーフ、キャロライン・ラフキン。彼女のライブは僕も一度観たことがある(本作の日本盤解説を書いている上野功平さんといっしょに行った)。2010年4月の代官山UNIT。現在は日本を拠点に活動しているという彼女だが、ソロ名義としての日本でのライブは意外にもこれが初だったという。深夜のイベントで、他にはハー・スペース・ホリデイがアコースティック・セットで心地いい音楽を鳴らし、KIMONOSが素晴らしかったLEO今井も熱いパフォーマンスを見せてくれた。

 で、肝心の彼女だが、僕は...ごめんなさい。正直に告白すれば、まずは愛くるしいルックスの虜になってしまった。萌え画像きわまりない今回の表紙や、本作のジャケットをご覧になっていただければ同意もいただけると思うが、それはまあチャーミングなのである。華奢な体躯に凛とした表情。妖精のような佇まい。これは仕方がない。ミュージシャンだって人間。リスナーもまた人間。恋も人間関係もいつだって第一印象は見た目から判断し、スタートするものだ。いわゆる一目惚れ。見た目にイイものをもってるミュージシャンの音楽にハズレなし。そろそろしつこいが、しかし、その次の瞬間には彼女の歌声に耳を奪われ、涼しげでやさしさのこもったエレクトロニクス・サウンドと生楽器演奏の端正な融合ぶりに足も硬直し、背景に映されたアニメーションに視界を潤され、才気走ったオーラを放つ彼女のステージングに気がつけば見入ってしまっていた。

 自身もそこで生活し、収録された楽曲のほとんどが作られたというロサンゼルスの都市バーバンク(ヴァン・ダイク・パークスなどで知られる"バーバンク・サウンド"などで聞き馴染みがあるかもしれない)を囲む山々を名に冠した5年ぶりのアルバム『Verdugo Hills』は、日本でも人気のあるマイス・パレードのメンバーとして世界中を飛び回った経験から、特異な環境で育った彼女のプライベートな心情まで広く反映された充実作となっている。サンプリングやドラムマシーンを駆使した電子音を中心に、ハンドクラップから生活雑貨による音まで隠し味として含まれる気配りの利いた音響が、さえずりを思わせるキャンディー・テイストな歌声を穏やかに彩り、その音はポップな浮遊感に包まれている。昔のディズニー・ソングも意識したというドリーミーなムードが一貫して流れる一方、マーチング・ドラムやホーンを大きくフィーチャーした楽曲やアップビートな楽曲を後半に配したことで、糖分過剰摂取な単調さに陥ることを見事に回避しつつ、豊かな物語性まで生まれている。かと思えば、音楽同様に丁寧に紡がれた、英語による歌詞世界で謳われるテーマが悲恋についてなのだから、これまたおもしろい。

《わたしのハートを壊したいの?/こんなシーソーみたいな愛がいいの?》(「Seesaw」)《わたしはどうなるのだろう/もしあなたに会えないなら》(「Waltz」)など、「私自身の経験や、ライフスタイルが反映されている」という歌詞は、シンプルな単語の並ぶトラックリスト同様に言葉も最小限に抑え込まれ、過去の苦難を偲ばせる痛切な吐露が並ぶ。安易で安っぽい回復は決して訪れないが、アルバム最後の曲(日本盤ボーナストラックを除く)である「Gone」で、"あなた"が去ってしまったことを暗に仄めかしつつ、《何かを探し求めているわ/穴を埋めてくれるものを/わたしのハートは妥協できない》と、どこかポジティブな気分を思わせる方向に収束していくのもいい。簡素なセンテンスは音楽と相まって映像喚起力を生みだし、ヘッドホンでこのアルバムを聞き進めると心の奥まで溶け落ちそうになる。

 個人的に、本作を聴いて連想した作品はふたつ。まずはここを読んでいる人の大半はご存じであろう、ムームの02年作『Finally We Are No One』(もうすぐ、この作品が出て10年ですよ...)。もうひとつは、80年代から90年代にかけて、多くの耽美寄りでクレイジーなNW作品や環境音楽を輩出し、最近ではコノノNo.1などのリリースで知られるベルギーの多国籍ポップ・レーベル、クラムド・ディスクから発表された日本人女性SONOKOによる87年の隠れた傑作『La Debutante』だ。

 前者の作品を中心に、北欧エレクトロニカ・シーンが共通してもつ絵本を思わせる世界観や手作り感覚と彼女はずっと比較され続けてきたが、それらの音楽と彼女を絶対的に区別しているのは、後者の作品と共通する、ほんのりと香る東洋的でエキゾチックなムードだ。これは沖縄で生まれ、日本とアメリカを行き来しながら育ってきた彼女のインターナショナルな境遇が大きく反映されていることの顕われだろう。「自分のなかの日本人っぽい細く高いヴォーカルが、自然と出てしまうみたい」と本人も認めているが、名門であるバークリー音楽大学で学んだという音楽的素養の高さとともに、良質なJ-POPや日本の童歌を想起させる人懐っこい感性が節々に見てとれる。そして、先に挙げたふたつの作品と同様に、本作にも日差しに照らされているかのような明るさと、枕を濡らしたアンニュイな陰が同居している。

『La Debutante』をプロデュースした(ワイアーの)コリン・ニューマンはその作品を「純粋で特別な音楽だ」と評したそうだが、この『Verdugo Hills』にも、思わず同様の言葉で形容せずにはいられない甘美な魔力が秘められている。日本盤には彼女の狂信者であろうディンテル(Dntel)とハー・スペース・ホリデイによるリミックスも収録。今ではオールドスクールと括られそうな、この10年を振り返らずにはいられない懐かしく味のあるエレクトロニカ作品に仕上がっており、この作品の魅力をささやかに膨らませている。

retweet

goteam.jpg
 今考えても、デビュー作『サンダー・ライトニング・ストライク』の衝撃は凄まじかった。ザ・ゴー!チームの天衣無縫な音楽性と個性を鮮烈に印象付けたのだから。サンプリングを多用した何でもアリなビートに、60'sポップやヒップホップなどを加えてにぎやかなトラックに仕上げ、そして、ニンジャのアクの強いラップが曲のインパクトを倍増される。彼ら以外には作りえないトラック群には度肝を抜かれた。ソニック・ユースmeetsジャクソン5という例えも、突拍子もない組み合わせでありながら、何とうまく彼らを言い表したものだろう、と思ってしまう。その後、セカンド『プルーフ・オブ・ユース』では黒いグルーヴを全面的に導入し、バンドのポテンシャルの高さを見せ付けた(そういえば、パブリック・エネミーのチャック・Dも参加していたなあ)。

 だが、この3作目でも僕らに予想以上の驚きをもたらしてくれるとは! ロックにファンクにクラシックなポップ、ヒップ・ホップ、はたまたJ-POPまで・・・縦横無尽に他ジャンルを横断するにぎやかさは健在。しかもメロディの自由度は一層増しているようだ。特筆すべきが豪華なゲスト・ヴォーカリスト陣。ベスト・コーストのベサニーやディアフーフのサトミ、元ボンヂ・ド・ホレのマリナ、タンパの新人ラッパーDominique Young Uniqueなど、実に個性豊かな面々が揃っている。更に、各人のためにアレンジされたのでは? と思うほど、トラックと彼らの相性がいい。特に、「Buy Nothing Day」は本人との共作では?と思えるほど、ベスト・コースト風の甘いメロディが印象的だ。

 だが、その一方でザ・ゴー!・チームを特徴付けていたニンジャのラップが消えている。収録曲中、彼女だけがマイクを握るトラックはオープニングの「T.O.R.N.A.D.O」くらい。その上で、聴けば一発で彼らとわかる、ファンキーでハッピーなヴァイブがいたるところからあふれ出す。自らのトレード・マークを1つ捨てたにも拘らず、DIY精神を貫く彼らのコアは一切ぶれていない。そこにただただ驚かされる。

 ジャケット通り、想起するのは各トラックごとにまったく別の風景。中心人物イアン・パートンは映画から曲のインスパイアを得るというが、だとしたられほどカラフルな映像を網膜の裏側に映し出すアルバムもないだろう。このアルバムをひっさげて、どれだけのパフォーマンスをするのか、何としても見てみたい。

retweet

susan.jpg
 すごく風通しがいいアルバムだ。一般的な括り方としては「インディ・ロック」なんだろうけど、ザ・スーザンが鳴らす音はどこまでも開放的で自由を謳歌する喜びがある。祭り的なトライバル・ビートもすごく楽しくて、シンプルなガレージ・スタイルに隠された素晴らしいメロディと幅広い音楽性。様々な音楽がフラット化され、そのフラットな状態から最適な音を選ぶのに四苦八苦している姿が浮かぶアルバムも目立つなか、シンプルな音のなかに音楽的振れ幅の大きさを落とし込むことができているし、そうした音を選ぶ審美眼もかなり高い。『Golden Week For The Poco Poco Beat』というのは、アーケイド・ファイア『The Suburbs』みたいに何かを背負っているわけでもなく、ただひたすら「どこまでも良いアルバム」だ。誤解を恐れずに言えば、ザ・スーザンは「自分達が面白いと思う音楽」を作っていると思う。つまり、クリエイティブな目的のみで音楽を鳴らしているし、だからこそ『Golden Week For The Poco Poco Beat』のようなアルバムが欧米で評価されていることにすごく感動してしまう。

 ザ・スーザンの凄いところは、「日本的なるもの」を振りかざさずに評価を得たところだ。日本にも海外に進出しようとするバンドはたくさんいるけれど、欧米というマーケットは自分達にとっての文化的他者性というものを中心化して評価したがるし、そのせいで「日本的なるもの」を強要されるという一面もあったと思う。もちろんザ・スーザンにも固有の文化的背景というのはあるだろう。音にもそれは滲み出ているのだけど、それはアメリカで本格的に活動するようになってから、自分達は日本人であることを自然と自覚せざるえない状況にあったわけで、そこに不自然さはない。だが、「違和感」というのは存在する。しかしその違和感というのはあくまでザ・スーザンとしての個性が違和感を創出しているのであって、それは極めて音楽的な違和感なのだ。つまり、『Golden Week For The Poco Poco Beat』というアルバムは、「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」という点でのみによって傑作に成り得ている。しかも世界というマーケットでそれを実現している。

「コーラスワークが面白い」その通り。「クラシカルな曲調もある」その通り。「アジアや中東の独特なメロディを取り込んでいる」その通り。他にも様々な音楽的指摘があるだろう。その全てがその通りだ。何故なら、ザ・スーザンが鳴らしているのは「音楽」だから。でも、そんな後付けの指摘なんか無視して、まずは聴いてみてほしい。僕は基本的に「聴けばわかる」というスタンスだから、なるべく聴く前の人に説明や解説などはしたくないのだけど、ここまで「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるアルバムは久々だ。そして「聴けばわかる」と自信を持って紹介できるのは、先に述べたように「ザ・スーザンというバンドの美しい音楽が詰まっている」からで、それは「それしか必要としない」ということでもある。情報が神様となったこの世界において、ここまで純度が高いアルバムが生まれるのは凄いと思うのだが、どうだろうか?


*日本盤は1月26日リリース予定です。【編集部追記】

retweet

okapi_horn.jpg
 フォー・ボンジュールズ・パーティーズの新作には、奇妙な楽しさが満ちている。この作品では、青空の下の明るさも深い森の中の暗さも併せて描かれている。それぞれの曲がそれぞれに異なる複雑な展開を見せるのだが、それでいて、アルバム全体を通して聴くと不思議と統一感がある。

 一見相反する要素が自然に同居しているというのは、リーダーのハイタニ氏がインタヴューでコンセプトとして挙げている夢を表現していることに成功しているのだと思う。そして夢は儚いものであるが、彼らが紡ぐ夢は生命力に満ちた逞しいものだ。ライヴでは、フルート、クラリネット、トランペット、ホルン、トロンボーン、ヴィブラフォンetc...と、メンバーが楽器をとっかえひっかえ演奏し(なにせ1曲で演奏される楽器の方がメンバーより多い!)、視覚的にも楽しいのだが、このアルバムでは音だけでもその楽しさを表現している。実に多くの音が使われており、カラフルな印象を受ける。ジャケットに描かれたオカピの角のように。

 そして、アンサンブルの妙こそがこのバンドの重要な核のひとつだと改めて思う。溢れる音からは、混沌ではなく、メンバー達が笑いながら音でコミュニケートしている様を感じ、それが何とも心地よい。とても濃密で愛おしい作品。蛇足だが、これでストリングスを使いこなしたら恐ろしいバンドになるのではないだろうか?


*インタヴューはこちらに掲載されています。【編集部追記】

retweet

Mind_Party.jpg
《模倣ですら実体は
どうして誰でもないだろう》
(「Call Me」)

 カントは、私たちの「現象」の世界の観念性を主張したが、それは同時にその背後に広がる、知ることができない「物自体」の存在を容認するということでもあった。思うに、カントが"所謂、観念論者"であったならば、物自体のようなものの「存在」を残したはずがないだろう。「物自体」を巡る意図は他にあると思われるのは、物体を観念化することによって精神の中に入れ込むということではなく、現象の背後にたしかに存在する"それ"は人間の知のソトにあり、沈黙をしている"それ"に過ぎないということだ。となると、問題は、沈黙する存在とは、この日常世界として現前するのかどうかということに漂着する。そこに、「存在」が"木をして"いたり、"コップになって"いたりする中で、前景化される約束事とは一体、何なのか―その「循環構造」の中に入ってしまうと「存在」が「自分をしている」という状況下で観念がメビウスの輪のように捩れ、存在体自体の輪郭線を曖昧にする。そして、曖昧に耐え切れなくなった存在自体が恐慌を起こす。

>>>>>>>>>>

 工藤鴎芽のファースト・フルアルバム『Mind Party!』にはそのような恐慌寸前の観念論者の神経症的な鋭さに溢れている。行き交う電子音、フィールド・レコーディングされた日常の音、時折、ヒステリックに響くギター、ふと持ち上がる甘美なメロディー、しかし、その全体像が接点として見出すリアリティは実は「あって、ない」ものであり、もしかしたら、"創り手さえ此処にはいない"という錯視を催させるようなマジカルな奇妙な熱が帯びている。作風としては、これまで通り、ポスト・ロックのマナーに縁取られた印象が強く、大文字の《昨日を厭い 明日が恐い》、《その憧憬はかすむ》、《ずっと続いてく不安が欲しい》、《明日も生きていけるかな》というフレーズが並び、如何にも現代的な閉塞感も漂う。そういう意味では、いささかトゥーマッチなところもある。それでも、先にリリースされたファーストEP「I Don't Belong Anywhere」やセカンドEP「すべて失えば君は笑うかな」にはなかったアグレッシヴでノイジーな「モンスター」、前衛的なアレンジと浮遊感が印象的な「Question」、トム・ヨークのソロ・ワークを思わせるようなエレクトロニカ「日常」、スピッツのような"うたごころ"を感じさせる「波乗り」、「春と言う」など曲の幅が明らかに広がっており、まだ模索途中とも言えるが、次の視界を見渡すために色んな音楽要素を取り込んでいこうとしている手応えが感じられる。
 
>>>>>>>>>>

 個人的に、このアルバムを最初に聴いたときに思い浮かんだのは、くるりの『The World Is Mine』、スーパーカー『Futurama』、スピッツ『三日月ロック』といった日本のものからPrefuse73『One Word Extinguisher』、Harmonic313『When Machines Exceed Human Intelligence』といった作品群だった。それぞれの作品群に共通項はないが、敢えて挙げるとしたならば、キャリアの中途における、前にも後ろにも進まない(進めない)、中空に浮かんだ過渡期と言える音像を結んだものと言えるだろうか。斯く言う工藤鴎芽自身も、前進のバンドのSeagullを経てのソロという流れを踏まえると、決してキャリアが短いアーティストではない。キャリアを重ねる中で必然的に陥る創作意欲の壁の前で、前進でも後退でもない道を行かざるを得ないとき、その作品は曖昧とした美しさを帯びる。この『Mind Party!』もその意味では始まりも終わりもない、ぼんやりとした輪郭を残す。だからこそ、次はあるのだろうし、これは過去の作品群の橋渡しをする意味を帯びてくるだろう。
 
>>>>>>>>>>

目立った曲に触れていこう。

 冒頭の「Mind Party!」、加工された声で始まり、電子音とギターノイズの中に引き込まれていく従来のスタイルに近い曲と言える。そのムードを断ち切るような攻撃的な「モンスター」は、例えば、プライマル・スクリームが各アルバムに潜ませる「Rocks」や「Accelerator」のようなアクセントになっている。3曲目の「Question」は英語詞のエクスペリメンタルな曲。LとRに飛ばされたボーカルに絡むサウンドスケープはカオティックで、後半はそのボーカルさえも加工されて、最後は深いエフェクトの中に沈んでゆく。前半のハイライトともいえる曲だろう。4曲目の「再生」はファースト・シングル「虚構ガール」に収められていた過去曲。軽快な打ち込みとジャジーなムードが心地良く、アルバムでのブレスのような役割になっている。8曲目の「日常」は英語詞による沈み込むトーンが印象的な曲で、独特の浮遊感がある。インタルードのような1分にも満たない10曲目の「波乗り」から11曲目「春と言う」にかけては、これまでにはあまり見られなかったメロディー・オリエンティッドなものが前面に押し出されている。そして、《思い描いて抱えた縁日の前日 忘れかけた声は今熱と成って》(「春と言う」)といった印象深い歌詞も、面白い。実質上のアルバムの最終曲の「蜜柑」から少しの静寂を挟んで、エクストラ・トラックと言ってもいいだろう、最後の「Call Me」はダルでローファイな感触が心地良いギターロック。これがあることで冒頭に還ることができる。

>>>>>>>>>>

 このアルバムは、タイトル自体が象徴しているように、まず「観念の中での舞踏会」を始めるところが基点になっており、途中、夢遊病者のようなモノローグや不安が添えられるが、それもリアルかどうか判らない。また、バスの音など日常に溢れる音も取り込まれ、観念ではない現実としての通気孔の意味も発現しかけるが、それも自分が「乗ることがない」バスなのかもしれなく、即ち、「誰も乗ることができないバス」なのかもしれないのだ。

 となると、ここで拡げられる世界観は決して完結せず、どこかに開けている。開けた表現は間テクスト空間への溶解としてではなく、表現=手紙の一部が配達過程で行方不明になったり、あるいは一部損傷したり他の手紙と混同されたりする可能性として捉えられてしまうことになる。一部損傷した中にリアリティがあったのだろうか、それとも、他の手紙にこそ、見つけることができる「言葉の破片」はあったのだろうか。このアルバムは最後に、「Call Me(私を呼んで)」と捩れることになる。観念内の自分が、"ソト"に声を求める訳だが、その"ソト"とは自分の観念内の想像でもあるかもしれないのだ。となると、ラカン的に言えば、「想像界」をそのまま認証し、象徴的平面での再認の代わりに、想像的平面での再認がこのアルバム内で行なわれていると言える。そこで、誤認を図った人たちはリアリティからも「逸れる」ことになる。つまり、ここで展開される音世界の中では誰も招待を受けていないパーティーかもしれず、また、誰もが招かれるべきパーティーなのかもしれないのだ。そこで、呼べる"それ"がこのアルバムの全体像を持ち上げ、更に暈す。


*現在 Monster FMでDL購入可能
*パッケージ盤は1月23日よりセルフ・リリース(詳しくは彼女のMySpaceまたはホームページを参照とのこと)【筆者追記】

retweet

odottebakarinokuni.jpg
 90年代後半にぽっかりと空いたエア・ポケットとは何だったのか、考えることがある。バブル後の沈滞と経済的に"失われた20年"になってしまう途中過程の終末思想と大きな言葉が行き交った状況下で、当時のユースは、リチャード・ブローティガンの言うような"人生とは、カップ一杯のコーヒーがもたらす暖かさの問題"の周縁を巡り、途方に暮れていたからこそ、フィッシュマンズの「ロング・シーズン」が完璧に描写した退屈の精度に魅せられてしまい、そのまま「そこ」に釘打ちされてしまった幻像も視える気がするのだ。例えば、小室系、オウム事件、酒鬼薔薇、終わりなき日常、戦争論、という記号群が次々と当時の現在進行形の若者たちの自意識群に値札を張り、コロニアル化してゆく市場側の要請の中で、上手く踊らされず、踊るには、「重力の虹」を周到に避けるステップが必要だった。そうなると、98年の東浩紀氏の『存在論的、郵便的』におけるアメリカの文学者ポール・ド・マンの読み換えたコンスタティヴ/パフォーマティヴという難渋な概念に依拠して、状況論的な意味と状況論的な機能について意識を向ける「べき」だという指針を示すことくらいしかできなかったという事例が、一つの象徴にもなって来ざるを得なかった。「退屈で、戦争でも起きないかな。」というコンスタティヴな意味ではなく、「退屈過ぎて、どうにもならない。」というパフォーマティヴな機能がシェアリングされることで、漸く共通の言語を持って、喋ることができるという地平へ"戻らなければならなかった"という証左が90年代の後半のエア・ポケットを過ごした人たちの儀礼であった。そして現在、似たようで全く違う、「退屈」という倦んだ命題に対して、ユースが真正面から向かっている表現が産まれてきているのは面白いと思う。
 
>>>>>>>>>>

 ハバナ・エキゾチカのアルバム・タイトルと同じ名を持つ、踊ってばかりの国は08年に神戸にて結成されたボーカル/アコースティック・ギター、ベース、ツイン・ギター、ドラムからなる平均年齢20歳そこそこの5人組。ポスト・フィッシュマンズのようなダルな空気を忍ばせながらも、ジャックスやゆらゆら帝国にあったようなアンダーグラウンド性を孕んでいる"よく分かっている"バンドとして周囲から注視されているが、実はボ・ガンボスやRCサクセションなどもちゃんとは聴いていないと公言しており、デヴェンドラ・バンハートや髭(HiGE)の影響があり、こともなげに自分たちの音楽を「スピッツみたいな(ポップな)ことをやっているつもり。」とも言う、ストレートなバンドである。また、演奏におけるローファイネス、歌詞でのサーカズム、スカスカのサウンドの隙間から匂い立つタナトスにはどちらかというと、整然と組み立てられた作為性さえ感じる。

 思えば、シーンに注目されることになった2010年のセカンド・ミニ・アルバム「グッバイ、ガールフレンド」にはアシッド・フォーク、ネオ・サイケといった背景に渦巻く強烈なブルージーさが特徴的だった。その後、活動のベースを神戸から東京へ移し、多くのライヴをこなした中でのシングル「悪魔の子供/ばあちゃん」ではカントリー調の不穏な軽快さと、ボトムが少しドッシリとしたブルーズ、同シングルにエクストラ・トラックの様な役割で収められていた「バケツの中でも」(ハンバーグハンバーグver.)の21分にも渡るミニマリズムの反復とじわじわとしたトリップを起こさせるサウンド・メイキングといい、多彩なボキャブラリーを増やしていることが伺え、同時に、よりドラッギーな音世界・詞世界にも向かっていたのも興味深かった。歌詞にしても、《何回生きても何回死んでも 人間て奴は同じ》(「あんたは、変わらない」)という退却観から、《始まりの唄じゃない 若い子にゃ届かない》(「ばあちゃん」)という諦念に行き着き、彼岸からハローと手を振るその速度は、鮮やかでもあった。

 今回のシングル「アタマカラダ」では、ミドル・テンポで始まり、アウトロではギターのノイズと不穏なコーラスがサイケデリックに投げ捨てられるように終わるという、『Sung Tongs』前後のアニマル・コレクティヴを彷彿させるほど、かなりアシッドな曲になっている。また、歌詞内では濃厚に立ち込める「息一つするのも怖くなるほど、自分がダメになってしまう」感覚が見事にリプレゼントしており、今、希望のようなものに向かって歌うことや建設的に表現すること、逆に退廃的に自意識の中に憂鬱に籠ってしまうほど"詰まらないことは、ない"という真っ当さを彼らは持っていることを立証する。
 
>>>>>>>>>>

 90年代後半のエア・ポケットとは似て非なる空虚性が現在にはある。それは明らかに、前者が経済的にはまだ恵まれている状況で自意識内の退屈に潜り込むことができた、というコンスタティヴな意味と、後者が確定的に茫漠とした霧の中に未来が埋もれている中での体感的な退屈を、「退屈としか言いようがないから、言わない」という捻じれから始めているパフォーマティヴな機能を帯びているとするならば、踊ってばかりの国が示す無為性は"カップ一杯のコーヒーが冷めた後の問題"について言及しており、確実に同時代性を帯びたものと言えるだろう。彼らの生きる未来は暗いかもしれないが、彼らの描く瞬間の表現はこれだけ明瞭だというのが何より頼もしい。


*1月19日リリース予定です。【編集部追記】