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Second Toughest in the Infants CD, Import Underworld .jpg

 あけましておめでとうございます。今回の年末年始も筆者は日本から脱出し、海外へ行ってきました。場所は韓国と台湾。久々にのんびりと過ごすことができ、リフレッシュ! 今年も何卒よろしくお願いいたします。


 さて、のんびりしている間、筆者が頻繁に聴いていたのは、アンダーワールドのアルバム『Second Toughest In The Infants』(1996)である。実は本作、去年11月に4枚組のリマスター盤として再発され、それで筆者も購入して聴いていたというわけだ。現在のアンダーワールドは、カール・ハイドとリック・スミスのユニットだが、本作リリース当時はダレン・エマーソンをくわえた3人組だった。今よりもダンス・フロア向けの音作りが際立ち、ダンス・トラック特有の反復による高い中毒性がいま以上に出ていた。


 本作でいうと、「Pearl's Girl」などがその高い中毒性を象徴している。トランシーなシンセ・サウンドから始まり、ジャングルの要素を取りいれたアグレッシヴなビートが印象的な「Pearl's Girl」は、アンダーワールドの代表曲であり、今もライヴで頻繁にプレイされる。〈crazy crazy crazy crazy...〉というリフレイン、音の抜き差しで起伏を作りあげる手法など、根底にあるのはダンス・ミュージックの方法論。


 しかしアンダーワールドは、そうした曲をポップ・ソングとしてアウトプットするのが抜群に上手い。これはやはり、街中で聞いた会話などを常にメモし、それを歌詞に反映しているカール・ハイドの貢献が大きいと思う。カール・ハイドの言葉は抽象的なものが多く、聴き手の想像力が入りこむ余白を多分に備えている。ゆえに聴き手は、アンダーワールドの音楽に対して、能動的にコミットできる。こうした親密な関係性を築けるところに、アンダーワールドの魅力がある。


 アンダーワールドは、〝踊らせる〟というダンス・ミュージックの機能性に、文学的要素が色濃い歌詞を絡めることによって、独自性を獲得した。このような接合は、今でこそ多くのアーティストによって実践されているが、先駆けはアンダーワールドだろう。さらにアンダーワールドは、音や言葉だけでなく、ヴィジュアル面でも面白い表現を生みだしている。この点は、アンダーワールドも設立メンバーであるデザイン集団、TOMATO(トマト)による働きが大きい。数多くの秀逸なMV、そしてライヴでの凝った演出などなど、アンダーワールドは〝視覚〟でも私たちに刺激をあたえてくれる。アンダーワールドの表現は〝聴く〟だけにとどまらない、全身で〝体験〟するものだと言える。


 本作は、ブレイクビーツ、トランス、ジャングルなど、さまざまな音楽的要素が溶けあっているが、興味深いのは、時代に迎合したサウンドがほとんど見られないことだ。本作に限らず、アンダーワールドは、トレンドとは距離を置いた音を鳴らしてきた。だからこそ、ダブファイアやアップルブリムといったプロデューサーを迎えいれ、アンダーワールドなりにトレンドを意識した『Barking』(2010)はイマイチだったのだが...。それでも、今年リリース予定の最新アルバムが楽しみであることに、変わりはない。


(近藤真弥)

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Oneohtrix Point Never『Garden Of Delete』.jpg

 ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーことダニエル・ロパティン。彼の音楽にこそ、孤高という言葉が相応しい。ビートに依拠することなく、エフェクトや奇異な音響空間によってグルーヴを生みだしていくそのスタイルは、多くの人を驚かせた。ゆえにフォロワーが続出してもおかしくないが、いまのところ、〝OPNフォロワー〟と明確に言えるアーティストは現れていないように思う。彼の作品を聴いて、エフェクトの使い方や音響空間の作り方を模倣することは可能だろう。だが、こちらの予想をことごとく裏切りながら、音の抜き差しをしていくあのセンスは、ダニエルだけの特権。だからこそ彼は、同時代性や流行にとらわれない場所で、驚きに満ちた音楽を鳴らしている。


 そんなダニエルの最新アルバム『Garden Of Delete』は、自ら同時代性に接近したという意味で、非常に興味深い内容だ。実は筆者、本作についてダニエルに質問をする機会があった。その答えのなかで特に面白かったのは、テイラー・スウィフトはクールだと感じていること(それ以上にクールなのは初音ミクだそう)、そして、ナイン・インチ・ネイルズとツアーしたのがインスピレーションになったということ。また、自分なりのポップ・ソングを作ろうとしたという話にも、驚かされた(※1)。


 ダニエルは本作を作るにあたって、お金がたっぷり注ぎこまれたビッグなポップ作品に関わっている人たちとのコラボレーションも考えたという。しかしダニエルいわく、そのような人たちは会おうともしないらしく、クレジットのことしか頭にないらしい。文字通り、怒り爆発。こうした反骨精神が、本作には多分に含まれている。その結果生まれたのが、ダニエルなりのポップ・ソングを詰めこんだ本作というわけだ。


 この怒りについて、もう少し掘りさげてみる。まず、ダニエルの音楽的嗜好は、実に多様だ。本作を作るヒントになったアーティストやバンドに、オウテカ、ブラック・サバス、ナイン・インチ・ネイルズなどを挙げ(※2)、先にも書いたように、テイラー・スウィフトや初音ミクも好む。同時に、本作でもサンプリングされている、90年代のインダストリアル・バンドであるグロータスや、クラシック音楽家ジョン・アダムスの作品も聴く。音楽に対して寛容な姿勢を持つダニエルからすれば、クレジット云々を気にする輩の思考回路などナンセンスだろう。そこには、寛容性に繋がる自由がないからだ。そう考えると、本作のアグレッシヴなサウンドは、その自由を称揚しているようにも聞こえる。


 本作は果たして、どのカテゴリーに入るのか。テクノ? アンビエント? ノイズ? メタル? IDM? 答えは、そのすべて。そのすべてが、本作にはある。どこまでも細切れにされ、撹拌された形で。ダニエルは、既存のセオリーや常識にとらわれない。当然、メジャー/インディーという形骸化した二項対立にも。むしろ、そうした安易な構図やレッテルから抜けだそうと常に試みる。そのためには、聴き手の予想だって裏切ってみせる。なんとも痛快じゃないか。


 この痛快さからわかること。それは、ダニエルもまた、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす存在」だということ。ん? この言葉、どこかで書いた記憶が...。そう、グライムス『Art Angels』のレヴューでしたね。ダニエルとグライムス、共通点も多い。ナイン・インチ・ネイルズやテイラー・スウィフトが好きで、共に最新作ではど真ん中のポップ・ソングに接近し(ダニエルのそれは、かなりひねくれた形だけども)、その作品を同じ年にリリースしている。これ、面白い共振だと思いませんか? 


 本作はアルカよりも、グライムスやテイラー・スウィフトと一緒に語ったほうが、より多彩な表情が浮かびあがると思う。



(近藤真弥)




※1 : 『bounce』385号掲載、筆者によるワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの記事を参照。



※2 : 『ミュージック・マガジン』2015年12月号掲載、筆者によるワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの記事を参照。

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ELO_Jeff Lynnes ELO_Alone In The U_J.jpg

 子供のころ、自分が50歳以上まで生きられるなんて思ってなかった。いや、それは大げさにしても、当時の親の年齢(30~40代)以上の自分の姿など想像もできなかった。まあ、今現在70代とか80代である親が、ときどき「自分らは先が長くないからねえ」とか言う辛気くささがちょっと鼻につくこともあるし、生き死にの話はこれくらいにしておこう。とにかく、そんな感情を持っていたガキ、思春期のころから夢中になって聴いていたELO、エレクトリック・ライト・オーケストラ、もっと正確に言えば今回は中心人物自らの名前を冠したJeff Lynne's ELO待望のニュー・アルバム。1曲目が「When I Was A Boy」ゆえ、つい先ほどのようなことを言いたくなってしまった(笑)。そして、その曲の素晴らしさに度肝を抜かれた。


 今回は前作『Zoom』から約15年ぶり、前々作『Balance Of Power』から約30年ぶり。もちろん70年代初頭から、ジェフ・リンがプロデューサーとしてもスーパー・ビッグになってしまった80年代後半(つまり前々作のころ)までは、2~3年に1枚という普通のペースでアルバムを出していた。


 こういうパターンだと、最も心配されるのはレイド・バックしちゃってること。まあ「枯れた味」というニュアンスでの褒め言葉的に使うこともあるロックの世界ではいいのかもだけど、ガキのころにパンクを通過した自分は、それが少々苦手。そしてポップ・ミュージックがレイド・バックしたら、かっこわるくない? とりわけ、デビュー時からずっと、その都度の先端電気技術とオーケストラルな大風呂敷感をうまく融合させつつ、いい意味での売れ線ポップ・ロックをやってきた彼らにとっては。


 冒頭曲を聴いて、そんな杞憂はふっとんだ。ぼくのような年増耳を持つ者は、「ちょい待ち、これ、ELOっつーより、ビートルズっぽくないですか? あっ、でもそれはジェフがからんだときのやつだわ。だから、あれ、ビートルズの『アンソロジー』プロジェクトで、残された未発表曲をジェフがプロデュースしたときの...」なんて連想が一瞬にして頭をかけめぐってしまう。


 ELOにせよ、ポール・マッカートニー自身のウィングスにせよ、70年代時点でのポップ志向ロックはどうしても解散済のビートルズと並べられ、「それに比べりゃ、ださくない?」と評されがちだった。ジェフはインタヴューなどでビートルズに対する深い愛を口にしていただけに、なおさらのことだ。しかし、逆に今となっては、そして「When I Was A Boy」なんて曲でこれをやられると、逆にかっこよすぎ。だって、そうでしょ? ジェフはある意味、子供のころの夢のひとつを、たとえばビートルズ本体とからむようになった80年代後半から90年代前半にかけて、堂々とかなえてしまったのだから。それを、決して自慢げにではなく、むしろちょっとばかり儚げな情感もこめて、それでも堂々と歌っている。なんて、かっこいいジジイなんだ。


 アルバム全体のサウンド/アレンジ的には、まるで当時のトラウマをかき消すように、そろそろ「最先端であること」が厳しくなってきた『Secret Messages』(1983年)の「骨太さ」と、『Balance Of Power』における「身軽さ」が、実にほどよくブレンドされ、かつてジェフもメンバーとなっていたトラヴェリング・ウィルベリーズに通じる部分もある。少なくとも80年代以降のELOの最高傑作であるとは即座に断言できる。


 さらにいえば、タイトルとアートワークが...。


『スター・ウォーズ』でもりあがる世間を尻目に、その第一弾とほぼ同時期に公開されたSF映画『未知との遭遇』のキャッチ・コピー、「We are not alone(我々はひとりぼっちじゃない:人類は宇宙/世界で孤立してるわけじゃない)」を思いだす。それへの、ちょっと皮肉っぽい返答になりえている。いや、そうとも言いきれない。だって、カヴァー(ジャケット)写真では、ちゃんと「誰か」が迎えにきてくれてるじゃないか。


 70年代後半当時、『スター・ウォーズ』派というより、どちらかといえば『2001年宇宙の旅』『宇宙大作戦(スター・トレック)』『未知との遭遇』派だったぼくは思う。ちょっと、見事すぎじゃね? 泣きたくなるほど、いい意味で。



(伊藤英嗣)

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猫とアレルギー.jpg

 今年4月にリリースされたシングル、「桜が咲く前に」を聴いたときから、予感はあった。この曲には、きのこ帝国のトレードマークである、聴き手の胸ぐらを掴むような轟音がほとんどなかった。親しみやすいシンプルなメロディーに、 耳馴染みがよいアコースティック・ギターの響きを際立たせたサウンド。一瞬、『eureka』(2013)収録の「風化する教室」みたいとも感じたが、「風化する教室」にあった、ヒリヒリとする緊張感やシニシズムはない。かといって、『フェイクワールドワンダーランド』(2014)と地続きだと思うには、あまりにも距離がありすぎる。「こりゃあ、次のアルバムはどうなるんだろう?」。怖いもの見たさという、一種の不安を抱きつつ、筆者はきのこ帝国の最新アルバムを楽しみに待っていた。


 そして、『フェイクワールドワンダーランド』から約1年。届けられた最新アルバムが本作だ。タイトルは、『猫とアレルギー』。本音を言えば戸惑った。メンバー全員が猫を抱える新しいアーティスト写真も、面白いというよりは、頭にクエスチョン・マークがたくさん浮かぶものだった。


 とはいえ、肝心の内容は、悪くない。むしろ良いアルバムだと思うし、これまでも窺えた高いソングライティング能力を堪能できる内容だ。メロディーもシンプルなものが多く、きのこ帝国史上もっとも親しみやすいものに仕上がっている。歌詞は平易な言葉が目立つ。まさに、「桜が咲く前に」のような曲がほとんど。まさか、アルバム全体がそのようになるとは...。しかし、「YOUTHFUL ANGER」は異質なものとなっている。ヴォーカルはノイズのなかに埋もれ、〈褒められなくたっていいや 飼いならされるよりはマシ〉と歌われる歌詞は、攻撃的だと言える。サウンドも、初期のニルヴァーナに通じるラウドなもの。いわゆるグランジというやつだ。ちなみに「YOUTHFUL ANGER」、きのこ帝国の変化に戸惑った筆者のような者に向けた曲だと思うのだが、どうだろう?


 正直、ここまでスロウな曲を揃えてしまったのは、どうかと思う。もちろん、歌いたいことやサウンドの志向が変わるのは、よくあること。だが、きのこ帝国は、「クロノスタシス」というヒップホップの要素を打ちだした曲、あるいは「FLOWER GIRL」のように、音響面での実験を果敢におこなうなど、引きだしの多さも特徴であり魅力だった。


 本作を聴いて強く思ったこと。それは、その魅力まで封印する必要はなかったのでは? ということ。きのこ帝国は、本作で見せた親しみやすさを保ちつつ、サウンド面の多様性も発揮できるポテンシャルを持っているのだから。そういった意味で本作は、きのこ帝国の才能がフルで解放されているとは言いがたい。というわけで、最後は愛情を込めてこの一言。


 これでいいのか? きのこ帝国!



(近藤真弥)

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GRIMES『Art Angels』(4AD : Hostess).jpg

 ビヨンセやロードが自らをフェミニストだと公言し、同性愛者であることを告白しているサム・スミスは、第57回グラミー賞で4冠を果たした。チャーチズのローレン・メイべリーは、ネット上での女性蔑視に対する批判を積極的に語り、音楽以外でも興味深い活動をおこなっている。


 一方で映画界。マシュー・ヴォーンの『キングスマン』(2014)は、誰を生かすか恣意的に決める傲慢な強者の選民思想にNOを突きつけ、ナンシー・マイヤーズの『マイ・インターン』(2015)は、〝男らしさ〟や〝女らしさ〟といった、従来のジェンダー観に疑問を投げかけた。スタイリッシュな映像と共に、マイノリティーが受ける抑圧を描いてみせるグザヴィエ・ドランも忘れてはいけない。映画『マトリックス』シリーズで知られるウォシャウスキー姉弟が、ジェンダー、差別、偏見、貧困などさまざまなテーマを取りいれたドラマ、『センス8』(2015)という傑作を作りあげたのも記憶に新しい。


 そして、アンドレイ・ペジックやハリ・ネフなど、トランスジェンダーのモデルが世界を席巻していたりもする。これが、2015年のエンタメ界、ひいてはポップ・カルチャーの現在だ。


 こうして昨今のエンタメ界やポップ・カルチャーをざっと眺めてみると、既存の価値観や固定観念を解きほぐす動きが目につく。そのなかで多彩な表現が多く生まれ、面白い動きもたくさん見られる。もちろん筆者は大歓迎だ。最近よく見かける〝ポリティカル・コレクトネス〟という言葉にしても、表現の幅を狭めるものではなく、表現の幅をより豊かにするための概念だと思う。〝昔は許されたのに!〟みたいな言い訳で、〝ポリティカル・コレクトネス〟を否定するなんて愚の骨頂。


 しかし、こうした世界的な動きに、ここ日本は追いついていないように思える。たとえば、先日公開されたばかりの『ギャラクシー街道』。この映画は三谷幸喜によるものだが、〝スペース・コメディー〟という体裁を隠れ蓑に展開される性的表現がいちいちゲスい。これでは、差別や偏見に満ちていると言われてもしょうがない。特に、登場人物のひとりムタの描写なんて、買春そのもの。またひとつ、「いまは2015年だぞ...」と呆れはてる映画が生まれてしまった。フジテレビのドラマ『問題のあるレストラン』や、現在日本テレビで放送中の『偽装の夫婦』など、興味深い作品もあるにはある。だが、牛を擬人化したことで問題となった『ブレンディ』のCMを見てもわかるように、まだまだ日本では、ジェンダー、差別、偏見、さらにはこれらの根幹となる人権意識が低いと言わざるをえない。


 グライムスことクレア・バウチャー。彼女は、3枚目のアルバム『Visions』(2012)を4ADからリリースしたことがキッカケで、世界的なポップ・スターになった。1枚目の『Halfaxa』(2010)、2枚目の『Geidi Primes』(2010)と、基本的に彼女の作品はすべて歌もの。ただ、『Visions』が前2作と決定的に違ったのは、彼女のヴォーカリストとしての表現力が格段に高まり、メロディーを強調した曲も多かったこと。ゆえに『Visions』は、多くの人に届くキャッチーさを獲得できた。デビュー時からカルト的な人気を得てはいたが、『Visions』によって、その人気を幅広いものにしたというわけだ。


 一方で彼女は、歯に衣着せぬ発言でも注目を集めてきた。性差別を受けたことで音楽業界に対して幻滅したとFADERに語り、2014年には、筋萎縮性側索硬化症協会への寄付を募る活動として、日本でも話題になったアイス・バケツ・チャレンジを拒否した。拒否した理由について彼女は、当時カリフォルニア州で起こっていた水不足の問題を引きあいに、そうした問題があるのに水を浪費するのは適切じゃないと語っている。代わりに彼女は、教育こそが世界中に蔓延るさまざまな問題を解決するために重要として、マララ基金に寄付した。さらに最近では、地元カナダで今年10月におこなわれた総選挙へ行くよう呼びかけた。彼女は、スティーヴン・ハーパー前首相(と彼が率いる保守党)を退かせたいという立場だった。その右翼的な政策に多くのカナダ国民が不満を持っていたようだが、彼女もそのひとりだったのだろう。反同調圧力的に、自分の意見を積極的に語る彼女の姿勢は、なにも突然生じたわけではない。たとえば、先述したFADERのインタヴュー以前にも、自身のタンブラーなどで女性アーティストに対する性差別や偏見への怒りを述べている。このような姿勢をさまざまな形で示している彼女もまた、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす動き」を象徴するひとりなのは言うまでもない。ちなみに、同じくカナダ出身のグザヴィエ・ドランも、ハーパーには良い印象を持っていなかったようだ。保守党が総選挙で負けたため、首相の座から降りることになったハーパーへ向けて、ツイッター上でユーモアたっぷりの〝バイバイ〟をプレゼントしている


 『Visions』以来となる彼女のニュー・アルバム、『Art Angels』を繰りかえし聴いている。端的に言うと本作は、2010年代を代表するアルバムの1枚であり、傑作だ。まず、『Visions』以上にポップでキャッチーな曲が多いことに驚かされる。歌メロやシンセ・リフは〝ベタやなあ〟っと呟きたくなるほどシンプルで、1度聴けば覚えてしまう。かつてのカオスは一切ない。文字通り、ど真ん中のポップ・ソング集。MVで先行公開された「Flesh Without Blood」なんて、テイラー・スウィフトの「Shake It Off」を想起させる曲調だ。ビートも、なんとなく似ているような...。ヴォーカリストとしての表現力にも、ますます磨きがかかっている。全曲歌い方が異なり、それゆえこれまでの作品群とは比べ物にならないほどカラフルなヴォーカルを楽しめる。


 ヴォーカルといえば、「REALiTi」での歌い方がすごく面白い。それは次の箇所。


〈Oh, baby, every morning there are mountains to climb  Taking all my time Oh, when I get up, this is what I see Welcome to reality〉(「REALiTi」)


 この箇所での歌い方が、さながらJ-POPなのだ。日本のポップ・ソングには、日本語の特性上、メロディーの1音に対して1文字を割りあてたものが多い。一方で英語の場合、1音に対して1単語を割りあてたものがほとんどだが、この箇所だけは、メロディーの1音に対して1文字を割りあてたものに近い。だからこそ、〝さながらJ-POP〟と言ってみた。もちろん、日本語と英語は特性が異なるため、〝まったく同じ〟というわけではない。とはいえ、〝似ている〟というだけでも興味深いと思う。彼女は、インタヴューなどで日本のカルチャーに対する愛を幾度も公言しているが、その愛を深めるなかでJ-POPに触れていても不思議ではない。逆に、子音が強調されることで、日本語でも英語的に聞こえるのが宇多田ヒカルの「Automatic」(1999)。この曲と「REALiTi」を関連させて、いろいろ考察してみるのも面白そう。


 Entertainment Weekly(エンターテイメント・ウィークリー)のインタヴューで彼女は、本作の曲はヴァンパイアのギャングの視点から書かれたと語っている。いわば本作は、寓話的な性質を持った作品だというわけだ。しかし、ラストを飾る「Butterfly」は、このような一節で幕を閉じる。


〈If you're looking for a dream girl I'll never be your dream girl(もしあなたが理想の女の子を探しているとしても 私はあなたの理想の女の子には絶対にならない)〉(「Butterfly」)


 この一節は、グライムスでもヴァンパイアのギャングでもない、クレア・バウチャーというひとりの人間による力強い宣言だ。すでに何度か引用したFADERのインタヴューで彼女は、芸術に関しては誰かに合わせる必要はない、でも人には見てもらいたいという旨を率直に述べている。こうした考えは、作品はもちろんのこと、ライヴ・パフォーマンスにも表れている。ポップ・スターになり、たくさんの人脈を得た現在でも、彼女は基本的にひとりで機材を操り、マイクを握る。筆者は彼女のライヴを生で観たことあるが、その姿は本当に忙しない。YouTubeなどで観れるライヴ映像では、汗だくな姿も見た。それはまるで、〝自分はここまでできる!〟ということを必死にアピールしているかのよう。なぜ、ここまで必死になれるのか? 音楽業界で味わった性差別、あるいはもっと純粋な承認欲求、さまざまな要因が複雑に絡んでいるのだろう。だから筆者には答えがわからない。それでも確実に言えるのは、彼女にとって境界線など存在しないに等しく、だからこそ〝自由〟だということ。それは、ヒップホップ、テクノ、インダストリアル、ロックなどが細切れにされたうえで交雑した、彼女の音楽性からもうかがえる。以前、『Visions』のレヴューでも書いたことを引用すれば、「歴史やルールから逸脱」したポップ・ミュージック。現在27歳の彼女は(奇しくも筆者と同い年)、ナップスターのような音楽サービスが子供の頃からあった世代。その世代が音楽を作るようになった2010年代から、ひとつのジャンルでは括れない、キメラのようなポップ・ミュージックが急激に増えたのは、おそらく偶然じゃない。くわえて彼女は、音楽制作に関する教育を一切受けていない。このことも、セオリーや常識とされるものにとらわれない音楽性に繋がった一因だろう。そんな彼女が、2010年代を代表するポップ・スターになり、「既存の価値観や固定観念を解きほぐす」存在となったのは、必然なのだ。


 2015年11月4日、カナダで10年ぶりの政権交代を果たした自由党のジャスティン・トルドー新首相が、新内閣発足の会見をおこなった。この内閣が注目を集めたのは、男性15人、女性15人の男女同数だったこと。さらに、若手からベテランまで幅広い選出がなされ、アフガン難民としてカナダに移住してきたマリアム・モンセフや、先住民の血を引くジョディ・ウィルソン・レイブルドなど、顔ぶれが多彩なのも驚きだった。このような内閣にした理由を記者に訊かれたトルドーは、こう答えたという。


「2015年だからね(Because it's 2015)」(※1)


 世界は確実に変化している。



(近藤真弥)



【編集部注】『Art Angels』の国内盤は12月11日リリース予定です。



※1 : この発言が飛びだした新内閣発足会見の様子は、CBCのニュース記事で見れます。

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TRACEY THORN『Solo- Songs And Collaborations 1982-2015』.jpg
 寂しさに心を支配され、何かにすがりたいという気持ちになったとき、ひたすらポジティヴな歌声よりも、陰りがある歌声を求めてしまう。単一的なポジティヴィティーよりも、哀しみも含む多彩な感情表現のほうが、心に潤いをもたらしてくれるから。例をあげると、エコー・アンド・ザ・バニーメンのイアン・マッカロク、ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティス、そして、エヴリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンなどなど。仕事柄、家から遠く離れた場所へ行くことも多いが、どこへ行くにしても、いま挙げた3人の作品は必ず持ち歩くようにしている。


 その3人のなかのひとり、トレイシー・ソーンが、ベスト・アルバムをリリースした。名は、『Solo: Songs And Collaborations 1982-2015』。本作は彼女のソロ活動に焦点を絞り、オリジナル楽曲を集めたディスク1、他のアーティストとコラボした曲やリミックスをまとめたディスク2の計2枚で構成されている。エヴリシング・バット・ザ・ガールはもちろん、かつて彼女が在籍していたバンド、マリン・ガールズの楽曲も収録されていない。もしかすると、この点に批判的な人も少なからずいるだろう。


 しかし、優れたソングライターとしての側面、さらに魅力的な歌声を持つヴォーカリストとしての側面を存分に堪能できるという意味では、とても素晴らしい作品だと思う。ディスク1は、まだオリジナリティーを確立するには至っていない初期の楽曲から、成熟を感じさせる深い楽曲まで、実にさまざまな面を披露してくれる。ただリリース順に並べたわけではなく、作品としての流れを重視した曲順なのも、彼女の強いこだわりが感じられる。彼女のソロ作品をコンプリートしている者も、新鮮さを感じる内容だと思う。


 ディスク2では、彼女の歌声が持つ高い順応性を見せつけられる。マッシヴ・アタック「Protection」から始まり、ラストのアダムF「The Tree Knows Everything」まで、ディスコ・クイーンなトレイシー・ソーンを楽しむことができる。あるときは冷ややかに、あるときは柔らかく、そしてあるときは優しくといった具合に、いろんな感情が渦巻いている。特筆したいのは、ジ・エックス・エックス「Night Time」のカヴァー。原曲はダークでメランコリックな曲調だが、彼女はそのメランコリックな部分を受け継ぎつつ、より華やかな景色を描いてみせる。



(近藤真弥)



【編集部注】国内盤は11月13日リリース予定。

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Little Simz『A Curious Tale Of Trials + Persons』.jpg

 言葉は面白い。たとえば、〝彼女いるの?〟ではなく、〝恋人いるの?〟と訊くだけで話のレンジが広がる。さらには、使い方次第で多彩な風景を生みだすこともできる。


 日本語だけをとってみても、その魅力はわかるはずだ。ここでは類語を例にするとして、〝お礼〟の類語をいくつか挙げてみる。〝謝礼〟〝謝儀〟〝謝意〟〝感謝〟などなど、たくさんある。こうした数多くある言葉の中から、自分にとって最適なものを選び、相手に意志を伝える。そして、この意志こそが、〝個性〟である。その個性を作るための言葉選びは、何者にも制限されることがない自由なものだ。


 しかし、ツイッターやフェイスブックに投稿される言葉を見ていると、その〝自由〟を自ら放棄しているのか? と勘繰ってしまうものが多すぎて、げんなりする。それは言うなれば、安易に単純化されたがゆえ、不必要に他者をなぶる暴力性を帯びてしまった言葉たち。


 最低限の生活すらも送ることが難しくなりつつある〝不自由な現在〟において、言葉選びの自由が持つ多彩さは、不安や抑圧に対抗する武器になる。そしてこの武器は、異なる価値観を持つ者たちを繋ぎ、不安や抑圧と戦うための支えになってくれる。そんな素晴らしい支えをやすやすと手放すなんて、本当にもったいない。


 もちろん、手放さない者もいる。それが、去年『Everybody Down』という傑作をリリースしたケイト・テンペストであり、このたび最新アルバム『A Curious Tale Of Trials + Persons』を発表した、リトル・シムズだ。


 リトル・シムズは、ロンドンを拠点に活動するラッパーで、ナイジェリアをルーツに持つ。これまでに彼女は数多くのEPやミックス・テープをバンドキャンプで発表してきたが、実は役者として、『Spirit Warriors』(2010)という子ども向けのTVドラマに出演したこともある、興味深いキャリアの持ち主。


 そんな彼女の言葉は、詩的かつ内省的なものとなっている。人にまつわる機微をすくいとり、それが色濃く反映された物語を描く言葉は、とても複雑だ。直截的なスローガンなども、ほとんどない。だが、その複雑さに批判をくわえるのはお門違い。そもそも、人という生き物が単純ではないからだ。喜怒哀楽に収まらない感情をいくつも備え、それゆえ他者と衝突することもある。こうした人の矛盾や罪も、彼女は受けいれてみせる。こうした、複雑なことを複雑なまま表現する誠実な姿勢は、先述のケイト・テンペストや、『A Grand Don't Come For Free』(2004)という2000年代を代表するアルバムを生みだした、ザ・ストリーツことマイク・スキナーに通じるものだ。


 複雑さを単純化しない本作は、安易な希望や共感を訴えたりはしない。むしろ、多くの人が目を背けがちな側面を見せるという点では、聴いていてヘヴィーな気持ちになるはずだ。しかし、それでも言葉を紡ぎ、顔も見えない誰かにメッセージを伝えるという姿自体が、希望になりえる。もっと言えば、だからこそ本作は、多くの人を奮い立たせる知性とパワーで満ちている。


 先に筆者は、「彼女の言葉は、詩的かつ内省的」と書いた。しかし、だからといって、本作のベクトルが〝外〟へ向いていないというのは違う。確かに、2曲目「Wings」の冒頭で、リトル・シムズは次のようにラップする。


〈これは私の物語(This is my story)〉


 ところが、彼女はその言葉をすぐさま、〈wait, nah(いや、そうじゃない)〉と退ける。そのあと紡がれるのが、次の一節。


〈これは私たちの物語(This is our story)〉


 そう、本作の物語は、リトル・シムズという〝私〟のものであると同時に、〝あなた〟のものでもある。〝my(私)〟から〝our(私たち)〟への変化。些細な変化だが、この変化が本作にダイナミズムをもたらしている。〈これは私たちの物語〉以降に飛びだすフレーズも書いておこう。


〈これは私たちの王国(This is our kingdom)〉

〈これは私たちの自由(This is our freedom)〉

〈これは私たちの苦闘(This is our struggle)〉


 他にも、〝痛み〟〝愛〟〝場所〟などが〝私たち〟のものとして登場する。最後に、ふたたび〈これは私たちの物語〉と念を押すようにラップされ、「Wings」は幕を閉じる。全曲必聴の本作だが、迫力という点では「Wings」が群を抜いている。


 「Wings」が終わると、〈あなたも死体を見たい?(Do you wanna see a dead body?)〉(「Dead Body」)など、人が持つ負の側面を聴き手に突きつける曲や、孤独や哀しみをモチーフにした寓話的な曲が次々と鳴り響く。また、その寓話に、宗教的な世界観を用いることが多いのも興味深い。「God Bless Mary」はタイトルからしてそうだし(〝Mary〟は聖母マリアのこと)、〈私の翼を返して(Give me back my wings)〉という一節がある「Wings」は、天使が元ネタだ。本作でのリトル・シムズは、さながらプリーチャー(伝道者)である。


 本作は、〝人〟という存在にどこまでも迫った、非常にストイックな内容だ。それゆえ、他人の言動を盲信するだけの無知な姿勢に胡座をかくことはせず、己の醜い部分を隠して知らん顔という卑しい真似もしない。リトル・シムズは、己の醜い側面もしっかり見つめている。


 こうした内容だからこそ、本作は国を越えてあらゆる場所に届くのだ。多くの問題を抱え、〝ブロークン・ブリテン〟と言われて久しいイギリスはもちろん、何かと大変なここ日本にも。



(近藤真弥)

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Kate Simko & Tevo Howard『PolyRhythmic LP』.jpg

 今年も残すところ、あと2ヶ月と数日。ライヴハウスやクラブに行けば、「今年面白かった音楽は?」と訊かれ、映画館に行けば「今年最高だった映画は?」という話で盛りあがる。


 映画の話は後日するとして、ここでは音楽の話を。今年は、ハウスのレコードにグッとくることが多かった。たとえば、ルーマニア出身のメロディー(Melodie)。彼が今年リリースした「Influences EP」は、巧みな音の抜き差しが生みだすグルーヴを堪能できる、素晴らしい作品だ。ここ数年、日本では〝ルーマニアン・ミニマル〟という言葉と共に、ペトレ・インスピレスク、ラドゥー、ラレッシュといった、ルーマニアのテクノ/ハウス・シーンで活躍するアーティストをよく見かけるようになったが、こうした流れの新しい芽がメロディーである。掘れば掘るほど、ルーマニアのテクノ/ハウス・シーンの奥深さを実感する今日この頃。


 とはいえ、ハウス・ミュージック誕生の地、アメリカも負けてはいない。事実、ケイト・シムコとテヴォ・ホワードによる『PolyRhythmic LP』は、今年リリースされたハウス作品のなかでは群を抜いた出来である。本作には、ふたりともシカゴ出身ということもあり、「Exotica Exhibition」など、音数が少ないラフなビートを打ちだしたシカゴ・ハウスも収められている。だが、洗練さの極みを見せつける「No Regrets」こそ、本作のハイライトだ。優雅な心地よさをまとうシンセから始まり、そこからキック、ハイハット、ヴォーカル、タム、クラップといった具合に、音が加えられるたびに増していく高揚感は絶品。多くの人々が集うダンス・フロアはもちろんのこと、ドライブのお供に最適なポップ・ソングとしても機能する。


 また、TB-303風の音が織りなすベース・ラインと、メタリックでキラキラとしたシンセ・フレーズが反復される「PolyRhythmic Theme」は、いなたい雰囲気を醸すあたりがイタロ・ディスコみたいで面白い。とは言っても、細かく刻まれるハイハットとリムショットが印象的なビートは、シカゴ・ハウスそのものだ。TB-303といえば、「Fall」は「PolyRhythmic Theme」以上にTB-303風の音を前面に出したトラック。それは文字通りアシッド・ハウスと呼べる内容だが、ピアノ・リフ、シンセ・ストリングス、ライド・シンバルの3つが上品に鳴りわたる様は、ラリー・ハードのディープ・ハウスに通じるものを感じさせる。


 このように本作は、一口にハウス・ミュージックといっても、さまざまなタイプのトラックを楽しむことができる。さながら、絵柄が矢継ぎ早に変わる万華鏡のようなもの。耳が喜び、心が躍るハウス・ミュージックを求めるあなたに、本作をオススメしたい。



(近藤真弥)

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Lana Del Rey ‎- Honeymoon.jpg

 だいぶ前の話になるが、キム・ゴードンの回想記『Girl In A Band』を読んだ。サーストン・ムーアやコートニー・ラヴなど、これまでキムが関わってきた人たちについて書かれたもので、ユーモアと優しさにあふれるキムの人柄が伝わってくる良書。


 その本でキムは、ラナ・デル・レイにも言及している。なんでも、ラナはフェミニズムが何たるかをわかってないとのこと。これはおそらく、ラナがFADER(フェーダー)のインタヴューでおこなった、フェミニズムには興味ないという旨の話を指している。確かにラナの発言は、〝フェミニズム〟を大雑把にとらえすぎなところがあると思う。とはいえ、そうした乱暴さが魅力的な表現に繋がることも事実。音楽も含めた表現の役割のひとつは、現実では実現できない世界を表出させることだが、そんな表現の特性をラナは存分に活かしている。


 それは、4作目となる本作『Honeymoon』を聴いてもわかるはずだ。これまで以上に倒錯的かつ依存度が高い関係性を描き、妖艶な雰囲気を漂わせるサウンドスケープは、甘美なメランコリーを醸している。どこまでも耽美的で、どこまでも自己破壊的。こうした世界観を〝尊崇〟の次元にまで昇華して表現する手腕は、もはや達人の域だ。これは、物議を醸す発言も含めて、一種の芸と言っていい。ラナがどんな背景を持ち、いかなる考えの持ち主なのか、ラナの作品においてはそれほど重要じゃない。もちろん、倫理や道徳、教訓といった領域も関係ない。そんな100円ショップに売ってそうな3点セットはクソ食らえ、とでも言いたくなる豪胆さが、本作の根底にはある。その豪胆さに依拠した姿勢は言うなれば、〝芸術のための芸術(l'art pour l'art)〟。19世紀のフランスで用いられはじめたとされるこのスローガンは、本作にこそ相応しい。ラナも2曲目「Music To Watch Boys To」で、こう歌ってみせる。



〈抑制する必要はない 慣習を壊すためにここにいる(No holds barred, I've been sent to destroy, yeah)〉(「Music To Watch Boys To」)



 とはいえ、サウンドが破壊的かと言えば、そうじゃない。ひとつひとつの音は繊細で、聴き手の性感帯をなぞる艶かしさが印象的。ラナの歌声も〝パーツのひとつ〟として扱うプロダクションは、ポップ・ソングというよりも映画のサウンドトラックに近い。すべてのパートが〝調和〟を目指しており、どれかが強調されることはほとんどない。妖しくも心地よいラナの歌声でさえ、である。このような本作を聴いて思い浮かべたのは、デヴィッド・リンチやアンジェロ・バダラメンティも関わった、ジュリー・クルーズのアルバム『Floating Into The Night』(1989)。このアルバムはジャズの要素があり、本作はヒップホップの要素が顕著などの違いはあれど、メロウで静謐な空気が特徴という点は共通する。そういえば、ラナは過去にボビー・ヴィントンの「Blue Velvet」(1963)をカヴァーしていた。そう、デヴィッド・リンチが1986年に制作した映画、『Blue Velvet』でも流れるあの曲だ。



(近藤真弥)

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Nicole Dollanganger『Natural Born Losers』.jpg

 カナダのシンガー・ソングライター、ニコル・ドールアンガンガー。彼女のことを知ったのは、音源ではなくインスタグラムがキッカケ。友人に「おもしろいセンスの写真をアップする人がいる」と教えてもらい、それがニコルだった。さっそく、彼女のインスタグラムを覗いてみると、ゴスロリの格好をした彼女自身、愛犬のパグ、メルヘンチックな自室など、さまざまな被写体が並べられていた。それらから漂ってくる雰囲気はどこか病的なものだったが、筆者の興味を強く引きつける切実な〝ナニカ〟も漂わせていた。


 そこで、彼女のバンドキャンプにアップされている作品を、一通り聴いてみた。まずは、コロンバイン高校銃乱射事件をモチーフにしたカヴァー集「Columbine EP」(2013)。犯人が影響を受けていたとされたマリリン・マンソンのカヴァーを収録し(※1)、ジャケットには事件当時の写真を使うという徹底ぶり。他には、作家/イラストレーターのエドワード・キャリーによる著作、『Observatory Mansions』(2001)からタイトルを拝借した『Observatory Mansions』(2014)や、日本のヴィデオ作品シリーズ、『ギニーピッグ』の英題と同名の『Flowers Of Flesh And Blood』(2012)など、カルチャー全般への興味をうかがわせる作品もあった。しかも、曲のほとんどが彼女の弾き語り。これは面白いということで、彼女の作品はしばらくの間、筆者の耳を占領することになった。


 そんな彼女が、グライムスが設立したレーベルEerie Organization(イーリー・オルガニゼーション)から最新アルバムを発表した。タイトルは、『Natural Born Losers』。彼女のことだから、オリバー・ストーンの映画『Natural Born Killers』(1994)をネタにしたのだろうか? この映画は、ヴァイオレンスな描写が特徴の作品だが、本作も随所で似たような描写が登場する。なにしろ、1曲目「Poacher's Pride」の歌いだしが、〈私は父のライフルで天使を撃った(i shot an angel with my father's rifle )〉(※2)である。本作の歌詞は、ドラッグや銃といったキーワード、くわえて宗教的な世界観が際立つものになっている。全体としては、聖と俗を行き来している印象だ。このような歌詞を彼女は、美しくも儚いウィスパー・ヴォイスで紡いでいく。ただでさえ痛々しい歌詞が、彼女の歌声によってさらに痛みが増している。正直、聴いていて重苦しい気分になってくる。ところが、メロディーはやたらと人懐っこい。誰かに私を見つけてほしいとばかりに、とてもキャッチーだ。しかし、そのおかげで、なおさら痛々しさが沁みてしまう。


 それでも、筆者が本作を繰りかえし聴いてしまうのは、彼女の病的な振るまいやヴィジュアル・センスが表層的ではないからだ。たとえば、8曲目の「American Tradition」。日本語では〝アメリカの伝統〟と訳せるこの曲は、寓話という形でアメリカに対する批評眼を発揮しているように思えるし、そもそも全曲、日々の生活で見逃されがちな機微を掬いあげたような言葉であふれている。それは言うなれば、痛み、哀しみ、慈しみが交わる極上のリリシズム。そして、このリリシズムに宿るのは、〝愛と憎しみは紙一重〟を体現するヒリヒリとした緊張感。


 このように本作は、危ういバランスのうえに成り立っている。さながら、孤独に耐えながら必死に立ちあがろうとする、弱々しくも凛々しい姿。そこに、グライムスやスカイ・フェレイラのような鼻っ柱の強さはない。あるのは、心を剥きだしにしたニコル・ドールアンガンガーという人間だけだ。しかし、そんな作品が、聴き手の心を揺さぶる多彩な情動で満ちているという事実に、ただただ感動する。なぜならこの事実は、〝生きる〟ことそのものが、何よりもドラマチックで尊いということを証明しているからだ。




(近藤真弥)




※1 : のちの報道で、影響を受けていなかったことが明らかになっている。


※2 : ニコルのバンドキャンプに掲載されている歌詞から引用しました。

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KING MIDAS SOUND : FENNESZ『Edition 1』.jpg

 ザ・バグとしても有名なケヴィン・マーティン、詩人のロジャー・ロビンソン、在英日本人キキ・ヒトミの3人による、キング・ミダス・サウンド。そんな彼ら彼女らが、坂本龍一との共演などでも知られる、クリスチャン・フェネスとコラボレーションしたアルバムを発表。『Edition 1』と名付けられたそれは、『Mezzanine』(1998)までのマッシヴ・アタックや初期のポーティスヘッドを想起させる、耽美的かつダークなサウンドスケープを描いた良作になっている。


 『Edition 1』は、これまでフェネスが残してきた、サンプル・ネタやギター・トラックといった未発表の素材を、キング・ミダス・サウンドが使用し制作された。ゆえに本作は、キング・ミダス・サウンドの音楽的嗜好が色濃く反映されているように感じる。たとえば、リフレインされるベース・ラインが印象的な「On My Mind」と、先行公開された「Waves」の2曲。共に清涼なアンビエンス・サウンドを漂わせる曲だが、曲全体にまとわりつくミステリアスな雰囲気は、キング・ミダス・サウンドの作品群でよく見かける要素だ。特に、『Dummy』(1994)期のポーティスヘッドを連想させる「On My Mind」は、キング・ミダス・サウンド流ポップ・ソングとも言える作風。


 また、「Loving Or Leaving」という曲も、キング・ミダス・サウンドの音楽的嗜好が強く出ている。この曲でのヘヴィーな低音、ダビーなディレイとリヴァーブの使い方、そしてトラップの要素を取りいれたビートは、フェネスの作品群ではあまり見られないものだ。このように本作は、キング・ミダス・サウンドがイニシアチブを握っていると思われる。


 正直、コラボレーションによって生じる突発的な化学反応という点から見ると、本作は及第点以下だろう。しかし、ここではないどこかへ聴き手を飛ばし、一種の精神拡張をもたらしてくれるという点においては、最高のアルバムである。ひとつひとつの音が、心の奥深くにじんわりと潜りこんでくる感覚は、至上の快楽そのもの。この快楽は、ヘッドフォンでひとり聴くだけでも味わえるが、できるだけ大音量で流し〝浴びる〟ように聴いたほうが、より深く味わえる。それこそ、クラブのサウンドシステムなどが、本作の音像をもっとも明確に伝えてくれるはずだ。このあたりは、やはりキング・ミダス・サウンドはクラブ・カルチャーの歴史が生みだしたグループなのだなと実感させてくれる。



(近藤真弥)

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Disclosure  Caracal.jpg

 ガイとハワードのローレンス兄弟によるディスクロージャーが、サム・スミスをヴォーカルに迎えたシングル「Latch」(2012)で注目されてから約3年。この3年の間でふたりは、ポップ・スターへの階段を駆けあがった。ファースト・アルバム『Settle』(2013)は本国イギリスでチャート1位を獲得し、その後メアリー・J. ブライジとも共演した。


 また、Moshi Moshi(モシ・モシ)から発表されたデビュー・シングル、「Offline Dexterity」(2010)の頃から追いかけている筆者としては、ふたりの音楽性が変化したことにも注目したい。実を言うと、「The Face EP」(2012)までのふたりは、UKガラージが基調にあるサウンドを鳴らしていた。しかし、「Latch」以降のふたりは、ハウスやR&B色を前面に出してきた。そのおかげで、ふたりの音楽はポップ・ソングとしての訴求力を獲得し、世界的な人気を得ることにも繋がった。クラブだけでウケるプロダクションではなく、より幅広い層に届く順応性こそ、ふたりが選んだ道なのだ。


 セカンド・アルバム『Caracal』は、その道を突きつめた〝深化〟の作品である。まず、本作に参加したヴォーカリストを見てみよう。ザ・ウィークエンド、サム・スミス、グレゴリー・ポーター、ライオン・ベイブ、クワブス、ロード、ミゲル、ナオ、ジョーダン・ラケイ。すでにスターの地位を得ている者から、ここ最近注目を集める若手まで、豪華な顔ぶれだ。


 さらにサウンド。一聴して耳を引くのは、前作以上にR&Bの要素が色濃く出ていること。前作も、しっとりとした艶やかさが漂うサウンドで、さながらベテラン・アーティストのような作風だったが、本作はその老練さがより顕在化している。グレゴリー・ポーターが歌う3曲目「Holding On」以降は、Nervous(ナーバス)やEmotive(エモーティヴ)あたりを想起させる、いわゆるNYハウスのエッセンスを取りいれた軽快な曲もあるが、アルバム全体の作風は非常に落ちついており、踊らせるよりも聴かせる内容となっている。プロダクションも、ヴォーカルを強調したものが目立ち、〝歌〟を意識しているのは明らか。


 そんな本作、人によっては物足りなさを感じる作品だと思う。たとえば、前作の成功で得た勢いをそのままに、チャレンジングなアルバムを作るべきだったという意見。あるいは、ゲストに頼った保守的な作品だと思う者もいるだろう。しかし筆者は、本作を大歓迎したい。確かに、前作との明確な違いは見られず、目新しさもない。だが、どこまでもロマンティックで、最初の音が鳴り響いた瞬間、目の前の景色をガラリと変えてしまうポップ・ソングが詰まった本作は、不当な評価にさらされるべきではない。グッド・メロディーに、グッド・サウンド。言ってしまえば本作はそれだけだが、そのふたつだけで極上のポップ・ソング集を生みだせるという事実には、驚愕するばかりだ。


 そもそも、本作を高く評価できない者たちは、いまだ〝古い/新しい〟という時代錯誤な価値基準にとらわれているにすぎない。もはや、〝古い音楽〟など存在しないのだ。あるのは、自分がまだ聴いたことのない音楽だけ。このことに多くの人はもう気づいている。そして、その〝多くの人〟に、ディスクロージャーが含まれるのは言うまでもない。



(近藤真弥)

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Chvrches『Every Open Eye』.jpg

 〝スコットランド〟と聞いて思い浮かべるもの。ハドソン・モホーク、ベル・アンド・セバスチャン、エドウィン・コリンズ、セルティック、スコッチ。ロバート・バーンズも忘れてはいけない。彼をモチーフにしたカクテルは筆者の大好物だ(そのカクテルの名はズバリ、〝ロバート・バーンズ〟)


 しかし、筆者が真っ先に思い浮かべるのは、アニー・レノックスという女性である。デイヴ・スチュワートと結成したユニット、ユーリズミックスで一世を風靡し、現在はソロで活躍するシンガー・ソングライターだ。アニーは音楽活動の一方で、オックスファムの親善大使を務めるなど、社会活動にも長年取りくみ、積極的に発言をしてきた。そのなかでも、筆者がとりわけ秀逸だと思うのは、国際女性デー100周年を迎えるにあたって発表したステートメントだ(※1)。書きだしは、次のような一節。


 「私は、驚き、失望し、怒りを覚える。人類が月に行き、この星に住む誰とも瞬時にインターネットでつながる時代になっても、男女間の平等が実現していないという事実に。」


 この一節は見ての通り、怒りを表明している。だが、読みすすめていくと、希望にあふれる力強い言葉が多くなっていくのが、このステートメントの素晴らしいところ。特に、以下の言葉は多くの人に響くはずだ。


 「あなたが女性であっても男性であっても、この問題と無関係ではない。しかしだからこそ、あなたは解決を生みだす力にもなれる。」


 アニーと同じスコットランド出身で、チャーチズのヴォーカルを務めるローレン・メイベリーは、英ガーディアン紙に『私はネット上での女性蔑視を受け入れません』と題された文章を寄稿している(※2)。おそらく、このようなローレンの側面を知らない人も少なくないだろう。だがローレンは、スコットランドを拠点とし、イヴェント、パーティー、Zine(ジン)の発行などをおこなうフェミニスト集団、TYCIの創立に関わったりと、音楽以外の活動も積極的におこなっている。これらの活動は言うなれば、切実な叫びを〝些事〟だと恣意的に決めつけられ、抑圧されることに対する抵抗だ。ちなみに、TYCIのZineには、創刊号から現在まで〝Edited〟にローレンの名がクレジットされている。ローレンの言葉には、どこかジャーナリスティックな匂いがすると常々思っていたが、こうした活動の影響も少なからずあるのだろう(ちなみにローレンは法律/ジャーナリズムの修士号を持っている)。それにしても、同じところから同じ問題意識を持ったポップ・スターが輩出されるというのも、偶然にしては出来すぎている...。


 さて、そんなローレンの活動は、チャーチズの歌詞にも反映されている。チャーチズの歌詞は、人生にまつわる見逃されがちな機微を丁寧に掬いとり、それを親しみやすい極上のホップ・ソングに昇華したものだからだ。さらに、〝これはこうだ!〟と安易に断言するのではなく、〝これはこうなのかもしれない〟という問いかけに近いニュアンスを持つ言葉が多いのも、チャーチズの歌詞の特徴。これはおそらく、チャーチズにとって聴き手は、信頼すべき存在だからこそできる芸当なのだろう。こうした姿勢から生みだされた歌詞は、知的な興奮を聴き手にもたらし、過度な感情表現に頼らずとも、理性と誠実さで他者を魅了できることを教えてくれる。これを見事に実現しているのが、チャーチズの素晴らしいところだ。


 サウンドの変化にも言及しておきたい。ローレン、それからイアン・クック、マーティン・ドハーティのメンバー全員が80年代エレ・ポップを好むだけあって、本作にもその要素は多分に含まれている。とはいえ、前作『The Bones Of What You Believe』はヒップホップやR&Bの影響が顕著だったのに対し、本作はテクノやハウスの要素が色濃く表れている。たとえば、トランシーで煌びやかなシンセ・ワークを基調に、巧みな音の抜き差しで起伏を作りあげていくさまは、オービタルを想起させる。たくさんのヴィンテージ・シンセを使用していることも、この想起を助長する。また、音に注意深く耳を傾けると、ひとつひとつの音が丹念に磨きぬかれているのもわかるはずだ。もともと、プロダクション技術は優れているチャーチズだが、本作では〝深化〟したサウンドを堪能できる。大きな変化はないが、ヴォーカルや音がよりクリアになり、清涼感あるローレンの歌声が今まで以上に映えている。このあたりは、主に音フェチの方々が興奮するポイントだろう。


 最後に、本作のジャケットについても一言。だいぶ前にツイッターでも言ったが、どことなく、ニュー・オーダー『Power, Corruption & Lies』(1983)のジャケットを連想させるのが面白い。というのも、このタイトル、日本語ではこう訳せるからだ。


 「権力、腐敗、そして嘘」


 もしかすると本作のジャケットは、〝ブロークン・ブリテン〟と言われて久しいイギリスの惨状に対する当てつけではないか(スコットランドはイギリスの構成国)。いや、もっと言えば、これはイギリスだけに向けたものではないかもしれない。権力の腐敗や嘘は、世界中の至るところにあるのだから。チャーチズは、世界中の人たちにコミュニケートしている。チャーチズにとって聴き手は、従わせるものではなく、共に手を繋いで歩んでいく存在なのだ。




(近藤真弥)




※1 : 原文はこちらです。https://www.oxfam.org.au/media/2011/03/annie-lennox-opinion-piece-for-international-womens-day-2011/



※2 : Hostessの公式サイトに日本語訳もあります。http://digitalconvenience.net/?p=4607

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New Order『Music Complete』.jpg

 ニュー・オーダーが、前作『Waiting For The Sirens' Call』以来約10年ぶりとなるアルバムをリリースした。『Music Complete』と名づけられたそれは、ダニエル・ミラー主宰のMute(ミュート)移籍後、初のアルバムとしても話題になった。本作と前作における一番の違いは、ピーター・フックが脱退し、ジリアン・ギルバートが復帰したことだろう。2012年にリリースされたライヴ・アルバム、『Live At Bestival 2012』のレヴューでも書いたが、筆者はピーターがいないニュー・オーダーに対して、複雑な感情を抱いている。喧嘩別れのような形で脱退してしまったこと、そしてその傷痕は、いまだ両者にまざまざと刻まれていること。これらの事実がもたらす感傷は、10年ぶりにアルバムをリリースという嬉しいニュースが届いても、筆者の心から消え去ることはなかった。どうして運命は、バーナード・サムナー、ピーター・フック、スティーヴン・モリス、ジリアン・ギルバートの4人を揃えないのか? いくらなんでも、惨すぎるではないか...。


 本作を聴いて驚かされたのは、ギター・サウンドが著しく後退している点だ。全体的にエレクトロニック・サウンドが際立ち、ロック・アルバムというよりはダンス・ミュージック・アルバムと言える作風に仕上がっている。「Unlearn This Hatred」以外は、すべて5分以上あるのも興味深かった。3分どころか2分台のポップ・ソングも珍しくなくなった現在において、全11曲中10曲が5分以上という内容。言うなれば本作は、純粋なポップス・アルバムではない。過去のディスコグラフィーでいえば、『Technique』(1989)が一番近いのかもしれないが、筆者はニュー・オーダーの作品群ではなく、スティーヴン・モリスとジリアン・ギルバートによるジ・アザー・トゥー、それからバーナード・サムナーとジョニー・マーによるエレクトロニックのサウンドを想起した。ただ、トム・ローランズ(ケミカル・ブラザーズ)をプロデューサーに迎えた「Singularity」は、攻撃的でロックなニュー・オーダーを堪能できるものになっている。


 ゲスト陣も非常に豪華で、エリー・ジャクソン(ラ・ルー)、ブランドン・フラワーズ(ザ・キラーズ)、イギー・ポップなどが参加している。だが、筆者の目をもっとも引いたのは、「Nothing But A Fool」にバッキング・コーラスで参加しているデニース・ジョンソンだ。というのもデニース、プライマル・スクリームの大名曲「Don't Fight It, Feel It」(1991)でヴォーカルを務めたシンガーなのだ。細かすぎる着目と言われればその通りだが、先のトム・ローランズやエリー・ジャクソンも含め、本作はイギリスのポップ・ミュージック史に名を残す者たちが集まって作られたという意味でも、面白い作品だ。


 しかしそれゆえ、ピーターの不在がより目立ってしまうのも事実である。ニュー・オーダーに影響を受けたアーティストが何人も集まり、さらにイギー・ポップのような生きる伝説まで参加しているにも関わらず、ピーターがいないというのは、さすがに寂しい。正直に言ってしまえば、本作のニュー・オーダーは、ニュー・オーダーであってニュー・オーダーではない。たとえ原理主義的すぎると言われても、筆者はその確信を崩すことはない。バンドとは不思議なもので、このメンバーでなければ成立しない、あるい特別な魔法が生まれないというケースは多々ある。そのうちのひとつに、ニュー・オーダーも含まれるのは言うまでもない。



(近藤真弥)

柴田聡子『柴田聡子』(P-Vine)

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柴田聡子『柴田聡子』.jpg

 柴田聡子の最新アルバム、『柴田聡子』。本作は、さまざまな人たちを描く多彩な作品に仕上がっている。柴田聡子は、2010年から活動を始めたシンガー・ソングライター。これまでに、『しばたさとこ島』(2012)、『いじわる大全集』(2014)という2枚のアルバムを発表しているが、ライヴ盤や7インチ・シングル、さらにGofishトリオと柴田聡子としてもリリースをするなど、多作なアーティストだ。


 前作『いじわる大全集』は、全編弾きがたりのセルフ・レコーディングだったが、本作は初のバンド編成で作られた作品。山本精一をプロデューサーに迎え、一楽誉志幸、須藤俊明、西滝太というゲスト・ミュージシャンが参加している。本作での柴田聡子は、メロディーに寄りそう歌い方を披露するなど、これまであまり見られなかった側面を見せてくれる。とはいえ、間奏が少ない曲が多いのは、やっぱソロで活動してきたシンガー・ソングライターだよなと感じる。


 ポップスとしての親しみやすいメロディーが際立つのは、作品全体の舵取りを山本精一に託し、柴田聡子は歌に集中したからだと思う。その親しみやすいメロディーが顕著に表れるのは、先行でMVが公開された「ニューポニーテール」だろう。この曲の譜割り、NHK Eテレの子ども番組で子どもたちが歌っていてもおかしくないほど、歌いやすい。歌詞の内容は、小さじ2杯くらいの毒と狂気をまぜたピリ辛味だが...。


 歌詞といえば、本作に登場する人物はみな、どこかひとりぼっちな雰囲気を漂わせている。全13曲、そのすべてがほんのり寂しさを滲ませ、風が吹けば飛んでいってしまいそうな、か細さを見いだせる。消えいるように〈オリンピックなんてなくなればいいのにね〉と呟かれる「ぼくめつ」などは、どたばた続きの2020年東京オリンピックに関することを想像させ、本作のなかでは唯一明確な〝反抗〟を感じさせる曲だ。それでも、その呟きが右から左に流れるなかで(より具体的に言えば、パンニングを操作して右から左に流している)、どこかの街の風景を描写したような歌詞が歌われるという構成は、呟きが雑踏のなかに紛れてしまう哀しさを醸しており、切なくなってしまう。


 だからといって、本作にネガティヴな印象を抱くわけではない。むしろ、バラバラな風景や言葉を並べることで見えてくる多彩さに、感動させられる。ひとつひとつの風景や言葉は、多くの人にとっては些細なことかもしれない。だが、そんな些細なことがたくさんあり、その後ろにはたくさんの人々が生きているという事実に、筆者は心を揺さぶられてしまう。こうした感動をもたらしてくれるのは、お世辞にも穏やかとは言えない今の日本で生活するなかで忘れがちな、活き活きとした〝小さい声の集まり〟である。このような集まりを浮かびあがらせる本作は、多くの人に優しさと勇気をあたえるだろう。


 幸せへと続く道は、案外近くにあるものだ。よくよく考えれば当たりまえかもしれないが、そんな当たりまえで忘れがちなことを、本作は想いださせてくれる。希望は常に、あなたの隣で待っている。



(近藤真弥)

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ステレオフォニックス.jpg

 今年41歳になるヴォーカルのケリーは、子供の頃に住んでいた南ウェールズにある小さな炭鉱村、つまり自身のルーツに立ち返るためにこのアルバムに『Keep The Village Alive』というタイトルをつけた。そして、サウンドは自然とシンプルで強いものになり、それはたとえば新曲で8ビートのロックンロールを披露した同郷のフラテリスと共鳴している。1曲目の「C'est La Vie」のヴィデオを初めて観た時に、これは何事かと思った。パーティーで男2人が散々暴れまわった挙句、女友達は愛想を尽かして部屋から出て行くのだけど、それにも構わず彼らはダンスしつづけ、最後はバンドと戯れてエンディング...という、時代錯誤感すら漂うこの映像。そして、まるでジ・エネミーが2007年に〈僕は現実逃避したい〉と歌っていた時と同じ勢いで、ステレオフォニックスは〈人生なんてこんなもんだ〉というフレーズを言い放つ。仮に、わずかなコードだけで突き進むこの曲をビーディー・アイが手にしていたとしたら、解散の憂き目に合わずに済んだかもしれないと思うほど、瑞々しい輝きを放っている。


 もう1曲、近年ヘヴィーなバラッドが目立っていた彼らの個性からは意外だったライトなタッチの「I Wanna Get Lost With You」。〝僕と君〟という小さな物語に優しく寄り添ったこのメロディーは、これからも時々振り返りたくなるに違いない。こちらも冴えない男女二人が恋に落ちていく過程を撮ったノスタルジックな風合いのヴィデオが用意されている。他の楽曲にも言えることだけど、特にテーマが重要なわけではなく、そこにあるのは音楽のみ。意味にまみれた2015年にこの作品をドロップするとは、何というか、さすがステレオフォニックス、という気がする。


 時代との接点を模索することではなく、自分達が〝どこから来て、どこへ帰っていくのか〟を掘り下げること。他人の言葉に翻弄されず、潔く自分の道を選びとること。デビューから20年近く経ったいま、彼らは最も確信めいたサウンドを手にしている。それはステレオフォニックスというバンドがサヴァイヴした証拠に他ならない。だが、このレコードを古参のファンだけが耳にしているのは勿体無い。このプロセスはアイデンティティーを上書きすることがアイデンティティーになっている20代の僕たちにも、フェイクじゃない勇気をあたえてくれるから。その入口になるために、たとえば、彼らのライヴでもハイライトに欠かせない名曲「Dakota」を今年Galileo Galilei(ガリレオ・ガリレイ)が日本語でカヴァーしたように、今作の「I Wanna Get Lost With You」も誰かカヴァーして欲しい。今ならAwesome City Club(オーサム・シティー・クラブ)かYkiki Beat(ワイキキ・ビート)のヴァージョンが聴いてみたいな...。



(長畑宏明)

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Tomo Akikawabaya『The Invitation Of The Dead』.jpg

 嬉しいことに、筆者のレコード・コレクションは、多くの音楽愛好家から譲りうけたレコードによって、実に多彩なものとなっている。特に印象的なレコード・コレクションは、親戚のおじさまからいただいたコレクションだ。このおじさま、吉祥寺マイナーという、日本のアンダーグラウンド・シーンを語るうえで欠かせないライヴ・ハウスにも通っていたお方。当然、彼のレコード・コレクションも、日本のアンダーグラウンド・シーンに名を残すバンドの作品で埋めつくされていた。リビドー、ピンキー・ピクニック、サラスヴァティ、PTA's、黒色エレジー、幻覚マイム、ロシアバレエ団、ノン・バンドなどなど。8割くらいが70年代後半から80年代の間に作られた作品で、ポスト・パンクやニュー・ウェイヴと呼ばれる音が多かった。


 そのなかでも、とりわけよく聴いたのは、Tomo Akikawabaya(トモ・アキカワバヤ)の作品群だ。ほとんどの作品で、妖艶な雰囲気に包まれた女性をジャケットにフィーチャーしているのが面白かった。なんとなく、ロキシー・ミュージックの『Roxy Music』(1972)や『Siren』(1975)のアートワークに近いセンスを感じたからだ。とはいえ、グラマラスなブライアン・フェリーのヴォーカルと比べると、Tomo Akikawabayaの歌声はどこかぶっきらぼうだが。強いて類例をあげれば、初期のデイヴ・ガーン(デペッシュ・モード)である。また、起伏がほとんどない、淡々としたエレ・ポップなサウンドにも惹かれた。シンプルすぎる淡白なビートに、心地よい冷たさを帯びたシンセ、そのすべてが筆者の耳に馴染んでいった。隙間だらけのサウンドスケープ、そして不備が目立つプロダクションは、お世辞にも褒められたものではない。だが、そうした不完全さが妖気を漂わせるゴシックな作風に繋がっているのだから、興味深い。ジャンルで言えば、ポスト・パンク、ニュー・ウェイヴ、ミニマル・シンセということになるだろうか。


 このような興味深い体験をしたのは、いまからちょうど10年前のことだが、そんな過去の想い出を呼びおこすニュースが飛びこんできた。なんと、ここ数年カルト・ニュー・ウェイヴのリイシューで注目を集めているレーベルMinimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)から、Tomo Akikawabayaの作品が再発されたのだ。これまでも、〝どこで見つけてきた?〟と言いたくなる作品をたくさんリイシューしてきたMinimal Waveだが、とうとう日本産の作品に手を伸ばしたというわけだ。レーベル主宰のヴェロニカ・ヴァシカ、筋金入りのディガーだなと、あらためて実感させられるニュースだった。


 このたび再発された『The Invitation Of The Dead』は、Tomo Akikawabayaが過去に発表したアルバム『The Castle』(1984)と、シングル「Anju」(1985)をコンパイルしたもの。サウンドは、先にも書いたとおり。正直、ネット上に〝正しいミックスのやり方〟みたいな情報が横溢し、誰もがそれなりのプロダクションを施せる現在においては、粗だらけに聞こえるはずだ。しかし、テクノロジーの発展により均質化される前のサウンドは、聴き手の感性を拡張する〝ナニカ〟であふれていると思う。実は、のちのV系とも接続できる云々...の話もしたいところだが、そうすると本題からかけ離れてしまうので、今回はこのくらいにしておこう。まずは、現在に蘇ったTomo Akikawabayaの音世界を楽しんでもらいたい。



(近藤真弥)

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 ポスト・パンクの進化は止まらない。前作『A Tape』から約7ヶ月、ヘレナ・ハウフの最新アルバム『Discreet Desires』を聴いていると、そう思わざるをえない。ここ数年、Minimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)などを中心としたカルト・ニュー・ウェイヴのリイシュー・ブーム、トレヴァー・ジャクソン監修のコンピ『Metal Dance Industrial / Post-Punk / EBM Classics & Rarities 80-88』『Metal Dance 2 Industrial New Wave Ebm Classics & Rarities 79-88』のリリース、さらに、ポスト・パンクの代表的なバンド、ザ・ポップ・グループが35年ぶりの新作を発表するなど、ふたたび〝ポスト・パンク〟という言葉を目にする機会が多くなった。


 そのなかで興味深いのは、ポスト・パンクを語るうえで欠かせないジャンル、EBM(エレクトロニック・ボディー・ミュージック)再評価が進んでいること。たとえば、昨年リリースされたI.B.M.『Eat My Fuck』は、Modern Love(モダン・ラヴ)などが中心となったポスト・インダストリアル・ブーム以降の流れと共振しつつも、マシーナリーなビートを強調した作風はEBMそのものだった。そして、ファンキンイーヴンの別名義セント・ジュリアンによるシングル「A16」は、EBMが再注目されている流れとベース・ミュージックの接続という面白い試みをおこなっている。こちらも見逃せない動きだ。


 といったところで、肝心の『Discreet Desires』だが、本作はヘレナのポスト・パンクな側面がいままで以上に表れた作品である。前作のメインであったアシッディーな音色も、サイボトロン的なエレクトロ・ビートが映える「Funeral Morality」以外では使われていない。また、音の抜き差しで踊らせる手腕も素晴らしく、空間を活用したプロダクションも秀逸。この点も前作にはなかった部分だ。


 特筆したい曲は、巨大な金属がぶつかりあったような音を響かせる「Tripartite Pact」や、ざらついた質感のビートが際立つ「Spur」。特に、ヴィンス・クラーク在籍時のデペッシュ・モードに通じるシンセ・フレーズが飛びだす「Spur」は、EBMに対する愛情が素直に表現されていて、微笑ましい気持ちになってしまう。また、クラップとリムショットを多用したリズムが印象的な「L'Homme Mort」のように、シカゴ・ハウスのビート感覚を打ちだした曲が多いのも本作の特徴だ。シカゴ・ハウスの要素を効果的に用いることで、本作は〝EBMの焼きなおし〟という不名誉から見事に抜けだしている。


 このように、さまざまな要素が細切れにされて交わる本作の内容は、雑多性が前提となった2010年代のポップ・ミュージックそのものだが、ヘレナはそこに、歴史的文脈への配慮というエッセンスを注ぎこむ。長年ポップ・ミュージックと付きあってきた者ならば、本作に過去の音楽へ向けられた敬意を見いだせるはずだ。サイボトロン、リエゾン・ダンジェルーズ、初期のデペッシュ・モードなどに向けられた敬意を。




(近藤真弥)

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 ザ・ストロークスのサウンドにおいて重要な位置を占めるギタリストの、なんと7年ぶりとなるサード・ソロ・アルバム。昨年リリースされたリード・シンガー、ジュリアン・カサブランカスのセカンド・ソロと、見事に好対照をなしている。表裏一体というか、やっぱどちらも同じバンドの一部なんだと思わせてくれる。もちろん、いい意味で。


 まずはオープニング・ナンバーのタイトルに驚いた。なにせ「Born Slippy」。ある程度以上の年齢で特定の趣味を持った音楽ファンであれば、アンダーワールドというユニットのヒット曲を思いださざるをえない。映画『トレインスポッティング』にも使われた、おそらく彼らのレパートリーで最も有名な曲のひとつだ。


 カヴァーかも? あれをどんなふうに処理してるのか?と思ったが、違った(笑)。オリジナル曲だった。ただし、その「釣り」の持つ意味みたいなものがアルバムを聴きすすめるにしたがって、なんとなく伝わってきた。つまり、全体的に彼らのルーツでもある音楽との共通項を感じさせるのだ。エレクトロニックなダンス・ミュージック・ユニットというイメージの強いアンダーワールドだが、80年代には「ちょっと電気入った」感じのロック・バンドだった。ひらたくいって、このアルバム、ジュリアンの過去2枚のソロ・アルバムそしてザ・ストロークスの(今のところ)最新アルバムなみに、いわゆるニュー・ウェイヴっぽい。


 昨年のジュリアン・カサブランカス+ザ・ヴォイズ『Tyranny』がオルタナティヴもしくはポスト・パンクもしくはノー・ウェイヴ色が濃かったのに比べ、アルバート・ハモンド・ジュニア『Momentary Masters』は(そういった香りを漂わせつつ)もっとポップ。だから、もしなんらかの音楽用語でこれを表現するのなら、やはりニュー・ウェイヴというのが最も近いのかも。


 そんなふうに感じつつ、実に気持ちよく聴いていたところ、全10曲中6曲、アナログ盤であればちょうどB面トップで、ぶったまげた。80年代初頭のチェリー・レッド・レコーズにも通じるアコースティック/エレクトロニック・サウンドにのせて歌われるのは...思わず曲名を再確認してしまった。たしかにそうだ。初期ボブ・ディランの「くよくよするなよ(Don't Think Twice, It's Alright)」ではないか...。たぶん、こういった驚きを聴き手にもたらしたいのだろう。ディスク・ケース裏にはわざわざ短く「Don't Think Twice」と表記されている(ネタバレ、すみません...)。


 60年代前半のディランといえば、プロテスト・フォークの旗手という印象がいまだに強いかもしれない。それは、もちろん「間違い」ではない。ただし、ひとつはっきり言っておけば、彼は「普段の生活のなかで感受性鋭くキャッチしたセンスを、適確すぎてびびるほどの言葉で歌っていた」。それだけのこと。この曲は、まさにその(いわゆるプロテスト・フォークではないという意味の)好例。極めてリアルな失恋歌だ。この歌の主人公は、ある意味未練たらたらな状態で、それでも恋人に別れを告げねばならない自分に向けて<くよくよするなよ/これでいい>と歌っている。


 それはそれで、なんとも身を切られるような世界。ただし、ある種のクールさが漂っている。昔からいろんなひとたちに歌われてきた曲だが、ちょっと意外なところでは高橋幸宏もカヴァーしてた。うん、そうだね、だからそう言うわけではないけれど、このアルバム全体に漂う「ちょっと変わった、かなり独自のニュー・ウェイヴ感」は、なんとなく「80年代の幸宏」っぽい? いや、そうでもない? それよりさらにキャッチーなガレージ/パーソナル・コンピューター感がある。だから、やはりもっと「今」の音楽。


 そして、ここで彼がディランをカヴァーしたことに関してもうひとつ感慨深いのが、やはり父親アルバート・ハモンドという存在に対するバランス感覚みたいなもの。ジブラルタル出身の両親のもと、ロンドンで生まれた父は若いころから音楽活動をつづけていたが、70年代にアメリカに移住してから、シンガーそしてソングライターとして破格の成功を収めた。自ら歌った「カリフォルニアの青い空」にしても、カーペンターズに提供した「青春の輝き」にしても、どちらかといえばプロのポップ職人というイメージ。実際それらは、日本の歌謡曲~Jポップの世界でも重宝される形で当時からわが国でも広く受けいれられてきた(だから、ここでもイレギュラー的に邦題で表記してみた。この原稿のために今回あらためて調べてわかったのだが、70年代後半に日本でもヒットしたレオ・セイヤーの曲も書いてたんだ...。80年代には結構ビッグ・イン・ジャパンっぽい「おとなのポップ・ソングライター」的な側面もあった。なるほど、だから自分もとりわけ記憶に残っているのかな)。


 上記のような父親を持つ彼。これも今回初めて知ったのだが、なんと彼の父は2000年に大英帝国勲章までもらっているらしい。音楽業界に対する貢献により、ってことだろう。とすれば、彼としては微妙な気分だったかもしれない。なぜなら、ザ・ストロークスがラフ・トレードからのシングル「The Modern Age」でようやくレコード・デビューを飾ったのは2001年1月のことだったから。


 そんな親の影から(べつに、そのひとに対する個人的愛情を否定するわけではなく)脱すること。セカンド・アルバムという超初期、まるで青さのかたまりのような時期のディランの、それも(00年代に出た)最新ベスト・アルバムには入っていない(だけど、ディラン・ファンなら、ほとんどのひとが愛している)曲をやる。これ以上見事な「オルタナティヴ行為」があるだろうか? そして、あらためて冒頭のオリジナル曲のタイトルに感動する(「おれは生まれながらのできそこない」みたいな。そんな感覚は「くよくよするなよ」にも、もちろん入ってるわけで...)。


 とまあ、その2曲に関する話が多くなってしまい申し訳ないのだが、アルバム全体の内容も、素晴らしいですよ。ファースト・ソロ、セカンド・ソロ以上に見事な「現在の世界のスケッチ」になっていると思います。



(伊藤英嗣)

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ELYSIA CRAMPTON『American Drift』.jpg

 去年7月、フォルティーDLことドリュー・ラストマンインタヴューをする機会があった。そのときは実にさまざまな話をしたが、なかでもE+Eというアーティストの話で盛りあがったときのことは、今でも鮮明に覚えている。さらに、ドリューが主宰するレーベル、Blueberry(ブルーベリー)でE+Eと契約したいという裏話も聞き、ここまで音楽の嗜好が合うアーティストにはそう簡単に巡りあえないなと思ったものだ。このインタヴューから約1年後、E+Eがエリシア・クランプトン名義で素晴らしいレコードを発表してくれた。しかも、Blueberryから! ドリューはエリシアと無事契約できたというわけだ。本当に本当に、おめでとう。


 さて、そのレコードとは、『American Drift』と名づけられたアルバム。エリシアの音楽はサンプリングが基調にあり、ドリーミーで解放的なシンセ・サウンドを特徴としているが、それは本作にも引きつがれている。ひとつのサンプル・ネタを執拗に繰りかえし、その周りをさまざまな音が矢継ぎ早に飛び交うという手法も健在。それゆえ、これまでエリシアの音楽を熱心に追いかけてきた者からすれば、〝進化〟というより〝深化〟に聞こえるかもしれない。クドゥーロ、トラップ、アンビエントなど数多くの要素を細切れにして撹拌させた作風も、エリシアの十八番。それでも、本作をキッカケにエリシアの音に触れた者からすれば、〝衝撃〟になるはずだ。


 圧巻は、約10分に及ぶ「Wing」である。執拗に繰りかえされるアコースティック・ギターのサンプルを軸に、つぎつぎとSEが飛びだしてくる。そのSEを挟むタイミングがこれまた絶妙で、聴き手を陶酔に導くアグレッシヴなグルーヴを生みだす。それは言うなれば、恍惚と妖艶に満ちた愛しき激情。


 そして、『American Drift』というタイトルについても特筆しておきたい。このタイトル、日本語では〝アメリカの流れ〟と訳せるが、そうしたタイトルを掲げた作品で、銃の装填音や軍隊の掛け声にも聞こえるヴォイス・サンプリングを多用しているのは、どうにも意味深長だ。もちろん、筆者の考えすぎである可能性も否定できないが、本作は〝トランスジェンダーとして生きるエリシアから見たアメリカ〟という捉え方も可能だと思う。だからこそ本作は、キラキラとした高揚感を持ちながらも、同時にダークで殺伐とした空気が漂っているのではないか。と、筆者は解釈したが、あなたの心にはどう映っただろう?



(近藤真弥)

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 相も変わらず、ネットやレコード・ショップで面白いダンス・ミュージックを探しもとめているが、なぜだか最近、カセット・リリースの作品に〝面白い!〟と感じるものが多い。クッキーシーンで取りあげた作品でいえば、ノイ・バランスケイタ・サノヘレナ・ハウフなどなど。レーベルでいえば、いまや多くのリスナーから注目される存在となった1080pを始め、Where To Now?(ホウェア・トゥー・ナウ?)、Hylé Tapes(ヒュレー・テープス)、Bootleg Tapes(ブートレグ・テープス)、J&C Tapesといったところか。これらはすべて、カセットを中心にリリースしている。


 とはいえ、カセット・リリースだから、ダンスフロアで流れることはほとんどない(mp3のダウンロード・コードなどがある作品は別だが)。つまり、カセットでリリースされているダンス・ミュージックの多くは、DJが使いやすいようにと作られたものでもなければ、フロアライクなものでもない。言ってみれば、ひとりヘッドフォンをしながら音楽に浸ったり、ベッド・ルームでささやかに踊りながら楽しむような者に向けて作られている。それは〝みんなのダンス・ミュージック〟というより、〝あなたのダンス・ミュージック〟という親近感のあるものなのだ。この親近感こそ、ここ最近カセットでリリースされているダンス・ミュージックのほとんどに共通する、魅力のひとつだと思う。


 なんてことを考えていると、またひとつ興味深いカセットが手元に届いた。名はズバリ、『Cassette Club 3』。以前レヴューを書いた『#Internetghetto #Russia』(2014)と同じくらい秀逸なタイトル。『Cassette Club 3』は、オーストラリアのカセット・レーベルMoontown(ムーンタウン)からリリースされたコンピレーションで、収録アーティストもオーストラリアを拠点に活動する者が選ばれている。


 そのなかでも特に興味深いトラックは、フォー・ドアの「Refresh」だ。一定の間隔で淡々と刻まれるヘヴィーなキックに、妖しげでドラッギーなシンセ・サウンドが聴き手を飛ばすそれは、さながら『Frequencies』(1991)期のLFOである。明るいトラックではないが、深淵の底を這いずるようなグルーヴに筆者は心を奪われてしまった。


 そして、ルイ・マルロの「Divvy In The Rear-View」も出色の出来。「Refresh」と同様、ダークで妖しげな雰囲気を漂わせているが、「Divvy In The Rear-View」はシカゴ・ハウスの要素が色濃いビートを特徴としている。アシッディーかつトリッピーなサウンドと、高い中毒性を生みだすヴォイス・サンプルの使い方も秀逸だ。


 また、ポエトリー・リーディングとミニマルなビートで構成されたカルリ・ホワイト「You Can Drive」も、ポスト・パンク好きの筆者としては見逃せない曲。聴いているとヤング・マーブル・ジャイアンツを連想してしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




【編集部注】『Cassette Club 3』はMoontownのバンドキャンプで購入できます。

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スリーフォード・モッズ.jpg

 最近、イギリスのロックをいろいろ聴いていると、政治/社会問題に言及した曲(あるいはそうしたニュアンスを含んだ曲)を見かけなくなったなと思う。もちろん、マニック・ストリート・プリーチャーズは健在だ。プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーも、イギリス保守党政権による労働組合取り締まり政策案に、「これはもう階級戦争としか言いようがない。もし、この法案が成立すれば、労働者たちによるストライキは実質不可能になるだろう」(※1)と怒りの声をあげ、そうした姿勢を作品に反映させることも多い。だが、いま挙げた者たちは、すべて40~50代だ。それより下になると、曲のなかで政治/社会問題に言及することが極端に少なくなる。もはやイギリスのロックに、強烈な反骨精神を求めるのは難しいのかもしれない。


 とはいえ、〝イギリスのポップ・ミュージック〟にまで範囲を広げれば、強烈な反骨精神はいくつもある。たとえば、共産主義者として知られる作家グレアム・グリーンの小説と同名のパーク『The Power And The Glory』(2014)には、英首相デーヴィッド・キャメロンと英財務大臣ジョージ・オズボーン(現在は筆頭国務大臣も兼務)を指した「David & George」という曲があるし、ケイト・テンペスト『Everybody Down』(2014)は、高騰する都市部での生活費に苦しみながら、それでも何とか生きる若者たちの殺伐とした心情を鮮やかに描いてみせた。さらにはジャム・シティーも、最新作『Dream A Garden』(2015)で、〝ブロークン・ブリテン〟と言われるイギリスの現況を悲観的に表現した。


 そうしたなかでも、ジェイソン・ウィリアムソンとアンドリュー・ファーンによるスリーフォード・モッズは、とりわけストレートに怒りを表明していると思う。〝Fuck〟などの卑語は当たりまえ。英語が堪能な者であれば、思わず顔をしかめたくなるかもしれない。ふたりとも現在40代半ばで、音楽活動歴もそれなりに長いのだが、大きな注目を集めたのはここ2~3年のこと。サウンドは、ひたすら同じパターンを刻むビートに、ひたすら同じリフを奏でるベースという、極めてシンプルなものである。そこにジェイソンの暑苦しいラップを乗せることで、スリーフォード・モッズ・サウンドの出来上がり。一言で表せば、ヒップホップとポスト・パンクを掛けあわせたミニマルなサウンドスケープとなるのだろうが、正直、サウンド面に革新性はないし、卓越したプロダクション技術が見られるわけでもない。ざらついた質感の音粒は筆者の好みだし、反復による高い中毒性も面白いとは思うが。


 では、スリーフォード・モッズの魅力とはなにか? ずばり言葉だ。本作『Key Markets』では、エド・ミリバンド元労働党党首や、ニック・クレイグ元自由民主党党首を血祭りにあげている。しかし、それが無慈悲に聞こえないのは、言葉に込められた怒りの矛先が、常に強者、もっと正確に言えば、多くの犠牲と抑圧を強いたうえで調和を保とうとする権力に向けられているからだ。どんなに言葉が汚く、どんなに攻撃的で過激だったとしても、スリーフォード・モッズは弱者やマイノリティーに刃を向けたりはしない。そこがスリーフォード・モッズの上手いところであり、大きな注目を集めることができた理由のひとつでもある。強者側(権力)からすれば、本作は耳が痛くなる言葉で埋めつくされた作品に聞こえるだろう。だが、そんな強者側に抑圧され犠牲を強いられた者たちからすれば、明日を生きるための糧になるような笑えるユーモアと、弱者やマイノリティーをしっかり捉える眼差しという優しさが込められた音楽に聞こえるはずだ。もちろんそこに、怒りもあるのは言うまでもない。こうした、ギリギリの状況でもユーモアと優しさを保てるタフネスは、ゲイ・ライツのアクティヴィストとしても有名な俳優イアン・マッケランが、コメディー番組(※2)で過激なゲイネタを浴びても成立するイギリスならではと言えるかもしれない。


 そして筆者は、このような表現を可能にするセンスこそ、多くの人が持つべき強さだと思う。言うなれば、イメージが武器となるメディアという戦場において、世界中の人々を笑わせたチャップリンがなぜヒトラーに打ち勝つことができたのか? ということ。ユーモアと優しさを失った強さは、単なる弱さでしかないのだ。


(近藤真弥)



※1 : NME JAPANの記事『プライマル・スクリームのボビー・ギレスピー、デモを犯罪化するイギリスの法案に激怒』より引用。



※2 : 英BBC『Extras』のこと。イアン・マッケランはシーズン2の第5話にゲスト出演。

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 クエドことジェイミー・ティーズデールのファースト・アルバム『Severant』(2011)は、実に素晴らしい作品だ。ローランドのTR-808というドラムマシーンを大々的にフィーチャーし、アフリカ・バンバータに通じるエレクトロや、当時はまだ物珍しいスタイルだったジューク、さらにはデヴィッド・ボウイ『Low』(1977)を連想させる冷ややかなシンセ・サウンドも見られるなど、多くの要素が詰まった作品だ。ジェイミーはかつて、ローリー・ポーターと組んでいたヴェクスドというユニットでダブステップ黎明期を盛りあげた男だが、ソロ作品では、ダブステップやベース・ミュージックの要素をあくまで〝ひとつのパーツ〟として扱い、主にIDMやアンビエントの要素を強く打ちだしてきた。ゆえにダンスフロアに適したプロダクションでありながら、ホームリスニングでじっくり味わうタイプの作品に仕上がるという良質な折衷性を実現してきた。そういった意味でクエドの音楽は、幅広い層に受けいれられる可能性を秘めている。ただ、その可能性が〝秘められている〟ままなのが、難点といえば難点だった。


 しかし、そんなクエドの難点は、最新EP「Assertion Of A Surrounding Presence」では解消されている。まず、本作で目を引く曲は、「Case Type Classification」。ジュークに通じるビートと低音が効いたトラックで、ダンスフロアで抜群の威力を発揮するだろう。わかりやすい展開はなく、音の微細な変化でグルーヴを生みだす手法は決して派手とは言えない。だが、執拗に反復されるキックと、その周りを飛びまわる磨きぬかれた音だけで、平熱の高揚感を作りあげる手腕は実に見事。リヴァーブやディレイといったエフェクトの使い方も秀逸だ。聴くたびに新たな発見があり、ダンスフロアだけでなく、ベッド・ルームでひとり集中しながら楽しみたい曲でもある。


 そして、本作を語るうえで見逃せないのは、「Border State Collapse」や「Eyeless Angel Intervention」でうかがえる、インドネシアの民族音楽ガムランの要素だ。特に「Eyeless Angel Intervention」は、もろにガムランなフレーズを衒いなく用いており、そこに冷たくも耳心地がよいシンセ・サウンドが交わることで、ミニマルかつ神秘的なサウンドスケープを描いてみせる。この曲は、クエドがネクスト・レヴェルに突入したことを告げる、本作のなかでも屈指の良曲。


 また、すごく嬉しいのが、「Event Tracking Across Populated Terrain」でローリー・ポーターとコラボレーションしていることだ。そう、先に書いたローリー・ポーターである。ヴェクスドは事実上活動休止状態なだけに(それゆえジェイミーも〝元ヴェクスド〟と紹介されることが多い)、このコラボレーションはヴェクスドのファンにとって嬉しいニュースになるはずだ。


 こうした嬉しいトピックもある本作には、ダンスフロアはもちろんのこと、ベッド・ルーム、通勤通学中の電車内などなど、あらゆる場面で通用する全方位型のサウンド・プロダクションが施されているし、そのぶん聴きごたえもある。ただ、車の運転中に聴くのはオススメしない。本作の鋭くも気持ちよい高揚感に身を支配されると、最悪の場合ハンドル操作を誤り大事故に繋がりかねないからだ。それほどまでに本作の高揚感は、美的かつ陶酔的なのだ。そういった意味で本作は、〝死〟と隣りあわせの危険な魔力をまとった作品とも言える。



(近藤真弥)

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 2010年代に入って、自身のルーツに意識的だったり、あるいはルーツを示すことに躊躇しない音楽が増えてきた。たとえばスカイ・フェレイラの『Night Time, My Time』(2013)は、彼女が好んで聴いてきたプライマル・スクリームやジーザス・アンド・メリーチェイン、さらにはクラウトロックの要素が明確に表れたポップ・アルバムであり、ホット・チップの最新作『Why Make Sense ?』(2015)は、R&B、ファンク、ハウスといったジャンルへ向けた敬意を折衷的な音楽という形で表現している。いま挙げたふたつのアルバムは、過去の音楽を引用しつつも焼きなおしに留まっていない秀逸な作品であり、〝新しさ〟を強迫的に追求しないことで新鮮さを獲得している。その新鮮さは、〝好きなものは好き〟という姿勢にも見えるが、このような姿勢によってもたらされる軽やかさが、2010年代のポップ・ミュージックにおいてはデフォルトなのかもしれない。


 そう考えると、Ykiki Beat(ワイキキ・ビート)のデビュー・アルバム『When The World Is Wide』は、2010年代のポップ・ミュージックそのものである。彼らの音楽には、実にさまざまな要素が表れている。本作は、ザ・ストロークスやフォスター・ザ・ピープルといった、2000年代以降のバンドに通じるメロディー・センスが随所で見られるが、リヴァーブが深くかかったドラムとノイジーなギターによる甘いメロディーが印象的な「Vogues Of Vision」は、ジーザス・アンド・メリーチェイン「Just Like Honey」を想起させるなど、バントにとってのルーツと思われる要素が垣間見れるのも興味深い。また、ダンサブルなディスコ・ビートにラップが乗る「Never Let You Go」は、彼らが持つ引きだしの多さを象徴する曲だと思う。


 そして、ひとつひとつの言葉をハキハキと発するNobuki Akiyama(ヴォーカル/ギター)の歌唱法は、イギリスのポップ・ミュージック史を飾るヴォーカリストたちを思いださせる。具体的には、ブラーのデーモン・アルバーン、フランツ・フェルディナンドのアレックス・カプラノス、カイザー・チーフスのリッキー・ウィルソンなどなど。これらのヴォーカリストたちの歌い方を、筆者は〝唾吐き系〟と勝手に呼んでいるのだが、Nobuki Akiyamaの歌い方もまさしく唾吐き系。特に、「Never Let You Go」の〈オオオオッオッオウ〉と歌うところなんて、〝イギリスのロックじゃん!〟と言いたくなってしまう。


 こうして、それぞれの曲を細かく聴いていくと、音楽に詳しければ詳しいほどあれやこれやとたくさんのバンドを思い浮かべてしまうのだが、本作がすごいのは、そこまで音楽に詳しくない人でも楽しめる親しみやすさがあるということ。それを可能にするソングライティング能力の高さも、今年アルバム・デビューを果たしたバンドたちのなかでは群を抜いていると思う。奥深さと幅広さを兼ね備えた素晴らしいバンドがまたひとつ現れたことに、盛大な拍手を。



(近藤真弥)

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M.E.S.H. 『Piteous Gate』.jpg

 ドイツのダンス・ミュージック・シーンで名が知れた存在といえば、マルセル・デットマンを擁し、ベルリンのテクノ・シーンを牽引するレーベルOstgut-Ton(オストグットトン)、ザ・フィールドギー・ボラットの作品をリリースしているケルンのKompakt(コンパクト)、さらにはエドワードやプリンス・オブ・デンマークといった先鋭的なダンス・ミュージックを取り扱うGiegling(ギーグリング)などだろう。


 しかし、筆者はここにもうひとつくわえたい。それは、メッシュ、ロティック、カブラムの計3人によるJanus(ジャニス)というクルーだ。おそらく知名度でいえば、PAN(パン)やフィンランドのBlack Ocean(ブラック・オーシャン)などからリリースを重ねるメッシュと、Tri-Angle(トライアングル)から傑作EP「Heterocetera」を発表したロティックのふたりに軍配が上がるかもしれない。だがここでは、紅一点のカブラムに字数を割きたい。


 彼女は今のところ、いくつかの曲やDJミックスなどを発表しているにすぎないが、昨年DFA(カセットは1080p)からリリースされた、ダン・ボダンのアルバム『Soft』収録の「Reload」をリミックスしたりと、他のふたりとは少々毛色が違う活動をしている。くわえて、スウェーデンが拠点のStaycore(ステイコア)による、クドゥーロやグライムなどさまざまなビートが集められたコンピ『Summer Jams 2K15』にも参加し、その横断的な活動は3人のなかでも群を抜いている。こうした、老舗レーベルのDFAからStayCoreのような新興レーベルまで行き来できる、Janusの折衷性と寛容さはもっと注目されていい。いまのところ、アンディー・ストット 『Luxury Problems』(2012)以降、着実に発展を続けるインダストリアルとベース・ミュージックの接合という文脈においてメッシュやロティックが注目されている程度だが、そうした流れに組みこまれるだけでは終わらないポテンシャルがJanusにはある。


 さて、Janusについて長々と書いてしまったが、そのJanusに所属するメッシュが初のフル・アルバムを上梓した。『Piteous Gate』というタイトルの本作には、先述したJanusの折衷性と寛容さが反映されていると思う。昨年発表された「Scythians EP」では、ベース・ミュージックの要素が濃い豪快なサウンドで筆者を驚かせてくれたが、本作ではその要素が後退。かわりに、ミュージック・コンクレートの影響が滲みでたコラージュ・サウンドを展開している。それゆえ、反復による高い中毒性や音の強度で圧倒する力強さはほとんどないが、音が鳴っていない無音の空間も活かした、繊細かつ大胆なサウンド・プロダクションは素晴らしいの一言。そうした意味では、ダンスフロアでの即効性よりも、ホーム・リスニングでじっくり味わいながら楽しむ遅効性が特徴の作品と言える。この点も、ダンスフロアだけに留まろうとしない野心、それこそ本稿で繰りかえし述べている折衷性と寛容さそのものだ。


 とはいえ、幅広い層に届く訴求力が薄いのは、本作の秀逸な電子音が持つ欠点だと言わざるをえない。それでも、じわじわと迫るサディスティックな緊張感をまとうサウンドスケープは、必聴レヴェルだ。マスタリング・エンジニアにラシャド・ベッカーを迎えた人選もグッド。



(近藤真弥)

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 まず初めに、声を上げること。いや、まず目を向けるだけでもいい。7月15日午後8時半すぎ、僕は国会議事堂の周辺にいた。いま、未来のことを考えるのなら、もっと正確に〝2015年〟と付けくわえるべきなのかもしれない。数千人とも数万人ともいわれる群衆の中で時おり声をあげ、原始的なビートに合わせて身体を揺らし、周囲の喧噪とわずかな沈黙に耳を傾けていた。湿気を多く含んだ夜風が本格的な夏の到来を告げている。とても暑く、とても長い夏になりそうだ。


 「なんか、夏祭りみたいだな」とか「いや、夏フェスかな」とか。警察の誘導に惑わされながらも先へ進む。少しだけ違うのは、行きかう人々の多くが、うちわやライヴ会場マップじゃなくてプラカードを手にしていること。若い人、女性の姿がいつもより多いような気がする。〝いつも〟だって。2011年以来、政府に「No」と言う行動が自分にとって〝いつも=Usual〟っていう感覚になってきているなんて、感じ悪いね。


 デサパレシドスが13年ぶりにリリースしたセカンド・アルバム『Payola』を、こんなタイミングで耳にしたことを僕は偶然だとは思えない。


 ブッシュからオバマへと政権が移り変わる時代のなかで、ボブ・ディランと並び称されるほどになったコナー・オバーストは、2011年の『The People's Key』を最後にブライト・アイズとしての活動を休止している。そして、入れ替わるようにデサパレシドスが再始動した。自主制作盤としてリリースされた3枚のシングル、「MariKKKopa / Backsell」(2012)、「Anonymous / The Left Is Right」(2013)、「Te Amo Camila Vallejo / The Underground Man」(2013)はタイトルからも読みとれるとおり、どれも明確な政治的スタンスを持つ。フォーク、カントリー・ミュージックの素朴さと大衆性を受けつぐプロテスト・ソングから、ゲリラ的な即効性と強度を持つパンク・ロックへ。何かに急かされるように。


 「オキュパイ・ウォール・ストリート(ウォール街を占拠せよ)」に象徴される富裕層と中/低所得者層との格差、ハッカー集団「アノニマス」の活動、移民問題、ウィキリークスによるアメリカ外交公電の流出事件、銃犯罪、音楽業界の暗部...など、このアルバムに収録されているすべての曲が、現在のアメリカが抱える社会問題をテーマとしている。しかも、『Payola』というタイトルは、「番組で曲を流してくださいね」と音楽関係者がラジオDJに渡す〝賄賂〟を意味する。検閲済みの文書をモチーフにした硬派なアートワークとは裏腹に、ひねくれたユーモアも忘れてはいない。


 正直に言えば、日本で暮らす僕が「やっぱ、アメリカやばいでしょ」とか語れるほどの理解はない。けれども、そのサウンドに耳を傾けると、やはり心を突き動かされる何かがある。まずは一般認識だけでもいい。想像力は刺激されるはずだから。〝わかる〟ふりをすることよりも、〝感じる〟こと。そうすれば、大人も学校もテレビも新聞も、インターネットでさえも教えてくれなかったことに気づく。それが音楽を、それがパンク・ロックを聴くってことだ。


 ブライト・アイズでは抑え気味になっていたコナー・オバーストのエモーショナルな絶叫が聴こえる。フガジ、ハスカー・ドゥ直系のUSハードコアな乾いたディストーションが炸裂する。その一方で、初期のウィーザーやカーズっぽいチープでポップなシンセがシリアスさを和らげる。プロデュースは、コナー・オバーストの活動を長年支え続けてきたマイク・モギス。全14曲、約40分を一気に聴かせるソリッドでタイトなサウンドが最高にカッコいい。ブライト・アイズ、デサパレシドスの前作をリリースしていた古巣Saddle Creek(サドル・クリーク)を離れ、バッド・レリジョンのブレッド・ガーヴィッツが創設した老舗パンク・レーベルEpitaph(エピタフ)からのリリースというのも本気さが伝わってくる。


 政府に「No」を言うことすら日常的になってきた今、すべての問題を〝わかっているのか?〟 なんて問いなおしている場合じゃない。2015年にデサパレシドスが鳴らすパンク・ロックが気づかせてくれるのは、より早く(速く)、より大きな声で、できるだけ多く、できるだけ遠くにまで、思ったままを伝えることの大切さ。〝怒り〟そのものを表明することよりも、まずは意思を持って行動するということだ。



(犬飼一郎)

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 〝いま、もっとも面白い音を鳴らしている人は誰?〟と訊かれたら、まっさきに名が挙がるうちのひとり。それがKeita Sano(ケイタ・サノ)だ。


 Keita Sanoは、岡山を拠点にするトラック・メイカー。彼のことを知ったキッカケは、ブルックリンのMister Saturday Night(ミスター・サタデー・ナイト)からリリースされた3曲入りシングル、「People Are Changing」(2014)。粗々しい質感の音が紡ぎあげる、中毒性が高い心地よいグルーヴは非常に興味深いものだった。3曲ともビートはシンプルな4つ打ちだが、ひとつひとつの音に遊び心がたっぷり込められているおかげで、繰りかえし聴きたくなってしまう。そうした「People Are Changing」の面白さは、ホーム・リスニングだけでなく、ミラーボール煌めくダンスフロアでも抜群の効果を発揮する。そう考えると「People Are Changing」は、ダンスフロアとベッド・ルームをまたぐ秀逸な折衷性と順応性が光る作品とも言える。


 このような「People Are Changing」の素晴らしさは、Keita Sanoの魅力そのものだ。それは、セカンド・アルバムとなる『Holding New Cards』を聴いてもわかるはず。本作はハウス・ミュージックを基調にしており、この点は「People Are Changing」とも類似するが、音の使い方はこれまで以上に豪快で面白い。


 まず、1曲目の「Fake Blood」。どこか郷愁を抱かせるシンセが印象的なこの曲は、音が縦横無尽に飛びまわる。音楽用語でいうところのパンニングが本当に面白い。リスナーを本作の音世界にいざなう極上の招待状としては十分すぎるほどの驚きで満ちている。


 また、2曲目の「Onion Siice」は、ハウス・ミュージックが多い本作のなかでは異彩を放つジャングルに仕上がっている。最初は音数が少ない淡々とした曲調だが、2分30秒以降は次々と音が交わり、トランシーな雰囲気をまとっていくという展開がなんともたまらない。そして、4曲目の「Everybody Does It」は、Keita Sano流のベース・ミュージックとも言える曲で、音が大きくなったり小さくなったりするという大胆な内容。この曲も筆者のお気に入りだ。


 それから、ムーディーマンを彷彿させるヴォイス・サンプルの使い方が印象的な「Search」、ミスター・フィンガーズの肉感的かつ艶やかなトラックに通じる「Happiness」、ハンドクラップとリムショットにTB-303風のサウンドというもろアシッド・ハウスな「Escape To Bronx」の3曲も、特筆に値する出来だ。3曲ともハウス・ミュージックで、そういった意味ではこれまでのKeita Sanoにもっとも近い3曲だと言える。



(近藤真弥)



【編集部注】『Holding New Cards』は、カセットとデジタルのみです。共に1080pのバンドキャンプで購入できます。

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The ‎Chemical Brothers『Born In The Echoes』.jpg

 トム・ローランズとエド・シモンズによるケミカル・ブラザーズは、アシッド・ハウス、テクノ、ヒップホップ、サイケデリック・ロックなどの要素が入りまじった革新的サウンドを携え、90年代のイギリス音楽シーンに颯爽と現れた。その90年代にふたりがリリースした3枚のアルバム、『Exit Planet Dust』(1995)、『Dig Your Own Hole』(1997)、『Surrender』(1999)は、ポップ・ミュージックの進化と拡張を促した。そして、この3作品の頃が、ふたりの全盛期だったと思う。


 では、2000年代のふたりはどうだったのか? 筆者からすると、どうもピリッとしない退屈なアルバムを量産していた時期ということになってしまう。「Star Guitar」(2002)や「Galvanize」(2005)など、曲単位では秀逸な作品を残し、ライヴ・パフォーマンスも相変わらず壮大で素晴らしいものだったが、アルバムとなると、どこか迷走気味でスリルに欠けていた。もちろんこれは、90年代にふたりが鳴らした折衷的サウンドとそれを可能にしたセンスが、多くの人にとって馴染み深いものになってしまったことも一要因としてあるだろう。いわば2000年代のふたりは、〝過去の自分たち〟という壁を前にもがいていた。


 そして、2010年代。ふたりは『Further』(2010)というアルバムを発表した。この作品で最初に目を引いたのは、それまでの恒例であった大物ゲスト・ヴォーカルがいないこと。時代の潮流には目もくれず、ディープでアグレッシヴなテクノ・サウンドが展開されていることも驚きだった。さらには清々しい解放感も漂わせるなど、声を大にして〝快作!〟と叫びたくなる内容で、筆者も久々にふたりのサウンドを聴いて興奮した。『Further』以降のふたりは、映画『Hanna』(2011)のスコアを手掛け、トムはエロール・アルカン主宰のPhantasy Sound(ファンタシー・サウンド)からシングル「Through Me」(2013)を発表したりと(このシングル本当に最高だから聴いてほしい!)、面白い活動をいくつもおこなっている。


 そうした活動を経て作られた最新アルバム、それが本作『Born In The Echoes』だ。まず興味深いのは、Qティップ、アリ・ラヴ、セイント・ヴィンセント、ケイト・ル・ボン、ベックといったゲスト・ヴォーカル陣だが、正直、彼ら彼女らが参加した曲はどうでもいい。そのほとんどが毒にも薬にもならない〝まあまあレヴェル〟のポップ・ソングであり、そのなかでもシンプルな4つ打ちに合わせてベックがアンニュイな歌声を披露する「Wide Open」は、本作のシャープでストイックな雰囲気に水を差している。シングルとしての発表ならアリだと思うが、そもそも曲自体が安直で聴きとおすのも困難な出来。シングル・リリースされたところで、筆者の口からは辛辣な言葉しか出てこないだろう。


 だが、そうした欠点以上に際立つ魅力があるのも確かで、たとえば6曲目の「Just Bang」。ヴォイス・サンプルとラフな質感のビートが際立つミニマルな音像を特徴としており、さらにTB-303風のアシッディーな音が飛びだしてくることも手伝って、『Exit Planet Dust』期のサウンド・プロダクションを彷彿させるのだ。もちろん、そのプロダクションをまんま再現しているわけではなく、これまでの長い活動で培ってきたスキルが上乗せされている。それは、自ら『Exit Planet Dust』期の音を更新した曲、あるいは風変わりなセルフ・カヴァーとも言いたくなる内容。『Exit Planet Dust』自体は、いま聴くと少々古臭さが否めないアルバムだ。しかし、そのような作品に通じるサウンドを本作で鳴らしたのは、『Further』を作りあげたことで、〝好きな音を素直に鳴らせばいい〟という自信がふたりのなかに芽生えたからではないか? 本音を言えば、その自信をもっと前面に出してもよかったと思うが、そんな自信の一端に触れるために本作を聴くというのも一興だ。ただ、そうした自信の一端を垣間見せるのが、「I'll See You There」「Just Bang」「Reflextion」など、すべてインストの曲というのも複雑な気分だが...。


 それでも、『Further』から地続きの解放感とアグレッシヴさが健在なのは嬉しいかぎりで、『Further』とそれ以前のサウンドを接合しようと試みた意欲にも惹かれてしまう。とはいえ、本作が〝ただの秀作〟となるのか、それとも〝偉大なる失敗作〟となるのかは、ふたりの〝次〟にかかっている。



(近藤真弥)

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Druid Cloak『Lore- Book Two』.jpg

 よく、〝何でもあり〟という言葉を聞く。音楽レヴューにおいては、いろんなジャンルを取りいれた音楽に使われる言葉だが、実際聴いてみると、言うほど〝何でもあり〟ではないことのほうが多い。確かに今は、あらゆる時代の音楽にアクセスできる。そのなかで、さまざまな音楽を聴いている人も少なくないだろう。


 だが、それを音にして表現するとなれば、そう簡単にはいかない。特に、物語性が求められがちなアルバムというフォーマットでは、〝何でもあり〟というコンセプトのもと好き勝手やっても、散漫で聴くに耐えない作品になってしまうことも多い。だからこそ、こうした散漫さを上手く回避し、ライト・リスナーから玄人まで誰もが楽しめる〝広く深い〟作品は、それだけで興味深いものとなる。最近リリースされた作品のなかでは、シャミール『Ratchet』ハドソン・モホーク『Lantern』などがそれにあたるが、この2作品がすごいのは、〝広く深い〟ことがこれからのポップ・ミュージックにおける前提としてしまいかねないほどの影響力を持っていること。たとえばハドソン・モホークは、ファースト・アルバム『Butter』(2009)でも〝広く深い〟音楽を響かせたが、続く『Lantern』では、その〝広く深い〟音楽を深化という形で、さらに強度を上げることに成功してしまった(アントニー・ヘガティーとミゲルをひとつの作品内で共生させられる者など、他に誰がいるだろう?)。この成功が示すのは、『Butter』が見せてくれた〝広く深い〟ヴィジョンは偶然の産物ではなく、秀逸な感性とそれを表現できるある程度の技術さえあれば、再現可能だということ。


 このような作品が生まれ、また、そんな作品の感性と共鳴する〝広く深い〟作品が他にも多く作られている2015年は、のちに振りかえったときに、ポップ・ミュージックの聴き方がまたひとつ拡張された重要な年として認識されるかもしれない。作り手としては、受け手を満足させるためのハードルが上がるのだから、ますます大変になるだろう。しかし、受け手にとってはますます面白くなるだけ。無責任を承知で言えば、受け手にあたる筆者としては、その高いハードルを作り手がどう乗りこえていくのか楽しみだ。


 と、これまた〝長すぎる!〟と怒られそうな文量を前フリに割いてしまったが、ドルイド・クロークのセカンド・アルバムとなる本作『Lore : Book Two』も、〝広く深い〟作品となっているので、どうしても語っておきたかった。どうかご容赦を。


 ドルイド・クロークは、アメリカを拠点に活動するアーティスト。ライアン・ヘムズワース主宰のSecret Songs(シークレット・ソングス)からリリースしたシングル、「The Battlecry」がキッカケで注目を浴び、レーベルApothecary Compositions(アポセカリー・コンポジションズ)のオーナーとしても、興味深いビートが詰まった作品をいくつも取りあつかっている。


 そんなドルイドの音楽は、ヒップホップとベース・ミュージックを基調としながらも、そこにさまざまな要素を溶けこませている。そうした特徴は本作でも健在だが、ヘヴィーでスロウなグルーヴを強調している点はこれまで見られなかったものだ。さらに、ひとつひとつの音がラフでざらついていることもふまえると、『Luxury Problems』以降のアンディー・ストット、あるいはハビッツ・オブ・ヘイトとしても活躍するハッパなどに通じる、インダストリアル・テクノとベース・ミュージックが溶解したゴシックなサウンドとも言える。


 また、本作にはゲームの影響もうかがえる。それは1曲目「Throne Wars」や3曲目「Obsidia Chroma」で響きわたるシンセなどに見いだせるし、そもそも1曲目の曲名自体、世界的に有名なオンライン・ゲームと同名である。おまけにドルイド・クロークの〝ドルイド〟は、ゲームや映画の題材としてもよく用いられるケルト神話が元ネタ(ちなみにドルイドのツイッターアイコンは、天野喜孝によるファイナルファンタジー3のイラストだ)。このように本作は、音楽以外の文化からも強い影響を受けている。


 こうした音楽以外の要素も目立つ雑多な表現は、良くも悪くも、ポップ・ミュージックがその他多くの娯楽と並列になり、もっと言えばポップ・ミュージックに〝だけ〟強い興味を向ける人が少なくなった現在だからこそ生まれたものだといえる。だが面白いのは、そうした表現がポップ・ミュージックの進化と拡張を促しているということ。そして、この〝ポップ・ミュージックの進化と拡張〟という点において本作は、『Lantern』に匹敵する。幅広い層に届く訴求力では少々劣ってしまうが。



(近藤真弥)

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沖ちづる「景色」.jpg

 女性シンガーソングライター、沖ちづるのことを知ったのは、去年の秋ごろに観たライヴだった。2014年春から本格的に弾き語りでのライヴ活動を始めたという知識以外は何も得ずに観たそれは、拙さを残すパフォーマンスではあったが、どこか孤高の雰囲気を漂わせるものでもあった。また、撫でるようにギターを弾く姿も印象的で、しかもその姿が家の前をよく通る野良猫の仕草みたいだったから、思わず笑ってしまった。そのような姿に魅せられ、会場で売られていたミニ・アルバム「はなれてごらん」(ライヴ会場限定販売の作品。現在は販売終了)も購入。それからは、不思議と彼女の歌声が頭から離れなくなり、ふと気づけば「はなれてごらん」を再生してしまうという日々が続いた。


 そうした日々を送っているうちに、彼女はファースト・シングル「光」をリリース。このシングルのジャケットでは、どこか遠くを見つめる彼女の横顔を拝めるが、たくさんの作品が棚に並ぶCDショップのなかでも、そのジャケットは一際目立っていた。というわけで購入したのだが、表題曲に登場する次の一節を聴いて、筆者は沖ちづるの才気にあらためて感嘆した。


 〈君の声を 私の声を 醜くていい 醜く歩け 信じろ自分を 信じろ声を わたしが君を見つけるから〉(「光」)


 この曲、先に書いた「はなれてごらん」にも収録されているが、何度聴いても色褪せない名曲だと思う。繊細ながらも芯が通った力強さがある。その力強さは、言うなれば表現者としての覚悟なのかもしれない。


 そんな感嘆をもたらしてくれたファースト・シングルから約4ヶ月、彼女は新たな作品を作りあげた。それは、「景色」という名がつけられたミニ・アルバム。本作は全5曲で約14分という短い作品だが、そこに込められた情緒は色鮮やか。


 まず、1曲目の「景色」。彼女は基本的に身のまわりのことを歌にしているが、そのうえで言ってしまえば、この曲には3.11以降の日本を覆う、〝絶対的なものなどありはしない〟という空気の影響が少なからずあると思う。特に、〈このさきまつのは だれもいないかもしれない このさきみるのは うつくしい海ではない〉という一節を聴くと、津波で流されてしまったさまざまな存在に想いを馳せてしまう。また、全体的に諦念を漂わせるのも興味深いが、そうした曲に「景色」と名付ける感性に、他の人には見えづらい側面が見えてしまう鋭さと、それゆえ生じる孤独感が滲んでいるところも目を引いてしまう。このような諦念や孤独感はもしかすると、無鉄砲に夢や理想を追い求めることが難しくなった日本の世情も関係していると思えるが、どうだろう? いずれにしてもこの曲は、〝今〟に通じる同時代性をまとうと同時に、その同時代性を抜きにしても、多くの人の心に響く普遍的なナニカを持った名曲であるのは確かだ。


 一方で彼女は本作において、〈やさしいきもち ことばにできるでしょう〉(「わるぐちなんて」)とも歌ってみせたりと、諦念や孤独感だけを吐きだしているわけではない。さらに「街の灯かり」では、〈いつか終わるから嘆くこともないよ いつか失うから捨てることもない〉と言葉を紡いでいる。なんだか、どうせ死ぬからこそ好きなことをやっていこうという、彼女なりの励ましのようにも聞こえる。この「街の灯かり」も、本作に収められた曲のなかでは群を抜く名曲。そして筆者からすると、〈この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ〉という名フレーズが飛びだす、ザ・ストリーツの「Empty Cans」に通じる価値観を感じさせる曲でもある。


 本作での彼女は、こうあってほしいという理想を掲げることもなければ、ああなりたいという夢を熱く語ることもない。そのかわり彼女は、本作に触れた人を自分なりの夢や理想へ向かわせるささやかな希望を見せてくれる。そしてその希望は、誰にでもわかる言葉で紡がれた、彼女にしか歌えない歌に乗って、私たちに届けられる。こういう歌を、もっともっと聴きたい。



(近藤真弥)

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remi.jpg

 思春期の少年と妙齢の女性が同居する深谷彩の歌唱を軸に、ギター、ベース、ドラム、キーボードの基本編成にくわえ、サックス、フルート、フィドル、チェロなどのやわらかな響きが要所を彩る。名古屋のチェンバー・ポップ・ユニット、レミ街が奏でるのは、世界各地のフォーク・ミュージックや祭囃子といった素材を、『宇宙 日本 世田谷』期のフィッシュマンズに通じるダブや、フライング・ロータスなどのビート・ミュージックの感覚で再構成したような音楽だ。


 レミ街のコンポーザー/キーボード奏者である荒木正比呂の原点は、幼い頃、兄にもらったカセット・テープに録音されていた『風の谷のナウシカ サウンドトラック はるかな地へ・・・』とその関連作だというが、久石譲がミニマルな現代音楽を志向していたように、レミ街の新作も最小限の打ち込みから出発してダンサブルな生演奏をくわえていく過程を経ているようだ。


 そして、これは一笑にふされるかもしれないが、本作を聴いて私の脳裏によぎったのは、各地の伝統音楽を保存するノアの方舟、その船上から世界の有り様について演奏するイメージだった。たとえば、アルバムのラストを飾る、「よろこびの歌」と題されたバラードの〈白い君の心が浸水しそうなほどに〉という歌詞は大洪水後の世界を想起させるし、7曲目の「Country Calling」という、草原を旅するジプシーの様子が目に浮かぶアイリッシュ・トラッド風ナンバーが、水泡とともに届くようなダビーな音響で海の中をイメージさせる別ヴァージョン「Country Calling Recalling」として13曲目で再演されることも、その思いを強めてしまう。聴く者によっては、この世界の現状、そのなかで生きる我々ひとりひとりの罪を暴かれるような気持ちになるかもしれない。


 その一方で、鳥の鳴き声のようなサンプリングにストリングスの響きが重なり、涼しげな森の中にたたずんでいるような気持ちにさせる「Safety touch」など、聴く者を優しく包み込むような曲も配置されている。そして、リード・チューンである1曲目「CATCH」では、シンプルなギター・リフが輪廻のように繰りかえすなか、松本隆作詞の『風の谷のナウシカ』テーマ・ソングと同じ〈やさしくつかまえて〉という一節が歌われ、一瞬のブレイクが訪れる。レミ街は、無駄な関わりをオミットしたうえで残った大切なナニカを表現している。



森豊和)

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NATE RUESS.jpg

 ご存知、Fun.(※クッキーシーンの表記ルールに従い以下、ファン。の表記で統一させていただきます:笑)のヴォーカリスト、ネイト・ルイスのソロ・アルバムがついに登場! まず、このタイトル『Grand Romantic』にグッときた。〝Grand〟という言葉が持つ響きと意味が良い。「そびえ立つ」とか「壮大な」って感じ。そして、そんな形容詞を受けとめるのが〝Romantic〟。つまり、「壮大なロマンティスト」ってこと。かつてのザ・フォーマットからファン。での世界的な大成功まで、活動のスケールと知名度がどんなに大きくなっても、芯の部分では変わらない彼の音楽性にはぴったりだと思う。とびきりポップだけど、胸が締めつけられるような切なさも残す歌の世界。そんなイメージは、色とりどりの薔薇や風船、不気味なマスク、骸骨に囲まれて物憂げな横顔を見せるジャケットにも見事に表現されている。


 世界を見渡してみても、日本の空気を肌で感じ取ってみても、〝ロマンティック〟とはほど遠い。過去への憧憬だとか、未来への展望だとか...。その両方を明るく語れる人を僕は知らない。皮肉でも何でもなく、それが「今、ここ」だ。


 そんな「今、ここ」にありながら、初めてのソロ・アルバムに『Grand Romantic』と名付けることは、ネイト・ルイスの固い決意表明のようだ。現実逃避の絵空事ではなく、大きさや重さ、手触りがしっかりと実感できるほどの〝ロマンティック〟。その想像力とその先にあるものこそが、今いちばん必要なのだということ。


 活動中のバンドのメンバーがソロ作品をリリースする場合、バンドでの音楽性とは一線を画した表現を追求することが多い。ミニマル・テクノをベースにDJ的な視点/手法を取り入れるトム・ヨーク(アトムス・フォー・ピース)とか、ストロークスよりも生々しくダーティーなジュリアン・カサブランカス(+ザ・ヴォイズ)とか。そして、ファン。からもギタリストのジャック・アントノフが一足先にソロ活動をスタートさせている。パワー・ポップなバンドっぽさを感じさせるブリーチャーズ(祝!サマソニ出演)名義での活動からテイラー・スイフト(!)の楽曲プロデュースまで、かなり順調な様子。僕たちにとっては、バンドとの距離感から生まれる意外性も楽しみのひとつだ。


 けれども、ネイト・ルイスの場合はそれほどファン。とはかけ離れていない気がする。一度聴いたらすぐに歌えそうなメロディ、「これは絶対にライヴで盛り上がるね!」と胸が高まるドラマティックな展開、そして何よりも、ありったけの力を込めたあの大きな歌声。でも、それが不満かと言えば、まったくそうじゃないのがこのアルバムの素敵なところ。ファン。の延長線上にありながら、よりソングライティングの質を極めてゆく感じ。むしろ、ファン。で到達したコマーシャリズムをも真っ向から受け止めようとしている姿勢が清々しい。実験的/冒険的の名を借りたマニアックさなんて、やっぱり〝ロマンティック〟じゃないのだ。タイトル・ソング「Grand Romantic」を聖歌隊のコーラス風にアレンジした静謐なイントロに導かれて、アルバムは幕を開ける。


〈Step Right Up For The Grand Romantic / Always Tragic Broken Bones〉


 どうやらこの壮大なロマンティストは、悲劇的に傷ついているらしい。誰かに助けを求めるほどに。そんな厳かな雰囲気も束の間、不意打ちを喰らわすようにいつもどおりのネイトの陽気な歌声が飛びこんでくる。やっぱり(笑)クイーンを思わせるスタジアム級のアンセム、キラキラしたダンス・チューン、ピアノとストリングスが繊細なヴェールを織りなすバラードなど、バンドの課外活動なんかじゃないことが明確な本気の楽曲が連発される。レッチリのジョシュ・クリングホッファー(レッチリ加入前にザ・フォーマットのセカンド&ラスト・アルバム『Dog Problems』(2006)にも参加。ふたりともブレイクしたね!)をはじめ、ウィルコのジェフ・トゥイーディー、ロジャー・ジョセフ・マニング Jr.らがコラボレーションに名を連ねる。そのなかでもやっぱりいちばんワクワクさせられたのは、裏ジャケットに〝FEAT. BECK〟のクレジットを発見したとき。ベックと共作/共演した「What The World Is Coming To」は、間違いなくこのアルバムを特別なものにしている。そして、個人的にはここ数年で耳にしたなかでもトップ・クラスの名曲だと思う。


 ベックといえば、今年2月のグラミーで最優秀アルバム賞を受賞した『Morning Phase』(2014)の陰に隠れてしまった気がするけれど、その少し前にリリースされた『Song Reader』(2012)も素晴らしかった。『Song Reader』自体は、もともと楽譜として発売された変則的なアルバム。それを様々なミュージシャン/バンドがレコーディングして、ようやく「聴くことのできる」アルバムになったもの、という経緯が面倒くさい(笑)。そこに登場するメンツがまた豪華で...って話はさておき、ネイトは『Song Reader』にファン。として参加している。そこに収録されている子守唄のようなワルツ「Plaese Leave A Light On When You Go」を聴いたときには、ベックの曲作りの巧みさとファン。との相性の良さに驚いた。まるでファン。のオリジナルのように聴こえたから。


 そして今度はネイトが恩返しをするように、ベックを招いての共演だ。「What The World Is Coming To」は、何の変哲もないヴァース/ブリッジ/コーラスという構成の曲だけど、そのシンプルさゆえに曲のクオリティーが際立っている。ベックの『Sea Change』(2002)や『Morning Phase』にも通じるアコースティックな響きが心地良い。ソングライティング、そして歌本来の力強さ。それこそネイト・ルイスがこのアルバムに求めていたことなのだろう。そしてもう一度、「Grand Romantic」に耳を傾けてみる。


〈I Don't Wanna Live With The Grand Romantic / Grand Romantic Anymore〉


 あれれ、意外とあっさり〝壮大なロマンティスト〟は否定されている。それがあきらめなのか、厳しい現実への最初の一歩なのかは、このアルバムを聴く人それぞれに委ねられているのだと思う。そしてアルバムはビートルズ/ポール・マッカートニーっぽいメロディーを持つ「Brightside」で静かに幕を閉じる(国内盤はボーナス・トラック1曲追加)。喜びと挫折、出会いと別れに彩られた『Grand Romantic』。ひょっとすると、それは「今、ここ」そのものなのかもしれない。最後には、そう気づかされる感動の1枚。フジロック2日目、ソロでのパフォーマンスにも期待しよう!



(犬飼一郎)

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never young beach.jpg

 「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」とは、作家の山崎ナオコーラだったか。確かに彼女の小説は、どれもが平易な言葉で描かれている。題材も日常的なものがほとんどで、たとえば松山ケンイチと永作博美主演で映画化された『人のセックスを笑うな』(2004)は、1組のカップルが別れるまでの様を描いただけの作品である。しかし彼女の作品がすごいのは、そうした平凡と思われる日々にも興味深い驚きはたくさんあり、その驚きを見つけ楽しむためのコツが隠されているところだ。気にとめることが少ない雑談や、街を歩いているときに漂う匂いなど、コツはあらゆる場所にあることを教えてくれる。そんな彼女の作品が、筆者は大好きだ。


 実を言うと、5人組バンドnever young beach(ネヴァー・ヤング・ビーチ)のファースト・アルバム『YASHINOKI HOUSE』を初めて聴いたとき、山崎ナオコーラの作品が脳裏によぎった。『若者たち』(1995)期のサニーデイ・サービスを彷彿させる、たおやかで心地よいサウンドに乗せて紡がれる言葉が、驚くほど平易だったからだ。それでいて、文学的な詩情もある。〈伸びた髪が 風に吹かれてなんだかちょっと邪魔に感じたけど 金もないし 束ねて忘れる〉(「どうでもいいけど」)という一節なんて、わざわざ歌にするほどのことではない一幕とも思えるが、こうした言葉がいくつも連なると、色鮮やかな景色が目の前に現れるのだからなんとも不思議。このような不思議は、『AFTER HOURS』以降のシャムキャッツに通じるものを感じさせるが、シャムキャッツが「象さん」(2014)という曲で3.11以降の状況を見つめたうえで〝現実〟を歌ったのに対し、never young beachの言葉はどこか現実味がない。〝現実〟というよりは、他者への興味が薄い〝自分にとっての現実〟を歌っているように聞こえ、いわゆる逃避願望が色濃いのだ。これは、2000年代後半から数年間隆盛を誇ったチルウェイヴに見られた逃避願望と共振するもので、そういった意味で『YASHINOKI HOUSE』は、2010年代に生まれるべくして生まれた、モダンなポップ・ミュージックと言える。


 だが、どこか現実味がない本作を聴いていると、一抹の不安が生じてしまうのも正直なところ。最近、本作を聴きながら外でのんびりしていると、安倍政権の安保法制に反対するデモが目の前で始まるという場面に出くわしたのだが、このとき、目の前の緊張感あふれる現実と、本作の逃避願望が驚くほど断絶していることに、小さくない違和感を抱いてしまった。その瞬間、本作がもたらしてくれた恍惚感は一気に冷め、筆者はiPodの停止ボタンを押し、イヤホンを外した。


 これは本作が悪いというわけではなく、筆者が本作の楽しみ方を心得ていないせいだろう。しかし、そのうえで言わせてもらえれば、本作の逃避願望に心の底からコミットするのは難しいし、もっと言えば、逃避願望にコミットしている場合か? という気持ちもある。言われなくてもわかるようなことばかり撒き散らす説教くさい歌は嫌いだし、そんな歌にみんなが感動して涙するという画一的な光景も苦手だ。ましてやその感動を、〝さあ泣いてください〟とばかりに押しつけてくるヤツなんて...ファック。


 とはいえ、否応なしにハードな現実と向きあわざるをえない世情において、本作の逃避願望はあまりにもナイーヴすぎるし、夢がなさすぎる。ザ・ストリーツ『A Grand Don't Come for Free』(2004)や、ケイト・テンペスト『Everybody Down』(2014)、あるいはKOHH(コウ)『MONOCHROME』(2014)のように、ハードな現実からの逃避願望を描きつつも、そのハードな現実と向きあわなければいけないということも描いたような、表現としての味わい深さと強度も見られない。それでも本作と心中したいなら、すればいい。ただ、いま必要なのは〝逃避〟の表現ではなく、〝変化〟を求める理想と夢が込められた表現ではないか? 



(近藤真弥)

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FLORIDA フロリダ.jpg

 元BiS(ビス)のテンテンコと滝沢朋恵によるユニット、フロリダ。彼女たちのことを知ったのは、去年11月に桜台POOLで開催されたイヴェント、Tokyo Zinester Gathering 2014(トーキョー・ジンスタ・ギャザリング)にて。このイヴェントに出演したときの彼女たちは、全身黒ずくめという出でたちで、どこかゴシックな雰囲気を漂わせており、同時に得たいの知れない不気味なオーラをまとっていた。しかし音のほうは、誘眠性が高いトリッピーなもので、そこまでダークな印象を受けなかった。ジャンルでいえばインダストリアルやミニマル・シンセということになるのだろうが、色でいえば〝黒〟よりも〝白〟を連想させる音像は、キャッチーですらあった。こうしたヴィジュアルとサウンドのギャップに魅せられた筆者は、「これまた面白いユニットに出逢ってしまった」と、心躍らせた。


 そんな彼女たちによるファースト・ミニ・アルバムが、本作「FLORIDA」である。動物園でフィールド・レコーディングした音も使用して作られた本作は、端的にいえばポスト・パンクだ。聴き手を酩酊にいざなう反復ビート、シンプルでドライなシンセ・サウンド、そこにポエトリー・リーディングに近いヴォーカルが乗るというスタイルは、スロッビング・グリッスルを想起させる。とはいえ、『Chill Out』(1990)期のKLFに通じる静謐でたおやかなシンセ・サウンドが映える「DOLINE」などは、やはり〝黒〟というより〝白〟をイメージしてしまう(そういえば、KLFは1991年に『The White Room』というアルバムを出していたか...)。


 また、彼女たちが意図したのかは不明だが、本作のサウンドは、ヘレナ・ハウフやブランク・マスなどに代表される、ここ1~2年で盛んになってきたEBM再解釈の潮流と共振するものだ(ブランク・マスはニュー・ビートの要素も強いが)。それこそ、Modern Love(モダン・ラヴ)やBlackest Ever Black(ブラッケスト・エヴァー・ブラック)が中心となったインダストリアル再評価のブーム以降といえる音。


 ただ、今いくつか挙げた例と彼女たちでは、明らかに異なる点がある。それは、彼女たちのサウンドがキュートだということ。こうした側面は、彼女たちの可愛らしい声質によってもたらされたものだと思うが、この可愛らしい声質に、やりたい放題の歪でディープなサウンドが交わると、キャッチーなポップ・ソングになってしまうという魔法が発動するのだからなんとも摩訶不思議。この魔法が、本作を魅力的な作品にしているのは間違いない。




(近藤真弥)

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ALIAS KID_REVOLT TO REVOLT.jpg

 少し前からインターネット上でよく名前を見かけるようになった。最近であれば、今年のワイト島フェスティヴァル(ぼく的にはレディングやグラストより全然古い、それこそジミ・ヘンとかが出ていたという印象しかなかったのだが、今年のラインアップは結構よさそうだった)に出ただの、ブラック・グレイプのツアー(ショーン・ライダーは今年前半ハッピー・マンデイズとしてのそれも、このバンドとしてのそれもやっている。なんて働き者なんだ!)のフロント・アクトを務めただの...。


 マンチェスターで結成された、そんな現状5、6人組バンドによるファースト・アルバム。わざわざ和訳しないけれど、タイトルも最高にかっこいい。大体バンド名がいいよね。偽名とか通称という本来の意味以上に、最近は別のニュアンスで使われることが多いってことは、5~10年以上パソコンを使いたおしてきたひとには(これまた)説明不要だろうが、一応解説しておこう。エイリアスとは、アプリケーションやファイルにダイレクトで飛べる、いわゆるアイコンではなく、あいだにもうひとつかませた感じでコンピューター上に表示される、二次アイコンとでも言うべき存在。


 そんな名前でエレクトロニック・ポップをやっていたら、まあ普通、おもしろいとは思わなかった気もするのだが、彼らの場合、本格的ロックンロール。ポップかつアンセミックなメロディーを、ディストーション・ギターがサポートするタイプの音楽。ただ、このアルバムを聴いて(バント名ともあわせて)興味深かったのは「実写映像作品やライヴを体験することを三次元体験と呼び、アニメ映像作品を観ることを二次元的体験と呼ぶのであれば、後者に近い」と思える、サウンドのまろやかさ。そう、なにも「荒れくるう」ばかりがロックンロールじゃない。そして数ヶ月前にネットで見て驚いたのは、ブライアン・エプスタインのもとでプロモーションを学び、60年代にローリング・ストーンズやスモール・フェイセスも手がけた、まさに生きる伝説的なレコード・プロデューサー/マネジャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムが彼らのことを褒めていた。これは、さすがのぼくも本物の証...と感じてしまう。


 これで結成わずか6ヶ月後というステップの軽やかさにも驚かされる『Revolt To Revolt』は、チェリー・レッド傘下に一昨年設立された、359ミュージックからのリリース。キュレーターをアラン・マッギーが務めるレーベルだけに、そしてバンド名も考慮するのであれば、こんな言い方も許されるだろう。90年代の初期オアシスとブラーの「いいところ(筆者の好きなところ)」を融合させたみたいな感じ?


 アランの名前が出てきたところで、そちら系のファンには応えられないであろう情報も、最後にお伝えしておこう。レコーディングはグラスゴーにて、元ティーンエイジ・ファンクラブのポール・クインおよびグラスヴェガスの教会録音盤「A Snowflake Fell (And It Felt Like a Kiss)」も手がけた重鎮ケヴィン・バーレイとともにおこなわれた。一聴の価値、おおいにあり!



(伊藤英嗣)

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Hudson Mohawke『Lantern』.jpg

 ハドソン・モホークは、音楽を〝古い/新しい〟という二項対立から解放してみせた。それは、彼のデビュー・アルバム『Butter』(2009)を聴けばわかるはずだ。このアルバムで彼は、ヒップホップを基調に、プリンスに通じるセクシーなファンク、サイボトロンを代表とする80年代エレクトロなど、さまざまな音楽を血肉としたうえで、〝ハドソン・モホークのグルーヴ〟を生みだした。ただ過去の音楽を焼きなおしただけでもなく、最先端とされる音楽をなぞっただけでもない、まさに唯一無二のポップ・ミュージックが『Butter』にはたくさん収められていた。ゆえにこのアルバムは、いつ聴いても古びた印象とは無縁である。そんな『Butter』は、面白いポップ・ミュージックを作ろうと試みる者たちにとって、重要なヒントでありつづける。


 そのような作品を残した彼が完成させたセカンド・アルバム、それが本作『Lantern』だ。結論から言うと本作は、『Butter』を優に超える傑作であり、2010年代を代表する1枚だということ。やってることは、『Butter』の頃と比べてもたいして変わっていない。相も変わらず、音楽を〝古い/新しい〟という概念で捉えることなく、あらゆる音楽を自由奔放に血肉としている。


 では、本作のどこが『Butter』を優に超えているかというと、先に書いた自由奔放さが深化している点につきる。『Butter』をリリース以降、ルニスと結成したユニットTNGHT(トゥナイト)、さらにはカニエ・ウェスト主宰のGOOD Music(グッド・ミュージック)とプロデューサー契約を果たし、ドレイク、カニエ・ウェスト、プッシャーTといったアーティストのプロデュース業など、多岐にわたる活動を経ているからか、本作には壮大なスケールがある。この点は前作になかったもので、こうなったのはおそらく、本作に至るまでの活動で得た自信とスキルをすべてつぎ込んだからだと思う。その結果として、RLグライムを連想させるド派手なトラップの要素が色濃く表れている。


 こうした側面は、いわゆる〝売れ線〟と揶揄されるのかもしれない。だが、それのどこか悪いというのか? むしろ、『Butter』で見せてくれた自由奔放さと捻りが効いたビートの刻み方を貫きつつ、大型フェスでも堂々と鳴り響くトラックを作りあげたことに、盛大な拍手を送るべきだろう。少なくとも、〝アンダーグラウンド〟だの〝インディー〟だのというレッテルを言い訳にした粗悪な音楽よりは数段マシだ。それに、ゲストのアントニー・ヘガティーやミゲルといった異才をひとつのアルバムに溶けこませるセンスや、ベッドルームでひとり音楽に浸る者も惹きつけられるメロディアスな側面も健在なのだ。つまりハドソン・モホークは、元来の魅力を深化させつつ、その深化した魅力をより多くの人に届けるための進化も実現させたということ。


 そうした本作は、ハドソン・モホークがあらためて、不可能だと思われがちな〝広く深く〟は可能であると証明した傑作として、色褪せることのない輝きを放ちつづけるだろう。



(近藤真弥)

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白痴 photo.jpg

 障害を指す用語は、公共電波において自主規制されることがある。重度の知的障害を指す白痴もその対象だが、大胆にもそれをバンド名に掲げる佐賀出身の3人組がいる。白痴は、女性ドラマー村里杏、ギターのはらひろ、ベースのまるの全員が交互にヴォーカルをとり、学校の終業を告げるチャイムの音をはじめとしたおもちゃのようなエフェクトと、誰もが知る童謡や70年代の歌謡曲のメロディーをごちゃまぜにぶちこんだジャンク・ポップを展開する。あふりらんぽやDODDODO(ドッドド)、Limited express(has gone?)(リミテッド・エクスプレス・ハズ・ゴーン)といった、関西ゼロ世代やその周辺と共振する感性だ。


 そんな白痴が、ファースト・ミニ・アルバムにあたる本作「チンドンDINGDONG! ~みのくるいマーチ~」を発表した。同じ九州出身のMO'SOME TONEBENDER(モーサム・トーンベンダー)「未来は今」を連想させるベース・リフからはじまる3曲目「食欲」、キャンディーズ「春一番」のパンク・オマージュのような「ウグイス」と続き、運動会の行進曲としても有名な「ボギー大佐」の替え歌の一節、〈サル、ゴリラ、チンパンジー〉を村里杏が元気よく叫んではじまる「人間」は、世に流通するパンク・ソングの大半は先人の猿真似に過ぎないと断言するかのようだ。他にも、ジャズのような展開からハード・ロックへなだれこみ、最後は水の流れる効果音で締める「おもらし」など、奇々怪々な曲が並ぶ。Number girl(ナンバーガール)を好むバンドマンからBABYMETAL(ベビーメタル)のファンまで、幅広い層にアピールするかもしれない。


 ところで私は、ドラマー村里杏のソロ・ライヴを観たことがある。その日の彼女はドラムではなく、キーボードとサンプラーを駆使して歌い踊っていた。特に印象的だったのは、曲間の語りで彼女が「神様、願い事がもし叶うなら、私はサファリパークに行きたい!」と唐突に叫んだことだ。深い意味はないアドリブだったのかもしれないが、前後の発言の文脈から、「馴染めないこの社会を捨てて荒野を目指そう」という意思表示に聞こえてしまった。こういった先が読めないパフォーマンスは、戸川純らによるゲルニカや、最近フランツ・フェルディナンドとFFS名義で共作したアメリカのバンド、スパークスなどを想起させた。


 そのスパークスに影響を受けたというクイーンのフレディ・マーキュリーは、ペルシャ系インド人の血を引き、当時イギリス領であったザンジバルから戦火を逃れイングランドに移り住んだ過去を持つ。白人のコミュニティーからも黒人のコミュニティーからも疎外され、帰属する場所がないために、彼は伝統的なオペラの定型を破壊した「Bohemian Rhapsody」を作ったのかもしれない。


 私は、白痴の音楽からも共通する精神性を感じる。古今東西の歌の形式を破壊し再構築した本作は、彼らなりの〝流れ者の狂詩曲〟なのだろう。



(森豊和)

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Nocturnal Sunshine『Nocturnal Sunshine』.jpg

 2008年にデビュー・シングル「Sick Panda」をリリースしたマヤ・ジェーン・コールズ。彼女がダンス・ミュージック・シーンで大きく飛躍しはじめたのは、「No Sinpathy」というフロア・ヒットを飛ばした2012年ごろだったか。これ以降の彼女は、初のフルレングス・アルバム『Comfort』(2013)を発表し、ロンドンの有名クラブFabric(ファブリック)のDJミックス・シリーズ『Fabric』にも登場するなど、まさに飛ぶ鳥を落とす勢い。オリジナル作品では、音の抜き差しが絶妙な渋いディープ・ハウスを展開しているが、そうした抜き差しの巧さはDJプレイも同様。フロアの雰囲気を瞬時に把握し、繊細なEQ操作で音を変化させていく。そのおかげで、〝いつ曲が切り替わった!〟と驚くこともしばしば。セオ・パリッシュのようなラフで激情的なプレイも大好きだが(実際、セオがエレクトラグライド2013で披露してくれたDJプレイを浴びながら、筆者は泣いてしまった)、知性的かつ抑制的な彼女のDJプレイも、心を躍らせてくれる。そんな彼女のプレイが生みだす程よい昂揚感をまとったグルーヴは、クール・アンド・ビューティフル。凛とした鋭いカッコよさがある。


 その凛とした鋭いカッコよさは、彼女がノクターナル・サンシャイン名義で発表したアルバム『Nocturnal Sunshine』でも健在。とはいえ本作は、彼女お得意のディープ・ハウスではなく、ダブステップを基調にした音楽性が特徴だ。しかも面白いことに、2000年代半ばごろのダブステップ。具体的に例を挙げると、ダブステップという言葉が出回りはじめたころに発表されたコンピレーション『Grime 2』(2004)、ダブステップをメインストリームに引きあげたグループ、マグネティック・マンの一員でもあるベンガの『Diary Of An Afro Warrior』(2008)、デトロイト・テクノとベーシック・チャンネルをダブステップに接続してみせた、2562『Aerial』(2008)といったあたりの音。このように本作は、これまでダブステップ(そしてベース・ミュージック)を熱心に追いつづけてきた者からすると、懐かしみを抱かせる内容だ。


 また、もともとダークでひんやりとした質感が目立つサウンドを特徴とする彼女だが、この側面がノクターナル・サンシャイン名義ではより強調されていることも特筆しておきたい。だが、そのダークさは重苦しいものではなく、毒々しさは薄い。ゆえに本作は聴きやすさがあり、多様化が進む現在のベース・ミュージックにいざなう招待状として、あなたに届くはずだ。


(近藤真弥)




【編集部注】『Nocturnal Sunshine』の国内盤は、7月22日にHostessから発売予定です。

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OGRE YOU ASSHOLE - workshop.jpg

 『Homely』(2011)、『100年後』(2012)、『ペーパークラフト』(2014)と、ここ最近のOGRE YOU ASSHOLE(オウガ・ユー・アスホール。以下 : オウガ)のアルバムは、聴き手の想像力に訴求するコンセプチュアルな姿勢を強く打ちだしていた。その姿勢は、筆者からすると現実世界と深い繋がりを感じさせるもので、特に『ペーパークラフト』収録の「見えないルール」などは、支配されているという自覚を抱かせないまま社会にとって都合の良い行動をするよう仕向ける、いわゆる〝環境管理型権力〟に侵食されつつある世情の不気味さを表現していた。こうした現実世界に対する批評性は、『Homely』以降のオウガを理解するうえでは見逃せない側面であり、筆者を含めた多くの受け手も、その側面を重点的に語ってきたと思う。


 しかし、オウガにとって初のライヴ・アルバムとなる本作『Workshop』は、その側面にばかり注目しすぎたのでは? と受け手に自問させる作品だ。アルバムでは、受け手の深読みをいざなうコンセプトや言葉で武装するオウガだが、ライヴになると、音の気持ちよさを追求する快楽主義的な側面も顔を覗かせる。プログレッシヴ・ロック、ファンク、クラウトロック、AOR、ニューエイジ、アンビエント、ポスト・パンクなどなど、多くの要素が溶解したサウンドスケープは、受け手をグッド・トリップに導く恍惚感で満たされている。それはさながら、音楽による宇宙旅行だ。


 とはいえ、そんな宇宙旅行を見せてくれる本作は、とある一夜のライヴ演奏を収録しただけの作品ではない。というのも本作、ライヴ演奏の音源を下地にしながらも、スタジオでのポスト・プロダクションを経て完成に至った作品なのだ。言うなれば、ライヴというその場限りの固有性と、〝アルバム〟という形あるものだからこそ込められる、時代や場所を越えて人と人を繋げる超越性が共生している。ゆえに本作は、過去や現在という時間軸から解き放たれた、とても不思議な聴感覚をもたらしてくれる。それこそ、ここではないどこかへ連れだしてくれるナニカ....と言えれば楽なのだが、それは単純な逃避願望でもなさそうで、だからこそ本作を何度も聴いて、あーでもないこーでもないといろいろ考えてしまう。そうした思考のなかでハッキリしたのは、〝すごく気持ち良い音!〟ということだけ。まあ、本作に限って言えば、それだけで十分なのかもしれないが。


 音といえば、本作を聴いて強く思ったことがある。それは、出戸学(ヴォーカル/ギター)は素晴らしいヴォーカリストだということ。お世辞にも、〝技術的に巧いヴォーカリスト〟とは言えない。だが、曲ごとに適切な歌い方を把握し、それを歌声としてアウトブットできるという意味では〝上手いヴォーカリスト〟だと言える。他にこのような特徴を持つ者といえば、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーになるだろうか。バーナード・サムナーも技術的に巧いヴォーカリストではないが、曲に自分の歌声を適応させるのが抜群に上手い。それゆえ、さまざまな音が鳴るなかでも強い存在感を発揮し、聴き手に強く印象づける支配力がある。そのせいで、ザ・ケミカル・ブラザーズ「Out Of Control」や、808ステイト「Spanish Heart」など、バーナード・サムナーがヴォーカルで参加した曲のほとんどは〝ニュー・オーダーの曲〟に聞こえてしまうのだが、こうした強烈な支配力が出戸学の歌声にもある。どんな曲であっても、出戸学が歌えばそれは〝オウガの曲〟になる。そんな強みを持っていたからこそ、オウガは着実に進化しながら、活動10周年を迎えることができたのだと思う。



(近藤真弥)

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PAUL WELLER『Saturns Pattern』.jpg

 よく考えてみれば、ちっとも不思議なことじゃないのかもしれない。でも、やっぱりこのアルバムに満ちあふれる瑞々しさには驚かされた。ポール・ウェラーの音楽をずっと聴き続けてきた僕にとってはそうだったし、初めて彼のアルバムを手にする若いリスナーにとってもそうであれば良いなと思う。〝モッドファーザー〟ってイメージが「カッコいい!」と思えるのならOKだけど、もしも「古くさい...」って印象で遠ざけてしまうのならもったいない。ちょっと少なめの全9曲(国内盤はボーナス・トラック2曲追加)にギュッと凝縮されたソリッドでカラフルなサウンドは、そんな固定観念を軽やかに飛び越えてゆくはずだから。


 人気絶頂のザ・ジャムをあっさり解散させたあとにスタイル・カウンシルで「My Ever Changing Moods」と歌ってみたり、ブリット・ポップ全盛期にリリースされた3作目のソロ・アルバム『Stanley Road』(1995)では、力みがちに「The Changingman」だと宣言してみたり。思えばポール・ウェラーはいつだって〝Change〟に自覚的だった。それこそが本質的な意味でのモッズ(Moderns=新しもの好き!)たる所以。変わるものと変わらないもの。サウンドにもルックスにも現れるその絶妙なバランス感覚は、昔も今も研ぎ澄まされたままだ。


 前作『Sonik Kicks』でのニュー・ウェイヴ、エレ・ポップからクラウトロックまでもを取り入れたアプローチも新鮮だったけれど、この『Saturns Pattern』はさらにその先を行く感じ。特定の影響源にフォーカスするのではなく、ひとつひとつの曲に多彩なサウンドがスムースに溶け込んでいる。コズミックなガレージ・ロック、サイケデリックなR&B、ソウルフルなグラム・ロックという具合。『Saturns Pattern(土星の縞模様)』だなんて、宇宙まで飛んで行っちゃう感じとか折衷的なセンス、そして臆することなく〝Change〟を続ける姿勢は、どこかデヴィッド・ボウイとも重なり合う。ふたりの音楽的な出自がモッズだってことも感慨深い共通点だ。


 クレジットに目を向けると、2002年の『Illumination』以降(前作も含めて)いくつものアルバムをプロデュースして、近年ではポール・ウェラーの右腕的な存在感を発揮してきたサイモン・ダインの名前がない。それも〝Change〟のひとつ。サイモンに代わってプロデューサーに起用されたのはジャン・スタン・カイバート。彼がポール・ウェラーのアルバムをプロデュースするのは2005年の『As Is Now』以来。とはいえ、その間もミキサーやエンジニアとして深く関わってきた人物だ。エレクトリック・ギターを中心に据えながらも浮遊感のあるキーボード・サウンドと骨太なグルーヴで緻密なレイヤーを描くアレンジは、ニュー・オーダー『Get Ready』(2001)やオアシス『Don't Believe The Truth』(2005)など、90年代からエンジニア/プロデューサーとして様々なアルバム制作に携わってきた彼が大きく貢献しているのだろう。


 Playボタンを押すといきなり、時空歪み系のシンセとそれを引き裂く爆音ギターが耳に飛び込んでくる。この「White Sky」のループを手がけたのは、ノエル・ギャラガーのセカンド・アルバム『Chasing Yesterday』にも参加しているアモルファス・アンドロジナス。そして、デヴィッド・ボウイの「Suffragette City」みたいなテンション高めのロックンロール「Long Time」でギターを弾きまくっているのはザ・ストライプスのジョシュ・マクローリーだ。10代でシーンに登場したポール・ウェラーは、かつての自分と同じ年頃のジョシュに何を叩き込んだのかな? とかね。一方ではザ・ジャムが4人組(!)だった頃のギタリスト、スティーヴ・ブルックスが「In The Car...」と「These City Streets」に参加。もちろん、オーシャン・カラー・シーンのスティーヴ・クラドックも(今回は3曲だけだけれど)ツボを押さえたプレイでバックを支えている。


 そして、ポール・ウェラーはタイトル・ソング「Saturns Pattern」でやっぱり〝Change〟だと、「すべてを変えてしまえ」と歌う。


〈Change It All / It's Saturn's Turn / Cut It Clean / The Pattern's Good〉


 過去と現在と未来が交差する座標に『Saturns Pattern』は、鮮やかに浮かび上がる。それはまるで、クラブの薄暗がりの中で視界を眩ませるミラー・ボールのようだ。この〝土星〟は、僕たちの頭上で音楽を乱反射させる。フロアで鳴り続けてきた音楽への敬意も忘れてはいない。このアルバムは昨年他界したふたりのミュージシャン、イアン・マクレガン(元スモール・フェイセス)とフランキー・ナックルズに捧げられている。



(犬飼一郎)

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GABI Sympathy.jpg
 先日、湯島にある行きつけの呑み屋で、Autonomous Sensory Meridian Response(オートノマス・センサリー・メリディアン・レスポンス。以下 : ASMR)について話をした。ASMRとは、音に対する偏愛的な反応を指す言葉。具体的には、インターホンの音や本のページをめくる音など、普段は注意深く耳を傾けることが少ない日常の音に刺激を受け、興奮したり気持ち良いと感じることが、ASMRというらしい。著書『Mind Hacks ―実験で知る脳と心のシステム』(2005)で知られるトム・スタッフォードが言及したりと、学者たちの間でASMRが話題になることも少なくないが、いまのところ、ASMRの効果やメカニズムは科学的に証明されていない。そもそも、一種のフェティシズムともいえるASMRには、好き嫌いが存在する。すべての人がインターホンの音を好むわけではないし、むしろ不快感を抱く人もいるだろう。しかし、バンドキャンプで〝ASMR〟と検索してみると、出てくる出てくるASMRな音。エアコンやヘアドライヤーの音を30分ほど収録したものがたくさん売られている光景は、常軌を逸した異様な雰囲気が漂っていて、なかなか面白い。


 とはいえ、こうした音に対するフェティシズムは、決して珍しいものではないと思う。TB-303のビキビキと鳴る音が気持ち良い、誰々の歌声は心地よいというように、何かしらの〝音〟に強く惹かれることは少なくない。もう少し深く潜ると、「オナニーにはどんな音楽がいいか研究していて、ジェイムズ(・ブレイク)がいちばんイケるんです」(※1)と述べる水谷茉莉(普段は東京の中小メーカーに務めているそうです)のような女性もいるし、催眠術を応用したオナニーができるという〝催眠音声〟なるものもある。いわば、音に対するフェティシズムは、多くの人の興味を惹きつけてきたテーマだと言える。


 こうしたフェティシズムの視点から筆者は、ガビことガブリエル・ハーベストのデビュー・アルバムである本作『Sympathy』を愛聴している。本作は、ヴァイオリン、ヴィオラ、ギター、ベースなどの楽器を用いているが、基本的にはガブリエルの〝声〟が大きな割合を占めた楽曲がほとんど。先に挙げた4つの楽器は彼女の声の引き立て役でしかない。あくまでも主役は、伸びのあるハイトーンな声質を特徴とする彼女の声である。


 また、そんな声を支えるサウンド・プロダクションもシンプルかつ秀逸で、彼女の声を上手く引き立てている。彼女の声を調整するというよりは、彼女の声をできるだけ〝そのまま〟録ったようなプロダクションになっていて、それゆえ些細なリップノイズや彼女の呼気も聞こえてくる。実を言えば、このリップノイズや呼気をヘッドフォンで聴いていると、すごく官能的、もっとあけすけに言ってしまえば〝エロい〟と感じてしまう。これを〝オカズ〟にイケるかは試してないから、本作がオナニー向きだとは断定できないが、少なくとも、「ジェームズ・ブレイクでイッたときも、こういうフィーリングに包まれたのかな?」と想像したのは隠しようのない事実。


 彼女が過去に、大友良英とマルタン・テトローが主催の〈ターンテーブル・ヘル・イギリス・ツアー〉に参加したことでも有名なマリナ・ローゼンフェルドや、ビョーク『Vespertine』(2001)にも関わっているハープ奏者のジーナ・パーキンスに師事したことがあるせいか、本作はポスト・クラシカルや現代音楽というカテゴリーで語られることが多い。だが本作は、もっと幅広い層、それこそ〝音フェチ〟の方々全員に届く訴求力があると思う。そう考えると本作は、本当の意味で〝ジャンル〟や〝音楽〟という名のくびきから解き放たれた、寛容かつ折衷的な作品なのかもしれない。もちろん本作を、ポスト・クラシカルなり現代音楽なりと呼ぶのはあなたの自由だ。しかし本作は、そうした既存の概念に向けられたナニカ、たとえば〝そもそも音楽とは?〟というような問いかけも見いだせる作品だ。〝ただそこにあるだけで気持ち良い音〟の先に広がる世界は、すごく多彩でスリルに満ちている。





※1 : ミュージック・マガジン2013年10月号掲載の記事、『イケるのはジェイムズ・ブレイク 〝B自慰M〟の探求はアート?』より引用。

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Holly Herndon『Platform』.jpg

 スティーヴン・レヴィーによる著書『ハッカーズ』には、ハッカー倫理7ヶ条なるものが登場する。その7ヶ条のなかでも、とりわけ興味深いのは次の3つ。


3.すべての情報はフリーになるべきだ。

4.権威を信じるな 非中央集権を進めよう。

7.コンピュータはわれわれの生活をよいほうに変えられる。


 1987年に発表された『ハッカーズ』は、権威を振りかざす官僚主義に立ち向かうコンピュータ・オタクたちの姿に迫った名著。おそらく、インターネットに少しでも興味がある者なら、1度は読んだことあるはず。


 とはいえ、『ハッカーズ』の登場人物たちが見せてくれるピュアな理想は、今のところ実現しているとは言いがたい。日本だけを見ても、恣意的な解釈による稚拙な言説があふれるばかりで、一考に値する真摯な言葉が情報の海に埋もれてしまいがちだ。こうした状況においては、インターネットの可能性を無条件で賛美することに抵抗したくなる者が現れても(というか、すでにいるのだろうけども)、おかしくないと思う。


 しかし、4ADからサード・アルバムとなる本作『Platform』を発表したホリー・ハーンドンは、インターネットの可能性を信じているようだ。かつて彼女は、次のような言葉を残している。


 「インターネットの良いところは、ユニークで新しいものや自然とか人間とかいろんな画像を階級なく見られるところ。でも最近アメリカでは、インターネットの格差ができているの。(中略)平等さを守るためには戦いたいと思っているわ」(※1)


 本作でもその戦いはしっかり受け継がれているようで、たとえば「Home」という曲は、盗聴などでたびたび問題を起こしているNSA(アメリカ国家安全保障局)の怖さについて言及してるという。だとすれば、ニコニコ動画でよく見るコメントの嵐(いわゆる〝弾幕〟のこと)を想起させる映像効果のなかで、淡々と語りかける彼女の姿が印象的な「Home」のMVは、小さいながらも重要な個人の声が届きづらい現在を表象しているとも言える。こうした思索を促すコンセプトが、本作にはある。


 とはいえ、こうした興味深いコンセプトを支えるサウンドは、お世辞にも秀逸とは言いがたい。ヴォイス・サンプルを上手く活用した「Interference」や「Chorus」など、高い中毒性を生みだす反復が際立つ佳曲もあるが、中途半端な歌モノに仕上がっている「Morning Sun」は、アルバムとしてのスムースな流れを作るうえでは邪魔になっている。このような欠点は、明確なコンセプトがある本作の作風を考えれば、極めて致命的だと言わざるをえない。4ADからのリリースということで、彼女なりに万人さを求めたのかもしれないが、万人さと先鋭さのバランスでいったら、前作のほうが数段上である。言ってしまえば本作は、バランスを取りながら必死に綱渡りしてみたものの、その取り方が上手くいかないまま落下してしまったというアルバムだ。彼女の魅力のひとつである、初期のデトロイト・テクノを連想させる未来志向な姿勢と、その姿勢を明確に反映したサウンドスケープも影を潜めているFade To Mind(フェイド・トゥー・マインド)やNight Slugs(ナイト・スラッグス)周辺に通じるマシーナリーなビートが映えるDAO」は、興味深いグルーヴを生みだしているとは思うが...。


 もちろん彼女が、将来的に適切なバランス感覚を得る才能に恵まれているのは確かだ。しかしそれは、〝本作の内容〟とはまったく別の話。



(近藤真弥)






※1 : CBCNET掲載のインタヴューより引用。



【編集部注】『Platform』の日本盤は6月24日にHostessから発売予定です。

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Dommengang.jpg

 ジム・オルークの新作を聴いて、おや? と思った。「That Weekend」のコーラスはザ・ローリング・ストーンズの「(I Can't Get No) Satisfaction」を、「End Of The Road」はクイーン「Don't Stop Me Now」をそれぞれ連想させるし、ラストの「All Your Love」は「Hey Jude」を思わせるアウトロという具合に、随所で60~70年代に対するノスタルジーを感じさせるのだ。彼は最近のインタビューで「70年代は私のルーツですから」(※1)と語り、たとえばレッド・ツェッペリンでは「Achilles Last Stand」をフェイヴァリットに挙げていた(※2)。そこでその曲を何度も聴きかえしてみたが、カラッとしたグルーヴ感と途方もない疾走感にあらためて驚かされた。当然だが、いつの時代も良いものは良い。


 そんなことを考えていた矢先に、ブルックリンの3人組ドンメンギャングに出会った。闇夜のアパートに赤いアメ車が一台というシンプルなカヴァー・アートがまず気になり、レッド・ツェッペリンばりに轟くギター・リフとディープ・パープルのように疾走するドラミングに度肝を抜かれた。アークティック・モンキーズがブラック・サバス的なリフとヒップホップの感性を取り入れたみたい器用なものではなく、もっと泥臭くブルージー、おまけに直球。だが、音像はスッキリしていて聴きやすい。


 1曲目「Everybody's Boogie」はファズの効いたギターにエコーなどの空間系エフェクトが重ねられ、ブーメランの軌道、あるいは暗闇を飛び交うコウモリの羽ばたきを思わせる音から始まる。遅れてトライバルなリズム隊が加わり、曲の半ばを過ぎて叫びだすヴォーカルは、まるで狼の咆哮だ。次の「Hats Off To Magic」は、ギターのリヴァ―ブが宙を切り裂く刃をイメージさせるというような映像が浮かぶサウンドで満たされる。その一方で、インタールードな小曲を挟みしわがれた声で歌われる「Her Blues」ときたら、録音状態が悪ければはるか昔の音源だと思ってしまいそうだ。ラストの「Lost My Way」で、ゆったりとした呪術的な演奏がしだいにフェイド・アウトしていくまで、全編通して良い意味で時代錯誤というか、昨今のブルックリン・シーンからの影響を微塵も感じさせない。しかもそれはあえて狙ったというより、これがやりたくて仕方ない! という印象だ。


 そんな彼ら、結成はブルックリンだが、メンバーはそれぞれアラスカ、ヴァージニア、オレゴンで個別に経験を積んできたという。いつだって中心から外れた場所にいる輩が新しい風を吹かせる。それがシーンの活性化を招くカンフル剤になるのか、病魔を呼び込む不吉な予兆なのかは分からない。ただひとつはっきりしているのは、彼らの放つエレクトリック・ブギーが私の胸を躍らせて仕方がないということだ。



(森豊和)



※1 : 『別冊ele-king ジム・オルーク完全読本 ~All About Jim O'Rourke~』(Pヴァイン)96ページより。


※2 : 『別冊ele-king ジム・オルーク完全読本 ~All About Jim O'Rourke~』(Pヴァイン)59ページ「ジム・オルークが選ぶ私の10曲」より。



【編集部注】『Everybody's Boogie』の日本盤はM/A/G/N/I/P/Hから6月24日発売予定です。

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Alabama Shakes『Sound & Color』.jpg

 最初に言っておくと、ストロークスとアラバマ・シェイクスの音楽に対して、〝過去の音楽を焼きなおしただけの古いサウンド〟みたいなことを言うのは、さすがにお門違いだと思います。


 まずはストロークスから述べていきますと、1999年に結成された彼らは、2000年代初頭に勃興したガレージ・ロック・リヴァイヴァルの旗手として注目されました。しかし、ストロークスの音楽は、ガレージ・ロックの一言で括れるほど単純ではありません。ガレージ・ロック・リヴァイヴァルを代表する作品とされている、彼らのファースト・アルバム『Is This It』にしても、8曲目「Hard To Explain」のマシーナリーなビートは、80年代のニュー・ウェイヴを彷彿させるものです。


 彼らは4枚目のアルバム『Angles』で、そのニュー・ウェイヴの要素をより色濃く表現しましたが、こうしたサウンドは、ストロークスをガレージ・ロック・リヴァイヴァルという狭い枠組みで見ていた人からすれば、〝大変化作〟に聞こえるでしょう。ですが、そうしたくびきから解放された自由な感性を持っている人たちからすると、なんともストロークスらしい極めて自然体な作品に聞こえたはずです。〝これ、もともとストロークスにあった要素だよね?〟といった具合に。つまりストロークスは、ガレージ・ロックだけでなく、実にさまざまな音楽的要素を孕んだ折衷的バンドであり、だからこそ彼らは、あらゆる音楽がフラットに聴かれはじめた2000年代に、強い説得力を伴いながら「The Modern Age」という曲を鳴らすことができたのです。そんなストロークスが、〝古くさいバンド〟であるはずがないでしょ?(少なくともデビュー当時は)。むしろすごく現代的で、同時代性をまとった存在だと言えます。


 さてさて、ここでようやくアラバマ・シェイクスのご登場。2012年にデビュー・アルバム『Boys & Girls』を発表した彼ら彼女らも、昔懐かしいレトロ・サウンドと評されることが多い。確かに、ブリタニー・ハワードの強烈で迫力に満ちた歌声はジャニス・ジョップリンを想起させるし、聴き手の郷愁を誘発する味わい深さもある。だから、レトロなサウンドと言いたくなる気持ちもわからなくはない。


 でも、そうした見方は、コナー・オバーストやスカイ・フェレイラとの仕事で知られるブレイク・ミルズを共同プロデューサーに迎え作られた『Sound & Color』によって、徐々に減っていきそうな気がします。本作のサウンドスケープは、ひとつひとつの音が丹念に磨きぬかれていて、すごくモダンなものに仕上がっているからです。


 それに、ファンク、R&B、パンク、ゴスペル、さらにはサイケ・ロックなど、多くの要素を見いだせる音楽性も面白い。くわえて、その要素が曲単位で展開されるのではなく、ひとつひとつの音に込められているのだからすごい。たとえば、ギターはパンキッシュなのに、ドラムはファンクの影響を匂わせるといったような...。この点は、ストロークスのデビューから10年以上経った〝2010年代の折衷性〟と言える深化であり、もっと言えば、先述した「あらゆる音楽がフラットに聴かれはじめた2000年代」以降の感性が行き着いた、理想形のひとつなのかもしれない。


 とはいえ、この形そのものは、ダフト・パンク『Random Access Memories』、FKAツイッグス『LP1』、シャミール『Ratchet』などでも見られるものなんですけどね。ただ、この3者が見ている風景と類似したナニカを、アラバマ・シェイクスも視野に入れつつあるというのがなんとも興味深いと思うのです。



(近藤真弥)

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 ワイアーというのは、実に奇妙な...とらえどころのないバンドだ。


 77年にEMI傘下ハーヴェスト(70年代前半までのピンク・フロイドをリリースしていた)からリリースされたデビュー・アルバム『Pink Flag』は、パンクのスピリットを凝縮した、もしくはその機能面を極限まで追求したような形で、30数分間に全21曲があっけらかんと並んでいた(3分台3曲、2分台3曲、1分台9曲、0分台6曲:笑)。


 後にUSバンド、マイナー・スレットが収録曲「12XU」をカヴァーしたことによって、ワイアーはハードコア・パンク・バンドの元祖(の元祖)のひとつと呼ばれても悪くないと思うのだが、意外とそこにはカテゴライズされていない。


 おそらく、ハードコア志向のひとたちが苦手なのであろう脱臼的ユーモア感覚が『Pink Flag』に色濃く漂っていたから、かもしれない。


 端的に言って、あれは、あらゆるひとたち(もちろん、ティーンエイジャーだったころのぼく含む)の頭を「なんじゃあ? こりゃあ?」と混乱させまくるものだった。むつかしいことを言って煙に巻くのではなく、その対極、表面的にはとてもわかりやすいものであり、「深遠? そんなの無縁だよー」ってな顔をしつつ、冷静に分析すると、むちゃくちゃディープ。まあ、だから、すごく「人間」的ってことかもね。


 そんな熱さと、極めて分析的かつ冷徹な(「理系」的な?:笑)クールさが同居しているのが、ワイアーの魅力だ。70年代末~80年代初頭のハーヴェスト(&ラフ・トレード)時代の音楽の印象では、どちらかといえば前者が勝っていた。最初に復活を遂げた80年代なかば~90年代初頭のミュート時代は逆だった。00年代に2度目の復活を遂げた際の初アルバム『Send』は、久々に前者寄り! って感じで、ものすごく興奮した。ただ、その後、ふたたび後者な感じになってきて、さて、この最新作は...?


 おい! なんじゃ、こりゃ! 「ごつごつした手触りで、捨てきれない理性を、表面上実にわかりやすくまとめる」手腕のかっこよさが、スタジオ・レコーディング作品としては10年ぶりくらいに激しく爆発してる。まさに前者寄り。音響的ゴシック度が最も高かったサード『154』に通じる部分もある...と感じたのは(それ以降の)彼らのアルバムを聴いて初めてかも?ってなうれしさを長年のファンに与えつつ、ワイアーのことをよく知らない新しいリスナーにも自信をもって(?)お薦めできる。


 『Send』リリース後、オリジナル・メンバーのひとりだったブルース・ギルバートが脱けてしまった。それは仕方ない。ただ、新しいツアー・ギタリストを加えてのライヴを数年前に代官山ユニットで観たけれど、新曲はもちろん古い曲も最高だった。今回は、そんな形で、2012年からライヴという場でワイアーに参加してきたマシュー・シムズ(ほかの3人より、30歳くらい若いらしい。だけど全然問題ない! ちなみにクッキーシーン近藤くんは、ぼくより25歳若いわけだし)が、曲作りの第一段階から関わった初めてのアルバムだという。


 なるほどね! バンドという生物に新しい血を導入することが見事に成功しているという意味で、これはギャング・オブ・フォーの(やはり素晴らしい)最新作に通じるわけだ。ワイアーの場合、それを、結成後40年近くたって初めてのセルフ・タイトル・アルバムにしてしまった...というのが、なんとも彼ららしい(笑)。



(伊藤英嗣)

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Shamir Ratchet.jpg

 音楽だけで、どこまでもぶちあがろうと試みる音楽。もっと言えば、そうした音楽のもとに人が集まるという状況自体が時代の一側面を切りとり、時には〝主張〟にもなりえるという面白さ。こうした面白さが、ポップ・ミュージックではたびたび現れる。たとえば、2008年に『Hercules And Love Affair』というデビュー・アルバムを発表した、ハーキュリーズ・アンド・ラヴ・アフェア。このユニットの中心人物であるアンディー・バトラーは、人が集まり踊ることそのものに重要な意味を見いだす持論を英ガーディアン紙で語っているが、これはまさしく、先に書いた「面白さ」に通じる。


 最近だと、Awesome City Club(オーサム・シティー・クラブ)の音楽にもそうした面白さと近いものを感じる。5人組の彼ら彼女らは、4月にデビュー・アルバム『Awesome City Tracks』を発表したばかりだが、「架空の街Awesome Cityのサウンドトラック」というテーマのもと作られた曲群を収めたそれは、できるだけ歌詞からメッセージ性を排し、音楽の良さで勝負しようとする姿勢が窺える作品だ。さらに、こうしたリアルよりもファンタジーを強く打ちだす姿勢が、聴き手の想像を誘発する余白を生みだすことに繋がっている点も見逃せない。これが結果的に、個を生かしたうえでの絶妙な距離感となり、魅力的な〝個の集合体〟を形成しているのだから。


 それではそろそろ、本稿の主役シャミールにご登場願おう。シャミールことシャミール・ベイリーは、現在20歳の新進気鋭アーティスト。アメリカのネバダ州南部に位置するラスヴェガスで育った彼が注目を集めたキッカケは、2013年にGodmode(ゴッドモード)からリリースされたEP、「Northtown」。筆者がこのEPを聴いてまず驚かされたのは、エレクトロ・ディスコを基調としたミニマルなトラックと絡みあう、シャミールの両性具有な歌声。予備知識を得ずに聴いたものだから、最初は「なんてセクシーな女性ヴォーカル!」と思っていたが、拝聴後にネットでシャミールのことを調べてみると、あどけなさを残すひとりの青年が現れたのだからビックリ。このパターン、ライを初めて聴いたときと同じである。


 そんなシャミールのデビュー・アルバムが、本作『Ratchet』だ。このタイトル、本来は〝爪車〟という意味の言葉だが、スラングでは別の意味になる。たとえば、物に対して使うと〝ダサイね!〟みたいな意味になるし、クラブに来ている女性に対して使うと、〝尻軽女〟〝自分がかわいいと勘違いしたイタい女〟というような意味合いになる。いわば、スラングで〝Ratchet〟といえば、愛と性欲があちらこちらで飛び交う夜のイメージが強いのだ。


 その『Ratchet』というタイトル通り、本作のサウンドはどこまでも享楽的で、歩く人々の目がギラギラした夜の街を想像させる。さすが、「Vegas」から始まり「Head In The Clouds」(これは〝夢心地だ〟と訳せるタイトル)で幕を閉じるアルバムである。しかし、歌詞に注意深く耳を傾けてみると、享楽的なだけではないことがわかるはずだ。「On The Regular」には引用と皮肉が多分に込められており、映画『俺たちに明日はない(原題:Bonnie and Clyde)』(1967)の題材にもなったボニーとクライドが登場する「Demon」は、どこか宗教的な世界観も滲ませている。つまり本作は、享楽のなかにシリアスな視点も紛れているということ。煌びやかなファンタジーと、さまざまな問題を抱える現実世界の混交。それこそ、「Vegas」の最初で歌われる〈Fantasy meets reality〉といったところか。


 また、リズミカルなカウベルが印象的な「Call It Off」、軽快なラップとビートがヒップ・ハウスを想起させる「On The Regular」、本作において唯一のバラード「Darker」など、多彩な音楽性が光るのも素晴らしい。バンド/アーティストでいうと、LCDサウンドシステムザ・ラプチャー、マイケル・ジャクソン、プリンス、フランキー・ナックルズ。ジャンルだと、ハウス、ファンク、ヒップホップ、ディスコ、ポスト・パンクなどなど、本当に多くの要素が有機的に接合されている。


 こうした本作の内容は、ネットを介してあらゆる時代の音楽にアクセスできるようになり、これまでの音楽史や文脈にとらわれない自由〝だけ〟を楽しむ〝広く浅い〟音楽が横溢した2000年代以降の感性だけでなく、そうした動きに対するオルタナティヴとしての〝狭く深い〟音楽とも違うものだ。本作はその両方、いわば〝広く深い〟音楽だと言える。もっと言えば本作は、〝広く深い〟ことが当たりまえな状況の到来を告げる、新世代のポップ・ミュージックになりえるということ。それほどまでに本作は、さまざまな側面からの解釈を受けいれる深さと広さが際立っている。そこにはもちろん、いろんな世代、いろんな人種、いろんなセクシャリティーが伴うし、そのことで先述した「魅力的な〝個の集合体〟」が生じる可能性も孕んでいる。これこそ、連帯をまとった自由で寛容なポップ・ミュージックというものだ。


 といったところで、よろしいでしょうか? それではみなさん踊りましょう。これからやってくる新時代の到来を心待ちにしながら。



(近藤真弥)



【編集部注】『Ratchet』の日本盤は7月1日にHostessから発売予定です。

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DAVE DK『Val Maira』.jpg

 ようこそ桃源郷へ。とろけるようなサウンドスケープと多幸感をご堪能ください...なんて、筆者がレコード・ショップの店員なら、POPに書くかもしれない。そう想わせる作品は、デイヴDKによる本作『Val Maira』だ。


 デイヴDKは、1998年にMuller Records(ミュラー・レコーズ)からシングル「Nerven」をリリースして以降、コンスタントに良質なトラックを発表しつづけるベテラン・アーティスト。ベルリンのクラブ史を語るうえで欠かせないTRESOR(トレゾア)のレジデントDJとして名を馳せたが、2000年のデビュー・アルバム『Sens Ory Overload』以降のデイヴを知る者にとっては、ミニマル・ハウスが流行っていた2000年代のドイツ・クラブ・シーンを代表するDJ/アーティストのひとり、という認識がほとんどかもしれない。


 ちなみに本作は、前作『Lights And Colours』から実に8年ぶりのサード・アルバム。これまでのデイヴは、〝クラブ・シーンの人〟というイメージがどうしても拭いきれず、近い音楽性を持つザ・フィールドギー・ボラットDJコーツェなどと比較すれば幅広い層に聴かれていたとは言いがたいが、それも本作をキッカケになくなるだろう。


 終始ストイックな4つ打ちを貫きつつ、その4つ打ちに華を添える磨きぬかれたひとつひとつの音は、聴き手の郷愁を誘発するエモーションとサイケデリアをまとっていて非常に心地よい。また、少ない音数ながら、その音を組みあわせる豊富なヴァリエーションとそれを可能にするアイディアも秀逸で、本作に万華鏡のような華やかさをもたらしている。


 ヴォーカル・トラックはラストの「Whitehill」だけだが、ただヴォーカルを入れてポップ・ソングの体裁を整えた凡庸な作品よりも、本作の曲群は歌心を備えている。耳馴染みのよいメロディーと、聴き手に寄りそう柔らかな温もりを醸すサウンドスケープ。くわえて、高揚感に満ちたトランシーなグルーヴと、ここではないどこかへ導いてくれるひとときのグッド・トリップ。これらの魅力が、言葉のかわりに歌っている(と、書いてしまうと変に思われるかもしれないが、何も〝歌〟は言葉だけの特権ではない。〝音〟に歌わせることだってできるのだ)。


 そうした魅力はクラブだけでなく、外出先の電車内、ホテル、街中、そしてベッド・ルームなどなど、あらゆる場所で味わうことができる。そんな本作をクラブ・リスナーだけのものにしておくのはあまりにもったいない。



(近藤真弥)

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パッション・ピット Kindred.jpg

 会う人ほぼ全員に言っているせいで、もはや言い飽きた気もするが、この場でもぜひ言わせてほしい。グザヴィエ・ドランの映画『Mommy/マミー』(2014)は本当に素晴らしい。まず、物語に宿る凄みが半端ない。これまでのドランは、物語のエモーションよりも、作品のスタイルが注目されがちだった。もちろん、シンメトリー、スローモーション、独白、そして後ろ姿を頻繁に映すカメラワークなど、あらゆる手法を駆使するそのスタイルは、ドランの綿密な計算と美学を感じさせる秀逸なものではある。


 しかし、そんなスタイルがあまりにもインパクトがでかすぎるせいで、ドランのパーソナルな領域が多分に含まれた作品自体のエモーションには、なかなか注目がいかなかった。それゆえドランは、〝オシャレな人が観るための映画を作る監督〟みたいに見られることも多かった。しかし、ドラン作品の根底を成すのは、現実と戦う泥臭さである。こうした側面は、自身の性に目覚めたことで周囲の人間との摩擦に悩む者を描いた『わたしはロランス』(2012)、さらには恋人の兄の暴力に服していく同性愛者をドラン自ら演じた『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)など、これまでの作品でも垣間見れたが、その側面が『Mommy/マミー』によってやっと多くの人に理解されるはずだ。ドランは、映画史のなかでも高い独自性を持ちつつ、それを多くの人に届けられるベタな感性も持ちあわせているということが。この共生は、時に過剰なまでに表現されることもあるが、こうした過剰さもドランの人間臭さという魅力になっていると思う。


 とはいえ、表現において人間臭さは忌避されることもある。アーティスト自身の人間性と作品を結びつけたがらず、このふたつを可能な限り引き離そうとする者は、送り手にも受け手にも多い。もっと言えば、〝おまえのことなんかどうでもいい〟という人たち。


 そのような人たちにとって、パッション・ピットことマイケル・アンジェラコスの音楽はどのように聞こえるのか? 彼の音楽もまた、ドランの映画と同様、過剰さから滲みでる人間臭さが目立つ。かつて筆者がインタヴューしたとき、マイケルは次のように語ってくれた。


「僕は自己満足のために音楽を作っている」


 これは言いかえれば、マイケルのなかで作品と人間性は不可分なものとして強く結びついているということ。それは、マイケル自身の自殺未遂の経験をもとにした「Where We Belong」を収録するなど、非常に内省的な前作『Gossamer』を聴いてもわかるはずだ。いわば、マイケルの音楽を聴くということは、マイケルの内面を見ることと同義である。


 それは、本作『Kindred』でも同じだ。しかし、〝ハッピーでなければいけない〟という、一種の強迫観念を感じさせるきらびやかでアッパーな前作のサウンドと比べ、本作は少々落ちついている。シンプルなメロディーとビートが際立つ「Where The Sky Hangs」などは、これまではあまり見られなかった平穏さを漂わせる。この平穏さ、前作までのマイケルが常に全力で躁鬱の両極端を表現していたことを考えると、非常に興味深いと思う。


 ちなみに本作は、マイケルの妻に捧げられたアルバムだそうだ。マイケルは昔、妻のために(当時は婚約者)音楽を作っていたというのは有名な話だが、この原初的な衝動が本作にもある。このような衝動が再び戻ってきたことは、先に書いたインタヴューでマイケルが、「僕にとって正しい場所を見つけられたのかというと、まだ見つけることはできていない気がする」と答えてくれたことをふまえると、とても感慨深い。そう言っていたマイケルが、〝正しい場所〟を見つけられたということなのだから。そう考えると、家族団欒のなか、ひとりの子供が振りかえり今にも語りかけてきそうなジャケットは、マイケル自身を表象しているのかもしれない。だとすれば本作は、愛する妻に昔話をしながら感謝も伝える、ひとりの男が主役のラヴストーリーとも言える。当然、こうしたアルバムを作るまでには、美しい想い出だけではない紆余曲折があっただろう。実際マイケルは、「フィアンセに「今は一緒にいられない」と、別れ話」をしたこともあるのだから(これまた先に書いたインタヴューを参照)。それでも、マイケルとマイケルの妻の間にある〝愛〟は、引き裂かれなかった。なんともロマンチックではないか...。


 そういえば、映画『カッコーの巣の上で(原題 : One Flew Over the Cuckoo's Nest)』(1975)を彷彿させる『Mommy/マミー』のラストは、〝それでも愛は引き裂けない〟ことを示しているように見える。それはエンディング・テーマに、〈愛されてるだけじゃダメなときもあれば 物事が上手くいかないときもある 理由はわからないけど それが人生なの(Sometimes love is not enough And the road gets tough I don't know why Keep making me laugh)〉と歌われる、ラナ・デル・レイ「Born To Die」を選んでいることからもわかるはずだ。


 本作についての原稿を書くうえで、どうしても『Mommy/マミー』のことが頭から離れなかったのは、共に〝愛〟を描いているせいだろう。しかもその〝愛の形〟は、どこか似ている。


 それは言ってみれば、こういうことだ。美しい想い出だけの愛は、愛じゃない。泥臭くいがみあい、時には憎しみあっても消えない愛こそ、本当の愛なのだ。だからこそ、本当の愛は美化できるものではないが、希望になりえるのだ。



(近藤真弥)

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utsuroi.jpg

 クラウトロックに影響され、ポスト・パンク/ニュー・ウェイヴの嚆矢となったとされるデヴィッド・ボウイの1977年作『Low』には、ポーランドの首都名を冠した「Warszawa(ワルシャワの幻想)」という曲が収録されている。これはジョイ・ディヴィジョンの前身バンドと同名だが、一方ジョイ・ディヴィジョンはナチスの慰安所からのネーミングではないかと揶揄されている。そのナチスがおこなったホロコーストの象徴であるアウシュヴィッツはポーランド南部にあり、収容されたのはユダヤ人だけではない。劣性人種とされた人々すべてが対象であり、たとえば障害者、同性愛者、ジプシーなども連行されたという。


 ナチスによるジプシー大量虐殺について私は、『パプーシャの黒い瞳』を観て初めて知った。ジプシー初の女性詩人、パプーシャの生涯をモチーフとしたポーランド映画だ。書き言葉のないロマ語をアルファベットに置きかえて書かれたパプーシャの詩は、第二次世界大戦後のポーランド社会で認められ、演奏会で歌われるようになる反面、当時の社会主義政権のジプシー定住、同化政策に利用され、彼女は一族を追われることになる。


 そういった複雑な歴史背景ゆえか、現在の民主化されたポーランドにおける音楽シーンでは異なるジャンル、文化背景を持つミュージシャン同士の交流が盛んだ。この『Utsuroi』と題されたエクスペリメンタル・ジャズ・プロジェクトもそのひとつである。ヴァイオリン、クラリネット、チェロの三重奏から成る現代音楽ユニット、マレライ(Malerai)が異国語の響き、情緒を通して異文化を想像することをテーマに立ちあげたという。


 特に興味深いのは、かつての侵略国であるドイツのロック・バンド、カンと成り立ちが似ていること。カンが現代音楽の素地を持つメンバーに、ロック、ジャズを学んだギタリストや、日本人ヴォーカリストを加えた編成であったのに対して、本作もアルタード・ステイツのギタリストであり、ロック、ジャズ、様々なフィールドで活躍する内橋和久と、日本とポーランドのハーフである女性ヴォーカリストMaya Rを迎え日本語で歌われているのだ。さらに曲によっては、カンのようなトライバルなビート、キーボードの音色や自然音のサンプリングも加えられている。そういえば、原始的なサンプリング手法としてテープ・コラージュを取り入れたカンのホルガー・シューカイは、現在のポーランド領グダニスクで生まれ、Phew(フュー)のアルバム『Phew』のレコーディングに参加するなど、ポーランドや日本と決して縁が浅くないミュージシャンである。


 カンの音楽もポスト・パンクも、異文化の要素を取り入れながら独自の表現を生みだしたが、その中心には魅力的なヴォーカリストがいて、世界と己の間にある断絶と絶えず対峙していた。ダモ鈴木、ジョン・ライドン、イアン・カーティス、エドウィン・コリンズ、挙げればきりがない。映画『パプーシャの黒い瞳』において、ジプシー社会とポーランド社会の狭間で苦しんだ詩人パプーシャの立場も彼らに近いと思う。特にイアン・カーティスは、詩作を好む文学青年であり、少なくともバンドを始めた時点では音楽的には殆ど素人だったというではないか。


 ともあれ、そういった存在を中心に様々な文化がパラレルになり発展する。国、文化、ジャンルの違いだけでなく、歴史上の紛争、民族間の諸問題をも飛び越えていく。



(森豊和)

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 先日、映画監督デヴィッド・リンチの作品群を久々に観てみた。そのなかで、〝どうして筆者はリンチ作品に強く惹かれるのか?〟ということをあらためて考えさせられた。結論から言うと、筆者がリンチの映画に惹かれるのは、イライラさせるカッコつけがないからだ。『エレファント・マン』(1980)におけるジョゼフ・メリックがそうだったように、リンチは見せたいものをできるだけそのまま映像にしてみせる。それは一種の暴力性ともいえるセンスだが、こうした虚飾に塗れてないところは、リンチ作品が持つ魅力のひとつだと思う。


 その魅力が孕むのは、自分のなかにある風景や感情をぶちまけるという粗々しい表現欲求だけだ。だからこそリンチは、『イレイザーヘッド』(1977)でシュルレアリスムの極致を見せたかと思えば、『ワイルド・アット・ハート』(1990)ではまっすぐな愛の物語を描き、ラストでニコラス・ケイジにエルヴィス・プレスリーの「Love Me Tender」を歌わせたりもする。


 ただ、これまで世に出たリンチに関する文章などで幾度も言われているように、リンチは古典に詳しい〝知識の人〟でもある。それは『ブルーヴェルヴェット』(1986)で、ボビー・ヴィントンが1963年に発表した同名曲がフィーチャーされていることからも窺いしれる。いわばリンチは、感情という根源的な表現欲求と、その欲求を上手く形にできる教養と理性を併せ持った男だと言える。


 さて、そんなリンチの作品群を久しぶりに観たのは、とある映画を観てしまったせいである。その映画とは、イギリス出身の女性映画監督アナ・リリ・アミリプールが作りあげた長編デビュー作、『A Girl Walks Home Alone At Night』(2014)。日本では、今年9月に『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』という邦題で公開予定の作品だ。


 本作の内容は、売春やドラッグなどが蔓延る架空の街バッドシティーを舞台にした、ヴァンパイアの少女と人間の青年によるラヴストーリー。全編モノクロの映像が漂わせる退廃的な空気、さらには架空の街を舞台にすることで生じるシュルレアリスム的要素は、それこそリンチの『イレイザーヘッド』を連想させる。さらには、人間の青年に「I am Dracula」という、映画『魔人ドラキュラ(原題:Dracula)』(1931)でベラ・ルゴシが吐くセリフをそのまま言わせるあたりは、アナもリンチと同じく古典に詳しい〝知識の人〟であることを匂わせる。


 また、ヴァンパイアの少女がなぜヴァンパイアとして生まれ、人を喰らうのか、といった説明がされないのも本作の面白いところ。言葉少なめに、イメージのコラージュと最低限の音楽で語ろうとするそのスタイルは、フランスの鬼才レオス・カラックスに通じるが、アナの場合、ラヴストーリーであることが示されるシーンを途中で何度も挟むなど、観客を置き去りにしないよう注意している。


 そうしたシーンのなかで特に秀逸なのは、ヴァンパイアの少女が人間の青年を家に招きいれ、甘美な一時を楽しむシーン。このシーンはまず、ヴァンパイアの少女がムードを出すために、ホワイト・ライズ「Death」のレコードを再生するところから始まる。すると、「Death」のリズミカルなベース・ラインに導かれるかの如く、人間の青年が部屋に飾られたミラーボールを回す。


 続いてカメラは、ヴァンパイアの少女をとらえたワンショットに切り替わる。最初はヴァンパイアの少女だけを映しだすが、そこへ人間の青年が忍び寄るようにフェードインしてくる。次に、ヴァンパイアの少女は振りむき、人間の青年を視野に入れる。ここでふたりはじっくり見つめあい、抱擁を交わして口づけ...とは行かず、抱擁とは言いきれないなんとも中途半端な触れあいで、このシーンは終わってしまう。しかし、こうした中途半端な触れあいだからこそ、このシーンは観客の心を揺さぶる。そして、その揺さぶりに華を添えるのが、「Death」の歌詞にある一節。もしかするとアナは、この一節に、ヴァンパイアだとバレたくない少女が抱える葛藤を仮託したのかもしれない。


〈恐怖が僕の心を掴んで離してくれない(Fear's Got A Hold Of Me)〉

(「Death」)


 このシーンが終わると、風船を手にした謎の人物による踊りが挟まれるのだが、それがあまりにも唐突なため、観る人によっては意味不明なシーンに思えるはずだ。


 しかし、人間の青年と一夜を共に過ごしたヴァンパイアの少女が見た夢だと仮定すれば、風船の意味にも一応の説明がつく。夢占いにおいて風船は、実現が困難な願いを象徴しているそうだ。つまり、風船の夢を見た場合、その夢を見た者は強い不安やストレスを抱えているということになる。この説に従えば、風船を手にした謎の人物が踊るシーンは、ヴァンパイアの少女に潜む不安やストレスを表すものだ、とも言える。ストーリーの流れをふまえればありえなくもない解釈だと思うが、どうだろう?


 ちなみにヴァンパイアの少女は、好意を抱く人間の青年に対して、ヴァンパイアであることとは別に秘密を持ってしまう。この秘密がラストの伏線にもなっているのだが、筆者はあのラストを観たとき、〝それでも一緒にいる〟という力強さと純粋さを見せつけられたようで、見事にノックアウトされてしまった。『ワイルド・アット・ハート』のニコラス・ケイジみたいに、人間の青年はベタなラヴソングを歌いはしないが、それでもふたりが〝愛〟を信じたのは確かだ。この〝愛〟を見せられたとき、筆者は『A Girl Walks Home Alone At Night』という映画に、映画としてのスタイリッシュな魅力だけでなく、好意を寄せあいながらもなかなか結ばれない者たちのドラマ、いわゆる泥臭さを見いだしてしまった。そう、バッドシティーという架空の街で描かれている風景は、観客たちが住む現実と共振するのだ。


 こうした幻想と現実の共立は、さながら子供のころ親に読みきかせてもらったおとぎ話である。誰かの創作話でありながら、大人になってから思い知る社会的教訓が込められている、そんなお話。そう考えると本作は、変えようのない違い(本作の場合はヴァンパイアと人間)を抱える者たちが結ばれるからこそ、愛や団結は尊いということを教えてくれる映画なのかもしれない。


 とまあ、長々と映画の内容について語ってしまったが、今回取りあげたのは、『A Girl Walks Home Alone At Night』のサントラである。このサントラはすべて既存の曲で構成されており、本作のために書きおろされた新規曲はない。しかし、だからこそ、アナの音楽に対するこだわりと深い造詣を垣間見ることができる。先に書いた「Death」のように、ゴシックでダークなロック・チューンもあれば、ベルリンのフリー・エレクトリック・バンドによるテック・ハウス「Bashy」もあったりと、曲群の多彩さには驚かされる。こうなったのはおそらく、本作が〝音楽とセリフ〟よりも、〝音楽そのもの〟で登場人物の心情を語ろうとする映画だからだろう。それゆえ、ムードを統一するような選曲ではなく、シーンごとに最適な曲を選んだ。それが結果的に、多様なサントラに繋がったと思われる。


 くわえて、このサントラの多様さが、ネットを介してあらゆる時代の文化にアクセスできる現在を表象しているのも興味深い。「ムードを統一するような選曲ではなく」と先述したばかりで申し訳ないが、本作のサントラは異なるムードを持つ曲たちが集まりながらも、同時に〝ひとつの物語〟と言える一貫した流れを感じさせる。いわば、音楽史における文脈を一端剥がしたあと、音楽リスナーとしての個人史をもとにした文脈の再構築がおこなわれているような感覚。そこには再構築による歪な繋ぎ目がなく、とても自然な形でさまざまな要素が溶解している。


 もちろん、このような感覚は映画自体にも反映されているが、そういった意味で本作と本作のサントラは、2010年代の表現や文化を考えるうえで重要なヒントになる作品だ。



(近藤真弥)

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 SACOYAN(さこやん)という女性シンガーソングライターが、2011年に発表した「JK」を何度も聴いてから、この拙稿を書いている。この曲を初めて聴いたのは、もう4年近くも前のこと。楽しい気持ちがあふれていながら、どこか淋しさが漂うところに惹かれた。特に、〈万人に好かれたい 何処へでも行きたいな さそってよ たのしませるわ〉というフレーズが持つ一種の悲哀には、いま聴いても胸がギュッと締めつけられる。


 そんな「JK」の余韻を引きずりつつ出逢ったのが、2012年にLOW HIGH WHO?(ロウ・ハイ・フー)からリリースされた、DAOKO(だをこ)のファースト・アルバム『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』である(ちなみに、リリース当時は小文字で〝daoko〟という表記だった)。最初に、リアルと想像が溶解したような世界観に魅せられた。その次は、秀逸な観察眼を持つ鋭い言葉に、心をズッパシ刺された。


 DAOKOの歌声は、耳に心地よく馴染む甘美さを持っていた。しかし、その甘美さが孕んでいたのは、どこか鬱々とした感情。それでも繰りかえし聴いたのは、DAOKOのパーソナルな領域から発せられた言葉なのに、その領域から離れたところにいる者も感情移入できる余白があったからだ。この余白はおそらく、歌詞の一節と一節の間にある飛躍度の高さが要因だと思う。先述したように、DAOKOが描く世界観は、リアルと想像が溶解している。それゆえ、歌詞に文脈があまり感じられない。ひとつの物語や世界を丁寧に紡ぐというよりは、膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせたような歌詞なのだ。いわば、感情と場面のコラージュ。こうしたコラージュの縫い目に筆者は、たくさんの矛盾を抱えるDAOKOの泥臭い人間性と魅力を見いだしてしまった。


 そんな『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を聴いて脳裏によぎったのは、連続性と物語の文法を破壊しつくしたゴダールの映画、『勝手にしやがれ(原題 : A bout e souffle)』(1959)だった。この映画もまた、感情と場面のコラージュだからだ。ゴダールはそれを論理的にやってみせたが、DAOKOの場合は本能でやってのけているように聞こえた。だから筆者は、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』を、「アニマルなゴダールみたいで面白い」という感じで楽しんでいた。この楽しみかたは、『HYPERGIRL-向こう側の女の子-』以降にリリースされた、2枚のアルバムと1枚のEPでも同様だった。もちろん、作品ごとに特徴は異なっている。とはいえ、常に基調としてあったのは、感情と場面のコラージュだった。


 しかしこの側面は、メジャー・ファースト・アルバムとなる本作『DAOKO』では影を潜めている。リアルと想像が溶解したような世界観は健在だが、歌詞に整合性が見られるのだ。言うなれば、洗練されている。これまでの作品が、先に書いた〝膨大な数の瞬間的感情や一場面を繋ぎあわせた〟ものだとすれば、本作は〝12の感情と場面〟で構成されたアルバムだ。ゆえにこれまでの作品で目につきがちだった散漫さは解消され、聴き手にまっすぐ届くまとまりを獲得している。こうしたこともあって、本作はこれまで以上にDAOKOの言葉が明確に伝わってくる、キャッチーでポップなアルバムだ。この点は、インディーズ時代の〝daoko〟が好きな者の目には〝物足りない〟と映るかもしれないが、筆者は〝DAOKO〟になることで得られた〝深化〟だと感じた。


 その〝深化〟した言葉で特筆したいのは、「JK」「ぼく」「高い壁には幾千のドア」の3曲だ。まず「JK」は、晴れて高校を卒業したDAOKOの心情が反映されている。実はこの曲、本稿の冒頭でSACOYANの「JK」を引っぱりだすキッカケとなった曲だが、SACOYANの「JK」とは違い、DAOKOの「JK」は〝女子高生〟という記号に対するうっとうしさが出ているように聞こえる。〈春はなんで来ないんだろう? 私の制服は桜と共に散る〉という一節なんかは、〝大人になりたい〟という漠然とした憧れと、デビュー当初からずっとDAOKOの身にまとわりついていた〝女子高生ラッパー〟というレッテルに対する反抗心が共立してる気も...。とはいえ、歌詞全体は女子高生の日常的一幕を描いたものだが。


 次に「ぼく」の歌詞は、DAOKOによるメジャー・デビューのごあいさつみたいな内容。しかし、〈メジャーになった 何か変わったか〉〈狙って売れるなら苦労しないだろ?〉など、自身への問いかけみたいな言葉も飛びだす。それから、〈妄想して頂戴 そのぼくがきみのぼくだから〉という一節は、ポップ・ミュージックに付きものの〝安易な消費〟を受けいれる覚悟で満ちている。この覚悟は頼もしさを感じさせるほどで、DAOKOの負けん気の強さを垣間見れる。その負けん気の強さは、「ぼく」のラストを飾るフレーズ、〈代わりのだれかになんて 歌わせないよ〉にも表れている。


 そして、本作のラストにあたる「高い壁には幾千のドア」。この曲の歌詞は、DAOKOが自分に言い聞かせてるような内容だが、〈焦ることはない 君の時間軸に沿え〉という一節が示すように、聴き手を鼓舞する応援歌にも聞こえるから面白い。このような曲をラストに収録したのは、本作が〝ここからDAOKOとしての旅を始める〟というステートメントだから? と考えてしまったりもするが、どうだろう?


 また、DAOKOの言葉を彩る音も、非常に興味深いものだ。片寄明人(GREAT3)によるサウンド・プロデュース、さらにはねごとやサカナクションといったバンドと仕事をしてきた浦本雅史にサウンドエンジニアを任せた影響か、インディーズ時代の作品と比べてひとつひとつの音が明瞭になっている。それに伴い、DAOKOの声と言葉もいままで以上にすんなり耳に入ってくる。多彩な楽曲群を乗りこなすDAOKOの順応性も、実に見事だ。


 特筆したいのは、展開が激しいメルヘンチックな「ゆめうつつ」と、ワルツの拍子を取りいれた「流星都市」の2曲。共にボカロPとしても知られるきくおが参加した曲で、本作のなかでは一際エッジーだと思う。それに、「流星都市」がきくおの曲「月の妖怪」を想起させるのも嬉しいポイント。まあ、この点は、筆者が「月の妖怪」を愛聴しているというだけの理由なのだが...。


 このように本作は、DAOKOの言葉と声、さらにそれを支える楽曲たちが上手く噛みあわさった作品だ。特にDAOKOの言葉が帯びる鋭さと普遍性は、〝いまのところ史上最高〟と言ってもいいレベルだと思う。


 そして、DAOKOの言葉はさまざまな機微を孕んだ複雑な感情で満たされ、どこか鬱々しているのは確かだが、それでも本作は〝希望〟がもっとも光り輝いているということも強調しておきたい。少々陳腐な言いまわしになってしまうが、いろいろ大変な世の中だけど、それでも生きていこうというポジティヴな側面こそ、本作の魅力だと筆者は考える。強いて類似するものを挙げるなら、2012年の映画『桐島、部活やめるってよ』みたいなもの、かもしれない。


 そう考えると本作は、DAOKOの日常に近いことが描かれていながらも、DAOKOというひとりの人間を通して、2010年代の匂いと風景を切りとった作品とも言える。もちろんこれは、筆者の漠然としたひとつの推察にすぎないが、それでも確実に言えるのは、何十年か経って2010年代の音楽を振りかえろうとなったとき、本作は真っ先に名が挙がる作品のひとつであるということ。つまり本作は、2010年代という時代を象徴するサウンドトラックのひとつなのだ。



(近藤真弥)

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BLACK RIVERS_Black Rivers_J.jpg

 90年代末ごろから活動をつづけるマンチェスターのトリオ・バンド、ダヴズの三分の二、ジェズ&アンディー・ウィリアムス兄弟による新バンド、ブラック・リバーズのデビュー・アルバム。


 従来の、オルタナティヴではない20世紀のポップ・ミュージック的感覚にしばられていると、えーっ? スピン・オフ・ユニット? とか軽く見られそうだが、全然そんなことない。少なくとも筆者は、今のところダヴズのどのアルバムより好きだ。


 サイケデリックな音像とか、80年代USオルタナティヴ(いわゆるカレッジ・ロックとか)に通じる(UKバンドとしては少々例外的に強く)人間味あふれる感覚、エレクトロニックな要素も決しておそれないアレンジや空間性という点は、ダヴズと共通している。


 しかしブラック・リバーズには、もっとふっきれた、やけくそ的なポップ性が垣間見られる。シド・バレット在籍時のピンク・フロイドや、70年代後半のブライアン・イーノのソロ作に通じるほど。


 別名義にしたかい、おおありだ! もちろん、やけくそ的とはいっても、ダヴズにあった内省的魅力は、ブラック・リバーズでもひきつがれている。その内省をつきつめた結果の、開きなおり的なかっこよさというか。


 もともとダヴズがデビューしたころ、UKではオアシスがあまりに「国民的バンド」になってしまったことによる次世代リスナーの反動? といった感じで、レディオヘッドが超人気だった。彼らも、まあ内省的な、悪くないバンドではある。初期ダヴズとレディオヘッドの内省ぶりには、たしかに共通点もあった。だから前者も00年代前半には全英トップになれた? いや、そんな決めつけは大雑把すぎるとは思うが、少なくとも『Black Rivers』における彼らの方向性が「あの時代」とは違う、よりコンテンポラリーかつ、さらなる未来に向けて開かれたものとなっていることはたしかだ。


 それは、たとえば、アルバム中で内省度がもっとも高い部類に属する(ボーナス・トラック除く)ラスト・ナンバーの歌詞からも明らかだろう。


〈そして ぼくらは 本当はここにいない/現代的怖れに基づく静謐な生活/連絡が絶たれることの恐怖/携帯メッセージを送ってくれ ここは静かすぎる〉(「Deep Rivers Run Quiet(深い川は静かに流れる)」より)


 だからこそ、先行公開曲「Age Of Innocence」の(筆者のような日本のジジイからすれば結構)衝撃的なヴィデオに秘められたポスト・モダンかつディープなメッセージも、アルバム全体を深く味わえば、きっと理解できるはずだ。



(伊藤英嗣)

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Drew Lustman『The Crystal Cowboy』.jpg

 フォルティDLことドリュー・ラストマンは、時代の空気に敏感な男だ。たとえば、フォルティDL名義の最新作にあたる『In The Wild』(2014)では、μ-Ziq(ミュージック)や初期のエイフェックス・ツインに通じるIDMを基調にしつつ、このアルバムのリリース当時盛り上がっていたジャングル・リヴァイヴァルと共振する「Heart & Soul」、さらにはジュークの要素を匂わせる「Frontin」など、旬なものも貪欲に取りいれていた。いわばフォルティDLとしてのドリューは、トレンド・セッターと言える立ち位置で、さまざまな音楽的要素を上手く交雑させてきた。


 そんなドリューが、ドリュー・ラストマン名義では初のアルバムとなる本作『The Crystal Cowboy』を発表した。フォルティDLを名乗る際のドリューは、『In The Wild』リリースに伴い現代芸術家のクリス・シェンとコラボレーションするなど、明確なコンセプトをアルバムに込めることが多かった。しかし本作は、本名名義ということもあってか、リラックスした雰囲気が漂っている。何かしらのコンセプトや流行にとらわれていない、手グセに任せて作った曲を詰めこんだ印象だ。


 そうして詰めこまれた曲群は、アグレッシヴで速いBPMのものがほとんど。また、表題曲はゴールディーを彷彿させるジャングル、くわえて「Green Technique」は『Richard D. James Album』期のエイフェックス・ツインに通じるドリルンベースな曲に仕上がっていたりと、いわゆる90年代のダンス・ミュージックの要素が色濃く滲みでている。これはおそらく、筆者がおこなったインタヴューでも語ってくれたように、ドリューが90年代のダンス・ミュージック(特にエイフェックス・ツインやマイク・パラディナス)から強い影響を受けていることと無関係ではない。その強い影響が、本作にはハッキリ表れている。このあたりも、「手グセに任せて作った曲を詰めこんだ印象」に繋がるポイントだ。


 とはいえ、ニュー・ヨークのラッパー、リーフ(Le1f)を迎えた「Onyx」など、コラボレーションによって生じる化学反応を求めたであろう曲も収録されている(前出のインタヴューで語っていた、「リーフとも作業した」曲だろうか?)。この点は、ドリューの抑えきれない好奇心が出てしまったのかもしれない。だが、アルバム全体の流れを遮る曲ではなく、むしろスパイスとして効果的に働いている。


 そして、『The Crystal Cowboy』というタイトルも面白い。Thump(サンプ)に提供したミックスでは、映画『Fear And Loathing In Las Vegas(邦題 : ラスベガスをやっつけろ)』(1998)のサントラで知ったという布袋寅泰&レイ・クーパーの曲を選んでいたが、実は本作のタイトル、ドイツ映画『Bandits』(1997)のサントラにある曲とほぼ同名なのだ(もしかして『In The Wild』も、2007年に公開された映画Into The Wild』が元ネタだったりするのだろうか?)。ドリューから話を聞いたとき、なかなかの映画好きだなと感じたこともふまえると、決して偶然じゃないと思えるが、どうだろう?


 ちなみに『Bandits』は、女性の囚人4人によるバンドが刑務所から脱走して逃げまわる様を描いたロードムーヴィー。この映画の結末、それから劇中で使われる「Crystal Cowboy」の歌詞をふまえると、本作はいろんな解釈ができる作品なのだが...。しかしここは、ドリューの「僕はミステリーを残すのが好き」という言葉(これまた前出のインタヴューより)に倣うとしよう。



(近藤真弥)

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花澤香菜_Blue Avenue.jpg

 自分の人生に最も影響を与えたアルバムはなんだろう? それはたぶん、ヤング・マーブル・ジャイアンツ『Colossal Youth』。ずいぶん前に出たドミノ/ホステス・ヴァージョンの2枚組CD日本盤ライナーノーツでも書いたとおり、そこで歌っていたアリソン・スタットンの声は、00年代以降...平野綾や『けいおん!』関係もへたあとに聴くと、とても「声優」っぽく聞こえる。


 最近あまりアニメ観てないし、音楽と特撮でいっぱいいっぱい、これ以上オタク趣味の対象はふやせない(汗)状態のぼくは、実は昨年にアルバム『25』がリリースされるまで、花澤香菜という声優の存在は知らなかった。


 でも、それを聴いて、完全にぶっとばされた。演奏やアレンジ、サウンドは(いい意味で)今っぽいとしか言いようのない絶妙なもの。もちろん彼女のヴォーカルもそうだった。


 ただ、後者は、まだ少し生硬な気もした。バックの演奏が、こなれすぎているだけに、なおさら...。


 それに関していえば、前作で最初に「なんじゃ、こりゃ!」という衝撃を受けたのは「Brand New Days」。自分が最も好きなラフ・トレード時代ではなく、その後「うん、やっぱ、これもいいね、好き!」くらいの時期...つまり80年代なかばごろのスクリッティ・ポリッティそのもの。いや、「パクリ禁止!」とか言うつもりは全然ないけれど、こりゃ、ちょっとやりすぎ。というか、まじめな話、この曲の方法論だけは、今っぽいコンセプトとはいえないな...と、あとで思った。


 そんなこんなで、楽しみにしていたニュー・アルバム『Blue Avenue』。スウィング・アウト・シスターのひとたちが参加という情報を見たときは(上記と、ほぼ同じような意味で)今っぽくないかも? 大丈夫か? そう思ったものの、完全に杞憂だった!


 なにより、ヴォーカルの生硬さが、かなり薄れている。


 やくしまるえつこ(相対性理論)がスタッフ参加した「こきゅうとす」のヴォーカルが、やくしまる自身のそれっぽくなってしまうのは、まあ仕方ないだろう。変な言い方で申し訳ないが、彼女の参加曲がそれだけで、よかった...。もちろん、この曲自体は素晴らしいのだが(そして、ぼくはこれで相対性理論ファン卒業、かも?)。


 もうひとつ気になったのは、まず文字情報を見てた(職業柄どうしてもそうなる...)とき、北川勝利が「Night And Day」の作詞作曲編曲を担当していると知ったこと。


 有名なスタンダード曲「Night And Day」のカヴァーではない。ぼくは、それは(ヤング・マーブル・ジャイアンツと同じ時期に)エヴリシング・バット・ザ・ガールによるカヴァー...ローファイ・ボサノヴァ・デビュー・シングルとして、さんざん愛聴した。


 そのシングルのアレンジっぽかったり、のちにエヴリシング・バット・ザ・ガールがストリングスをフィーチャーして華麗になったころを思いださせたりしたら、いやだなあ...と。だから「そういう形のオマージュ」は、今っぽくない!


 ところが、聴いてびっくり。ホーンセクションを大フィーチャーした「今以外の、どこでもない場所/時期の、クールでホットなビッグ・バンド・ジャズ」。そのスタンダード・ナンバー自体や、エヴリシング・バット・ザ・ガールと結びつく地点は、少なくとも表面的には皆無。つまり「純粋に聴く」楽しみが削がれることは、まったくなかった。心配がはれるどころか、アルバムのおりかえし地点にふさわしく、おおいにもりあがった!


 そんなコンセプトがもともとあったのかどうかは不明だが、アルバム全体をとおして、ぼくら(それぞれ)のまわりにいるような、決して特別じゃない女の子の、ちょっと背伸びした冒険話を聞いているようで、とても気持ちよく聴ける。実にグレイトな、同時代ポップ・ミュージック。


 それは街の子? それとも田舎の子? まあ、どっちでもいいんじゃない? 少し前、シティー・ポップという言葉が流行っていたころ、自分ではこう思っていた(なんか、どたばたしてて「どこかで書く」機会は逸してしまったたけど:笑)。


 シティー・ポップの最高峰? そりゃ加藤和彦『あの頃、マリー・ローランサン』以外のなにものでもないでしょ?


 あれは、80年代初頭の都会を流浪する、決してその町に「根を張っている」わけではない男の話だった。


 こちらは、そんなニュアンスで、それと同じくらい普通に、自由に生きている今の若者の話。


 そんなふうに考えつつ聴いていると、本編ラスト・ナンバー「Blue Avenueを探して」が、まるで(『あの頃、マリー・ローランサン』ラスト曲)「ラスト・ディスコ」へのアンサーソングであるかのように響いてしまう。


 ブルーな大通りを歩きつつ、青空ながめてたら、目からなにかが...。最高!



(伊藤英嗣)

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Lotic- Heterocetera.jpg

 最近の日本の音楽には、〝共感〟にとらわれたものが多すぎるように思う。もちろん、できるだけ多くの人に届けるための努力や、そうした努力の先にある〝分かりやすさ〟を否定する気はさらさらない。だが、音楽は聴き手の〝共感〟を得るためだけの道具ではないはずだ。たとえば、聴き手の価値観を揺さぶる〝違和感〟をあたえてくれるのも、音楽が持つ魅力のひとつである。そもそも、聴き手の価値観を揺さぶりつづけることで、音楽は進化してきたのではないか?


 とはいえ、ツイッターなどで誰かのツイートをRTして、何かを主張したような気分になる者も少なくない世情である。つまり、誰かのツイートを〝他人の言葉〟ではなく、〝自分の気持ち〟として広めてしまうということ。〝自分のことのようだ!〟と思えるものに出逢えた経験は、それはそれで素晴らしいと思う。だが、〝誰か〟は〝自分〟ではないし、〝誰か〟と〝自分〟はまったく同じ存在ではない。こうした自明を忘れた者が多い現状では、共感ベースの音楽があふれるのも半ば必然なのかもしれない。しかし、このような共感シンドロームと言いたくなる状況には、正直うんざりだ。〝自分のことのようだ!〟という〝共感〟を積み重ねていくと自分にしか興味が行かなくなり、自分と他者の間にある〝違い〟を認めづらくなってしまうからだ。言うなれば、〝不寛容〟になってしまう。そして、その共感ベースの音楽ばかりを求める不寛容さは、アーティストの進化を阻む壁ともなってしまう。これが日本の音楽にとって良いことだとは、どうしても思えない。しかし、その良いことだとは思えない状況になりつつあるのが、いまの日本の音楽だと筆者は思う。


 そう考えると、Resident Advisorのインタヴューで、「DJとして、僕はみんなを踊らせたいけど、何が起こっているのかよく分からない状態にもなってもらいたい」と語るなど、聴き手に戸惑いをあたえんとするロティックの本作「Heterocetera」は日本でどう受けいれられるのだろう? アメリカのテキサス州出身であるロティックは、ベルリン在住の新進気鋭アーティスト。これまでに、ベン・アクア主宰の#FEELINGS(フィーリングス)やSci-Fi & Fantasy(サイファイ・アンド・ファンタジー)からシングルをリリースしてきたが、ロティックの名を一躍有名にしたのは、ミックス・テープ『Damsel In Distress』(2012)だ。さまざまなサンプリング・ソースを細かくズタズタに切り裂いたこの作品は、レオス・カラックスの映画『ホーリー・モーターズ』(2012)のような怒濤のコラージュが展開される。先に引用したロティックの言葉と矛盾するが、『Damsel In Distress』における彼は、聴き手を踊らせる気は微塵もない。作品としての体裁をギリギリのところで保たせる理性の周りで、他者を寄せつけない怒りや哀しみといった攻撃的な感情が複雑に絡みあっている。少なくとも、〝感動した!〟とか〝癒された!〟とか、そういう安易な感想を許さない作品であることだけは確かだ。


 しかし、その『Damsel In Distress』が話題になることで、ロティックの周りには多くの〝他者〟が集まってきた。ビョークにリミックスを依頼され(このあたりの嗅覚はさすがビョークと言う他ない)、ハウ・トゥー・ドレス・ウェルやヴェッセルのアルバムをリリースしたTri Angle(トライアングル)と契約。人生とは実に不思議なもので、自分の意図とは正反対の出来事が多々おきる。


 さて、そのTri Angleから発表されたのが、本作である。まず面白いのは、聴き手のバイアスを簡単に打ちやぶる〝違和感〟は健在ながら、ひとつひとつの音を丁寧に扱う洗練さもあるということ。音数は必要最低限に抑えられ、無駄な音が一切ない。無音の空間を上手く生かしたサウンドスケープも印象的だ。もともと電子音楽の作曲術を学んでいる彼だから、音楽理論に則った音作りもできるのだろう。この洗練さは、本作に静謐な側面をもたらしており、そういった意味で本作は、ひとり家でじっくり味わう〝芸術音楽〟の趣もある。


 しかし一方で、アンゴラを起源とするクドゥーロという音楽を取りいれた表題曲など、クラブに集う観客たちを一瞬で吹きとばす破壊的な曲も収められている。さらには、不気味な金切り声のような音が際立つ「Suspension」も、太い低音が破壊的に鳴り響く。いわばこの2曲は、低音を強調したベース・ミュージック的なサウンド・プロダクションが際立っており、ビートではなく音で〝飛ばす〟タイプのクラブ・チューンだ。このように本作は、ロティックのさまざまな側面を垣間見ることができる。


 また、本作のタイトルについても特筆しておきたい。「Heterocetera」というタイトルは、オードリー・ロードの著作『Sister Outsider』に登場する一説から引用したものだ。詩人/随筆家として有名な彼女は、差別と戦う社会活動家としても知られている。そんな彼女の言葉を引用したのは、ロティックが自身のことをゲイで黒人であると強く意識しているのと無関係ではない。すでに公開されている多くのインタヴュー、くわえて自身の音楽で彼は、自らの背景を強調することで〝ゲイ〟や〝黒人〟に注がれるバイアスに抵抗している。もっと言えば、この抵抗は自身の性的志向や出自の肯定にも繋がっている。こうした肯定が、『Damsel In Distress』にあった他者を寄せつけない雰囲気とは程遠い本作に結びついたというのが筆者の見立てだ。


 確かに彼のような人は、いわゆる〝マイノリティー〟とされるのかもしれない。しかし彼は、少数であることを恐れていない。そんな彼の主張が、日本の聴き手にはどう聞こえるのか? 筆者は楽しみである。



(近藤真弥)

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 ダンス・ミュージックを熱心に追いかけている者にとって、〝リスボンのダンス・ミュージックが面白い〟と言ってしまうのは、〝何を今さら...〟なのかもしれない。だが、それでも言わせてほしい。リスボンのダンス・ミュージックが面白い!


 というわけで、ニディア・ミナージュの「Danger」について書いていく。本作がファースト・ミニ・アルバムにあたるニディアは、リスボン出身の17歳。彼女は本作の他に、Brother Sister Records(ブラザー・シスター・レコーズ)からファースト・アルバム『Estudio Da Mana』を発表しているが、このアルバムは正直、彼女の才気以上に、サウンド・プロダクションの拙さが目立つものだった。しかし、現在のリスボン・ダンス・ミュージック・シーンを世界に発信しているPrincipe(プリンシぺ)から発表された本作で、彼女はネクスト・ビッグ・シングの仲間入りを果たしたと言っていい。


 彼女の音楽は、享楽的で高揚感あふれるトライバルなビート、くわえてほのかに汗くさい情熱的なグルーヴを特徴としており、アンゴラを起源としたクドゥーロというスタイルが基調にある。しかし、TB-303を想起させる音色が際立つ「Aidin」ではアシッド・ハウス、さらに「Limite」は初期のプロディジーみたいなレイヴ・ミュージックを多分に取りいれている。それに、アルバムを構成する粗々しいドライな音色の数々は、シカゴ・ハウスに通じるものだ。こうしたハイブリットな音楽性を魅力とする本作は、幅広い解釈とそれを可能にする寛容性があると言っていい。


 クドゥーロ自体、ソカやズークなど数多くの音楽から影響を受けて形成された音楽だが、17歳のナディアの場合、そこに別の側面が加わっている。それは彼女が、音楽を並列に聴く環境が当たりまえの世代だということだ。いわば、あらゆる時代の音楽にアクセスできるようになった現在が、クドゥーロ元来の雑多性を加速させている。それが彼女の音楽にある面白さだと思う。


 このような面白さが意識的に作られたものかは不明だが、どちらにしろ本作には、音楽が並列に聴かれる状況を無邪気に楽しみ、さまざまな音楽的要素を過剰に接合したような作品が多かった2000年代の雰囲気はない。あるのは、その過剰さが〝特色〟から〝前提〟となったテン年代の感性と、前提になったがゆえの客観的なまなざし。そのまなざしに筆者は、ポップ・ミュージックの未来を見た。




(近藤真弥)

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 00年代、本国アメリカでインディー・ロック、ここ日本でインディー・ポップという言葉が広く流布していったことに関して最も重要な役割を果たしたバンドのひとつ。創設時からのギタリスト、クリスは、このアルバムの途中で脱退することになった。それでも、デス・キャブ・フォー・キューティーというバンドは(少なくとも近い将来は)つづいていく。日本語からとられたアルバム・タイトル、金継ぎという言葉は、その象徴といえるだろう。


 ちなみに、たしかクリスの友だちがやっている西海岸のスタジオの名前にはオタクという言葉が使われている、と彼に聞いたことある。中心人物ベンは(州単位でみれば)地元シアトル・マリナーズにいたイチローに敬意を表する曲を、サウンドクラウドで発表したこともある。彼らが日本語を使っても、決して意外ではない。さらに言えば、それまでの活動を総括するような『The Photo Album』(2001年)、その名がヨーロッパ(やアジア)にも響きわたるようになったころの『Transatlanticism』(2003年)、メジャー契約1作目『Plans』(2005年)、ツイッターやフェイスブックといったSNSが世界規模で一般化していったころの『Codes And Keys』(2011年)など、彼らは常に自らおよびバンドが置かれた状況をアルバム・タイトルに冠してきた。


 金継ぎとは、割れた陶器の破片をつなぎあわせて新しいそれを作る陶芸技法のこと。まさに彼らや、ぼくらの世界の現状にふさわしい。


 少々話はとぶが、去る4月13日、ノエル・ギャラガー&ザ・ハイ・フライング・バーズのライヴを体験して興味深いことに気づいた。すべてのレパートリーがスタジオ・ヴァージョン以上に「曲そのものの魅力を際立たせた」アレンジとなっているではないか。ライヴでは、個々の楽器の演奏をここぞとばかり披露する形になりがちなのに、その逆。ライヴ・ヴァージョンのほうが、むしろあっさりした印象。もちろん生身の演奏者や歌唱者自身が眼前にいるという事実を加味すれば、決してくどすぎない、ちょうどいい塩梅となる。


 ラジオ→テレビ→インターネット、割れやすいアナログ盤SP→割れにくいアナログ盤EP→長時間収録可能なアナログ盤LP→デジタル盤/CD→音源データという形で、音楽に接するメディアは徐々に変遷を遂げてきた。


 なるほど、これこそが、今という時代にふさわしい「曲そのものの魅力を際立たせる」スタイルなのかもしれない。だからこそ、50年代から現在に至る多彩な音楽的要素を、すごく自然に混ぜあわせることができている。非ロック vs ロックとか、エレクトロニック vs アコースティックとか、そういった、くだらない対立項を超えて。


 デス・キャブ・フォー・キューティー『Kintsugi』に収録された、まさに珠玉といえる曲の数々の魅力の、「比較的あっさりした」際立たせ方に関しても、まったく同じことを感じた。


 クリスは、これで去ってしまう。中心人物ベンは、少し前に離婚を経験している。たしかに、ここには(とりわけ前半に)比較的悲しげな曲が多い。だが、それは昔からそうだった。実際バンド名自体が(ボンゾ・ドッグ・バンド関連のフレーズからとられた)デス・キャブ・フォー・キューティー(可愛い子たち向け死のタクシー)だぜ。


 もし彼らが自分たちの惨状を、エンターテインメント感覚ゼロで陰々滅々と訴求するタイプだったら、こんなこと歌えないよね?


〈きみは ぼくの放浪者 ちょっとさまよってる/海の向こうを/そのまま歩いて 戻ってくてくれないか/ぼくの徒歩旅行者 ちょっとした放浪者/きみに会いたい/きみはさまよう徒歩旅行者 放浪者/どれだけ きみが必要か......〉

(「Little Wanderer」)


 この曲では、その〈徒歩旅行者〉が、〈なんとか元気にやってるよ 東京では今 桜が咲いてる〉という便りをくれた場面で始まり、混みあって動きが鈍くなったネットワーク・サーヴィスのメッセンジャーでお互い<じゃあね>と言いあうところで、最初のヴァースが終わる。


 いつか、何年かあとにこのアルバムを聴いたときぼくは、微妙に雨天が多いけれど、もちろん晴れることもある、2015年春の空を思いだすだろう。




(伊藤英嗣)

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 今年で5年目に入るライター活動のなかで、たくさんのアーティストにインタヴューをさせてもらった。この経験をもとにひとつ言えるのが、自分のサウンドに誇りがある人ほど、影響源となったアーティストやバンドの名を饒舌に挙げてくれるということ。おそらく、挙げたアーティストやバンドと比べられたとしても、自分のサウンドに宿る独自性が薄れることはないという自信があるからだろう。この自信は言ってみれば、自分のサウンドを楽しむための参考にしてもらえたらという余裕と、これまで聴いてきた音楽に対する愛と敬意が入りまじったものだと思う。


 そうした自信を感じさせてくれるのが、「Olutta」という作品だ。本作を作りあげたのは、2013年に千葉で結成されたバンド、Helsinki Lambda Club(ヘルシンキ・ラムダ・クラブ)。メンバーは橋本薫(ヴォーカル/ギター)、佐久間公平(ギター)、稲葉航大(ベース)、アベヨウスケ(ドラム)の計4人。本作は彼らの1stミニ・アルバムにあたり(去年も自主制作で「メシ喰わせろ」というミニ・アルバムを発表しているが、こちらはどういう位置づけなのだろう?)、これまでに「メッカで朝食を」「供養e.p.」「ヘルシンキラムダクラブのお通し」という3枚のシングルを残している。


 そんな彼らの歌は、音楽に対する愛情で満ちあふれている。曲名からして、「All My Loving」「Lost In The Supermarket」「テラー・トワイライト」など、ポップ・ミュージック好きならニヤリとしてしまうものが多い。「ユアンと踊れ」の歌詞にいたっては、ジョン・レノン、ジム・モリソン、ブライアン・ジョーンズ、AC/DCといった音楽史に名を残す者たちのみならず、小説家のジャック・ケルアックや、シャーロット・ブロンテの小説『ジェーン・エア』まで飛びだしてくる、いわば引用の嵐。それでも、憎たらしい知識自慢に聞こえないのは、橋本薫のどこか客観的な歌声と言葉選びが秀逸だから。これはおそらく、心地よい言葉のリズムを損なわないよう少なからず意識してるからだと思う。他の歌詞にも、思わずニヤけてしまう一節がたくさんあるので、あなた自身の耳をフル活用して探してみてほしい。


 もちろん音のほうも興味深い。シンプルでキャッチーなメロディーが際立ちながらも、グルーヴは多種多様。ストロークスを想起させるガレージ・ロックが土台にありながらも、〝テンション・コードが好きなんだろう〟と思わせる佐久間公平のギター・ワークはどこかジャズの匂いを漂わせるし、稲葉航大のベースはファンクやR&Bからの影響を匂わせる。このようなロック一辺倒ではない混ざり具合が、あらゆる音楽が並列で聴かれるようになった2000年代以降のセンスを感じさせるし、この点が「ストロークスを想起させる」と書いた所以でもある。つまり、過去の偉大な音楽を継承しつつも、それだけに依拠しないモダンな感性も持ちあわせているということ。


 また、歌詞ではヒネくれた視点を垣間見ることもできるが、自身の好きな音楽的要素を衒いもなく出してしまえるあたりは、とても素直だと言える。少なくとも、ニルヴァーナや初期のレディオヘッドに代表される、90年代のロックに多く見られた〝アンチ・メジャー〟みたいな否定的姿勢は見られない。いわば、〝好きなものは好き〟と言える自由さ。それがHelsinki Lambda Clubの魅力だと思う。その魅力をより深化させるためにも、音色などのアレンジをもう少し多彩にしたらいいかも?なんて思いつつ、筆者は「Olutta」を繰りかえし聴いている。



(近藤真弥)

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 数年前、日本の主に若い音楽ファンのあいだで、シティー・ポップという言葉が流行っていた。それはそれで別にかまわないのだが、ちょっと不思議に思ったのは、彼らが参照していた音楽がラジオでがんがんかかっていた70年代後半~80年代に、そんな言葉、少なくとも(重度な)音楽ファンであるぼくらは、ほとんど使っていなかったってこと。


 ただ、普通に、そこにあるものだった。


「伊藤さん、シティー・ポップについてどう思います?」とか最近あまり聞かれなくなったので、おそらくその言葉も、すでに過去のものになったのかな? まあ、いいんじゃない? ぼく自身は常に郊外生活者。


 都内に仕事部屋借りてたときも、毎回(微妙に)郊外的なノリを残した地域に決め、数年使ってるうちに、そこがなんかお洒落になっちゃったころ引っ越す......みたいなことのくりかえしだった。シティー・ポップの次はサバービア(郊外)・ポップなんて言う気は、さらさらない。なにせ、日本の(重度な)音楽ファンのあいだでは、サバービアって言葉が、〝お洒落なもの〟と誤解されている(まあ、渋谷系という言葉が登場したころ、それ系のお洒落な同名音楽ジンがあったから:笑)。


 だけど、ぼくが〝郊外的な音楽〟にひかれることが多いってことは、避けられない事実だ。大阪で結成されたガールズ・グループ、Especia(エスペシア)による、このメジャー・デビュー・アルバム『Primera(プリメーラ)』を聴いて、まさにそんな思いを新たにした。


 一般的にはアイドルに分類されるのかもしれないが、まあ、そんな部分にこだわる必要もないだろう。50~60年代ソウルや、フィル・スペクター全盛期にあったような、全員女性のヴォーカル・グループ。最近だったら、そう、1曲目の歌詞の一節に〈Spice girl〉ってのがあるけれど、スパイス・ガールズとかね(って、全然最近じゃねえか。すみません:汗&笑)。


 ただ、カヴァー・アートに、メンバーの姿は写っていない。エレクトロニックなサウンドにあわせて、みんな好き勝手に踊って楽しむクラブの情景が写っている。姿勢としてロック的、もっと正確にいえば、ロック的な姿勢を持った〝ほかのもの〟っぽい。たとえば、ベースメント・ジャックスとか。


 数年前からサウンドクラウドなどで作品を発表、インディー・リリースをへてリリースされた、このアルバムの1曲目は、10分近くに及ぶ長尺曲だが、ダンサブルかつポップなサウンドとドラマティックな展開で、まったく長さを感じさせない。それはいいのだが、クレジットを確認して驚いた。


 ソングライティングとアレンジに......若旦那が参加している!


 若旦那といえば湘南乃風。中学生時代の息子が好きだったから、ぼくもよく聴いていた。決して嫌いじゃなかったどころか、むしろ気に入ってたかも。70年代後半に自分が中学生だったころは吉田拓郎が好きだったのと同じような感じかな? と思ったり。ただ、決して(湘南乃風に)のめりこめなかったのは、ぼくにとっては、ちょっと〝漢(おとこ)〟度が強すぎるかな、と。そんな若旦那が、インディーあがりのガールズ・グループと......!


 あっ、いや、ほかにも手がけたことあるのか? 知らなくてごめん。だけど、とにかくEspeciaとの組みあわせは、完全に〝吉〟と出たようだ。〈わたしは最初 メジャーの話を聞いたとき/素直に喜べませんでした〉〈怖いという感情が勝ちました〉といったMCに代表される「町の女の子」っぽい(もしくはインディー的)メンタリティーと、〈国道沿いの焼肉屋で1年間働いてたわ/仲間がくれた言葉 決して忘れない〉というベタな......あけすけな歌詞が、実に見事に融合している。


「Interlude」をはさんで、そこからラストの「Outro」までは、(途中、ゲーセンの情景的な「Skit」もはさみつつ:笑)スムーズ&ソウルフルに流れていくのだが、その途中、7曲目のタイトルに、なにか象徴的なものを感じた。


「さよならクルージン」。ぼくにしてみれば「クルージン」という言葉は、実にシティー・ポップ的。彼女らは、それに「さよなら」と言えたのか? この先も、新しい、素敵な......郊外ポップの旗手たりえるか?


 最後になってしまったが、ぼくがもともとエスペシアに興味を持ったのは、偶然ネットで見かけた(某新聞の)特集記事(の画像)で「高校時代、ニュー・オーダーやジョイ・ディヴィジョンばかり聴いていた」という(ほかのバンドの)発言が目につき、そこからのつながりだった。


 そう、忘れてはいけない。ジョイ・ディヴィジョンやニュー・オーダー自体が、実は、まさに文字どおり「郊外的感覚」に貫かれたバンドだったってことを。


(伊藤英嗣)

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 先日、HEAVEN'S ROCK宇都宮で、4人組バンドねごとのワンマンライヴを観てきた。これまで何度も彼女たちのライヴは観てきたけれど、バンド・アンサンブルが抜群で本当に驚いた。時にパワフルで、時に繊細で、時に叙情的で、その表情はさまざま。さらには風格まで漂わせるもんだから、「メンバー全員20代前半という若いバンドなのにこれはどういうことだ?」と思いながら、素直に「かっけえ!」と言えるライヴに筆者は身を任せていた。


 でも、よくよく考えると、ねごとは結成8年目のバンドだ。活動歴は意外と長く、その間にたくさんのライヴを重ねたのだから、風格が漂うのも半ば必然だろう。また、ねごとは2010年のメジャー・デビューから現在に至るまで、フル・アルバム2枚とミニ・アルバム2枚、そして多くのシングルを残している。たくさんの紆余曲折や試行錯誤を強いられたキャリアは、素直に順調だったと言えるものではないかもしれない。それでも、そんなキャリアを経たからこそ、ねごとは風格を見せることができたのだ。それはねごとが、さまざまな壁を乗りこえた経験をしっかり血肉化していることの証明だったと、今でも思う。


 そうした考えを巡らせつつ、ライヴ後にねごとの最新アルバム『VISION』を聴いてみた。もちろんライヴ前にも繰りかえし聴いていたけれど、ライヴ後にあらためて聴くと、本作にも風格があることに気づかされた。セルフ・プロデュースで作られた本作は、一言で表せば、ねごとがこれまで培ってきた技術や音楽的素養を多分に反映させた力作。アルバム全体に自信がみなぎり、バントの充実した雰囲気が伝わってくる。これまで以上にアイディアの多彩さが際立ち、ねごとなりにさまざまな挑戦をしている。基本的にキャッチーで耳馴染みの良いサウンドだけれど、よくよく耳を澄ませると、玄人を唸らせる技巧が浮かびあがってくる。


 特に驚かされたのは、「透明な魚」という曲。少ない音数でグルーヴを生みだすこの曲は、忙しないドラムのリズムが秀逸。コーラス・ワークも非常に手の込んだもので、曲の構成は、どことなくSPARTA LOCALS(スパルタ・ローカルズ)や、そのSPARTA LOCALSのメンバーを中心に結成されたHINTO(ヒント)を想起させる。また、筆者の耳からすると、ギャング・オブ・フォーやザ・フューチャーヘッズといった、イギリスのポスト・パンク・バンドを連想させる音でもある。あるいは、初期のフランツ・フェルディナンド、トゥー・ドア・シネマ・クラブ、ザ・クリブス...つまり、イギリスのロックを思わせるのだ。


 さらに、シングルとして先行リリースされた「シンクロマニカ」は、何度聴いてもテクノとして聴いてしまう。曲の展開はロックだけれど、トランシーなシンセサイザーの使い方とグルーヴは、ザ・ケミカル・ブラザーズやオービタルに通じる。実を言うと、本作は全体的に横ノリで踊れる曲が多い。縦ノリで激しく体を揺らすというよりは、体を揺らしながらも〝浸れる〟のだ。レッド・ツェッペリンを思わせるブルージーな「GREAT CITY KIDS」など、バンド感を打ちだした曲もある。しかし、アルバムを通して聴くと、〝もしかしてハウスやテクノを熱心に聴いてるのでは?〟と思う瞬間が何度もある。ゆえに本作は、一本調子ではない、すごく多様な楽しみ方ができる作品だ。家でじっくり聴いて、あれやこれやと語りながら楽しめる。それほどまでに本作はよく出来ているし、いろんな要素がこれでもかと詰まっている。


 それから、歌詞の面白さも見逃せない。たとえば「アンモナイト!」に登場する、〈アンモナイト! きみに会いにいかないと〉という一節。あるいは「endless」に出てくる、〈エンドレスキス 宇宙のキス きみをずっと待ってたんだ〉という一節。日本の歌には、メロディーの1音に対して1文字(言語学の音韻論では〝1モーラ〟とも言います)わりあてたものが多いけれど、いま例に挙げた一節を聴いてもわかるように、本作の歌詞は日本的だと言える。くわえて上手く切分音を操ることで、言葉の心地よいリズム感も作りだしている。こうした方法論は、Mr.Childrenスピッツが得意とするもので、いわゆるJ-POPでよく聞く言葉のリズムだ。それは言ってしまえば、日本語だからこそ生まれたもので、そうした日本的な言葉のリズムを操る術に長けているのが、ねごとの魅力だと思う。そう考えるとねごとは、〝日本のポップ・ミュージック〟を鳴らせるバンドのひとつだと言える。


 ねごとのライヴに行くと、中高生くらいのお客さんをたくさん見かけるけれど、同時に彼ら彼女らより上の世代もよく見かける。まあ、言ってしまえばおじさんおばさんなわけだけど、こうした人たちは、先に書いたあれやこれやと語れるところに惹かれた、いわば玄人だと思う。これまでいろんな音楽に耳を傾け、知識も豊富な人たち。つまりねごとは、世代間の橋渡しになれる音楽を鳴らしているのだ。そしてその音楽は、ポップ・ミュージックの魅力そのものでもある。



(近藤真弥)

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Kylie Minogue『Kiss Me Once- Live at the SSE Hydro』.jpeg.jpg

 カイリー・ミノーグって、日本ではどのように見られてるのだろう? 長年カイリーを追ってきたファンからすれば、今でもポップ・シーンの第一線で活躍するトップ・アーティストという認識なのは、言うまでもないだろう。ところが筆者の周りには、「I Should Be So Lucky」をヒットさせた、いわゆる一発屋的にカイリーを見ている人もいて、さすがにビックリ。確かに、マニック・ストリート・プリチャーズなどをプロデューサーに迎えた『Impossible Princess』(1997)期は、商業面で大きな成果を残せなかったがゆえに、お世辞にも常に目立っていたとは言えない。


 しかし、カイリーの創作に対する貪欲な姿勢、もっと言えば理想主義的な探求心は評価されてもいいはず。アルバムごとに旬のアーティストやプロデューサーを迎え、自らも積極的に曲作りをするなど、着実に深化と進化を果たしてきた。こうして自身の順応性と懐の深さを育んできたからこそ、ニック・ケイヴやロビー・ウィリアムスともデュエットでタイマン張れるほどの歌唱力を獲得できたのだ。それに、紆余曲折がありながらも、競争が激しいポップ・シーンで生きぬいてきた精神力も見逃せない。その精神力をカイリーは、神々しさという形でステージ上に現出させる。


 そんなカイリーの姿を観れるのが、本作『Kiss Me Once : Live at the SSE Hydro』だ。この作品は、2014年のグラスゴー公演をCD2枚+DVD1枚に収めたもの。「Can't Get You Out Of My Head」や「Slow」など、カイリーの代表曲がこれでもかと披露されるベスト・ヒットな選曲に、観客も大声援で応えているのが何とも微笑ましい。こうした光景を観ていると、カイリーは観客を蹂躙的に圧倒するよりも、観客に御輿を担いでもらって盛りあがるタイプのエンターテイナーであることがわかる。この点が、終始ストイックで緊張感を滲ませるマドンナのステージとは違うところで、どこか牧歌的な雰囲気も漂わせるカイリーのステージは、肩の力を抜いて楽しめるのだ。


 また、カイリーのステージはゲイ・カルチャーを多分に取りいれていることも特徴だが、それは今回のツアーでも健在。これは、カイリーの音楽を支持するファンのなかにゲイが多いことも関係しているのだろう。いわば、ゲイの人たちに向けたカイリーなりのリスペクトである。もちろん、年々増していくカイリーの妖艶さも楽しめる。同時に、どこか少女性を醸しているのも興味深いのだが、これは身長150センチ弱の小柄な体つきがそうさせるのか? それとも、これまで生きてきたなかで未だ汚れていない部分があるとでもいうのか...。まあ、そんなことはどうでもいい。まずは皆さんも、華々しいダンサブルなエレ・ポップ・ワールドを描くカイリーのステージに浸りましょう。イッツ・ショータイム!



(近藤真弥)

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MARK RONSON『Uptown Special』.jpg

 まず、普段使ってるオーディオ・システムで、さらっと聞いたら「うわあ、最高!」と思った。つづいて、寝室で使ってるボーズのスピーカーにiPodつないで深夜に聴いたら「ん? 旧作に比べて、ちょっと地味?」と感じた。そしてまたふりだしに戻って聴いてみると、うん...素晴らしく、いい感じ!


 上記の〝流れ〟は、一昨年にリリースされたダフト・パンクの最新アルバムを最初に聴いたときと、そっくり。でも、それより、もうちょっと若々しい気はするな。まあ、彼ら全員の実年齢がどうなのかは知らない(興味ない)けど。そして、今回「生演奏中心で、いわゆるエレクトロニック・ミュージック的な手法は重視されていない」という部分も両者に共通している。


 ぼくにとってマーク・ロンソンとは(00年代初頭に2メニーDS'sが先鞭をつけた)「カット/コピー文化」の、最もおいしい部分を獲得しつづけた男。まず名前がぼくの頭に残ったのは、DJとしてよりも、リリー・アレンおよびエイミー・ワインハウスのサウンド・プロデューサーとして、だった。それで聴いてみた彼のソロ・アルバムも、カヴァーと生演奏、歌とサンプリング・サウンドの混ざり具合が、とにかく痛いところをつきまくりだった。そして、ボブ・ディランの「初めての公式リミキサー」にまで起用されてしまったという事実は、どう考えても、やばいでしょう...。


 なぜ? エイミー・ワインハウス存命中の〝最新サウンド〟、そしてここ2、30年のディランの志向性は、パンクもロックンロール(という言葉たち)も飛びこえて、20世紀から21世紀初頭全体のポップ・ミュージックを(できる限り〝境界線〟をまたいで)ちょうどいい塩梅のスープ料理に変えるというマジカルなものだったから。


〝時代を超えようとしている〟やつら、ぼくは常に大好きだ!


 このニュー・アルバム、全体の感触としては、まだラップ・ミュージックと呼ばれていたころのオールドスクール・ヒップホップが、少しだけスムーズなノリを手に入れたころのそれに近い。ただし、80年代の普通のヒット・ポップス(プリンスあたりを除く)に比べれば、ずっと、はるかに骨太かつソウルフルだ。


 こんな流れゆえ、たとえば、1曲目とかに(ヴォーカルじゃなくて、ブルース・ハープのみで:笑)スティーヴィー・ワンダーが参加している(!)という情報も、あらゆる意味でネガティヴなものではなく、極めて気持ちよく作用する。


 話を冒頭に戻せば、ダフト・パンクのあれに比べて、小音量で聴いたときお洒落な感じがするってのは、やはりフランスのバンドとUK(やらNYやら?)をベースに活動する者の地域性もあるのだろうか? すでに英米では、なにやら大ヒットを記録しているらしい。早耳さんからしぶいもの好きまで、エヴリバディにお薦めです!



(伊藤英嗣)

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Jam City『Dream A Garden』.jpg

 マニック・ストリート・プリーチャーズもアルバム・タイトルに引用した、〈This Is My Truth Tell Me Yours〉というフレーズ。このフレーズを残したのは、イギリスの政治家アニューリン・ベヴァンという男。国営医療制度NHS(National Health Service)の設立に尽力したことで知られている。ウェールズ出身のベヴァンは炭鉱労働者家庭に生まれ、経済的に貧しい環境で育った。労働組合の奨学金で勉学に勤しむなど、いわゆる叩きあげというやつだ。こうした出自だからこそ、貧しい人たちへの同情からではなく、同じ苦しみや辛さを知る者として、無料で医療が受けられるNHSを強く支持したのだと思う。


 イギリスには、〝格差〟と戦ってきた長い歴史がある。たとえば、1842年に発行された、エドウィン・チャドウィックの『大英帝国における労働人口の衛生状態に関する報告書』。この本は、当時の社会的貧者たちにもたらされる疾病の一因に劣悪な生活環境を挙げているが、そうした長年の問題を解消するために、ベヴァンはNHS設立を目指し、実現させたのだ。そんなNHSは、歴史に残る輝かしい改革のひとつとして、多くの人に知られている。


 だが、いつの時代もその輝きに泥を塗る政治家が現れるものだ。それが、地方経済を破壊し失業者を増やしたマーガレット・サッチャーであり、NHSの民営化を進めたトニー・ブレアであり、生活保護などのさまざまな公的手当の削減/打ち切りを断行するデーヴィッド・キャメロンである。とはいえ、これらの者たちに対する反発で満ちたポップ・ミュージックを生みだしてきたのも、イギリスという国だ。サッチャー時代には、スタイル・カウンシルが〈君の力で状況を変えてやれ〉(「Walls Come Tumbling Down」)と歌ったし、トニー・ブレアの欺瞞が明らかになってきたときは、ザ・ストリーツが〈この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ〉(「Empty Cans」)と言葉を紡いだ。イギリスは常に、何かしらの問題が政治によってもたらされたとき、政治とは違う道程で問題と向きあう表現を生みだしてきた。それらの表現は希望への橋渡しとなり、たくさんの人に降りかかる灰色の景色に華を添えてくれた。


 さて、あまりにも多くの問題を抱えてしまったことで、ブロークン・ブリテンと呼ばれて久しい現在のイギリスにおいて、希望への橋渡しとなる表現はあるのか? もちろん答えはイエスだ。アメリカから入国拒否を受けた経験もあるイギリスの作家、グレアム・グリーンの小説と同名のパーク『The Power And The Glory』、さらには、ヘルス勤めの彼女とディーラーの彼氏を中心にした群像劇で、イギリスのハードな現況を浮かびあがらせたケイト・テンペスト『Everybody Down』もある。ここに、〈レヴォリューション!〉(「Donkey」)と叫ぶスリーフォード・モッズを加えてもいいだろう。ケイト・テンペスト『Everybody Down』のレヴューで筆者は、「『Everybody Down』は、果たして「本当の始まり」から生まれたのか? それとも10年前よりハードになっただけというシビアな現実を突きつけるのか?」と書いた。しかし、ハッキリ言ってしまおう。10年前よりハードになっただけだった。哀しいかな、それは避けられない現実として、私たちの前にそびえ立っている。


 イギリスのジャム・シティーことジャック・レイサムも、その現実の前に立ちすくむひとりだ。ジャックは、2012年のファースト・アルバム『Classical Curves』で、ダンス・ミュージック・シーンに無視できない衝撃をあたえた。UKガラージを下地に、ひとつひとつの音粒をインダストリアルな質感に変換し、マシーナリーなビートを刻んだ。もはや新しい音は生まれないという諦念まじりの前提が蔓延る現在にあって、『Classical Curves』は新鮮に鳴り響いた。以前本誌でカインドネスインタヴューした際、彼は「ジェイ・ポールとジャム・シティー。彼らは完全にオリジナルなものを作っている」と語ってくれたが、それは嘘じゃない。歪な音のパーツをランダムに組みあわせたかのような作風は、前例なきサウンドスケープであった。


 その『Classical Curves』を経て、ジャックは2枚目となるアルバム『Dream A Garden』を完成させた。まず、本作を聴いて耳に入ってくるのは、言葉だ。本作でジャックは、言葉で私たちに語りかける。この変化はヴィジュアル面にもおよび、たとえば本作から先行で公開された「Unhappy」のMVに自ら出演したジャックは、〈LOVE IS RESISTANCE〉〈CLASS WAR〉というフレーズが書かれたジャケットを身にまとっていた。つまり本作でジャックは、明確な反抗心をあらわにしているのだ。


 しかし、本作が闘争心剥きだしかといえば、そうとは言えない。確かに歌詞は、現在のイギリスと過度な消費主義に対する疑問が顕在化した言葉であふれている。しかし、甘美でほのかにサイケデリックなサウンドスケープは、力強い握りこぶしではなく、現在に生きることの憂鬱を表現している。幽玄な音像とファンクの要素が印象的な「Today」、コクトー・ツインズに通じるギター・サウンドとゴシックな雰囲気を漂わせる「Unhappy」など、曲によって際立つ要素が違う本作だが、憂鬱さという点は全曲に共通している。こうした作風は、どこか生きることに疲れてしまったような印象を聴き手にあたえるかもしれない。


 その疲労感は、さまざまな要因によってもたらされたと思う。たとえば、現在ジャム・シティーのHPは、アクセスすると大量のバナーが飛びだしてくるという若干シニカルな仕様になっているが、これはもしかすると、嘘も事実もごっちゃになった膨大な量の情報を浴びせてくる現在へ向けた暗喩かもしれない。他にも興味深いヒントはいくつもあるが、聴き手の探す楽しみを奪いたくはないので、ここでは口をつぐんでおく。だが、ひとつ言えるのは、本作でのジャックは内省的だということ。無闇やたらと〝消費主義反対!〟みたいに叫ぶのではなく、自分がその消費主義に加担した生き方をしているのでは? という聡明な自省。こうした地点から本作の言葉はスタートしている。


 本作でジャックが、明確にダンスフロアからインディー寄りの方向性を打ちだしたことで、ジャム・シティーの音楽はより幅広い層に聴かれることになると思う。いわゆる本作は〝歌ものアルバム〟で、ダンスフロアよりもライヴハウスが似合う内容だからだ。とはいっても、言葉がないダンス・ミュージックを作っていたアーティストが、歌を取り入れるということは全然珍しくない。それでも、これまで自身の作品ではほとんど言葉を用いなかったジャックが、その言葉を多分に用いて本作を完成させたということは、決して見逃してはならない重要な点だと思う。多分に言葉を引きださせるほど、ブロークン・ブリテンなイギリスは切羽詰まった状況とも言えるのだから。このことに私たちは注意を向け、本作のメッセージを読みとる必要があるのではないか? ここまで「私たち」と書いてきたのは、本作に込められたメッセージが、イギリスに住む人にだけあてはまるものではないからだ。



(近藤真弥)

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Helena Hauff『A Tape』.jpeg.jpg

 ドイツのダンス・ミュージックといえば、ベルリンのテクノ・レーベルOstgut-Ton(オストグットトン)、あるいはザ・フィールドギー・ボラットなどの作品をリリースし、インディー・ロック・ファンにも知られているKompakt (コンパクト)が有名かもしれない。


 だが、ドイツのダンス・ミュージックを語るうえでは、ハンブルクも見逃してはいけない。ハンブルクは、ディープ・ハウスを中心に取り扱うSmallville(スモールヴィル)といった良質なレーベルがあり、さらにはそのレーベルを主宰するローレンスや、ニュー・エレクトロ・ブームを代表するユニット、デジタリズムの出身地でもある。要はハンブルクにも、追いかけて損はない音楽シーンがあるということ。


 こうしたハンブルクの豊穣な音楽シーンは、ヘレナ・ハウフという新たな才女を私たちにもたらしてくれた。ヘレナは、ハンブルクにあるThe Golden Pudel(ザ・ゴールデン・プードル)というクラブでDJのキャリアを重ねることで、頭角を表したアーティスト。トラック制作でも、「Actio Reactio」「Shatter Cone」など、興味深いシングルを残している。これらの作品は、レコード・ショップではテクノ・コーナーに置かれていることが多い。しかし、ヘレナの音楽はテクノだけでなく、EBM、インダストリアル、ドローン、エレクトロ(一応言っておくと、ジャスティスじゃないほうのエレクトロ)、そしてアシッドの要素も混在しており、ひとつのタグで括るのは大変難しい。また、EBMの要素は他の要素と比べても色濃く表れており、そう考えるとヘレナの音楽は、テクノというよりポスト・パンクと呼んだほうがしっくりくるかもしれない。ヘレナ自身も、ファクトリー・フロア「How You Say」のリミックスを手掛けたりと、DFA以降のポスト・パンク勢と交流している。


 そんなヘレナが作りあげた初のフルレングス作品、それが本作『A Tape』だ。内容は先に書いたEBM、インダストリアル、ドローン、エレクトロの要素が見られるものだが、これまでの作品群とは違い、ドライな音像がより際立っている。そこにアシッディーなサウンドと、お得意のEBMに通じるマシーナリーなビートが交わることで、妖艶かつドロッとした雰囲気が創出されている。まったく踊れないわけではないが、無闇にアゲていくわけでもないグルーヴは、終始〝冷〟と〝熱〟の間を突きすすんでいく。その様はおどろおどろしくもあるが、聴き手を興奮させる緊張感もまとっている。


 そうした本作は、何かしらの潮流なりジャンルに当てはまるものではない。そういった意味では孤高とも言える作品だ。それでも強いて言えば、Modern Love(モダン・ラヴ)などが旗頭となったインダストリアル再評価、過去のニュー・ウェイヴ/ポスト・パンク作品を積極的にリイシューしつづけるMinimal Wave(ミニマル・ウェイヴ)が発端となったカルト・ニュー・ウェイヴの流れ、そして、L.I.E.S.(ライズ)以降のロウ・ハウスといった、近年の面白い潮流がいくつも集った鵺のような音、ということになるだろうか。



(近藤真弥)



【編集部注】『A Tape』はカセット・リリースのみです。

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 80年代末から90年代初頭、イギリスで勃発したマッドチェスターのバカ騒ぎは日本に住む10代の僕にもしっかり届いていた。ただし、アシッド成分ゼロでね。インターネットが普及するのはまだ先の話。それでも、音楽雑誌をくまなくチェックしたり、レコード店に並ぶ最新のアルバムや12インチを買い漁っていたから、それほど時差を感じることもなく「僕らの時代がやってきた!」と鼻息を荒らげていた。


 ワイワイと先頭で踊っていたのは、ハッピー・マンデーズとストーン・ローゼズ。そしてインスパイラル・カーペッツがそれに続いた。その後ろにいるのはノースサイド? スープ・ドラゴンズ? それともモック・タートルズ? いや、〝インスパイラル・ローゼズ〟ことシャーラタンズかな?


 インスパイラル・カーペッツのハモンドとローゼズのメロウネス、そのふたつのいいとこ取りだなんて揶揄されていたシャーラタンズ。そんな彼らだけがこうして25年後もしっかり活動を続けてるって、あのとき誰が想像できただろう? 


 前作『Who We Touch』から約4年、12作目となるシャーラタンズの新譜『Modern Nature』を聴きながらそんなことを思っている。96年にはサウンドのキーマンだったロブ・コリンズを交通事故で失い、今作の本格的なレコーディング直前の13年8月にはドラマーのジョン・ブルックスが脳腫瘍で亡くなってしまった。それも〝あの頃〟には誰も想像できなかったことだとしても...。


 シャーラタンズは元々、音楽のために集まったメンバーで結成されたバンドだ。ローゼズやマンデーズのように地元の幼なじみがつるんでいるうちに結成されたわけじゃない。どっちが良いとか悪いとかではなく、単に始まり方が違ったのだ。ベーシストのマーティン・ブラントはネオ・モッズ・バンド、メイキン・タイムですでにキャリアをスタートさせていたし、ティム・バージェスはローカル・バンドのシンガーだった。彼らには、まず音楽があった。


 友情やお互いの信頼は、その少し後に確かなものになったのだろう。停滞だの解散だのを逃れることができたのも、彼らの中心には常に音楽があったから。それも、〝シャーラタンズでなければならない音楽〟があったから。そんな憶測もあながち的外れではないはず。だからこそ、彼らは幾度もの危機を乗り越えることができたのだと思う。


 いま、浜辺を歩く男たちは4人になってしまったけれど、穏やかな波にきらめく陽射しはやさしく、あたたかい。『Modern Nature』には、そんな音楽が目一杯つまっている。「The Only One I Know」と「One To Another」の骨太なグルーヴ、「North Country Boy」の素直さ、そして「Weirdo」の妖しさ。様々なフェイズのサウンドが次々に現れる。


 ジョン・ブルックスの後任はまだ決まっていない。今作には、ニュー・オーダーのスティーヴン・モリス(2曲)、ファクトリー・フロアのガブリエル・ガーンジー(3曲)、そしてジョンの容態が悪化してから度々サポートを務めたザ・ヴァーヴのピーター・ソールズベリー(5曲)がドラマーとして参加。マッドチェスターから90年代のブリット・ポップ、そしてデジタルにより音楽の在り方が大きく変化した00年代以降も、シャーラタンズがファンに愛され続けてきたことはもちろん、常に同時代のミュージシャンたちからも慕われていたことがうかがわれる人選だ。


 クールなカッティング・ギターとソウルフルなバック・コーラスが印象的な「Let The Good Times Be Never Ending」が今作のハイライトだと思う。長めのアウトロで鳴り響くグルーヴィーなハモンドに寄り添うホーンの響きが最高にカッコいい。そのトロンボーンを奏でるのは、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのジム・パターソン。70年代末、ポスト・パンクの時代にパンクとノーザン・ソウルの融合を標榜していたデキシーズのメンバーが参加することは、スウィートでソウルフルな今作には必然であり、シャーラタンズのルーツを深く知るきっかけにもなるだろう。


 「この素晴らしい時間がずっと続くように」。シャーラタンズはそう歌い、僕たちを踊らせることによって、メンバーを失ったばかりの悲しみも長いキャリアからの重圧も軽やかに反転させてみせる。


 気がつけば、マッドチェスターのバンドどころかハモンド(電子オルガン)・サウンドとしてみんながすぐにピンとくるドアーズよりも数多くのアルバムをリリースし、ストラングラーズみたいにメンバー間のゴタゴタもなくここまで来た。決して万全の態勢ではないとはいえ、この『Modern Nature』はシャーラタンズの最高傑作だと思う。初期から彼らを追い続けてきた人にも、ここしばらくはちょっと離れていた人にも、「シャーラタンズって誰?」って言う世代にもきっと響くはずだ。



(犬飼一郎)


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 たとえば椎名林檎と東京事変が好きで、その音楽を真に聴きこんだらシックやマーヴィン・ゲイのステージが目の前に現れるかもしれない。Number Girl(ナンバー・ガール)やZAZEN BOYS(ザゼン・ボーイズ)なら、80年代から90年代にかけてのグランジやソウル、ヒップホップのエネルギーを体感できるかもしれない。近年のミュージシャンは洋楽を聴かない、ルーツ・ミュージックを参照しない、J-POPのガラパゴス化、とよく言われるが、たとえピクシーズやニルヴァーナを愛聴していても、その音楽が持つエモーションを真に理解できなければ意味がない。何が言いたいかって、椎名林檎やNumber Girlをフェイヴァリットに挙げるギター・バンドtricot(トリコ)の音楽が、今やNMEを始め世界中のメディアで話題になっている。おまけに彼女らはピクシーズのサポート・アクトさえ務めてしまったのだから驚きだ。


 直球エモーショナルなようで、その奥に深い孤独を感じさせるヴォーカルは、椎名林檎や彼女と交流が深い宇多田ヒカルを連想させる。ジャジーかつ変拍子を多用した演奏には、轟音でごまかした部分は一切無い。手数を少なく、必要最小限のコードで押す、効果的な場所で必要なフレーズを弾く。3人で工夫して糸を紡いだ手編み物(tricot)のようだ。本作『A N D』には5人のサポート・ドラマーが参加、彼らの個性に影響されてメンバー3人の演奏の幅も広がったという。FacebookやUSTREAMなどを有効活用してプロモーションする彼女らの本作、その先行MV曲「E」の歌詞がSNSハッキングについて、というのも洒落が効いている。言葉のリズムを重視した歌詞は、個人的な状況を歌っているようで、年齢性別を問わずに引き込んでしまう魅力がある。「色の無い水槽」はmudy on the昨晩を思わせる爆裂イントロから始まり、それぞれのペースで絡みあう3つの楽器をヴォーカルが強引に牽引する。相対性理論のようなウィスパー・ヴォーカルの「神戸ナンバー」は、一定のリズムの繰り返しをコード・チェンジで引っ張っていく。サンバのリズムから発想を広げたという「庭」は、Qomolangma Tomato(チョモランマ・トマト)のようなラップ調のヴォーカル、ユーモラスな語り口で、日常の些細なトラブルへの言及からしだいにシリアスな核心へ向かい、唐突に演奏は途切れる。


 さまざまな要素を貪欲に取りこみ、自らのものとして昇華する彼女たちの音楽が他と一線を画すのは、雑多なようでメロディーや演奏のバックボーンがしっかりしていて、最終的に普遍的なエモーションに着地するからだ。言語を越えて伝わるそのイメージが、世界を席巻していく。



(森豊和)

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Noel_Chasing Yesterday.jpg

 2、3年前から、とくにエレクトロニック・ポップ系の音楽で(いや、そうでもないか? ザ・1975とかからも、そんな印象を受けたから)「明るいとも暗いともいえない、ムーディーな...英語では『ちょっと憂鬱』というイメージがある音楽を好きになる」傾向が、自分にはあった。その理由は未だに理論化できていないものの、このアルバムを聴いて(脊椎反射的にではなくて、とても深いレベルで)なるほど! と納得してしまった。そうか、これだったのか、おれの求めていたものは! と......。


 一応バンド名義とはいえ、ソロ第一作目にあたる前作では、まだちょっと暗さが勝っていたような気がする。ここでは、それらのバランスが、もう最高の状態でミックスされている。暗さと明るさを止揚したとか、そんな実存主義(用語)上の問題ではなく、どっちかといえばどろっとした(人間誰でもそうだけど、とりあえずノエル兄貴の)内面が「とにかくさあ、もう、やっちゃうしかねえんじゃね(笑)?」的勢いに押され、決してヘヴィーすぎない形で「パッケージ化」されている。つまり、よりポップになった。


 決してレイドバックしていない渋さと、本当にダサいひとからみればお洒落とかいわれてしまいそうなスマートさが、類い稀なるパワーを秘めたギター・ロックに同居しているさまは...そうだな、なにか例を挙げるなら、シャックに通じるといえるかもしれない。


 オアシス......というかノエルが、かつて自分(ら)が主宰するレーベルから彼らのアルバムを出してたこと、比較的年期の入った音楽ファンなら、憶えてる......かな?


 かつてリヴァプールでペイル・ファウンテインズというポスト・パンク・グループをやっていた、マイケル・ヘッド率いるバンド。日本では(彼らが解散してから)流行ったネオ・アコースティックという用語からの関連で、ファースト・アルバムのほうを名盤に挙げるひとが多かったけれど、モダン・ガレージ・ロックの権化たるセカンドも素晴らしかった。シャックになってからは(いわゆる「二度目の愛の夏」の末期に)突然もろデジタルなリズムを導入したダンス・ミュージック・シングルを出したりで、音楽性の幅をさらに拡げていた。マイケル・ヘッドとノエル・ギャラガーでは知名度が違いすぎるのかもしれないけれど、どこか...すごく直接的な例を挙げてしまえば、アルバムの途中で聞こえるホーン・セクションっぽい音とか、近いものを感じる。


 実は、このアルバム・タイトルを見て、少し心配になってしまった。ちょっと聞き...ではなく「聴き」はじめるのが、はばかられるくらいに......。なんで? とうとう兄貴まで、こんなスタンスになってしまったの? まじで悲しい、と......。


 しかし、ロッキング・オン誌最新号(5月号)掲載のインタヴュー記事を読んで、かなり安心...というより、さすが! と思ってしまった。その取材を担当した西洋のジャーナリストも、やはり、そこが最も気になったんだろう。結構しょっぱなに訊いている(ちなみに、自分がもうひとつ気になったことは最後のほうで尋ねている。こいつ...インタヴューうまいな...というより、ほぼ同世代? なのかもね。エイジアというバンドの80年代初頭に流行った曲のタイトルとのシンクロに関することも訊いてたから:笑)。


 どうやら、このフレーズは、収録曲「While The Song Remain The Same」の一節からピックアップされているらしい。そこで歌われているのは〈We let love lost in anger chasing yesterday(昨日を追いかけることで、怒りのなか、愛を見失ってしまう(=前に進むんだ)〉。


 だから、その曲名が、ぼくがどうも苦手なバンド(とはいっても、90年代に買った、全オリジナル・アルバムのCDボックス・セットはまだ持ってる。いつか好きになるかも......。また聴いてみます:笑)のアルバムの名前だっけ? に似てるという事実は完全無視して、記憶のなかでは決して消えないであろう、このアルバムに入っている素晴らしい曲たちがまだ流れているうち、10回近く何度もプレイしつづけているうちに、これを書いた。


 ぼくは言う。今年最初の「必聴盤」!



(伊藤英嗣)


【編集部補足】

 カヴァー・アートは「15曲(5曲のボーナス・トラック入り。iTunesでも、まだ現時点では買えます)入りヴァージョン」のほうにしておきました。よくある「無駄なボートラ」なんかじゃ全然なく、そっちのほうが、よりポップに聞こえるから。ラス前が「In The Heat Of The Moment」のダンス寄りミックスってのが、クラブでかけるかも? という自分にはありがたいし、ラスト曲のタイトルが、また最高。「Leave My Guitar Alone(おれのギター? ほっといてくれ!)」。まあ、ノエルのプレイが下手とは全然思わない。そりゃ、ジミー・ペイジには負けるのかも、だけど? これ以上の言及は......伊藤はツェッペリンの熱心な聴き手じゃないし、無理(笑)。

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シャムキャッツ「TAKE CARE」.jpg

 3月10日にNHKで放送された、ドラマ『LIVE! LOVE! SING!』を観た。このドラマは、2011年に起きた東日本大震災の〝その後〟を描いている。4人の若者とひとりの教師が福島を目指すというストーリーで、話が進むにつれて、それぞれが持つ東日本大震災に対する距離感をあぶり出していく興味深い内容だ。また、このドラマには、〝みんなひとつになろう!〟みたいなわかりやすいスローガンが一切出てこない。そのかわり、東日本大震災以降の日本にまとわりつく複雑さをそのまま表現している。さらに「GIGつもり(脚本を務めた一色伸幸によると、本来は〝ギグつもり〟だったそうだが)」や、阪神・淡路大震災をキッカケに生まれた「しあわせ運べるように」など、音楽が重要な役割を担っているのも特徴だ。この特徴は言ってしまえば、東日本大震災以降の日本において、表現ができることのひとつを示していた。そのひとつとはおそらく、先に書いた〝それぞれが持つ距離感〟の間に橋を架け、〝それぞれ〟を繋げることなのではないだろうか? そんな可能性を表現に見いだすドラマだと、筆者は感じた。


 このドラマを観たあと、筆者の頭に思い浮かんだのがシャムキャッツだった。彼らも、〝いま、表現にできること〟と向きあうバンドだからだ。こうした姿勢が明確になったのは、2014年リリースのシングル「MODELS」だろう。このシングルに収められた「象さん」では、〈あの地震後浦安は 人が寄り付かぬ土地になり〉〈放射能浴びまくり 代々巨大化を繰り返し〉と歌い、「どッちでもE」では、〈右でも左でも 嘘でも本当でも 僕はどッちでもE〉と歌った。それはいわば、東日本大震災以降の現在に対する想像を試みることだったと思う。その試みを聴き手に披露したのちにリリースされたアルバム『AFTER HOURS』も、タイトルが示すように、彼らなりの"その後"を鳴らした作品だった。さまざまな登場人物が送る生活を鮮やかに描いていく言葉と音は、さながら映画的であった。「象さん」や「どっちでもE」のように直接的な言葉はなかったが、日常とされる風景を切りとったその作風は、殺伐とした現実を否応にも意識させるものであった。時としてフィクションは、事実よりも鋭く真実を指さしてくれるのだ。


 そんな『AFTER HOURS』を経て、彼らは新たな作品を発表した。それが、本作「TAKE CARE」である。本作は全5曲入りのミニ・アルバム。『AFTER HOURS』で顕著だった、ネオ・アコースティックを想起させる繊細で軽やかなサウンドが深化した形で鳴っている。ひとつひとつの音が柔らかく、優しい。そうしたサウンドに呼応するかのように、夏目知幸(ヴォーカル/ギター)の歌声も慈しみを醸している。


 歌詞のほうも、『AFTER HOURS』の路線を受け継いだ、日常の風景を切りとった言葉が多い。〈です〉〈ます〉のような敬体の文末表現が見られる「CHOKE」はどうしても松本隆を想起してしまうが、「GIRL AT THE BUS STOP」や「KISS」などは、シャムキャッツらしい青春的な詩情を漂わせる。甘酸っぱくて、ほんの少しドラマチックな、いわゆるモラトリアム。


 しかし本作には、そのモラトリアムに溺れることを許さないシビアな視点も紛れこんでいる。たとえば、本作のラストを飾る「PM 5:00」で登場する一節。


〈どうしてここにいたいのか たまにわからなくなるのさ 川沿い遮るものもなく西陽が照りつける あの電車に乗らなくちゃ〉(「PM 5:00」


 ここにいたい気持ちが心の片隅にありながらも、自分を〝ここ〟から連れだすであろう〝電車〟に乗らなければいけないこともわかっている。こうした複雑な心情を抱える者たちが、本作の主人公だということを「PM 5:00」は示唆している。そう考えると本作は、現実から目を背けた柔な作品ではなく、むしろハードな現実と向きあうための力強さを持った作品だと言える。


 どうして彼らは、「象さん」や「どっちでもE」から、「TAKE CARE」の境地にたどり着くことができたのか? それはおそらく、彼らが他者の想像力を信じているからだ。ゆえに、わざわざ〝現実と向きあえ!〟と直接的に叫ぶような真似はしない。現実がクソだということは、多くの人がすでに知っているのだから。おそらく彼らも、〝それぞれが持つ距離感〟に想像を巡らせる道を選んだのだ。それは、「TAKE CARE」の特設サイトが、アクセスする時間帯によって背景が変わることにも表れていると思う。つまり、それぞれの生活があり、それぞれの時間と場所があるということ。


 そんな彼らの姿勢が見える本作は、他者に対する絶望からではなく、他者に対する信頼から始まった表現である。



(近藤真弥)

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Mumdance & Logos『Proto』.jpg

 去年ミュージック・マガジンにて、アルバム『Friendly Bacteria』リリースのタイミングでミスター・スクラフにインタヴューする機会に恵まれた。ミスター・スクラフといえば、Ninja Tune(ニンジャ・チューン)などから良質な作品を発表しつづけているイギリスのベテラン・アーティスト。80年代からDJ活動をしており、長年ダンス・ミュージック・シーンを見つめてきた人物。そんな彼にインタヴューできるということで、筆者はダブステップ以降のベース・ミュージックについて訊いてみたのだが、返答のなかに〝なるほどな〟と思える話があった。それは次のようなもの。


「最近のベース・ミュージックは、シカゴ・ハウスやアシッド・ハウスの影響を強く受けている」


 このことを筆者が強く感じたのは、アレックス・ディーモンズという男が、2013年に発表した「Through」を聴いたときだった。この曲は、アレックスのシングル「East London Club Trax Volume 3」(2013)に収められたもので、シカゴ・ハウスに通じるリムショットの連打とざらついたハイハットの音が印象的。Night Slugs(ナイト・スラッグス)を主宰するボク・ボクがResident Advisorに提供したミックスでも使用していたから、このミックスを介して初めて聴いたという人もいるだろう。他には、マーティンが去年発表したアルバム『The Air Between Words』も、昨今のベース・ミュージックとシカゴ・ハウスの蜜月関係を象徴する作品だといえる。


 そうした流れは、マムダンス&ロゴスのファースト・アルバム『Proto』にも反映されていると思う。それは、「Legion」や「Move Your Body」といった曲で顕著に表れている。とはいえ、このアルバムにはシカゴ・ハウスやベース・ミュージックだけではない、たくさんのスタイルが詰めこまれている。「Dance Energy (89 Mix)」は90年代初頭のレイヴ・ミュージックを連想させ(一瞬ジョイ・ベルトラム「Energy Flash」も連想したが)、さらに「Border Drone」ではフリープ・テクノが見え隠れするなど、いわゆるテクノ色も強い。マムダンスとロゴスは、イギリスのベース・ミュージック・シーンで名をあげたトラック・メイカーだが、ロゴスは2013年発表のアルバム『Cold Mission』でもテクノを多分に取りいれたサウンドを鳴らしていた。このことをふまえると、『Proto』はロゴスの嗜好が多く反映された作品と言えるかもしれない。ひんやりとしたマシーナリーなサウンドスケープという『Proto』の特徴も、『Cold Mission』を想起させる。


 また、ひとつひとつの音が攻撃的でハードに鳴り響くのも、『Proto』面白いところだ。たとえば、ハビッツ・オブ・ヘイトはシングル「Habits Of Hate」で、インダストリアル・テクノとベース・ミュージックを接合してみせたが、この試みに近いことが『Proto』でもおこなわれている。ただ、マムダンスとロゴスの場合、それがインダストリアル・テクノではなくハードコア・テクノのように聞こえるのが面白い。




(近藤真弥)



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Mourn『Mourn』.jpeg.jpg

 まずは、いくつかアルバムを挙げていく。セックス・ピストルズ『Never Mind The Bollocks』、ザ・クラッシュ『The Clash』、ジーザス・アンド・メリーチェイン『Psychocandy』、マニック・ストリート・プリチャーズ 『Generation Terrorists』、スリーター・キニー『Sleater-Kinney』、スーパーカー『スリーアウトチェンジ』、アークティック・モンキーズ『Whatever People Say I Am, That's What I'm Not』、ケイジャン・ダンス・パーティー『The Colourful Life』...といったところで、やめておこう。他にも挙げたい作品はたくさんあるが、きりがない。


 さて、いま挙げた作品群に共通するのは、〝初期衝動が詰まったアルバム〟ということだ。粗もなくはないが、世代を越えて響くであろう瑞々しさをこれでもかと放つアルバム。そのような作品は、いつでも作れるわけではない。タイミングと少しばかりの運が交差しなければ、聴き手の前に現れることはない。しかし、だからこそ、いつの時代も〝初期衝動が詰まったアルバム〟は人の心を揺さぶり、〝その時〟にしか残せない音が克明に記録されているという意味でも重要でありつづけている。


 バルセロナのモーンによる本作『Mourn』は、そんな〝初期衝動が詰まったアルバム〟である。本作がデビュー・アルバムとなるモーンは、ジャズ(ヴォーカル/ギター)、カーラ(ヴォーカル/ギター)、レイア(ベース)、アントニオ(ドラム)の4人組バンド。全員が10代で、最年少のレイアは現在15歳。これだけでも十分興味深かったが、その興味は「Otitis」のMVを観てさらに増してしまった。ラモーンズのTシャツに目が行きつつも、ピュアでまっすぐな音をかき鳴らす少年少女たちの姿に、文字通りノックアウトされてしまったのだ。


 正直、演奏が上手いと言えば嘘になってしまう。「You Don't Know Me」に出てくる、《私のことをベイビーって呼ぶから 私はファック・ユーと答えた》という一節が示すように、歌詞も青臭さを漂わせる。とはいえ、ラモーンズ、PJハーヴェイ、パティ・スミス、セバドー、スリター・キニーなどから影響を受けたという音楽性はセンスに満ちており、そのセンスがすべてをOKにしてしまっている。それに、一聴すれば耳に残るメロディーも秀逸だ。


 もしかすると、本稿を読んでいる人のなかには、モーンをハイプだと見ている者もいるだろう。だが、「Misery Factory」に登場する、《私たちは立ちあがらなければならない 目を眩まされた人たちのためにも》という一節は、〝若造〟の一言で一笑に付すことはできない鋭さを持っている。しかもなにより、アルバム自体が焦燥と怒りを醸しながらも、確かな煌めきを放っている。そして、その煌めきは、あなたの一生を変える20分でもある。



(近藤真弥)

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The Pop Group『CITIZEN ZOMBIE』.jpg

 ポスト・パンクを代表するバンド、ザ・ポップ・グループが35年ぶりのオリジナル・アルバム『Citizen Zombie』をリリースする。このニュースだけでも多くの人に驚きをあたえたのは言うまでもないが、そのアルバムをプロデュースしたのがポール・エプワースというニュースにも驚かされた。


 ポールといえば、アデル、U2、 コールドプレイとも仕事をしている大物プロデューサー。そんなポールを語るうえで欠かせないのが、2000年代に起こったポスト・パンク再評価のブームだろう。このブームはザ・ラプチャー、ブロック・パーティー、マキシモ・パーク、ザ・レイクス、フューチャー・ヘッズなど多くの良質なバンドを輩出したが、これらのすべてをポールはプロデュースしている。さらに自らもフォンズ名義で興味深いリミックスを発表することで、ポスト・パンク再評価の盛りあがりに一役買っていた。いわば、ポールのプロデュースでザ・ポップ・グループがニュー・アルバムを完成させたということは、オリジナル・ポスト・パンク世代によるポスト・パンク再評価以降の更新がおこなわれているということ。こうした邂逅も、『Citizen Zombie』の面白さだ。


 さて、その邂逅によって生まれた音は、端的に言うと洗練されている。もちろん、マーク・スチュアートの叫びに近いヴォーカル・スタイルや、メッセージ性が強い歌詞は健在だ。ダブ、ファンク、パンク、カリプソなどをドロドロになるまで撹拌させたアクの強いサウンドスケープも、ザ・ポップ・グループのファンにとってはお馴染みだろう。しかし、ひとつひとつの音を丁寧に聴いてみると、そのすべてが絶妙なバランス感覚のうえで成り立っているのがわかるはず。『Y』や『For How Much Longer Do We Tolerate Mass Murder?』の頃みたいに、ただ全力で音を鳴らすだけでなく、バンド全体のアンサンブルに対する意識が強い。そういった意味で、現在のザ・ポップ・グループは、かつての破壊的なサウンドを鳴らしていないとも言える。この点をどう評価するかによって、『Citizen Zombie』に対する態度が変わってくると思う。


 とはいえ、筆者からひとつ言わせてもらえれば、メンバー全員がキャリアを積み重ねてきたなかで、それなりに熟成していくのは避けられないことだ。若いフリをする年寄りたちを見てカッコいいと思うだろうか? 筆者はそう思わない。しかし、だからこそ筆者にとって『Citizen Zombie』は、とても正直なアルバムに聞こえる。このアルバムでザ・ポップ・グループは、〝今のザ・ポップ・グループ〟を披露しているからだ。


 大人にならなければ生みだせない音は、確かに存在する。そういった味わい深さを示してくれるのが『Citizen Zombie』という作品だ。



(近藤真弥)

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左右『スカムレフト スカムライト』.jpg

 聴き手に最短距離で届く言葉を持つポップ・ミュージックは、言葉だけが突出してるわけではない。どれだけ鋭い言葉があっても、それを聴き手に届けるためのリズムや音像が疎かでは、言葉は宝の持ち腐れとなってしまう。言ってみれば、F1カーのエンジンを軽自動車に積んでもチグハグして機能しないのと同じ。言葉、リズム、音像がそれぞれガッチリ噛みあわなければ、聴き手の心に残る音楽は生まれない。もちろん、噛みあわせ方は人それぞれだ。そして、このそれぞれによって生じるのが〝音楽性〟という名の個性である。なんてことは、偉そうに書くほどのことではないのかもしれないが...。


 しかし、あらためてそう強く思わせてくれるのが、『スカムライト スカムレフト』というアルバムなのだ。本作を作りあげた左右(さゆう)は、花池洋輝(ヴォーカル/ベース/ドラム)と桑原美穂(ヴォーカル/ギター)による2ピースバンド。2010年に結成され、横浜を拠点に活動している。2012年に「左右-EP」をリリースしており、本作がファースト・アルバムとなる。


 そんな左右の音楽は、ヒリヒリとした緊張感を漂わせるミニマルなサウンドが持ち味。花池がドラムとベースを同時に演奏するなど、形態は変わってるかもしれないが、サウンドにはそこらのバンドなんかでは生みだせない凄みが宿っている。左右を初めて聴いたときに想起したのは、70年代後半から80年代前半にかけてのポスト・パンクとノー・ウェイヴ。バンドでいうと、ギャング・オブ・フォー、オー・ペアーズ、ザ・ポップ・グループ、ジェームス・チャンス・アンド・ザ・コントーションズなどなど。ただ、ギャング・オブ・フォーやオー・ペアーズなどが得意とする、性急な4つ打ちを前面に出しているわけではない。グルーヴも直線的ではなく、間を活かした変則的なものだ。それでも、桑原の鋭利で金属的なギター・サウンドは、ギャング・オブ・フォーの中心人物、アンディー・ギルのギター・サウンドを連想させる。


 そうした要素は本作でも健在だが、アルバムとして左右の音楽を聴いてみると、新たな発見もいくつかあった。まず、ギター、ベース、ドラムといった音のリズムと歌詞のリズムが密接に関係しているということ。それは「簡単なことだろ」「なくならない」などで顕著に表れているが、左右は音のリズムと歌詞のリズムをシンクロさせることに意識的なのかもしれない。言うなれば、すべてがリズム・パートと解釈できる曲で本作はほぼ占められている。こうした聴体験は、『Whatever People Say I Am, That's What I'm Not』期のアークティック・モンキーズや、ザ・ラプチャーを聴いたときのものに近い。


 もうひとつは、歌詞にさまざまな解釈を受け入れる懐の深さがあるということ。たとえば「平和なのか」は、他愛のない日常的風景に隠された闇を浮き彫りにするような歌詞である。この歌は、ユーモアという名のフィルターを通した焦燥が目立つ他の曲群とは違い、淡々と言葉を紡ぐ独白的なものに仕上がっている。もしくは、現実に疑問を抱いた者の自問自答と言っていいかもしれない。だが、この自問自答はその実、聴き手のあなたにも当てはまるものだ。なぜかといえば、「平和なのか」の冒頭で歌われる日常的風景は、歌に出てくる〝俺〟だけではなく、あなたも普段よく見ている風景だからだ。それこそ、〈普通の街の風景〉(「平和なのか」)。


 左右というバンド名、それからアルバム・タイトルの『スカムレフト スカムライト』から、一種の〝政治的〟な匂いを嗅ぎとることも可能だろう。〝どちらでもない〟という選択肢を許さない風潮が広まっている現在の日本をふまえれば尚更。とはいえ、こうした推測に対するハッキリとした〝答え〟を本作は示していない。〈壊れたフリしてうたった歌の味はすぐになくなった〉(「なくならない」)、〈俺はそういうことをされるのが嫌だからいますぐやめてくれ〉(「やめてくれ」)など、断定的な言いまわしが多く見られるものの、あくまで裁量権は聴き手に委ねられている。いわば本作の言葉は、言い切ってるが言い切ってないというアンビヴァレントな言語感覚を獲得している。この言語感覚と類似する作品を強いて挙げれば、坂本慎太郎『ナマで踊ろう』と、オウガ・ユー・アスホール『ペーパークラフト』になるだろうか。


 ただひとつ、本作について確実に言えるのは、本作に込められた音や言葉が〝今〟と〝その先〟を見せてくれるということだけだ。



(近藤真弥)

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WILCO_Whats_Your_20_J.jpg

 さてウィルコ。いつのまにか「『このバンドを聴いてる』と言えば誰にもディスられないどころか、語りかける対象が同時代ポップ・ミュージックについて詳しければ詳しいほど『おっ、わかってるじゃん(笑)?』と言われるような存在」になってしまった。まあ「そういうバンドに対して、いいね!と言う」なんて行為はむしろ嫌いなんだけど(汗&笑)、バンドの音楽性やらメンバーたちにはなんの罪もないわけで......。


 正直言って、90年代なかばにデビューしたころから「最高に好き!」というわけじゃないにしても、常に二番手三番手的に愛聴してきたバンドだった。


 最初のころは、サン・ヴォルトらとともに、グランジ・ブーム全盛のアメリカで素敵なカントリー・オルタナティヴ・ロックをやってるいいバンドのひとつと目されていた。なかでも、ポップでキャッチーなメロディー作りの才能がずばぬけている...ようで、ジェイホークスあたりには負けてる......みたいな(笑)。


 90年代後半、ジム・オルークの力をかりて音楽的によりオルタナティヴな方向に傾くとともに、大昔はいわゆるクラシック/電子音楽のレーベルだったノンサッチに移籍、さらに00年代後半、ニュー・ジーランドの元スプリット・エンズ/クラウデッド・ハウス/セブン・ワールズ・コライドらとも深くからみつつ「ごつごつしたポップ性」を強調したこともあった。


 そのどれもが「さすが!」としか言いようのない動きだっただけに、最初に言ったような印象を強めた、ってことかな。


 これは、そんな彼らの20年以上におよぶキャリアを総括した(日本盤通常盤は2枚組という大ヴォリュームの)ベスト・アルバム。あらためて聴いた。そしたら、やっぱ、いいわ! こうやってまとめると、さらに聴きごたえが増す。超満腹!


 ビリー・ブラッグと組んで古いアメリカン・フォーク系音楽をカヴァーした企画盤2枚も含み、きれいに発表順に並んでる。こういう構成のベスト盤って、大昔は普通だったけど、(最初は新鮮だった)リリース時期を無視した並びのベストがむしろ最近は増えただけに、逆に新鮮であり「リッピングして発表年などを自分で入れこむ」作業も、やりやすくて、実にありがたい(笑)。


 こういうふうに「音楽マニアにとって、かゆいところに手が届く感じ」だから(以下略)。


 それはそれとして、あらためて聴いて感じたのは、先述した彼らの「音楽性の動き」が、当時感じた以上に自然な流れだってこと。彼らの音楽性は、常に幅広いものだった。ある一方向に強く傾いていないから、「押し」は強くない。


 ねじれてるけど、上品?


 いや、そうでもない。「わかりづらい」けど、ちゃんと「極めて素直に言いたいことは言ってる」感じ。ウィルコの音楽って、やっぱ理想的な汎米的同時代ポップ・ミュージックだよ、と思いつつ、その分「Impossible Germany」なんて曲もあることが、あらためて気になったり...。


《Impossible Germany / Unlikely Japan / Wherever you go / Wherever you land / I'll say what this means to me / I'll do what I can》

《ドイツ人ってのは無理...違うし / 日本って感じでもない / どこへ行っても / どこに着地しても / こんなふうに自分にとって意味のある / 自分にわかることを言う......できることをするだけ》


 ね、アメリカ人っぽくない? いい意味でさ!


 そういえば...。もうすぐ? フィリップ・K・ディックの『高い城の男』が映画化されるらしい。もちろんアメリカ人であるディックが60年代初頭に描いた、いわゆる枢軸国側が勝利を収めたパラレル・ワールドのお話。でも、原作は意外と「政治的」ニュアンスは薄かった。むしろ「情けないアメリカ人の(狂った世界での)日常生活」に、おおいに共感できた。



(伊藤英嗣)

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Viet Cong『Viet Cong』.jpg

 元ウィメンのマット・フレーゲルを中心とした4人組バンド、ベト・コン。このバンド名、ピンときた方も多いと思うが、1960年に組織された南ベトナム解放民族戦線の通称を引用したものだ。となれば、ポリティカルな姿勢を打ちだしているのかと思う方もいるだろう。しかし今のところ、そうした姿勢は見られない。


 それでも、デビュー・アルバムとなる本作『Viet Cong』は、バンド名が聴き手にあたえるであろうイメージとシンクロする内容となっている。まず、オープニングを飾る「Newspaper Spoons」のイントロ。このイントロを聴くたびに、どうしても軍隊の行進をイメージしてしまうのだが、どうだろう? さらには、その名もズバリ「Death」という曲があったりと、死の匂いも振りまいている。ただ、「Death」についてはさまざまな想像ができると思う。たとえば、〝戦争〟を想起させるベト・コンというバンド名と繋げて聴いてみたりとか。あるいは、ウィメンのギタリスト、クリス・ライマーが2012年にこの世を去ったことと関連づけるとか。また、ステージ上で喧嘩したのをキッカケに解散へ至ったというウィメンの背景をふまえると、「March Of Progress」の歌詞も意味深に聞こえる。この曲は、次のようなフレーズで締められるからだ。


〈What is the difference between love and hate?(愛と憎しみの違いは何だ?)〉


 本作の歌詞は、聴き手の想像を促す言葉選びが目立つが、ベト・コンにまつわる物語を頭に入れてから触れてみると、その想像をより深いものにすることができるはずだ。


 サウンドは、70年代後半から80年代前半にかけてのポスト・パンクを連想させる。シャープなギターが印象的な「Pointless Experience」は、『Heaven Up Here』期のエコー・アンド・ザ・バニーメンを思わせるし、そもそもアルバム全体を包む雰囲気がもろバウハウスなのだ。そこに、クラウトロックの要素とサイケデリックなサウンドスケープをスパイスとして振りかけることで、本作をより魅力的な作品に仕上げている。


 そんな本作は、お世辞にも〝斬新〟な音楽性を披露しているわけではない。だが、これまでたくさんのアーティストたちが残してきた素晴らしい音楽的遺産を現在に通用する形で表現しようと試み、それを見事に成功させたという点だけでも、本作は称賛に値する。



(近藤真弥)

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RSS B0YS『HDDN』.jpg

 RSSは、ウェブサイトの更新情報をまとめ、配信するための文書フォーマットのこと。その配信された情報を受けとるためのアプリがフィードリーダー(RSSリーダー)と呼ばれるものだ...という説明は、ネットが当たりまえとなった今ではありがた迷惑かもしれない。だが、RSSボーイズと名乗るポーランドのふたり組について書くためには、必要な説明でもある。筆者からするとふたりの表現は、フィードリーダーで集めた情報を自分たちなりの文脈に変換したようなものだから。


 ユニット名が示唆しているように、ふたりの表現がネット以降を意識したものであるのは確かだ。しかし一方で、莫大な情報量に晒されるネット以降の現在においては、過激さや奇抜さだけで他人との差別化を図るのは難しいということも理解している。 だからこそふたりは、これまで発表してきた曲のほとんどに読み方が不明なタイトルをつけ、無闇な主張を避けてきた。ボイラールームに出演した際は覆面を着用し、詳しい素性も明かしていない。言うなれば、女子高生などがニコ生でヴューワー数を稼ぐために服を脱いでいく過激さと、そうした過激さとは反対に〝普通〟を標榜することで、他との差別化を試みたノームコアの中間に位置する感覚。こうしたものが、ふたりには備わってるように見える。理性と感情を上手く両立させる優れたバランス感覚と言えるものが。そう考えるとふたりは、新しいとされる情報を狂信的に追いかけるよりも、一歩引いて情報で弄ぼうとする意識が強いとも言える。


 その優れたバランス感覚は、本作『HDDN』のサウンドにも反映されている。音の抜き差しで起伏を作り上げる手法は見事なもので、実に渋い。人の歯やペニスをジャケットにフィーチャーしてきたショッキングなヴィジュアル面とは裏腹に、音の組み立て方は職人的。音楽性も、LFOなどが有名なプリープ・テクノを思わせるベースの使い方や、D.A.F.やリエゾン・ダンジェルーズを想起させるEBM的ビートなど、さまざまな要素を掛けあわせる手際の良さが目立つ。このことからも、RSSボーイズが新奇さだけを狙った凡庸なユニットではないことがわかるはずだ。


 また、ハイハットがあまり使われていないのも興味深い。それでも本作がグルーヴを生みだすことに成功しているのは、音の置き方が巧みだから。無駄を徹底的に省き、必要な音だけを鳴らしている。それゆえ本作の音像はミニマルかつドライであるが、そこがまたクセになる。以前紹介したザミルスカも含め、ポーランドのテクノ・シーンは本当に面白い。



(近藤真弥)

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NEU BALANCE『Rubber Sole』.jpg

 最近、オーストラリアのエア・マックス97(Air Max'97)というトラックメイカーにハマっている。彼の音に触れたキッカケは、ビョーク「Pluto」のエディット。その強烈なベースと破壊的なキックに筆者は一瞬でノックアウトされてしまった。そのあと、彼がロンドンのLiminal Sounds(リミナル・サウンズ)からリリースした「Progress And Memory」と「Fruit Crush」という2枚のEPも手に入れた。特にお気に入りなのは前者で、Fead To Mind(フェイド・トゥ・マインド)やNight Slugs(ナイト・スラッグス)に通じる無機質でメタリックなサウンドとジュークの性急なビートが交わる表題曲は、いまでもよく聴いている。


 そんなエア・マックス97を発見したある日、偶然にしては出来すぎなユニットも見つけてしまった。その名もズバリ、ノイ・バランス。スペルは〝新しい〟を意味するドイツ語の〝Neu〟に、英語の〝Balance〟。なんだか靴のニュー・バランス(New Balance)みたいで面白いと感じながら、彼らのツイッターアカウントを見てみると、アイコンがニュー・バランスのアウトソールで思わずクスッとしてしまった。エア・マックス97にノイ・バランス、どうやら現在のダンス・ミュージック・シーンは靴であふれているようだ。


 カナダのヴァンクーヴァーを拠点に活動するノイ・バランスは、サム・ビーチとセバスチャン・デヴィッドソンによるふたり組。1080pからリリースされた本作『Rubber Sole』がファースト・アルバムで、これまで主なリリースもなかったらしい。ゆえに本作でノイ・バランスを知ったという方も少なくないだろう。ちなみに彼らのルックスは、1080p主催のライヴ・イヴェントに出演した際の映像でチェックできるが、いわゆるオタクそのもの。ふたりとも眼鏡をかけており、たくさんのクラバーに囲まれたなかで演奏するその姿は、クラブよりベッドルームが似合う気もする。


 そのベッドルームというキーワードは、本作にも当てはまる。100%Silkに通じるラフなビートと夢見心地な音粒が光るハウス・ミュージックを基調としており、いわゆるDJがプレイしやすいフロア・トラックはほとんどない(もちろん、優れたDJはプレイできるセットリストを組みたてるのだが)。全体的にBPMも遅く、往年のダンス・ミュージック・ファンはアンビエント・ハウスなんて言葉が頭に浮かぶかもしれない。また、100%Silkに通じるという点をふまえれば、このレーベルを旗頭に巻きおこった数年前のインディー・ダンス・ブーム以降の音とも言える。ほんの少しサイケデリックで、どこか郷愁を抱かせる音。それでいて心を飛ばしてくれるグルーヴがあり、ひとりヘッドフォンをしながらニンマリしてしまう人懐っこさ。音数が少なく、それゆえひとつひとつの音がまっすぐ耳に飛び込んでくるサウンドスケープ。しかもその音がどこか煌めきを宿しているのだから、何度も聴いてしまう。そう考えると本作は、ひとつひとつの音を楽しむためのアルバムと言えるかもしれない。


 そして、多彩な音楽性もノイ・バランスの特徴だ。「Sheffie」のベース・ラインはジャズの要素を匂わせ、耳触りがよいホワイト・ノイズが印象的な「trsx moon」は、スティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスなどが有名なミニマル・ミュージックを想起させる。さらに桃源的なアンビエント・トラック「May B. So」は、Rainbow Pyramid周辺の新世代ニュー・エイジ・サウンドを思わせる仕上がり。このように本作は、どの文脈でも解釈できる大きな余白を備えている。あなたから見て本作はどう映るだろうか?




(近藤真弥)




【編集部注】本作はカセット・リリースです。デジタル版は1080pのバンドキャンプでダウンロードできます。

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James Murphy『Remixes Made With Tennis Data』.jpeg

 ジェームス・マーフィーは、00年代のポップ・ミュージックを語るうえで欠かせない人物のひとりである。このことに異論はないと思う。DFAの主宰者としてザ・ラプチャー『Echoes』を2003年にリリースし、ディスコ・パンク・ブームを牽引した。かと思えば、自身のバンドLCDサウンドシステムとしても、『LCD Soundsystem』『Sound Of Silver』『This Is Happening』という3枚のアルバムを残している。もちろん、いずれも1度は聴いてほしい名盤だ。


 そこに、ぜひ聴いてほしい1曲をくわえるなら、やはり2002年のシングル「Losing My Edge」だろう。〈1968年ケルンでカンのコンサートを観た〉〈1974年ニューヨークのロフトでおこなわれたスーサイドのリハーサルを観た〉など、1970年生まれのジェームスが歌うにはあまりに不自然な一節が次々と飛びだしてくるこの曲は、YouTube以降の状況、つまり音楽の細分化が進むことで、個々の音楽史が他人とかぶることが少なくなった状況の到来を予言していた。インターネットを介して、容易に過去の名ライヴや名曲にアクセスでき、個々の音楽史が築きあげられる世界。そこでは、90年代に行ったら次は30年代へ飛び、その後は2000年代に戻るといった、まるでタイム・トラベラーにでもなったかのような全能感を得られる。


 かぶることが少なくなるということは、それだけ多様になるということでもある。絶対視されてきた音楽史なり文脈の有効性は薄れ、ネット上にアーカイブされていく数々の名ライヴや名曲を浴びるように聴いたうえで鳴らされた音楽があふれる。そんな状況に突入する前夜の興奮が、「Losing My Edge」には記録されている。2002年当時に「Losing My Edge」を聴くことは、未来を見ることと同義であった。


 とはいえ、どんな未来もいずれは現在となり、過去となる。それはジェームス・マーフィーも例外ではなく、彼は2011年にLCDサウンドシステムとしての活動をストップさせた。今では、LCDサウンドシステムやDFAが提示したディスコ・パンクというスタイルも、目新しいものじゃない。それでも、ジェームス・マーフィーは今も音楽活動をおこない、DFAは良質な作品をコンスタントに発表しつづけている。ジェームスはトレンドセッターの座から降りてしまったが、筆者はトレンドセッターとしてのジェームスが好きだったわけではない。彼の鳴らすポップ・ミュージックが好きだったのだ。ポップ・カルチャーに対する愛情がたっぷり詰まった、彼のポップ・ミュージックが...。


 そろそろ想い出話を切りあげて、本作『Remixes Made With Tennis Data』について書くとしよう。本作は、ジェームス・マーフィーとコンピュータ企業のIBMがコラボレーションして制作されたアルバム。なんでも、2014年の全米オープンテニスでおこなわれた全試合のデータを特定のアルゴリズムに落としこみ、音楽にするということをジェームスとIBMはやっていたらしい。そうして生まれた音源の中から12曲を選び、リリースされたのが本作というわけだ。2013年には、2メニーDJズとデスパシオ(Despacio)なるプロジェクトを始動させているが、その次がIBMというフットワークの軽さ。自由にもほどがある。だが、ジェームスの音楽に対するモチベーションが高いことは素直に嬉しく思う。


 そんな気持ちを抱きつつ、本作に耳を傾けてみると、ほどよく肩の力が抜けた雰囲気で驚いた。アルゴリズム云々の話を聞いたときは小難しい音楽でもやってるのかと想像したが、音の抜き差しで起伏を作りあげていくミニマルなサウンドは、それこそLCDサウンドシステムを連想させる。「Match 176」なんかは特に。


 ただ、全体的には電子音の割合が多く、静謐な雰囲気が際立つ。ゆえに踊れる曲はないものの、静謐でひんやりとしたアンビエント作品として楽しめる。ビートとフレーズの反復が多いのも特徴で、微細な変化で音に味つけするその手法は、クラフトワークを彷彿させる。ひとつひとつの音が洗練され、音と戯れる無邪気な遊び心が本当に心地よい。新しい楽器や機材を手に入れて、いろいろいじってるうちにニヤけてしまう。そんなジェームスの姿が目に浮かんでくる。「Match 184」では、聴き手を酩酊にいざなうアシッディーなサウンドが展開されたりと、随所で覗かせるスパイスもグッド。


 また、ラフなマシーン・ビートと流麗なピアノ・フレーズが印象的な「Match 181」が、最近大きな注目を集める1080p周辺の新世代ハウス・ミュージックに通じる曲なのも興味深い。そういえば、去年DFAから発表されたダン・ボダン『Soft』のカセット版は、1080pがリリース元だった。もしかすると、ジェームスなりに今の潮流を解釈したのが「Match 181」なのかもしれない。こうした時代への目配せには、レーベル主宰者としての顔がうかがえる。


 トレンドセッターの座から降りたとはいえ、時代を嗅ぎとる抜群の嗅覚が衰えたわけではないようだ。ジェームス・マーフィー44歳、まだまだ健在である。



(近藤真弥)





【編集部注】『Remixes Made With Tennis Data』はIBMのサウンドクラウドからダウンロードできます。

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 いま、僕の手もとにひとつの音源がある。黒く、やわらかいフェルトのポーチには小さなバッヂ。そこにはアルバム・タイトル『Ballet』とアーティスト名である〝FourColor〟の文字。よく見ればカタログ・ナンバーもしっかり記されている。第一印象は「かわいい!」だった。手に取ってみたくなるデザイン、遊び心にあふれたパッケージは所有欲をくすぐる。それはレーベルやアーティストの「この音楽を楽しんでもらいたい」という気持ちの表れなんだろう。


 でも音楽って、もともとそういうもんじゃなかったっけ? いや、CDやアナログ・レコード、デジタル配信の音源が悪いってわけじゃくて、僕がいま手にしている〝カセット〟は、そんなふうに「楽しむ」気持ちを素直に表現しやすいフォーマットだということ。(ラジカセやカセット・デッキがあれば...だけれど)再生も録音もシンプル。だから、磁気テープに刻み込まれたサウンドもパッケージ・デザインもアイデア次第で自由にできる。「Do It Youreselfは、やっぱり面白い!」ってことに改めて気づいたり。ここ数年の間にまた注目され始めているカセットとの再会を、僕はこんなふうに楽しんでいる。


 僕がカセットを10数年ぶりに手にしたのは、とあるクラブ・イヴェントの物販にちょこんと置かれていた『duenn feat nyantora returns part I』『duenn feat nyantora returns part II』を見つけたことがきっかけ。それは、リリース元である福岡のカセット専門レーベル〈Duenn(ダエン)〉のメイン・アーティストであり主宰者でもあるダエンと、元スーパーカーの中村弘二がニャントラ名義でコラボしたアンビエント・アルバムだった。やわらかな電子音のはざまに聴こえるのは、浅瀬を流れる水のせせらぎや遠くへ走り去る自動車のエンジンのうなり。静かに、目の前に風景が広がってゆくような感覚が心地いい。そのサウンドのせいなのかもしれない、久しぶりにカセットを手にしたときに感じた微かなノスタルジアは消え去っていた。


 カセット・テープに封じ込められたアンビエント・ミュージック。提唱者であるブライアン・イーノの言葉にもあるとおり「聴き流してもいい音楽」と定義されたその繊細なサウンドと、一度は消滅しかけたアナログなフォーマットの組み合わせを不思議に感じたことも確か。けれども、その音楽に耳を傾けているうちに気づいたことがある。


 生活にとけ込む限られた音数のサウンド、言語の不在、そして、先に述べたとおりのカセットならではのフォーマットの自由さとは裏腹に、その音楽を鳴らすことができるのは(現在では持っている人がそう多くないはずの)再生装置が整っている場合だけという限定性。なるほど! アンビエント・ミュージックが持っているもうひとつの側面である〝ミニマリズム〟は、(流通方法も含めた)カセットというフォーマットだからこそ体現しやすいのかも。そして僕はもう一度、かわいらしいフェルトのポーチを手に取る。


 FilFla(フィルフラ)、Minamo(ミナモ)、Fonica(フォニカ)などエレクトロニカ系のユニットから映画/演劇への楽曲提供、大手企業のCM曲まで、〝多彩/多才〟という言葉がぴったりな活動を展開している杉本佳一によるFourColor(フォーカラー)名義の新作は、こうしてカセットというフォーマットでリリースされた。


 抽象的なサウンドの断片が折り重なって躍動感をも生み出す音像は、アンビエント(環境)というよりも僕たちの鼓動に似ている。それは、アルバム・タイトルである『Ballet』とも響きあうようだ。周縁と内面、優雅さと不穏さ、テクノロジーと肉体性、デジタルとアナログ。相反するイメージが静かに、スリリングに混ざりあう。そして、カセットが持つ〝限定性〟は、このアルバムを手にしたときに〝可能性〟へと変化するはず。


 「このアルバムは3万枚しか売れなかったけど、聴いた奴らはみんなバンドを始めた」。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのファースト・アルバムにまつわるそんな言葉を思い出した。そう言ったのも、またブライアン・イーノだ。事実かどうかもわからないし、ロマンティックでナイーヴすぎるけれど、音楽が持つ可能性を言いあらわしている。


 「どれだけ多く」ではなく、ひとりひとりに「どれだけ深く」届くかということ。杉本佳一が意識的に選び取ったカセットというフォーマットとFourColorとしての40分ほどのアンビエント・ミュージックには、そんな思いが込められていると思う。



(犬飼一郎)

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 ピアノと声を軸に、打ち込みやギターをそえて、最低限の音数でシンプルにまとめられた本作は、高島匡未(タカシマ マサミ)という女性のソロ・プロジェクトだ。ヤング・マーブル・ジャイアンツを連想させるチープなリズム・マシーンのようなシンセ音から始まる「美しきコラージュ」をはじめ、80年代ニュー・ウェイヴ/ポスト・パンクの香りが全編に漂う。それは単なる焼きなおしではない。90年代以降の日本のポップス、オルタナティヴ・ロックを通過した感性で再構築されている。タイトル通り、繊細なガラス細工のコラージュのように、彼女の人生を彩る音の記憶を切り貼りしていく。


 タイトルからスーパーカーを思い出させる「SODACREAM」は、ピアノのループと打ち込みによるベース音が絡み、まるでらせん階段を上昇、あるいは下降していくような錯覚を与える。インスト曲「WHISPER」では、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインOnly Shallow」を連想させる轟音のなかに、あるはずのない囁き声を聞く。同じくインストの「ルーリードに花束を」は、タイトル通り、ルー・リードの「Vicious」を髣髴とさせるギター・リフに、教会の賛美歌のようなメロディーが重なり、まるでルーの魂を祝福し包み込むように広がっていく。


 また、元々ファッション・ショーのサウンドトラックとして作られたという本作は、聴きやすい一方、男性の私には近づきがたい雰囲気もある。女性だけの世界、もっといえば彼女の部屋、あるいはプライベートを覗き見したような気分にさせられる。それは香水さえ漂ってくるようなフィジカルな感覚だ。終盤に収録された、はかないピアノの響きが印象的なバラード「ガラスのガール」では、少女の乗るメリーゴーラウンドについて歌われている。小さな闇を抱えた彼女が乗る馬は戦いのペガサスだという。そこで私は、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を思い出した。ホールデン君が最愛の妹フィービーを回転木馬に乗せて見守る終盤のシーンを。そして、はたと気づいた。ひょっとしたら、本作にちりばめられたノイジーな擬似バンド・サウンドは、少女たちのイノセンスを守るための鎧なのではないか、と。どんな女性にも(そして男性にもアニマという形で)永遠の少女が息づいている。それは象徴的な意味で守られるべきなのだ。


 この作品は、ファッション・ショーというきらびやかな場のためという建前で作られている。しかし同時に、あらゆる少女たちにささげる、自らの闇と戦い生き残るための物語なのかもしれない。美を競うファッション・ショーは一見華やかだが、彼女たちがいずれ放り込まれる過酷な現実世界の縮図でもあるのだから。



(森豊和)



【筆者注】GLASS COLLAGE』はライヴ会場、通販限定です。通販先は公式サイトに順次追加されます。

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Satomimagae.jpg

 深みのある色あせたアコースティック・ギターの音が耳に流れこむと、すぐさま《小さな守り神が 白と赤の旗を振って こっちを見ている》と紡がれる。これは、Satomimagae(サトミマガエ)による『Koko』の1曲目、「Mikkai(密会)」の冒頭である。この冒頭を聴いた瞬間、筆者は『Koko』に魅了されてしまった。


 Satomimagaeは、都内で数多くのライヴをこなしてきた女性シンガーソングライター。本作はセカンド・アルバムにあたり、ファースト・アルバムは2012年発表の『awa』。それから、2012年に公開された映画『耳をかく女』でも音楽を担当したりと、幅広い活動をおこなっている。弾き語りが中心にある彼女の音楽をジャンル名で表せば、アシッド・フォークということになるだろうか。しかし、フィールド・レコーディングも用いることを考えると、ミュージック・コンクレートの文脈を汲んだ音楽とも捉えられる。シンプルに聞こえる彼女の音楽だが、注意深く耳を傾けると、実に多くの要素で彩られているのがわかるはず。


 といったところで、本作に話を戻そう。本作での彼女は、呟きすれすれの繊細な歌声を響かせている。押しつけがましい熱さであったり、今にも聴き手に掴みかかりそうな激しさはない。それでも彼女の歌声は、聴き手の興味を否応にも引きつける。同時に凛とした佇まいを脳裏によぎらせ、がなるだけのマッチョなバンドもどきよりも力強く見える。くわえて、妖艶。阿部芙蓉美(アベフユミ)や森田童子を想起させる、どこか孤独な雰囲気も魅力的。


 歌詞のほうも、幻想と現実の境目が曖昧な風景を描いていて面白い。「Ishikoro(石ころ)」は少し殺伐とした空気を漂わせるが、アルバム全体としては母性的な温かさを垣間見せるのが興味深い。これはおそらく、本作における彼女の歌い方が、母親が子供に童話を読み聞かせるときのテンポに近いからだ。ひとつひとつの言葉を丁寧に発し、まるで大事な我が子に言葉を刻みつけるかのように。それゆえ、淡々としているように聞こえるその歌声には、彼女の豊かな感情表現を見いだせる。


 また、ミックスとマスタリングをドローン/ アンビエント作家のChihei Hatakeyama(畠山地平)にまかせた影響か、本作は優れたアンビエント・アルバムとしても楽しむことができる。彼女の歌声は、聴き手のほうから歩み寄ることを求める受動性が色濃いゆえ、その歌声に傾ける意識を薄くすると、何かしらの風景を彩る一要素に変身してしまう。川の流れる音だったり、風が吹く音、あるいは風鈴が鳴る音と一緒の自然的なものに近づく。Satomimagaeという記号を捨て去り、〝誰かの歌声〟になるというか、さながら残留思念に触れてるような気分。


 とにかく、非常に面白い聴体験が待っている。




(近藤真弥)

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猛烈リトミック.jpg

 もしかすると、赤い公園というバンドは気分屋なのかもしれない。たとえば、ファースト・アルバム『公園デビュー』に収録された「今更」は、一聴すればメロディーが耳に残るキャッチーなポップ・ソングである。だが同アルバムには、実験的で殺伐とした音像が際立つ「つぶ」みたいな曲も収録されている。そもそも、メジャー・デビュー・ミニ・アルバムにあたる「透明なのか黒なのか」「ランドリーで漂白を」からして、赤い公園が一筋縄ではいかないバンドであることを示していた。圧倒的な勢いとカオスが渦巻いた前者、そして赤い公園の中心人物である津野米咲の高いソングライティング能力が前面に出た後者は、作風が驚くほど違うこともあって、それぞれ "上盤(黒盤)" と "下盤(白盤)" に分けてリリースされた。どうにか1枚にまとめてファースト・アルバムにする手もあったと思うが、赤い公園が持つ膨大なエネルギーと音楽的彩度は、1枚のアルバムという形に収めるのが難しいのも事実。だからこそ筆者は、エネルギッシュな空気で満ちた『公園デビュー』に対して、散漫すぎる印象をぬぐい去ることができなかった。


 しかし本作には、『公園デビュー』で見られた散漫さがない。メンバー全員の演奏スキルが格段に上がり、津野米咲のソングライティング能力もさらに磨きがかかっている。「透明なのか黒なのか」の粗削りな音が好きなリスナーからすれば戸惑う作風かもしれない。だが、考えぬかれたうえで鳴らされた本作の音は、やはり魅力的だ。ひとつひとつの音色もこれまで以上に練られていて、聴くたびに驚きがある。そんな充実したバンドの雰囲気は、その名もズバリ「楽しい」という曲にも表れていると思う。


 また、KREVAをゲストに迎えた「TOKYO HARBOR」は、赤い公園の新たな側面が示された曲として非常に面白いものだ。ヒップホップの要素を滲ませながら、街の一場面を切りとったような歌詞とアーバンな雰囲気を醸すサウンドスケープは、80年代のシティー・ポップを連想させる。筆者からすると、SeihoとAvec AvecによるSugar's Campaignやtofubeatsの名も浮かぶのだが、そうした新世代と共振できるという意味でも興味深い。


 そんなアルバムを最後まで聴きとおすと、本作が "歌" を強く意識したポップス・アルバムであることがわかるはず。"みんなのうた" と言える親しみやすさを備えた曲が多く収められ、そうした内容に呼応したのか、佐藤千明の歌声はその表現力を飛躍的に高め、艶も増している。その歌声は間違いなく、ポップス・アルバムとしての本作をより魅力的にする大事な要素だ。


 本作は、赤い公園がこれまで残してきた作品と比べれば、飛び道具は少ないしカオスも減退している。だが、繰りかえし何度も聴きたくなる味わい深さを持った作品であることは確かだ。その味わい深さは言いかえれば、ボディーブローのようにじわじわリスナーの耳に浸透していき、安易に消費されない強さとも言える。少なくとも、瞬く間に消費され捨てられるインスタント・ポップとは一線を画する。こうした多くの人に届けるための普遍性に挑みつつも、自分たちだけの音を鳴らすことも忘れない姿勢に、筆者は盛大な拍手を送りたい。



(近藤真弥)

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 後期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドを連想させるギター・サウンドはダークさとともに、どこか懐かしいあたたかみを感じる。京都のアート・パンク・バンドmy letterの音楽には、聴くものそれぞれの個人的な思い出に直接つながっていくような不思議な感覚がある。メロディー・ラインの端々に日本情緒を感じるからかもしれないし、少なくとも彼らは単なるUSインディーの後継者ではない。


 「バンド・メンバー共通の音楽的バックボーンは実はあまりない。被ってないっていうのが結構重要で、それぞれ通ってきたものがあって、アイデアを持ち寄るということが凄く大切」。これはギター/ヴォーカルのキヌガサがインタヴューで語った内容だ。この発言から私が感じたのは、様々な影響を取り込み流用しながらも、自分自身の確たる個性を崩さない精神。何かをルーツとしてそれに従属するような存在ではないという意思。穏やかだが強固なステートメント。


 個々の楽曲に言及していくと、冒頭、重々しいハンマー・ビートに愛らしいキーボードが添えられ、ささやくようなヴォーカルに繊細なギターが絡みついていく「アメリカ」は、それぞれの人生という旅の始まりを告げる序曲のようだ。続く「夜は遠くから」はソニック・ユースを連想させるインスト・パートから始まる。単調に刻まれる8ビートにアンニュイなギターが絡み徐々に盛り上がっていく。中盤で加わるヴォーカルは他者を求めながらも離れていかざるをえないもどかしさを歌うが、後半で重なるやわらかな女性コーラスは、そんな矛盾する思いを中和していくようだ。《花は散った》と歌われる「壁」では、くるり「ばらの花」を連想させる淡々とした曲調にコーラスのかけ合いが美しい。くるりは青春の痛み、その美しさを花に例えたのだろうが、この曲でmy letterはその花が散るさまを歌い、最後に《あきらめた花をさかせよう》と誓う。


 ところで、バンド名は日本語だと「私の手紙」と読める。これは、私が書いた誰かへの手紙が宛先不明で戻ってきたのか、それとも個人史を綴った自分宛の手紙なのか、色々と推測できる。Eメールも今は昔、SNSの普及に伴い、世界は格段に狭くなったようで、より小グループ、個々人へと分断された感もある。我々は沢山の他者とコミュニケートしているようで、実は自分自身への手紙を書き続けているのかもしれない。しかし、共有されない個という表現が、逆に密かに広く共有されていくこともありうる。時間的にも空間的にも、点在しながら緩やかにつながっていく個人的な手紙。その宛先はどこでもないし、同時にあらゆる場所なのかもしれない。



(森豊和)

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by the sea_endless-days-crystal-sky.jpg

 まずは、このアルバムのリリース直後に(昔だったら「セカンド・カット・シングル」って感じで)ユーチューブ公開された2曲目「You're The Only One」のヴィデオを観て「おおっ!」と思ってしまった。


 曲自体も素晴らしい、写ってるメンバーたちの様子にも共感が持てた。最近はリリック・ヴィデオ(歌詞が入ってるやつ、ってことね)も珍しいものではなくなってきたとはいえ、それだけじゃない。イントロのギター・コード進行まで「公開」しちゃってる...という! とくに西洋では何世紀もつづく「フォーク・ミュージック」の根底にある「みんなで歌おう、プレイしよう」というD.I.Y.スピリットを、すごくいい形で受けついでいる。


 それがなかったら、今となってはぼくも気づかなかったかもしれないけれど、A(メジャー)7thコードもちゃんと入ってる、っつーね! いや、80年代前半に本国(や欧米の一部)で人気の高かったポスト・パンク一派...日本では90年代以降にネオ・アコースティックなんて呼ばれるようになったバンドたちの特徴のひとつも、メジャー7thコードを多用してることだった。エヴリシング・バット・ザ・ガールのふたりあたりはその典型って感じだったし、アズテック・カメラなんか、たしか歌詞にまで(笑)それを出してた...。


 全体的に言って、ぼくのような(当時を体験した)ジジイは、これ、かなり80年代のUKポスト・パンク・インディーを思いださせるかも? と言いたくなってしまう部分は、たしかにある。どこかサイケデリックな雰囲気もあって、ポップでありつつフォーク・ロック的で、そのものずばりではないけれど、いわゆるシューゲイザーにつながってくる味もなくはない。


 それはUKバンドではなかった(80年代には一時UKに住んでたにしても結成地はオーストラリアだった)し、00年代の再結成時には(当時ぶいぶい言わせてた)USインディー・バンド関係者がバックを務めていたので、まさに無国籍バンドと言ってもいいような、ザ・ゴー・ビトウィーンズに、とてもよく似ている曲まであったりして。


 8曲目「The Stranger Things」なんだけど、これ、シンコペーションを通りこして変拍子っぽく響いてしまうリズム構成も含み、かなり彼らの「Cattle And Cane」っぽい。もし意識していない(いわゆるオマージュではない)とすれば、ここまで似ることってあるのか? というくらいに。


 ただ、もちろんこのアルバム、決して「リヴァイヴァル」っぽくは全然ないどころか、今の空気にジャストすぎるくらい合っている。調べてみたところ、彼らはUKリヴァプール近郊のバンド、ザ・コーラル周辺とも仲がいいようで、それを(たしか)脱退したビル・ライダー・ジョーンズも参加している。でもって、これは(前作が結構評判よかったらしいので)満を持してリリースした、セカンド・オリジナル・アルバムらしい。


 なるほど、リヴァプールか。90年代のそれを代表するバンドのひとつだったザ・ブー・ラドリーズの初期ほどはポスト・パンク・オルタナティヴ色が強くはないけれど、彼らの「爽やかとも言えるポップ・サイド」が好きだったら、これもいけるかな? そして『Endless Days Crystal Sky』というアルバム・タイトル(なんとなく、よっつめの単語はSkiesと複数形にしたほうが語呂がいい気もするんだけど、逆にそうじゃないところが、かっこいい!:笑)における言葉の使い方などは、そう、80年代初頭の同地を代表するバンドだった、エコー&ザ・バニーメンを連想させる...。


 要するに「いい意味で、伝統を継承する」ってのは、こういうことなんじゃないかな。一聴地味に感じるかも(たとえば、でっかいお店の試聴機で聞いたらスルーされちゃうかも?)だけど、実にグレイトなアルバムだと思う。




(伊藤英嗣)


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 いまでこそザ・2・ベアーズは、裏方として音楽業界で生きてきたラフ・ランデルとジョー・ゴッダード(ホット・チップ)のユニットだと知られている。だが、デビューEP「Follow The Bear」(2010)がリリースされた当時は、ガーナ出身のクマ2匹によるユニットらしいという情報も流れたりと、少々うさんくさい雰囲気があった。まあ、すぐに正体がバレたことをふまえると、かなり雑な設定だったのは容易に想像がつく。ふたりも当初の設定にこだわりを持っていないようで、MVやアーティスト写真でも堂々と素顔を見せている。いまだアンドロイドであり続けるダフト・パンクとは大違い。


 とはいえ、ふたりの作るポップ・ソングが魅力的なのは確かで、しかもイギリスのクラブ・カルチャーに向けられた愛情も備えている。それは本作『The Night Is Young』でも健在。特に2曲目の「Angel (Touch Me)」なんて、マッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴ期のイギリスを連想させるハウス・ミュージックである。また、この曲に限らず、本作では随所でマッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴに対する憧憬が見受けられる。「Angel (Touch Me)」ほどではないにしろ、ほとんどの曲で80年代末から90年代前半のハウス・ミュージックのエッセンスが漂っているのだ。作品で例を示すと、ニュー・オーダー『Technique』、そのニュー・オーダーのバーナード・サムナーがジョニー・マーと結成したエレクトロニックの『Electronic』、さらにはペット・ショップ・ボーイズ『Introspective』のような音。それゆえ、お世辞にも "斬新!" と言える作風ではないが、過去のダンス・ミュージックが持つ面白さを現在に伝えるという役目はしっかり果たしている。そこにポップ・ソングとしての人懐っこさがあるのも、ザ・2・ベアーズの持ち味。


 そうしたサウンド面だけでも、イギリスのクラブ・カルチャーに向けられた愛情は十分に表現できているが、本作にまつわるヴィジュアル面も興味深いので書いておく。まずは、本作から先行で公開された「Angel (Touch Me)」のMV。ドライバーが酒を呑んで酔っぱらう様が描かれているように見えるが、錠剤らしきものを口に含んだあと笑顔で踊りだし、そのあと異様な発汗に襲われる描写もあることから察するに、錠剤はエクスタシーだと思われる。エクスタシーといえば、マッドチェスターやセカンド・サマー・オブ・ラヴを語るうえで欠かせないドラッグだが、そんなエクスタシーの効果と副作用を約3分のMVにしてしまうセンスは、思わず笑みがこぼれてしまうほどストレート。くわえて絶妙なのが、ドラッグを称揚する内容になっていないこと。それこそ映画『トレインスポッティング』のように、あくまでひとつの文化として存在するから描いているに過ぎない。こうしたドラッグに対する姿勢を日本人が完全に理解できるかは正直わからないが、ここはひとつ、"お国柄の違い" を楽しんでくれたらということで。


 そして、もうひとつ本作から公開された「Not This Time」のMVでは、多くのドラァグクイーンがフィーチャーされている。もともとドラァグクイーンはゲイ・カルチャーのひとつだが、クラブ・カルチャーにも影響をあたえているのは、ダンス・ミュージックを熱心に追いかけている者からすれば説明不要だろう。クラブ・カルチャーは、ゲイなどのマイノリティーと呼ばれる人たちの受け皿にもなってきた歴史があるだけに、そうした歴史に対する目配せを「Not This Time」のMVは表現したと言える。ラフとジョーは、本質的にはクラブ・カルチャー畑の出身じゃない門外漢だからか、こうした "気配り" を欠かさない。そう考えると、スウィートなレゲエ・ナンバー「Money Man」で、サウンド・システム文化を讃える「Soundbwoy」などが有名なジャマイカ出身のスタイロGをゲストに迎えたのは、慧眼の一言に尽きる。ザ・2・ベアーズが拠点とするイギリスとサウンド・システムは、切っても切れない関係だからだ。たとえば、50年近い歴史を持つイギリスの祭り "ノッティング・ヒル・カーニバル" が、ジャマイカからイギリスに移り住んできた人たちによってサウンド・システム文化が持ちこまれたことをキッカケにして生まれたのは有名な話かもしれない。このサルサやレゲエが鳴り響く祭だけでなく、イギリスで誕生したジャングルやダブステップなども、サウンド・システムの強い影響下にある。これらのことをふまえると、スタイロGの起用には "さすがわかってる!" と膝を打ってしまうのだ。


 時として、"内部" よりも "外部" のほうが、その文化に宿る寛容性や魅力を上手く表現できるのかもしれない。それこそ、セカンド・サマー・オブ・ラヴの空気を的確に捉えた、プライマル・スクリーム『Screamadelica』のように。



(近藤真弥)

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 《Modern Love》などを中心としたポスト・インダストリアル・ブームの象徴であるアンディー・ストットの前作『Luxury Problems』は、いまも絶大な存在感を放っている。呪術的でダークなサウンドスケープには聴き手の心を掻きむしるエモーションが宿り、深淵の底を這うようなズッシリとしたグルーヴは黄泉にいざなうかのような怪奇さを醸す。ダブ・テクノ、インダストリアル、アンビエント、ドローン、さらにはコクトー・ツインズというインディー・バンドまで引きあいに出されたが、『Luxury Problems』の群を抜いた独創性はそのどれにも当てはまらない。ゆえにこのアルバムは、ポスト・インダストリアル・ブームが落ちついた現在にあっても私たちを魅了する。


 また、ニュー・バウハウスの写真家として知られるアーロン・シスキンドの "Pleasures and Terrors of Levitation" シリーズを連想させるジャケットも素晴らしかった。そのアーロンがよくテーマに用いた "死" の匂いと殺気をいまだ放ちつづけ、『Luxury Problems』が不朽の傑作として存在するための重要な要素になっている。サウンドはもちろんのこと、ヴィジュアル・イメージでも抜かりない『Luxury Problems』が残した傷痕は、いまも私たちの心にまざまざと刻まれている。


 その傷痕が癒えぬうちに、アンディーは新たなアルバムを完成させた。前作から約2年ぶりとなる『Faith In Strangers』である。本作を作りあげるまでにアンディーは、コウトン「Shuffle Good」、トリッキー「Valentine」、バティラス「Concrete」、マップス「I Heard Them Same」といったリミックスを残し、デムダイク・ステアのマイルス・ウィテカーと組んだミリー&アンドレア名義では、フロア仕様の曲が多く収められたアルバム『Drop The Vowels』を発表。加えて今年5月には来日公演をおこなうなど、精力的に活動してきた。それゆえ、"待望の!" と大袈裟に喧伝できるほどの長い不在を感じなかったのが正直なところ。とはいえ、仮に長い間不在だったとしても、アンディーに対する注目が薄れることはなかったと思う。『Luxury Problems』以降にリリースされ、ポスト・インダストリアルの文脈で捉えられるアルバム、たとえばラヴ・カルト・テイク・ドラスの『Yr Problems』、それからアメリカ同時多発テロ(9.11)をテーマにしたヴァチカン・シャドウ『Remember Your Black Day』、第一次世界大戦の写真をジャケットに使用したサミュエル・ケーリッジ『A Fallen Empire』、そしてイギリスの首相デーヴィッド・キャメロンと同国の財務大臣ジョージ・オズボーンをネタにしたパーク『The Power And The Glory』などは、それぞれ持ち味がある良質なアルバムではあった。しかし、『Luxury Problems』と双璧を成せるかと言われれば、やはり難しいだろう。これらの作品を楽しみながらもつくづく思ったのは、『Luxury Problems』の "次" を形にできるのはアンディーだけなのだという確信であった。


 とまあ、早々と本作から話が逸れてしまったが、『Faith In Strangers』は私たちの期待に応える充実作だと言っていい。まずは前作以上に興味深いジャケットについて。フィーチャーされている面長でタイ米のような彫像は、イタリアのリヴォルノで生まれた芸術家アメデオ・モディリアーニの "Tete"という作品。病弱だったモディリアーニは画家として有名かもしれないが、彫刻家としても、体力面での不安が原因でやめるまではいくつか作品を残している。そのうえ、20世紀前半パリを中心に活動していたグループで、自由奔放な生き方を求める画家たちが集まった "エコール・ド・パリ" の重要人物でもある。35歳で夭逝するまでドラッグや酒が常に付いてまわったというモディリアーニの生き様は "エコール・ド・パリ" の精神を象徴するもので、音楽ファンからすると、ジム・モリソンやイアン・カーティスなど、いわゆる破滅的なロック・スターの精神を見いだせるかもしれない。


 そんなモディリアーニの "Tete" を使用した本作のジャケットだが、バックの街がニューヨークというのもこれまた面白い。ニューヨークといえば、かつて2001年のアメリカ同時多発テロで標的となったワールドトレードセンターがあり、2008年のリーマン・ショックを引きおこしたリーマン・ブラザーズが本社を構えていた街である。このふたつの出来事が世界中に影響を及ぼしたのは言うまでもないが、これらの中心地となったニューヨークをバックにアウトサイダーとして自堕落な人生を歩んだモディリアーニの彫像があるというのは、とても意味深に思える。ロシアのマルク・シャガールや日本の藤田嗣治なども絡んでいた "エコール・ド・パリ" の多国籍な側面をふまえると、本作のジャケットは人種の坩堝とよく言われるアメリカに、多国籍な "エコール・ド・パリ" を重ね合わせたとも考えられる。また、その象徴として、異端性あふれるがゆえに芸術界で孤立したモディリアーニの作品を選んだのは、その異端性をマイノリティーと呼ばれる人たちの暗喩に用いるためではないだろうか? 加えて、"Tete" がアフリカ彫刻からインスピレーションを受けて作られたということも、本作を深く理解するためのヒントになると思う。


 そう考えると、レーベルから発表された本作のプレスリリースで、ロン・ハーディー、プリファブ・スプラウト、ドーム、アクトレス、コクトー・ツインズらと一緒に、アーサー・ラッセルが挙げられていることにも納得できる。アーサーはアメリカのアイオワ州オスカルーサ出身のアーティストで、ニューヨークに移り住んでからはパラダイス・ガラージというディスコを語るうえで欠かせないクラブへ頻繁に通い、自身も数多くのディスコ・チューンを制作した。そして、ゲイであった。このように本作は、ジャケットや影響源となったアーティスト、さらには "ニューヨーク" というキーワードを繋げていくだけでも多くの暗喩を見いだせる。だが、そこにアンディーのサウンドが交わると、これらの暗喩はより複雑怪奇になっていく。これまで書いてきた暗喩をふまえて、「Violence(暴力)」「Science & Industry(科学と産業)」「Damage(被害)」といった曲目に目をやると、本作にはアメリカや消費主義に対する徹底した皮肉が込められているのがわかるはず。


 なんて言うと、"さすがにまわりくどくないか?"と言いたくなる者もいそうだが、こうして聴き手にいろいろ考察させるのも表現の役割なのだからまったく問題にならない。むしろさまざまな解釈と観点を生みだすという点において本作は、音楽以外の表現形態を含めて考えても秀逸な作品だと言える。このような本作と類似性が見られる作品を強いて挙げれば、カナダの映画監督グザヴィエ・ドラン制作の『トム・アット・ザ・ファーム』(2013)だろうか。ビートニクの感性を現代に蘇らせ、同時にアメリカへ向けた痛烈な批判を繊細なタッチで描いた物語に込めたこの映画は、本作に匹敵する多くの暗喩と情報量が渦巻いているからだ。本作と『トム・アット・ザ・ファーム』は共に現在と共振できる要素を持ち、さらにグザヴィエがゲイであることを考えると、マイノリティーとされる人々からの視点を孕んでいるという点も共通項になる。


 それにしても、コンセプトだけの作品に仕上がっていないところは、さすがアンディーというべきか。前作から引きつづき、アンディーのピアノ教師だったというアリソン・スキッドモアが全9曲中6曲でヴォーカルを担当したこともあり、ポップ・ソング集としても聴ける幅広さを獲得している。前作にあったダークで退廃的な雰囲気は深化し、聴き手の精神を肉体から解き放つかのような神々しい恍惚感も健在。冒頭で書いたジャンルの要素がすべて詰まった彩度ある音楽性は特定のジャンルに括れるものではないし、もっと言えばどう呼んでも成立してしまう。それほどまでに本作は独創的だ。


 前作よりもヘヴィーなベースが際立っているのは、おそらく『Drop The Vowels』を経たからだと思う。その特徴が顕著に表れているのは、ミリー&アンドレアのサウンドを連想させる「Damage」だろう。ビートの起伏が激しい「How It Was」もベースが前面に出ていて、本作の中では一番踊りやすい曲だ。そういった意味で本作には、ダンス・ミュージックの享楽性もそれなりに残っている。とはいえ、それも残滓レベルの話だが・・・。やはり全体的にはダウナーで不気味なサウンドスケープが目立ち、前作と比べていささか音の隙間がある。前作がその圧倒的かつ荘厳な世界観で聴き手を蹂躙するような能動的作品だったとすれば、本作は聴き手を受けいれる寛容さと誘惑で満ちた受動的作品である。それゆえ前作以上に多くの人がコミットできる懐の深さがあり、"ポスト・インダストリアルの1枚" に収まらない多面性を備えている。フィールド・レコーディングやサンプリングを駆使するなど、貪欲なチャレンジ精神も見逃せない。


 アンディー・ストットはまたしても、私たちを挑発してみせた。さあ、次は筆者も含めた私たちがその挑発に応える番だ。



(近藤真弥)

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DJ Spoko『War God』.jpg
 南アフリカのハウス・ミュージックを愛聴する人は、いったいどれだけいるのだろう? 最近は配信サイトでも買えるようになったとはいえ、日本のレコード・ショップのハウス・コーナーに並んでいるのは、イギリス、アメリカ(特にニューヨーク)、ドイツのものがほとんど。日本では、南アフリカのハウス・ミュージックがリスナーに行きわたっているとは言えない。


 じゃあ南アフリカ産ハウスのクオリティーが低いのかといえば、決してそうじゃない。2010年に「Superman」というフロア・ヒットを放ったブラック・コーヒーは世界的なDJ/プロデューサーだし、その「Superman」にヴォーカルで参加したブシーは、『Princess Of House』という良質なハウス・アルバムを残している。他にもリキッディープやCWBが質の高いシングルを発表したりと、南アフリカのハウス・ミュージック市場は日本のリスナーが想像するよりも遥かにデカい。それは、ブラック・コーヒーのフェイスブックの「いいね!」数にも表れていると思う。


 そんな南アフリカから、またひとつ興味深いハウス・ミュージックが届けられた。DJスポコの『War God』である。DJスポコは12歳でプロデュースを始め、南アフリカで10年近く活動している男。南アフリカのダンス・ミュージック、シャンガーン・エレクトロの第一人者ノジンジャからサウンド・プロダクションを学んだそうだが、DJスポコは自身の音楽を"バカルディー・ハウス"と呼んでいる。


 確かにDJスポコのサウンドは、シャンガーン・エレクトロと呼べるものではないし、ブラック・コーヒーのソウルフルで上品なハウス・トラックとも違う。粗々しい質感が特徴の音粒に、性急かつ肉感的なグルーヴ。そして何より、汗臭い。お祭り騒ぎの祝祭感であふれ、性欲すらも漂わせる猥雑な雰囲気。それゆえ『War God』に収められた曲のすべては、聴いていて楽しめるものであるのは間違いない。シンセの音からはシャンガーン・エレクトロの影響も見受けられるが、リズミカルな展開とチープで享楽的なところは、南アフリカのクワイトに通じる要素をうかがわせる。こうしたバカルディー・ハウスと類似するサウンドといえば、ブラジルのテクノブレーガと呼ばれる音楽だろうか。要は、踊って楽しんだもん勝ちな音楽であるということ。


 だが、トラックにつけられた曲名は暗喩を滲ませる。アルバム・タイトルもそうだが、「More Pain」「Civil War」などは、タウンシップと呼ばれる黒人居住区に住んでいたDJスポコの背景を考えると、どうしても意味深に思えてしまう。南アフリカといえば、かつて人種隔離政策のアパルトヘイトがおこなわれていたことでも有名だが、タウンシップはアパルトヘイトの影響で黒人が強制的に住まわされた場所という歴史を持っている。その影響は、アパルトヘイトが完全撤廃されたいまも差別や格差という形で残っているのは有名かもしれない。華やかなダウンタウン、それから住民の多くが白人のゲーテッド・コミュニティーと呼ばれる高級住宅街の目と鼻の先に、タウンシップはあるのだ。さらには"ブラック・ダイヤモンド"と呼ばれる黒人の中間所得層も出てくるなかで、黒人間の格差も問題になっている。こうした南アフリカの現状をふまえると、「Man In Black Suit」や「Captain Jack Spoko」といった、とある有名なアメリカ映画をネタにしたであろうタイトルも皮肉に見えてしまうが・・・。DJスポコは、《True Panther Sounds》からリリースしたシングルに「Ghost Town」と名づけるような男だから、ありえなくもない。


 そう考えると『War God』は、"踊り" や "祭り" 自体がひとつの抵抗手段や主張になりえることを証明したアルバムだと言える。パラダイス・ガラージの熱気、アシッド・ハウスの狂騒、そしてハーキュリーズ&ラヴ・アフェアがそうであるように。人は都合よく記憶を風化させる生き物だが、そのような者たちが『War God』を聴いてどう感じるのか、非常に興味深い。


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WarauBunshin.jpg

 映画を紹介するときによく使われる"ネタバレ"って言葉は、この『嗤う分身』には必要ない。もちろん、あっと驚くストーリー展開はあるけれど、それを語ったからといってこの作品を観る楽しみが台無しになることはないと思う。言わないけどね! そもそも"ネタ"だの"オチ"だので、わかったような気分にはならない不思議な魅力を持った作品だから。観終わったあとに向き合っているのは、(誰の心の中にもいるはずの)もうひとりの自分自身なのだと気づかされるはず。


 テーマとストーリーは、この秀逸な邦題『嗤う分身』に集約されている。映画の原題は『THE DOUBLE』、ドストエフスキーによる原作は『ドッペルゲンガー』(岩波文庫版では『二重人格』)という味気ないほどストレートなタイトル。邦題に加えられた"嗤う"のひとことは、日本語ならではの微妙なニュアンスがひりひりする。自分の分身がニヤニヤしている姿が目に浮かぶ。そしてスクリーンの中に現れるもうひとりの自分は、やっぱりニヤけている。親しげに"笑う"のではなく、不遜にも"嗤う"のだ。僕自身を。


 ピュアな心を持ちながらも仕事も恋も...というか、日常生活すべてを不器用に生きることしかできない主人公のサイモン・ジェームズ。そんな彼の前にある日突然、自分とまったく同じ容姿のジェームズ・サイモンが現れる。そして、密かに想いをよせている同じ職場のコピー係、ハナとの関係も少しずつ変化してゆく。


 一人二役で正反対の人格を演じきるサイモン/ジェームズ役のジェシー・アイゼンバーグと可憐さの中に深い闇を垣間見せるハナ役のミア・ワシコウスカの演技は、まるで二人っきりの舞台演劇のように濃密だ。その舞台とは、"ちっぽけだけど、平和な自分"と"理想だけど、手に負えない自分"、そして唯一の対象ともいえる"憧れ"がひっきりなしに交錯するところ。そう、それは僕たちの心の中そのものなのかもしれない。


 ひとりぼっちで目を閉じても、現実は何も変わらない。鏡を覗き込んでも、イケてる自分はそこにはいない。そして、恋するあの子にも悩みがあることなんて知る由もない。最善策は現状維持なのかな。人には言えない、知られたくない欲望だけが行動理由。そんなふうに自分が造り上げてしまった世界の秩序を破れるのも、自分しかいないのだけれど...。


 そんな複雑なプロットをリアルな心理描写とファンタジックなヴィジュアル・センスで手際良く描いてみせる監督・脚本のリチャード・アイオアディは、ヴァンパイア・ウィークエンド「Oxford Comma」、「Cape Cod Kwassa Kwassa」やカサビアン「Vlad The Impaler」、アークティック・モンキーズFluorescent Adolescent」などのPVも手掛けるインディー/オルタナティヴ・ミュージックにも近い存在(『嗤う分身』にもダイナソーJr.のJ.マスキスがひょっこり登場するから、要チェックね!)。「アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーのソロ・デビュー作はサントラだったでしょ。あの『サブマリン』って映画を監督したんだよ!」といえば、ピンと来る人も多いはず。同じくPV出身のミシェル・ゴンドリーやスパイク・ジョーンズが思い浮かぶけれど、ダークなのになぜか笑える『嗤う分身』の感性は新しい。コメディアン/俳優としても活躍する彼ならではの個性だ。


 散りばめられた分身/複製のメタファーはデヴィッド・リンチ的な暗示に満ちている。キューブリックを彷彿とさせるシンメトリーなアングルはスクエアに歪んでいる。そんな孤独な世界を映し出すのに、太陽の光は似合わない。不穏なオリジナル・スコアに混ざって響き渡るのは、坂本九の「上を向いて歩こう」やジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」など、60年代の昭和歌謡。面倒な自我とやらに掻き乱されっ放しの頭の中を映像化したらきっとこんなふうに見えるのだろう。「原作がロシア人で音楽が日本人。監督がイギリス人で主演俳優がアメリカ人」というカオスなハイブリッドは圧倒的に正しい。頭の中では、時代も時間も場所も関係なく、すべてがめちゃくちゃにこんがらがっているから。そして、それはポップで切なくて、こんなにも狂っている。少なくとも僕の場合はそうだ。


 "もうひとりの自分"を描いた『ファイト・クラブ』はまだマシだとさえ思える。エンドロールに流れるピクシーズの「Where Is My MInd?」には、"My MInd"を対象として意識している分だけ救いがあるような気がする。けれども、この『嗤う分身』はどうだろう。見つめ直さなくちゃならないものが"My Mind"の内側そのものだとしたら、その答えをどうやって見つければ良いのかな? その問いかけこそが、『嗤う分身』の本質なのだと思う。答えは観る人それぞれに託されている。




(犬飼一郎)

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Objekt『Flatland』.jpg

 オブジェクトことTJ・ハーツは、実に多面的な男である。《Hessle Audio》からリリースした「Cactus / Porcupine」はポスト・ダブステップを代表するシングルのひとつだが、「Objekt #2」収録の「CLK Recovery」では、ストレートな4つ打ちが特徴のテクノを披露している。とはいえ、オブジェクトの音楽はダブステップやテクノだけで構成されているわけではなく、ある者にとってはUKガラージの因子を見いだせる音だろうし、コスミンTRGとのスプリット・シングルに収録の「Shuttered」を聴いた者は、ドレクシアなどのエレクトロが流入していると感じるだろう。それほどまでにオブジェクトの音楽は多角的で、聴き手のあらゆる解釈に耐える懐の深さを持っている。


 そうした音楽を鳴らす才に恵まれたオブジェクトが、ファースト・アルバム『Flatland』のリリース元に選んだのは、ベルリンを拠点とする《PAN》。リー・ギャンブル『KOCH』やジェームズ・ホフ『Blaster』に象徴される、実験的かつ急進的な作品を数多くリリースし、昨今のエレクトロニック・ミュージック・シーンのなかでも一際注目されているレーベルだ。活動当初はジ・エックスエックスFKAツイッグスの作品を取り扱う《Young Turks》からシングルを出していただけに、なんだか極北に来てしまったなと言いたくもなるが、お似合いといえばお似合いである。


 さて、肝心の『Flatland』を端的に表すと、なんとも掴みどころがないアルバムのように思えてしまう。まず、キラキラとした未来的なサウンドスケープが際立ち、さまざまな音楽が撹拌された作風は、ロゴスの『Cold Mission』を想起させる。だが、このアルバムがジャングルやグライムの要素を醸すのと比べれば、『Flatland』の音はμ-Ziq(ミュージック)などのIDMに近い。そう考えると、ローン『Reality Testing』やフォルティDL『In The Wild』といった、ここ最近IDMを取り入れた作品が多くなってきた流れとも共振できる。


 とは言っても、「Ratchet」や「Strays」では先に書いたエレクトロを前面に出しており、いわばオールド・スクールなノリも強い。しかし、無機質で冷ややかな質感が際立つ「One Stitch Follows Another」は、シフテッド主宰《Avian》周辺のUKハード・ミニマル、あるいはハーツが住むドイツの《Ostgut Ton》に通じるサウンドである。


 こうした内容の『Flatland』は、過去~現在~未来が溶解した状態で存在し、高い音楽的彩度を誇る作品だ。それゆえ、"◯◯なアルバム" と断定するのが難しく、聴く人の感性次第でいかようにも姿を変えてしまう。再帰的な結論になってしまうが、ある者はIDMだと言い、ある者はエレクトロだと言い、ある者はテクノだと言うだろう。だから筆者も、"◯◯なアルバムだ!" と断言できないが、よりどりみどりな作品になったことで、『Flatland』は聴き手を夢中にさせる多彩さを獲得できたのだ。Resident Advisorのインタヴューでハーツは、『Flatland』について「この仕上がりにはとても満足していますけど、自分から取り除かないといけない要素がある気もしています。なので次回はもっとフォーカスした結果になるでしょうね」と語っているが、今回に限って言えば、フォーカスしなかったことでオブジェクトの多様性が見事に表れたと言える。



(近藤真弥)

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きのこ帝国『フェイクワールドワンダーランド』.jpg

 きのこ帝国『eureka』のレヴューで筆者は、次のように書いている。


 「「渦になる」を初めて聴いたとき、お世辞にも愉快とは言えない感情を抱いてしまった。あれは一種の拒絶反応、例えば、今まで見たことがない存在に遭遇したときの気持ち悪さに近いものだったと思う」


 彼らのデビュー・ミニ・アルバム「渦になる」、それからファースト・アルバムの『eureka』が、強い興味を持たせる内容であるのは確かだ。しかし同時に、聴き手に対する無用な攻撃性が目立つものでもあり、この部分がきのこ帝国を聴く際の引っかかりとしてずっとあった。怒りや憤りをサウンドに変換するのが悪いわけではないし、むしろジョイ・ディヴィジョンやジーザス・アンド・メリーチェインなどを愛聴してきた筆者からすれば、そのようなサウンドは大好きだ。とはいえ、怒りや憤りはあくまで音楽という表現の礎であってほしいし、わざわざ他者に向けて傷つけるための手段、もっと言えばその "傷" を演者と受け手のコミュニケーションとして捉えている節があったのが、ハッキリ言えば好きではなかったのだろう。


 だが、セカンド・アルバム『フェイクワールドワンダーランド』では、無用な攻撃性が鳴りを潜めている。聴き手を受けいれる隙と余白が生まれ、自分たちの音楽をできるだけ多くの人と共有したいという意思が見てとれる。これまで以上にメロディーと歌が際立ち、胸ぐらを掴んで自分たちの世界に引きずりこむ強引さよりも、手を繋いで導く優しさが色濃い。他者を拒むように鳴らされていた轟音もほとんどない。


 こうした作風に至ったのは、『eureka』のあとにリリースされたEP「ロンググッドバイ」の存在が関係していると思う。このEPは、音響面での実験精神が表れた「FLOWER GIRL」を収録する一方、《さよなら ありがとう 幸せになってね》と歌われる表題曲、さらに心地よいサイケデリックなサウンドスケープが耳に馴染む「海と花束」など、聴き手に寄りそう歌があるのも特徴だ。これをふまえると本作は、突然変異的に生まれた作品ではなく、きのこ帝国がこれまで切り拓いてきた道の延長線上にある作品だと言える。こうした側面は、デビュー当初から彼らを熱心に追いかけてきた者たちも納得できる"物語"と"深化"として、しっかり受けいれられるだろう。


 だが、本作が何よりも素晴らしいのは、これまでのきのこ帝国を知らずに聴いた人も惹かれる力強さが宿っていることだ。オープニングを飾る大名曲「東京」や続く「クロノスタシス」など、本作には "街"という風景がひとつの側面として存在する。味気ないアスファルトの香り、儚い光を放つ夜の街灯、さらにはそこを行き交う人々の呼気。このようなものが本作では表現されている。温もり、冷たさ、喜び、哀しみ、怒り、憤りなどさまざまな感情が熔解した形で渦巻き、聴き手の心を激しく揺さぶる。特に「クロノスタシス」は、先行で公開されたMVと合わせて聴くと、本作をより深く理解するための手助けになるだろう。関 和亮が編集なしのワンカットで制作した「クロノスタシス」のMVを観たときは、思わずザ・ヴァーヴ「Bitter Sweet Symphony」のMVを想起してしまったが、後者がリチャード・アシュクロフトの唯我独尊的なカリスマ性を活かしているのに対し、前者はヴォーカル/ギターの佐藤が街に馴染んで微笑みを見せている。かつての近づきがたい雰囲気はなく、彼女の中で何かしらの変化があったのではないか? と思わせる内容だ。意思の強さを感じさせる点は両MVに共通するが、前者が不遜でギスギスしているとすれば、後者は優しく温かいし、キラキラしている。確かに孤高でいることのカッコよさも惹かれるものではある。だが、フェイスブックでいくらフレンドを作り、ツイッターでフォロワー数を増やしたところで、それはあくまで緩やかな繋がりによって維持されたネットワークに過ぎず、こうした脆さに不安を抱いてしまう人も少なからずいるだろう(というか、いるからこそクローズドなLINEが普及してるのだと思う)。そのような孤高になれない者たちにとって「クロノスタシス」は、ひとつの希望になりえる曲だ。


 そして、本作の中でも特に耳を惹かれるもう1曲が、表題曲の「フェイクワールドワンダーランド」だ。アコースティック・ギター、ハーモニカ、佐藤のヴォーカルというシンプルな構成で、1分弱足らずの短い曲である。しかし、そこで紡がれる言葉は、他の曲と比べても一際強く迫ってくる。


 《一瞬の世界の醜ささえ 越えてゆけるさ そんな気がした 一瞬の世界の美しさに 騙されて 君と歩きたいのです》

(「フェイクワールドワンダーランド」)


 《未来はそんな悪くないよ》と控えめに唄われる、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」がアクチュアリティーをもって語られる現在には、夢や理想の居場所はないのかもしれない。とはいえ、それでも人は夢や理想を語る。KOHH(コウ)の「I'm Dreamin'」がそうであったように。その欲望は消費主義という名の蟻地獄に利用されることも多々あるが、誰かを好きになったり、あるいはこうなりたいという願望が日々を生きるうえでのエネルギーになるのも事実だ。


 SEKAI NO OWARIが綿密なファンタジーを提供する一方で、シャムキャッツなどが日常的風景を描いて支持される現在の日本のポップ・ミュージック・シーンは、二極化の傾向にあると思う。そうしたなかで、先に引用した「フェイクワールドワンダーランド」の一節は、そのどちらにも安易に偏らない絶妙なバランス感覚を持っている。たとえば、《世界の美しさ》とまんま唄うのではなく、《一瞬の》を加えるところなど。たった3文字の違いだが、この《一瞬の》によって「フェイクワールドワンダーランド」は、聴き手に問いかける説得力と返答を受けいれる余白を手にできている。複雑にこんがらがった感情を平易な言葉で表現しきった点では、チャットモンチー「シャングリラ」で紡がれる、《胸を張って歩けよ 前を見て歩けよ 希望の光なんてなくったっていいじゃないか》という一節に匹敵する。また、「フェイクワールドワンダーランド」が入ることで、その説得力がアルバム全体に及んでいるのも見逃せない。それゆえ本作は、アルバムとしても高い完成度を誇っている。


 もし、本稿を読んでいるあなたが、既存の価値観や常識に対する問いかけなり揺さぶり、あるいは理想や夢をポップ・ミュージックに求めているとすれば、本作を聴いてみればいい。その期待に応えてくれるはずだ。



(近藤真弥)

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Gui Boratto『Abaporu』.jpg

《What a beautiful life... What a beautiful world... I can see light... I can feel love... I can see the sun...》


 こんな一節を多幸感あふれるサウンドと共に紡いだ「Beautiful Life」は、2007年を代表するフロア・アンセムとして今でも輝いている。この曲によってギー・ボラットの名は、テクノ・シーンのみならず幅広い層から認知された。ダンス・ミュージックとしての高い中毒性を持ちながら、メロディアスでロマンティックなサウンドも備えていた「Beautiful Life」は、頻繁にクラブへ足を運ばない人たちの耳も魅了し、ダンスフロアの熱狂にいざなってみせた。やはり、メロディアスなトラックは強い。「Beautiful Life」と同年に発表されたザ・フィールド『From Here We Go Sublime』もそうだったか、当時のギー・ボラットのサウンドは "シューゲイズ・ハウス" や "シューゲイザー・テクノ" なんて呼ばれていた。このことからも、いかに「Beautiful Life」が優れた万人性を持っていたかわかるというもの。


 その「Beautiful Life」を本稿の書きだしとしたのには、もちろんそれなりの理由がある。ギー・ボラットの最新作『Abaporu』は、「Beautiful Life」に通じる歌心とメロディアスな側面が色濃いのだ。前作『III』はアンビエント色が漂う静謐な作品だったが、本作ではファンキーでアッパーなギー・ボラットの姿を見ることができる。さすがに "シューゲイズ・ハウス"と呼ばれていた頃の音を見いだすことはできないが、「Take Control」などは、「Beautiful Life」を連想する者も多いと思わせる素晴らしいヴォーカル・チューン。どこか哀愁を漂わせ、聴き手の感情が持つ機微を刺激し、耳と心を幸福感で満たしてくれる。このあたりは、リリース元の《Kompakt》が得意とするサウンドだが、ギー・ボラットはそれを象徴するアーティストのひとりと言っていい。


 全体的には、享楽的かつ開放的、そしてトランシー。少なくとも聴いていて気が滅入ることはないはずだし、むしろ心がどんどん昂っていく様を感じるだろう。コインは表裏一体、というのも変かもしれないが、本作はダークでヘヴィーなポスト・インダストリアルの余韻が残る現在において一種の清涼剤となりえる作品だ。



(近藤真弥)

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ARCA『Xen』.jpg

 ダンス・ミュージック・シーンでは、名義を使いわけ匿名性を醸す手法は決して珍しいものじゃない。とはいえ、その匿名性で遊んでいるかのような存在が、ここ数年の間で急激に増えたのは興味深いと思う。"u"を"v"に変えたチャーチズ(Chvrches)はまだ易しいほうで、たとえば日本だと、セーラーかんな子とおじぎという女性ふたり組のDJユニットぇゎモゐ(えわもる)、それからswaptvを中心とした§§(サス)というバンドがいるし、シフテッドが主宰する《Avian》から『Linear S Decoded』という秀逸なテクノ・アルバムを出したばかりのスウェディッシュ・デュオ、SHXCXCHCXSHなんてのもいる(Resident Advisorのインタヴューによると、「Hは無音なんだ。あとは、文字通り読めばいいだけ」だそうだ)。他にも、バンドキャンプで"vaporwave"のタグ検索をすれば、読み方がわからない匿名的な名前がごろごろある。なんだか、平野啓一郎が小説『ドーン』で提示した、場所や対人関係によって人格を分け、その場に適した自分が生じる"分人主義" 的感性に近いものを感じる。


 そんな分人主義的感性は、ベネズエラ出身のアルカことアレハンドロ・ゲルシが作りあげた本作『Xen』にも見いだせる。収録曲である「Thievery」のMVも含め、アルカのヴィジュアル面の多くを担うジェシー・カンダによる "分人" のほとんどが性別を超越した存在とされていること、そして、その存在が本作のジャケットでも大々的にフィーチャーされていることをふまえると、本作でアルカは自身のセクシュアリティーについて今まで以上にハッキリ表現しているように思える(アルカのセクシュアリティーについては、FADERに掲載された本作に関する記事が詳しい)。それは言ってしまえば、"分人"として自身の一側面を切り分けるのではなく、これまで切り分けてきた"分人"をかき集め、アレハンドロ・ゲルシという"個人"の物語を本作で表現したのではないか、ということ。


 そう考えると本作は、アルカのパーソナルな部分があらわになったという意味でのソウル・ミュージックである。こうした部分を考慮し、本作のタイトルが仮想マシンモニタの名称と同じであること、さらに冒頭で書いた分人主義的感性をふまえれば非常に面白い作品だと言えるし、ネット以降の状況と照らしあわせて社会学的に分析して楽しむのも一興だろう。だが、大きなシーンを生みだしたり、新たな潮流を作るような衝撃は去年発表の『&&&&&』よりも少ない。表題曲や「Sisters」といったビートが際立つ曲も、たとえばジャイアント・クロウの『Dark Web』を聴いたあとでは"斬新"と言い切れるものじゃない。ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを彷彿させる冷ややかでアンビエントな音像は、耳に心地よく馴染んで素晴らしいと思うが。



(近藤真弥)

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 2012年のファースト・アルバム『World, You Need A Change Of Mind(世界よ...必要なのは変心)』は、その年のトップ10にあげられるくらい愛聴した。初期そして最近のフェニックスとの関係でおなじみフィリップ・ズダールとの共同作業による「クラブ・ミュージックとポップ・ミュージックの交差した地点」感が、なによりたまらんかったというか。


 この待望のセカンド・アルバムでは(ファーストのように、とくに「ひき/おしの強い特定の誰か」というより)世界中のさまざまな新進クリエイターたちとコラボレーションをおこなうことで、自らの世界を深めつつ、理想的なスケール・アップを遂げている。


 前作およびこの新作に共通する特徴といえば、ラテンやワールド・ミュージック的要素と並んで、いわゆるジャズのエッセンスを、実に心地よくとりいれていること。単なるムードというレベルを超えて(いくぶん変態的な)ポップ・ミュージックとジャズを深く融合させてアーティストは、昔からたくさんいた。前者側から後者に接近したものといえばスティーリー・ダンとか、その逆であればマイルス・デイヴィスとか...。ただ、その「混ぜ方」の印象は、彼らとかなり異なる。まさにニュー・フェイズ、今の時代にふさわしく新鮮なものとなっている。


 それこそ、マイルス・デイヴィスが伝道師となり、今や普通の日本語にまでなっている「クール」というセンスのとらえかたが、なんか昔と全然違うというか。

 

 たとえば、サイケデリック・ロックにはじまって最終的にはUKフリー・ジャズと区別がつかないほど、ややこしくもかっこいい音楽をやっていた、カンタベリー一派のソフト・マシーン。彼らの最高到達点と思える『Six』(1973年)あたりに通じる部分もあるのだが、80年代末~90年代初頭の、いわゆるアシッド・ジャズを思わせる「うたごころ」も、これでもかというくらい備えている。ただ、前者が持っていた「知的にかっこいい感じ」の記号性も、後者が持っていたよりモード的にファッショナブルなそれとも無縁な感じ。その塩梅が、たまらなく素晴らしい。


 元ライトスピード・チャンピオン/現ブラッド・オレンジことデヴォンテ・ハインズ、スウェーデンのエレクトロニック歌姫ロビン、デーモン・アルバーンらと共演経験もあるガーナ人ラッパーのマニフェストなど、コラボレーターの人選にも、それは見てとれる。


 結局のところ「クール」になりきれるはずもない。なにせ、芸名がカインドネス(人間らしい思いやりの心)だからね。とはいいつつ、そこに縛られたくもないんだろう。今回のアルバム・タイトルは『アザーネス(それ以外)』ときた...。この、ひねくれかたも含み、スーパー・グレイト、だ!



(伊藤英嗣)

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 少し前、電車を乗り過ごしてしまい、気がついたら河川敷の景色を眺めていたことがあった。ヘッドフォンからは何気ない優しさで気持ちを射抜かれるような、Kate(ケイト)のこのアルバムが流れていた。ゆるやかな川、広い土手と空を舞う鳥たち。夕暮れ時の河原を歩く女子中学生や、のんびり犬の散歩をしているおじいさんにも、きっと誰にでも「こんな感じ」があるんだろうなあと思った。


 ケイトは、2009年より活動をスタートさせた3人組。個性的でありながら隙間のあるサウンドがどこまでも気持ちいい。2012年から約2年かけて制作された今作は、ひと言で言ってしまえばピアノをベースにしたインディー・ポップ・ミュージック。澄み切った青空のように爽やかな、極上のポップ・アルバムとなっている。メロディーの良さはもちろんのこと、何といっても心に響くのがヴォーカリスト、リン(中国人女性)の歌声。良い意味での青臭い彼女のヴォーカルはほんと、グッとくる。イギリス? 中国? アメリカ? ブラジル? 東京? その全てのようでどれでもない。まさしく異国を何ヶ国にも渡ってずっと旅してるような感覚。それが、いつのまにか聴く人それぞれの心象風景と重なってリアリティーを帯びていく過程こそが『TODAY』のスリルだ。『TODAY』というタイトルとヴォーカリストであるリンの優しいファルセット気味な声から、初めは毎日の生活に寄り添うような温かい音楽という印象を受けたが、聴いていくほどに煌びやかな、そして少しの過激さがなんとも頼もしく思えてくる。カラフルでポップなサウンドだけど前のめりな所もあって、耳に馴染みやすいグッド・メロディーなのにBGMになるつもりはさらさらなくて。むしろ、マンツーマンなコミュニケーションを迫られるようだ。


 歌詞も、"どこから来て何をするのか。99%の信頼と1%の裏切り。創作と秩序と破壊を行うのは神のみ。人間は考えて試して諦めるだけ。"という内容を歌った「99% Is Sincere for You」や、"多すぎることも少なすぎることもない。惑星が行ったり来たりする宇宙の物理法則に従っている"という内容の「Physical  Laws」など、ハート・ウォーミングな曲のイメージとはそぐわないものだったりする。そういったほんの少しの違和感といつか見た夢の断片を丁寧に繋ぎ合わせたような趣があちこちで顔を覗かせていて、それを発見するたびにハッと息を呑んでしまう。ともかく、『TODAY』にはまだ見たことのない景色が広がっているし、果てしなさを見せつける音世界に思わずゾクゾクする。聴けば聴くほどパンチを喰らわされる唯一無二の作品だ。



(粂田直子)

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The ‎Juan MacLean『In A Dream』.jpeg

《この光は愛によって照らし出されたもの この場所にあるすべての愛によって たくさんの声に耳を傾けてほしい どうかもう一度だけ》

(「Tonight」)


 この印象的な一節が登場する「Tonight」が収められた、ザ・フアン・マクリーンのセカンド・アルバム『The Future Will Come』。このアルバムを聴いたとき、筆者はすぐさま、"ああ、彼らはディスコの歴史を理解しているな"と思った。それは、ディスコが主にゲイなどのマイノリティーによって支えられた音楽であり、広められたという歴史。もちろん、"情報"としてなら、検索エンジンに"ディスコ"と入力すれば誰でも知ることができる。しかし、"知る"ことと"理解する"ことは、似ているようで別物だ。理解するためには、その音楽が積み重ねてきた歴史や文脈を体得しなければいけない。歴史から逸脱した表現も魅力的ではあるが、その逸脱も歴史を理解していなければ到底不可能な芸当だ(一部の天才と呼ばれる者を除いて)。


 ザ・フアン・マクリーンは、自らが鳴らしている音楽の歴史や文脈をちゃんと理解したうえで、それをより多くの人がコミットできるポップ・ソングに変換する才に恵まれている。先に引用した一節だけでなく、彼らが紡ぐ言葉のほとんどは、この世に生きるなかで抱く疎外感や孤独に心を荒らされる繊細な感性の持ち主にとって、小さくない励ましとなるものだ。性的指向は関係なく。


 こうした彼らの魅力は、『The Future Will Come』から約5年ぶりとなる本作『In A Dream』でも健在だ。前作以上にジョルジオ・モロダー的なエレクトロ・ディスコ色が濃くなり、「Love Stops Here」などは、さながらニュー・オーダーのようである。そういった意味で本作には、ポスト・パンク色も存在すると言っていい。前作のラストを飾った「Happy House」のようなアンセムはないが、そのかわりアルバム全体としての統一感は前作以上。ロボティックで、熱を帯びながらもどこか冷ややかな質感のサウンドが終始貫かれている。このような作風は80年代のニュー・ウェイヴを連想させるもので、ここ最近の作品でいえば、ラ・ルーの『Trouble In Paradise』や、マニック・ストリート・プリチャーズの『Futurology』に近い。


 歌詞のほうも特筆しておきたい。熱すぎないクールなナンシー・ワンの歌声に乗る言葉は、人の感情にまつわる機微を孕んでいる。この機微は、《君のことを本当に愛してくれる誰かに会えるかもしれない》《そして結局ひとりぼっちでクラブを出る》と歌われるザ・スミス「How Soon Is Now?」でも描かれた、"期待と失望" に通じるものだ。簡単には説明できない、複雑にこんがらがった感情と哀愁。さすがに《そして死にたくなるんだ》(ザ・スミス「How Soon Is Now?」)とまでは歌わないが。



(近藤真弥)

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AnD『Cosmic Microwave Background』.jpeg

 2013年も終わりに差しかかったころ、筆者はツイッターで「来年はハード・ミニマル」という予言めいたことを呟いた。この年は、イギリスのシフテッドが『Under A Single Banner』という、《Modern Love》などを中心としたポスト・インダストリアルの潮流とも共振できるハード・ミニマル・アルバムを発表したし、クラウズはティガ主宰の《Turbo》から、ダブステップ以降のベース・ミュージックとジャングル、そしてハード・ミニマルとインダストリアルを接続した『Ghost Systems Rave』をリリースしていた。それゆえ先に書いた予言を呟いたのだが、今年のダンス・ミュージック・シーンを見ていると、それもあながち的外れではなかったと我ながら思う。政治的メッセージが込められたパーク『The Power And The Glory』には、初期のジェフ・ミルズを想起させるハード・ミニマル・トラック「Dumpster」が収められ、現在16歳の新鋭ハッパは、マンニ・ディーと結成したハビッツ・オブ・ヘイトのシングル「Habits Of Heit」で、2010年代向けにダブステップを再解釈するなかでハード・ミニマルのエッセンスを取りいれている。パークはもともとハード・ミニマルに通じるトラックをいくつかリリースしていたが、ハッパのような新世代がハード・ミニマルに接近したのは見逃せない動きだろう。


 マンチェスターのデュオ、アンドによるデビュー・アルバム『Cosmic Microwave Background』も、こうした流れの上にある作品だ。本作を聴いて真っ先に思い浮かぶのは、初期のジェフ・ミルズ、サージョン、レジスといった、いわゆる90年代のハード・ミニマルやインダストリアル・テクノと言われるサウンド。このあたりは、長年のダンス・ミュージック・ファンにとって懐かしく感じるかもしれない。一方で、「Photon Visibillty Function」のグルーヴはハビッツ・オブ・ヘイトに通じるものとなっており、言ってみればダブステップを通過したインダストリアル・テクノとも言えるトラック。このトラックは、本作が過去のテクノを模倣しただけの懐古的作品ではないことを証明している。


 そして、ハード・ミニマルやインダストリアル・テクノにありがちなグルーヴ感の乏しさとも本作は無縁だ。ベース・ラインとリズムの組みあわせ方も秀逸で、アルバムとしての統一感を作りつつもグルーヴは多種多様。ゆえに本作は、ダンスフロアに相応しいのはもちろんのこと、リスニング・アルバムとしても優れている。


 激しくも冷ややかで、破壊的。そんなテクノ・アルバムに仕上がっているが、よくよく聴いてみると、アンドの巧みなサウンド・プロダクションを楽しめる深い作品。



(近藤真弥)



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OGRE YOU ASSHOLE『ペーパークラフト』.jpg
《あなたの周りを気づけば占領》
(「見えないルール」)


《きれいな海 あふれる光 ハリボデの街もなんだかいい》
(「いつかの旅行」)


 このふたつの印象的な一節が登場する、OGRE YOU ASSHOLE(オウガ・ユー・アスホール : 以下 オウガ)の最新アルバム『ペーパークラフト』を聴いて筆者が想起したのは、1998年に公開された、アレックス・プロヤス監督による映画『ダークシティ』だ。


 『ダークシティ』は、舞台俳優としても知られるルーファス・シーウェルや、今では "ドラマ『24』のジャック・バウアー" と呼ばれがちなキーファー・サザーランドのコミカルな演技を楽しめるSFスリラー。ルーファス・シーウェル演じるジョン・マードックが、ある日バスタブの中で目を覚ますと、なぜか記憶をなくしていて、おまけに殺人犯として追われる身になっていた。ジョンは逃亡を続けるが、そのなかで彼は、いま自分のいる街がストレンジャーという謎の異星人たちによって作られたものであり、その街に住む人々の記憶も、人の心を知るというストレンジャーの目的のため操られていること、さらに、自分が生まれ育った "シェル・ビーチ" は存在しないという事実を知ってしまう、というのが大方のストーリー。そんなストーリーは観客に、"真実"とはなんなのか?、そして、ジョンと妻であるエマの関係を通して "人との繋がり" について問いかける。


 アレックス・プロヤスが『ダークシティ』に込めたメッセージ、それは、人々は記憶に生かされるのではなく、おのおのに沸き立つ偶発的感情や不確実な行為の積み重ねによって生かされ、互いを繋いでいくということ。ストレンジャーは、同じ記憶を全員で共有しながら生きてきた画一的存在として劇中に登場するが、そのような存在に打ち勝つジョンは、偶発的感情や不確実な行為によって生じる多様性の象徴と言える。現にジョンは映画のラストで、戦いのなかで得た、ストレンジャーと同様の街を作りかえる力でシェル・ビーチを作り、ジョンの妻としての記憶を失い "アンナ" となってしまったエマと、シェル・ビーチに向かって共に歩きだす。つまり、偶発的感情のひとつである "愛" を信じたのだ。


 そんな『ダークシティ』と類似する思想が、『ペーパークラフト』では描かれているように聞こえる。そうなると、腰を据えて聴かなきゃいけない重厚な作品と思うかもしれないが、クラウトロック、ファンク、ポスト・パンクといった要素によって築きあげられたミニマルでサイケデリックなサウンドスケープは、重苦しさを感じさせない。肉感的なベース・ラインとシンプルなリズムでグイグイ引っぱっていく「見えないルール」や、トライバルなリズムが印象的な「ムダがないって素晴らしい」などは、ダンスフロアで流れたら観客が踊りだすであろうグルーヴを持っている。もちろん、石原洋(サウンド・プロデューサー)や中村宗一郎(レコーディンク/ミックス・エンジニア)という長い付き合いを持つスタッフと練りあげられた音粒は、聴きこめば聴きこむほど味わい深さが増してくるし、さまざまな音楽的要素が上手く混在しているおかげで何度聴いても飽きがこないから、腰を据えて音楽に向きあうタイプの聴き手にも届くだろう。おまけに、リリースからある程度の時が流れても、ふと想いだしたように再生してしまう魔力も宿っている。だが、誤解を恐れずに言えば、さながらイージーリスニングのように聴けるのだ。ソファに寝そべりながら・・・なんてシチュエーションで聴いても本作は見事に機能する。少なくとも、レディオヘッドのような聴いていて死にたくなる暗さはまったく感じられない。


 とはいえ、歌詞に注目してみると、『homely』とそれに続く『100年後』の流れを汲んだシニカルな言葉選び、さらには『homely』リリース時のインタヴューで出戸学(ヴォーカル/ギター)が語っていた、「居心地がよくて悲惨な場所」(※1)というテーマが健在なのは明白。ゆえに本作では、"熱を帯びた音に冷ややかな言葉" という、非常に興味深い共立が実現している。その共立は聴き手の多様な聴き方や解釈を許す余白を備えており、この点は坂本慎太郎の『ナマで踊ろう』に通じる。片手間で音に耳を傾けるだけでも惹かれるが、そこから作品に深く入り込むと想像力が刺激され、「画一的な熱狂」とは異なる連帯を私たちにもたらしうるという意味で。このような余白には、現在の日本を当てはめることも可能だし、身の周りの人間関係を重ねても不自然ではない。過去に出戸学も言っていた、「そういう場所をどう思うかっていうのはみんな次第なんじゃないかな」(※2)という姿勢が残っているからだ。


 また、本作の歌詞が、『homely』や『100年後』と比べるといくばくか具体的になっている点も見逃せない。もちろん、いろんな解釈ができる曖昧さを孕んでいるのは確かだ。しかし、《みんなが未来や夢を語り合った 問題は誰を見捨てるか》(「他人の夢」)、《不気味だルールは》(「見えないルール」)など、オウガにしては "言い切った言葉" も目立つ。


 かつて出戸学は、弊誌のインタヴューにおいて、編集長の伊藤英嗣と次のようなやり取りをしている。


「伊藤 : 日本でも何でもいいんだけど、『居心地がいいんだけどどうなのか...』という部分にしぼって、ズバリどうなんですか? そこを脱出したほうがいいと思うのか、それともそこにずっと居つづけていいと思うか?

出戸:気づかなかったらいいと思いますけどね。気づいちゃったときは居られなくなるんじゃないすかね。そんな感じしますけどね。」(※3)


 もしかすると、本作を作る過程でオウガは気づいてしまったのかもしれない。だからこそ、"言い切った言葉" が多くなったのではないか? そう考えると本作は、バンドとして着実に深化を果たしながらも、共時性と通時性の共存という音楽の理想形に近づいた傑作だと言えるだろう。



(近藤真弥)



※1、※2、※3 :  クッキーシーンでおこなわれた『homely』リリース時のインタヴューより引用。


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Kane West『Western Beats』.jpg

 ロンドンのレーベル《PC Music》を知ったのは、今から1年前くらいになるだろうか。キッカケは、ダニー・L・ハールの「Broken Flowers」という曲だった。シンプルなハウス・ビートに、哀愁を漂わせるメロディー。初めて耳にしたとき、なんだかオーパス3の「It's A Fine Day」を想起してしまったことは、今でも鮮明に覚えている。そこから《PC Music》のリリース作品を漁ってみると、トラップ・ビートに心地よい緩さを持つラップが乗るGFOTY「Bobby」や、UKガラージをキュートに鳴らしたデュックス・コンテンツ「Like You」など、バラエティー豊かなカタログであることもわかった。このあたりは、さまざまな要素が混合した音楽を数多く生み出してきたイギリスのポップ・ミュージック史に通じるなと思ったり。


 また、《PC Music》はヴィジュアル面も面白い。リリース作品のほとんどはサイトでフリーダウンロードできるのだが、作品ごとに凝った仕掛けが施されている。そのほとんどが思わずクスッとさせられるものだから、サイトを散策しているだけでも楽しい。こうしたトータル・アート的な見せ方は、同じく新世代のレーベルとして注目を集める《Night Slugs》とも共振するものだ。アーティストでは、FKAツイッグスやアルカなども、トータル・アート志向の持ち主と言えるだろう。ヴィジュアルやイメージなども重要視する多角的な見せ方は、数多くの娯楽で溢れる現在においては自然な選択なのかもしれない。膨大な情報量が行き交う現在、ただ音楽を作って発表するだけでは、多くの人に知ってもらうことは難しい。いま、最先端とされているレーベルやアーティストの多くが、ヴィジュアル面でも独自性を明確に打ち出しているのは、おそらく偶然ではないはずだ。


 さて、今回取り上げたケイン・ウェスト(と読むのだろう)の『Western Beats』、《PC Music》からのリリースにしては渋いと言えるサウンドだ。「Gameset」で鳴り響く人工的でツルッとしたシンセは《PC Music》印と言えなくもないが、全体的には、2000年代前半に隆盛を極めたエレクトロクラッシュ、それから初期の《Turbo》に通じる、シンプルでチープなサウンド・プロダクションが際立っている。音の抜き差しは最低限にとどめ、執拗な反復によって高い中毒性を生みだす。それでいて、ダンスフロアだけで通用するような偏った音作りはせず、iPhoneに入れて外で聴くというシチュエーションにも適したポップネスを備えている。収録曲から適例を挙げると、ミニマルなリズムの上に女性ヴォーカルのリフレインが乗った「Baby How Could We Be Wrong」や、ケロケロボニトのセーラが参加し、隙間だらけのビートが耳に残るシカゴ・ハウス「Good Price」になるだろうか。


 一方で、「Power Of Social Media」ではヒットハウスの「Jack To The Sound Of The Underground」をサンプリングしたりと、過去のダンス・ミュージックに対する造詣もうかがえる。こうした側面は、先に書いたエレクトロクラッシュや《Turbo》周辺に通じる要素も含めて考えると、最先端の音を闇雲に求めるというよりは、自身の中にある個人的音楽史を解体/再構築した、いわば"情報で遊ぶ"という感覚が根底にあるように思える。ゆえに本作は、《PC Music》のカタログを彩るに相応しい同時代性と、先達が築きあげてきた歴史や文脈を重んじる人たちも巻き込める魅力を持つに至った。そんな本作は、ただ情報で遊んでいるだけのその他大勢から抜きん出た作品である。



(近藤真弥)



【編集部注】『Western Beats』は《PC Music》のサイトでダウンロードできます。

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 日本のポスト・パンク/ニュー・ウェイヴに感銘を受け、バンド活動だけでなく音楽ライター業、レーベル運営まで手がけるイアン・マーティンという英国人がいる。カヴァー・バンドを結成するくらいガイデッド・バイ・ヴォイシズを愛し、ヒカシューをフェイヴァリットに挙げる男。去る2014927日、東高円寺二万電圧にそんな彼のイベントを観に行った。筆者好みのアクトだったのは、ニュー・オーダーを想起させる2組。キーボードを歪ませて、激しく楽しくパワー・ポップ寄りなJEBIOTTO(ジェビオット)。それから、一見オシャレな女性スリー・ピースだが、ときに民謡のような力強い節回しのヴォーカルと、ファンク寄りのポスト・パンクなグルーヴ感が素晴らしいmiu mau(ミウ・マウ)。両バンドとも、歌い手の華奢な身体のどこからあんな気迫が出てくるのかと引き込まれた。


 メロディアスで踊れる彼女らとは対照的だが、度肝を抜かれたのが鹿児島のサイケデリック・デュオ、経立(ふったち)だ。長い黒髪の女性イグゼット漱石が叫びながら歌い、痙攣するように叩き弾く鍵盤の轟音。そこに長身、スーツの男性O-miの爪弾くギターが荘厳な雰囲気を加える。歌というより原初の叫びと衝動的に鳴らされる伴奏、その中に景色が見える。凄惨な景色、美しい景色、もの悲しい風景。単純なノイズの繰り返し、そのズレ、隙間に様々な感情がよぎる。


 本作は30分ワン・トラック音源。時代の流れの真逆。ツイッターフェイスブックで目にするキャッチ―な3分間ポップスや、タイトルで興味を引きクリックさせるようなニュース記事とは対極のアプローチだ。同じ形式で有名なのはX JAPANART OF LIFE』。クラシックの素養を持つYOSHIKIは組曲としてこの長さがないと自分の半生を表現できないと考えた。本来、人の思考なんて複雑で簡単には表せない。そして、『ART OF LIFE』も『Tane to Zenra』も約30分という長尺にも関わらず、聴きだすと引き込まれ最後まで聴いてしまう。


 本作では途中、「君が代」を連想させるギター・フレーズが何度も聴ける。繰り返し現れるうちにそれは歪み、高速化してハード・ロック調になる。子守唄のように優しいコーラスが加わった後に全てはフェイド・アウトしていくが、最後まで残るリズム・トラックの単調な響きで、ふいに私は幼少期の記憶を思い出した。両親が帰ってこない公営住宅の一室で眠れずに過ごす私の耳にコツコツと規則的で不気味な音が大きく響き、それに合わせて両瞼がひどく痙攣して苦痛を覚えた。度々そういうことがあったが、音の正体は秒針が動く音だったと後に気付いた。時計は私の不安も同時に刻んでいたのだ。


 柳田國男『遠野物語』によれば、"経立"とは長寿を経た動物が妖怪化したもので、主に東北に分布するという。誰しもが抱く不安を別の形に置き換えた彼らの音楽はまさに妖怪と同じ。時に妖怪は災害のメタファーとして生まれる。川で子どもが溺れ死ねば、河童に尻子玉を抜かれたという。子を失った親の悲嘆を背負うのが妖怪だ。


 スピードに重きが置かれる情報化社会において、伝わりやすく拡散されやすいキャッチ―な表現は便利だ。しかし世界の様々な事象、それに伴う人々の感情はそれだけでは正確に表せない。経立の音楽のように、長い時間と手間を要する表現にアートもメディアも最終的に回帰していくはず。



(森豊和)

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 ノラ・ジョーンズが組んだ女性3人組バンドのファースト・アルバム。メンバーのひとりサラ・ドブソンはジェシー・ハリスのレーベルからデビューした人、キャサリン・ポッパーはライアン・アダムス(リリースされたばかりの新作もグレイト!)のバックで活動していた...という経緯からも想像できるとおり、ギターを手にしたシンガー・ソングライターもしくはアメリカン・オルタナティヴ・カントリー・ロック色の強い作品となっている。


 全12曲中、ノラが1曲、サラとキャサリンが2曲づつオリジナル・ナンバーを提供しているほかは、ジョニー・キャッシュ、ザ・バンド、ウィルコらの歌唱/演奏で知られるもの。「みんなで歌おう、誰の曲でもない」というフォーク・ミュージックの(いい意味での)伝統を受けついでいる。


 1曲目がトム・パクストン「Leaving London」、ちょうど真ん中あたりに位置する6曲目がニール・ヤング「Down By The River」という選曲の妙も素晴らしい。「愛する人に会いたい、明日にはこの町を出よう」と歌われる前者で描かれた町の冷たさは、今の時代にも似合いすぎるほど似合ってる。そして、トムのような男性が歌ってもプス・ン・ブーツのような女性たちが歌っても、悲しくもあたたかい人間の心がじんわりと胸にしみてくる。


 後者「Down By The River」は、彼がクレイジー・ホースと組んでリリースした初のアルバム『Everybody Knows This Is Nowhere』でも、ど真ん中に収められていた名曲だ。永遠の傑作たるその作品の冒頭は「Cinnamon Girl」でクロージングは「Cowgirl In The Sand」だった。どちらも男性の立場から女性に向けて歌われた曲としてぼくが最も好きなもの(軽く数百はあると思われ...:汗&笑)のひとつ、女性が歌うのは似合わない。だが、こんな事実は、まるで幻が訴えかけるかのごとく、彼女らこそ「Cinnamon Girl」であり「Cowgirl In The Sand」(のひとり)であるとむしろ明白に語っているようだ...って、彼女ら自身はたぶん意識してないと思うけど(笑)。


 プス・ン・ブーツというバンド名もおもしろい。今回は、字義を明らかにするためこの表記にしたが、プスンブーツというのも、もちろんあり。ロックンロール(ロック・ン・ロール/Rock 'n' Roll/Rock And Roll)と同じように。そして『バカがいなけりゃ、お楽しみなんて存在しない』というアルバム・タイトルが、また最高。こういった言葉の使い方の妙が、「ジャズ界の大御所であるブルー・ノート・レコーズから純正フォーク・ロック・アルバム!」というトゥー・シリアスもしくは「タグ」に縛られた堅苦しい評価に傾いてしまうことを、軽やかにかわしている。最近日本で、ジャズを新しい視点で評価する本(編注:『Jazz The New Chapter』シリーズ)が話題になっているようだ。ぼく自身は読めていないのでなんとも言えないのだが、そんな人たちがいる一方で、彼女らのような人たちもいる(笑)。いいバランス...なんじゃないかな。こういった部分は、ブルー・ノートの現社長が元ウォズ(ノット・ウォズ)のドン・ウォズであることの影響も決して小さくないだろう。


 風通しの良さ、ピカイチ。日本の秋にも、合ってるよ。



(伊藤英嗣)

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Giant Claw『DARK WEB』.jpg

 ディープ・ウェブ(Deep Web)という概念はご存知だろうか? 簡単に言うとディープ・ウェブは、ウィキペディアなどの情報サイトが漂うサーフェイス・ウェブ(Surface Web)よりもさらに深いところにある情報群のこと。グーグルやマイクロソフトのビング(Bing)といった検索エンジンに拾われないプライベートネットワークや、データベース、イントラネット、さらには、違法ポルノや海賊版メディアのやり取りをおこなう際に重宝されるトーア(Tor)など、これらによって形成されている。通説として、いまあなたが見ているこのレヴューも含め、人の目につきやすい情報やサイトは、ワールド・ワイド・ウェブに占める割合でいうと全体のわずか1%程度だと言われている。もしかすると、このレヴューを見ている人のなかには、途方もない量の情報を取捨選択するだけで大変・・・という人もいるかもしれないが、その目に見える情報ですら、たったの1%程度なのだ。


 なんて書くと、なんだか茫然自失としてしまうが、ジャイアント・クロウことキース・ランキンによる『Dark Web』を初めて聴いたとき、そんなディープ・ウェブのことを想起してしまった。本作は端的に言うと、フライング・ロータス主宰の《Brainfeeder》を中心としたLAビート・ミュージックが基調にありながらも、トラップ、R&B、ファンク、ジュークなどの要素が振りかけられた、膨大な情報量を誇るコラージュ・ミュージックだ。バラバラのように聞こえるたくさんの音粒やフレーズがクロス・リズム的にひとつのトラックとしてまとめられると、いびつながらも体を揺らしたくなるグルーヴが生まれるのだから不思議。人工的な響きを携えたシンセ・サウンドは同時にどこか温もりを感じさせ、耳に違和感と心地よさを残してくれる。特定のジャンルを拡張したり掘りさげるというよりは、幾多の要素を自らのセンスに任せて接続したような音作りが目立ち、そうした側面から本作は、ユーチューブにアップされた動画などからサンプリングすることも多く、近年のポップ・ミュージックを語るうえでは欠かせない潮流のひとつであるヴェイパーウェイヴ(vaporwave)以降と捉える人が多いと思う。実際、ジャイアント・クロウのバンドキャンプでは、本作に"vaporwave"のタグがつけられてもいる。


 しかし、そのような捉え方を喧伝してしまうと、本作の万人性を見逃す危険がある。FKAツイッグス『LP1』のレヴューで書いたことを繰り返すようで恐縮だが、かつてロキシー・ミュージックは、「Re-Make/Re-Model」という曲でコラージュ的な解体/再構築を試みているし、さまざまな音楽が並列に置かれている本作の特徴にはDJカルチャーの文脈を見いだせなくない。もっと言えば、あらゆる要素を取り込もうと試みる全能感に満ちた本作の折衷性は、すでに存在していたとも言える。例えば、クラフトワークが1978年に発表したアルバム、『人間解体』がイギリスにあたえた影響にまつわる話で、元ウルトラ・ヴォックスのジョン・フォックスは興味深いことを述べている。長い引用になってしまうが、それは次のようなもの。


 「その頃(おそらく79から80年にかけて。『人間解体』)、イギリスは脱工業化時代に突入していた。どの街もやたらと巨大で、汚くて、コントロール不能になってたんだ。パンクっていうのは、そういう時代に反応するためのきっかけだったと言っていい。でも"怒ってばかり"の時期は終わった。あれは、乳母車の中でおしゃぶりを吐き出してるのと同じ、見た目はおもしろいけど意味がなかったんだ。それに代わる何かが必要だった。みんなの胸にある驚きや恐怖、美しさ、ロマンス、虚勢、希望、無力感といったものを表現するための何かがね。で、それを可能にしたのがシンセサイザーだったわけさ。(中略)新世代の若者たちは、それまでの世代がしてきたのと同じように、身の周りのガラクタや古くなって捨てられていた要素をかき集めて、自分たちの文明を組み立て始めたんだ。『コレっていいかも』って思うものなら何でも取り入れようとした。ディスコ、フィルム・ノワール、ポップ・ソング、ロック、安っぽいSF、三文小説、漫画、前衛芸術、髪型、それに限定な意味でのセックスと暴力もね。あとバラードやバロウズみたいな作家、キューブリックみたいな映画、ウェンディ・カーロスみたいな音楽、それに「カッコいい!」って思う態度......とにかくすべてひっくるめてさ。」(※1)


 他にも、少しばかり突飛な例かもしれないが、フジテレビの石田弘は83年に『オールナイトフジ』という番組を始めたキッカケについて、「情報過多の時代に入っていたので、情報を先取りするんじゃなくて、情報で遊ぶんだという発想で始めたわけです」(※2)と語っていたりする。いわば情報で遊ぶ感覚は、20年以上も前に至るところで見られたというわけだ。


 もちろん、本作のオープニングを飾る「DARK WEB 001」などでうかがえる、LAビート・ミュージックなどを下敷きにした変則的なグルーヴに、ディスコでよく用いられるオクターブ・フレーズを違和感なく忍ばせるセンスは "今" ならではだと言える。だが、何よりも興味深いのは、その "今" が過去に通じる歴史性を孕んでいる(あるいは見いだせる)ということだ。ゆえに『Dark Web』は、インターネット・ミュージック的感性をまとったものではあっても、インターネット・ミュージックとは言い切れない絶妙な立ち位置を獲得し、もっとあけすけに言ってしまえば、"わかる人にだけわかる魅力"という限定的な枠組みから見事に逃れている。情報過多の時代に入りはじめた20年以上前の世界から現在に至るまでの動きがたどり着いた先端、それが『Dark Web』なのかもしれない。


 そういった意味で本作は、ヴェイパーウェイヴが登場してから数多く生まれた、インターネット・ミュージックと呼ばれる音楽がいままで突破できずにいた壁、つまり、インターネット・ミュージックという枠を拡張しつつも、そこに縛られない普遍性と万人性を手にした作品のひとつとして祝福されるべきだと思う。『Dark Web』は、過去、現在、そして未来を繋ぐ架け橋のようなポップ・ミュージックである。



(近藤真弥)



※1 : デヴィッド・バックリー著『クラフトワーク エレクトロニック・ミュージックの金字塔』223~224ページより引用。


※2 : フジテレビジョン編集『フジテレビ・全仕事』64ページより引用。



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ラ・ルー.jpg

 大ヒット・シングル「Bulletproof」などを収めた前作『La Roux』から約5年、パートナーを務めていたベン・ラングメイドの脱退という困難に見舞われながらも、エリー・ジャクソンはセカンド・アルバム『Trouble In Paradise』を完成させた。それにしても、本作のタイトルを見て、筆者は思わず身を仰け反らせてしまった。というのも、『Trouble In Paradise』は、1932年に公開されたエルンスト・ルビッチ監督による映画と同名なのだ(日本では『極楽特急』として知られているだろうか?)。この興味深い気づきの類例は、《映画を観たあとに 鏡をみると 女優になれない わたしがいるのよ》という一節が登場する、小島麻由美「恋の極楽特急」を聴いたときくらいか。


 それはさておき、映画のほうの『Trouble In Paradise』は、泥棒カップルが香水会社経営の美人女社長を詐欺にかけるはずが、泥棒の男が女社長に恋をして三角関係になってしまい、詐欺計画が上手く進まないという内容のコメディー。一方のラ・ルー『Trouble In Paradise』は、本作のリリースに伴ういくつかのインタヴューでも本人が述べているように、前作の大成功がもたらしたプレッシャーによる苦しみを経て作られたアルバム。実はこの両者、共通点がまったくないとは言えない。前者は泥棒カップルと美人女社長、そして後者は、スターとしてのエリーとそんなエリーに熱狂する大衆、加えてそうした状況に苦悶するもうひとりのエリーという三角関係を見いだせるからだ。本作の歌詞は、スターとしてのエリーと大衆の関係を客観的に見つめる、もうひとりのエリーの視点が色濃い。特に「Cruel Sexuality」や「Silent Partner」などで、それは顕著に表れている。


 だからといって、重苦しい雰囲気かといえばそうじゃない。むしろ、軽快で耳に心地よいエレクトロ・ディスコなサウンドも手伝って、注意深く聴かなければ歌詞が孕む毒に気づくことはまずないだろう。あくまでも体裁は、ラジオ、iPod、ダンスフロアなどを通して誰もが楽しめるポップ・ソングだ。それほどまでに本作のエリーは、5年の間に味わってきた苦難を感じさせない。


 こうして作品にすることで、そびえ立つ強固な壁を乗りこえたのだろうか? と、いろいろ想像しながら楽しめてしまう本作。私たちが消費するスピードを上回る速さで、次々と生まれる新しい音を熱心に追いかけるのも悪くないが、ひとつの立派な円熟をじっくり味わうのもたまにはいいはずだ。



(近藤真弥)

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YUKI『Fly』.jpg
 クッキーシーンの色に合わないかなあ・・・とか、そんなのどうだっていい。楽しいものは楽しいし、面白いものは面白い。好きなものは好き、食べたいものを食べ、着たい服を着ればいい。もっと言えば、好きな服を着てる私が好きみたいな自己陶酔も大歓迎だ。子供がパパやママに目を輝かせながら"見て見て!"と笑顔でアピールする姿を見て思わず微笑んでしまうように、誰かが楽しそうにしている様を見るのは、実に素晴らしいと筆者は思う。


 ソロ・アルバムとしては、2011年の『megaphonic』以来7枚目となる『FLY』を完成させたYUKI。彼女が本作で披露してくれたのは、再生ボタンを押した瞬間、目の前の景色が一気に華やぐ、誰もが楽しめ踊れるポップ・アルバムだ。他誌の仕事で出会った、YUKIが元JUDY AND MARY(ジュディ・アンド・マリー)のヴォーカルであることを知らなかった2000年生まれの女の子も、これなら一発で気に入るかも? なんて思ったり。それほどまでに本作は、キラキラとしたヴァイヴスを放っている。


 収められた曲群も、ディアンジェロなどのネオ・ソウルを漂わせる「It's like heaven」、スクリレックスやポーター・ロビンソンあたりのEDMの要素がうかがえるダンサブルな「Jodi Wideman」、さらにはKAKATOが参加したヒップホップ・トラック「波乗り500マイル」といった具合に、多彩を極めている。そんな『FLY』を聴き進めていくと、YouTubeでさまざまな時代の音楽を手当たり次第聴いているときと似たような感覚に襲われる。この感覚、なんだがインターネット以降のセンスだなと思いもしたが、そういえば、2012年8月にリリースされたシングル「わたしの願い事」ではtofubeats(トーフビーツ)、そして先月リリースのシングル「誰でもロンリー」ではSeiho(セイホー)など、いわゆるインターネット世代と呼ばれるアーティストをリミキサーに迎えていた。将来的には、彼らとガッツリ組んだアルバムを・・・なんて構想もあったりするのだろうか? このような想像が出来るほどの同時代性も本作は孕んでいる。


 また、歌詞にも遊び心が込められており、「誰でもロンリー」における《奈落から這い上がれ 誰かのアイドル》という一節はドラマ『あまちゃん』のことだそうだし、「Jodi Wideman」ではハッキリ《レリゴー》と歌っている。こうした遊び心と余裕からはYUKIの円熟味を見いだせるが、その円熟味に触れていると、近年のカイリー・ミノーグを連想してしまうのは筆者だけ?


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hotaka.jpg

 現行のインディー・シーンを考える際、ネット上で増え続けるタグを無視することは不可能だ。ネオ・アコースティック、シティー・ポップといった歴史に根ざした用語からダーク・ウェイヴ、チルウェイヴ、ヴェイパーウェイヴ、多くの新用語が氾濫している。「今の若者は3行レコメンドさえ長くて読まないんだ」と口癖のように言う馴染みのレコード屋の店主に、いくらなんでも大げさでしょうと返すと、「80'sポスト・パンク、この一言でいいんだ。そりゃ君みたいにややこしい客もいるけど」と寂しそうに笑う。


 しかし、そういったタグが有効に機能しない場合もある。穂高亜希子の音楽はそのひとつの例だ。4人のミュージシャンがサポートして録音された本作は、投げかけられる言葉の切れ味、その歌を支える弦楽器の響きといい、合間に挿入されるアコーディオンやリコーダー、トランペットが鳴らす素朴な哀愁といい、一聴して素晴らしいと思ったが、文章でどう伝えようか悩んでしまった。アヴァンギャルドなことをやっているかといえば全くそうではない。親交あるSSWゆーきゃんに近いのか、それも少し違う気がする。ゆーきゃんの歌は線が細そうでも、やはり男性だからか、いざとなれば全身で立ち向かっていくようなパワーを感じるのに対して、穂高の歌はジブリ映画の主題歌のような優しい語り口で、しかしナイフで瞬時に喉元を切り裂くようなオーラを宿している。


 また、本作の推薦文を書いているJOJO広重は、穂高のシンプルな音楽、その隙間にこそノイズを聴いているのかもしれない。爆音で圧倒することだけがパンクではない。轟音で塗りつぶされた世界はある意味、広大な静寂と似ている。そして弾き語りにおける演奏の合間、歌い出しにも、悠久の時、無限に思えるような静寂が横たわっている。筆者だけかもしれないが、無限とゼロは同じではないかということを子どもの頃よく考えた。宇宙が果てしなく膨張していくなら、それは同時に何もないのと同じ。デヴィッド・ボウイ「Space Oddity」で暗黒の空間に投げ出され漂っていったトム少佐のような感覚、虚無。ジョン・ケージの「433秒」。


 穂高亜希子の音楽はそういった子ども時代の空想、それに続く青年期の様々な焦燥を思い起こさせる。しかし同時に、トム少佐を救うロープも投げかけるよう。いざというときに胆が据わっているのは女性のほうなのかもしれない。筋力でいえば女性は弱い。しかし、子どもや全ての男たちを守り癒す力を秘めている。医学的な見地からいえば、女性は免疫系の老化が男性より遅く平均寿命が長い。つまり攻撃ではなく防御に優れている。種の保存において最終的な主役は女で、男はしょせん働きアリだ。有史以前から"男性"に比して"女性"は断然強いのだ。



(森豊和)

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Aphex Twin『Syro』.jpg
 サマーソニック09に出演した際のエイフェックス・ツインを、あなたは覚えているだろうか? 808ステイトの「State Ritual」をプレイする遊び心に、毒に満ちた映像とサウンド。それは、観客の意識を恍惚感へ"飛ばす"という、ダンス・ミュージックが持つ役割のひとつを明確に表現したものだった。遅めのBPMから始まり、ビキビキとしたTB-303のサウンドと共にBPMが速くなっていく展開も、肉体という器に縛られた観客の精神を解放する、神々しい光を放っていた。その光に包まれていた当時21歳の筆者は、体の皮膚を一枚一枚丁寧に剥がされ、それから筋肉、骨、臓器と順番に摘出される、さながらマッドな外科医の手術を受けているような錯覚に襲われた。


 リチャード・D・ジェイムスによるエイフェックス・ツインは、実に面白い存在だと思う。前作『Drukqs』が2001年のリリース。このたび発表された最新作『Syro』から、13年近くも前のこと。普通のアーティストならば、"過去の人" に追いやられてもおかしくないインターバルである。しかし、みなさんもご存じのように、エイフェックス・ツインは普通じゃない。エイフェックス・ツインの名は、私たちの頭の中で蠢きつづけ、一瞬たりとも忘れられることはなかった。クリス・カニンガムによる「Come To Daddy」のMVは今でも鮮烈さを保ち、エイフェックス・ツインに多大な影響を受けたアーティストたちは、インタヴューなどでリチャードの名を口にする。いわば、リチャードがエイフェックス・ツインとしてアルバムを発表しない間、ファンや信奉者がエイフェックス・ツインを前進させ、新たな神秘性や偉大さを築きあげてきたのだ。まるで、解散してからも数多くの解説書や研究書が発表されつづけているビートルズのようではないか! たとえ本人が終わらせても、周りが終わらせてくれない。それがエイフェックス・ツインなのだと思う。


 とはいえ、ビートルズは解散したが、リチャード自身は一度もエイフェックス・ツインを葬っていない。現にライヴ活動を続け、アルバムも『Syro』という形でやっと私たちの前に出してくれた。本作は一言で言うと、アフリカ・バンバータといったオールド・スクール・エレクトロ、それからこれまでリチャードが残してきた作品群でも見られるアシッディーなサウンドが基調にある。『Richard D. James Album』で顕著だった性急なグルーヴは影を潜め、聴き手を拒むかのような毒々しさもほとんどない。「CIRCLONT6A [141.98][syrobonkus mix]」におけるヴォイス・サンプルの使い方も、リチャードの作品を聴いてきた者にとってはお馴染みだろう。全体的に、キャッチーかつメロディアスなサウンドスケープなのも興味深い。激しいジャングルのリズムが際立つ「PAPAT4 [155][pineal mix]」「s950tx16wasr10 [163.97][earth portal mix]」などは『Drukqs』から地続きの曲に聞こえるかもしれないが、それ以外は、AFX名義の「Analord」シリーズを想起させる静謐な音色が目立つ。


 おそらく本作は、エイフェックス・ツインの神秘性や数多くの逸話がもたらしたイメージを前提にして聴くと、肩透かしを食らう作品だ。むしろ、それほどエイフェックス・ツインに詳しくない人のほうが強く惹かれるだろう。驚くほどの狂気はないし、特に変わったことをしているわけでもない。それでも、リチャードの手癖とも言えるグルーヴやリズムの組み立て方は、多くの人を魅了するはず。そこには、リチャードの音に対する愛情とフェティシズムが込められているからだ。いわば本作は、エイフェックス・ツイン史上もっとも"音楽そのもの"で勝負した作品だと言える。


 確かに、音楽史を塗りかえる革新もなければ、傑作と呼べる作品でもない。だが、優しい。この優しさが、結婚してふたりの子供に恵まれた現在のリチャードが抱える心情と関係しているかは定かじゃない。ひとつ確実に言えるのは、本作の優しさがこれまでのエイフェックス・ツインには見られなかった新しい魅力であるということ。この変化を受け入れるかによって、本作に対する態度は変わってくるはずだ。さあ、あなたはどう受け止める?


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KOHH『MONOCHROME』.jpg

 1966年に公開されたイギリスの映画『アルフィー』は、テンポの良い展開で観客を引きこむコメディーでありながら、マイケル・ケイン演じるアルフィーの生き様を通して、人生の光と影について観客に問いかける名作だ。オシャレを忘れないアルフィーは、次々と女を口説いては抱く、典型的なプレイボーイ。自らの快楽に忠実なその姿は、旧態依然としたルールに反抗する目的でミニスカートを売り出し世に広めたマリー・クワントや、カーナビー・ストリート発の "カーナービー・ルック" という当時の最先端とされたファッションを生み出した、いわゆるスウィンギング・ロンドンで盛り上がるイギリスのムードを上手く捉えていたと思う。イギリス自体も資本主義が黄金期に突入した恩恵を受ける形で、他の先進国と比べGDP(国内総生産)が相対的に低成長率だったとはいえ、文字通り輝いていた。しかし、一夜を過ごした女性に堕胎させてまで享楽を求めたアルフィーは、最終的にルビィという女性を選択し彼女の元へ走るが、そのルビィはアルフィーよりも若い男を作って、アルフィーを捨ててしまう。こうして孤独になったアルフィーは、映画の最後で観客にこう問う。


 「今、これまで出会った女達や、彼女達がしてくれたことをすべて思い起こすと、おれは幸せ者に見える。得たものは? 数シリング、イキな服を数着、車。健康も取り戻し、自由の身だ。だが心の安らぎがない。何もないのと一緒だ。片方が手に入れば、もう一方が入らない。何が答えだ? いつも自問する。人生とは? 分かるか」


 KOHH(コウ)による『MONOCHROME』は、そんな自問で満ちたアルバムだ。『YELLOW T△PE』『YELLOW T△PE 2』という2枚のミックスCDで注目を集めたKOHHは、現在24歳のラッパー。下ネタが目立つラップやチャラいノリが特徴で、筆者も彼の曲を聴いていると思わず笑ってしまうことがしばしば。だが、『MONOCHROME』で見られるKOHHの姿は、ものすごくシリアスだ。ラストの「Love feat. SEQUICK」を除けば大半がヘヴィーな曲で、代表曲のひとつ「JUNJI TAKADA」からKOHHに入った人は、少なくない驚きを感じるかもしれない。


 また、とても正直であるのも本作の特徴。《ママに吸わされた初めてのマリファナ》という一節で始まり、ビートルズ「Lucy In The Sky With Diamonds」のフレーズも登場する「Drugs」では自身の生い立ちと環境を告白しているし、1曲目の「Fuck Swag」も《結局見た目より中身》という歌い出しで、KOHHにあった派手なイメージが見事に破られている。全体的に虚飾がなく、ゆえに重苦しいと思う者も少なからずいそうだが、筆者はKOHHの真摯な側面に惹かれてしまった。


 一方で、先に書いた自問から生じる迷いもハッキリと表現されている。その象徴といえる曲は「貧乏なんて気にしない」になるだろうか。この曲には、《昔からみんなよく言ってるお金よりも愛》という一節があるが、続く言葉は《わからない》という、驚くほど素直な言葉。その後《とりあえず俺は貧乏なんて気にしない》と歌っているが、《やっぱり将来は高級車にも乗りたい》とも告白している。正直、初めて聴いたときはこのどっちつかずな歌詞にやきもきしたが、何度も聴いているうちに、その迷いをまっすぐ表現しているKOHHがカッコいいと思えてきた。そうなると、「I'm Dreamin'」が泣ける曲に聞こえてしまい、本作には喜怒哀楽に収まらないさまざまな感情が詰まっているのだなと気づいた。しかもそれは、「Drugs」で歌われる環境にいない者たちにも届く、言ってしまえばこの世に生きるすべての人に届く普遍性を見いだせるものだ。日々身を削っている援デリの少女や、屋根がある家に住みたくても住めずにネットカフェを渡り歩く若年層ホームレス、それからそういった問題とは無縁だと思い込んで日常を生きる人たちまで、あらゆる人に訴えかけるエネルギーと言葉が渦巻いている。


 おそらく本作は、日本語ラップの重要作、あるいは傑作と喧伝されると思う。だが、平易な言葉で彩られた本作はそういう枠を飛び越え、たくさんの人に聴かれる可能性を秘めた作品だ。



(近藤真弥)

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CLAP! CLAP!『Tayi Bebba』.jpg

 マーティン・デニーなどが代表的アーティストとされ、1950~60年代に流行ったエキゾチカなる音楽は、非西洋的イメージをサウンドで表現していた。エキゾチカを作っていたのは主に西洋人で、ゆえにエキゾチカは、西洋人から見た非西洋(例えば南国や熱帯地域など)という視点が色濃かった。言うなれば、外国人が日本といえば "ゲイシャ! スシ!! フジヤマ!!!" と口にする感覚と似たようなものである。日本だとエキゾチカはイージーリスニングとして聴かれることがほとんどで、レコード・ショップでも安売りのコーナーに置かれていることが多い。


 だが、エキゾチカの影響力は思いのほか大きく、例えば808ステイトの大名曲「Pacific」は、鳥の鳴き声という形でバンドの中心人物グレアム・マッセイが持つエキゾチカへの敬愛を示していたし、YMOがマーティン・デニーの「Firecracker」をカヴァーしたのも有名な話だろう(そういえば808ステイトは同名の違う曲を作っている)。こうした外側からの視点だったり、もっと言えば "ここではないどこか" に対する憧憬は、創造性を突き動かす強力なモチベーションであり続けてきた。


 作者自ら「空想上の島の音楽」と語る『Tayi Bebba』も、そのようなモチベーションが生み出した作品だと言える。本作を作り上げたクラップ!クラップ!は、イタリア人のトラックメイカー。彼はゲットー・ハウスのグルーヴが際立つベース・ミュージック「UaU」で知られる3人組ユニットL/S/Dのメンバーでもあり、筆者がクラップ!クラップ!を知ったのもこの曲を通じて。2009年から作品をコンスタントにリリースし、《Bedroom Research》というレーベルからアルバムも発表している。


 そうした過程を経て生み出された本作はL/S/Dの音に近い、強烈な低音が耳に飛びこんでくるベース・ミュージックだ。とはいえ、込められた音楽要素は実に多彩で、「The Holy Cave」や「The Rainstick Fable」などではジュークのリズムを刻み、隙間だらけのラフなビートが印象的な「Ashiko」は、シカゴ・ハウスの要素が滲んでいる。かと思えば、「Black Smokes, Bad Signs」ではストレートにダブステップをやってみたりと、聴き手を楽しませる遊び心も忘れていない。これまでなかったような音を追求しつつも、決してシリアスになりすぎず、ちょうどいい肩の抜け具合が光る。それは筆者からすると、ハドソン・モホーク『Butter』を初めて聴いたときの衝撃に近い。


 そして、本作を語るうえで欠かせないのが、作品全体を通じて貫かれるトライバルなビートだろう。とは言っても、先に書いたように本作は「空想上の島の音楽」をイメージして作られた作品。だから、"どこどこの国の◯◯という音楽を取り入れて・・・"、みたいな解釈は通用しない。クラップ!クラップ!の頭の中にだけ存在する島(イメージ)を音にしたのだから。そう考えると本作は、ベース・ミュージックにマーティン・デニーが乗り移ったような作品だと言えなくもない。


 それにしても、ラ・ルーは最新作『Trouble In Paradise』で、プロデュースを務めたイアン・シャーウィンと共に考えた「70年代の人たちが想像した未来の姿と音」というコンセプトを表現し、さらにローンは『Reality Testing』でSF感を演出しながら、このアルバムの影響源となった曲を集めたミックスで『機動警察パトレイバー 2 the Movie』のサントラからトラックをチョイスしたりと、現実世界とは異なる場所に想いを馳せる作品が多くなってきたのは果たして偶然なのだろうか? 特定の発祥地を持たずに拡散していったチルウェイヴは、ドリーミーなサウンドスケープと溺れそうなほどのリヴァーブを用いて、"故郷無き郷愁"という少々いびつな感情を表した。それはベータマックスなどの《Telefuture》周辺、いわゆるシンセウェイヴにも引き継がれているが、こうした文脈を本作にも見いだせるのは非常に興味深いと思う。いわば、PCと回線を介して世界中のあらゆる場所へ行った気になれるネット以降の現在を反映した感性ではないか? ということ。そういった意味で本作は、ベース・ミュージック好きはもちろんのこと、現在のポップ・ミュージックに強い興味を持っているすべての人が一聴すべき作品なのかもしれない。



(近藤真弥)

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Vessel - Punish, Honey.jpg

 ヴェッセルが2012年に発表したアルバム『Order Of Noise』は、その年を代表するテクノ・アルバムでありながら、テクノという枠に収まりきらない多様な音楽性が光っていた。タイトルにもある"ノイズ"・ミュージックや、ヴェッセル自身深い造詣を持つポスト・クラシカルなど、実に豊穣な音楽的背景を感じられるサウンド。とはいっても、このアルバムもやはり、《Modern Love》などが中心となって生まれ、ここ最近の音楽シーンにおいて一際盛り上がりを見せていたポスト・インダストリアル・ブームの文脈で解釈された。もちろんそれはそれでアリだし否定はしないが、アンディー・ストットの『Luxury Problems』がポスト・インダストリアル・ブームという枠を越え幅広い層に受け入れられたことを考えると、少々もったいないなと思ってしまうのも本音。まあ、ヴェッセルが意識的に万人性を込めて『Order Of Noise』を作ったとは思えないが、少なくともテクノやインダストリアルだけにとどまらず、さまざまな文脈から解釈可能なサウンドを鳴らしていたことだけは確かだ。


 そんな『Order Of Noise』から2年、ヴェッセルは新しい作品を完成させた。その名はズバリ『Punish, Honey』。少しばかりの暴力性を感じずにはいられないタイトルだ。収録曲に目をやると、「Red Sex」や「Drowned In Water And Light」など、これまた仄かに危うい雰囲気を漂わせる曲名が多い。特に「Drowned In Water And Light」なんて、日本語では「水と光で溺れ死んだ」と読めるタイトルだ。他にも、男性が持つ女性的な側面を意味する心理学用語の「Anima」という曲があったりと、聴き手の想像力を刺激するタイトルが多い。


 サウンドのほうは、前作以上に実験的でミニマルな音像が際立ち、ポスト・パンクの影響が色濃く表れている。艶かしいドロッとしたダークな世界観もこれまでと比べて強固なものとなり、それはスロッビング・グリッスルを想起してしまうほどだ。さらに「Red Sex」ではクラウトロックの要素も滲ませている。とはいえ、「Kin To Coal」における音の重ね方と起伏の作り方は、徐々にハイなほうへ導かれていくという意味でダンス・ミュージックの方法論そのものだ。このあたりにテクノを感じる者もいるだろう。


 さすがに『Order Of Noise』ほどの衝撃は望めないが、ヴェッセルは問題なく着実に進歩していることを確認できる内容なのは間違いない。"こうなったらどこまでも逝ったるわ!"みたいなヤケクソ感も良し。



(近藤真弥)




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Moiré ‎- Shelter.jpeg

 マンチェスターのレーベル《Modern Love》などが中心となって起きたインダストリアル・ブーム。この動きを象徴するアルバム、アンディー・ストットの『Luxury Problems』はテクノ・ファンだけでなく、普段はそういった音楽を聴かないインディー・ミュージック・ファンからも支持されたりと、ここ数年 "インダストリアル" という言葉が至る所で躍った。とはいえ、今年に入ってからその盛り上がりは落ち着きを見せはじめている。もちろん "終わった" というつもりは毛頭ない(そもそもそういう類いの言説は好きじゃない)。例えば、デムダイク・ステアのマイルス・ワイテカーとアンディー・ストットによるミリー&アンドレアは、良盤『Drop The Vowels』でジャングルとインダストリアルを接続し、英ダンス・ミュージック・シーンの新星ハッパは、マンニ・ディーと結成したハビッツ・オブ・ヘイトにおいて、ダブステップをテン年代向けに再解釈したサウンドにインダストリアルの要素を取り入れている。つまりインダストリアルは今、細分化の道を辿っているというわけだ。


 モアレのデビュー・アルバム『Shelter』は、そんな細分化するインダストリアルの動きに呼応したアルバムだといえる。ロンドン在住のモアレは、去年オランダのテクノ・レーベル《Rush Hour》から発表したシングル「Rolx」をキッカケに、大きな注目を集めるようになったアーティスト。レコード・ショップではテクノ・コーナーに置かれているのをよく見かけるが、4つ打ちのリズムを基本とした彼の音楽にはハウスが基調にある。とはいっても、一発で聴き手を揺らすようなものではなく、何度も聴いているうちにだんだんと意識が飛んでいく、いわば "ハマる" トラックが持ち味。すでに公開されているいくつかのインタヴューでも公言しているように、彼は音楽制作においてドラックの影響を受けている。その言葉通り、彼のトラックはドラッギーかつトリッピー、ここではないどこかへ聴き手を導く妖艶なサウンドスケープを描いている。そのような世界観はヴィジュアル面でも徹底しており、『Attitude』のMVでは、監督のレフン自ら「アシッド」だと認める映画『オンリー・ゴッド』に通じる色使いが目を引く。


 そうした魅力は『Shelter』でも健在、いや、深化している。「Rolx」収録の「Real Special」みたいな遊び心は影を潜めているが、断片的なフレーズとビートの反復によって生じる高い中毒性はより鋭利な響きを持ち、妖しくも陶酔的な美しい音世界を築きあげている。また、音楽的彩度も非常に高く、終始ズレたまま刻まれるリズムの後ろでインダストリアルな金属音が鳴る「Attitude」はポスト・パンクとも解釈できるし、「No Gravity」は、《Underground Quality》からリリースされてもおかしくない恍惚感とロマンティックさを宿したディープ・ハウス・トラックだ。


 しかし何よりも惹かれるのは、やはりその逃避願望である。「No Gravity」や「Stars」といった、意識変容を思わせるタイトルが掲げられたトラックはもちろん、アルバムを支配している意思もズバリ、"ぶっ飛びたい" という純粋すぎる欲求だけだ。当然ドラッグの影響も含め、モアレの姿勢に異を唱える者もいるだろう。だが、危険と隣り合わせの衝動から生まれた表現に多くの人が魅せられるのも、また事実なのだ。



(近藤真弥)

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 ロンドンを拠点に活動するスローイング・スノーが、今年5月にリリースしたファースト・アルバム『Mosaic』は実に興味深い作品だった。ダブステップ以降のベース・ミュージックが色濃い内容でありながら、女性シンガーのキッドAをフィーチャーした「Hypnotise」はウィッチハウスに通じるゴシックで耽美的な雰囲気を漂わせるなど、ヴェイパーウェイヴ以降のインターネット・ミュージックに通じる文脈もあるからだ。他にも、ガムランのような音色が耳に残る「Linguis」、シカゴのジュークを取り入れた「All The Light」、そしてスパニッシュ・ギターをサンプリングした「Pathfinder」といった具合に、さまざまな音楽が一要素として詰めこまれていた。こうした『Mosaic』の作風は、雑多性と折衷性が "特殊" なものから "規準" になったのだなとあらためて実感させてくれる。いくつもの小片を集めひとつの図像を作りあげる手法、文字通り "モザイク(Mosaic)" を想起させる編集感覚。そしてその感覚は、iPodのシャッフル機能、ツイッターのフォロー/リフォローなど、現在を取り囲む "編集" と相通ずるのだ。


 FKAツイッグスことタリア・バーネットもまた、そんな編集感覚を持つアーティストである。1988年イギリスに生を享けた彼女は、シンガーの才を開花させるまではダンサーとしても活動したりと、いわば裏方の立場で音楽業界に携わってきた。シンガーとしての彼女はまず、名刺がわりにツイッグス名義で「EP1」をリリース。その後FKAツイッグス名義で「EP2」、さらにインク.とのコラボ・シングル「FKA x inc.」を立て続けに発表するなど、着実にキャリアを積み重ねてきた。特に「EP2」は、多くの聴き手を惹きつけるキッカケになった重要作である。カニエ・ウェスト『Yeezus』に参加したアルカをプロデューサーに迎えて作られたこのEPは、ダークでざらついたインダストリアル・サウンドに、彼女のセクシーな歌声が交わることで妖しい魅力を放つ作品に仕上がっている。また、便宜的に "インディーR&B" "オルタナティヴR&B"と呼ばれることも多いタリアだが、そのような単一タグで括るのはナンセンスだと証明したのも、「EP2」の重要な点だ。もちろんR&Bの要素がまったくないわけではない。だが、それはあくまで彼女を形成する一要素にすぎないのだ。何かしらの単一タグで括ろうとすればするほど、タリアが秘めた拡張の可能性から遠ざかってしまう。


 なんて書くと、"じゃあその可能性って何?" となるのが道理。そこでようやく、彼女のファースト・アルバム『LP1』の登場だ。まずサウンドは、アルカ、ポール・エプワース、エミール・ヘイニー、クラムス・カジノ、デヴ・ハインズ(ブラッド・オレンジ)などがプロデュース面で助力しつつ、全10曲中5曲に "Produced" でクレジットされているタリアが全体を見るという形。そのなかでもエミール・ヘイニーは、本作に収められた曲の多くで手腕を発揮しており、貢献度は一番高い。暗くも美しいメロウな世界観、言うなれば "暗美(あんび)な音像" が本作を支配しているが、それはラナ・デル・レイ『Born To Die』を手掛けたエミール・ヘイニーの影響も少なからずある。『Born To Die』もまた、暗美な音像だからだ。エミール・ヘイニーの起用は、結果的に本作の統一感を打ち出すことに繋がっている。


 また、「EP1」や「EP2」と比較して、分かりやすいキャッチーなポップ・ソングが多いのも特徴だ。「EP2」のざらついたインダストリアルな質感は残しつつ、ダブステップ以降のベース・ミュージックを感じさせる「Lights On」、シンセ・ワークとベースの鳴らし方がジェームズ・ブレイクを想起させる「Pendulum」といった具合に、随所で時代への目配せをしながらも、基本的にはタリアの歌が前面に出ている。そういった意味で本作は、これまでの作品よりも "シンガーFKAツイッグス" を堪能できる内容だ。しかし、ベース・ミュージック、インダストリアル、アンビエント、ヒップホップ、ダブ、R&Bなど、いろんな文脈から解釈できる雑多な音楽性も健在。そう考えると本作は、よりポップ・ミュージックの浸透力に接近した進化と、ここまで築き上げてきた従来の魅力の深化を共立させたアルバムだと言える。


 そして、彼女を語るうえで欠かせないのがヴィジュアル面。ミステリアスな空気を醸す「Two Weeks」のMVからも窺えるように、彼女はFKAツイッグスという存在のイメージ作りにも熱心に取り組んでいる。本作のジャケットを飾るジェシー・カンダの "imagery" にしても、彼女をモデルにした "ナニカ" としか言いようがない、何とも不気味なオーラを放っている。一見アーティフィシャルだが、そこに彼女の息づかいを見いだせるというか。こうした自然と人工の境界線を曖昧にしたデザインは、ラファエル・ローゼンダールやジョー・ハミルトンなどの、いわゆるポスト・インターネット世代のクリエイターに通じるセンスだ。


 ここまで本作について考察してみると、彼女はトータル・アート志向の持ち主であることがわかるはずだ。ゆえに多くの人はタリアにビョークとの類似性を見いだし、"ポスト・ビョーク" なんてレッテルを貼っているのだろう。しかし、それは少々限定的に思える。例えば、タリアと同様にイギリス発でトータル・アート的な志向の持ち主といったら、ロキシー・ミュージックがいる。彼らはファースト・アルバム『Roxy Music』に「Re-Make/Re-Model」という曲を残しているが、この曲はカフェの一幕から始まり、3分10秒を過ぎたあたりからポール・トンプソンの激しいドラミング、グレアム・シンプソンによるビートルズ「Day Tripper」のベース・ソロ、ブライアン・イーノのノイジーなシンセサイザー、アンディー・マッケイのサックス、フィル・マンザネラのギター、そして最後はブライアン・フェリーのジャズを匂わせるピアノといったように、各メンバーの見せ場(ソロ・パート)が登場する。それが終わるとふたたびキテレツなバンド・アンサンブルに戻るのだが、このような解体/再構築をタリアは高いクオリティーでおこない、それは音楽的要素だけにとどまらず、ヴィジュアルなどのイメージ作りにまで及んでいる。そう考えると、タリアのやっていることはイギリスのポップ・ミュージック史に接続できる伝統的行為とも解釈でき、その行為をタリアは現在のツールと感性を通してやっているとも言える。それゆえ、こうした解体/再構築を "新しい" と喧伝して彼女の神格化を進めてしまうのは、FKAツイッグスというアーティストが持つ万人性を見落とすことに繋がりかねない。


 つまり本作は、解体/再構築という既存の方法でもって、最先端とされていながらもいまだ多くの人の目に触れていない文化を寄せ集め、それらを従来の文脈や文化と接合する試みだということ。これこそがタリアに秘められた拡張の可能性である。



(近藤真弥)

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Shin Rizumu.jpg
 現役高校生Shin Rizumu(シンリズム)の音楽に出逢ったのは、《Ano(t)raks》からリリースされた「処方箋ep」を聴いたとき。まず驚いたのは、幅広くいろんな音楽を聴いてきたことがすぐさまわかる洗練されたサウンド。それはキリンジ、ブレッド&バターといった日本の優れたポップ・マエストロを想起させ、高校生とは思えない老練さを感じさせるものだった。しかし、歌声は高校生らしい瑞々しさを宿している。この両極端とも言えるギャップに筆者は、文字通りハマってしまった。


 そうしたギャップはファースト・アルバム『Shin Rizumu』でも健在だが、より多くの人にShin Rizumuの名が知られていくキッカケになるという点で本作は、彼の作品群のなかでも特に重要作となりえるものだ。作詞/作曲/編曲はもちろん、演奏もほぼすべてひとりでこなす多才さに加え、気持ち良い音に耳馴染みのよい歌という、いわばポップスとしての普遍性と高い完成度も備える。特にロディ・フレイムといったギター・ポップの影響を窺わせる綺麗で親しみやすいメロディーは、群を抜いて素晴らしい。


 そのような普遍性に込められた音楽要素も、実に多彩なものだ。ラウンジ・ミュージック的な心地よさが際立つ「喫茶aori」はボサノヴァを感じさせ、他にもリトル・エスターなどの50年代ソウル、さらにはジャズの要素も見いだせる。こうした普遍性と高い音楽的彩度の共立は、毎週レコード・ショップで熱心に盤を掘る音楽中毒者のみならず、音楽は忙しい日常生活の片手間に聴くくらいというライト・リスナーまで取り込める可能性を孕んでいる。


 また、さまざまな文脈から解釈できる幅広い音楽性は、ネット以降の感性だと言える。というのも、本作を聴いていて強く感じるのは、何かしらの絶対的な柱を中心にいろんな要素が細かく散りばめられた、いわゆるコラージュ的な音像ではないということ。例えば、ニュースサイトのトップページを見ると、膨大な量の見出しとバナーが否応なしに飛び込んでくるが、本作に込められた音楽的要素の多さに触れたときも、それと似たような感覚に襲われたのだ。言うなれば、多種多様な小片を寄せ集め、それらを繋ぎあわせひとつの絵を作り上げる装飾手法のモザイクに近いサウンド。


 だからこそ本作は、耳が肥えた玄人リスナーも驚かせる新鮮さを持つに至ったのかもしれない。それはつまり、Shin Rizumuが文字通りの "新感覚" を持ったアーティストであるということだ。


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 エイフェックス・ツインの変態性とアクトレスの急進的な実験精神が混在した音楽ないかなあと妄想していたら、本当にあった・・・なんてことを言いたくなる面白さが、「Ektomists」にはある。


 本作を作り上げたのは、オーストラリアはメルボルン出身のジェレミー・クブラフなる男。もともとマリンヴィルというインディー・ロック・バンドでキーボードを担当していたりと、いわゆるテクノ/ハウス畑の出身ではない。だが昨今は、そうした出自を持つ者がテクノ/ハウスを更新することも珍しくない。それこそ、ポカホーンテッドというノイズ・バンドをやっていたアマンダ・ブラウン、さらにはブラック・アイズというハードコア・パンク・バンドに在籍していたアイタルなど、いわゆる《100%Silk》周辺にはそのような者が多くいる。


 そういった意味でジェレミーは、《100%Silk》が中心となったテン年代インディー・ダンスの潮流を受け継いだアーティストだと言える。つまり、ハウス・ミュージックの要素を打ち出しながらも、ダンスフロアとライヴハウスを跨げる高い順応性があるのだ。本作は、体を揺らし心を躍らせるダンス・ミュージックとしても機能するし、ひとりベッドルームで寝転びながら聴き浸るチル・アウト・ミュージックとしても機能する。言ってしまえば、リスナーの数だけ側面が存在する作品なのだ。


 しかし、DJにとっては取り扱いに困る代物でもある。確かに、かろうじて維持された4/4キックの反復による中毒性は、本作のダンス・ミュージック的側面を象徴している。ところが、そのキックに交わる音は一定のフレーズを捨て去り、さながら飛び道具のように現れては瞬く間に消えてしまう。その現れるタイミングもひたすら聴き手の予想を裏切るもので、人によっては不快感を抱くのでは? といらぬ心配をしてしまうほど安定感に欠ける。本作は終始、音と音の間に生じたズレが合うことなく進んでいくのだ。この不思議なグルーヴの類例を強いて挙げれば、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーになるだろうか。とはいっても、そのグルーヴが好き嫌いハッキリ分かれるものであることは揺るがない。それゆえ聴く人を選ぶ作品になってしまったが、そのことを批判する気はさらさらない。むしろ、このような作品があってもいいとすら思う。時に発展と拡張は、極端な方向性をキッカケにして生まれるのだから。そんな過激さが、極彩なサウンドスケープを描く本作には存在する。



(近藤真弥)



【編集部注】「Ektomists」はカセット・リリースです。デジタル版は《1080p》のバンドキャンプで購入できます。

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JEBIOTTO.jpg

 サウンドクラウドやバンドキャンプで日本のギター・バンドの曲を聴いていると、Boyish(ボーイッシュ)のような和製ネオ・アコースティック、あるいはThe fin.(ザ・フィン)のような和製シューゲイザー、チルウェイヴなバンドによく出くわす。時流に乗るのが悪いわけではないし、流行る前から同じ音楽性を志向していたのかもしれない。でも、舶来の音楽をそのままコピーしているだけでは? と思うバンドも少なからずいる。咀嚼して自分の血肉にするまで至っていないのだ。その一方で《Maltine》がbo en(ボーエン)のようなJ-POPに影響を受けた海外ミュージシャンの作品をリリースし、ヴェイパーウェイヴが80年代の日本の歌謡曲をサンプリングする昨今、再認識するのは日本独自の進化を遂げたJ-POPの海外に対する有効性だ。


 その文脈において、東京のスリー・ピースJEBIOTTOジェビオットはダーク・ホースかもしれない。彼らが鳴らす歌謡ディスコ・パンク、胸躍るデジタル・ビートは、誰にでもある若き日の夏の思い出を呼び起こす。極上のメロディーは現実には存在しなかった美少女のシルエットさえ幻出させるかもしれない。まるでアシッドをキメているかのようだ。クスリなんかやらなくても彼らの音楽を聴いている間だけは、実際には無かった恋を回想することができる。それは優れたポップ・アートだけが持ち得る魔法だ。そして興味深いことに、アルバム・タイトルの頭文字をとると "LSD" となる(笑)。


 音楽自体の話に戻ると、低いシャープな声質でクールに歌うMadcaは、同時にシンセサイザーで下世話なほどポップなメロディーを奏でる。Tuttiのギターはベースのような音を出し、Molisonはドラム、エレクトロ・パッドを使い分け、3人が紡ぎ出す音はニュー・オーダーを連想させる。しかし同時に、歌謡曲というフィルターを通した日本ならではの視点で再構築されている。1曲目「Seqential TomTom Cats」は、うしろゆびさされ組が歌ったアニメ『ハイスクール!奇面組』の初代オープニング曲を思い出すし、3曲目「PaPaPa Emotion」はaccess(アクセス)「Virgin Emotion」のオマージュかもしれない。その一方で、後半の「Ax Nx C」や「We can dAnce」といった曲はソニック・ユースをはじめとする実験的なノイズ・ロックからの影響を感じさせる。一聴、ミス・マッチに思えるそういった音楽性の組み合わせには不思議な中毒性があり、私は繰り返し聴いてしまっている。



(森豊和)

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Manic Street Preachers『Futurology』.jpg

 世の中に対しどれだけ怒りを抱いていたとしても、その怒りを保ちつづけることは難しい。膨大なパワーもたらしてくれる初期衝動は、時を経て "惰性" になる宿命からは逃れられず、そのことに納得がいかない者は苦悶する。あれだけ怒り、不満をたくさん抱えながらも、どこかで緩さを持ってしまう自分に。


 とはいえ、そうした苦悶と上手く折りあいをつけ、前を向いて歩みつづける者もいる。それこそ、マニック・ストリート・プリーチャーズがそうだ。サード・アルバム『The Holy Bible』までは、リッチー・エドワーズという創造力あふれる男と共に、そして彼が私たちの前から消えてしまったあとも、ジェームス、ニッキー、ショーンの3人は音楽シーンの第一線で活躍している。まあ、『This Is My Truth Tell Me Yours』や『Lifeblood』は少々守りの姿勢が強く、内省的な雰囲気を醸していたが、こうした人間臭さも彼らの魅力。完璧ではないからこそ、迷いながらも自分なりの答えをその都度導きだし生きていくという人の本質的な泥臭さを体現している。当たりまえといえばそうだが、その当たりまえなことがまた難しいのだ。しかも彼らは、自分たちの本質である反骨精神に忠実なまま、現在に至っている。アルバム・チャート上位の常連バンドという商業主義の役目を果たしつつ、自分たちの主張や信条はしっかり伝える。イギリスは日本と比べてそれが容易いというのは確かにそうだ。しかし、それでも難しいことに変わりはない。彼らはそんな難しい仕事を20年以上もつづけている。彼らが影響を受けたと公言するザ・クラッシュよりも長く。


 前作『Rewind The Film』と対を成す形で作られた『Futurology』は、マニック・ストリート・プリーチャーズの長い歴史を彩るに相応しい良盤だ。アコースティック・サウンドが中心にあった前作とは打ってかわってエレクトロニックなプロダクションが際立ち、どこかレトロ・フューチャーな世界観が見え隠れする。クラウトロックやポスト・パンク色が濃く、ノイ!、クラフトワーク、さらには『Low』期のデヴィッド・ボウイなどがちらつく。このような要素はこれまでの作品でも度々うかがえたが、本作のようにそれが中心となっているアルバムはなかった。同じような作品を作らないのも彼らの特徴だが、それは本作でも貫かれている。


 もちろん、彼らのファンにはお馴染みの知性あふれる歌詞も健在。こちらも内観的で陰鬱な言葉が目立った前作とは違い、ポジティヴで前向きな言葉が多く用いられている。政治的なテーマに足を踏みいれることも忘れていない。戦争経済なる言葉が飛び交う現在を揶揄した「Let's Go To War」が好例だろう。さすがに、リッチーがいた頃の "4人対世界" という大言壮語なマニック・ストリート・プリーチャーズではないが、それを現在の彼らに求めるのはお門違いだ。時代が変わるように、人も変わり成長するのだから。



(近藤真弥)

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The Bug『Angels & Devils』.jpg

 多様性には、大きく分けてふたつあるように思える。ひとつは、いろんな要素や文化が集められていながら、互いに交わることがない、あるいはそうした交わりを無条件に排除し、相互作用が働かない多様性。ふたつめは、互いの文化や要素を取り入れあい、自らのホームとする文化を多元的に発展させていく多様性。


 前作『London Zoo』から6年ぶりとなるザ・バグことケヴィン・マーティンのアルバム『Angels & Devils』は、後者の多様性が息づいた作品だ。本作を作り上げたケヴィンは、キング・ミダス・サウンド名義などでも活動するヴェテラン・アーティスト。そのキング・ミダス・サウンドやザ・バグに通底している要素といえば、やはりレゲエ/ダブということになるだろうが、それは本作でも変わっていない。前作もベースを強調したサウンド・プロダクションが際立ち、ダンスホールやグライムといった要素を中心に作られたアルバムだったが、本作はその方向性をより深化させた内容と言っていい。しかもダブステップが誕生する前からダンスホールやダブ・サウンドを鳴らしてきたこともあり、レゲエ/ダブへの敬意が色濃く表れている。


 とはいえ、「Fall」にはインガ・コープランドを迎え、そして「Fuck A Bitch」ではデス・グリップスとコラボレーションを果たすなど、現在の音楽シーンに目を向けることも忘れていない(デス・グリップスは先日解散してしまったが)。もちろんただ呼び寄せただけでなく、ダークかつ耽美的なアルバムの世界観に上手く馴染ませ、それこそ冒頭で筆者が述べたふたつめの多様性を実現させている。『Angels & Devils』という二項対立なタイトルとは裏腹に、本作は境界線を自在に飛び越える極めて折衷的な作品だ。これはおそらく、ケヴィンが長年ロンドンに住んでいた影響もあるだろう。多種多様な人々が行き交い住んでいるロンドンという街の土壌と文化を反映しているわけだ。


 そういった意味でも本作は、『London Zoo』から地続きのアルバムだと言え、同時にイギリスという国が持つ歴史を表象してみせる。それは例えば、ジャマイカから移り住んできた人たちによってイギリスにサウンドシステム文化が持ち込まれ、そうした流れが、60年代に始まり現在もロンドンで毎年おこなわれている祭典ノッティング・ヒル・カーニバルに発展した、というようなもの。こうした歴史的背景を本作は感じさせる。



(近藤真弥)

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 最近、チャイルドフッドのデビュー作『Lacuna』と、スプーンの8作目『They Want My Soul』を繰り返し聴いている。アシッド・ハウス、シューゲイザー、チルウェイヴといった80年代以降の様々な音楽要素を取り入れたバンドがチャイルドフッドだとしたら、スプーンは無骨なまでにルーツ・ロック志向で60~70年代の伝統的なソウル、ファンク色も匂わせる。やや乱暴に言ってしまえば、ちょうど8090年代のポスト・パンク/ネオ・アコースティックを境に逆の方向性に進化を遂げた2組だ。スプーンがキンクスを目指したとしたら、チャイルドフッドはディアハンターがお手本というか。経歴も好対照で、チャイルドフッドは時代の寵児として英米のメディアで既にもてはやされているが、スプーンが本格的にブレイクしたのは2007年の6作目『Ga Ga Ga Ga Ga』。活動開始から10年。解釈しだいでは、スプーンは時代の流行におもねることなく、ひたすら音楽性を研ぎ澄ましていった末にブレイクしたともいえる。どちらが良いというわけではない。


 前置きが長くなったが、岐阜出身で名古屋を中心に活動するツイン・ギターの4人組ロック・バンドHALF SPORTS(ハーフ・スポーツ)もまた、時代とは関係ない地点で自らを律し続けているバンドだ。ピクシーズやスーパーチャンクを思わせるパワー・ポップが彼らの音楽性の基本である。しかし、ジャケット・アートはワイアーのサード・アルバム『154』のオマージュであることにニヤリとさせられる。浮遊感あふれる歪なギター・エフェクトや、突然加速してはまた唐突に元のテンポに戻るといった捻くれた構成で、かつ難解な印象を与えない楽曲からも当然ワイアーの影響を感じさせる。明るさの中に空虚さを含んだような女性コーラスがハスキーな男性ヴォーカルに絡むさまや、随所で聴かれるザ・スミスやアズテック・カメラ等を思わせる繊細なタッチのギター・フレーズからも、ポスト・パンク/ネオ・アコースティックを起点にした音楽的背景が窺える。


 余計なお世話かもしれないが、筆者は一つ懸念を抱く。彼らの音は、ゴリゴリのハードコア・パンク勢からは遠く、より柔らかな音を奏でるネオ・アコースティック・リヴァイヴァルな若手バンドとも違う。マイナーなインディー・ロック村のなかでもさらにカテゴライズされにくい、受け入れられ難い位置にいるのではないかと。しかし自分の信念を貫くというのは得てしてそういうことだとも思う。周囲に流され本意ではない音楽を演奏してそこそこ成功するくらいなら、信じるスタイルに固執して注目されない方がなんぼかマシ。本当にしたいことをすれば例え失敗しても悔いはない。むしろ、演者も観客も一体になって楽しめるような音楽はその地点からこそ生まれてくるはず。



(森豊和)

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 暑い。日本の夏は、とにかく暑い。地球温暖化のせいだか知らないけれど、最近の夏はまた湿度が高い...ような気がする。日本の夏、キンチョーの夏...じゃなくて、アラフィフ音楽(主に洋楽)野郎である自分は、こんなふうに言いたくなってしまう。日本の夏、ザ・ヴェンチャーズの夏。いや、ここはやっぱり、20世紀風にベンチャーズと表記したいところだ。


 80年代初頭、彼らがメジャーと契約していた時代に東芝EMIからリリースされたベスト&レア・トラック集『ヒカシュー・スーパー』につづく、30年以上ぶりの続編『ヒカシュー・スーパー2』。前作にも、1980年に彼らがベンチャーズと共演した際のライヴ・トラックが2曲入っていた。かつてはヒカシューの代表曲「プヨプヨ」「パイク」にベンチャーズが参加したものだったけれど、今回は逆にベンチャーズの「十番街の殺人」「テルスター」にヒカシューが参加したトラック! 『ヒカシュー・スーパー2』の流れとしては、その2曲の直後に79年のヒット曲「20世紀の終わりに」のまさに20世紀末(2000年)に録音された「ダクソフォン・ヴァージョン」が、極めて自然につづいていく(リアルそのもの...)。


 そういえば、1980年、高校2年生だったぼくのサマータイムの最愛聴盤は、ヒカシューのセカンド・アルバム『夏』だった。うん、日本の夏、ヒカシューの夏...。


 ちょうどYMOが大ブレイクしていたころの話だ。彼らは、プラスティックス、Pモデルと並んで「テクノ・ポップ御三家」と呼ばれていた(笑)。ぼくは、そのみっつを並べた場合、今挙げた順番で好きだった。ヒカシューとプラスティックスは、かなり大好き。そのあと、のりこえられない壁があってPモデル...ってな感じで...。そう思ったきっかけのひとつは、愛読(カルチャー?)誌『ウィークエンド・スーパー』に載っていた「ヒカシュー巻上とPモデル平沢のバトル」の顛末記を読んで、Pモデル...だっせー...と思ったことも理由のひとつだった(詳細は略。またの機会に:笑)。


 当時は、いわゆる「ビニ本」が登場してきた時期。健康な高校生男子としては大変興味を持っていた。その流通形式を使って『ジャム』『ヘヴン』といった先端的な雑誌も売られていたことは知っていたものの、なかなか買えなかった。売ってる自販機が近所になかったうえに、とても高かった...。しかし『ウィークエンド・スーパー』は、1000円以下で近所の本屋さんで普通に買える。毎号(いわゆる無名時代、よりゲリラ的であった時期の荒木経惟による)極めてエロい無修正写真も毎号載っていた。『ヒカシュー・スーパー』というアルバム・タイトル、およびロゴは、その雑誌へのオマージュとなっている。


 まさに、日本の夏...(笑)。


 ベンチャーズの話に戻ろう。彼らは50年代~60年代の日本で確立された「エレキギター=不良」というイメージの源流のひとつにもなっている生粋のギター・バンドなのだが、なぜかエレクトロニックな音楽との相性がとてもいい。構造的にそれほど複雑ではなく、どこか機械的にぎくしゃくした味があるから、だろうか。ちなみに(USの)ディーヴォも(79年の)セカンド・アルバムで、ベンチャーズのレパートリーとして世界的に有名な「秘密諜報員」をカヴァーしている。ディーヴォも、そしてクラフトワークも、70年代末~80年代前半の日本では「テクノ・ポップ」と呼ばれていた。ヒカシューはファースト・アルバムで、クラフトワークの「モデル」を、あまりに巧みに(歌謡曲かと見まがう素敵なお水っぽさで)カヴァーしている。そして、この『ヒカシュー・スーパー』では、90年代末に日本でリリースされたクラフトワーク・トリビュート・アルバムにも収録されていた、彼らの「放射能」が聴ける。


 おお...と思った。今の時代状況に会っている。ライナーを読んでみると、98年録音か。そういえば...と思ってウィキを調べてみたら、おっと、それは違ったか...。


 例の、茨城県東海村の原発事故は99年のことだった。作業員がバケツで放射性物質を運んでいたなど、寒気に襲われるしかない事実があとになって発覚したものの(当時は主に東京の編集室で)がんがんにDTP作業しているとき、ネットで入ってきた速報ニュースを見たときは...! ちょ、ちょっと待てよ...死がそこまで迫っている...とばかり、数時間~1日くらい作業を中止して、ネットで情報を追うことしかできなかった。ツイッターなど影も形もないどころか、2ちゃんもまだまだ全然マイナーだった時代。今思いだしてもぞっとするし、ネットでニュースを得ることの重要性を、ぼくはそこで最初に学んだ気がする。


 で、この「放射能」、それを受けて録音されたものではなかったけれど、逆に時代を少しだけ先取り...日本の未来を予言していたと言えるかもしれない。もちろん、チェルノブイリやセラフィールド、ヒロシマに対する言及はある。そして、最近のライヴでは、当然フクシマにも...。


 これまでCD化されていなかった80年代初頭のシングル「私はバカになりたい」(荒木経惟ほどではないけれど、当時はまだほどよくアンダーグラウンドな存在だった蛭子能収のマンガ作品に対するオマージュ曲)「超・少年」と、それらのカラオケ・ヴァージョン、新録/新ミックス曲や90年代に録音されたものも含む、全12曲。テクノ・ポップなのかトライバル・アヴァンギャルドなのか? ロックなのかJポップなのか? そんな中途半端な対立項をのりこえ、ついでに70年代後半から現在に至る40年の時代も軽々とまたぎこしてしまった。グロテスクであると同時に美しく湿った(プラスティックというより生きたビニール人形的である)ヒカシューの音楽の魅力が、見事に集約されていると言えるだろう。


 日本の夏は...(以下略)。



(伊藤英嗣)


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Sky Ferreira『Night Time, My Time』.jpeg
 同じ行動をとっても、その人がどんな人かによって受け止められ方が違うというのは多々ある。例えば、男であれば当たり前のように思われる行動だから何も言及されないのに、それが女性だと "変わってる!" みたいに変なバイアスがかかってしまうとか。他にも、レコード・ショップのテクノ・コーナーで、女性アーティストのシングルが "男勝りで硬質なビート" だとか、"女性とは思えないハードなサウンド" という一言と共にレコメンドされているのを見かけると、これを書いた人は女性に対して固定観念を持っているのではないか? と思ってしまう。"ハードで硬質な格好いいサウンド" みたいに、素直なコメントではダメなのだろうか。こうした "女性だから" という場面に遭遇すると、筆者はどこか居心地の悪さを抱いてしまうし、だからこそ、ポーランドのザミルスカみたいな「ステレオタイプを破壊すること」に興味がある女性アーティストに肩入れするのかもしれない。まあ、こんなことを周りの人間に言うと、"女も女の武器を使うじゃないか" と反論されるのだが、そう言われると、男だって男であることを利用してこれまで生きてきたではないかと思ってしまう。いまだ根強い男性優位という社会の仕組みをふまえるとなおさらだ。


 中学生の頃からマイスペースで多くの音源を発表し、そこからようやくファースト・アルバム『Night Time, My Time』にたどり着いたスカイ・フェレイラ。現在22歳の彼女は、恋人のザッカリー・コール・スミス(ダイヴのフロントマン)と一緒に麻薬不法所持の容疑で逮捕されてしまったりと、その扇情主義とも言える側面にばかり注目が行きがちだ。しかし、本作を聴けば、スカイ・フェレイラはひとりの表現者としてしっかりとした核を持っているのがわかる。まずサウンド面は、彼女が好んで聴いているというクラウトロックの反復性を見事にポップ・ソングへ昇華した「Ain't Your Right」、『Honey's Dead』期のジーザス・アンド・メリーチェインが頭をよぎるダンサブルなナンバー「Nobody Asked Me (If I Was Okay)」、出だしが一瞬ソニック・ユースを連想させるインディー・ロック・チューン「I Will」、そしてラストの表題曲ではドローンを取り入れるなど、かなりの彩度を誇っている。彼女は幼い時からゴスペルの聖歌隊で歌い、さらにインスタグラムにボビー・ギレスピー(プライマル・スクリーム)の写真をアップしたりするくらいだから、リスナーとしていろんな音楽を聴いてきたのだろう。こうした彼女の音楽的嗜好が本作には上手く反映されている。


 歌詞のほうも、多くの聴き手に最短距離で届く秀逸なものだ。よく比較されるロードのような詩的世界観はないが、自分の言葉をまっすぐに吐き出しているから、とても正直な響きを携えている。あざとい虚飾もなく、そういった意味で筆者は、日本のラッパーKOHH(コウ)のリリックを想起してしまった。特に「I Blame Myself」では、10代の頃から音楽活動やモデルの仕事をしてきたなかで生じた葛藤と、それをもたらしたものに対する反抗心が明確に表れていて、彼女が世間のステレオタイプに挑んでいるというのがわかる歌詞である。さらに「Nobody Asked Me(If I Was Okay)」では、自身のなかにある承認欲求と寂しさを吐露しており、ゆえに彼女の刹那的な心情を際立たせることにも繋がっている。


 だが、そこで自己憐憫なペシミズムに陥らないのが彼女の素晴らしいところ。むしろ本作は自由で活き活きとしたエネルギーに満ちていて、自分が抱える欠点や弱さを認めたうえで前に進もうとする彼女の姿を垣間見れる。しかも彼女はその姿勢を、あくまで等身大のまま貫こうとしている。少なくとも、ヒロイックな立ち居振舞いはまったく見られない。スカイ・フェレイラは、飾りを身につけたポップ・スターになれるだけの素質とスター性がありながらも、できるだけ妥協せずに自分の表現を届けようと試みている。いわば商業主義と自己表現の境界線を綱渡りしているのだ。このようなスリリングさも本作の魅力なのは言うまでもない。


 とはいえ、そんな本作の日本盤が、"未完成" のまま多くの人に届いてることは本当に残念でならない。大きな話題となったからご存じの方もいると思うが、本作の日本盤は本国盤に収められている「Omanko」という曲をカットした形でリリースされ、ギャスパー・ノエによる美しいジャケット写真も乳首が出ている部分はトリミングで見事に消されている。このような処置も彼女らしいといえばらしいが、音楽業界とやらに片足を突っ込み、"諸事情" もある程度は理解したうえで言わせてもらえれば、本作の日本盤は "完成品" として日本の音楽リスナーに届けられるべきだったと、今も強く想っている。『Night Time, My Time』が、スカイ・フェレイラという女性の真摯な姿を味わえる作品だからこそ。



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 ザミルスカのファースト・アルバム『Untune』だが、まずは本作に出逢うまでの話をさせてもらうとしよう。


 筆者は最近ポーランドのテクノにハマっている。キッカケは、チノのシングル「Early Days」。ちなみにこのシングルを手に取ったのは、《L.I.E.S.》などからリリースを重ねるヴェテラン・アーティスト、レゴウェルトによる表題曲のリミックスが目当てだったから。ハードウェアで作られた良質なテクノ/ハウスを量産する男の仕事ゆえに筆者も楽しみにしていたのだが、出来は "まあまあ" というのが正直なところで、強く惹かれるものではなかった。ところが、チノのオリジナル・トラックには興味をかきたてられてしまった。特に「Raw And Rugged」は、絶妙なタイミングで挟まれるヴォイス・サンプリング、ダンスフロアに集う人々のツボを確実に押すであろう巧みなトラック・メイキングといった具合に、ダンス・ミュージックの機能性を見事に備えていた。


 その後、ポーランドのテクノをディグる過程で遭遇したのが、RSSボーイズという2人組ユニット。アーティフィシャルかつエキゾチックな雰囲気を纏うヴィジュアルは高い匿名性に包まれ、作品のアートワークではペニスを用いるなど、一種のグロさも感じさせる。このセンスは、カニエ・ウェスト『Yeezus』に参加し、自身のサウンドクラウドにアップした『&&&&&』も話題を集めたアルカのヴィジュアル・イメージに通じるものだ。


 そんなRSSボーイズの作品をリリースしている《Mik.Musik.!.》から発表されたのが、ザミルスカの『Untune』というわけだ。ポーランド出身のザミルスカはシロンスク大学に通う現役の学生で、MVのほとんどを自ら制作するなど、DIY精神と創造性を持つ才女。


 彼女が鳴らすサウンドはズバリ、レジスが主宰する《Downwards》周辺に多い、ポスト・パンク色が濃い硬質なテクノ。インダストリアルでダークな雰囲気を強く打ち出しているが、そこにベース・ミュージックの要素を混ぜているのも面白い。こうした混合の類例を挙げるとすれば、ベース・ミュージックとインダストリアルを接続した音楽性で注目を集め、ハビッツ・オブ・ヘイトのメンバーとしても活躍するハッパになるだろうか。


 また、「Army」や「Duel 35」などはダンス・ミュージックの快楽性を秀逸なビート・メイキングで生みだしているものの、全体的にBPMはそれほど速くない。音の抜き差しも最低限に抑えられ、基本的には体よりも心を飛ばす音作りが目立つ。それゆえ、聴けば一発でハマるというような即効性は期待できないが、代わりにジワジワと魅了されていくスルメのような味わい深さをもたらしてくれる。このあたりは好き嫌いがハッキリ分かれるかもしれない。とはいえ、その味わい深さが聴き手の能動性を喚起するのも事実で、それが本作の魅力となっている。


 そして、ザミルスカの音楽を聴くうえで見逃せないのは、彼女がレベル・ミュージックとしてのテクノを鳴らしているということ。自身のフェイスブックにも書いているように、彼女は「ステレオタイプを破壊すること」に興味があるらしく、このことからも強い反骨精神を持つアーティストなのがわかる。だからこそ、先日もマレーシア航空機が領土内で撃墜されるなど、緊迫状態が続くウクライナを支援する目的で「Dissent [Support For Ukraine]」を発表したのだろう。このような精神は、アンダーグラウンド・レジスタンスの首謀者として知られるマッド・マイクに通じるもの。いわばザミルスカは、新たなライオット・ガールと言えるアーティストなのだ。



(近藤真弥)

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《みなさまにご案内いたします この飛行機はまもなく離陸いたします シートベルトをもう一度お確かめください。》(「Hello World」)


 カナダ出身のアーティスト、ホトィンによるアルバム『Hello World』は、ベッドルームに収まりきらない想像力が爆発したハウス・ミュージックである。スチュワーデスのアナウンスで幕を開け、旅立ちの興奮を表すかのように粗々しいビートが鳴る表題曲にはオープニングを飾るに相応しい壮大さが宿り、続く「Ghost Story」は、ドラムマシーンのタムを多用したシカゴ・ハウスなリズムのうえで、柔らかいシンセ・サウンドが優雅に舞う心地よい曲。ここまでくれば、あなたはもう『Hello World』の住人。ラストの「Why Don't We Talk」まで、甘美で流麗な電子音に身を任せることになる。


 先にも書いたように、このアルバムはハウス・ミュージックを基調に作られたものだ。しかし、全曲にシカゴ・ハウスのラフで快楽的なリズム・パターンを取り入れながらも、アシッディーな音色を打ち出した「Infinity Jam」、柔らかいパッド音が幽玄に響く「Fight Theme」といった具合に、本作におけるホトィンは曲ごとにシンセの使い方を巧みに変えていくことで多様さを生み出している。ゆえにビートから実験精神を窺えないのが欠点といえば欠点だが、そうした欠点を補うように、聴き手をチル・アウトにいざなうサウンドスケープの魅力が本作を包みこんでいる。


 それにしても、そんなサウンドスケープが『Selected Ambient Works 85-92』期のエイフェックス・ツインや、《Planet Mu》主宰のマイク・パラディナスによるµ-Ziq(ミュージック)といった、いわゆるIDMを連想させるのはなんとも興味深い。例えば、ローンは『Reality Testing』、そしてフォルティDLは『In The Wild』において、それぞれ自らの感性と解釈を通したラウンジ・ミュージックを鳴らしているが、こうしたラウンジ・ミュージックの要素が『Hello World』にもある。いわば、アーティフィシャルでキラキラとした電子音によって構築された世界。とはいえ、《100% Silk》以降のテン年代インディー・ダンスの文脈にある『Hello World』に対し、『Reality Testing』や『In The Wild』は、《Brainfeeder》がヒップホップとジャズの新たな関係性を提示したあとの流れに存在するという差異はあるのだが。


 しかし、"ラウンジ・ミュージック" "IDM" というキーワードで『Hello World』『Reality Testing』『In The Wild』を接続できるのは確か。それはつまり、チルウェイヴの盛り上がりが収束してからしばらく鳴りを潜めていた "チル" という要素が、ふたたび浮上しつつあることの証左なのだ。




(近藤真弥)




【編集部注】『Hello World』はカセット・リリース。《1080p》のバンドキャンプではデジタル版のダウンロード販売もおこなっています。

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 やはりというべきか、may.e(メイ・イー)の最新ミニ・アルバム「REMINDER」がリリースされてから、何度も聴いてしまう筆者がいる。『Mattiola』 『私生活』と、作品を重ねるごとに早耳リスナーの間で話題を集めていった彼女。優しいメロディーに、耳馴染みのよい歌声と言葉が多くの人に知られていくのは、may.eの音楽の虜になったひとりとして嬉しい限り。また、シチュエーションによってその響きが変わるのも、may.eの音楽が持つ魅力だ。電車に乗りながらでもいいし、あるいは街を散歩しながらでもいい。may.eの音楽は、どこで聴いても心にスッと寄り添ってくれる。筆者にこうした感覚をもたらしてくれる音楽は、may.eとニュー・オーダーくらいのもの。


 その魅力は、「REMINDER」でも相変わらず。"デモ・ミニ・アルバム" というだけあって、これまでの作品よりも少々ラフな質感が際立っている。とはいえ、それが欠点にならず味となっているのがまた面白い。なんというか、寝そべりながらラジオやレコードを聴いている感じに近い。以前に筆者がおこなったインタヴューでは、「私はキレイにしたいんです」と言っていたが、筆者からすればこれはこれでアリ。喜怒哀楽、そしてこれらにまつわる複雑な機微も喚起するサウンドスケープは、本当に心地よい。もちろん、キレイに録れる環境で作られた作品も楽しみにしているが・・・。


 そして、「REMINDER」を浴びるように聴きながらあらためて思ったのは、may.eの音楽にはアンビエント・ミュージックに近い要素があるということ。アンビエント・ミュージックはブライアン・イーノが提唱した音楽ジャンルであり、リスナーを無理に引き込んだりはせず、むしろリスナーがどれだけ能動的に聴くかで聞こえ方が変わってくる音楽だ。こうした要素がmay.eの音楽にもある。例えば、そこにあって当たりまえな空気のようなもの、もしくは夏の青空に浮かぶいくばくかの白い雲、あるいは森を歩いていると聞こえてくる虫の鳴き声でもいい。言ってしまえば、may.eとはアンビエント・シンガーである。まあ、そんな筆者の戯れ言は放っておくとして、まるで日常の一部であるかのようにmay.eの音楽は存在しているということ。それは、ひとつの曲に膨大な量の音楽的要素や情報を詰めこんだ昨今のJ-POPとは異なるもので、ゆえに彼女がオルタナティヴ的側面を孕むことにも繋がっている。



(近藤真弥)




【編集部注】「REMINDER」はmay.eのバンドキャンプでダウンロードできます。

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 大友良英も関わる『音遊びの会』という取り組みがある。知的障害者とその家族、音楽療法家や様々なアーティストが集まり、即興演奏を通して新しい表現を開拓する試みだ。そのメンバーである原山つぐみが、2013年に神戸でスタインウェイ・リレーという順番にグランド・ピアノを演奏していくイベントに出演したのを観た。故・佐久間正英や早川義夫、モーマスにDODDODO(ドッドド)といった顔ぶれに挟まれて。極めて直感的なプレイ、というか瞬発的な叩き方、感情が染み出してくるようなパフォーマンスだった。


 既成の常識にとらわれないゆえに素晴らしい表現をするアーティストがいる。彼らこそ新しい普遍的なポップスを作る可能性がある。札幌出身のSSW沙知を中心としたプロジェクト、ハリネコもそのひとつだろう。勢いと艶のある彼女の歌がまず心臓をわしづかみする。さっぱりとした色気と生命力あふれる声。時にギリギリな響き、喘ぎ、あるいは切実な祈りを思わせる。ギター、シンセサイザー、ベース、チェロ、ドラムからなる彼女を支える演奏はシアトリカルというか、歌舞伎、浄瑠璃のような日本古来の伝統芸能、舞いと演奏が一体になったパフォーマンスを想起させる。次々と展開していき、とりとめがないようで整合性がある。収まる所に収まる。また、沙知の声はもちろん大人の女性のそれだが、歌いまわし、声色の端々に年端もいかない少女が見え隠れする。全体として大人の豊満な女性の質量ではなく、中性的で軽やかな響きとなる。演劇をイメージさせると書いたが、ある少女の波乱に満ちた成長を描く物語に聞こえてくる。


 ここまで書いて、ハリネコの音楽から冒頭に書いた原山つぐみの演奏を思い出した理由が分かった。その日の演奏中、妨害する街頭の騒音にさらされた彼女はその場を立ち去りたい衝動を必死にこらえているように見えた。何度も中断しながらも、しかし演奏を途中でやめなかった。つらさの尺度は人それぞれ、泣きたい、叫びたいくらいの苦しさを乗り越えて表現する。彼女の演奏が終わると観衆は一際大きい拍手を送っていた。そのとき微笑んでいた彼女が沙知のなかに居る少女とだぶったのだ。拍手する観衆は彼女にとってのバンド・メンバー。北の都から出てきた少女は東京で7人の小人ならぬ精鋭ミュージシャン達と巡り会う。誰の人生においても困難を乗り越えるためには仲間の存在は欠かせない。アバンギャルドなようでスタンダードな安心できるものにちゃんと行き着くのは、多彩なメンバーが彼女を支えているからなのだろう。



森豊和

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 「Someone's Missing」という曲で、《ここにあるのは成長中のカルチャー 死体の奥深く さまざまな時代がまじりあい その源へ》と歌ったのは、確かMGMTだったか。今から4年前、2010年のことだ。もう少し時を遡って、2002年。LCDサウンドシステムことジェームズ・マーフィーは、「Losing My Edge」のなかで、インターネットが一般化して以降、誰もがさまざまな時代の音楽や文化に触れることができる現在を予言するような "神の視点" を歌った。《1968年ケルンで最初のカンのコンサートを観た》《パラダイス・ガラージのDJブースにラリー・レヴァンとともに俺はそこにいた》といった具合に(ちなみにジェームズは1970年生まれ)。この歌は、音楽マニアによるうんちくとレコード・コレクションの自慢に聞こえるが、その豊富な知識がもはや特権ではないことも告げていた。知識は "占有" ではなく "共有" されるものと認知され、多くの者がネット上に資料をアーカイヴとして次々とアップする、いわば "記憶の外部化" が進んでいるのだから、それも致し方ないというもの。そして、この流れが行き着いた地点こそ、《Ninja Tune》などから多くの作品をリリースしているミスター・スクラフが筆者に語ってくれた、「昔に比べて細分化されたから、自分の音楽史というか履歴が他の人とかぶることが少なくなったかもしれない。みんなインターネットを介して、個々の音楽文化を築き上げている」(※1)という現況だ。


 そんな現況がもたらした興味深い作品が、『#INTERNETGHETTO #RUSSIA』である。本作はロシアの《Hyperboloid》というレーベルによって企画されたコンピレーション・アルバム。ジューク、ダブステップ、ラガ、トラップ、EDM、ジャングルなどが混在した内容で、フロア映えするトラックが多く収められている。ちなみに、本作のメガミックスがアップされているサウンドクラウドのタグには、"techno trap" "tropical bass" "webpunk" といったジャンル名がある。このあたりは、単一タグで括れない表現が当たりまえになった現在だからこそであり、面白くはあるが、決して珍しいものではない。筆者からすると、《R&S》が2011年にリリースし、テクノ、IDM、ダブステップ、ヒップポップが交雑したコンピ『IOTDX』のアップデート版にも聞こえるが、アルバム・タイトルに "GHETTO" があることからもわかるように、『IOTDX』と比べたら本作は享楽的で、汗臭さが漂う。それゆえアゲアゲなグルーヴが際立っている。


 また、そんなグルーヴがアルバム全体を支配しているのも興味深い。コンピレーションともなれば、色彩豊かな雑多感を少なからず醸すものだが、本作はそうした雑多感を残しつつも、刹那的でアッパーなレイヴ感、それからハドソン・モホーク『Butter』以降のツルッとしたアーティフィシャルなシンセ・サウンドという2点が全曲に通低している。ゆえに本作は雑多感よりも統一性を強く感じさせ、言ってしまえば、とあるアーティストによるオリジナル・アルバムと紹介されて聴いたとしても、何ら違和感がない。


 先に引用したミスター・スクラフの発言には筆者も同意できるし、レヴューやライナーノーツといった場を借りて何度も繰り返し書いてきたことでもある。だが、本作の統一性は、みんなが同じ方向に傾いた画一的な熱狂や連帯とは違う、いわば新しい帰納的な連帯の形、それこそ「個々の音楽文化を築き上げ」た先を示しているように見える。音自体の面白さはもちろんのこと、人と人の繋がり方に新たな視点を提示したという点でも、本作は多くの人の興味と好奇心を促す作品だ。



(近藤真弥)



【編集部注】『#Internetghetto #Russia』は《Hyperboloid》のバンドキャンプからダウンロードできます。



※1 : ミュージック・マガジン2014年6月号掲載 ミスター・スクラフのインタヴューより引用。

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 2014年も、すでに半分すぎてしまった。今年前半の、ぼくの最高の「愛聴アルバム」は、テンプルズサム・スミス、それは結構揺るぎないとして、もちろんほかにも素晴らしいものがたくさんあった。ちょっと俯瞰的に、比較論もまじえれば、こんな言い方もできる。


 2014年の「インディー・ロック」トップ・アルバムがフォスター・ザ・ピープルだったとすれば、彼らクローミオによるこの『White Women』こそ、まぎれもない「インディー・ポップ」トップ・アルバムだと。


 まあ、どちらもiTunesにつっこんだとき(Gracenoteをつうじて)表示された「ジャンル」は「インディー・ロック」だが(笑)。というか、彼ら...カナダのクローミオに関しては、ちょっと意外だ。00年代のポスト・パンク/ディスコ・ リヴァイヴァル・ブーム期に世に出た男性ふたり組ユニット。今調べてみたら、前作にあたる2010年のサード・アルバムのジャンル表記は(「ヒップホップ」ではなく:笑)「ラップ」だったし。


 もともと彼らの名前を耳にしはじめたころ、LCDサウンドシステムのジェームズも「注目してる」と言ってたから「エレクトロニカ/ダンス」でもおかしくない(ただ、同じく今ぼくのiTunesライブラリを確認してみたら、LCDのファーストとセカンドは「オルタナティヴ&パンク」だった。自動的に出てきたものなのか? それとも、ぼくが勝手に変えたんだっけ? 今となっては記憶がないぞ...:笑)。


 そういった「ざっくりした」話は、ちょっと置いといて、ぼくのなかにおける彼らの位置づけに関して言えば、ほぼ同じころ好きになりはじめたオーストラリアのカット・コピーや、フランスの(かつてのダフト・パンクフェニックス→)ブレイクボットあたりと近い。「ギターやベースやドラムスと同じようなものとして、それが使われはじめたころ」、つまり70年代末~80年代っぽいエレクトロニック感覚を継承しつつ、なによりエヴァーグリーンなポップ・エッセンスが、むちゃくちゃ気持ちいい。


 そんな意味で、この『White Women』、彼らの最高傑作だ。ヨーロッパ盤は名門パーロフォンから出てるだけあるというか。全盛期のプリンスに勝るとも劣らない完成度。ぼくはプリンスの80年代の作品を今もときどき聴く。やはり「当時のサウンドだな」と感じつつ。あくまで「アーカイヴ」として楽しんでいる。それに比べると、こっちは、もちろん「今の音」そのものだし、「とにかく楽しい」という意味ではプリンスより、もっと「普通のヒット曲」寄りかもしれない。


 そう、このアルバムは、本当に、ちょっとどはずれなくらいに楽しい。楽しすぎる。だから、ぼくは「精神的にはめをはずしたい、思いっきり逃避したい」とき、これを聴いている。


 だからこそ「インディー・ポップ」なのだ。フォスター・ザ・ピープルの新作セカンドも素晴らしかった。しかし、そこには「社会のなかにおける自分の位置づけ」に対する苦悩がすけてみえた。もちろん、いい意味で、エンターテインメントに徹しつつ。ピンク・フロイドの『Animals』や『The Wall』と、ためをはるくらいの深さで。それゆえ「ロック」だと思った。


 そして、ぼくは疑心暗鬼に陥ってしまった。フォスターのセカンド、噂によるとファーストに比べてあまり好きじゃないという人も多い、すごく賛否両論...らしい。えっ、なんで? もしかして、あれなのかな? 「インディー・ミュージック」ファンって、「社会」というファクターが音楽に入ってくると、拒否反応を示してしまうことも多い...ってこと?


 はあ...。正直に言おう。ぼくは長年クッキーシーンというメディアをやりつづけていた。だけど、その「イメージ」も含め、自分自身がそれを「完全にコントロール」できるわけではない...ってことも長年やっていて痛感した。とりわけつらかったのが、「雑誌」時代の後期...00年代末ごろ。そういった意味での「インディー・ファン」が読者に多くなってしまったのではないか? という...。


「政治? 社会? 知らないよ。選挙? 関係ない。われこそセカイの中心...みたいな(笑)」。


 やめてくれ...。素晴らしいポップ・ミュージック/ロックには「逃避」的側面がある。それは、たしかなこと。だけど、これは違うだろう。そんなふうに「閉じこもって」ばかりいたら、「逃避」をとおりこし、そのうちやがて「死」がやってくる。きみのわきに、しのびよってくる。それは、今の日本の社会に暮らしていれば、わかるはず...じゃないか?


 英語版ウィキペディアによれば、彼らは自らのことを「人類の文化の曙以来、はじめて『成功』した、アラブ人とユダヤ人のパートナーシップのたまもの」と称している。この音楽を聴き、ユーチューブでそのヴィデオを鑑賞したとき、『White Women』というアルバム・タイトルから、なにより強く伝わってくるのは「あー、きれーな白人ねーちゃんと遊びまくりてー、あわよくば結婚してーよー!」という、やむにやまれぬ感覚(笑)だが、その裏にある「批評性」は、上記の自己認識からして、もう明白だろう。


 さらに、アートワークに使われている車を見たとき、今さらながら気づいた。ずっと「クロームという金属名と(ジュリエットに対する)ロミオという人名の合成語」かと思っていたバンド名の、もうひとつの意味...ニュアンスに...。そっか「Chromeo」というつづりは、なんか「シボレー・カマロ(Chevrolet Camaro)」にも似てるぞ!


 今回、彼らがアートワークに使ったカマロは、80年代後半~90年代初頭の古いもの。ちょうどウルトラマンティガの(世界平和機構TPC傘下で最初は「武器」を持っていなかった)防衛隊GUTSの使用車(黄色いシャーロック)として使われたのと、ほぼ同じ年式。ちなみに、それより新しい年式の黄色いカマロは、トランスフォーマー実写版で複主人公たるバンブルビーにトランスフォームする。


 すごく「男の子」っぽい車だし、もうひとつ言っておけば、カマロはシボレーのラインのなかで、わりと低価格帯に属する比較的「庶民的な」スポーツカーだ。80年代初頭のプリンスに「Little Red Corvette」という大ヒット曲がある。スポーツカーに仮託して《あなた(のちんぽは「Little Red Rooster」ならぬ)赤い小さなコルヴェット...(いくの)速すぎ(フラストレーションたまっちゃう)!》と歌われたそのコルベットは、GM(ジェネラル・モーターズ社)全盛期におけるシボレーのフラッグシップたる高級車だった。でもって、クローミオは白い(古いし、たぶんそれほど速くもない)カマロ。こんなところにも、クローミオの「特質」が、よく現れているではないか...!


 最後に、ひとつ意地悪な? ことを言っておこう。


 このアルバムには、さまざまな人たちがゲストとして参加している。(LCDサウンドシステムの、わりと「パンクな面」を支えていた者のひとり)パット・マホニーや、(そういう名前のユニットがあることは知ってたけれど、ぼくも聴いたことがない)フールズ・ゴールドの人たち。そして、これが「でかい」んだが、ヴァンパイア・ウィークエンドのエズラや、トロ・イ・モワまで! ただし、彼らのフィーチャーのされ方は、決して「インディー・ミュージック」を「知的シェルター」として捉えている人たちが喜ぶような形ではない。むしろ「下世話なポップ・ミュージックの典型シンガー」として、そんなタイプの「インディー・ファン」たちが眉をひそめるか、もしくは「はあ? 関係ないよ、ぼくには...」などと言ってしまいそうな役割を与えつつ。その典型が、トロ・イくんをフィーチャーした「Come Alive」のヴィデオだろう。彼自身すごく「楽しんでいる」ように、ぼくには見えるのだが(笑)。


 ぼくは「最高!」と思った。さて、あなたは、どんなふうに感じるだろう?



(伊藤英嗣)

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PANIC SMILE.jpg

 奇しくも日本政府が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈変更を決定した201471日、新メンバー加入後としては初となるPANIC SMILE(パニック・スマイル)の作品が店頭に並んだ。カヴァー・アートには医学書からとられたような臓器の模型や化学構造式、顕微鏡の視野等が白黒でコラージュされている。フロント・アートに映る七三分けの男性は、おそらく人体模型なのだろうが、三つ折りジャケットを広げた下部にあるデモを想起させる群衆の写真と相まって、このご時世、否が応にもヒトラーを連想させる。


 本作のタイトル『INFORMED CONSENT』とは、正しい情報を伝えられたうえでの合意を意味する、主に医療現場で用いられる概念。自分たちに降りかかる運命について我々は知る権利がある。しかしインフォームド・コンセントは訴訟社会であるアメリカで、訴えられるリスクを減らすための医師の自衛手段として広まった側面がある。現在の社会情勢においてますます皮肉に聞こえてくる用語だ。医師は騙そうとして難解な話をするわけではないが、政治家は意図的に本質を外した答弁をする場合がある。表題曲「INFORMED CONSENT」は、インターネットで能動的に情報を得ているようで知らないうちに誘導され操られ、放射能という十字架を背負わされるさまを歌っているとも解釈できる。英詞の「NUCLEAR POWER DAYS」ではもっと露骨に原発や核戦争の恐怖を叫ぶ。「DEVIL'S MONEY FLOW」は一聴、経済について歌っているようで、漁船、国境といった単語を混ぜ込み、裏にある政治的意図を暗示する。何より《こっちに選ぶ権利がない》のが問題だと。


 歌詞カードには男性がUFOに吸い込まれていく漫画が描かれている。大きな力に操られ踊らされる男性。恐怖体験であるが、ビュルルーン、パワワーといった気の抜けた効果音でなんだか喜劇的だ。そのUFOに乗る宇宙人はロールシャッハ・テストの図形に似せた風貌をしている。つまり宇宙人もPANICSMILEの音楽も無意識に由来することを示唆しているのかもしれない。不動のヴォーカル吉田肇に、保田憲一がベースからギターへ転向、新たなリズム隊としてドラムに松石ゲル、ベースはDJミステイクという新メンバーで紡がれるバンド・アンサンブルは、緻密さが自然にほぐれ、かつてないほど開放的でユーモアも見え隠れする。それこそ歌詞カードの漫画みたいに明快で、その辺のJ-POPより爽やかだと錯覚してしまうほどだ。変拍子でどんどん展開していくプログレッシヴ・ロックのような小難しい曲ばかりなのに難解に聴こえない。1曲目の「WESTERN DEVELOPMENT2」で吉田は《とりあえず反旗を振っている 敵タナトスは馬鹿でかい》と歌うが、彼がデビュー後21年間保ち続けてきた闇雲な焦燥感、そのテンションにジャストな時代がやっと訪れたのかもしれない。ラストの「CIDER GIRL」では《ツイートをしたって絶対一人》と歌いながらも、不安な闇の彼方に一筋の希望を探す。優しい女性コーラスも添えられて、彼らにしては驚くほどストレートな90`sオルタナティヴ・ギター・ロックだ。盟友NUNBER GIRL(ナンバー・ガール)とともに博多の街を熱くした吉田の若き衝動は今なお続いている。



森豊和

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 激しい高揚感と、全てが過ぎ去ったあとの静けさが同居する。平沼喜多郎の叩くドラムに加えて、ギター/ヴォーカル/プログラミングの松村勇弥は今回ベースも自ら演奏している。よりヴォーカルを前面に出すプロダクションも施した。エレクトロ・ミュージックの様々な方法論を折衷しているが、もともと彼らの表現の芯にはギター・ロックのスピリットがある。それが生演奏の比重を増すことでさらに強調されている。


 かつてどこにもなかった国と名付けられた3曲目「Never Ever Land」やシングル・カットされた5曲目「Superneutral」ではその傾向が特に顕著だ。マッドチェスターからブリット・ポップの夢を2014年の日本で再現する。ストーン・ローゼスのようにポスト・パンク、サイケデリック・ロックをダンス・ミュージックに落とし込む手法に、オアシスが体現した単純で(だからこそ無敵な)カタルシスを注入する。かと思えば2曲目「I.D.」はLCDサウンドシステムが紐解いたニュー・ウェイヴ・ディスコの歴史をもう一度俯瞰する試みだ。4曲目「Experience Auras」はミニマルな冒頭から徐々に高まっていくダンス・ナンバー。ブリアルワンオートリックス・ポイント・ネヴァー等を愛聴する松村の嗜好が垣間見える。


 アルバムの構成は一本の映画のようだ。そのストーリーは歌詞やタイトルからも推測できる。例えばオープニング・ナンバー「Instant Dupe」は、すぐ騙される間抜け、カモの意味。6曲目の激しいダンス・ロック・ナンバー「Escape Line」は逃げ口上を意味する。続いて複雑な感情の揺れをイメージさせる「Counterfeit Rainbow」はまがいものの虹。DVD収録のVJ田嶋紘大が制作したMVではダイヤの指輪が粉々になるアニメーションが描かれ、《I'll make something wondrous(素晴らしい何かを成し遂げたい)》と歌われる。ジューク以降の流れを意識したかのような9曲目「Civilization」は文明化、ナイン・インチ・ネイルズのようなインダストリアル・ロックを彼らの感性で高速化させた10曲目「Manifold」は機械の枝分かれした排気管を意味するが、すると「Counterfeit Rainbow」のMVでは、工業化された物質文明をダイヤの指輪に例えたのかもしれない。それをまがいものの虹だとして粉々にする。アニメーションではその瞬間、真の美しい虹が現れるように見える。それこそが彼らの音楽なのかもしれない。


 ハムレットの悲劇のヒロインの名を冠した8曲目「Ophelia」は甘いシティー・ポップ・チューン。そして11曲目「Lust For Love」は彼らなりのインディーR&Bで最後にできた曲、今最もやりたいことの結晶だという。一方でラストの「Melt With You」ではアンダーワールドが体現した、しだいに加速度を増し、天上まで登りつめていくムードが2014年型にアップ・デートされている、9分近いこの曲は彼らの真骨頂。全体を通して伝わってくるのは揺るぎ無い信念。高機能なダンス・ミュージックとしてのテクノ、ハウス、アンビエントを越えて彼らが目指すのは、より多くの人に届くポップ・ミュージックだ。



森豊和

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ナマで踊ろう.jpg

 音楽も含めた "表現" は、ひとつの時限爆弾になり得る。発表当時はなんとなく流していた部分が、突如として心に突き刺さる棘となってしまう。例えば、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡ぐザ・ストリーツの「Empty Cans」が、10年の時を経てより深く私たちの心に問いかけてくるように。良くも悪くも、"表現" とは時代ごとにさまざまな解釈をあてがわれ、含意も変わる。それを良しとしない者も少なからずいるだろうが、場合によっては希望という名の可能性に繋がるのだから、一概に悪いとは言えない。表現とは "切り口" であって、"答え" ではないのだから。 "答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。決して誰かが教えてくれるものじゃない。


 坂本慎太郎は、実に多くの "切り口" を残してきた。明確な政治的主張をするわけではないが、ゆらゆら帝国時代に生み出した「ソフトに死んでいる」なんて、"今" に相応しい言葉を歌っている。


《いっけんやわらかい すごくなまあたたかい おわらない にげられない わすれたふりはもう やめよう よう よう よう よう》

(「ソフトに死んでいる」)


 とはいえ、ソロ・アルバムとしては2枚目の本作『ナマで踊ろう』は、文字通りの直球勝負。右傾化(というより筆者は "幼稚化" だと思うが)が著しいと言われる現在の日本に対する痛烈なメッセージ性を持ち、諸星大二郎や楳図かずおの漫画に通じる、SF的な寓話性を備えている。それは例えるなら、小さいころ両親に読み聞かせてもらった絵本のようなものだ。布団に入り、うとうとしながら聞いていたそのお話は、実は風刺や社会的教訓が込められたものであったという。このような側面が本作にはある。


 しかもそれは、歌詞だけではなく音にも通底するものだ。本作の初回盤にはアルバムのインスト・ヴァージョンが同梱されているのだが、そこで聴けるひとつひとつの音も "言葉" として伝わってくる。みんなで聴くより、ひとり部屋で寝転びながら聴いていたいトリッピーなサウンドスケープには、本作のコンセプトを築きあげることに腐心する坂本慎太郎の姿、それからファンク、ディスコ、ソウル、イージーリスニングなど彩度ある音楽的背景もうかがえる。もちろんコンセプトも重要ではあるが、本作はひとつの心地良い音世界を示してくれるという点でも、素晴らしい作品だ。


 ちなみに、クッキーシーンを中心に活躍する音楽ライターの近藤真弥、つまり筆者は、某誌で書いた本作のレヴューで次のように述べている。


「まるで地中から這い出てきたゾンビが演奏しているような音楽」(※1)


 これはおそらく、キノコ雲と骸骨というこれまたわかりやすいジャケット、それから「この世はもっと素敵なはず」で歌われる、《見た目は日本人 同じ日本語 だけどもなぜか 言葉が通じない》という諦念が入り混じった一節に影響されたからだろう。これについては今も変わらず抱いている印象だ。本作の1曲目「未来の子守唄」にしても、"未来の人間" というよりは、"未来の死者" が歌っているように聞こえてしまう。言ってしまえば本作は、未来の人々からすれば "過去" である私たちに向けられた、一種の恨み節なのかもしれない。とは言っても、繰り返しになってしまうが、"答え" は "切り口" を受け取った私たちがそれぞれ導きだすものだ。そういった意味で本作は、"切り口" としての余白を残しており、聴き手を完全に突き放す作品ではない。このあたりに坂本慎太郎という男の優しさ、そして皆が同じ方向へ傾く画一的な熱狂とは別の連帯を求める意思を見いだしてしまうのは、筆者だけだろうか?



(近藤真弥)




※1 : ミュージック・マガジン2014年7月号のクロス・レヴューにおける坂本慎太郎『ナマで踊ろう』評より。

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吉田ヨウヘイ.jpg

 草原を突き抜ける風のようなフルート、揺りかごのようにスイングするサックス。幼き日に駆け回った田舎の野山を思い出す。ジャズ、ファンクのリズム、コード進行にやわらかなメロディーが乗る和風ポストロック。ダーティー・プロジェクターズからの影響を公言し、聴く者を包み込むように鳴らされるギターと心和ませる管楽器と女性コーラス。豊饒な音楽だ。


 「新世界」を夢見て、はるか地平を見渡すために背伸びする、少年のような吉田ヨウヘイの声も魅力的だ。多彩な楽器隊や工夫を凝らしたアレンジに耳を奪われがちだが、総体として表現しようとしていることは、唄の表情にこそ端的に表れている。青年期も半ばを過ぎて少年の頃を振り返り、失われた情景や大切だった人間関係を想う歌詞が中心だが、2曲目の「ブールヴァード」では運転中のトラブルに、5曲目「12番ホーム」では列車のトラブルに例えるといった風で、日常の情景描写に心象風景を託している。そして3曲目の「アワーミュージック」では、人は時期が来れば諦めなければいけないことがたくさんある。それが大人になることだと歌われる。しかしその時期がないこともあると彼らは続ける。決して諦められないこともある。それが彼らにとっての音楽であり、信条なのだろう。


 話はそれるが、子ども向けの名作は、実は大人も楽しめる深い何かを隠している。ジブリ映画『となりのトトロ』は冥界からの使者であるという解釈もできるし、『千と千尋の神隠し』は精神分析で言えば子どもの発達過程を表すと同時に社会の暗部のカリカチュア。吉田ヨウヘイgroupのアルバムも同じで、やさしい音色なのに突き刺すような響きも含まれる。子どもの頃の懐かしく淡い感動を思い出させるが、そのなかにはお化けを怖がるような気持ちも含まれている。アルバムを通して聴いていて、不意に背筋が凍る瞬間を何度か体験した。自ら手放した大切なものについて歌う8曲目「ロストハウス」は特にそうで、苦しいほど胸が締めつけられた。岡田拓郎(森は生きている)がペダル・スティールを、三船雅也(ROTH BART BARON)がバンジョーを弾くこの曲は本作の核心だろう。ネガティヴな気持ちも包み隠さず歌われるからこそあたたかい音色が生きる。そして最終曲「錯覚が続いている」では本作中、最も牧歌的なメロディーが鳴らされ、大久保淳也(森は生きている)のトランペットが厳かに旅の始まりを告げるようだ



森豊和

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Caro kissa『Door』.jpg

 1990年代に流行った "渋谷系" といえば、フリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴが代表的存在とされ、自ら「全員平成生まれの遅れてきた渋谷系宅録ユニット」と称しているOK?NO!!、それからOK?NO!!のメンバーであるreddam(リダム)など、いまでも多くのフォロワーを生み出しているムーヴメントだ。とはいえ、いまでも明確な定義はなく、"渋谷系" と呼ばれていた音楽に通じる匂いがあれば "渋谷系っぽい" と言われているのが、現状だと思う。強いて "渋谷系" に欠かせない側面を言うと、多様な音楽的背景が感じられること、くらいだろうか。


 そういった意味では、sunachu(すなちゅ)とtakahiro(たかひろ)による男女ユニットCaro Kissa(カーロキッサ)のアルバム『Door』も、 "渋谷系っぽい" と言えるかもしれない。本作は、親しみやすいメロディーと平易な言葉で紡がれた歌詞を特色とし、モータウン、ファンク、ブルースの匂いを醸す多様な音楽性が魅力だ。


 加えて、ニューミュージックの色がまだ濃かった1990年代初頭あたりのJ-POP、いわば普遍的なポップスを感じさせるのも本作の面白さである。いま "J-POP" と呼ばれている音楽のほとんどは、複雑なアレンジや忙しない転調が繰り返される過剰なプロダクションを特徴としている。だが、本作のJ-POP感は、そうした現在の "J-POP" に対するオルタナティヴ性を孕むものだ。例えが悪いのを承知で言えば、ブックオフの280円コーナーでよく見かける、1998年をピークとするCDバブル期に制作された作品のような音。念のために言っておくと、筆者はこの例えをポジティヴな意味合いで使っている。値段と内容がイーブンではないのは言うまでもなく、しかもCD不況と言われる前に作られた作品だけあって、売れた売れないに関わらずそれなりの制作費を元手に作られており、ゆえに音が良かったりするのだから。もっと言えば、レア・グルーヴというものがあるように、リリース当時は見向きもされなかった作品が、時を経て多くの人たちに聴かれている光景は文字通り "希望" と言えるはず。筆者は本作に、そうした時代の面白さも見いだしている。


 もしかすると、本作を聴いて "懐かしい" と思う聴き手はいるかもしれないし、あるいは、"これなら過去に聴いたことがある" と一刀両断する者もいるだろう。しかし、秀逸なメロディーと言葉でもって、"かつてのJ-POP" を2010年代に蘇らせた『Door』が、なぜ "今" 生まれたのか? このことについてはいろいろ想像ができるはずだ。そういえば、"渋谷系" が出てきた当時、同時期に流行っていた "ビート・ロック" なる縦ノリの音楽があって、"渋谷系" にはそうした時代の潮流に対する反骨精神があった。この状況、現在にも当てはまりません? 


 というわけで、あとはあなた自身の耳で確かめてください。



(近藤真弥)




【編集部注】『Door』は《Positive Records》のバンドキャンプからダウンロードできます。

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Guided By Voices - Cool Planet.jpg

 やはり、やつらは「本物」...D.I.Y.ロック・バンドの鑑のような存在だった。この春、たてつづけにリリースされた(リリース・ギャップはわずか数ヶ月...。あいかわらず好き勝手流...だし、そのギャップの短さはイーノ&ハイド以上...というか彼らがGBVを真似た...のかしら?:笑)2枚のニュー・アルバム『Motivational Jumpsuit』と『Cool Planet』を聴いて、まじでそう思った。


 がさつだけど緻密。クールだけど熱い、そして「激しい」けれどスーパー・ポップというGBVならではの世界は、キャリアや年齢を重ねても、まったく衰えていないどころか、まずます磨きがかかっている。


 ある程度年期の入ったインディー/オルタナティヴ・ミュージック・ファンの方であればご存知と思うけれど、彼らがワールドワイド・ブレイクを果たしたのは90年代初頭。グランジ・ブームとシンクロしたUSにおける「その手の音楽」の盛りあがりのなか、当時は一介の新進レーベルにすぎなかったマタドールを、ペイヴメントや(UKの)ティーンエイジ・ファンクラブと並んで(レーベル本国USでは彼ら以上に?)盛りあげた。日本では、ベックや(これまた)ペイヴメントと並んで「ローファイ」ブームの旗頭となっていた。そんな「タグ」、今となってはまったく「有効」ではないだろう。ただし、「D.I.Y.だから、どうしてもハイファイ(Hi-Fi)志向は無理」という意味では、彼らは本当にそんなノリを今も貫いている...と、むしろ感心してしまう。


 『Motivational Jumpsuit』も『Cool Planet』も、20曲以上入って、時間は40分前後。だらだらと50分以上1枚のアルバムにつきあわされる必要もない。まあ、それはそれで、もちろん「あり」なんだけど、GBVの「今を生きる」疾走感には似合わない。おおげさに言ってしまえば、ポスト・パンク時代...70年代後半にワイアーがデビュー・アルバム『Pink Flag』(オリジナルは全21曲入りでトータル約35分という潔さ)でやらかした「極端さ」を、今も継承している。そのたとえ無理があるだろう、って? いや全然そんなことないよ。先述のとおり、彼らの名前が「世界にとどろきわたった」のは90年代だけど、もともと結成は80年代初頭。それも、ペル・ウブやディーヴォと同じ、オハイオ州で。


 とりあえず、彼らのことを知っている方も知らない方も、できれば2枚とも聴いてみてほしい。比較するなら『Motivational Jumpsuit』のほうが、よりストレートにガレージ・ロックンロールっぽく、『Cool Planet』のほうがストレンジ・ポップ度が高い。たとえば、彼らは00年代なかばに一旦解散する前...90年代末にはクリエイション・レコーズからUK盤を出したこともある、という情報にピンと来た(彼らのことを知らなかった)方には『Cool Planet』のほうがお薦め...かもしれない。


 10年代初頭の再結成以降、彼らは本国USでは「自らの名前を冠したレーベル」から、UKではファイアー・レコーズ(わお!...とジジイは言う:笑)から作品をリリースしている。そんな形も、今という時代にふさわしい。まあ、本国におけるウェブ・メディアでのプロモーションは手薄になっちゃうから、それらを基準に音楽を聴いてる方には「誰それ? あそこで褒められてなかったじゃん」って感じかもだけど(いや、実際に褒められてるかそうじゃないかは「あそこ」をまったく見てないので知りませんが:汗&笑)、まあ、騙されたと思って、一度アルバムを聴いてみてほしい。できれば、歌詞など「言葉」の使い方にも、是非着目しつつ!



(伊藤英嗣)

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The Feast Of The Broken Heart.jpg

 アンディー・バトラー率いるハーキュリーズ&ラヴ・アフェアのファースト・アルバム『Hercules And Love Affair』が発表されてから、6年近く経った。このアルバムは、妖艶で甘美なサウンドをまとったハウス・ミュージックでありながら、ザ・ラプチャーLCDサウンドシステムなどを中心とした、2000年代前半のディスコ・パンク・ブームを牽引したレーベル《DFA》からのリリース。このインパクトは、当時をリアルタイムで過ごした筆者からすると、相当デカイものだった。


 『Hercules And Love Affair』が面白かったのは、ハウス・ミュージックの持つエロティシズムを2000年代に蘇らせたこと。ハウスという形式を用いるだけでなく、ハウスが主にゲイから支持された音楽であり、ハウスの創始者フランキー・ナックルズや、フランキーの友人ラリー・レヴァンがDJを務めたニューヨークのクラブ《Paradise Garage》といった起源にまで及ぶ愛情がほとばしっていた。いわばハウス・ミュージックの精神を受け継いでいたのだ。そんな『Hercules And Love Affair』は、エドゥアール=アンリ・アヴリルなどが有名な芸術のジャンル "エロティカ" を連想させる作品でもあった。


 おまけに、ヘラクレス(Hercules : 英語形はハーキュリーズ)という言葉がグループ名に入っているのも暗喩的だった。ヘラクレスといえば、古代ギリシャ時代の伝承などによって作られたギリシャ神話の登場人物として知られるが、その古代ギリシャ時代の哲学者プラトンは著作『饗宴』で、もともと性は "男男" "男女" "女女" の3種類あったと書いている。さらにプラトンの師匠ソクラテスは、アルキビアデスという名の美男子と恋人関係だったのは有名な話。言ってしまえば古代ギリシャ時代は、"同性愛" と深く結びついていた。


 また、古代ギリシャの要素は、「僕は人々の踊ることができる公共の場を作りたい。人々がいる場所で踊ることが重要なんだ」というかつてアンディーがガーディアン誌で語った持論に関しても重要なものだ。古代ギリシャ時代のアテナイ(アテネの古名)に住む人々は、スタジアムや寺院、劇場、さらにこれらを繋ぐ公共空間が豊かになれば、良質な都市空間が生まれることを知っていた。それゆえアテナイは民主主義発祥の地として幾度も言及され、哲学、芸術、学問の中心となり、ヨーロッパ全土に絶大な影響力を及ぼした。こうしたアテナイの優れた都市機能は、先述したアンディーの持論に少なからず影響をあたえている。ゆえにハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは、世界中にある多くの都市が殺伐とした消費主義の苗床、いわば単一目的化していくなか、異なる文化や要素が混合し響きあう "多様性の容れ物" としての可能性を持つに至った


 このように、アンディー・バトラーはハウス・ミュージックの伝承者であると同時に、ひとりの思想家とも言える存在だ。『Hercules And Love Affair』にしても、サウンドそのものが革新的だったかといえばそうじゃない。多くの人がハウスの精神を忘れていた時期に颯爽と現れ、その精神をみたびインディー・ミュージックの文脈に接続したことで、ハーキュリーズ&ラヴ・アフェアは "衝撃" となった。そうした伝承者としての側面は、本作『The Feast Of The Broken Heart』でも健在、いや、より強くなっている。前作『Blue Songs』でも、ハウス・クラシックとして知られるスターリング・ヴォイド「It's Alright」のバラッド・カヴァーに挑戦するなど伝承的側面をうかがわせたが、本作ではそういったメランコリーな雰囲気はどこへやら。ひたすら享楽的で、踊らせることだけに焦点を絞ったハウス・ミュージックの快楽で埋めつくされている。トリッピーなアシッド・ハウス「5:43 To Freedom」、そして粗い質感が印象的なシカゴ・ハウス「Liberty」といった具合に、フロアで映えるダンス・ミュージックとしての機能性を追求したトラックが目立つのも特徴だ。このあたりは、2012年にリリースしたミックス『DJ-Kicks』で、幾多のハウス・クラシックを振りかえった影響が少なからずあるだろう。


 2014年3月31日、フランキー・ナックルズが59歳の若さでこの世を去った。それでもハウス・ミュージックは鳴り止まない。「It's Alright」でも歌われたように、《今から3千年も経とうとも 音楽はつづいているだろう 時間を超越した波長に乗って》ということだ。本作には音楽という文化の自由さとロマンが刻まれている。



(近藤真弥)

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MARTYN『The Air Between Words』.jpg

 ハウスは偉大というべきか、永遠というべきか、どちらにしても、"死んだ" "終わった" みたいな言説とは無縁の音楽なのは間違いない(まあ、そもそも、そうした言説自体が理解できないものではあるが)。新しいジャンルや潮流が現れ、一時は音楽シーンの片隅に追いやられても、いつの間にか大きな潮流として戻ってくる。例えば、ダブステップ以降は非4つ打ちのトラックが横溢したイギリスでさえ、スタイリッシュなハウス・ミュージックを鳴らすディスクロージャーが全英アルバム・チャート1位を奪取し、ルート94がセクシーなハウス・トラック「My Love」を全英シングル・チャートの頂点に送り込める現在なのだ。ダブステップ以降のベース・ミュージックにしても、"ベース・ハウス" なんて言葉が至るところで見られるように、ハウスを取り入れている。やはりハウスの万能性は、多くの人にとって魅力的なものなのだろう。言ってしまえば、4つ打ちであれば何をやってもいいのが、ハウスという音楽だ。


 本作『The Air Between Words』を完成させたマーティンは、ダブステップ以降のベース・ミュージック・シーンにハウスを逸早く接続したひとりである。前作『Ghost People』が《Brainfeeder》によってリリースされたことからもわかるように、マーティンはフライング・ロータスを中心としたビート・ミュージック・シーンで評価され、同時にポスト・ダブステップというタームの代表的アーティストのひとりとしても見られていた。しかし、《Nonplus》がリリースしたコンピレーション『Think And Change』に提供した「Bad Chicago」、そして「Newspeak」などのEPが表していたように、ここ最近のマーティンはハウス/テクノに傾倒していた。


 本作は、そんなマーティンのモードが明確に反映された、ハウス/テクノ・アルバムに仕上がっている。アンソニー・ネイプルズのようなハウス界の新進気鋭を抱える《Mister Saturday Night》と共振するローファイでラフな質感が際立ち、初期のシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノといった、いわゆるオールド・スクールな音に接近している。インガ・コープランドフォー・テットを迎えて描きだしたサウンドスケープは、ザラつきながらも、ダンス・ミュージックが持つ甘美な享楽性を上手く抽出してみせる。特に高い中毒性を持つ「Forgiveness Step 2」のグルーヴは、1度身を任せてしまったらなかなか抜けだせないものだ。



(近藤真弥)

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Sam Smith『In The Lonely Hour』.jpeg

 先日、映画『チョコレートドーナツ』を新宿シネマカリテで観てきた。この映画は、1979年のカリフォルニアを舞台に、ダンサーとして働きながらもベット・ミラーのようなシンガーになりたいと夢見るルディ、世界を変えるために法律を学び検事局で働いているポール、そして薬物依存症の母に育てられたダウン症の少年マルコという3人の "愛" にまつわる物語だ。同性愛者であるルディとポールは、マルコの母が薬物所持で逮捕されたのをキッカケに、マルコを我が子のように育てはじめる。3人で一緒に暮らしながら、学校へ通わせ、毎日朝食を作り、マルコが眠る前は、彼が大好きなハッピーエンドの話を聞かせる。


 それは3人にとって幸せな時間であった。ルディも、ポールからプレゼントされたテープレコーダーでデモを制作し、それがひとりのクラブ・オーナーに気に入られ、シンガーとしての道を歩みはじめた。しかしある日、ルディとポールが同性愛者であることが周囲に知られ、マルコは家庭局に連れて行かれてしまう。ポールも仕事を解雇されるが、それでもルディとポールは立ち上がり、周囲の偏見と差別、そして法律に挑んでいく。


 ロンドン出身のシンガーソングライター、サム・スミスの名が多くの人に知られるキッカケは、ディスクロージャーの大ヒット曲「Latch」に参加したことだろう。この曲でサムは、繊細で甘い歌声を披露している。その後もノーティ・ボーイの「La La La」に参加するなど、いくつかの客演をこなしつつ、自身のEP「Nirvana」もリリース。着実に歩みを進めてきた。


 そうした道のりを経てリリースされたファースト・アルバム『In The Lonely Hour』は、儚くも美しい "哀しみ" に満ちた作品に仕上がっている。もしかすると、「Latch」や「La La La」でサムの歌声を初めて聴いた者は、肩透かしを喰らうかもしれない。というのも、このアルバムに収められた曲のほとんどは、私たちに語りかけるようなサムのヴォーカルを際立たせたバラッドだからだ。それゆえアップテンポなトラックは少なく、サムが幼い頃から聴いてきたというソウル・ミュージックの影響が色濃く反映されている。言ってしまえばノリノリなアルバムではないし、みんなで聴くよりはひとりベッドルームで聴き入るのが相応しい。


 それでも本作は多くの人に聴かれ、愛される作品になるだろう。先ごろ公開されたFADARのインタヴューでサムは、同性愛者であることを告白している。痛切な片想いを綴った歌詞の内容が多いことからも、本作が "報われない愛" をテーマにしているのは窺えたが、その対象は男性だったということだ。とはいえ、それは本作を楽しむうえでは関係ない。『チョコレートドーナツ』と同様に、本作もまた、他者を求める者なら誰でも味わうであろう "愛の物語" について描かれているのだから。ゆえに本作を、愛する対象が同性であるということで、"性的少数者の物語" と括ってしまうのは些か狭隘ではないかと思う。愛した者が同性であったというのは、人それぞれ性格が異なると一緒で、ほんの些細な違いにすぎない。あくまで本作は、サム・スミスという名の青年をめぐる抒情と物語で作られているのだ。


 このような普遍性が根底にあるからこそ、『In The Lonely Hour』は眩しいほどの輝きを放っている。




(近藤真弥)

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SHARON VAN ETTEN『Are We There』.jpg

 「恐れるものは何もなかった」。このアルバムを繰り返し聴いて、こみあげてくる感情についてずっと考えて、たどり着いた言葉。パティ・スミスやスザンヌ・ヴェガを連想するヴォーカルが胸を貫く。エレクトロニカ、ポストロック、インディーR&Bの要素をさりげなく取り入れながら、骨格はあくまでシンプル。一聴するとオーソドックスなブリティッシュ・フォーク、生活感のこもったブルース、あるいは息が詰まるほど甘いソウル。最小限の音数で、本当に大切なことだけを紡ぎ出そうとしている。何回か聴いたのち、ふと1曲目のタイトルを見ると「Afraid Of Nothing(何も恐れない)」。なんだ、はっきり歌っているじゃないか。そうだよ、とても近い感覚。冒頭に書いた言葉はレディオヘッドPyramid Song」の一節《Nothing to Fear》からの連想だが、あの曲も当時の最先端音楽の影響を吸収したうえで伝統的な歌を再現していた。とてもスイートであまりに繊細で孤独、けれど力強い点も共通している。


 ボン・イヴェールとのコラボレーション、前作『Tramp』をザ・ナショナルのメンバーがプロデュース、セルフ・プロデュースの本作にもザ・ウォー・オン・ドラッグスのメンバー始め盟友ミュージシャンが多数参加など、ここ最近シャロン・ヴァン・エッテンのトピックは尽きない。しかしそんなことより気になるのは、彼女の唄を聴いていると、愛するとはどういうことか絶えず問いかけられているようであること。3曲目「Your Love Is Killing Me」は命がけで向かい合う恋について。6曲目の「I Love You But I'm Lost」では恋人との損なわれてしまった関係を告白し、私たちはお互いに尊敬し高め合うことができるはずなのにという内容を歌う。7曲目の「You Know Me Well」では恋人との関係がたとえこの世の地獄であったとしても、向かい合っていく覚悟を切々と歌う。そしてラストの「Every Time The Sun Comes Up」では困難が続いていく毎日について淡々と歌い、最後の一節で、全ては幻覚かもしれないと笑い飛ばす。聴き手に最終的な判断をゆだねているようだ。


 トム・ヨークが「Pyramid Song」で歌ったように過去、現在、未来、この世、あの世、全ては地続きかもしれない。今生きている現世こそ、ひょっとしたら地獄なのかもしれない。シャロン・ヴァン・エッテンは決して安易な希望を歌わない。シニカルな絶望にも傾かない。ただ在りのままの自分を、世界を包み隠さず歌う。



(森豊和)

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Kate Tempest ‎- Everybody Down.jpeg

 イギリスのラッパーであり2000年代を代表するリリシスト、ザ・ストリーツことマイク・スキナーの最高傑作『A Grand Don't Come For Free』が世に出たのは、今から10年前の2004年5月。このアルバムでマイクは、一見代わり映えしない日常を淡々と描いている。それは、オープニングを飾る「It Was Supposed To Be So Easy」の一説からもわかるはずだ。


《今日やること DVDをレンタル屋に返す 銀行で金をおろす 母ちゃんに夕飯を食べに行けよと電話する それから貯めた金を持って 待ち合わせ場所に走るんだ》

(「It Was Supposed To Be So Easy」)


 そんなアルバムを聴いて筆者が口にした言葉は、「普通!」。いや、内容が凡庸だとか言いたいのではなく、マイク・スキナーの歌詞が日本に住む筆者の日常とほとんど変わらないことに驚いたのだ。おまけに逃避願望もほとんどなく、そもそも "日常" とは本当に代わり映えしない退屈なものなのか? というマイク・スキナーの鋭い視点とタフな精神が、アルバム全体を覆っている。ゆえに『A Grand Don't Come For Free』は、 "日常" に隠された面白い側面を切り取るユーモアと好奇心で溢れている。


 2014年5月、筆者は久々に、聴き終えた瞬間「普通!」と(心の中で)叫んでしまう作品に遭遇した。その作品の名は、『Everybody Down』。現在27歳のイギリス人女性ラッパー、ケイト・テンペストによるアルバムだ。ケイトはサウンド・オブ・ラムのメンバーとして、アルバム『Balance』を2011年に発表するなど、音楽活動歴はそれなりに長い。さらに詩人や小説家としての顔も持ち、2015年発表予定のデビュー小説『The Bricks That Built The Houses』は出版権がオークションにかけられるなど、出版前でありながらすでに話題作となっている。このようにケイトは、言葉を扱う才能に恵まれた才女なのだ。


 『Everybody Down』でも、その才気は文字通り煥発。テンポのよい韻の踏み方は迫力を持ち、聴き手の心に深く突き刺さる。もちろん言葉の組み立て方も秀逸。それなりに英語を理解できればより楽しめるのは間違いないが、たとえ完全に理解できなかったとしても、冷静と情熱の間を行くケイトのエモーショナルなラップに聴き入るだけで、気持ちが自然と昂ってしまう。言ってしまえば、それだけでも『Everybody Down』は必聴レベルに達している。ケイトの声、呼気、温度に触れるだけで、目の前の景色がほんの少し変わるのだ。だからこそこのアルバムは、マイク・スキナーと比べればいくぶん寓話的にケイトから見た日常が描かれていながらも、日本に住む私たちにも響く "普遍性" を備えている。


 フランツ・フェルディナンドホット・チップとの仕事で知られるダン・キャリーをプロデューサーに迎えたサウンドも、聴きごたえ十分。ドラムマシーンとアナログ・シンセをメインに制作されただけあって、良い塩梅のラフな質感が耳に心地よく馴染む。音数が少ないミニマルなプロダクションも際立ち、ケイトの言葉を聴き手に最短距離で届けてくれる。また、「Lonely Daze」ではダンスホール・レゲエの定番リディムのひとつ "スレンテン" を取り入れたりと、挑戦的な姿勢を垣間見せる。「The Truth」のベース・ラインがダブステップを感じさせるのも面白い。


 こうした具合に、『Everybody Down』はサウンド面にいくつもの要素が込められた作品だが、強いて括るならばヒップホップということになる。それゆえヒップホップ好きに聴いてほしい、と締めるのが妥当かもしれない。だが、それではあまりにもありきたり。そこで筆者は、ミツメシャムキャッツ、それから森は生きているといった音楽を聴いている人に『Everybody Down』を勧めたい。というのも、ミツメ、シャムキャッツ、森は生きている、ケイト・テンペスト、4者は視点や手段こそ違えど、"日常" に潜むささやかな光や楽しみ、あるいは世にも奇妙な世界に繋がる扉を指し示すという点では共通しているから。"日本の音楽" と "イギリスの音楽" なんて区分けは無意味だ。日本語と英語、言語は異なるが、その言語だって音に過ぎないのだから。そんな言語の音に惹かれたあと、言葉に込められた意味を理解していくという楽しみ方もアリなはず。確かに『Everybody Down』は、"日常" から逃れられないという諦念を抱きながらも、そこで生きる人々の想いが込められた言葉で埋めつくされている。だが、その言葉をまずは "音" として楽しんでみてほしい。それでも魅力は十分伝わる。住んでいる場所なんて関係ない。


 とはいえ、理解を深めた先に見えてくる風景がどんなものなのか、それは筆者の口からは言えない。マイク・スキナーは、『A Grand Don't Come For Free』のラスト「Empty Cans」で、《この先はつらい日々が始まる でもこうなるはずじゃなかった季節は終わった だからこれが本当の始まりなんだ》と言葉を紡いだが、それから10年後に生まれた『Everybody Down』は、果たして「本当の始まり」から生まれたのか? それとも10年前よりハードになっただけというシビアな現実を突きつけるのか?  その答えは、あなたの耳と心で直接確かめたほうがいい。



(近藤真弥)

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TRAXMAN『Da Mind Of Traxman Vol.2』.jpg

 2年前、トラックスマン 『Da Mind Of Traxman』がリリースされたときのジュークは、"広がりつつある" という段階だった。もちろんクラブで流れることはあったし、注目も集めてはいたが、"一般的" と言えるほどではなかった。


 しかし今では、ジュークの影響を感じさせるトラックが本当に多くなった。レコード・ショップ、バンドキャンプ、サウンドクラウドなどを散策し、"Bass" とタグ付けされた曲を聴いてみる。すると、不意に鳴らされる乾いたスネア、規則的に刻む人間の鼓動からどんどん離れていく忙しないリズム、そして強烈なベース。こういったジュークの特徴を匂わせる曲に遭遇することが増えたように思う。一方では、サグ・エントランサー『Death After Life』やスラヴァ『Raw Solutions』のように、ベッドルームを根城にするインディー・ファンも巻き込めるジューク・アルバムが生まれたり。そんな現況を見ていると、ジュークは文字通り "定着した" と言えるのではないか。


 それは日本も例外ではない。代官山ユニットでおこなわれたトラックスマンの来日公演、新宿LOFTで定期的に開催されているイベントSHIN-JUKE(シンジューク)、それから日本のジューク界を語るうえで欠かせないレーベル《Booty Tune》。これらのパーティーやレーベルの多大な努力によって、日本はジューク生誕の地シカゴにも負けないジューク大国となった。音楽メディアFACTに取りあげられた食品まつりのように、国外から注目を浴びるトラックメイカーも現れている。


 トラックスマンの最新作『Da Mind Of Traxman Vol.2』を聴くと、そうした状況においても揺るがない自らのスタイルに対する自信を感じる。DJラシャド『Double Cup』のようにジュークとジャングルを混ぜるわけでもなければ、アイタル・テックなどに通じる初期IDMの要素が強いジュークでもない。ソウル、ヒップホップ、ハウス、ジャズといった要素が散りばめられた上品な色気をまとう心地よいジュークであり、言ってみればこれまでトラックスマンが生み出してきた曲群との大きな違いはない。


 とは言っても、それで本作の魅力が削がれるかといえば、決してそうではない。むしろ、深化をしながらも変わらず残っている部分にこそ、本作の素晴らしさを見いだせるからだ。その「部分」とはズバリ、ジュークという音楽がさまざまなブラック・ミュージックの因子を内包し、作り手の解釈次第でその姿をいかようにも変える音楽であるということ。そんなジュークの真髄を本作は教えてくれる。


 こうした作風は、冒頭で述べたジュークの「定着」をふまえると非常に興味深いものだ。ダブステップがいくら商業化したところで、そういった潮流とは別のところでディープなトラックがアンダーグラウンドから次々と生まれ、商業化する以前のダブステップにあった精神やスタイルが脈々と受け継がれてるように、もしやジュークもそういう段階にきたのかもしれない。だからこそ本作でトラックスマンは、そのような残していくべき精神やスタイルを提示したのではないか?


 テクノを掘りさげれば必ずデリック・メイに遭遇し、ハウスに傾倒すればフランキー・ナックルズを避けて通れないように、トラックスマンもまた、ジュークという音楽の原点を教授してくれる伝道師なのだ。



(近藤真弥)

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 繰り返しのリズムで寿司のネタを挙げていくダンス・チューン「すしですし」で始まり、ボーカロイド、エレ・ポップ的な音作りを基調としながらも、見え隠れするのはNUMBER GIRL(ナンバーガール)への愛。ヴォーカルのみこ、デジタル・パーカッションの澤"sweets"ミキヒコ、そしてギター/シンセサイザーと全ての作詞作曲をこなすヤマモトショウからなる3人組ふぇのたすは、羊の皮をかぶった狼である。


 2曲目「たびたびアバンチュール」は、NUMBER GIRLからの影響を公言するBase Ball Bear(ベース・ボール・ベアー)を彷彿させるニュー・ウェイヴ・ディスコだし、3曲目「有名少女」はNUMBER GIRL「透明少女」へのオマージュ。ギターの音圧が上がり、舌足らずなヴォーカルも熱を帯びてくる。けれども深追いはせず、以降は80年代アニメ・ソングのようなエレ・ポップへ回帰していく。乱暴な例えだが、彼らの音楽性は高橋留美子『らんま1/2』の女らんま。一見可愛らしい容姿で中身は武闘派なのだ。


 高橋留美子の諸作品は萌え文化の源流のひとつであり、アニメ同人誌やボーカロイドで描かれるキャラクター・デザインのルーツかもしれない。萌えという感覚は諸説あるが、私が思うに、ある種のフェティシズムであり、個人対個人の物語へ発展しない。彼や彼女の中だけで完結する二次元への恋である。アニメの美少女は生身の女性と比べて情報量を格段に減らす一方で、ありえない大きな瞳や胸といった形で魅力をデフォルメし増幅している。ボーカロイドも肉声をデジタル化して情報を減らしながらも、人には歌えないとっぴな加工が可能。つまり情報を削ぎ落とし単純化し、ある部分に限局して反復しイメージを増幅する。


 これは昨今の精神科医療の大きなトピックス、自閉症スペクトラムと結びつきやすい特徴だ。国際的な精神疾患の診断基準であるDSM-5において、アスペルガー症候群や従来の自閉症などを包括する概念として新たに定められた疾患単位である自閉症スペクトラムは、生まれつき感覚過敏があり膨大な情報にさらされることに弱く、その程度が甚だしければ、著しい興味の限局と反復、コミュニケーションの不具合を引き起こす。その一方で、ときに人並み外れた創造的才能はこの特性に基づく場合がある。


 この視点に沿ってふぇのたすを聴けば、彼らの曲で一貫して歌われるテーマはあらゆる角度から襲いくる情報の渦だ。「有名少女」における注視妄想に、「もどかしいテレパシィ」のメールと伝言板だけで確認される恋、「おばけになっても」で歌われる幽体離脱する恋人。逃げ場のない情報社会で、繰り返されるリズムを盾に情報を遮断し彼女は身を守る。嫉妬や憎しみだけでなく、優しさや思いやりさえも負担になるのかもしれない、そんな彼女は「透明少女」。極まれば光も闇もこの世界の真実全てを受け止めてしまうような、その過敏性ゆえに、ときに現実を拒否し引きこもる。しかしひとたび世界と彼女の歯車が合えば、凄まじい才能を発揮するポテンシャルを秘めている。


 アイドルの作詞作曲も手がけるヤマモトショウは、萌え、オタク文化と彼の愛するNUMBER GIRLの音楽との接点を無意識に、半ば本能的に見出してしまった。そしてそれは時代の空気と必然的にリンクする。彼らのA&R加茂啓太郎が言う「音楽的発明」とは斬新なアイデアに加えて、そのアーティストが生きる時代のリアルを切り取っていることが必須条件なのだろう。



森豊和

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Habits Of Hate「Habits Of Hate」.jpg
 ダンス・ミュージックの "今" と "未来" を知りたければ、「Habits Of Hate」を聴けばいい。と、柄にもなくセンセーショナルな書き出しになってしまったが、このシングルを聴いたあとでは、そう書かせるほどの興奮状態に陥ってしまうのだからしょうがない。


 さて、なぜこうした書き出しになったのか?それにはまず、ハッパという新進気鋭のアーティストについて説明しなければいけない。英リーズ出身のハッパは、現在16歳のトラックメイカー。客としてではなくパーティーの出演者としてクラブを初体験したという。


 彼が注目を集めることになったキッカケは、2012年に発表された「Boss」。このトラックがリンスFMでプレイされると、ハッパの名は早耳リスナーたちの間でたちまち話題となった。それはダブステップを "過去の音楽" と認識し、若いリスナーに "再解釈" という形で届ける世代の登場を告げるトラックだった。その後ハッパはフォー・テットにリミキサーとしてピックアップされ、以降もジョン・ホプキンスやフォンデルパークといったアーティストの曲をリミックス。一方で自身のレーベル《PT/5》を立ち上げ、第1弾リリースのウィッチ「Vent」ではシフテッドをリミキサーに迎えるなど、UKハード・ミニマルの潮流とも邂逅している。こうしたさまざまな潮流を行き来することで、デビュー当初はベース・ミュージック界隈の新世代に過ぎなかったハッパは、将来のUKダンス・ミュージックを背負って立つアーティストのひとりとなった。


 そんなハッパが、《Black Sun》などからリリースを重ねるマンニ・ディーと結成したユニットこそ、デビュー・シングル「Habits Of Hate」を発表したばかりのハビッツ・オブ・ヘイトである。このシングルは、昨今のインダストリアル・ブームがベース・ミュージックに接近しつつある流れを反映させ、同時にダンス・ミュージックの攻撃性を極限にまで高めたヘヴィーなサウンドも鳴らしている。それはテン年代に向けた "ダブステップの再解釈" でありながら、プロディジーやケミカル・ブラザーズといった、ロック・ファンも巻き込んだビッグ・ダンス・アクトの血筋を見いだせるものでもある。言ってしまえば、将来的にディスクロージャーと肩を並べられるポテンシャルを示しているということ。それこそ、数年後には大型音楽フェスのメイン・ステージに立っていてもおかしくないほどの。「Boss」以降のサクセス・ストーリーや16歳という年齢ばかり注目されるハッパだが、そうした外部の煽動がなくても、生まれもって授けられた素晴らしいセンスだけでダンス・ミュージックの未来を切り開けるアーティストなのだ。この事実を「Habits Of Hate」は雄弁に鳴り響かせる。さすがのスクリームも、うかうかしていられないだろう(それゆえか、先日《Of Unsound Mind》というレーベルの立ち上げを発表したばかりだ)。


 そして、こうしたシングルが、ダブステップ以降のベース・ミュージックを牽引してきた《Hyperdub》の10周年記念コンピ『Hyperdub 10.1』と同じ年にリリースされたのは、なにか運命めいたものを感じてしまう。おまけに、ミリー・アンド・アンドレア『Drop The Vowels』が示せなかった、飽和状態にあるインダストリアル・ブームの "先" をたった1枚のシングルで私たちに見せてくれる。いやはや、すごい新世代が現れたものだ。


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Copeland『Because I'm Worth It』.jpg
 インガ・コープランドことアリーナ・アストロヴァが、ソロ・デビュー・アルバム『Because I'm Worth It』をコープランド名義で発表した。このタイトルを日本語に意訳すると、『私には(それなりの)価値がある』といった感じ。捉え方にもよるが、筆者からすると、背水の陣であっても前向きに行こうと歩きだす彼女の姿が見えてくるタイトルだ。


 2013年夏、ディーン・ブラントと共に結成したハイプ・ウィリアムスの正式なコンビ解消が伝えられ、その後ディーン・ブラントは《Rough Trade》と契約。コープランドもコープランドで音源の制作を続け、いまは別々に活動しているそう